鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

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父だとか母だとか、夫だとか妻だとか「フレンチアルプスで起きたこと」(途中からネタバレ)

雪山を見渡せるテラス、そこで食事を楽しむ人々。しかし突然の爆音。周りを少し見渡すも、人々はすぐに食事を再開する。「おい雪崩だぞ!」声が響く。確かに、雪山から雪崩。携帯を持ち撮影する人々。だが様子がおかしいと気付き始める。「大丈夫、本当に大丈夫なの?」女性が夫らしき男性に問いかける。「大丈夫だよ、全然」男性は妻と、傍らの子供たちに言い、撮影を続ける。雪崩の勢いは強くなっていく、強くなっていく、強くなっていく、雪崩がゲレンデを襲う。女性は子供をかばう、男性は携帯を持って全力で逃げだす。白い世界、白い世界、白い世界……椅子に座る女性と子供たち、そこに何事もなかったかのように男性が戻ってきて3人に言う。「ヤバかったよな、今の雪崩」

スウェーデンの新鋭リューベン・オストルンド監督最新作「フレンチアルプスで起きたこと」は社会によって無意識のうちに内面化させられる“性差に基づいた期待”という物が一つの家族が崩壊させていく様を映し出す悲喜劇だ。序盤、中盤と素晴らしい展開が続きながら、だからこそ、なぜ終盤でそうなってしまう?と疑問が湧いてしまうような出来になってしまっているのが余りにも惜しい。

フランスのリゾート地へと、とあるスウェーデン人一家がスキーバカンスにやってくる。夫トマス(ヨハネス・バー・クンケ)、妻エバ(リサ・ロブン・コングスリ)、2人の子供たちで姉のヴェラと弟のハリー(クララ&ヴィンセント・ヴェッテルグレン)、絵に描いたような幸せな家族だ。旅行1日目、一家は思う存分スキーを楽しみ、エバはその途中で撮った家族写真に顔を綻ばせる。しかしバカンス2日目、山際のテラスで昼食をとっている最中、雪崩に襲われてしまう。幸い雪崩は直前で止まったのだが、家族を置き去りにして自分だけ逃げ出したトマスのその行動が、予想外の波紋を起こしてしまう。

夫なのだから妻なのだから、父なのだから母なのだから、しかし何よりも男なのだから女なのだから……神が人間を余りにも雑すぎる形で分けてしまったことへの呪詛、この映画から感じる声はそういう類いの物だ。この世に生まれたのなら、誰であれ一度は経験したはずだ“父親なのに”“母親なんだから”“男なんだから泣くな”“女なのに料理も出来ないの”と性別や性別で規定された役割を持ち出されて苦しめられたこと、そして誰かを苦しめたことが。

エバはトマスに抱いていた夫・父親という期待を裏切られてしまったことで、彼に不信感を抱くようになる。それが悲喜劇の始まりだ。トマスはそんな彼女に対して、なぜそんなことそもそも期待していたんだ、とは言えない。彼自身も心のどこかで、夫・父親という役割を果たせなかったことを恥じているからだ。そしてエバも、シャーロット(Karin Myrenberg)という旅行客と出会うことで妻・母親という役割に自分は縛られているのではと思うことになる。それでいて両者の溝は埋まっていかない。2人は雪崩の顛末について、それぞれの視点から語り直していってしまう。主観は相容れることがない、絶対に。そして周りの人間すら巻き込みながら、更に溝は深まっていく。

そんなトマスたちの様子を、オストルンド監督は撮影監督フレデリック・ウェンツェルと共に、前作「プレイ」でも見られた固定カメラ&長回しという技法を用いながら“観察”し続ける。傍観者だからこそ描ける物があるという監督の意地の悪い信念が、全くもって十二分に機能しているのだ。そして音楽はある一曲を除き、彼らの聞く音・曲のみが用いられている。雪山の爆発音、ハッピーバースデーの大合唱、掃除機が立てる騒音、不快な音ばかりが映画に現れては消えていき、家族の間に流れる不穏さとあいまって、観客は何となく嫌な心地にさせられる。しかしそれと対照的なほど、わざとらしく仰々しく流れるヴィヴァルディの「夏」の響きが、この作品を極上の悲喜劇にすら仕立てあげるのだ。

男らしさ女らしさという物は存在しない。そもそも男性・女性という性別それ自体、こうしておけば社会が個人を御しやすいという目論見の上に成り立っている概念、つまり虚構でしかないのだ。そんな虚構に信じる必要はない、苦しむ必要はない……と御託を並べたって、人間生きてれば男らしさ女らしさって虚構に囚われて苦しんでしまう物なんだよ……という悲しみを「フレンチアルプスで起きたこと」は描き出す。そして叫ぶのだ、こんな社会のバカヤロオォーーーーーーーーッ!!!と。


それが最後まで続けば良かったのだ。本当に、本当に、終盤でつまりお前もそっち側だったんだなと、そんな展開にならなければベスト候補になり得たかもしれない。だがダメだ。だから今まで色々賛辞を連ねてはきたが結論を言おう、この映画は、駄作だ。

ということでレビューは終わりだが、どうしても終盤について語りたいので、書く。この写真の下から先は完全にネタバレなので、注意。


この下りは良かったんだよ、この下りは……

まず序盤・中盤でも少し思っていたのだが、夫側に肩入れしすぎでは?というのがあった。男とか辛いわ、夫だとか父親だとかそういう役割押し付けられてマジ辛いわ、と夫側の被害者意識に寄り添いすぎている感触。一応表面上は、社会が押し付ける男性・女性という苦しみ、家父長制への静かな抗議が読み取れるは読み取れた。それに加え、あのトマスが大号泣する下り、ぶつぶつ不平を言う→雪山に向かって叫ぶとキチンと段階を踏んだ上で描かれるあのシーンは、“男なんだから泣くな”という言葉が頭に浮かんできたりして、私も泣きそうになった。少なくともあの姿を笑うことは出来なかった。そういうのもあって、片目をつぶって物語を楽しんでいた。

だが終盤だ、本当に何だったんだあの終盤。こう終盤には二つ大きな展開があったと思う。まず1つがスキー中にエバが道に迷い、それをトマスが救うというもの。そしてもう1つが運転が危険すぎるバスから降りて皆で歩いていくというもの。

前者はトマスの誇りが復権するシーンとして描かれる。だがあのシーン、今までは正直アレだったよ、だがお前の夫として、お前たちの父親として格好いい俺を見てくれ!という感じ、号泣の下りで夫とか父親とかじゃなく人間としての俺を見てくれ……と色々な呪縛から逃れたはずが、もう速攻で以前の呪縛に自分から戻ってるじゃねーか感が否めなかった。エバの存在がダシに使われていたというか、そもそも天候悪いのに危険なコースを家族巻き込んで滑ろうとしたテメーが悪いんじゃねーかとそう思った。家父長制再生産みたいな印象だった。だがここで終わらせたとしたら、呪縛から逃れたと思ったらむしろ強くなってました、今までの全然意味ありませんでした、チャンチャンという、110分の壮大な皮肉として好きになれていたかもしれない。

だがバスのシーンで決定的にこの映画と決裂してしまった。あそこでエバがモンスター・クレイマー的に描かれるのが納得いかない。あれで降りた後、バス降りたは良いけど、これからどうするんだよ……と暗にエバを非難するような雰囲気が何か嫌だった。だからと言って、また携帯を持って撮影している人々の前でバスが事故って落っこちるとかそういうのでもアレだ。だってあのバス、シャーロット乗ってるんだから!彼女の自由な価値観が私は一番好きで、もし殺しなんかしたら「複製された男」で終盤事故ってあのキャラが死ぬ展開くらいには許せなかったと思う。

で、最後に皆で歩いていく。そこでエバは子供のこと心配して後ろの方をウロチョロしている一方、トマスは今まで吸ってなかったタバコを吸って、晴れやかな顔で前を進んでいく、終わり…………は???だった。なーに1人で晴れやかな笑顔浮かべてんだ、男としての威厳を回復して、やったぜ!ってことか、は??冗談でしょ、というかこの終わりが“新たな絆を結”んだっていうことなの、は????冗談だろ!!!家族4人が晴れやかな顔で歩いてるならまだしも、トマス1人だけが晴れやかなだけだろ、結局お前何も分かってなかったんじゃねーか!!!……そんな感じで馬鹿にされた感じで、劇場を出た。

良いように考えていたが、もう擁護できない、これは完全に夫側に寄り添いすぎてると確信した。「ゴーン・ガール」の映画版(原作は未読)と同じだった、こういうのは両方にフラットな描き方じゃないといけないはずなのに、そうなっちゃいない。そんな中で、あまつさえ「フレンチアルプスで起きたこと」は女コワ〜い映画だ、とか言ってる人を見て、またはあ???となった。そこで思ったのはある人々にとっては「ゴーン・ガール」や「フレンチアルプスで起きたこと」は、高みから“男ってツレ〜女ってコエ〜(笑)”って言ってニヤニヤするための映画なんだと。そういうのを思って嫌になり、あとオストルンド監督は結局家父長制に与する奴じゃねーかと思い、正直、何か、ああ、はい……ってなった。はい、もう終わり、終わりです、「フレンチアルプスで起きたこと」についての話は終わり、はい帰って、もうみんな帰って、ほら……ほら!!!!!