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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Lucian Pintilie&"Duminică la ora 6"/忌まわしき40年代、来たるべき60年代

20世紀に巻き起こった2つの大戦、その間に横たわるいわゆる戦中期、ルーマニアはバラバラに統治されていたこの国古来の土地を統合するという長年の悲願を達成し、文化や経済など様々な面においてこの世の春を謳歌する。しかしその春は長く続くことはなかった。第2次世界大戦勃発後、ナチス・ドイツの侵攻によってルーマニアは階段を転げ落ちるように疲弊と苦難の道を辿っていくこととなる。さて、今回紹介するのはそんな第2次大戦中のルーマニアに広がっていた苦境を独創的な筆致で描き出した、ルーマニア映画界の巨匠Lucian Pintilie ルチアン・ピンティリエによる異様なるデビュー長編“Duminică la ora 6”を紹介していこう。

舞台はナチスの脅威に怯えていた1940年代のブカレスト、青年ラドゥ(Dan Nuțu ダン・ヌツ)は絶望感に苛まれながら若さを浪費していく日々を送っていた。だがある日、彼が赴いたダンスホールファシストたちが襲撃されてしまう。その大騒ぎの中、群衆に紛れて逃げ惑うラドゥはアンカ(Irina Petrescu イリーナ・ペトレスク)という女性と出会い、二人は一目で惹かれあうこととなる。今作は戦時下におけるロマンス映画と、ひとまず表現することができる。脅威がルーマニアを変容させていく最中、それでもラドゥたちの瑞々しい愛は希望の灯火として小さく輝く。いつかここを出てコンスタンティンへ行こう、僕は海を見たことがないから、ブカレストの郊外で何処かへと続く線路を歩きながらラドゥはそう呟く。そしてテニスに耽る若者を眺めながら英語で言葉遊びをしたり、おままごとのような結婚の約束をしたりと、2人の恋はひどく初々しく、頬が緩むほどに微笑ましい。

だがラドゥはある秘密を抱えていた。彼は共産主義レジスタンスに所属しており、ナチスに対する抵抗運動を続けていたのだ。彼は上司のマリア(Graziela Albini グラジエラ・アルビニ)からナチスからある兵器を奪い取るという任務を命じられることとなる。そしてラドゥの秘密を知ったアンカは自身もレジスタンスに参加し、任務を遂行しようとするが事態は思わぬ方向へと転がっていく。こういった意味で今作はロマンス映画でありながら、一種のエスピオナージュものでもある。が、全体の雰囲気は余りにも不穏だ。Sergiu Huzumによる陰鬱な白黒映像はこの時代に生きる者たちが抱えざるを得ない虚無と絶望を饒舌に語る。更にEugenia Naghiの編集によって本作は現在や過去、ラドゥたちの心象風景など様々なイメージが錯綜するような語りとなっているが、それはヌーヴェル・ヴァーグ的な自由奔放さは全く感じられない。ここに広がっているのは、地獄に囚われ続けるアンカたちの心に広がる凄惨な荒野だけだ。

そして不穏さを増大させるのはイメージだけではない。私たちは始まりから終わりまで、不気味な何かの響きを聞き続けることとなる。時にそれは広場に集まる人々の喧騒であり、時にそれは線路を踏みにじりながら疾走する列車の轟音であり、時にそれは鼓膜を引き裂き死を運ぶ銃声であり、様々に姿を変えながら音は恐ろしく尖鋭なる凶器として私たちを襲う。だがそこで新に響きあう不協和音の連なりにも気づく筈だ。ハーモニーからは遠く隔たった、まるで亡霊たちが鐘の姿を借りたかのごとき音が、騒擾のその奥から聞く者の心を鷲掴みにせんと手を伸ばしてくるのだ。

物語が進むにつれ、ラドゥたちは時代という名の大いなる脅威と対峙することを余儀なくされる。それは当然ナチスという姿を取りながらも、また別のもっと抽象的な社会という枠組みそれ自体の存在感をも観客は感じるだろう。抵抗すればするほどに、自身の足場が無くなっていくような感覚。私が想起したのは勅使河原宏が小説家である安部公房と組んで作り上げた砂の女」「他人の顔」「燃え尽きた地図」という作品群だ。戦中戦後という時期の違いはあれども、自己が社会の中に蝕まれていくような実存主義的な危機を両者は共有しているようだ。

そしてもう1人、私が否応なく想起した作家がいる。今作においては全く理解のし難いイメージの数々が禍々しく明滅していく。所在の分からぬ真っ暗な廊下、まるで迷宮のようなその場所をカメラは喘ぐように駆け抜けるが出口に行き当たることはない。更に1つ、重要な落下の風景がある。おそらくエレベーターが下っているのだろう浮遊感のある落下、それでいて少し遠くには着飾った紳士淑女が各階に集結し、こちらを眺めているのだ。この映像が何度も何度も挿入され、観客はルーマニアという国家の落下をここに見出だすだろうが、根底にある本当の意味は掴めない、おそらくルーマニアの人々、その中でも当時を生きていた人間にしかその意味は掴めないのだろうと思わされる。ここにおいて東欧の歴史を巡る政治的メタファーの迷宮として、今作はアンジェイ・ズラウスキーの初期作と共鳴していく。特に「夜の第三部分」は同じく第二次世界大戦を舞台として、今後の国家を規定する忌まわしき過去を描き出した意味で壮絶なまでに呼応しあっている(今作はズラウスキーほど狂ってはいないが……)

だが今作にはまた別の側面が存在している。主人公ラドゥは共産主義レジスタンスという立ち位置にあるが、私たちはこの先ルーマニアソ連によって占領され、共産主義国家となることを知っている。つまり今作は人々がナチスに抑圧される姿を、そんな悪しきファシズムに対抗した若きコミュニストの苦闘を描き出した、いわばプロパガンダ映画という側面があるのだ。だがそういった作劇は国家の検閲を潜り抜けるための技、術表向きは体制を受け入れる振りをしながらその裏に体制批判の要素を密かに忍ばせるという技術だったということも忘れるべきではないだろう。ではここにピンティリエは何を託しているのか。それは当時のルーマニアにおいて、抑圧的な共産主義に水面下で対抗するレジスタンスの姿だろう。つまり主人公は共産主義者でありながら、批判対象もまた共産主義であるという捻れた状況が今作には広がっているのだ。

“Duminică la ora 6”は第2次世界大戦下におけるルーマニアに広がる抑圧とそれへの抵抗を描きながら、その裏に60年代当時の政情をも浮かび上がらせんとする、それ故に難解で且つ異様な作品だ。劇中においてラドゥは自分よりも更に幼い青年たちを見ながらこう呟く。“全てが変わったその時、それでも彼らは若いままでいるでしょうね”……ここにはルーマニアの明るい未来を願うラドゥの思いが、おそらくピンティリエ自身の祈りが込められている。だが現実は非情だ。この映画が製作された1965年、ニコラエ・チャウシェスク共産党の第1書記に就任、25年もの独裁政権が始まることとなる。もしかするとピンティリエは心の奥底で、未来に広がる寒々しい世界の姿を見ていたのかもしれない。“Duminică la ora 6”は凄まじい絶望の中で幕を閉じるのだから。

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