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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Nelson Carlo de Los Santos Arias&"Cocote"/ドミニカ共和国、この大いなる国よ

Nelson Carlo De Los Santos Arias&"Santa Teresa y Otras Historias"/ロベルト・ボラーニョが遺した町へようこそ
Nelson Carlo de Los Santos Ariasの略歴と彼の長編についてはこのページ参照。

さてリベンジスリラーと言えば、日本を含めて世界中で馬鹿の一つ覚えみたいに作られてきた。家族を皆殺しにされた男(時には女)が敵討ちへと赴くというプロットは、予算の少ないB級映画にはお馴染みの設定だろう。最近公開されたフランス映画REVENGE リベンジや往年のカルト映画「発情アニマル」のような、強姦され凌辱された女性が男たちに復讐を遂行するいわゆるレイプリベンジというジャンルも中には存在している。それほどリベンジものは映画界に膾炙している訳だが、今回紹介するNelson Carlo de Los Santos Arias監督作“Cocote”もまたそのジャンルに属しながら、ひと味もふた味も違う異様な魅力を持っている。

この作品の主人公というべき存在は中年男性アルベルト(Vicente Santos)だ。彼は敬虔な福音主義キリスト教徒であり、普段は大富豪のの邸宅で庭師をしながら生計を立てている。そんなある日、家族から故郷のサント・ドミンゴへ帰ってこいとの連絡がやってくる。不審に思いながら彼が家族の元へ辿り着くと、彼らはアルベルトに信じられないことを宣告する。お前の父親はある男によって無惨に殺された、その仇をお前が取るんだ……

さて、上述のあらすじの通り今作のストーリーを一言で説明するならば“殺された父のために主人公が仇を討つことになる”というシンプルなものになる。だがそれを越える何かを今作が持っていることに、観客はすぐ気づくだろう。冒頭、黒煙が吐き出される大地で1人の男が何か作業をしている。カメラは彼の姿を静かに見つめ続けるが、雰囲気はだんだんと不穏なものになっていくのだ。そんな不気味な光景は何か異様なものの登場を予感させるが、その予感は全くもって正しい。

だがあらすじに反して、アルベルトは復讐へと赴くことを頑なに拒み続ける。熱心なキリスト教徒である彼は神の存在を理由として、復讐から距離を置こうとしているのだ。そんな態度のアルベルトに対して母親は激怒、様々な罵詈雑言を投げかけるほどの怒りを露にする。それでもアルベルトは一歩も譲ることなく、事態は膠着状態に陥ることとなる。

では復讐が行われないなら、この映画において何が描かれるのだろうか。例えば村に住む主婦が料理を行う姿、毛を丸ごと毟られた鳥を大きな包丁で捌いていく姿はまるでNHKなどで放送するそれぞれの国の料理文化を紹介するTV番組のようだ。サント・ドミンゴで執り行われる多くの儀式、轟音と叫びがハーモニーを以て響き渡る様は地理誌学的音楽ドキュメンタリーを観ているよう。ドミンゴの美しい自然の数々、切り立った崖の合間に流れるまろやかな青の色彩を浮かべた海は紀行映画を思わせる。更に儀式の中で人々が信仰について語る場面はある種のキリスト教啓蒙映画さながらで、家族の罵倒合戦を描く様は機能不全家族を題材にしたブラックコメディも斯くやだ。

そうして展開が驚くほどにコロコロと変わっていくのだが、演出方法もそれに共鳴するような様相を呈している。意味があるのかないのかカラーの場面が次の瞬間モノクロに、モノクロの場面が次の瞬間カラーになるというのは当然の如く頻発する。そしてスクリーンサイズも目まぐるしいまでに変化を遂げて、カメラ自体も基本はフィルム撮影ながら急にテレビ映像や携帯によって撮影された悪画質の映像が挿入されるなど、当惑に次ぐ当惑、カオスに次ぐカオスがここでは繰り広げられる。という訳で物語も形式も演出も支離滅裂な有り様を呈していると言わざるを得ない。これを観て、ある人は素人仕事だとかそう揶揄するかもしれない。だが私はそうは全く思わないのである。

物語の中盤、ある風景が観客の目前に現れる。赤土が豊かに煌めく道筋、周囲には生命力に満ち溢れた緑、頭上に広がるのは抜けるような青空、カメラは疾走する車のフロントガラスからその光景を眺める。その時私はまるでサバンナのような世界を目の当たりにし“この国にこんな場所が存在したのか、この国は何て広大なのだろうか!”と、そう思った。瞬間気づいたのである。この“Cocote”という作品はただ復讐や文化を描こうとしている訳ではなく、もっと大きなもの、つまりは数えきれない様々な側面を持つだろうドミニカ共和国という国家それ自体を描く壮大な野心に満ちている作品なのだと。

Arias監督自身は"Cocote"の着想源についてこんな言葉を残している。
"私の映画製作はとても混沌的なものです。"Cocote"には明確な物語があります。しかし前に作った作品は、物語という装置の代りに理論的領域から生まれているのです。思うに最初は、暴力を異なる視点から分析することに興味があったんです。ラテンアメリカのどの国においても暴力は特有の扱いにくい状にあります。映画で描かれる暴力は、アメリカやヨーロッパがラテンアメリカ映画に見出したがるものを提供するために搾取されているのです。なので私はどう暴力を表現するべきか、暴力を核として使うことなくどう社会を表現するべきかについて考えていました。そしてポストコロニアル理論を調査し始めました。"Cocote"の着想源の大本はプロテスタント教会の反映と一般にカトリックが表現される方法に対する興味です。私はキャラクター以上のものを作りたかった。言説のようなものを"*1

そんな中でアルベルトは苦悩し続ける。家族や社会に従って復讐を遂行するのか、心に住む神に誓って復讐することを放棄するのか。この合間では神へと捧げる儀式の数々が執り行われる。時には悪魔祓いのようにすら思われる激しさへ晒される度、アルベルトは神への信仰について絶えず問い正されることとなる。儀式の狂乱はまたアルベルトの心の同様をも如実に浮かび上がらせているのである。

実は自分でも驚いているのだが、この監督Nelson Carlo de Los Santos Ariasについては以前ブログで彼の作品と共に紹介している。その作品“Santa Teresa Y Otras Historias”はチリの偉大なる小説家ロベルト・ボラーニョが自身の小説の中に生み出したメキシコの架空都市サンタ・テレサを、映画という形で再現しようという試みに満ちた作品であった。“Cocote”と同じように幻惑的な質感を伴った作品で、そこに惹かれブログを記したのだった。そして私としては偶然と思えないのだが、例えば畢生の名著“2666”や短編集「通話」などボラーニョの作品のジャンル越境性は、今作というかArias作品のジャンル越境性と通じる所があると感じられてならないのだ。彼は映画界におけるボラーニョの後継者であるのかもしれない。

さてさて、今作の核となる万華鏡的多様性についてArias監督はこう語っている。
"私はそれをカメレオンと呼んでいます(中略)カメレオンが変化する方法、つまりは異なる手触り、色彩、形式を使うことという訳です(中略)まず初めに、私は自由を信じています。ヨーロッパやアメリカで勉強をして初めに分かるのは、第1世界の映画製作者たちはいつでも非常に特権的立場にあることです。映画的言語で実験する自由のある立場に。第3世界の映画製作者にとってそうあるのは少し困難なことです。ここ20年にラテンアメリカ映画において行われた実験を眺めると、それは時間と持続に集約されます。アンドレ・バザン的な考えでありブルジョワ的な美学です。ラテンアメリカの映画監督のほとんどは上流階級出身で、彼らは特定のやり方で貧困を描き出しています。私はそんな時間の使い方は表現に対して受け身的と思うんです。題材に踏み込まず、特権的な場所からただ観察するだけなんて。故に私はまずそこから離れたかったんです。

私にとっての、そして第3世界の映画製作者にとっての自由はまずもって私が守りたいものです。私たちの社会をどう表現するか決める自由を明確に示したいんです。カリブ人に特有の性格の1つとして、アイデンティティーについての考え方と故郷への根差し方が挙げられます。この考えはとても複雑な状況にあって、それはもし真の意味で多文化的場所があるなら、それはカリブであるからです。この場所は過去500年に存在した基本的に全ての帝国によって領土を奪われてきた場所です。ではドミニカ人のアイデンティティーとは?そんなもの存在しません。だからこそ私の映画は美学において、ジャンルにおいて、そして異なる事象について語る方法において、ハイブリッドであるべきなのです。カメレオン、もしくは'ムラート(白人と黒人の混血児)'について考える時――政治的かつ人種的考えとしてだけでなく美学的概念として――私はそれこそ取り入れていこうと思うものなんです。なので映画を作っている時、それはとても有機的なものになるんです。

色彩が変わったり、アスペクト比が変化することに対し気付く者がいれば気付かない者がいる。それは私にとって最も美しいことであると考えます。多様性や幾つもの言説を提供する、それこそカリブ人の、混成文化の役割なのだと思っている故です"*2

復讐するのかしないのか、そんな宙吊りになった苦悩がこの物語の核に存在していながらも、真に重要なのは大いなる野心を反映した万華鏡的演出の数々なのだ。それ故に彼がどんな決断を果たそうとも“Cocote”には今まで観たことのない虹色の驚きに汪溢している。この映画体験は私にとっても類を見ないものであり、私としては2017年から2017年にかけての最重要映画の1本としてその存在を称えたい。

さてさてさて、最後にArias監督によるドミニカ共和国の映画産業に対する私見を記して、この記事を終らせるとしよう
"現在、興奮は大音量です。皆が映画にとても熱狂してるんですよ。だから、'Cocote'は面白いし他のクズ映画も面白い、全部面白い!となっています。私たちは今全てを祝福するような映画のロマン主義的時代を生きています。それがドミニカのフィルム・コミッションの今の仕事なんでしょう――全てが祝福である訳です。しかし私にとってはそんな物ではない。ドミニカ共和国の問題はとても複雑です。特に私の世代に顕著ですが、(映画が)アメリカ化/植民地化されているんです。だから全ての映画を祝うことなど出来ませんよ(中略)映画を愛してるからサポートはしますし、フィルム・コミッションに対してもそうです。しかしいつか自分たちが売り込んでいる物に対してもっと厳格になる日が来て欲しいと願っています。

今現在、私たちは新しい映画業界法の存在によって危機的状況に陥っています。駄作が多く流通し、法律のせいでたくさんの税が政府に戻っていかない、これは問題でしょう。税をどう処理するかがまた問題なのです。今彼らがしているのは基本的に映画法を損なうことで、新しい政府は法律を撤廃しようという動きすら見せており、もしそうなったら困難に直面することにはず。彼らは映画の大切さが分かっていない。ただ純粋な娯楽としか思っていない。私たちは今とてもデリケートな状況にある訳です"

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