鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

凍てつくほどの、愛の地獄へと「ベルヴィル・トーキョー」

「話さなきゃいけないことがある」「……一体なに?」「もう黙っているのは無理だって分かった。俺、実は……浮気してるんだ……」駅のホームで繰り広げられるのはメロドラマ的な会話の数々、カメラが撮すのはそんな2人の横顔。会話が湿り気を増していく頃、轟音を立てて列車がやってくる。“ラ・シオタ駅への列車の到着”――列車と愛し合う2人、いや愛し合っていた2人がそこにあれば映画は成立するのだという確固たる信念、だが映画史の記憶とメロドラマの交わりが生み出すのは奇妙な笑い。

エリーズ・ジラール監督の長編デビュー作「ベルヴィル・トーキョー」は見るも無惨な愛の風景を、そこはかとない可笑しみと共に描き出す。そこには監督が愛した映画の記憶が、監督が生きた過去の記憶が織り込まれ、物語に思いもかけない深みと痛みを宿していく。

映画館に勤めるマリー(「待つ女」ヴァレリー・ドンゼッリ)は映画評論家の夫ジュリアン(「彼女は愛を我慢できない」ジェレミー・エロカイム、ドンゼッリとは実生活でもパートナー“だった”のはご承知の通りだ)に浮気を告白され、別れることになってしまう。しかし彼女は夫の子を妊娠していた。日に何度もジュリアンに電話をかけ寂しさを訴えるのだが、そんなマリーにジュリアンは冷たく当たる。「今すぐここに連れてこい、痛い目見せてやるから!」ジョン・ヒューストンデボラ・カーの名が飛び交う映画館の同僚ジャン・ジャック(「ザ・パック 餌になる女」フィリップ・ナオン)たちはそう言ってくれるが、少しの慰めにもならないまま、マリーは独り不安な日々を過ごす。だが1ヶ月ほど経った頃、今度は逆にジュリアンの方が彼女にすがり付いてくるようになる。「君をまた愛するって、そう約束するから」そんな言葉にほだされ、マリーたちは2人の生活をまた始めるのだったが……

マリーの置かれた状況は悲惨だ。妊娠したと思ったら夫に捨てられ、一人で生きようとそんな決意が生まれようとしていた頃に、復縁を迫られて元の鞘に収まる。しかしそこで物語が大団円を迎えるはずがない、ジュリアンは彼女への愛を囁きながら、何か、自分にまだ隠しているような素振りを見せる。マリーもそれにつられ仕事ではミスを犯し、心の不安定さも酷さを増していく。展開していくごとに悲惨さも募りながら、その光景にはやはり可笑しみが付きまとうのは何故だろう。DPレナート・ベルタ(ジャン=リュック・ゴダール監督諸作、「肉体と財産」「不倫の公式」)の端正な撮影はそのままジラール監督の過去への眼差しと重なる。しかし追憶を眼差す時には誰もが抱きがちな感傷は完全に排され、冷たさも熱さも介在することはないニュートラルな距離感がそこにはある。これが痛々しい悲惨さを、他人事と共感の間にしか存在し得ない唯一無二の可笑しみへと変えていくからだ。

しかしジラール監督はそこで踏みとどまることはない、積み上げてきたものを全てひっくり返し、愛の真実へと踏み込んでいく。ルキノ・ヴィスコンティの悪趣味な引用と「ベルヴィル・トーキョー」というタイトルの意味が明かされる事件以降、加速度的に浮き彫りとなっていくのはエロカイム演じるジュリアンの醜悪な人間性だ。監督は躊躇うことなくその不快な本性をスクリーンに刻みつけ、物語の牽引力としていく。そしてマリーが行き着くのは凍えるほどに辛辣な愛の地獄だ。ここまで来てしまったなら、もう距離感も可笑しみも劇的に消え去ってしまう、映し出されるのは感情と感情の激突、私たちはその衝撃を心臓にとことん喰らい続ける、さっき抱いた可笑しみとは一体なんだった、これこそが真実なのか……その果てに残るのは愛の残骸だけだ。

「ベルヴィル・トーキョー」は1つの終りへと至る道筋を徹底的に描いていく。ラストカットに人々が何を見るのであれ、冷たい痛みから逃れることは誰にも出来ない。[A-]

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