鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

語ることこそ生きていくこと「In the House」

「サマードレス」「ホームドラマ」「まぼろし」「8人の女たち」「スイミングプール」「ぼくを葬る」「エンジェル」「ムースの隠遁」「しあわせの雨傘」……フランソワ・オゾン監督のフィルモグラフィを振り返ってみれば、その高水準な作品群に驚くと共に、普通に生きる人々のそこはかとない歪み、辛辣な愛、そしてそんな人々への暖かくとも意地悪い描写の数々、ジャンルに幅はあれども通底するフランソワ・オゾンという作家性があることに気付く。そしてオゾン2年振りの新作「イン・ザ・ハウス」にも、オゾン作品としての魅力は十分に備わっている。しかし鑑賞した人々は少し驚くかもしれない、今までのオゾン作品には余り見られなかった物語の複層が見られるからだ。“語り”と“騙り”突き詰めてみれば途方もない複雑さを内包する異質さを持ち合わせているのだ。

かつて作家を志していたジェルマンは、今は高校で国語の教師をしていた。凡庸な生徒たちの作文の採点に辟易していたとき、才気あふれるクロードの文章に心をつかまれる。それは、あるクラスメイトとその家族を皮肉な視点で綴ったものだが、羨望とも嫉妬ともつかない感情に満ちた文章に、ジェルマンは危険を感じ取りながらも文章の才能に魅せられ、クロードに小説の書き方を手ほどきしていく。やがて才能を開花させたクロードの書く文章は、次第にエスカレートして行き・・・。若き作家と教師の個人授業は、いつしか息詰まる心理戦に変わっていく。――フランス映画祭サイトより引用

クロード(エルンスト・ウンハウアー)の語る物語、皮肉と羨望の入り混じる大人びた言葉の数々。ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)とその妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)は、その物語に才能の片鱗を見出す。だからこそジェルマンはクロードの才能を磨くため、個人授業の場を設けて、その物語に対して積極的に介入していく。

“人生には物語が不可欠だ。物語が無ければ人生は無でしかない”

ジェルマンはそう語る。人生という器に物語が充たされてこそ、生きる事に意味が生まれるのだと。だがつまりそれは器が存在しなければ物語とは地に零れてゆくのみで、物語とは人生に意味を与える役割を持つことでこそ、初めて意味を持つということだ。物語は人生の一部でしかない、零れた物語を這いつくばって啜ろうとする者はいないのだ。
だがその言葉を聞くクロード、ジェルマンと彼との断絶はそこにある。
クロードにとって、語ることこそが即ち生きることだ。劇中における“数学のテスト”の下りにおいてそれが描かれる。まず語ることが決定していてそれを彼は生きていく、そうやって彼は語らなければ生きて行けない、いやそれは渇望ではなく意志、語らなければ生きて行きていく必要がない。語る事の生きる事に対する確固たる優越が、クロードの中には存在している。
両者とも語る事と生きる事は不可分なのだという認識は一致している。だがその本質は全く異なっている。
生きているからこそ語る必要がある、語るためにこそ生きる必要がある。
この本質の乖離こそが、彼らを衝突させ、そして静謐と壮絶なる心理戦の引鉄を引くのだ。

“主人公は幾つもの障害を越えて、目的を達成する”
ジェルマンの教示する語りの指向性、クロードはその教えを貪欲に吸収し、語りの練度を増していく。それによってその物語こそがジェルマンの現実に介入し始める。ジェルマンの現実がクロードの物語に惹きつけられ、最初は全くの無意識的に――それは妻であるジャンヌの経営するギャラリーに顔を出す――そして段々とその影響が感じられるほどに強く強く、現実は姿を変容させられていく。
そしてとうとうジェルマンの、現実と物語への認識が決定的にズラされる一瞬がスクリーンに現れる。背筋に走る寒慄、ジェルマンの当惑はそのまま観客にとっての当惑と成り代わり、しかし最後には弛緩した笑いへと収束していくのだ。なんて恐ろしく“語り”と“騙り”の表裏一体、だからこそ容易く成されるえげつない変転が描写されるのだろう!“語り”はいつでも“騙り”たりえると、“騙り”はまた“語り”へとなりえる。
“結末は驚くべきものでありながら、且つそれしか有りえないのだと思わせる物でなくてはいけない”
その教えへと、クロードの語りは収斂していく、全ての行く末は是非ともスクリーン確認して欲しい。

そして今回特筆すべきは何と言えども、クロード役を演じたエルンスト・ウンハウアーの凄絶な美しさだろう。
皚々たる白皙、青い瞳に纏う翳、そして薄氷に走る裂罅のような、皮肉的微笑はその妖しさで私たちを魅了する。ファブリス・ルキーニクリスティン・スコット・トーマスエマニュエル・セニエという錚々たる大物俳優の中でも全く遜色ない演技とその魅力、私には「ベニスに死す」ビョルン・アンドレセンの再来かと思えてならなかった!

頭の中にたゆたうイメージ、それを一つの物語として生み出そうとした人は解るかもしれない、その難しさは元より、その創造の危うさが。“語る”ということにはそれ自体現実を変質させる力を持って居る。この「イン・ザ・ハウス」の複層的構造の源はそれだ。一つの事実も、違う角度から見れば幾百の語りが存在することに気付く。そしてこれは二つの物語の戦いだ。生きているからこそ語る者と語るからこそ生きていく者の、熾烈なる闘争だ。そんな闘いの物語は、私たちを現実と虚構の狭間に誘ってくれる。


現代アートの耐えがたいほどの意味不明さについて





てゆうか私、フランス映画祭セレモニーで、ラファエル・ペルソナーズに手ぇ振ってもらっちゃったんですけど!!!!アレ、絶対に私にてぇ振ってたし、絶対目もあってたしキャーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!