鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

María Alché&"Familia sumergida"/アルゼンチン、沈みゆく世界に漂う

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今、アルゼンチン映画界は空前の活況に至っている。例えばこの国のインディー映画界の代表的存在Matías Piñeiro マティアス・ピニェイロ“Hermia & Helena”などコンスタントに作品を発表、その一方で新人Eduardo Williamsは異形の作品“El auge del humano”(紹介記事はこちら)を発表し、私含めて映画ファンの度肝を抜いた。そんな中で去年、アルゼンチン映画界の裏ボスというべき人物Mariano Llinásは13時間にも渡る一大エピック映画“La Flor”を製作、全世界を騒然とさせた。だがアルゼンチン映画界はこれで終わりではない。常に新たな才能たちが現れ始めている。ということで今回は新人監督María Alchéによる驚異のデビュー長編“Familia sumergida”を紹介していこう。

今作の主人公はマルセラ( Mercedes Morán)という中年女性、彼女はよき妻でありよき母である人物であったが、最近ある悲劇に見舞われていた。愛していた姉のリナを突然失ってしまったのだ。彼女の遺品整理のために、家具や植物、写真などを自宅へと持ち帰るのだったが、その間にも家族の世話に追われることとなり、彼女は疲弊していく。

まず今作は狭苦しい部屋の中でマルセラの家族の日常が繰り広げられる様を描き出していく。日常とはいえ事件は立て続けに起こる。息子はパーティーに来ていく服を考えて母親を呼びつけたり、娘は恋人にフラれたと泣きついてきたり事件には事欠かない。マルセラはそれを1つずつ冷静に処理していきながらも、水面下において疲れはどんどん溜まっていく訳である。

ここで際立つのは、マルセラたちがいる空間の存在感だ。監督のAlchéは空間に対する感覚が鋭敏であり、スクリーンを見る私たちには常にその空間の息詰まるような猥雑さが迫ってくる。例えばキッチンには洗っていない食器や料理に使う調味料などがひしめき、子供部屋にはドラゴンボールのポスターや趣味の家具が所狭しと並ぶ。そしてリビングには姉のリナ宅から持ってきた植物が並び、ソファーに座るマルセラを圧迫する。このどこか窒息させる感覚が、まず今作を構成する重要な要素となる。

その猥雑さの中で、疲労が溜まりゆくマルセラは謎めいた幻想を目撃することになる。例えば死んだはずの親類たちが植物ひしめくソファーに座って談笑をする姿、そしてあのリナが笑顔を浮かべて自分をパーティーに誘う姿。その光景は全く現実離れしていながらも、どこか安心感をも発する類いの風景のように彼女には思える。

この風景はラテンアメリカ文学に顕著なものであった、いわゆる魔術的リアリズムの要素が垣間見えるかもしれない。日常の中に立ち現れる非日常は、日常それ自体と見分けがつかないようなものになっている。更にそれが猥雑さの中からこそ捉えられる様は、幾多のラテンアメリカ文学を想起させられるだろう。

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そんな中でマルセラはナチョ(Esteban Bigliardi)という娘の友人と出会う。彼は外国での仕事が決まっていたが、会社の都合でその契約を反故にされて、途方に暮れていたのだった。彼は暇な時間を利用して遺品の整理を手伝ってくれていたのだが、彼女はそんなナチョに対して様々な思いを抱くことになる。

ここで監督は、ナチョという若い男に心を揺り動かされるマルセラの心を細心の注意を払って描き出していく。夫の不在中に彼に近づいていくことで、マルセラの心には今までになかった感情が立ち現れることになる。遺品の整理を共にし、そして彼とちょっとした旅を続ける中で、彼女に一線を越えるか越えないかという震えるような一瞬が到来することになる。

今作の湛える雰囲気はとても微妙なものだ。例えるならば、まるで不穏な白昼夢と心地よい悪夢の間を行ったり来たりするような感覚なのである。それはある意味で姉であるリナの亡霊とナチョという男性の間を行ったり来たりするマルセラの心それ自体の揺れを見ているようなのだ。そしてこれは複雑な中年女性の心を表しているとも言えるだろう。

監督のAlchéは、今アルゼンチン映画界で最も称賛されている映画作家であるLucrecia Martel ルクレシア・マルテルの門下生と言ってもいい人物だ。彼女は元々俳優であり、マルテルの第2長編である“La niña santa”でデビューを果たした人物なのだ。その後も彼女と仕事を共にするうちに、映画製作のノウハウを学び取り、そして2018年にはとうとう念願であった映画監督デビューを今作で果たした訳である。今作の不穏さはマルテルの作家性を継承しており、物語を牽引するのがここにはもう存在しない亡霊であるという点ではマルテルの"La mujer sin cabeza"(邦題:「頭のない女」)を想起させる。

そして今作の核となるのは主人公のマルセラを演じるMercedes Moránに他ならないだろう。ままならない時の流れの中で、必死に何かを手探りで見つけ出そうとする彼女の姿には、人生というものの滋味深さが溢れている。それをMoránはその全身で表現しているのだと言っても過言ではないだろう。

“Familia sumergida”は現代アルゼンチン映画界の豊穣さを象徴するような一作だ。一人の中年女性は曖昧な世界線を行き交いながら、そして愛と人生の複雑微妙さへと至ることになる。それは“だからこそ人生には生きる価値がある”のだという感動的な讃歌でもあるのだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その331 Katharina Mückstein&"L'animale"/オーストリア、恋が花を咲かせる頃
その332 Simona Kostova&"Dreissig"/30歳、求めているものは何?
その333 Ena Sendijarević&"Take Me Somewhere Nice"/私をどこか素敵なところへ連れてって
その334 Miko Revereza&"No Data Plan"/フィリピン、そしてアメリカ
その335 Marius Olteanu&"Monștri"/ルーマニア、この国で生きるということ
その336 Federico Atehortúa Arteaga&"Pirotecnia"/コロンビア、忌まわしき過去の傷
その337 Robert Budina&"A Shelter Among the Clouds"/アルバニア、信仰をめぐる旅路
その338 Anja Kofmel&"Chris the Swiss"/あの日遠い大地で死んだあなた
その339 Gjorce Stavresk&"Secret Ingredient"/マケドニア式ストーナーコメディ登場!
その340 Ísold Uggadóttir&"Andið eðlilega"/アイスランド、彼女たちは共に歩む
その341 Abbas Fahdel&"Yara"/レバノン、時は静かに過ぎていく
その342 Marie Kreutzer&"Der Boden unter den Füßen"/私の足元に広がる秘密
その343 Tonia Mishiali&"Pause"/キプロス、日常の中にある闘争
その344 María Alché&"Familia sumergida"/アルゼンチン、沈みゆく世界に漂う

Sarah Daggar-Nickson&"A Vigilante"/破壊された心を握りしめて

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DVとはただの暴力なのだろうか。いや、違うだろう。それはかつて愛していた者によって愛の名の下に行われるものであり、それは被害者の心と身体を深く深く破壊してしまう。そうして壊されてしまった人々は、ボロボロになった全てを引きずって生きていくことになる。そんな暴力の後に広がる人生とは一体どのようなものなのか。Sarah Daggar-Nickson監督によるデビュー長編“A Vigilante”が描き出すのは、こうして広がるだろう風景なのである。

ある女性がサンドバックを拳で打ち続けている。その視線は獣のように鋭く、それだけでサンドバックを突き通してしまうのではと思うほどだ。部屋には拳が固い表面に衝突する音と、唇から漏れ出る切っ先尖鋭な息だけが響き渡る。彼女は何のために、ここまで真剣に、何かに突き動かされるようにサンドバックを殴り続けるのか。観客はそう思うだろう。しかしそんな思いを尻目に、彼女は鋭くサンドバックを見据えながら、拳を叩きこみ続ける。

今作の主人公はセイディ(「カワイイ私の作り方 全米バター細工選手権!」オリヴィア・ワイルド)という女性だ。彼女はアメリカを放浪する日々を送っていた。そんなセイディは旅の途中にあることをしていた。それはDVに苦しんでいる人々を助けるということだ。助けを求められる度に、彼女は被害者たちの元へ赴き、加害者たちを社会的に抹殺していく。そうしてセイディは去っていく。ある目的を果たすために。

今作はそんなセイディという女性の姿を描き出したドラマ作品だ。まず監督は彼女が救出を遂行していく姿を綴っていく。セイディは被害者の家に行き、加害者である夫と対面する。弁護士を装い財産と家の妻への譲渡を宣告した後、彼女は被害者が受けた暴力を彼にも味あわせる。だが監督はそれを直接映し出すわけではない。カットが切り替わった瞬間、血まみれの加害者がそこにはいるのだ。そして彼は満身創痍で手続きを終えた後、車でどこかへと去ることを余儀なくされる。こうして監督は加害者を社会的に抹殺していく過程を、緊張感たっぷりに描き出す。

それでも、ここには犯罪映画などが持つ暴力の快楽は存在しない。寒々しいまでの淡々さによってそれを映し出していく。そして基本となるのはセイディが灰色の世界で孤独な旅を続ける姿である。部屋でトレーニングをする、車で道を走り続ける、DV加害者を社会的に抹殺する、部屋でトレーニングをする。そういったものが映画的な快楽を排しながら、描かれていくこととなる。

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その過程で効果的なのが撮影と音楽だ。撮影監督Alan McIntyre Smithが浮かび上がらせる世界は常に灰色が付きまとう、凍てついたものであり、それこそがDVによって傷ついた後に広がる荒涼たる風景だと私たちに語る。そしてDanny BensiSaunder Jurriaans担当の音楽はそんな世界に不穏に響き渡る類いのものだ。まるで緊張に早まった鼓動のようなパーカッションが、観ている私たち自身の鼓動をも早めていくのだ。

だが、セイディはなぜDVの被害者たちを助け続けるのだろうか。その答えは時おり挿入されるフラッシュバックの中にある。彼女は自助グループの集団カウンセリングの場にいる。被害者たちが自分たちの経験をシェアする中で、彼女は窓の外を見つめ、虚ろな表情を見せる。それでも参加者に促され、彼女もまた自身の経験を語る。自分に暴力を振るい続けた夫(Morgan Spector)が、最後には自分たちの息子を殺害することになったこと。そして彼は殺人の発覚を恐れて、逃亡したこと。セイディが旅を続ける理由はそれだ。自身もDVサバイバーであり、自分を破壊した夫を探し求めていたのだ。

レイプリベンジというジャンルをご存じだろうか。文字通りレイプされた被害者女性が加害者たちに残酷な形で復讐する姿を、エクスプロイテーション映画的な見せ物演出と共に描き出す作品群だ。今作はこのジャンルを換骨脱胎した作品と言えるだろう。見せ物的な側面は排しながらも、被害者の悲しみとそれゆえの復讐を淡々と描き出す今作は、70年代などには生まれ得なかったものだろう。

さて、今作の核になるのは主人公のセイディを演じたオリヴィア・ワイルドの存在感に他ならないだろう。DVによって心を破壊されながらも、復讐心を胸に灰色の世界を進み続ける彼女の姿を、ワイルドは凄まじく濃厚な怒りと悲しみを以て描き出している。社会的抹殺のその時、両目の脇に穿たれる影の色濃い皺には、DVサバイバーとしての深い悲哀が滲んでいるのだ。

だがそれ以上に印象的なのは、彼女の身体性だ。劇中では、セイディがトレーニングをする場面が多く描かれる。ストイックなまでの鍛練の間、剥き出しになった肌には夫からつけられただろう傷が多く刻まれている。そんな惨たらしい過去を背負いながら、彼女は身体を動かし続ける、拳を打ち込み続ける。その悲壮な躍動感が、身体だけでなく心にまで刻まれた傷の深さを語るのだ。

そして、その果てに対峙の時は来たるのだ。監督は不気味かつ不穏な演出で以て、孤独で絶望的な闘いに身を投じるセイディの姿を描く。この腰の据わった手捌きは、初めて長編を監督したとは思えないほどに磐石なものだ。そんな彼女の厳たる視線によって描かれる闘争は、私たちの胸を畏怖で満たしていく。そうして“A Vigilante”はDVという凄惨な暴力によって変わってしまった人生の行く末を描き出していく。

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ポスト・マンブルコア世代の作家たちシリーズ
その61 オーレン・ウジエル&「美しい湖の底」/やっぱり惨めにチンケに墜ちてくヤツら
その62 S.クレイグ・ザラー&"Brawl in Cell Block"/蒼い掃き溜め、拳の叙事詩
その63 パトリック・ブライス&"Creep 2"/殺しが大好きだった筈なのに……
その64 ネイサン・シルヴァー&"Thirst Street"/パリ、極彩色の愛の妄執
その65 M.P. Cunningham&"Ford Clitaurus"/ソルトレーク・シティでコメdっjdjdjcjkwjdjdkwjxjヴ
その66 Patrick Wang&"In the Family"/僕を愛してくれた、僕が愛し続けると誓った大切な家族
その67 Russell Harbaugh&"Love after Love"/止められない時の中、愛を探し続けて
その68 Jen Tullock&"Disengaged"/ロサンゼルス同性婚狂騒曲!
その69 Chloé Zhao&"The Rider"/夢の終りの先に広がる風景
その70 ジョセフィン・デッカー&"Madeline's Madeline"/マデリンによるマデリン、私による私
その71 アレックス・ロス・ペリー&「彼女のいた日々」/秘めた思いは、春の侘しさに消えて
その72 Miko Revereza&"No Data Plan"/フィリピン、そしてアメリカ
その73 Tim Sutton&"Donnybrook"/アメリカ、その暴力の行く末

Tonia Mishiali&"Pause"/キプロス、日常の中にある闘争

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さて、ギリシャでは“ギリシャの奇妙なる波”が叫ばれるほどに奇妙な映画が台頭し始めているが、その奇妙さを取っ払ってみると見えてくる共通のテーマがある。それが現代における家父長制だ。例えばヨルゴス・ランティモス監督の籠の中の乙女は強権的な父親の支配から逃れようとする娘の姿を描いたものであったし、アレクサンドル・アルヴァナス監督の“Miss Violence”は家父長性の悍ましさと自壊してゆく姿を描いた作品だった。さてこのテーマ性は、ギリシャとは繋がりの深い小国キプロスにも継承されているようである。ということで今回はキプロス映画界の新鋭Tonia Mishialiによる作品“Pause”を紹介していこう。

エルピダ(Stella Fyrogeni)は夫のコスタ(Andreas Vasileiou)と共に二人暮らしをしている。しかしコスタは強権的な夫の典型例であり、エルピダを専業主婦として家に閉じ込め続けていた。ひきこもりのような毎日を送るエルピダは日々憔悴していくが、彼に対して抵抗する術を持っていなかった。こうして息苦しい生活が引き伸ばされた永遠のように、エルピダへと迫っていく。

彼女の人生は、否応なく全て夫のために捧げられているといった風だ。夫のために食事を作り、夫のために部屋の掃除をし、夫のためにアイロンがけを行い、夫のために洗濯をする。その姿はまるで奴隷だ。そして実際、彼女はコスタの奴隷なのだ。そこに夫婦として対等な関係は存在しない。妻が夫に、女が男にかしづくという構図がここには広がっている。

Yorgos Rahmatoulinによる撮影は常に灰色がかったものであり、陰鬱の極みだ。部屋の中全体に淀んだ瘴気が漂うような、そんな不気味な印象を与えてやまない。そして構図の切り取り方も、常にエルピダの険しい表情と奴隷的生活に接近しているゆえ、閉所恐怖症的な触感を常に与えることとなる。観客である私たちは、エルピダの感じている息詰まるような苦しみを追体験するのだ。

この息苦しさは、そのまま家父長性という大いなる社会体制に抑圧される女性たちの構図とだんだんと重なってくる。その中でエルピダは常に奴隷に甘んじるかと言えば、違う。彼女は日常において抵抗を始める。例えばコスタのために作った料理をブチ撒けたり、彼が見ているテレビの電線をハサミで切断したり、抑圧されながらも、確かに抵抗を続けるのだ。

そんな状況で、彼女にとってこの現実から逃げる術が妄想だった。例えば向かいのカップルがキスしているのを目撃した時には男にキスされる姿を妄想し、誰かに愛される姿を妄想するのだ。ある日、エルピダはアンドレイ(Andrey Pilipenko)という若い画家と出会う。彼はエルピダが描いた絵を激賞し、それから交流が始まることになる。彼の存在が、そして妄想を加速させていくことになる。

後半においてはエルピダの孤独な苦闘と妄想が混じりあっていくことになる。彼女をめぐる現実は余りにも苦痛に満ち溢れている。それがどんどん膨張していく時、妄想だけがそこから逃れる術となる。それでも抵抗を続けなければ、この地獄から逃れることは叶わないだろう。そうして選択を迫られたエルピダはどんな道を進むことになるのか。

この映画の核となる存在は、エルピダを演じるStella Fyrogeniだろう。彼女は終始苦渋の滲む表情を浮かべながら、奴隷として家事をこなし続ける。そんな中で、しかし静かな怒りを抱いて抵抗の狼煙を上げるかと思いきや、妄想へと逃げ込む弱さをも持ち合わせる。この繊細で複雑な震えを見せる彼女をFyrogeniは熱演、その姿に共感を覚える者も少なくないだろう。

“Pause”は家父長性というシステムに対する、1人の女性の闘争を陰鬱なまでに印象的に描き出した作品だ。この非道で残酷なシステムはどこの国にも存在している。だがそれと闘い続ける人々もまた存在しているのだ。

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その341 Abbas Fahdel&"Yara"/レバノン、時は静かに過ぎていく
その342 Marie Kreutzer&"Der Boden unter den Füßen"/私の足元に広がる秘密
その343 Tonia Mishiali&"Pause"/キプロス、日常の中にある闘争

Tim Sutton&"Donnybrook"/アメリカ、その暴力の行く末

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アメリカ映画に欠かせないものとは何だろうか。世界を救うヒーロー、全てを包み込む家族愛、気持ちのよい爆発、どこまでも広がる果てしない大地、洒落た服に身を包んだ人々の小粋なジョーク。様々なものが挙げられるだろうが、もう1つ欠かせない大事なもの、それは暴力だ。本能による暴力、差別を起因とする暴力、銃などの武器によって生じる暴力。これら種々の暴力はアメリカの生誕より不可分なものであり、今でもその病巣の中心には暴力がある。米インディー映画界の異端児Tim Sutton(ティム・サットン)の第4長編“Donnybrook”はそんな暴力を通じてアメリカを描き出そうとする意欲作だ。

アメリカのどこか、広大な大地のどこかでドニーブルックと呼ばれる拳闘大会が行われることとなる。この大会は金網の中で素手で殴りあいを続け、最後まで生き残った者に賞金10万ドルが授与されるというものだ。これを目指してアメリカ全土から挑戦者がやってくる。今作はこのドニーブルックを目指す2人の男を描いた作品だ。

まず1人目はアール(ジェイミー・ベル)、彼は父であり夫である男であるが、仕事はなく貧困に喘ぐ日々を送っている。住む家もないゆえ、家族と空き家を転々としながら、何とか糊口をしのいでいた。だからこそドニーブルックで得られる賞金が何としてでも必要だった。彼は息子と一緒に、会場へと向けて車を走らせる。もう1人の主人公がマグナス(フランク・グリロ)だ。彼は麻薬の密売人であり、妹であるデリア(マーガレット・クアリー)と麻薬を売り捌きながら生活していた。アールとの間には因縁がある。アールの妻を麻薬中毒に貶めた人物こそがマグナスなのだ。彼もまた賞金を求めて、ドニーブルックの会場へと向かう。

今作はまずロードムービーとして、2つの歪んだ魂の旅路を描き出す。アールは拳闘の練習を繰り返したり、息子と束の間の交流を果たしながら少しずつ目的地へと近づいていく。その姿は少々暴力的ではありながら、家族思いの父親といった風だ。一方でマグナスは麻薬を売ったり、裏切り者を抹殺していく。彼は“悪魔”と称される通り、余りにも残虐であり、手加減はない。この2人が出会う時、いったい何が起こるというのか?

監督であるSuttonはこの旅路を通じて、アメリカの貧困や荒廃を凄まじい密度で描き出していく。彼らのめぐる場所には、凄絶な荒廃の感覚が濃厚に滲んでいる。悲惨なまでにみすぼらしい家の数々、濁った色彩が這いずるような外の風景、鬱蒼として瘴気を吐き出し続ける森。それらの荒廃は、アールたちの現状や身なりにも反映されている。金も職もないゆえの根無し草の生活や麻薬密売というアウトローとしての生活、暴力による賞金の獲得が唯一の希望足り得る荒んだ現状。これらをSuttonは一切の忌憚なく描き出す。この凄絶さを高めるのはDavid Ungaroによる撮影だ。彼の撮影は端正かつ尖鋭であり、目前の風景を驚きの密度で以て映し出していく。その画には美術的概念で言う崇高さがどこか備わっており、その崇高たる美が観る者を魅了して止まないのだ。

この撮影にも関わってくるが、Suttonの眼差しはカメラと被写体の遠さを反映したかのような突き放した感覚がある。彼はこの映画においては神の視点に座し、誰にも肩入れせず、どんな出来事にも感情を交えることなく、突き放した視線で以て目の前に広がる風景を観察し続ける。こうした冷淡さが撮影の詩的崇高さとの相乗効果で、映画には唯一無二の凄みが宿っていくのだ。

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しかしTim Suttonとは一体誰なのか。彼は日本では全く有名ではないが、アメリカではその特異な作風が注目されている映画作家である。デビュー作は2012年の“Pavillion”、夏の日の郊外を舞台に少年たちの倦怠や秘密を描き出す作品で、ガス・ヴァン・サントの再来という評価を得た。2013年の第2長編“Memphis”はカリスマ的な魅力を持つ歌手がメンフィスを彷徨う姿を描いた作品、2016年製作の第3長編“Dark Night”ダークナイトライジング」上映中の映画館で起きた銃乱射事件をモチーフにした群像劇で、いずれも高い評価を得ることとなる。今まで彼は郊外の憂鬱、芸術家の人生、アメリカをめぐる暴力といったテーマを描いてきたが、今作では“Dark Night”でも描いていた3つ目のテーマを更に追究した作品ということだ。

そんな彼の努力に貢献しているのが、俳優たちの佇まいだ。アール役のジェイミー・ベルは大々的に躓いたファンタスティック・フォー以降、再びインディー映画界へ舵を切りリヴァプール、最後の恋」や2019年のサンダンス映画祭で注目された“Skin”など面白い選別眼を見せている。ここでも苦難の道を行く若い父親として、静かな熱演を見せてくれる。そしてデリアを演じるマーガレット・クアリーは注目度急上昇中の俳優であるが、ここでは独特の雰囲気を湛えながら映画に新たな層を宿してくれる。

だが何といっても注目すべきはアンガス役のフランク・グリロだ。生粋のアクション俳優である彼はA級B級に関わらず多数のアクション映画に出演しているが、彼の演技力をフルに引き出した作品は少ない。その少ない中の貴重な1本が今作な訳である。その存在感は尋常ではないほど悍ましいもので、悪魔というニックネームが生温い。それよりも死神に相応しい戦慄を身に纏っている。

そんな彼の存在感は今作のテーマにも密接に関わっている。そのテーマとは有害な男らしさ(Toxic Muscularity)だ。彼は屈強な男性性を纏いながら、暴力で以て妹を支配し続け、自身の前に立つ者を暴力で捩じ伏せていく。彼の姿は正に肥大した危険な男性性の発露だろう。更にこれはある種アールにも言える。共に旅をする息子と彼は良好な関係を築いている。しかしその絆はサンドバッグへの拳打など暴力によって紡がれているとも言える。この危うい関係性は有害な男らしさの批評として機能しているのだ。

今作の核にあるのは暴力に他ならない。だがSuttonは見世物的に露骨な形で描き出す訳ではない。実際に物語は暴力で汪溢してはいない。凄まじく生々しい暴力をここぞとばかりに叩き込んでくるのがサットン流だ。それらは快楽混じりの軽いものではなく(別にそれが悪いわけではない)、臓腑に重く叩き込まれる類いのものなのだ。それが恐ろしい。

そしてSuttonはこの暴力を通じて、アメリカという大いなる国それ自体を描き出そうとする。この国には暴力が蔓延している。それは様々な形で人を襲い、命を奪い続けている。男たちはそんな暴力にとり憑かれて、全てを破壊するために突き進んでいく。こうして進み続ける2つの歪んだ孤独な魂はどこへと辿り着くのだろうか。

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ポスト・マンブルコア世代の作家たちシリーズ
その61 オーレン・ウジエル&「美しい湖の底」/やっぱり惨めにチンケに墜ちてくヤツら
その62 S.クレイグ・ザラー&"Brawl in Cell Block"/蒼い掃き溜め、拳の叙事詩
その63 パトリック・ブライス&"Creep 2"/殺しが大好きだった筈なのに……
その64 ネイサン・シルヴァー&"Thirst Street"/パリ、極彩色の愛の妄執
その65 M.P. Cunningham&"Ford Clitaurus"/ソルトレーク・シティでコメdっjdjdjcjkwjdjdkwjxjヴ
その66 Patrick Wang&"In the Family"/僕を愛してくれた、僕が愛し続けると誓った大切な家族
その67 Russell Harbaugh&"Love after Love"/止められない時の中、愛を探し続けて
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その70 ジョセフィン・デッカー&"Madeline's Madeline"/マデリンによるマデリン、私による私
その71 アレックス・ロス・ペリー&「彼女のいた日々」/秘めた思いは、春の侘しさに消えて
その72 Miko Revereza&"No Data Plan"/フィリピン、そしてアメリカ

Marie Kreutzer&"Der Boden unter den Füßen"/私の足元に広がる秘密

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ローラ(Valerie Pachner)はビジネス・コンサルタントとしてオーストリアとドイツを飛び回る日々を送っている。仕事の首尾も上々であり、今後これが続けばオーストラリアへの栄転もあるそうだ。上司のエリーゼ(Mavie Hörbiger)とは公私に渡るパートナーであり、恋愛状況も悪くない。端から見れば、ローラの全ては順調に思えた。

序盤、今作はプロフェッショナルとしてのローラを描き出していく。どんな相手にも臆することなく意見を出し、仕事を勤勉に前進させていく。彼女にとっては休みも終業時間もほとんど意味がない。時間がある時は、ストイックなまでに仕事に取りかかる。時おりホテルの一室でエリーゼと愛しあう時間は唯一心が安らぐ時間で、そこには幸福な親密さが宿っている。

しかしローラはある秘密を抱えていた。同僚や上司には天涯孤独の身だと言っていたのだが、実は彼女には姉のコニー(Pia Hierzegger)がいる。彼女は20代で精神の均衡を失い、精神病院への入退院を繰り返すような状況にあったのだ。仕事の合間、見舞いに行くのだがあまり調子は良くないように思える。そしてある時、彼女から電話がかかってくる。“私は病院に監禁されてる。助けて”と。

こうして隠し通してきた姉の存在が、仕事にまで介入し始める。コニーは時間を問わず電話をしてきて、仕事に邁進するローラの集中を乱すばかりではなく、どこから聞きつけたか会社にまで電話を寄越し、危うく彼女の存在がバレそうになる。そして電話がかかる度、彼女の調子はどんどん悪くなるようだ。そして仕事と姉の板挟みになるうち、ローラの心もまた均衡を失い始める。

この流れを経て、本作は心理スリラーとしての側面を持つこととなる。速度を伴ったUlrike Koflerによる編集は、現実を淡々と映し出しながらも、その速度の中に狂気を芽生えさせる。さらに心が震わされる中で、彼女は看護師からコニーは電話を許可されていないという信じられない事実を聞く。今まで電話越しに聞いてきた彼女の声は全くの幻聴だったのか、それとも……

ここで印象的なのは、Leena Koppeの硬質な撮影だ。寒々しい装飾とガラスの反響、透明感のある闇の数々が彼女のカメラに映し出されることによって、ドイツとオーストリアの日常の風景は切れ味鋭い不穏なものへと姿を変える。そしてカメラに捉えられることによって、登場人物たちの表情もその不気味な揺れを濃厚なものにする。この硬質さの中でこそ、緊張感は否応なく高まっていくのである。

さて今作のテーマの1つとしては公私の均衡、ワークバランスの維持が挙げられる。日本ではもっぱらバランスを失った末の過労死が多く叫ばれる。その原因は会社や社会体制の非道さに追い詰められるゆえもあるが、個人が余りに勤勉ゆえに自分で自分を追い詰めるという側面もあるだろう。今作を観る限り、ドイツは後者の方が多く当てはまりそうだ。ローラは休みも仕事を続け、深夜1時を越しても仕事を止めない。しかも住む国と働く国が違うゆえ、通勤は飛行機だ。これを続けてストレスを貯めない訳がないだろう。このローラの危うさが、作品に更なる不穏なレイヤーを宿すのだ。

これとは異なる魅力的なレイヤーを宿していくのが、女性たちの間に紡がれる複雑微妙な感情の数々だ。ローラは精神を患ったコニーを疎ましく思いながら、見捨てることはできないし、唯一の肉親である彼女に親愛の情を抱いている。一方でローラとエリーゼの間には愛情が満ち渡りながらも、長年ひた隠しにしていた秘密を告白しなければならなくなった時から、彼女たちの関係は少しずつ変容していく。こうしてコニーを起点として、物語には緩やかな三角関係が形成されることとなる。この関係性がどこに向かうかが、今作の鍵でもある。

俳優たちはみな印象的な演技を見せてくれるが、特に印象に残るのはやはりローラを演じるValerie Pachnerだ。彼女は日本でも公開された「エゴン・シーレ~死と乙女」にも出演していたが、真のブレイクスルー作品はこの1作になるだろう。表面上は冷静沈着で何事にも動じない姿を見せながらも、水面下では激情の波に呑まれ崩れ去ろうとしている、そんな壊れゆく女の系譜の最先端に彼女はあると言える。露にする表情は乏しいながらも、その乏しさこそがここでは豊かさに変換されていくのだ。“Der Boden unter den Füßen”はある秘密を抱えた女性がめぐる激動を通じて、公と私の均衡を保つことの難しさや危うさを描き出す作品だ。

Marie Kreutzerは1977年オーストリアのグラッツに生まれた。ウィーン映画アカデミーで脚本執筆について学び、ドキュメンタリー作家・劇作家として活躍する。2011年には初の長編"Die Vaterlosen"を監督、父の死後隠し子の存在が明らかになったゆえに広がる波紋を描き出した作品だ。第2長編"Gruber geht"はガンが発覚したプレイボーイの戸惑いを、第3長編"Was hat uns bloß so ruiniert"は親になることを決めた3組のカップルを描いた作品だ。そして2019年に完成させた"Der Boden unter den Füßen"ベルリン国際映画祭コンペティション部門に選出、大きな話題となった。ということでKreutzer監督の今後に期待。

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その341 Abbas Fahdel&"Yara"/レバノン、時は静かに過ぎていく

Abbas Fahdel&"Yara"/レバノン、時は静かに過ぎていく

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日本語には“ほのぼの”という言葉がある。英語で言えば“peaceful”だとか“heartwarming”だとか、そんな意味になるのではないか。しかしそれよりもっと緩やかで心地よいといったニュアンスがあることは日本語の分かる方ならご存知だろう。その微妙なニュアンスを捉えることは簡単ではないが、それを最も美しい形で成し遂げている作品がある。それこそがAbbas Fahdel監督作“Yara”だ。

題名にもなっているヤラ(Michelle Wehbe)という少女が今作の主人公だ。彼女はレバノンの緑深い山奥で祖母と一緒に2人で暮らしている。孤独などは感じていない。祖母とそれに、鶏やロバ、ネコなど可愛らしい動物たちに囲まれながら、毎日健やかに日々を生きていた。

今作を組み上げる要素は平凡なる日常の何気ない記録の数々だ。祖母とは“おはよう”だとか“お腹すいた?”だとか他愛ない会話の数々を繰り広げている。その合間には山奥にまで食料を持ってきてくれる親子と交流を繰り広げる。そしてヤラは豊かな自然の中を、誰に邪魔されるでもなく自由に散策することになる。こういったどこにでもあるだろう日常が淡々と描かれていくのだ。

そこにが自然との安らかで理想的な共生の光景が見て取れる。例えばヤラは木に生えているプラムを採って自由に食べたりする。午後には日向ぼっこをするネコたちと戯れたりする。時々はヤギたちを引き連れて、山の険しい道を練り歩いていく。自然を愛する者にとっては、正に理想的であろう暮らしがここには広がっているのだ。

それが伝わってくるのは監督の徹底したドキュメンタリー的演出のおかげに他ならない。撮影監督も兼任するFahdelは、目前で繰り広げられる風景の数々を些かの装飾もなく映し出していく。監督が紡ごうとするのは息を呑む絵画的な美などではない。彼は日常に根づいているのだろう、ありのままの美を焼きつけようとしているのだ。

今作の監督Fahdelは、5時間にも渡って死と隣り合わせにあるイラク人家族の日常を追った長大なドキュメンタリー作品「祖国ーイラク零年」が有名な映画作家である。そこでも彼はかけがえのない日常を丹念にかつ素朴に描き出していたと言える。その方法論は正にこの“Yara”にも受け継がれていると形容しても過言ではないだろう。

ある時、ヤラはエリアス(Elias Freifer)という青年と出会うことになる。彼は父が住んでいるオーストラリアに移住する予定なのだが、この山奥の地でレバノンでの最後の時を過ごしていた。出会った当初からお人好しでお調子者な彼の性格は、自分と同世代の若者たちと交流してこなかったヤラの心を少しずつ開いていく。その過程で彼女はエリアスに惹かれていくのだったが……

今の観客はハリウッド方式の出会ったらその夜のうちに速攻でキス&セックスという早さに慣れてしまっているかもしれない。そんな観客にとって今作は正に驚きという他ないだろう。一緒にご飯を食べたり、廃墟を散策しながらも、彼女たちはセックスどころかキスすらもしない。歩くような早さで近づいていって何とか額にキスするくらいの程度だ。余りにも甘酸っぱい、思春期の少年少女のような恋がここでは描かれていく。

だがそこには胸を締めつけるような、激しい切なさが存在している。エリアスはいつかオーストラリアに移住してしまう故に別れは近いのだ。恋心は成就することができないと既に定められてしまっている。それでもヤラは彼に惹かれる心を抑えることができない。何故ならば、それが恋というものだからなのだ。

“Yara”において、監督はそんな風景の数々を一切の虚飾もなく、ありのままに描き出す。それだけの大いなる度量がある。自然は揺れる少女の心を優しく抱きながら、その切実な震えには監督の類い稀なるヒューマニズムが宿っている。素朴だけれどもとてつもなく大きな寛大さによって、監督は何気ない日常や何気ない人生が、何気ないからこそ宿しているのだろう唯一無二の美しさを映し取っているのだ。

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その340 Ísold Uggadóttir&"Andið eðlilega"/アイスランド、彼女たちは共に歩む

Ísold Uggadóttir&"Andið eðlilega"/アイスランド、彼女たちは共に歩む

そして、アイスランドである。この国はまず世界の歌姫ビョークの出身国であることがまず有名であるが、最近は映画の撮影地として重宝され、例えばクリストファー・ノーランインターステラーなどがこの地をロケ地として撮影されていることは有名だろう。

現地の映画産業はどうかと言えば、小国ながらもなかなかコンスタントに才能を輩出していると言えるのではないだろうか。例えば最近ではハリウッドにおいて頭角を現しているデンジャラス・ランバルタサール・コウマウクルに、日本でも「馬々と人間たち」が日本でも公開されたベネディクト・エルリングソン、日本において知名度は低いが映画祭界隈ではアイスランド1の才能と謳われる「スパロウズ」ルーナ・ルーナソンなどなど、映画作家には枚挙に暇がない。さて、今回はそんな国から現れた新たなる才能である Ísold Uggadóttir監督による初長編映画“Andið eðlilega ”を紹介していこう。

ラーラ(Kristín Þóra Haraldsdóttir)はシングルマザーとして息子エイナル(Patrik Nökkvi Pétursson)を独りで育てている。空港職員として働いているけれども、生活は困窮の極みにある。そして家賃滞納が元でとうとう家を出ざるを得なくなり、とうとうホームレス同然で車中生活を送るまでに追い詰められてしまう。

今作はアイスランドに根づく様々な問題を射程に入れているが、ラーラの姿からは貧困とホームレスの問題が浮かび上がる。女性1人だけでは母として満足に子供を育てられない状況がここには広がっている。セーフティネットもうまく機能しないゆえに、金がなければ容易にホームレスへと転落してしまう。こういった苦境がアイスランドには存在しているのだ。

そして今作にはもう1人主人公がいる。アジャ(Babetida Sadjo)はより良い生活を送るため、故郷のブルキナファソからカナダを目指していた。しかしトロントへ向かおうと立ち寄ったアイスランドの空港で、パスポートの偽造がバレてしまい勾留されてしまう。その後に収容所で暮らすことになるのだが、いつまで収監されるか分からない絶望感に沈みながら、彼女は時間を浪費することとなる。

そんな彼女の姿には難民の問題が浮かび上がる。容易に目的地へは辿り着けない難しさがここにはある。そして収容所はかなり劣悪であり刑務所のような息苦しさに満ち、更には定期的に警察がガサ入れに来て理由も分からないままに仲間が拘束されていく。現代において難民は顕著な問題であるが、それがアイスランドでも起こっているのだ。

そういった女性たちの苦難はアイスランドの荒涼たる風景の中で苛烈さを増していく。開けた大地には建物も疎らで荒涼たる雰囲気が充満している。そして外では常に凄まじい風が吹きすさんでおり、ラーラたちがその中で一瞬にして吹き飛ばされてしまうのではないか?という恐ろしい予感が、ここには存在しているのだ。

ラーラたちは車中泊を続けるのだが、その最中に息子のエイナルが飼い猫を追って行方不明となってしまう。ラーラは彼を探すために広大な大地を彷徨い続けるのであるが、とうとう見つけた後に彼が一緒にいたのがアジャだった。彼女がエイナルの猫を見つけてくれたのだ。この出会いをきっかけとして、ラーラは収容所で住む場所を確保できたりと、距離は少しずつ深まっていく。

最初は全く違う状況で、それぞれの困難を抱えたふたりの女性の姿が平行して描かれるのだが、それが少しずつ重なり始めるのだ。ラーラとアジャ、2人で以て吹きすさぶ風の中に立ち続けるとそんな後ろ姿が描かれるのだが、それは女性同士の連帯の可能性を象徴しており、それが繊細な筆致で以て綴られる様は静かな感動を呼ぶだろう。

それを支えるのが俳優たちの熱演だ。アジャ役のBabetida Sadjoは過酷な状況において憂いの表情を浮かべながらも、それを切り抜けようとする女性の姿を捉えている。そしてラーラ役のKristín Þóra Haraldsdóttirは神経衰弱ギリギリの状態に陥りながら、生活を建て直そうと必死に奔走する、そんな弱さと強さを兼ね備えた女性を巧みに演じきっている。

更にそこにほんのりとクィア的な要素があるのも見逃せない。物語の冒頭においてラーラは、エイナルと同じ幼稚園に通う園児の母親とセックスする姿が映し出される。そこには女を愛する女としてのアイデンティティーが存在している。そしてアジャと出会い少しずつ距離を深めていくうちに生まれる感情がある。それは表だって現れることがないが静かに積み重なっていく複雑な感情だ。それが今作の核にあることが分かってくるだろう。