鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

取り残された肉体「薄氷の殺人」

 

 薄氷の殺人において、ウー・ジージェン(グイ・ルンメイ)はほぼ徹底して肉体だけの存在としてスクリーンに映し出される。仮面を纏ったような無表情の皮膚が精神の欠如を囁くならば、体のラインがくっきりと浮かぶ、わざとらしいセーターという装いによって肉体の“官能性”が饒舌に語られる。しかしその“官能性”は彼女自身に宿る物ではない。ではどこに“官能性”は兆すのか。それはスクリーンに代わる代わる現れる男たちの、そして観客の眼差しにである。

 過去に結婚していた男に先立たれ、彼女は“未亡人”という記号をまず以て男を惹きつける。彼女が務めるクリーニング屋の店主は露骨なまでにウーを性的対象として見据え、セーターを着た彼女の体をまさぐるというセクハラ行為をも辞さない。その行為が主人公の登場によって中断されると、彼はウーと同じ格好をさせた娼婦の肉体に絡みつくというプレイまで行う。そして主人公ジャン(リャオ・ファン)がウーを見る視線にも、様々な感情が混ざり合いながらも“官能性”は確かに存在している。ジャンの女性観は、冒頭に位置する元妻とのシークエンス、そして工場内で男から囃し立てられるまま女性工員にキスを迫る、酷く不愉快な長回しから、余り良くはない物だと伺い知れる。彼は5年前の未解決事件と現在進行形の殺人事件を繋ぐ重要参考人として、彼女に近づく。そして事件が深まるにつれて同情、憐憫にも似た(一方的な)愛が育まれていく。胃液色のネオンが雪を照らすスケート場、ジャンはウーを追いかけ、追いかけてゆき、最後には倒れた彼女に対し口づけを強要する。そして真相が明かされる観覧車の中、ジャンとウーはセックスを遂げることとなる。ここで注目したいのが、先述した店主のセクハラをも含め、ウーは本気で抵抗しようとはしない点である。男たちの欲望のままに成される性の暴力をウーは殆ど諦念を以て受け入れる、ウーとの性交は紛れもなくレイプなのである。

 彼女に主体性=精神はない、彼女は性的欲望を投影される客体としてしかスクリーンに在ることが出来ないのだ。それは何故か、という問いは第3の男へと繋がってゆく。主人公の最初の夫であるリアンが実は生きていて、彼女を監視し続けていたことが終盤で明らかになる。ウーと親密になった男を殺害していたのは彼だったのだ。この監視者の眼差しと薄氷に刻まれた2つの死は、ウーを否応なく“ファム・ファタール”という存在に仕立てあげてしまう。“ファム・ファタール”男たちによって作り出された女性への崇拝と嫌悪入り混じる性の記号、その記号が彼女を支配した時、そこに精神の在る余地はない。男たちによって身勝手にも“官能性”を見出される肉体だけの存在として生きざるを得ない、ウーにかけられた呪縛。第3の男が消え、白昼の花火を目の当たりにした彼女は救われただろうか。確かに彼女に魅入られた側にあるジャンは、あの滑稽でありながら痛切でもあるダンスによって救われたかもしれない。だが彼女の皮膚に、寒さに突き刺され浮かんだのだろう赤色以外、何か現れただろうか。何もない。唐突な終幕、そして主人公が禊に使った場違いなポップソングが流れる中で映画は幕を閉じる。“ファム・ファタール”に魅入られた男の、彼岸からの帰還、独りよがりの救済しかそこにはない。そして観客は“ファム・ファタール”としての彼女の悲痛な運命を目撃したのち、スクリーンを去る。彼女は呪いに縛られたまま、そんな眼差しの中で生きていくしかないのだろう。

 もし肉体を離れ精神だけが彷徨う者のことを亡霊と呼ぶならば、精神を奪われて肉体だけが取り残された彼女のことを私たちは何と呼べばいいのだろうか。