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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ミリャナ・カラノヴィッチ&"Dobra žena"/セルビア、老いていくこの体を抱きしめる

あの血塗られたユーゴスラビア紛争から約20年もの歳月が経ちながら、未だにその傷は癒えることがなく、人々の心に深く残り続けている。そしてユーゴスラビア映画作家たちは様々な形でその傷を作品の中で描き続けている。アイダ・ベジッチ"Djeca"は未だ紛争の生々しい跡が残るサラエボに生きる姉弟の姿を描き、ボスニア人とクロアチア人の血を引く映画作家アンドレア・シュタカは生まれ故郷のスイスとクロアチアを行き交いながら"Das Fräulein""Cure: The Life of Another"(紹介記事その1その2)を作るなどしている。今回紹介するのはそんな作品の系譜に属する"Dobra žena"とその監督ミリャナ・カラノヴィッチだ。

ミリャナ・カラノヴィッチ Mirjana Karanović は1957年1月28日ベオグラートに生まれた。1980年セルビアの炭鉱町が舞台の作品"Petrijin venac"の主演として俳優デビューを果たす。1985年にはエミール・クストリッツァ「パパは、出張中!」で主人公の母親役を演じ、世界的に名声を博す。その後もクストリッツァアンダーグラウンドなどに出演しユーゴスラビアを代表する俳優となるが、近年の作品には先述のジュバニッチ監督作サラエボの花や、アンドレア・シュタカ監督の"Das Fräulein"(私にとってゼロ年代オールタイムベストの1本)などがある。そして2016年には自身初の監督作"Dobra žena"を完成させる。

50代を迎えたばかりのミレーナ(カラノヴィッチが兼任)は夫のヴラダ(Boris Isaković)や高校生の娘カタリーナ(「思春期」イシドラ・シミヨノヴィッチ)、大学に通うミロシュと共に、ベオグラードの郊外で順風満帆な暮らしを送っていた。家事の合間には合唱クラブへと赴き友人たちと歌を楽しみ、夜には夫とベッドの中で愛しあい、傍目から見れば何不自由ない生活だ。しかしある日、病院の検査で乳房に異常が見つかったことから、ミレーナの人生は少しずつ綻び始めていく。

“Dobra žena”においてまずカラノヴィッチ監督は何気ない日常に潜む問題の数々を丁寧に描き出していく。ミレーナと友人たちの間では、夫が娼婦を買っているだとかアルコール中毒に陥っているだとかそういった話が絶えることがない。ミレーナ自身も絵に描いたような幸せを享受しているように見えながら、その奥底では今の状況に曰く言い難い不満を抱え、それにどう対処していいのか分からないでいる。

こういったいわゆる“中年の危機”と呼ぶべき問題と共に、彼女は子供たちとの関係にも悩みを抱えている。長女のナターシャ(Hristina Popović)はベオグラードで芸術家として活躍し、最近では国から賞を受け取るほどに高名なのだが、セルビアに対する批判意識を持った作品は愛国的なヴラダを激怒させ、絶縁状態が続いている。そしてミレーナは彼女がレズビアンであるという噂を聞き、娘が“普通の”人生を歩もうとしないのではないか?と要らぬ心配を抱く。監督はこうして幸福の裏側にある苦悩や不満、そして日常に根差した偏見などを浮かび上がらせる。

これらの、ある意味で普遍的な問題の数々を描くと共に“Dobra žena”セルビアという国の暗部へと踏み込んでいくことにもなる。検査に動揺するミレーナは掃除中、1本のビデオカセットを見つける。そこには何年も前に撮影したホームビデオが録画されていたのだが、彼女はその後に見慣れない映像が流れるのに気づく。ジープの中、軍服に身を包んだヴラダの姿、彼の足元には傷ついた男たちが転がっている。ジープが止まるとヴラダは彼らを外へと連れ出し、アラーにでも祈ってろこのクソ共!とボシュニャック人たちを一列に並ばせ、そして……

ボスニア紛争から約20年もの時間が経ちながらも、ミレーナたちの日常にはその深い傷が今でも残っているのだと今作は語る。テレビでは戦争犯罪についての討論番組が行われ、厳しい処罰を求める論客にヴラダは口汚い罵りをも厭わない。友人たちの会話の中では“紛争の前には/後には“という言葉が何度も表れ、夫を悲惨な事故で亡くした女性は、彼の遺品である軍靴を忌々しげに見つめながら車へと放り込んでいく。この作品において過去について声高に主張される瞬間はない。過去が首をもたげるのは日常のふとした瞬間にこそだ。むしろだからこそ、彼女たちの今までの道行きや痛みが実感を以て観る者の肌に迫る。紛争はまだ終わってはいない。

カラノヴィッチ監督は1人の女性の日常に普遍的で個人的な問題と、もっと大局的な社会の問題を織り込んでいくが、その手捌きはこれが初監督作とは思えないほどに老成されている。それはエミール・クストリッツァヤスミラ・ジュバニッチ、そしてアンドレア・シュタカなどユーゴ諸国の名だたる映画作家たちと共に作品を作ってきた経験の賜物だろう。本作によってカラノヴィッチは彼らの後に続く映画作家として大きな一歩を踏み出している。

“Dobra žena”は様々な要素を内包しながら、しかし最も重要な存在として立ち上がってくる要素がミレーナの肉体だ。裸のミレーナが鏡と向き合う姿から物語は幕を開けるのだが、この冒頭に代表されるように劇中にはミレーナが自身の大きな乳房をケアする姿が何度も映し出される。その乳房こそが彼女を否応なしに多くの問題と対峙するきっかけを作るのだが、彼女が自身の肉体に向ける眼差しには複雑な心情が見え隠れする。重力によって垂れた乳房、補正下着で形を取り繕おうとしてもそこには限界がある。ミレーナは乳房を見る度に老いの残酷さにうちひしがれる。そして彼女は老いから目を背けようと、検査からも逃げようとして事態は重くなっていく。それでも葛藤の果てに彼女が辿り着くのは、葛藤や不満を越えた慈しみだ。自分の体を愛すること、それは老いや痛みを自分が歩んできた軌跡として愛することに他ならない。この愛こそがセルビアの傷を乗り越えようとする意志となるように、“Dobra žena”にはそんな願いが輝いている。

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