鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

お家でヴェネチア国際映画祭 総評

ということで半月かけてきたお家でヴェネチア国際映画祭もとうとう閉幕、オリゾンティ部門+ビエンナーレ・カレッジ作品15本中14作のチケットを買ってのめり込み、観たら記事を書くという日々を続けていたのでかなり名残惜しい。が、何にも終わりは来るということで総括として14本から見えてきた傾向と今後の展望みたいなのを書いてみたいと思う。(題名にリンク付いてる奴は、そこから監督紹介・レビューに飛べます)

まず目立ったのが“少年少女の不穏な青春”を描いた作品が割かし多く見られたことだ。クバ・チュカイ"Baby Bump"アナ・ローズ・ホルマー"The Fits"メルザック・アルアシュ"Madame Courage"ハダル・モラグ"why hast thou forsaken me?"アニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ"Mate-me por favor"の5作に加え、配信はされなかったが新人賞・監督賞を獲得したブラディ・コルベット"The Childhood of Leader"もそのような作風の映画らしく、この不穏さは今年のトレンドと言っていいかもしれない。"Madame Courage"はラインナップの中で一番のベテランであるアルアシュ監督の作品だが、ダルデンヌ兄弟風にアルジェリアの貧困と青年の青春を描くも現実の提示に留まり、作品としての深みがないように思われた。それに比してホラグ監督の"why hast thou forsaken me?"は性と暴力の衝動に翻弄される青年の物語を徹底して禁欲的に描きながら、意図的かそうでないかは解らないが逆に官能的な魅力が溢れる、初長編とは思えない老成の仕上がりを見せていた。

そしてチュカイ監督の"Baby Bump"とダ・シルヴェイラ監督"Mate-Me por favor"は自分のやりたいことを全て詰め込む!という力強さに溢れた作品だった。前者は主人公の名前ミッキーハウスから明らかなように、アメリカのポップカルチャーからの影響を全く隠さない、ポップにふざけまくった演出が全編で繰り広げられながら、"思春期、親に性欲を抱いてしまうこと"ということを、ただ気持ち悪いと切り捨てるのではなく、むしろこれをとっかかりとして思春期のジェンダーセクシュアリティを真摯に描いていく作品で好印象だった。後者は連続殺人が郊外のコミュニティに波紋を広げ、主人公たちの青春が変貌を遂げる様を、不穏で濃厚な死の香りとラテン仕込みの陽気な生のステップを織り交ぜ描く、なかなかの怪/快作だった("The Fits"については後述)

ヴェネチアが位置するイタリアからは2作品が出品、偶然にも両作ともモキュメンタリー映画だったが完全に明暗が分かれる結果となった。レナート・デ・マリア"Italian Gangsters"は実在の犯罪者を演じる俳優たちの語り+ニュースや映画のフッテージ映像だけで構成された志高い作品だったが、その志が映画の面白さに些かも繋がっていない意味で致命的だった、14作品中最もつまらなかった作品はこれだと断言してもいい。対してアルベルト・カヴィリア"Pecore in Erba"は突然失踪してしまった若き偉大な活動家レオナルド・ズリアーニを称えるドキュメンタリー、という体で話が進むが、徐々に彼がユダヤ人差別・排外主義者であることが明らかになり、しかも彼の活躍でイタリアが素晴らしき純血主義に目覚めるという恐ろしい事実が発覚する。これはもちろん風刺劇だが、街中でヘイトスピーチが公然と野放しにされ、「日本が戦ってくれて感謝します」という名のおぞましい本がベストセラーになる日本は描かれるイタリアと大差ないではないか!……という意味で戦慄を覚えたのがこの作品だった、今の日本でこそ観られるべき傑作だ。

アジアからは3作品が出品、そのどれもが今の時代の暗い部分を捉えた作品だった。ヴァヒド・ジャリルヴァンド"Wednesday 9 May"は100万を無償で提供するという新聞広告をめぐる3人の男女の物語で、貧困や女性差別など現代イランの問題を描こうとする意図は伝わるのだが、3人の描き方がアンバランスで物足りない、徹底的に登場人物たちを追い詰めることで倫理へと深く切り込んでいく他のイラン映画に比べるとそのレベルに至っているようには到底思えない、踏み込みが甘すぎる。しかし他の2本は水準以上の作品だった。ペマ・ツェデン"Tharlo"は正に発見ともいうべき出会いだった。日本でも既に有名な映画監督だが寡聞にして私は知らず、この作品で初めて彼に触れたのだが、チベットを舞台に1人の羊飼いが時代から取り残されていく様を描きながら、間の抜けたユーモア、圧倒されるほどの崇高さ、そして胸を締め付ける痛切さが同じ映画の中に現れることには驚いた。固定長回しやPlanimetric Shotの使い方も絶品で、これほどの映画作家を知らない自分を恥じる思いだった。だがもっと驚かされたのはヴェトリ・マラーン"Visaaranai"である。前半は60、70年代の刑務所映画や何とはなしにインド映画と聞いた時に浮かべるイメージそのままの率直な力強さに溢れた作品だったのが、後半では一転、“敵は個人ではなくシステムである”というボーン三部作やスティーヴン・ソダーバーグ以降ともいうべき陰謀のスリラーへ劇的に姿を変えてしまう。それで収まりが付いているかと言えばYESだ、全く異なる2つの作品を繋ぐのは、踏みにじられる者たちへの哀れみと踏みにじる者たちへの怒り、そんな監督の強い思いが荒業としか形容しようもない作品に一本芯を通しおおせた、本当に素晴らしい作品だった。

今回はどちらかと言うと“何を語るか”ではなく“どう語るか”に主眼が置かれていた印象があり、その傾向の明暗はガブリエル・マスカロ"Boi Neon"サミュエル・コラデイ"Tempête"にハッキリと浮かび上がっていた。前者はブラジル東部に伝わる伝統文化"ヴァケジャダ"に携わる人々の生活を通じて、現代ブラジルの諸相を描く作品だった、今作はストーリー性をほぼ廃し、日常のみを淡々と描く。だがその描き方は印象的で、ゆるやかに流れる時間を長回しで優しくすくいとるドキュメンタリー的なアプローチが主ながら、その間に息を呑むほど美しく詩情豊かで、時には当惑するような光景を結いあわせ、観客を世界へと引き込んでいく、ラストの月明かりを映し出す長回しは圧巻で、この作品がグランプリを獲得したのも納得だ。逆に後者はストーリー性一本で物語を進めるタイプの作品だった。漁師である主人公は娘の妊娠をきっかけに、海に戻るか陸に上がるかとそんな選択を強いられることとなるとそんな作品だが、正直に言えばここの何か突出した物は何もない。既視感だけで構成されている作品であり、こちらは俳優賞を獲得したのであるが、そのストーリー性――それ自体が陳腐だが――が俳優の演技力を魅せることのできる時間をより多く提供したと、それだけで受賞したとしか思えない。

そして新人監督の活躍が多く見られたのも今回の嬉しい傾向だった。先に挙げた"Baby Bamp"、"Mate-Me por favor"、"why〜"、"Pecore in Erba"は全て監督にとっての初長編作であり、これらに加えヨルゴス・ゾイス監督の長編デビュー作"Interruption"ギリシャ映画界の未来を感じさせる作品だった。オレステスの逸話を下敷きにしたポストモダン劇が上演されているさなか、舞台上にコロスと名乗る7人の若者たちが現れ、不条理劇の舞台が上がる。ギリシャ映画界はグリーク・ウィアード・ウェイブと呼ばれる一連の作品群で世界的な名声を獲得したが、ギリシャ神話を取り込んだこの作品で奇妙なる波は新たなるフェイズに到達したと言っても過言ではないだろう。

そして最後に書き記しておきたいのが、アメリカ・インディーズ映画2作の赫赫たる輝きについてである。まずはジェイク・マハフィー"Free in Deed"、昨今アメリカでは“キリスト教啓蒙映画”ともいうべき、信仰が全ての人を救う的なジャンル(英語では"Faith-based movie"という)が隆盛を誇っているが、それに反旗を翻し“信仰こそが人を殺すとしたら?”という問いを強く突きつける作品が今作だ。映像詩的に紡がれる不穏な冒頭から、息子を助けたいがゆえに信仰にのめりこむ女性と、自身の中にある信仰が崩れ行く音を耳にしている男性、2人の出会いが悲劇を生み出す様を凍えるほどの痛烈さを以て描き出すこの作品は、オリゾンティ部門で最高賞を獲得したがこの采配も"Boi Neon"と共に納得いく結果といえる。だが私にとってこのヴェネチア国際映画祭での1番の発見はビエンナーレ・カレッジ部門のアナ・ローズ・ホルマー監督と彼女の劇映画デビュー作"The Fits"だった。“新人監督”による“少女の不穏な青春”と正にトレンド通りの作品なのだが。ただでさえクオリティの高い作品が並びながらも、この作品はその中でも断トツだった。ボクシングを学びながらもそこは自分の居場所ではないのではないか?という思いを抱く少女が、ダンスと出会い新たな自分を見つけだす、ストーリーとしてはシンプルだが、演出の凄みというのだろうか、映画を構成する全ての要素が彼女の采配で以て最高のゴールへと辿り着くというか、ストーリーは上述通りだが、不穏さを軸として、少女の灰色の青春が、いつ何が起こるか分からないホラー映画となり、最後には世界の終わり、もしくは始まりの正に1日目を描き出すSF映画のようになるのだ、このディレクションの巧みさは神業としか言いようがない。アナ・ローズ・ホルマー、絶対にその名前を覚えておいた方がいい、アナ・ローズ・ホルマー、それは映画界の未来を担う者の名なのだから。

で、個人的な賞としてはこんな感じ(オリゾンティ部門に則ると味気ないので、コンペに則っての作品賞です)
金獅子賞:"The Fits"監督アナ・ローズ・ホルマー
銀獅子賞:"Visaaranai"監督ヴェトリ・マーラン
審査員大賞:"why hast thou forsaken me?"監督ハダル・ホラグ
男優賞:"Free in Deed"デヴィッド・ヘアウッド
女優賞:"The Fits" Royalty Hightower
新人俳優賞:"Mate-Me por favor"の少女4人
脚本賞:"Pecore in Erba" アルベルト・カヴィリア
審査員特別賞:"Tharlo"監督ペマ・ツェデン

ということで全体としては、玉石混淆どころか大粒の映画揃いでこんな良い思いしていいのだろうかと思うほどだった。ヴェネチア国際映画祭の新作を日本の殆ど誰よりも先んじて観ることが出来たし、未来を担う才能にたくさん出会えたし、もう最高以外の何物でもない。あー名残惜しい、でもSala Webでは今後もどこかの映画祭と連携して新作バンバンやるらしいし、その時になったらまたこういう特別記事を書こうと思う。 それでは明日からは、普通に日本で知られていない作品とか紹介する鉄腸野郎に戻ります、引き続きこのブログ読んでね、それではサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……

ヴェネチア国際映画祭特別編
その1 ガブリエル・マスカロ&"Boi Neon"/ブラジルの牛飼いはミシンの夢を見る
その2 クバ・チュカイ&"Baby Bump"/思春期はポップでキュートな地獄絵図♪♪♪
その3 レナート・デ・マリア&"Italian Gangsters"/映画史と犯罪史、奇妙な共犯関係
その4 アナ・ローズ・ホルマー&"The Fits"/世界に、私に、何かが起こり始めている
その5 アルベルト・カヴィリア&"Pecore in Erba"/おお偉大なる排外主義者よ、貴方にこの映画を捧げます……
その6 ヴァヒド・ジャリルヴァンド&"Wednesday, May 9"/現代イランを望む小さな窓
その7 メルザック・アルアシュ&"Madame Courage"/アルジェリア、貧困は容赦なく奪い取る
その8 ペマ・ツェテン&"Tharlo"/チベット、時代に取り残される者たち
その9 ヨルゴス・ゾイス&"Interruption"/ギリシャの奇妙なる波、再び
その10 ハダル・モラグ&"Why hast thou forsaken me?"/性と暴力、灰色の火花
その11 アニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ&"Mate-me por favor"/思春期は紫色か血の色か
その12 ヴェトリ・マーラン&"Visaaranai"/タミル、踏み躙られる者たちの叫びを聞け
その13 ジェイク・マハフィー&"Free in Deed"/信仰こそが彼を殺すとするならば

ジェイク・マハフィー&"Free in Deed"/信仰こそが彼を殺すとするならば

2週間ほど前のレイバーデイ、アメリカで興業収入1位となったのは"War Room"という作品だった。トニーとエリザベスは幸せな家庭を築いているように見えた。しかし水面下で溝はどんどん深まっていく。そんな状況に苦悩していたエリザベスはクララという女性と出会う。彼女は"War Room"、苦難と戦い、キリストに祈る者のために作られた小さな部屋へとエリザベスを導く――ああクラクラしてきた!コピーは“祈りは力強い武器である”だってさ、はあ。

以前ディートリッヒ・ブルッゲマンの「十字架の道行き」を紹介する時、何か日本にキリスト教啓蒙映画増えてきてない?と書いたが、映画大国アメリカではそういう映画のことを"faith-based film"と呼ばれていて、もちろん昔から作られていた訳だが、ここ最近になって興業収入ランキングに食い込むようになり、金になるならもっと作るか!と劣悪サイクルが出来上がってしまっているみたいだ。で、この"War Room"の後にはヘイデン・クリステンセン&ケイト・ボスワース出演"90 Minutes to Heaven"に、ケイト・マーラ(!)とデヴィッド・オイェロウォ(!!!)と演技力浪費しちゃ駄目だよ……コンビ出演"Captive"と、信仰が人々を救っちゃう系映画は続く。そんな状況に反吐が出てくる私としてはこんなことを考えてしまう“その信仰は人を殺しもしてるのでは?”と。さて、ヴェネチア国際映画祭特別編その13、半月かけてこのシリーズを書いてきたがとうとう最終回である。最終回は実際の事件を元にし“信仰が人を殺す”というテーマを描いた作品"Free in Deed"とその監督ジェイク・マハフィーを紹介していこう。

ジェイク・マハフィー Jake Mahaffyアメリカとニュージーランドを拠点とする映画作家だ。小さな頃から“他の世界を作り出し、それを自分でコントロールしたい”と思っていた彼は映画作りに目覚め、ロードアイランド・デザイン学校、シカゴ美術館附属美術大学でファイン・アートと映画製作について学んだ後、モスクワへと留学し全ロシア映画学校では監督業について学ぶ。映画製作の傍ら、ボストンにインディー映画監督やアーティストたちが集まる団体'Handcranked Film Projects'を設立、2つの大学で准教授として映画製作プログラムを立ち上げ、ニュージーランドオークランド大学でも教鞭をとるなど精力的に活動している。

監督デビューは1996年の"Egypt Hollow"だが、短編で白黒作品ということしか情報がない。本格的なデビュー作は8年後の2004年に製作された長編ドキュメンタリー"War"だろう、4年の期間をかけて、ペンシルヴァニアに生きる3人の農夫を描いたこの作品はサンダンス映画祭でプレミア上映、アナーバー映画祭では作品賞を獲得することになった。そして2008年には第2長編である劇映画"Wellness"を手掛ける。

セールスマンであるトーマス・リンゼイ(Jeff Clark)はアメリカンドリームを掴むため日々仕事に精を出していた……というのを延々と描き続ける作品らしく、動画を観れば分かるが手ぶれが余りに激しく、賛否両論スッパリと別れる作品というのは一目瞭然だろう。 しかしこの作品はSXSW映画祭でドラマ部門で作品賞を獲得、ジェイク・マハフィーの名は一躍有名になる。2012年には短編"Miracle Boy"を監督、激しい手ぶれは影を潜め、次作に繋がる映像詩的アプローチが顕著となる。そして2015年マハフィーは第3長編"Free in Deed"を監督する。

憂いを湛えた瞳の男、マイクの前で静かに語り始める、私は闇の中にいた、しかし今はもう違う、キリストが私を助けてくださった、私はキリストの中で生まれ変わった、ハレルヤ、そして響き渡るハレルヤの合唱、私はもう以前の私とは違う、生まれ変わった、私は人々を愛し、そして創造主を愛する、キリストを愛する、彼の言葉は強さを増し教会の一室は熱狂に包まれていく、女の歌声、ドラムの響き、ある参列者の女が涙を流しながら男の元へと、掲げられる右手、女の頭に静かに置かれる、女は床に倒れる、男の背後にいる司教が叫ぶ、彼女は救われた!彼女は癒されたのだ!ハレルヤ!ハレルヤ!彼女は救われた!キリストよ、感謝します!ハレルヤ!ハレルヤ!………

"Free in Deed"の冒頭は謎めいたイメージの緩やかな連なりと共に展開していく。教会での神への熱狂、3階からひたすらに家具を投げ捨てる男の姿、けたたましい叫び声をあげる少年と当惑するしかない女性、寒々しい冬空の下には小さなアパート、恐ろしく肥った男が見るのは三輪車を漕ぐ幼い子供の姿、そんな凍てつきながらも美しいイメージの数々、ストーリーは杳として知れないが、紡がれる映像詩は私たちを魅了する。そして物語も徐々に浮き上がっていく。

メルヴァ(インシディアス 第二章」エドウィナ・フィンドレイ)は夫に逃げられ、職もなくし、そんな状況で2人の子供を育てなくてはならない苦境に置かれていた。1番の心配は長男のベニー()だ、彼は正体不明の病に犯され、時間場所を問わず発作のようにけたたましい叫び声をあげ自傷行為に走り、時には妹のエッタ()にもその暴力を向ける。そんなベニーにメルヴァの根気も限界に達しようとしていた。この日も待合室で発作が始まるが、抑えようとしても止められない、途方に暮れる彼女の前にイザベル(「ハッスル&フロウ」ヘレン・ボウマン)という女性が現れ、メルヴァたちのために祈りを捧げてくれる。すると発作は収まり、ベニーは平静を取り戻す。驚くメルヴァにイザベルは言う、私たちが通う協会へ祈りに来ないかと。

そしてもう1人の主人公がエイブ(「バニシング・ヒート」デヴィッド・ヘアウッド)だ。ペンテコステ派の教会で神父として働く彼は日々キリストに祈りを捧げ、その右手を憐れな参列者に掲げる。恍惚に喜びの涙を隠さない参列者たちを見ながら、しかし彼は空しさに包まれる。教会の外では彼は落伍者だ、学校で掃除夫をして何とか糊口をしのぐも、黒人であるというだけで警察官たちは彼に軽蔑を隠さない。自分の中で信仰が揺らぎ始めている、それを否定できないエイブが教会で出会ったのが、救いを求めるメルヴァとベニーだった。

神よ、この憐れなる少年から悪魔を追い払いたまえ。エイブはベニーに対し悪魔祓いの儀式を始める。それはエイブを救うための行為であり、エイブが自分の中に確固たる信仰を取り戻すための行為でもある。その状況は苛烈だ、悲痛な叫び声をあげ暴れまわるエイブを、大人3人がかりで押さえつけ、祈りの声を叩きつける、叩きつける、執拗に叩きつけていく。そんな光景へのマハフィー監督の眼差しは、底冷えするほどの冷徹さを伴っている。神という曖昧な存在に対する疑義、曖昧さに寄ってたつ信仰という物への不信感、様々な思惟の入り交じる彼の洞察が"Free in Deed"をより深いものにしていく。

高らかな祈りの歌声、家具が砕け散る音、耳をつんざくベニーの絶叫、この映画で印象的なのはやはり音だ。劇中幾度となく、まるで水に全身を沈めたように音がくぐもる場面がある。鼓膜に届く前に、水が響きを歪めてしまったかのような感触、それがいきなり開けて日常に犇めく音が不気味な鮮やかさを以て私たちに迫る。その不快さはおそらくベニーが抱く物と同じだ、騒音に過敏なのだろうベニーはずっと手を耳に当てて、音を遮ろうとしている、音は彼にとって敵だ、いつも襲撃にビクビクしながら、いとも容易く捕らえられ、彼は絶望の叫び声をあげる。そんなベニーが祈りの絶叫が熱狂に渦巻く場所へと連れていかれたのなら。

だが驚いたことに発作の回数は少なくなり、ベニーの顔に、そしてメルヴァの顔にも笑顔が戻ってくる。彼女は癒しに感謝を捧げ、信仰の心をその身に宿していく。しかし監督の冷徹な眼差しをそのままに時の移り変わりを色褪せながらも叙情的なトーンで紡ぐ。あおう、幸せな時は本当に一瞬だった、ベニーの発作はぶり返しはじめ、自傷行為は酷さを増す、彼の頭に浮かぶ巨大な青アザは痛々しいという言葉では表現しきれない。メルヴァはエイブを頼る、エイブは苛烈な“悪魔祓い”を続ける、ベニーの病は治らず発作は酷くなる、その繰り返しの中でゴスペルの歌声は空虚な音の連続と化し、メルヴァはエイブにすがり付くしか出来なくなるが、信仰にのめり込むしか生きる術がないメルヴァと、もはや信仰の瓦解を目の前に見ているエイブの間には決定的な溝が出来てしまっている。そして、その瞬間は訪れてしまう。

“信仰が人を殺すということ”現在のアメリカ映画界の潮流に反して、"Free in Deed"はそんな荒涼たる現実を力強く描き出す。オリゾンティ部門で作品賞を獲得するにふさわしくも、恐ろしい一作だ。[A-]


参考文献
http://www.arts.auckland.ac.nz/people/jmah280(プロフィール)
http://www.selfreliantfilm.com/2006/04/jake-mahaffy-srf-interview/(2006年"War"でのインタビュー)
http://www.indiewire.com/article/sxsw_08_interview_wellness_director_jake_mahaffy(2008年"Wellness"でのインタビュー)
http://filmmakermagazine.com/87543-five-lessons-from-a-ten-year-film-school/(マハフィが映画学校での10年について語る記事)

私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
その13 ヴェロニカ・フランツ&"Ich Ser Ich Ser"/オーストリアの新たなる戦慄
その14 Riley Stearns &"Faults"/ Let's 脱洗脳!
その15 クリス・スワンバーグ&"Unexpected"/そして2人は母になる
その16 Gillian Robespierre &"Obvious Child"/中絶について肩の力を抜いて考えてみる
その17 Marco Martins& "Alice"/彼女に取り残された世界で
その18 Ramon Zürcher&"Das merkwürdige Kätzchen"/映画の未来は奇妙な子猫と共に
その19 Noah Buchel&”Glass Chin”/米インディー界、孤高の禅僧
その20 ナナ・エクチミシヴィリ&「花咲くころ」/ジョージア、友情を引き裂くもの
その21 アンドレア・シュタカ&"Cure: The Life of Another"/わたしがあなたに、あなたをわたしに
その22 David Wnendt&"Feuchtgebiete"/アナルの痛みは青春の痛み
その23 Nikki Braendlin &"As high as the sky"/完璧な人間なんていないのだから
その24 Lisa Aschan &"Apflickorna"/彼女たちにあらかじめ定められた闘争
その25 ディートリッヒ・ブルッゲマン&「十字架の道行き」/とあるキリスト教徒の肖像
その26 ハンナ・フィデル&「女教師」/愛が彼女を追い詰める
その27 ハンナ・フィデル&"6 Years"/この6年間いったい何だったの?
その28 セルハット・カラアスラン&"Bisqilet""Musa"/トルコ、それでも人生は続く
その29 サラ=ヴァイオレット・ブリス&"Fort Tilden"/ぶらりクズ女子2人旅、思えば遠くへ来たもので
その30 Damian Marcano &"God Loves the Fighter"/トリニダード・トバゴ、神は闘う者を愛し給う
その31 Kacie Anning &"Fragments of Friday"Season 1/酒と女子と女子とオボロロロロロオロロロ……
その32 Roni Ezra &"9. April"/あの日、戦争が始まって
その33 Elisa Miller &"Ver llover""Roma"/彼女たちに幸福の訪れんことを
その34 Julianne Côté &"Tu Dors Nicole"/私の人生なんでこんなんなってんだろ……

ヴェネチア国際映画祭特別編
その1 ガブリエル・マスカロ&"Boi Neon"/ブラジルの牛飼いはミシンの夢を見る
その2 クバ・チュカイ&"Baby Bump"/思春期はポップでキュートな地獄絵図♪♪♪
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その7 メルザック・アルアシュ&"Madame Courage"/アルジェリア、貧困は容赦なく奪い取る
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その10 ハダル・モラグ&"Why hast thou forsaken me?"/性と暴力、灰色の火花
その11 アニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ&"Mate-me por favor"/思春期は紫色か血の色か
その12 ヴェトリ・マーラン&"Visaaranai"/タミル、踏み躙られる者たちの叫びを聞け

ヴェトリ・マーラン&"Visaaranai"/タミル、踏み躙られる者たちの叫びを聞け

インド映画と聞くとやはりボリウッド、歌って踊ってランタイム余裕で2時間越えという印象だが実情はそんな単純なものではないらしい。多民族国家であるインドは地方・言語圏それぞれで映画産業が独立しており、ボリウッドというのもインド最大の都市ムンバイでの映画産業を指しており、使われている言語はヒンドゥー語とウルドゥー語である。以前少し紹介したスリランカ出身の映画監督Vimukthi Jayasundaraベンガル地方/ベンガル語で映画を製作している人物で、実際作風が全く違っていたりする。ということでヴェネチア国際映画祭特別編その13、今回はインド・タミル映画界で活躍するヴェトリ・マラーン監督とオリゾンティ部門初のタミル映画出品作"Interrogation"を紹介していこう。

ヴェトリ・マラーン Vetri Maraan は1975年9月4日、タミル・ナドゥール州のカダルールに生まれた。父は獣医学者のV.Chitravel、母は有名な小説家Megala Chitravelだという。小さな頃はラニペットに暮らし、プロのクリケット選手になるためチェンナイのYMCA社会体育専門学校で学ぶ。だが州のクリケットチームに選ばれなかったことから夢を諦め、1994年からはロヨラ大学で英文学を学び始める。1995年には英文学の修士学位も断念し、心機一転、彼は映画について学ぶため大学のヴィジュアル・コミュニケーション学科に足を踏み入れる。

1999年彼は助監督としてTV局に勤めはじめ、"Kadai Neram""Adhu Oru Kana Kaalam"など数々の番組を手掛ける。その一方で監督作の準備にも動きだし、脚本の執筆、主演俳優Dhanushの起用と計画を進めていくが、プロデューサーの降板などで暗礁に乗り上げかけるも、何とか製作を続行、2007年にマラーン監督は念願のデビュー長編"Polladhavan"を完成させる。ヴィットリオ・デ・シーカ自転車泥棒に着想を得た今作は、主人公の自転車が盗まれるという事件を軸に親子の絆、ギャングとの抗争、蔓延する違法薬物などなど様々なテーマを盛り込み、タミル・ナドゥール州の諸相を描き出す意欲作だという。この作品はVijay Awardで監督賞を含めた4部門を制覇、マラーン監督は一躍インドで名を馳せる。そして2011年には第2長編"Aadukalam"を監督、フィルムフェア賞南インド部門で作品賞、監督賞、音楽賞、男優賞、撮影賞の計5部門、南インド国際映画賞でも4部門授賞など前作にも増して高い評価を受ける。この後からしばらくはプロデューサー・脚本家として2013年には"Udhayam NH4"(両方)、"Naan Rajavaga Pogiren"(脚本のみ)、2014年は"Poriyaalaan""Kaakkaa Muttai"(共に製作のみ)を手掛け、2015年には第3長編"Visaaranai"を監督する。

現在、果てしない貧困から抜け出すために、タミルからアンドラ・プラデシュ州へと出稼ぎにやってくる若者たちは跡を絶たない。しかし彼らの希望はすぐに打ち砕かれる。タミルではタミル語アンドラではテルグ語と使われる言語が違うゆえに、意思の疎通が困難なことをまず思い知る。そして言語が違うということはまた文化にも違いがあり、同じ国にいながらタミルの人々は移民という異分子として差別される現状がある……そんなテロップが流れたのち物語は幕を開ける。

タミル移民のパンディ(Dinesh Ravi、マラーン監督の前2作でも主演)は夜が明ける前から起きて、仕事場へと向かう。店長にどやされながら、開店の準備をしているとそこに男たちが現れる。彼らがタミル人であることを知りパンディは喜ぶも、その中の1人が銃を持っているのに気づく、この周りで何かが起き始めているのを肌で感じながらも、彼にとっては目の前の生活の方が大事だ。そう思っていたのも束の間、今度はテルグ人の男が現れ、問答無用でパンディを捕らえる、車には彼の友人であるムルガン(Murgadoss)たちの姿もあった。何が起こっているか、訳も分からないまま彼らは警察署へと連行される。署内に飛び交うテルグ語、何を言っているかはかろうじて理解できるが、話すことは出来ないゆえに意思の疎通が図れない、そうして怯えるパンディたちに対し、警察官たちは情け容赦ない暴力を叩きつける。

棍棒が皮膚に降り下ろされた時の鈍い音、激痛にパンディたちが上げる悲鳴の数々、倒れたのなら蹴りすら加える残虐性、この余りにも直裁にすぎる暴力におそらく面食らうだろうが、まだこれは始まりに過ぎない。パンディたちはそのまま牢獄に収監され“お前らが盗んだんだろう?”“お前がやったんだろ?”と謂れのない罪状を突きつけられる。否定すれば、暴力の嵐に晒される。痛烈な苦難の釣瓶落とし、マーラン監督はここにおいてリアリティを放棄している。今現在でもこんなことがまだ起こっているんだ!そんな叫びを理性よりも感情に訴えかける演出だ、その感触は40〜50年も前に作られた映画のように粗野ながら力強く怒りに満ち溢れ、しかしだからこそ古めかしい荒唐無稽さをもそこに感じることになる、友人を守るためのパンディの自己犠牲は今を舞台に描くには単純すぎるのではないか?という問いが浮かんでは消えていく。

親しい者たちへの恐喝、虚偽の実況見聞の強制、パンディたちは外堀を埋められていき罪に肉薄していくが、彼らは諦めることなく苦難を耐え続ける。そして救いの手は差しのべられる。罪を決する裁判でテルグ語を話せず追い詰められるパンディの前に、あの夜、店で出会った男――ムドゥヴェル刑事(Samuthira Kani)が通訳として現れ、そして驚くほどあっさりと無罪を勝ち取ることとなる。パンディたちは喜ぶが、もうアンドラにいることは出来ない、かと言ってタミルに戻っても今度は本当に犯罪者として落ちぶれるしか道はない。しかしムドゥヴェルはパンディたちに掃除夫の仕事すら提供し、あの惨劇から一転、彼らはタミルの警察署で働くこととなる。

ここから"Visaaranai"は前半とは全く別の映画へと劇的にその姿を変えてしまう。時間は少し戻るが、そもそもムドゥヴェルがタミルの裁判所にいたのは、ある事件の重要参考人であるKKという男(Kishore Kumar)を連行するためだった。だが裁判にかけられる時間はムドゥヴェルにはない、それ故にパンディたちの助けを借りKKを拉致した後(この流れでパンディは掃除夫として雇われる訳だ)、ムドゥヴェルは署内で彼を尋問にかける。会話の節々からこの地で何かが起きようとしているというのが伺えるが、ハッキリはしない。だが会計審査役、選挙、反対陣営、そんな言葉から浮き上がるのはこの映画は一つの悪にではなくインドという社会のシステムへと刃を向けようしていることだ。

そう、前半は60年代、70年代の映画を彷彿とさせる率直な力強さに満ちていながら、後半はボーン三部作スティーヴン・ソダーバーグ諸作以降の“敵は個人ではなくシステムだ”という陰謀のスリラーへと変わってしまうのだ。マラーン監督の演出は急速にスピードを早め、タイトさを増していく。そしてS.Ramalingamの撮影は目の前で起きていることを全て残さなければならないという決意に満ちた物だったのが、1分1秒に移り変わる状況に追い付こうと、必死に人物を追い建物内をめぐる長回し主体のステディカム撮影へと変貌を遂げる。尋問の後、ムドゥヴェルたちはKKの処遇をめぐり激しい議論を繰り広げるが、そこでも杳として核心は見えてこない。私たちはただただ禍々しい何かの足音が響くのを耳に出来るだけ、それはパンディたちも同じでありながら、しかし彼らにとっては致命的だ。あれほどまでに強靭な心と肉体を称えられた英雄が、巨大なシステムの前には成す術もなく悲壮に追い詰められ、そして英雄であった筈のパンディは悟るのだ、あの夜、ムドゥヴェルと出会った時点でもう後戻りできない場所にいたのだと。

監督は今作についてこう語る。“作家のChandhra Kumarが警察に勾留された経験を元に書いた"Lock Up"という作品を読んだ時、私は彼の正義への叫びはまた、貧しく無力な移民たちの叫びであると思い立ったのです。いつか彼らの叫びが牢獄の壁を越えて誰かの耳に届くように、"Visaaranai"は私のそんな願いでもあります”

踏みにじられる者たちへの哀れみと踏みにじる者たちへの怒り、全く違う2つの作品はこの強い思いによって"Visaaranai"という作品として結実した。大胆なストーリーテリングが生み出す怒れる痛みは深く、深く、深く……[A]

私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
その13 ヴェロニカ・フランツ&"Ich Ser Ich Ser"/オーストリアの新たなる戦慄
その14 Riley Stearns &"Faults"/ Let's 脱洗脳!
その15 クリス・スワンバーグ&"Unexpected"/そして2人は母になる
その16 Gillian Robespierre &"Obvious Child"/中絶について肩の力を抜いて考えてみる
その17 Marco Martins& "Alice"/彼女に取り残された世界で
その18 Ramon Zürcher&"Das merkwürdige Kätzchen"/映画の未来は奇妙な子猫と共に
その19 Noah Buchel&”Glass Chin”/米インディー界、孤高の禅僧
その20 ナナ・エクチミシヴィリ&「花咲くころ」/ジョージア、友情を引き裂くもの
その21 アンドレア・シュタカ&"Cure: The Life of Another"/わたしがあなたに、あなたをわたしに
その22 David Wnendt&"Feuchtgebiete"/アナルの痛みは青春の痛み
その23 Nikki Braendlin &"As high as the sky"/完璧な人間なんていないのだから
その24 Lisa Aschan &"Apflickorna"/彼女たちにあらかじめ定められた闘争
その25 ディートリッヒ・ブルッゲマン&「十字架の道行き」/とあるキリスト教徒の肖像
その26 ハンナ・フィデル&「女教師」/愛が彼女を追い詰める
その27 ハンナ・フィデル&"6 Years"/この6年間いったい何だったの?
その28 セルハット・カラアスラン&"Bisqilet""Musa"/トルコ、それでも人生は続く
その29 サラ=ヴァイオレット・ブリス&"Fort Tilden"/ぶらりクズ女子2人旅、思えば遠くへ来たもので
その30 Damian Marcano &"God Loves the Fighter"/トリニダード・トバゴ、神は闘う者を愛し給う
その31 Kacie Anning &"Fragments of Friday"Season 1/酒と女子と女子とオボロロロロロオロロロ……
その32 Roni Ezra &"9. April"/あの日、戦争が始まって
その33 Elisa Miller &"Ver llover""Roma"/彼女たちに幸福の訪れんことを
その34 Julianne Côté &"Tu Dors Nicole"/私の人生なんでこんなんなってんだろ……

ヴェネチア国際映画祭特別編
その1 ガブリエル・マスカロ&"Boi Neon"/ブラジルの牛飼いはミシンの夢を見る
その2 クバ・チュカイ&"Baby Bump"/思春期はポップでキュートな地獄絵図♪♪♪
その3 レナート・デ・マリア&"Italian Gangsters"/映画史と犯罪史、奇妙な共犯関係
その4 アナ・ローズ・ホルマー&"The Fits"/世界に、私に、何かが起こり始めている
その5 アルベルト・カヴィリア&"Pecore in Erba"/おお偉大なる排外主義者よ、貴方にこの映画を捧げます……
その6 ヴァヒド・ジャリルヴァンド&"Wednesday, May 9"/現代イランを望む小さな窓
その7 メルザック・アルアシュ&"Madame Courage"/アルジェリア、貧困は容赦なく奪い取る
その8 ペマ・ツェテン&"Tharlo"/チベット、時代に取り残される者たち
その9 ヨルゴス・ゾイス&"Interruption"/ギリシャの奇妙なる波、再び
その10 ハダル・モラグ&"Why hast thou forsaken me?"/性と暴力、灰色の火花
その11 アニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ&"Mate-me por favor"/思春期は紫色か血の色か

アニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ&"Mate-me por favor"/思春期は紫色か血の色か

今まで11本のオリゾンティ部門&ビエンナーレ・カレッジ出品作を観てきたが、そこで分かったのは今年のトレンドは“少年少女の不穏な青春”だということだ。詳しくは総括記事に書くつもりだが、クバ・チュカイ"Baby Bump"アナ・ローズ・ホルマー"The Fits"メルザック・アルアシュ"Madame Courage"ハダル・モラグ"why hast thou forsaken me?"と4つも思春期の少年少女が主人公の映画で、どれも自分の性衝動、暴力衝動、もしくは両方に苦しむ様を不穏に描き出している、後者2作は主人公のビジュアルを含めかなり似通っていたりする。もう一昨日、ヴェネチアの結果は発表されてしまった訳だがそこで新人賞・監督賞を獲ったブラディ・コルベットの""もそんな映画らしいのだが、今回紹介すアニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ監督の長編デビュー作"Mate-me Por Favor"も正に少女たちの不穏な青春を描いた一作で、多分最後の一作だ、フィナーレとしてはなかなか、うん、何と言うか、変な感じな映画なのだこれが。

アニタ・ロチャ・ダ・シルヴェイラ Anita Rocha da Silveira はブラジルを拠点とする映画作家だ。2008年からリオ・デ・ジャネイロカトリック大学で映画を学ぶ。そして入学と同年に"O Vampiro do meio-dio"(意味は“昼を生きるヴァンパイア”)で映画監督デビューする。助監督や教師を勤めながら、2010年には第2短編"Handebol"、2012年には第3短編"Os Mortos-Vivos"を手掛け、前者はオーバーハウゼン国際短編映画祭でFIPRESCI賞を獲得、後者はカンヌ国際映画祭の監督週間に選出され、好評を博す(以上3作全てダ・シルヴェイラ監督の公式vimeoアカウントから鑑賞可、多分あとあとレビュー書きます)。そして2015年彼女は初長編"Mate-me por favor"を監督、オリゾンティ部門に選出されることとなる。

舞台はリオ・デ・ジャネイロの郊外にある住宅街バーハ・ダ・チヂュダ、紫色のネオンがくゆる夜の街、一人の女性がパーティに飽きて独り家路につこうとしていた、だが少し歩くうち、彼女は自分に付きまとう何者かの気配を感じる、歩調を早め逃げようとするのだが、むしろ自分が追い詰められていることに気づかない。住宅街の真ん中にぽっかりと空けた更地へと迷いこんだ女、草むらに足を取られた地に伏す女、ああもう逃げ場はない、彼女はホラー映画の最初の被害者さながら、裂けるほど大口を開き、あらん限りのボリュームでもって悲鳴をあげる、そこにドンと現れるのが"Mate-me Por Favor"――お願い、私を殺して!

静かな郊外で起こった殺人事件、15歳の少女ビア(Valentina Herszage)や彼女がいつもつるんでいるレ(Dara Freind)、マリ(Mariana Oliveira)、ミシェル(Julia Roliz)は興味津々だ。どんな風に殺されたんだろう、彼女は一体誰なんだろう、だがそんな興味は意外と早く充たされてしまう、ネットで彼女の個人情報が特定され、FacebookやらInstagramやらで生前の姿はばっちり、さらに死体の写真まで簡単に流出してしまい、ビアは兄のジョアン(Bernardo Marinho)とそれをリアルタイムで液晶越しに眺める。そんな感じで死は消費され、ビアたちは日常に戻っていつものように学校生活を満喫……とは行かない、間髪入れず再び女性の死体が発見されたのだ、連続殺人事件にコミュニティは密かに揺れはじめ、ビアたちにも不穏な影が迫ってくる。

不穏な連続殺人と不気味な郊外の風景、この2つは組合わさるにうってつけだが、それは周知の事実として様々な作品に現れている。""はその定石を行きながらも、奇妙な味つけも施されている。ある牧師が生徒たちの前で殺人事件の被害者を悼む言葉、キリストへの祈りの言葉を伝えるのだが、彼女、真っ赤なドレスを着ておおよそ牧師には見えない、そして説教が終わると、何か、ノリのいいダンスミュージックが流れ何事かと思うと、牧師がマイク持ってノリノリでフウフウ歌いだすのだ、ナザレフウフウ!キリストフウフウ!参列者もノリノリで、殺人事件は一体どうしたって感じだが、この映画全編でこんな感じなのだ。何と言うか、ラテンのノリとしか言いようがない陽気さが濃厚で、しかめ面で不穏な空気を保とうとしても、プっと吹き出し、いやいやこんな辛気臭いのやっぱ無理!と踊り出すダ・シルヴェイラ監督の姿が目に浮かぶよう、ランタイム100分の間にキスシーン20回くらい出てくるし!


左からレ、マリ、ビア、ミシェル。

そんな不穏さと陽気さが代る代る現れて、時おり自分の映画を制御しきれていないんじゃないかと思える時もあるが、しかし悪くない、このチグハグさ全然悪くない、むしろ映画の原動力として機能しているのだ、初長編ゆえに自分の詰め込みたい要素だとか今までの経験・思い出だとかを全て本当に詰め込んでしまったらこうなる!ってエネルギーが感じられるのだ。

殺人事件に波紋が広がる中、ビアたちはとある空き地で血まみれの女性を発見する。ミシェルたちが助けを呼びにいく一方で、ビアだけは女性のそばを離れない。血に染まった皮膚、彼女はそこにキスをする。血に濡れるビアの唇。ゆるやかだった歪みはこの日から加速していく。血と死は彼女を魅了しながら、恐れもする。矛盾に揺らぐ心は友人であるはずのマリやレたちへの暴力として現れる。そして彼女たちに飽きたらず、自身を傷つけようとさえする。それは自分が生きていると実感したいための行為なのか、それともあの時目にした血まみれの身体と一体化したいという欲望の証明なのだろうか。

陽気な生と不穏な死、この交わりは映画に深みを与えていきながら、正にそのラストショットで一気に収斂する。多くは語れないがこの映画が描こうとするテーマ、思春期の揺らぎ、不気味なる郊外の姿、死と生への相反する欲動のその全てがあるべき場所へと収まる、数あるオリゾンティ部門出品作でも、ラストショットで言えばこれがベストだろう。"Mate-Me por favor"は相反する2つの極が絶えず回転し続ける、若いエネルギーに溢れた作品だ。[B+]

私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
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その9 ヨルゴス・ゾイス&"Interruption"/ギリシャの奇妙なる波、再び
その10 ハダル・モラグ&"Why hast thou forsaken me?"/性と暴力、灰色の火花

ハダル・モラグ&"Why hast thou forsaken me?"/性と暴力、灰色の火花

いやいや、とうとうヴェネチア国際映画祭特別編その10にまで来てしまった。その9では私の好きなギリシャ映画界、そこに現れた新鋭を紹介できて嬉しかったが、今回はイスラエルである。このブログを読んでくださっている方はご存じだろうが、今までロニ・エルカベッツTalya Laviと2人もイスラエル人監督を紹介しているくらいイスラエル映画は好きだ、ああ早く他のイスラエル映画観て、それも紹介できたらなあとか思っていた所で、来たわけである。今回紹介するのはイスラエル映画界の新進気鋭ハダル・モラグ監督と彼女の長編デビュー作"Why hast thou forsaken me?"である。

ハダル・モラグ Hadar Morag は1983年イスラエルのレホヴォトに生まれた。5歳から7歳までは韓国とフィリピンで暮らしていたという。テルアビブ・ジャファ自治区アレフ美術高校で学び、在学中の1999年からテルアビブ美術館の美術教育センターで教師としても働く。2001年の高校卒業後は、兵役従事の傍ら、ベエルシェバに住むエチオピアの子供たちの家庭教師を勤め、2003年からはアメリカ・フィラデルフィア州のハーラムUAHCキャンプで美術教師として働くなど、主に美術分野で精力的に活動していた。

2004年からはテルアビブ大学の映画・TV科に入学、映画について学ぶ傍ら、フェミニズム、文学、哲学についても学んでいたという。在学中の2008年、彼女は短編"Silence"で監督デビューを果たす。12歳のマシダ(Mashda Abdalla)と45歳のアムノン(Tahel Ran)にとって互いの存在は慰めとなっていた。しかし次第にその関係はモラルと欲望が混じり合う場所へと追いやられていく……この作品はカンヌ国際映画祭のシネフォンデーション部門に出品されたのを皮切りに、リオ・デ・ジャネイロ国際短編映画祭、ワルシャワユダヤ映画祭、ルーマニアのダキノ国際映画祭と世界中の映画祭で上映される。その後は"Refrain thy voice Rachel"というドキュメンタリーを製作し、2015年には初の長編作"Why hast thou forsaken me?"を監督する。

部屋には光も指さず灰の色彩が滲んでいる、モハマド(Muhammad Daas)は振動する機械を見つめながら淡々と作業をこなしていく。四角い口に粉を流し込む、震えに蓋が外れないよう膝で押さえつける、しばらく様子を見る、その繰り返しだ。猥雑な空間にはもう一人の作業員がいて、彼女はモハマドのことなど視界に入れようとすらしない。だがモハマドは横目でその姿を睨めつける。作業が終わる頃、 彼は持ち場を離れ、どこか大きな棚の上に身を隠す。影に包まれた場所、モハマドは隙間から彼女の姿を睨みつけながら、股間からペニスを取りだし、扱き続ける、扱き続ける、彼は止めることが出来ない、モハマドはペニスを扱き続け、しかしそこに残るのは快感ではなく、ただただ不毛な疲労感だけだ。

時間がやってくると、モハマドは作業場であるパン工房を出て、自転車を漕ぎ工場へと向かう。知り合いから余った魚を恵んでもらうためだ、響くのは「あのアラブ人の野郎に……」とそんな、彼の姿を目の当たりにした工員たちの密かな罵倒だ。彼は魚をもらうと、無表情のまま工場を後にする。しかし不快な出来事は続く、魚を狙って近所のチンピラが彼に襲いかかる、1度はリンチに屈しながら、やはり彼は無表情のまま角材を持ち出し暴力には暴力で復讐を果たす、それがモハマドの毎日だった。

"Why hast thou forsaken me?"のテーマは冒頭にハッキリと現れる、性と暴力の衝動とそれをいかに制御するかについてだ(イスラエルでアラブ人が生きるということについては、テーマ以前に既に日常に根付いた物として提示される)そんな青春に貧困が付きまとうのは先に取り上げた"Madame Courage"でも同じだが、こちらがダルデンヌ兄弟を彷彿とさせる社会的リアリズムにアプローチしていたのに対し、"Why〜"はそこから一歩進んで、灰色以外の色彩をこそぎ落とし、性的・暴力的表現を含め徹底的な抑制を課しながらも、それだけではなく、観る者が様々にこの映画を"感じる"ための余白もこの映画には存在している。

モハマドを変えるのは2つの出会いだ。彼はある男の家から、何か考えがあった訳でもなくナイフを盗み出す。暴力の化身のような姿に心を惹かれたのだろうか、自分でも理由は分からない。だが刃をゆっくりと指に食い込ませると何かを感じることが出来た。そしてそのナイフがもう1つの出会いにモハマドを導く。

彼はある日、工場の裏でバイクに積み込んだグラインダで、包丁を磨ぐ男の姿を見つける。厳かな手つきで包丁を持ち、高速で回転するグラインダに刃を近付ける、鋭い音を立てながら銀色の刃から橙の火花が血のように飛び散る。モハマドはポケットからナイフを取りだし、3才児のような好奇心を露わにしながらその姿を見つめる。彼に気づいた研師――中年のユダヤ人男性グレヴィッチ(Yuval Gurevich)は鬱陶しそうにモハマドを見るも、追い払おうとはしない。その内グレヴィッチは彼を傍らにまで連れてきて、手に持ったナイフを研がせようとする。節くれ立ち日に焼けた手と、それに比べれば未だ青白く幼い手、2つが重なりあいながらナイフを持ち、グラインダに近付く時の不穏さと、エロティシズム。モラグ監督が抑制的な映画の中に宿すのがこの官能の感覚だ、物語はここから核心に肉薄していく。

モハマドはバイクを駆るグレヴィッチの後を、自転車で追い続ける。グレヴィッチの方も彼を自分から拒むことはなく、タバコを吸う、唾を吐く、立ち上がり歩きだす、そんな行動を完全に真似しようとしたりと、モハマドはとうとう闇に包まれた人生で自分の導きとなる存在を見つけられたと思える。だがそれが衝動の自制を意味するかといえば逆だ。私たちが目撃したエロティシズムは彼の当惑をむしろ更に掻き乱していく。そして彷徨の末、グレヴィッチの秘密を知った時、モハマドはその当惑に決着をつけるため、ある行動に出る。その瞬間、スクリーンに凄絶な痛みが焼きつく。

"Why hast thou forsaken me?"は救いようもなく悲惨な青年のさまよいを描き出す。“あなたは何故私を見捨てたのですか?”タイトルにもなっているそんな言葉が虚しく響く中、私たちはただ呆然と立ち竦むしかない。[A-]

参考文献
http://www.festival-cannes.com/jp/archives/ficheFilm/id/d7af8cae-9c1f-4a91-8e47-b10e96d5e733/year/2008.html(短編について)
http://mediawavefestival.hu/index.php?modul=filmek&kod=1992&nyelv=eng(プロフィール)
https://boxoffice.festivalscope.com/film/why-hast-thou-forsaken-me(監督紹介ページ)
http://www.eyeforfilm.co.uk/feature/2015-09-10-hadar-morag-on-shifting-perspectives-and-the-collapse-of-language-in-why-hast-thou-foresaken-me-feature-story-by-amber-wilkinson(監督インタビュー)

私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
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ヴェネチア国際映画祭特別編
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その6 ヴァヒド・ジャリルヴァンド&"Wednesday, May 9"/現代イランを望む小さな窓
その7 メルザック・アルアシュ&"Madame Courage"/アルジェリア、貧困は容赦なく奪い取る
その8 ペマ・ツェテン&"Tharlo"/チベット、時代に取り残される者たち
その9 ヨルゴス・ゾイス&"Interruption"/ギリシャの奇妙なる波、再び

ヨルゴス・ゾイス&"Interruption"/ギリシャの奇妙なる波、再び

ギリシャ財政破綻を迎えたこの国で、それでも映画を作ろうとする者たちが世界に衝撃を与えることとなる――グリーク・ウィアード・ウェーブ、Athina Rachel Tsangari監督の長編デビュー作"Attenberg"から始まったこの奇妙な波は、ヨルゴス・ランティモス監督作「籠の中の乙女」"Alpeis" Babis Makridis監督作"L" Giorgos Servetas"Standing Aside, watching"と作品が発表されるたび話題を呼ぶ。ベルリン国際映画祭"Miss Violence"Alexandros Avranas銀熊賞を獲得した辺りからは、このトレンドは最早賞獲りの道具となり形骸化してしまったという声も上がり始める、だが私はその意見に同意しない、この後も Syllas Tzoumerkas初監督作"A Blast"やTsangali監督待望の第2長編"Chavelier"、ランティモス監督の英語デビュー作"The Lobster"が世界的に評価され、その独創性は些かの衰えも見せることなく、さらに新たな才能も現れ始めているのだから。ということでヴェネチア国際映画祭特別編その9、今回は新鋭ヨルゴス・ゾイス監督と彼の長編デビュー作"Interruption"を紹介していこうと思う。

ヨルゴス・ゾイス Yorgos Zois は1982年にギリシャアテネに生まれた。彼はアテネ教育大学(NTUA)で応用数学・物理学、アテネのStavrakou映画学校とベルリン芸術大学(UdK)では監督業について学んだ、テオ・アンゲロプロスのアシスタントをしていたこともあるらしい。2010年に短編"Casus Belli"で監督としてデビュー、違う場所、違う時間、人々が7つの列に分かれて並んでいる、列の一番前に並ぶ者がもう1つの列の一番後ろへ、それを繰り返し、全てが終わるとそしてまた全てが始まる……そんな謎めいた今作はまずヴェネチア国際映画祭で上映された後、ロッテルダム、パーム・スプリングス、メルボルン、そして東京などの映画祭で上映、本国ギリシャではギリシャ映画アカデミーで最高短編賞を獲得した。2012年には第2短編"Titloi Telous"を手掛ける。そして2015年、ゾイス監督は初長編"Interruption"を監督する。

闇こそがこの映画の始まりだ、その果てしない黒色に淡くぼやけた光が現れる、灯が闇にたゆたう内、その傍らに何者かが見えてくる、どんな人間だか理解する前にカットが変わる、再び灯、しかし傍らには先とは別の人物、そして闇に響くのは仰々しき名前の数々、アガメムノンクリュタイムネストラエレクトラ、そしてオレステス、それはつまりセリフであり、その闇は舞台だ、ギリシャに息づく悲劇を演じるための舞台、劇が進むにつれて俳優たちの装いが露になり、要素要素の解離は露骨になり、観る者の心にポストモダン/脱構築とそんなうんざりするような言葉が浮かぶころ明らかになるのは、俳優たちが透明で巨大なキューブの中で演技を全うしようとする光景、しかし突然舞台の明かりが落ちていく、俳優たちはキューブに閉じ込められ当惑の影が揺れる、そして足音を響かせ7人の若者が舞台へと上がってくる、1人の男がマイクに向かって喋り始める、劇を中断してしまってすいません、ですが、私は昨晩、とある女性と朝まで踊り続けたのです、と。

謎めいた冒頭、現れる"Interruption"(中断)という題名、おそらくこの展開を目の当たりにした人々の頭には疑問符が浮かび上がるだろう、この作品は美しき不条理劇だ、だから残念に思う方もいるかもしれないが、その疑問符を完全に消し去られるのを期待するのはよした方がいい、しかしその不条理に身を任せ流されるままに流されたのなら、心地よい当惑へと辿り着くことができる。

7人のコロスたち、そのリーダーであるのだろう男は観客たちの何人かに舞台へと上がるよう求める。コロスたちに選ばれた観客たちは、舞台の一環だと思い、何の抵抗もなく舞台へと上がっていく。「名前は?」「私はオディセアスといいます」「あなたのお仕事は?」「仕事は弁護士をしています」「どちらがお姉さんでしょう?」「彼女が姉で、私が妹です」「ルカ、俳優というなら、今すぐ泣けますか?」「……とりあえず、やってみます」そんな自己紹介が何人も続き、ある時、男はある問いを向ける。「この状況は現実でしょうか、幻想でしょうか?」1人の女性はこう答える。「現実でしょう、もちろん」

オレステスオレステス、舞台上の観客はオレステスの神話を――つまり、後ろのキューブに閉じ込められた俳優たちが演じていた劇を再演することとなる。男の指示に従い、最初は笑いが介在する余地のある、何か弛緩した空気の中で彼らは悲劇の道行きを辿っていく。その中でふと投げ込まれるのは「現代の視点から見て、オレステスの復讐、母であるクリュタイムネストラを殺すというのは正しいことでしょうか?」とそんな問いだ。殺人は悪に決まっている……弁護士の観点からいえば……神話はそのようなモラルを越えて存在する……そんな議論は男の一存で乱暴に中断させられ、オレステスの復讐の一幕は始まる、セリフを口にするうち彼らは否応なく役に入り込んでいく、そしてオレステスを演じるルカの手には本物の銃が握られている。

舞台で繰り広げられる不条理劇、ルイス・ブニュエルブルジョワジーの秘かな愉しみにそんな光景を映し出されるシークエンスがあった、だがゾイス監督はブニュエルの猥雑さを指向することはない。むしろ彼はキューブリックの偏執的な端正さ、そしてシンメトリーを以て、舞台だけではなく劇場一体を全て巻き込み、不条理を組み上げていく。Yiannis Kanakisの撮影、単音の響きが鼓膜を不気味に揺らすSilvan Cheauveauの音楽、その圧力は私たちをあの観客席に強く押し込む。そして監督が現実と幻想を自在に操り、2つがうねりゆく様をただただ観ていることしか出来ない。しかしそうして翻弄される、不愉快ではない、むしろ脳髄がピリピリと快感の火花を散らすようだ、このまま翻弄され続けたいとそう思うようになるだろう。

舞台は混迷を極めていく。キューブの中の俳優たちは何の前触れもなく解き放たれる、アマチュアとプロの奇妙な晩餐会が幕を開ける、とある観客がトイレに行って排尿するまでの姿が映し出される、ゾイス監督は徹底的に虚実を撹拌し、最後に取り払われる二項対立は、まなざすもの/まなざされるものという対立だ。それは観客/舞台、そして観客/映画であり、この共犯関係は最後にうち響く巨大な音によって美しく不条理な完成を果たす。

もしかすると、この作品を完全に読み解くためにはオレステスの逸話を知っていること、舞台の素養、そして現代ギリシャ史についての知識が必要だろう。だがそれらを排してただ一点“不条理であるということ”その一点だけですらこの"Interruption"は輝きを放つ。そして"Interruption"を以て、ギリシャ神話すら取り込んだグリーク・ウィアード・ウェーヴは新しいフェイズへと移行を遂げたのである[A-]


籠の中の乙女」でお馴染み、ギリシャで家父長制を担わせたら右に出る者なしのこの方も、舞台上でまごまごする舞台俳優役として出演

参考文献
https://boxoffice.festivalscope.com/film/interruption(紹介ページ)
http://casusbellifilm.com/
http://outofframefilm.com/(短編2作の公式サイト)

私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
その13 ヴェロニカ・フランツ&"Ich Ser Ich Ser"/オーストリアの新たなる戦慄
その14 Riley Stearns &"Faults"/ Let's 脱洗脳!
その15 クリス・スワンバーグ&"Unexpected"/そして2人は母になる
その16 Gillian Robespierre &"Obvious Child"/中絶について肩の力を抜いて考えてみる
その17 Marco Martins& "Alice"/彼女に取り残された世界で
その18 Ramon Zürcher&"Das merkwürdige Kätzchen"/映画の未来は奇妙な子猫と共に
その19 Noah Buchel&”Glass Chin”/米インディー界、孤高の禅僧
その20 ナナ・エクチミシヴィリ&「花咲くころ」/ジョージア、友情を引き裂くもの
その21 アンドレア・シュタカ&"Cure: The Life of Another"/わたしがあなたに、あなたをわたしに
その22 David Wnendt&"Feuchtgebiete"/アナルの痛みは青春の痛み
その23 Nikki Braendlin &"As high as the sky"/完璧な人間なんていないのだから
その24 Lisa Aschan &"Apflickorna"/彼女たちにあらかじめ定められた闘争
その25 ディートリッヒ・ブルッゲマン&「十字架の道行き」/とあるキリスト教徒の肖像
その26 ハンナ・フィデル&「女教師」/愛が彼女を追い詰める
その27 ハンナ・フィデル&"6 Years"/この6年間いったい何だったの?
その28 セルハット・カラアスラン&"Bisqilet""Musa"/トルコ、それでも人生は続く
その29 サラ=ヴァイオレット・ブリス&"Fort Tilden"/ぶらりクズ女子2人旅、思えば遠くへ来たもので
その30 Damian Marcano &"God Loves the Fighter"/トリニダード・トバゴ、神は闘う者を愛し給う
その31 Kacie Anning &"Fragments of Friday"Season 1/酒と女子と女子とオボロロロロロオロロロ……
その32 Roni Ezra &"9. April"/あの日、戦争が始まって
その33 Elisa Miller &"Ver llover""Roma"/彼女たちに幸福の訪れんことを
その34 Julianne Côté &"Tu Dors Nicole"/私の人生なんでこんなんなってんだろ……

ヴェネチア国際映画祭特別編
その1 ガブリエル・マスカロ&"Boi Neon"/ブラジルの牛飼いはミシンの夢を見る
その2 クバ・チュカイ&"Baby Bump"/思春期はポップでキュートな地獄絵図♪♪♪
その3 レナート・デ・マリア&"Italian Gangsters"/映画史と犯罪史、奇妙な共犯関係
その4 アナ・ローズ・ホルマー&"The Fits"/世界に、私に、何かが起こり始めている
その5 アルベルト・カヴィリア&"Pecore in Erba"/おお偉大なる排外主義者よ、貴方にこの映画を捧げます……
その6 ヴァヒド・ジャリルヴァンド&"Wednesday, May 9"/現代イランを望む小さな窓
その7 メルザック・アルアシュ&"Madame Courage"/アルジェリア、貧困は容赦なく奪い取る
その8 ペマ・ツェテン&"Tharlo"/チベット、時代に取り残される者たち

ペマ・ツェテン&「タルロ」/チベット、時代に取り残される者たち

シルヴァーノ・アゴスティ、エトガル・ケレット、マイケル・クライトン西川美和ジョン・セイルズミランダ・ジュライ……ここに挙げた人々の共通点は何か、それは“映画監督でかつ小説家でもある”ってことだ。さてヴェネチア国際映画祭特別編その8、今回紹介するのはチベットの小説家であり映画監督でもあるペマ・ツェテンと彼のオリゾンティ部門出品作"Tharlo"だ。 ……とまずこの前文を書いてから調べてみると、ペマ・ツェテン監督、その映画のほぼ全てが映画祭で公開されており、しかも「 ティメー・クンデンを探して」という短編集が日本でも翻訳されていた。なのでネットを探せば彼のプロフィールは幾らでも転がっているという訳である。もう既に日本語で紹介されている事柄について、私がこのブログに書くことくらい不毛なことは(私にとって)ないので、紹介は飛ばして、早速レビューの方、行ってみよう!

羊飼いのタルロ(Shide Nyima)はチベットの山間で何百匹もの羊を育てながら、独りで暮らしていた。ある日彼は警察に呼ばれたかと思うと、署長から、君はIDカードをもらっていないな?とそう聞かれる。タルロにはIDカードが何なのか、IDカードを何故持つべきなのか分からないが、とりあえず必要は必要らしい。ということで彼はIDカードに付ける写真を撮るため、可愛い子羊を連れて久しぶりに町へと出掛ける。

冒頭、署内のシーンから顕著なのだがペマ・ツェテン監督は長回しがものすごい好きだ、しかも使い方が頗る上手い。カメラは固定、レンズは壁に平行、カット割りは禁欲的に、ゆったりと流れる時間を――長い時は10分ずっと!――そのまま撮しとることで、様々にタルロの人生の移り変わりを描き出す。

序盤、タルロの道中はとてもゆるゆるで可笑しみに満ちている。写真館に行ってみると、夫婦が記念写真を撮っていて順番待ちをする羽目になる。背景の何だか安っぽい幕は天安門になったり、ニューヨークになったり、そんな幕の前で真剣な顔する夫婦の姿はどこか笑えてしまう。やっと自分の番になったらカメラマンにその頭ボサボサすぎといちゃもんを付けられ、向かいの床屋で頭を洗い、頭を洗ってくれた店員(Yangshik Tso)と仲良くなり、写真屋に戻ったらまた順番待ちをする羽目になり……何故だか目的を果たせないでタルロがふらふらする様は、ゆるゆるなユーモアに溢れたカフカみたいで、頬が緩むのを押さえきれなくなる。

だけどもホント何故だか仲良くなった床屋の店員な女性とカラオケに行くあたりからちょっとずつ何かが変わっていく。小さい頃から羊飼いとして孤独な生活を送っていた彼は、女性との接し方が分からず個室でどぎまぎしたりする。自由な彼女はそれを分かってタルロをおちょくったり、音痴な声でラブソングを歌ったり。監督はその光景を優しいまなざしで見つめながら、だけど何だろう、心が締め付けられるような、そんな。そして舞台はいつの間に彼女の部屋の中、そこで2人の抱えていた孤独が徐々にあらわになり、何でこんなに切なさを感じるのかが分かってくる。「こんなところ、もういたくない、だから私と一緒に」「……もう、行かなくちゃいけないんだ」2人は立ち上がるがカメラは動かない、彼らの顔はフレーム外に見切れてしまうが、そこでこそ溢れる思いがある、監督はそれをスクリーンに滲み渡らせる。

家に戻ったタルロを待つのは変わることのない羊飼いとしての生活だ。人里離れた岩深き山間、鳴きわめく羊たちをなだめ導く様は、大自然の雄々しさをそのまま切り取った崇高な絵画のようだ。ゆるやかさを伴っていたツェテン監督の眼差しはここで険しさを帯び始め、家で酒を呑みながらラジオを聞くタルロの孤独は皮膚を突き刺すような痛みすら感じられる。そしてある痛ましい事件が起きてしまった時、タルロは1つの決意をする。ここから序盤からは想像できないほど悲壮に、物語は綴られてゆくこととなる。

ツェテン監督はこう語る。“塔洛の経験は、中国西部に住む多くの若者の現状を反映している。彼らは、体験したことのない現代文明に魅力を感じるものの、どうしたらいいか分からない。また、未知の生活を求めるものの、元の状態や伝統文化に対する思いを心にしまっておくことはできず、自分を見失ってしまう若者もいる”*1

"Tharlo"はチベットで時代が移り行く最中、過去に取り残されようとしている人々の寂しさを丁寧にすくいとる。ペマ・ツェテン監督のことはかぶんにして知らなかったが、世界の映画を観てきて、今のトレンドはどの時代にも増してシャンタル・アケルマン監督の「ジャンヌ・ディエルマン」に代表されるPlanimetric Shotをいかに使いこなせるかだと思っていて、それを使いこなす監督の中でもトップレベルの熟練度だと思った。世界を箱庭的に描くためにも、敢えて大自然の広がりを際立たせるためにもどうこのショットを使えばいいか完全に熟知している印象を受けた。 ツェテン監督は世界の最先端を行く本当に素晴らしい監督だと思う、今後の活躍に期待[A]


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