鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

この地獄を語り継ぐために「サウルの息子」

耳に聞こえてくるのは鳥たちの囀ずり、見えてくるのはぼんやりとした森の風景。そして何処からともなく緑の色彩から現れるのは、瞳に深き影を宿した男。「始めるぞ」との同僚の言葉に男はまた歩きだすと、ひどく唐突に世界は残酷さを帯びていく、野太い絶叫、鼓膜を切り裂く女性たちの泣き声、銃声、さらに銃声、男は事務的に群集をとある建物へと誘導する、部屋の中で服を脱がせる、裸になった人々を部屋へ誘導する、部屋の中に入れる、兵士がドアを閉める、男はドアの前で待つ、声が聞こえてくる、助けて、男はドアの前で待つ、助けてくれ、激しくドアを叩く音が聞こえる、助けてくれ、男はドアの前で待つ、誰か!助けてくれ!助けてくれ!助けて!助けてくれ!助けて!助けて!助けてくれ!助けてくれ!……男は表情一つ変えずドアの前に立っている。

2015年カンヌ国際映画祭、1つのハンガリー映画が場内に衝撃を与えた。これほどまでにホロコーストの凄惨さを、そして1人の人間の勇気と尊厳を鬼気迫るほどに描いた作品は存在したのかと人々は活気に湧いた。ネメシュ・ラースロー監督の長編デビュー作サウルの息子はその評にふさわしい、凄まじいまでに衝撃的な作品だ。

1944年、アウシュビッツハンガリー系のユダヤ人であるサウル(ルーリグ・ゲーザ)は収容所でゾンダーコマンドとして働いていた。ゾンダーコマンドとは自分たちと同じユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊だ、しかしいつか自分もナチスに抹殺されることは分かっている、そんな恐怖と戦いながらサウルたちは来る日も来る日も死体を処理し続ける。ある日、彼はガス室の中でかろうじて生き残った少年の姿を目撃する。彼はすぐさま殺害されてしまうが、サウルは思う、彼は私の息子ではないか?ユダヤ教では死者が復活できないことを理由に火葬が禁止されていながら、ナチスによって彼の死体は正に焼かれようとしている。そしてサウルはラビを探しだし、ユダヤ教にのっとり彼を埋葬することを決意する。

まずもってこの映画が特徴的なのはエルデーイ・マーチャーシュによる撮影にある。彼はサウルの顔を画面全体に捉え、執拗にその横顔を、その後頭部を、その表情を撮し出し、焦点もほとんど彼に当て続けている。サウルを中心に閉所恐怖症的なショットが延々と続く中、彼の肩越しにぼんやりと浮かぶのは、床にブチ撒けられた血液、同じゾンダーコマンドがズルズルと死体を引き摺る姿、ガスによって虐殺されたユダヤ人たちの死骸の山……プロダクション・デザイナーのライク・ラースローは収容所という名の地獄を徹底的に作り込む。それでいてカメラはその地獄に向くことがない、だが私たちはサウルの周りに広がる地獄絵図を圧倒的な臨場感を以て味わうこととなるだろう。情報量を究極的に削ぎ落とした撮影が細密に過ぎるディテールを背景とした時、むしろ世界は膨張する。サウルが目にする場所以外にもこの絶望に覆われた世界は存在してしまっていると、私たちは恐怖するしかなくなる。

映像以上に饒舌なのは収容所に満ちる音の数々だ。今作は鳥の囀ずりで幕を開けながらも、それ以降平穏な音が存在することはない。悲鳴と銃声、死体が焼かれ灰へと変わりゆく音、ナチ将校による高らかなる叫びは洪水の如くサウルの耳へ、私たちの耳へ襲いかかってくる。ラースロー監督とはデビュー作"With a Little Patience"からタッグを組んでいるというザーニ・タマーシュによる音の響きは世界に宿る絶望を更に深めていくのだ。

そんな地獄でサウルは息子のために奔走する。解剖室から彼の死体を勝手に持ち出し、ゾンダーコマンドの他の班にギリシャ人のラビがいると知ると、ルールを破って彼を見つけようと足掻き続ける。この光景を目の当たりにしながら、だが私たちは何か違和感を抱くかもしれない。出来事が余りにもトントン拍子に起こりすぎるのではないか、1つの目的が達成されると更に次の道が開け、そして1つの目的が達成され……これは都合が良すぎないかと。海外の批評家陣にもこのいわゆるRPG的展開が批判されているが、私はここにも理由があると考える。

この映画のレファレンスとしてエレム・クリモフ「炎628」がよく挙げられ、監督自身がインスピレーションの元として名前を挙げているが、私が真っ先に思い浮かべた作品はスティーヴ・デジャネット「ミラクル・マイル」という映画だった。冷戦真っ只中のアメリカを舞台に、偶然この国に核ミサイルが放たれたのを知った主人公が最愛の人を救うためニューヨークを奔走するという内容だが、今作と「サウルの息子」はこのRPG的物語展開が似ており、2つが宿す感触が驚くほど似通っているのだ、すなわち"悪夢"的感覚が。悪夢には脈絡がない、悪夢は全く不条理だ、点と点が予想外の繋がり方をし、不可解なほどご都合主義的に話が進んだかと思うと、唐突に全てが崩れ去る。サウルの息子「ミラクル・マイル」と共に悪夢という概念の真理を抉るがそれだけでなく、この悪夢は人間の頭のなかだけでなく、現実に存在していたことがあるのだという事実を凄まじいまでの説得力で描きだす。

そしてこの悪夢/地獄を巡るサウル、彼を演じたルーリグ・ゲーザの静かなる熱演はこの作品の要だ。いや演技しているというより、サウルを生きていると言った方が良いかもしれない。彼がその顔に浮かべる無表情は他の何よりも饒舌に全てを語る。ゾンダーコマンドとしてユダヤ人の死体を処理し続ける日々に人間性は磨り減り、その目から色濃い影が消えることはほとんどない。だが彼の中に残った尊厳がサウルを奮い立たせ、その肉体を動かす。サウルは無数の死を見る、ガスが彼らを殺し、銃弾が彼らを殺し、火炎放射機が彼らを殺す。それでもサウルは止まることはない、執拗に彼を追跡する映像にはいつしか微かだが、胸を打つ希望が浮かび上がる。

サウルの息子を観るうち、観客はおそらく1つの息遣いを耳にすることになる。息を吐き、息を吸う時のあの反復の響き。それはあなたの呼吸の音だ、あなたは108分の間、サウルと共にあの地獄を生きるだろう。だから忘れないでほしいのだ、罪も何もないユダヤ人たちが迫害され虐殺されたこの凄惨な歴史についてを、そしてこの歴史の中で懸命に生きていた人々のことを。