鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

はてなダイアリーのサービスが終了ということで、はてなブログで鉄腸野郎Z-SQUAD!改め鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!へ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。

愛の迷宮「青の寝室」

「さすらいの女神たち」が日本でも公開されたことで、俳優マチュー・アマルリックが映画監督としても活躍しているのを知った方は多いだろう。しかし実はアマルリック、この時点で長編4作目とキャリアは長い(短編・TV映画を入れると本数は15本以上にものぼる)。そんなアマルリック「さすらいの女神たち」以来4年ぶりに手掛けた監督5作目「青の寝室」は、ジョルジュ・シムノンの小説を映画化した作品であり、おそらく今まで1番規模の小さい作品ではないだろうか。しかしそれはクオリティが前作に劣ることを意味しない、「青の寝室」はむしろアマルリックの監督としての才覚が研ぎ澄まされた珠玉のサスペンス映画なのだ。

とあるホテルの中、古びてはいるが風格を漂わす調度品が映っては消え、映っては消えて……耳に届きはじめるのは何者かの喘ぎ声だ、カメラはとある一室のドアを映し出す、中には誰もいない、部屋に残っているのは乱れた白いシーツ、そこに親密な睦み言がかぶさってくる、そして一滴、シーツの上に赤い血の滴が落ちる。次に現れるのは官能の噎せ返るような香りなど一切感じさせない密室。一人の男ジュリアン(マチュー・アマルリック)が刑事から尋問を受けている。彼女との会話について、彼女が自分を何度噛んだかについて、彼女――エステル(ステファニー・クリュアマルリックのパートナーで共同脚本)との情事の最中、窓からエステルの夫ニコラを見てしまった瞬間の動揺について。 そして徐々に明らかになっていくのはそのニコラが突然死したという事実、疑いをかけられたジュリアンは促されるがまま情事の道行きを語っていく……

この官能的な軽やかさを映画として成り立たせるために、どれだけの時間を費やしたのだろう!と思わされる、それほどに「青い寝室」の構成は巧みだ。エステルとの再会から情事へと転げ落ちていく様、その一方で妻デルフィーヌ(「全てを失う前に」レア・ドリュッケール)や娘スザンヌ(モナ・ジャファール)との生活、その幸福の表面下ではグロテスクな不信感が育ち始めている。そして大きな空白があり、ジュリアンはビクつきながら刑事と、弁護士と、精神科医と対話を余儀なくされる状況。情事をめぐる過去と事件をめぐる現在、2つの不穏さが糾われていき、謎がフッと明かされたかと思えばまた新たな謎が現れる、その繰り返しだ。

描かれるテーマはブライアン・デ・パルマの映画群を思わすものだが、デ・パルマが嬉々として過剰な演出を施していくのに対し、アマルリックはほとんど対照的な禁欲さを以てサスペンスを生み出していく。撮影監督クリストフ・ボーカルヌ(ミスター・ノーバディ)はカメラをほとんど動かすことなく、尋問を受けるジュリアンの後頭部、エステルが勤める薬局の看板、ジュリアンが住む邸宅のモダンな佇まい、クロース、ミディアム、ロングと様々な距離から風景を映しだされ、その奥行きのコントラストが物語に静かな劇的さを添える。そしてショットが繋ぎ合わされる早さ、ここで言う“早さ”とはマイケル・ベイトランスフォーマーなどに見られる明滅にも似た編集ではなく、サスペンスが私たちを宙吊りにする時の首が絞まっていくあの“早さ”だ。遅すぎればサスペンスもクソもなく、早すぎれば快楽を感じる前に映画への興味が死ぬ、そんな中で「青の寝室」は丁度良さの3歩先を行く無謀さを持ちながら、ランタイム75分という短さ、そして勿論アマルリックの優れたディレクションがその無謀さを魅力へと変貌させてみせる。

愛の底知れなさ、映画が描こうとするテーマはそれだ。いくら言葉を連ねようともむしろ核心からは遠ざかるだろうこのテーマを、監督は簡潔さと軽妙さで描き出そうとする。だからこそその鋭い刃は愛の深部を抉りだす。そんな監督としてのマチュー・アマルリックの新作が待ちきれなくなるだろう新境地がこの「青の寝室」だ。[B+]