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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

「籠の中の乙女」あるいは"ギリシャの奇妙なる波"について

2009年のカンヌ国際映画祭、ある視点部門で上映された1本のギリシャ映画が批評家たちを賛否両論の激しき渦へと巻き込むこととなる。テオ・アンゲロプロスジョルジ・スカレナキスなどギリシャにおける過去の巨匠たちとは全く違う、いやギリシャどころか世界を見渡せどもこんな映画は存在しなかったと、そんな評価を受けることとなった作品こそが籠の中の乙女だった。今作によってテン年代で最も重要なムーブメント"ギリシャの奇妙なる波"(Greek Weird Wave)は幕を開けるのだが、日本でこの潮流はほとんど受容されることなく今に至ってしまった現状がある。ということでここでは、日本でも唯一劇場公開されたヨルゴス・ランティモス監督作「籠の中の乙女」を例にとり"ギリシャの奇妙なる波"とは一体どのようなムーブメントであるかを解説していこう。

観てない方のために簡単なあらすじを書くと、ギリシャの郊外に建てられた1軒の邸宅、そこに父と母、長男・長女・次女のきょうだい3人が住んでいた。だが家族には秘密がある、子供たちを外の危険な世界から守るという理由から両親は彼女たちを家の中だけで育てていたのだ。きょうだいは両親が決めた"奇妙なルール"に従い生活していたが、好奇心が芽生えると共に外へ出たいという気持ちを抑えられなくなっていく。

まずこの波を特徴付けるのは余りに突飛な設定にある。「籠の中の乙女」の冒頭、3人のきょうだいがテープレコーダーから何か聞いている風景が映し出される。今日習う単語は"海"と"高速道路"です、"高速道路"とは"強く吹き付けてくる風"を意味しています。言葉と意味のあからさまな解離に観客は驚くかもしれないが、何故か彼女たちは無邪気な子供のようにそれを聞き取り学びとってしまうのだ。何かおかしいと思っていると、3人は真顔で私たちにはおおよそ理解できない行動をやらかし始める。妹は絶叫しながら人形の足をハサミで切断し、姉と2人の時は"どっちが先に起きられるかゲーム"と称し薬品を吸って仲良く昏倒する。

そんな子供たちに、ある時血まみれになった父は言う、家の外には"ネコ"という人肉喰らいの化物がいるから絶対に出てはいけないぞ……一体何が起こってる?一体何が起こってるんだ?と頭には疑問符ばかりが浮かびながらたった1つ、この家の人間は私たちが住んでいるのと全く違う世界で全く違う常識を持って生きているんだ、震えと共にそれを悟る時に私たちはもう彼らの姿から目を離せなくなっている。

2つ目の特徴は、異様な身体性である。"奇妙なる波"に現れる人々は言葉にならない思いを表現するため、不気味なまでに肉体を駆動させる。「籠の中の乙女」においてその身体性が象徴された最たるシークエンスは終盤でのダンスシーンだろう。兄のギターに合わせて姉と妹が腕を奇妙に捻じ曲げ、足で奇妙にステップを踏み、もう疲れたから止めたと妹がテーブルに戻ると、姉は独りでやたらめったら動き回り、もう言葉なんか通用する筈もないほど滅茶苦茶に体を躍動させる。このマニエリズム的な肉体の歪みは奇妙すぎるが、躍動はそのまま彼女のある思いの劇的な爆発である意味では切実なトーンすら帯びる。つまりランティモス監督や波に属する作家たちは奇妙な躍動を言葉より饒舌な叫びへと変える術に長けていると言えるだろう。

そしてこの身体性は、後に作られるアティナ・レイチェル・ツァンガリ監督作"Attenberg"(この紹介記事を読んでね)とランティモス監督の次回作"Alpeis"(このレビューを読んでね)における俳優アリアーヌ・ラベの誕生によって1つの完成を見ることとなる。

第3の特徴は奇妙な状況に対する奇妙なほどの距離感だ。前作の"Kinetta"において監督は手持ちカメラを駆使しドキュメンタリー的アプローチで映画を撮影していた。それから4年の歳月を経て彼は「籠の中の乙女」で、手持ちカメラで"追い続ける"からカメラを固定し"見据える"というスタンスへ移行し、その観察眼はさらに鋭さを増すこととなる。

全編通じて描かれる吐き気を催すようなセックス、突発的な暴力、先述した奇妙すぎるダンスシーンなどの非日常的シーンに対し、監督はある程度の距離をとって淡々とその光景をレンズに焼き付けていく。彼は私たちを奇妙さに巻き込まない、私たちに奇妙さを目撃させる。この没入ではなく異化を促す距離感こそ「籠の中の乙女」がミヒャエル・ハネケ諸作に準えられる由縁だろう。ちなみにハネケ筆頭で「パラダイス三部作」ウルリッヒザイドルルルドの泉」ジェシカ・ハウスナーなどの監督・作品群を"オーストリアの新たなる戦慄"(New Austrian Chillness)と呼ぶ向きもあり、"ギリシャの奇妙なる波"との親和性はとても高い。中でもLukas Valenta Rinner監督の"Parabellum"という作品(この紹介記事を読んでね)はこの2つの潮流のハイブリッドとして話題にもなっていて、ギリシャオーストリアの動向には注目とも言える。

そして4つ目、作品がたぐいまれな寓話性を秘めていることだ。きょうだい3人を自宅に閉じ込めて支配する大いなる父の図、これはギリシャにおけるいわゆる家父長制の比喩として機能する。奇妙な行動を通じて描かれるのは親から子への、そして男性から女性への抑圧であり、この支配構造は社会に組み込まれ存続してきたが、ギリシャ財政破綻を迎え現状を維持できなくなり、家父長制が崩壊を迎える中で、最後の足掻きとして父が子供たちに対して要求する行為というのが○○なのは……

これは私自身の解釈である訳だが「籠の中の乙女」はこのような解釈だけでは終らない。ギリシャを世界として理解することも可能であるし、町山智浩氏による"この作品は映画への讃歌だ!"という解釈は聞いていてワクワクするものだ。そして深読みしようとすれば何処までも可能でもある。つまりだ、今作ひいては"ギリシャの奇妙なる波"は、観た者それぞれの心の中で意味やロジックが組み立てられ、そして初めて映画は完成するという指向が頗る強いという訳なのだ。しかしこのムーブメントはそれを越えた境地に達しているとも言える、つまり極度に先鋭化した寓話性はもはや解釈を必要としないとそんな逆説的な境地に。

最後に"奇妙なる波"の成立過程について少し。ギリシャの経済危機は映画界にも甚大なダメージを与えており、国からの資金援助に全く期待できなくなった作家たちは互いに助けあうことで映画製作の活路を見いだしている。その中でリーダー的存在が先に書いたツァンガリ監督で、彼女はアテネで自身の制作会社Haos Filmを設立、ランティモス監督の第2長編"Kinetta"から第4長編"Alpeis"の製作を担当し、更にランティモス自身は彼女の第2長編"Attenberg"でプロデューサー兼俳優として携わるなどしている。"ギリシャの奇妙なる波"の背景には、苦境においてもいかに映画を作り続けるかとこういった涙ぐましい努力があるのだ。この項は2011年Guardianに掲載されたランティモス監督の言葉でもってコラムを締めくくろう。

“これが、私たちにとって映画を作る唯一の方法なんです。ギリシャにはもう本物のプロデューサーもいなければ、公的資金もありません。何をどうすれば良いのか分からない、悪夢のような状況です。しかし残されたものもあります、映画は"愛"から作られるんです”

ここからはギリシャ映画界の注目監督たちを紹介していこう。

まずはランティモス監督と共に"ギリシャの奇妙なる波"を創始したアティナ・レイチェル・ツァンガリ Athina Rachel Tsangari。1966年4月ギリシャのアスプラ・スピティアに生まれ、18歳の時にアメリカ・テキサス州のオースティンへ移住、テキサス大学で映画を学び、1994年に"Fit"で監督としてデビュー、2000年には初長編"The Slow Business of Going"を手掛ける。

30代後半でギリシャに戻り、プロデューサーやアテネ五輪美術監督として活躍した後、2010年に第2長編"Attenberg"を手掛ける。主人公はマリナという23歳の女性、彼女は自分の肉体や生という物と上手く付き合えないでいる。友人から男性の身体やセックスについて学ぶのだが、それらへの嫌悪感を拭うことは出来ない。そして彼女の父は不治の病に冒され余命幾ばくもない、その事実すらマリナは受け入れられないでいる……今作は"奇妙なる波"の始まりに相応しい奇想に溢れると同時に、あなたの身体を通じてわたしの身体を知る、あなたの死を通じてわたしの生を知るという自己への真摯な洞察に満ちた傑作だ。ヴェネチアテッサロニキブエノスアイレスなどの映画祭で賞を獲得した後、2012年には短編"The Capsule"(予告編)を監督、ある建物に閉じ込められた7人の若い女性たち、彼女たちが訓練と発見、そして消失のサイクルを繰り返す謎めいたこのゴシックミステリーはサンダンス映画祭で好評を博した。リチャード・リンクレイターとは大学時代からの友人で彼のデビュー作"Slacker"ギリシャが舞台であったビフォア・ミッドナイトには俳優として出演している(後者は製作も担当)

Syllas Tzoumerkasも忘れてはならない気鋭の作家だ。1978年テッサロニキに生まれた彼はアテネ、オランダのユトレヒト、ニューヨークを巡り舞台や映画について学ぶ。彼の名が一躍有名となったきっかけが1999年の短編"Ta matia pou trone"、カンヌのシネフォンダシオン部門で上映され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭ではJury Prizeを獲得する。2010年には初長編"Hora Proelefsis"(予告編)、2014年には第2長編"A Blast"(予告編)を手掛ける。後者はギリシャの経済破綻を反映した作品となっていて、主人公は若くして母親となったマリア(籠の中の乙女」アンゲリキ・パプーリァ)、彼女が社会に内在する差別の構造に呑み込まれ、神経を磨り減らし、そして爆発するまでを時間軸を複雑に交錯させながら描き出すスリラーで、ロカルノサラエボサンパウロイスタンブールなど世界各地の映画祭で上映され高い評価を受けることとなった。今年は脚本を執筆した"Suntan"が公開予定だという。

そしてBabis Markridisは2012年に"L"(予告編)で長編デビュー、ランティモス監督の"Kinetta""Alpeis"にも出演していたAris Servetalisを主演に起用し、うだつのあがらない中年男性が仕事をクビになったのをきっかけに人生を見直す羽目になる様をシュールに描き出すコメディだ。

一方でGiorgos Servetasの初長編"Standing Aside, Watching"(予告編)は、故郷の町に戻ってきた主人公の苦闘を通じ、男性中心主義とそれが生み出す女性への抑圧を諷刺したドラマ作品で、シアトル国際映画祭では新人監督賞にノミネート、ギリシャ映画協会賞で助演男優賞を獲得するなど国内外で話題になる。この2人の今後の動向にも注目していくべきだろう。

"Miss Violence"が2013年にベルリン国際映画祭で男優賞・監督賞を獲得したことからAlexandros Arvanasという名前を聞いたことのある人もいるかもしれない。Arvanas監督は1977年ラリサ生まれ、アテネ芸術学校(Athens School of Fine Arts)やベルリン芸術大学で学び、2008年にデビュー長編"Without"を手掛ける。税理士の夫、専業主婦の妻、そして8歳の息子で構成されたとある核家族の姿を通じて現代に広がる致命的な相互不理解を描き出す作品で、テッサロニキ映画祭で女優賞・新人監督賞・撮影賞・編集賞の4部門を制覇、しかし国外は元よりギリシャ本国でも配給がつかないという不遇を味わうこととなる。そんな状況の中、2013年に彼は第2長編"Miss Violence"(予告編)を監督する。"Without"に引き続き今作もある家族の物語だ、11歳の娘が誕生日パーティーの最中にベランダから飛び降り自殺したのをきっかけに、家族は静かに崩壊していく。レナード・コーエンの楽曲を使った衝撃的なOPに始まり、吐き気を催すような秘密が徐々に明らかになるにつれ、家族の終りと家父長制社会の終焉がオーバーラップしていく様が鮮烈な一作だ。現在はジム・キャリー主演の実録犯罪映画"True Crimes"ポーランドで撮影中だそう。

"Miss Violence"のベルリン受賞を期として、既に"ギリシャの奇妙なる波"は賞獲りの道具となり形骸化してしまったのでは?と言われ始めているが、私は全く同意しない。何故なら新たな才能が続々と生まれ始めているからだ。

その才能の筆頭がヨルゴス・ゾイス Giorgos Zoisだ。1982年アテネ生まれ、アテネ教育大学では応用数学・物理学について、ベルリン芸術大学では映画について学んでいた。テオ・アンゲロプロスのアシスタントも務めていたという彼は2010年のデビュー作"Casus Belli"、2012年の"Titloi Telous"と2作の短編を手掛け話題となり、2015年には初長編"Interruption"(この紹介記事をどうぞ)を監督する。オレステスの神話をモチーフとしたポストモダン劇が上演されている舞台に、銃を持った7人のコロスが現れる。当惑する俳優や観客に対してリーダーらしき男が言う。私はある娘と朝まで踊り続けていたのです……この作品を一言で表すならば"不条理"、2005年に起こった実際の事件をモチーフとして、舞台の上で現実/幻想、俳優/観客、まなざす者/まなざされる者の関係性が混濁を迎える様が巧みに描き出される。ここにおいて"奇妙なる波"はギリシャ神話を取り込み更なる進化を遂げたと言えるだろう。

それと同時に波の始祖であるツァンガリ監督は5年の空白を経て第3長編"Chavalier"(予告編)を手掛ける。エーゲ海へと向かう船の上で6人の船員たちが、誰が一番"男らしい"かを競うために滑稽なゲームを繰り広げることとなる。今回彼女が矛先をを向けるのは"男らしさ"という虚構だ、社会によって都合良く仕立てあげられた虚構に踊らされる男たちを描き出すことで、ツァンガリ監督は再び私たちが内面化した固定概念を壊そうとしているのだ。上述の2作品と、ランティモス監督の第5長編"The Lobster"によって"ギリシャの奇妙なる波"は新たなるフェイズへと移行を遂げた訳である。