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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Vesela Kazakova&"Cat in the Wall"/ああ、ブレグジットに翻弄されて

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2016年、イギリスは国民投票によってEUからの離脱を決定した。通称ブレグジットである。これによって世界が激震を遂げたが、その中でも直接的に影響を受ける一団が東欧移民だった。ルーマニアブルガリアなどの東欧には貧しい自国から逃れて、より豊かな西欧へと移民する人々が多いが、イギリスにはそんな移民たちが多く集まっていた。それゆえにEU離脱によって甚大な影響を受けることはもはや決定事項と言ってもいい。さて、今回はそんなブレグジット決定後の英国で生きる東欧の一国ブルガリアの移民たちを描き出した作品、 Mina Mileva&Vesela Kazakova監督作"Cat in the Wall"を紹介していこう。

今作の主人公であるイリーナ(Irina Atanasova)は息子であるジョジョ(Orlin Asenov)と弟であるヴラド(Angel Genov)と共に、低所得者層用のアパートメントに住んでいた。今までの暮らしぶりも楽ではないが、その楽ではなさはブレグジット決定後も変わらない。だが確かに、そしてとうとう、彼女たちの人生は少しずつ変わろうとしていた。

まず本作はブルガリア移民であるイリーナたちの生活ぶりを丹念に描き出す。彼女たちは本国では学位を持っているエリートである。だが英国ではブルガリアでの学位は一顧だにされない。イリーナの本職は建築士ながら仕事はないので、バーで働いている。ヴラドも同じ状況であり、ブルガリア人の友人から仕事を紹介してもらっている状況である。そんな彼らは外では英語を話しながら、3人の時はブルガリア語で会話をする。それが故郷との唯一の繋がりであるとでも言う風に。

本作で描かれる生活風景は、いわゆるキッチンシンク映画が描いてきた労働者階級の生活風景である。物が犇めくような狭苦しく埃っぽい部屋で、彼らは身を寄せ合いながら生活している。更に襲いくるのは現在欧米で広く問題となっているジェントリフィケーションだ。高所得者層が低所得者層の住む場所に居住地や店を構えることで、土地代が高騰していく。そして低所得者層は一掃され、土地が高級化されてしまう現象だ。彼女たちの住むアパートにもそんな現実が迫っており、イリーナたちの生活に圧力をかけてくる。

しかしそこには暖かみも存在している。ジョジョは子供らしくいつもとんでもない騒動を巻き起こし、ヴラドの怠惰さはそれを悪化させる。イリーナは眉間にしわを寄せてその尻拭いに奔走する。それでも3人が身を寄せ合いながら暮らす様には、どこか微笑みを呼ぶ可笑しさがあるのだ。日常の中にこそ存在する輝きがそこにはある。

そんな状況でイリーナにとって唯一の癒しはアパートに棲みついた赤毛のネコちゃんである。廊下や階段を自由に歩き回るネコちゃんに対して、イリーナは思わず声を高くして赤ちゃんをあやすような行動を抑えられない。ネコちゃんを見かけた時には、いつも触りに行くのだが、その愛着が極まった末、イリーナは家に連れ帰ってしまう。

しばらくは家族みんなでネコちゃんを可愛がるのだったが、ある日家に本物の飼い主だと名乗る家族がやってくる。彼らからの追及を逃れるため、ネコちゃんを台所の穴に隠すのだったが、何とネコちゃんはその中に嵌ってしまい、誰にも助けられなくなってしまうのだった……

監督であるMina MilevaVesela Kazakovaらは元々ドキュメンタリー作家だった。彼女たちが2016年に製作した作品"The Beast is Still Alive"ブルガリアにおいて共産主義がいかにして失敗したかについての物語である。監督は祖父が遺した書類からこの国の歴史へと深く潜行していく。そうして暴かれる致命的な失敗を、この作品はドキュメンタリーとして描き出しているのである。

という訳でこの"Cat in the Wall"にもドキュメンタリー的な趣向が随所に見られる。基本的な演出それ自体がリアリズムを指向しているというのもあるが、例えば住民たちがアパートの現状について会議する姿を捉える際、監督たちはフレデリック・ワイズマン作品のような距離感で彼らを見つめていく。そういった視線が、演出は異なる時があろうとも、今作には存在していると言える。

そうしてブレグジット以降の現実を、ブルガリア移民の目から静かに描き出していくが、最後に今作は直球の質問を投げ掛けてくる。"あなたは幸せですか?"と。イリーナは動揺しながらも"幸せだと思います"と答えるが、それは本音なのだろうか。それは彼女にしか分からない。しかし少なくとも今作はブレグジット後にこの問いがどういう意味を持つかについて、深く洞察を重ねていくのである。

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