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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

デヴィッド・ゴードン・グリーン&「アンダートウ 決死の逃亡」/南部、熱と死の鬱蒼たる迷宮

デヴィッド・ゴードン・グリーン&"George Washington"/僕は世界で一番強いヒーローになりたい
デヴィッド・ゴードン・グリーン&"All the Real Girls"/侘しい冬の日に灯る愛は……
デヴィッド・ゴードン・グリーン及び彼の過去作品についてはこちら参照。

テレンス・マリック、言わずと知れたアメリカ映画界孤高の詩人、彼は地獄の逃避行天国の日々といった作品によって世界にその名を轟かせながら、寡作ゆえにその全貌は謎に包まれていた。それでもテン年代以降になって突如ツリー・オブ・ライフや「聖杯たちの騎士」など作品を精力的に手掛け始め、世界を驚かせる。だがその前のゼロ年代から、彼はにわかにプロデューサーとして世界中から才能ある作家を見出だす活動を始めていた。そんな時期彼の後押しを受けた人物の1人に、あのデヴィッド・ゴードン・グリーンがいた。

グリーンは以前からマリックへの敬愛を隠していなかったが、デビュー長編George Washingtonが完成した時、彼の元に1本の電話がかかってくる。何と今作を鑑賞して感銘を受けたというマリックがグリーンに連絡してきたのだ。これをきっかけにグリーンは彼からジョーコンウェイという人物(本業は英語教師)の脚本を受けとる。緊急コールに電話してきた青年の驚くべき逸話を元に描かれたこの脚本に興味を持ったゴードンはコンウェイ接触、共に脚本をリライトすることとなる。そしてマリックが設立したばかりの制作会社Sunflowerの後ろ楯を得て、ゴードンは第3長編“Undertow”aka「アンダートウ 決死の逃亡」を完成させたのだ。

今回グリーンが舞台に選んだのはジョージア州サヴァンナ、森深い地に位置するその田舎町にこの映画の主人公である青年クリス(ニンフォマニアック Vol.2ジェイミー・ベル)は住んでいる。彼は父親のジョン(「わたし産んじゃうわ/ベイビー狂奏曲」ダーモット・マローニー)や病弱な弟ティム(デヴォン・アラン)と共に暮らしているのだが、素行不良が原因で町の人々や父から苦い目で見られている。彼自身ここから出ていきたいと思いながら、踏ん切りがつけられずにいた。

グリーン作品においてまず重要なのは、やはり主人公たちを取り囲む環境についてだ。“All the Real Girls”という冬を経て、彼は再び南部の夏へと帰ってきた訳だが、ここに描かれる自然はGeorge Washingtonよりももっと苛烈だ。青い地獄のような空から降り注ぐ灼熱の陽光、その激熱を抱え込みながら不気味に広がっていく鬱蒼たる森、蕩けた大地で這いずり回る汚泥、そこでは虫や家畜たちの鳴き声が常に響き渡り、この地に生きる人々の神経を焼き切らんとする。

そしてティム・オールによる撮影の練度もまた更に鋭さを増している。今回もGeorge Washingtonを少し彷彿とさせる薄い橙の色彩が画面に満ち渡りながらも、あそこにあった懐かしい温もりは存在し得ない。過酷な自然において際立つのは凄まじい湿りの感覚だ。薄い橙に染め上げられた湿気はクリスたちだけでなく、観客の首筋にもまとわりついてくる。そして35mmフィルムの荒い粒子が無数の虫のごとく肌の上で蠢いていき、不快感は音もなく募っていく。

だがそういった一貫した自然への意識と並列して、グリーンがまた新たなスタイルを切り開こうとしている努力も随所に見られる。OPにおいて、クリスが恋人の少女(キャリア初期のクリステン・スチュアート)の家に赴いた後、壮絶なチェイスシーンが繰り広げられるのだが、そこではストップモーションやネガポジ反転など70年代において多用されたスタイルが敢えて使用されている。そこには観客の記憶をくすぐるような感触に満ちているが、グリーンは今作を作る際「グライド・イン・ブルー」明日に向かって撃て!」「ワイルドバンチなど、いわゆるアメリカン・ニューシネマの作品群を参照したと語っている。初期から60,70年代のアメリカ映画への憧憬を隠していなかったグリーンだが、今作ではその精神だけでなくスタイルをも継承しているのだ。

そんなクリスたちの元に突然現れたのはジョンの弟であるディール(「パパと呼ばれて大迷惑!?」ジョシュ・ルーカス)だった。長い間疎遠だったはずの彼の来訪を訝しむジョンだが、クリスやティムたちはその謎めいた人柄に惹かれ、少しずつ心を開き始める。それでも家の中には異様な緊張感も張りつめ出し、その中心には“兄弟”という繋がりがある。ディールは長らく刑務所に収監されていたらしく、そこに至る源が兄への憎しみであることが彼の挙手挙動の節々から分かってくる。兄弟同士の確執は旧訳聖書における“カインとアベル”の逸話から連綿と語られている主題だが、今作においてはこの愛と憎悪はうだるような熱気の中で密度を増し、そして真相が暴かれた時、ディールは他ならぬ兄をその手にかける……

こうして兄弟という繋がりを軸とした濃密な愛憎劇の前半から、物語は邦題にもある通りのクリスとティムの逃走劇へともつれ込む。だがゴードンはあの濃密さをそのままサスペンスに繋げるのではなく、むしろ真逆の方向へと緩ませる。クリスたちとディールは汚泥と湿った茶の色彩に満ちた自然を舞台に追跡劇を繰り広げるが、彼らはそこで様々な人々と出会う。広い空き地に小さな牧場を作って生活する夫婦、ガムを飲み込んだせいで気管が変になったレジ係の女性、彼らとクリスたちの一瞬の交わりは不思議とドキュメンタリー的な色調を持ち、南部の片隅に生きる人々の息遣いが親しみを以て私たちに迫ってくるのだ。

それでもゴードンがこの物語に結い合わせる美しい糸は先述したものだけに留まらない。ハックルベリー・フィンの大冒険」を思わす旅路はディテールの現実味とは裏腹に、どこか現実離れしたお伽噺めいた様相を呈している。どこまでも続く泥まみれの世界を彷徨う光景には、熱に魘されながら見る悪夢と微睡みに見出だす心地よい夢の感触が同居している。その印象を加速させるのはフィリップ・グラスが手掛けている劇伴にあるだろう。悲鳴のごとく響く重層的コーラスがミニマルな音の連なりに重なり、聞く者を温い汗にまみれた幻想へと引きずりこんでいく。

そして南部の終りなき迷宮を彷徨う私たちは、いつの間にかもう1つの迷宮、つまりはクリスたち兄弟の心に広がる迷宮にも迷い込んでいたことを知るだろう。不安障害を患う弟ティムは今自分が直面している現実に耐えられず、徐々に疲弊していく。何でも口にして吐き出すという彼の癖が悪化する中、クリスは彼を救おうと迷宮を奔走する。この関係性はジョンとディールの兄弟と鏡像のような関係性になっている。ディールの追跡はその実兄弟という絆そのものの崩壊をも意味する脅威なのだ。だからこそクリスたちは悲壮なまでの逃走を続けるのだ。

こうしてともすれば矛盾や過剰に繋がり兼ねない要素の数々を、しかし強固に繋ぎ止める最後の要素が死と生への洞察だ。序盤においてジョンはクリスたちのある伝説を語る。死の国へと続く黄泉の川、そこにはカロンという船頭がいる。彼に金貨を1枚渡せば死の国へと連れていってくれるが、渡さなかったが最後、黄泉の川辺で100年もの間彷徨い続けなくてはならない。そして劇中にはその伝説を想起させる金貨が登場するのだ。これらが袋の中で揺れ、互いに擦れあう時に響く音は、クリスたちが彷徨う世界に濃厚なる死の気配を宿していく。そう「アンダートウ 決死の逃亡」の根底には拭いがたい死の光景が広がっている、このクリスの旅路は死を知る旅路でもあるのだ。それでも死とはつまり生の一側面であり、彼らは深遠なる生の意味を知ることとなる。

参考文献
http://filmmakermagazine.com/archives/issues/fall2004/features/southern_discomfort.php(監督インタビュー)