鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ベン・ウィートリー&「フリー・ファイヤー」/銃なんてロクなもんじゃねえや

ベン・ウィートリーの「フリーファイヤー」を観た。いやいや予想を越える、というか予想外な方向で素晴らしかった。私が思うに、この映画は今世紀最低の銃撃戦映画であり、今世紀最高のアンチ銃撃戦映画であり、今世紀最高の“銃はとても危ないから使っちゃいけないよ”という啓蒙映画だったという。あらすじは公式サイトなどで確認して欲しいので省く。でもまあ内容はつまり撃たれても全然死なない登場人物による泥々も泥々な稀代の泥仕合ガンアクションなのだが、驚くことにここには銃撃戦映画に求める興奮とかそういう物が一切存在しない。

演出面から見ていくとまず俯瞰視点の無さが際立つ。銃撃戦の際に誰がどこにいるかみたいなものを逐一描かないと、当然距離感覚が掴めず、何が起こってるのか良く分からなくなる。でもこの映画は個々の視点のみに絞っている。顔のクロースアップばっかで、苦しんでる人間のネットネトの汗面ばかり見せられる。ここには撃つ撃たれるの高揚感もクソもなく、何が起こってるか良く分からない恐怖と苦痛とひきつった笑いだけしかない。

それはつまり監督は観客に銃撃戦を見せたい訳じゃなく、銃撃戦に巻き込まれた者の姿を見せたいのだ。撃たれて悲鳴をあげ、又撃たれてはデロデロ血と汗を流す惨めすぎる姿を。それ故に今作はほぼ銃撃戦で真っ先にカットされる場面で全編構成されているとも言える。だから。銃撃戦映画が好きな人に軒並み不評だったのも、アメリカで興行がBOMBだったのも納得過ぎる。

後、印象的なのが音楽の使い方だ。劇中、序盤のキャラ紹介場面でウィートリーは既成曲ガンガン使いまくって観客を煽る煽る。が、銃撃戦に入ると異様な静けさが訪れる。乾いた銃声の連なり、ホゲア!と吐き出される悲鳴や重苦しい呻き声、そして風の唸りだけという荒涼たる有り様だ。覚えている限り、冒頭のスローモーションから途中で電話が鳴るシーンまで音楽が流れることは一切なかった、と思う。記憶違いだったら恥ずかしいがとにかく不気味な静けさが広がっていたのは覚えている。

そして実際に劇伴が入ってきてもどこか変なのだ。最初こそ結構アップビートな音楽が流れるのだが、それがだんだんアンビエント+前衛ジャズ(前者の響きはジョニー・グリーンウッドの映画音楽という感じ)って不気味な震えばかりが響くのである。階段での銃撃戦なんかは、サックスの音がうねり、まるで悪夢に迷いこんだような感触があった。少なくとも興奮を促すような響きではない。

こうしてウィートリーは銃撃戦にあるべき興奮の一切を意図的に排しているように思える。それが何に繋がるかと言えば、やっぱり“映画で描かれているのと違って、銃なんてロクなモンじゃない”というメッセージだ。映画の冒頭にも“銃じゃ人はなかなか死なない”という監督のメッセージが出てくるが、そうしてなかなか死ねない奴らが辿る道筋がとにもかくにも惨めで悲惨である。銃によって泥々に破滅していく人物たちを淡々と描く黒い笑いの下には、映画作家ベン・ウィートリーのモラルが隠れているのだ。

さて、ここで1つ例え話をしよう。突然だが私は痔だ。クソするとケツから血が出る。ヤバいなあと思いながら、クソを終えるとケツが痛いので、ウォシュレットでケツを洗う。だがその時に穴が緩んで、またクソが出てしまうのだ。すると当然血がまた出る。で、全部出したと思っても、ウォシュレットをしたりケツを拭いたりしていると、またクソが出てくるし血も出る。それが本当に延々と繰り返されるのだが、血と呻きの泥仕合っぷりはこの超絶大ケッ作である「フリーファイヤー」とそっくりなのだ。

私のこの文を読んであなたは“わおクール!痔って最高!私も痔になりたい!”って思っただろうか?多分思わないだろう。銃に置き換えると「フリーファイヤー」ってつまりそういう映画なのである。いやそれは痔っていうか病気だから拒否するだろというかもしれないが、実際銃はそういうものじゃなくちゃいけない訳だし、考えれば銃は痔よりも多くの人を殺している。銃撃戦が面白い映画もあって全然良いが、それなら逆に銃は危険でヤバい代物だと語る堂々のアンチ銃撃戦映画があってもいいし、なくちゃいけないだろう。私的にはJCチャンドールの「アメリカン・ドリーマー」に匹敵するアンチ銃映画だと思っている。だからアメリカで当たる訳がないのだ。

何はともあれ、この「フリーファイヤー」は私のウンコ・エクスペリエンスと映画体験がスクリーンの上で共鳴しあう奇跡の作品だった。もちろん今年のベストである。