鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

“アルバニア、その映画デザインという芸術” by Thomas Logoreci

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さて、現在この鉄腸野郎では世界各国、特に東欧の映画評論家にインタビューし、日本ではあまり知られていないその国の映画史や映画批評について聞いてきた。今までにスロヴェニアの映画評論家4人に話を聞いた4本の記事を出した他、今後は北マケドニアアルバニアアゼルバイジャンの映画評論家に話を聞いたインタビュー記事がお披露目になる予定である。

そんな中、アルバニアの映画史を調べようとした際、私はThomas Logoreciという人物に出会った。彼はアルバニアアメリカ人の映画批評家映画作家であり、現在は妻で同じく映画作家Iris Eleziとティラナに在住している。早速彼に連絡をしたところ、インタビューを快く受け入れてくれ、しかもアルバニア映画への興味の礼にと、彼が2016年に開催したアルバニア映画ポスター展覧会のカタログを送ってくれた。東欧映画には目がない私には最高の贈り物だったが、そこで素晴らしいものを見つけた。

Logoreciがカタログの最初に記していたのは、アルバニア映画のポスター史からアルバニア映画史を探る、1万字にも渡る論考だった。読みながら、私は目眩がした。世界にはまだ見ぬ映画がこんなにたくさんあると。そして同時に英語で書かれたアルバニア映画史についての記事がどれくらいあるだろうと。アルバニア語には歯が立たないが、英語なら割かし対応できる。そして私はこの文章を訳する許可をもらい、翻訳に取りかかった。

ということで、ここから紡がれるのはアルバニア映画史についての1万字に渡る論考である。このワンマン映画誌の読者方、あなたはどのくらいアルバニア映画を挙げることができるだろう。おそらく1本も言えない方が大半だろう。しかしそういった人々に対して、日本語で書かれた記事は存在しなかった。それも今日で終わりである。ぜひこの文章を読んでほしい。あなたの知る映画史の埒外にもまだこんな豊かな世界が広がっていると分かるはずだ。そして後にお披露目されるだろうLogoreciのインタビュー記事と合わせて読めば、アルバニア映画史の全貌が垣間見えるはずだ。それではアルバニア映画史の旅を楽しんでほしい。

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私が鮮明に覚えているのは、1984年、週に1回もらえる2ドルを貯めて、Mira LiehmAnthony J. Liehmが執筆した分厚い本"The Most Important Art: Soviet and Eastern European Film After 1945"の中古版を買ったことだ。その頃、私はカリフォルニアの高校に通う若い映画狂で、アルバニアアメリカ人として、映画を通じ父の故郷を知るのに熱心だった。想像してみてほしい。10ドルの本を買って、家に走り、序文を読んでみたら"我々は国際版においてアルバニア映画の章を削除した。それは調査に古いデータしか使えず、我々の基本的なコンセプトに沿うことができなかったというシンプルな理由からである"という文章が目に飛び込んできた時の驚きを。アルバニア無しの東欧映画? そんなの可能なのか?

今でも、誰かが私に映画という美術様式の視覚的なパワーを定義するイメージをリスト化してほしいと求めてくる時、その独特の瞬間の数々は、1944年から1991年までの半世紀続いた共産主義の独裁時代、その時に作られた映画から立ち現れてくる。

馬車の運転手が泣きながら少年の叩き割られた死体を運ぶ、そしてその姿をカメラが脇から追っていくうち、黒衣の女性が子供の顔を愛撫する。この忘れられない終幕はHysen Hakaniのモノクロ映画"Debatik"(1961)のものである。それからMuharre FejzoFehmi Hoshafiの素晴らしい風刺劇"Kapedani"(家父長制, 1972)はこんな夢の風景から幕を開ける。老いたパルチザンの男が500年の間に襲ってきたアルバニアへの侵略者たちと戦う姿を妄想する。ナチからオスマン帝国トルコ人まで、男はモジャモジャの口ひげの左側を上げて彼らの攻撃を知らせる。それからViktor Gjika"Rrugë të bardha"(白い道々, 1974)での緊迫した終盤だ。キリストのようなポーズで凍りついた電話の修理人が電柱に掴まりながら生にもしがみつく。そして自身を犠牲にして、田舎町の住民たちが新年を祝えるようにするのだ。

これらのサインはアルバニア映画において輝きながら、バルカン半島の外では何も意味することはない。それでもアルバニアで育った人々には、これら印象的な場面の数々は複雑で感情に満ちた美術的遺産を象徴している。永遠に消えてしまう危機に陥っている遺産を。

こんにち、1党独裁体制が崩壊して20年と半分が経った後においても、アルバニアの映画的な遺産はあまり知られていない(それについて書かれてもいない)おそらくとても知識のある映画批評家でも挙げられる監督や作品は、厳格だったマルクス的政府が衰えていった時代から現れたものだろう。例えば"Tirana Year Zero"(2001)のFatmir Koçi「スローガン」Gjergj Xhuvani ジェルジ・ジュヴァニらは、Enver Hoxha エンヴェル・ホジャ(1908~1985)という指導者を独裁を行っていた時代に生きるうえでの、今でも続くトラウマを描いた重要な作品を制作した。

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アルバニア人にとって、歴史におけるこの時代は複雑な意味に溢れており、新聞やベストセラーの本、夜のテレビ番組などでも議論が続いている。ある者には映画スタジオの時代に作られたこの映画芸術は痛みを以て閉じられた社会を思い出させるだろう。外国映画をテレビで観ることは"外圧とプロパガンダ"の影響にあると牢屋に収監されることを意味していた社会を。

ソビエト連邦が作った映画スタジオShqipëria e Re(新たなるアルバニア)を1952年に開いたのはホジャ自身である。彼がこのアルバニア唯一の映画スタジオに就任してから、232のフィクション長編、数千のドキュメンタリーやニュースリール、そして数百のアニメーション映画が作られた。

この"The Art of Albanian Motion Picture Design – Highlights from the Kinostudio Years"という展示会は2016年の4月から6月までティラナのアルバニア国立芸術ギャラリーで行われ、1940年代後半の最も初期のアルバニア映画ポスターから2014年の最新デザインまで年代順にお披露目される。ソビエト連邦のデザイナーによる最初の作品群も展示し、アルバニア映画史の最初期にオマージュを捧げている。これらは標準的な社会主義的リアリズムにおける牧歌的な風景を描いている(いくつかは永遠に来なかった栄光の未来を、幸せな形で明示してもいる。老いた吟遊詩人が古代アルバニア叙事詩的な歌を唄う。誇り高き父親が熱心な息子に、トラクターのタイヤの跡がついた肥沃なる大地を見せる)残ったポスターはとても少ないが、残ったものはコレクターアイテムにもなっている。

スターリンが亡くなった1953年から1960年代前半まで、熱意のある映画作家や技術者たちがソビエト連邦での修行を終えて戻ってくると同時に、アルバニア映画は最初の満開期を迎える。Sergei Yutkevichアルバニアソ連の共同制作である叙事詩的映画"Skënderbeu"(1954, 最初期のカンヌで賞を勝ち取った)やKristaq Dhamoの感動的な田園ドラマ"Tana"(1957)などだ。それに加え"Debatik"などは、社会的リアリズムの様式が支配的になった国民映画の誕生を示唆しているだろう。しかしそれも東側諸国における理論的イノベーションによって少しずつ取って代わられていくのであるが。

そしてこの短いルネッサンスは、ホジャが先人であるスターリンの過剰性を批判したフルシチョフに追随することを拒否した時、停滞を迎える。1961年、ホジャはモスクワに行き、ロシアの指導者はマルクス主義に対する裏切者だという強烈なスピーチを行った(このダヴィドVSゴリアテの時代は後にKujtim ÇashkuPirro Milkaniによる映画スタジオ制作映画"Ballë për ballë"(面と向かって, 1979)に結実する)アルバニアは突発的にマルクス主義者としての道を急旋回し、2000マイル離れた毛沢東主義の中国へ向かう。

ホジャより前の時代、アルバニアの映画館ではイタリアのコメディやメロドラマ、いわゆるTelefoni Bianchiという種類の作品が上映されていた。そしてソ連人がアルバニアの映画館に詰めかけ、戦争時の心躍るスペクタクルや集団農場を舞台としたミュージカルを楽しんだ。時おりは西側の作品も上映されることになった。スタンリー・キューブリックスパルタカス(1960)やエリア・カザン「革命児サパタ」(1952, マーロン・ブランドはフランス語吹替だった)にヴィットリオ・デ・シーカミラノの奇蹟がその一例である。だが1960年代に文化的な締めつけが強まっていくことで、この映画的な自由の灯は消え去り、"The East is Red"などの中国映画が増えていった。

アルバニアの観客たちは突然この文化革命の真っただ中に投げ出され、どう対応したのか? 観光客として、ある1人の外国人ジャーナリストが1960年代にアルバニアを訪れ、こう書いている。"中国映画がたくさんの屋外上映場(ある観光客はアルバニアには歩行者のためのドライブイン・シネマがあるのかとコメントしている)でお披露目されている。暗闇の中で、学生たちは濃厚なプロパガンダにブーイングをあげ、口笛を吹いていた"と。暗闇の中での笑いは反抗の一種であったのだ。

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おそらくアルバニアの観客は自分たちの国民映画が隆盛してから、こうも簡単に他の映画を軽蔑することができたんだろう。ソビエト連邦でカメラマンとして訓練した人物は立派な映画監督になった。1960年代中盤、アルバニアジョン・フォードと呼ばれるDhimitër Anagnostiは2作の逞しい映画を作った。モノクロの"Komisari i dritës"(輝ける人民委員, 共同監督はViktor Gjika)と、海を舞台としたスリラー映画"Duel i heshtur"(沈黙の決闘, 1967)である。男優や女優の新しい世代、例えばTimo FllokoRikard LjarjaRobert NdrenikaMevlan ShanajRoza Anagnostiなども映画における演技芸術を、舞台の伝統から、必要な時大きなスクリーンを支配できる、アクセスしやすい雛形に変えたのである。テレビを持つことがほとんどのアルバニア人にとって贅沢だった時代から、映画の観客数は膨大であり、住民たちは1年に10本の映画(圧倒されるほど国威発揚的な)驚くことに、アルバニアの国土に反比例して、映画スタジオは1975年から1980年まで1年に13本もの映画を作っていた。

皮肉にも、頻繁にカオスだった文化大革命の真っただ中で、吹替えられたアルバニア映画だけがイデオロギー的に純粋な製品であり、中国の映画好きには合っていた。Gëzim ErebaraPiro Milkaniパルチザン映画"Ngadhnjim mbi vdekjen"(死を越えた勝利, 1967)は中国においてマイルストーンであり続けた。その長い影響はシャオ・チアン「玲玲の電影日記」でフィクション化されている。この毛沢東の映画館における中国人の生活を甘酸っぱく描き出す作品において、面目をつぶされた妊娠中の労働者は、"Ngadhnjim mbi vdekjen"アルバニアの女優Eglantina Kumeが死にも臆さず進んでいく姿を見て、自殺を思いとどまる。中国の共産主義政権は、アルバニアの男優Rikard Ljarjaが、映画内でギターをかついでパルチザンの歌を唄う場面があったことで、中国全土のアコースティック・ギターを壊すことを取りやめたという伝説もある。アルバニア映画はフィクションにおける自殺を止める力を持ち、独力で中国のギターを守ったようなのである。

初期の映画ポスターは驚くべきもので、リアルな皮肉や見せびらかし、サイケの仄めかしから作られている。例えばKsenofon DiloGrigor IkonomiMyrteza FushekatiShyqyri SakoNamik Prizreniなど、ジャンルにおける巨匠や芸術家による濃厚な色彩の大胆な構成が特徴的だ。

1968年から1973年の間、アルバニアの美術界では予期せぬ雪解けが起こった。この自由化の理由は多様なものであるが、いくつか例を挙げられる。1967年にアルバニアは世界初の無神論的国家を宣言したのだ。その過程で膨大な数のモスクや教会を破壊したのである。そして1968年にはソ連プラハに侵攻した後、ワルシャワ条約機構から撤退した。ホジャはしばらくの間それをスムーズに成し遂げようとしたようである。首都ティラナのメイン通りにおいて、彼は本やロックのレコードを禁止したのである。絵画においてはEdison Gjergo"Epika e yjeve të mëngjesit"(朝の星々の叙事詩, 1971)という時代を象徴する作品を作り上げた。そして国際ブッカー賞の受賞作家であるイスマイル・カダレは2作の傑作を書き上げた。"Kështjella"(城, 1970)と"Kronikë në gur"(石の年代記, 1971)である。

映画ポスターにおいてもその移行は反映されている。Shyqyri Sakoによる"Duel i heshtur""Horizonte të hapura"(開かれた地平線, 1968)の印象的なデザイン、そして"Odiseja e tifozave"(翼のオデッセイ,1972)の色とりどりなカット&ペーストは代表的なものである。そして何本かの記憶に残る作品もこの創造的な自由の炸裂から生まれた。コメディ作品Kapedani(1972)や、アルバニア北部の高地にはびこる深刻で家父長制的な伝統を反映したスタイリッシュな作品である、Piro Milkani監督作"Përse bie kjo daulle"(なぜ太鼓は響くのか,1973)などである。1973年にはこの芸術的な開放は突然の停滞を強いられてしまう。ポスターも、想像的なデザインの"Kapedani"から、黙らされた否定的なデザインのMyrteza Fushekatiによる"Momoza llastica"(甘やかされたミモザ, 1973)のようなものに取って代わられてしまう。

しかしアルバニアがさらにドグマ的な社会主義的リアリズムの様式に鞍替えするうち、映画的な結実もまた増えていく。理論的な停滞にも関わらず、映画スタジオに所属する編集兼映画監督のXhanfize Kekoは、子供映画というジャンルを駆使して、同僚の男性監督による作品には見られない関心を表現してみせた。1977年の作品"Tomka dhe dhokët e tij" (トムカとその友人たち)は子役たちから自然な演技を引き出す注目すべきスキルをフルに発揮している。内容としてはある少年たちのグループが自分たちのサッカー場を軍事基地にしてしまったドイツ人兵士に復讐するというものだ。1970年代の過渡というこの時期に見るべきポスターはKleo NiniAlush ShimaAzis Karalliuらのもので、手書きで想像力に溢れた、力強いものである。

そして映画作家の新しい世代、社会主義ルーマニアで学んだKujtim ÇashkuSpartak Pecaniがバトンを受け取った。例えばÇashkuの異様な"Pas vdekjes"(死の後に, 1980)やPecaniの"Si gjithë të tjerët"(他の皆のように, 1981)などがその代表例である。1974年以降のこの時期、映画スタジオではアニメーションが作られるようになった。最初のアニメーション・デザイナーたちはルーマニアで勉強しており、彼らの最初期のポスターは有名な東欧、特に1960年代のポーランドのポスターにオマージュを捧げたものだ。アルバニア最初のアニメーション映画は"Zana dhe Miri"(ザナとミリ,1975)という、しなやかで挑発的、ミニマルな作品だった。ポスター自体もそういったものだ。

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1985年におけるホジャの死より前の5年間は、独裁政権の最も荒涼とした時代だった。1978年に中国と決裂した後、アルバニアの孤立は深いものとなった。毎年行われるメーデー・パレードの際に旗は立てられながらも、既に感情を全て失った手を握っていた訳である。昼も夜も停電が続いた。機械の新しい部品もなかった。ほとんどの家族は夜明けに起きて、パンやミルク、灯油のため列に並ばなくてはならなかった。1982年、Viktor Gjikaは多くの才能や映画スタジオの資源を一か所に集め、この国で最も高価な映画を作った。1912年のアルバニア独立宣言を描いた、圧倒的な愛国主義的クロニクル"Nëntori i dytë"(2度目の11月)である。

エンヴェル・ホジャの死後には当惑が残されながら、イデオロギー的な高速具からは暫定的に解放されることになる。共産主義のシステムが崩壊する前の80年代後半、アルバニアの観客は450ある室内・野外映画館に詰めかけ、Dhimitër Anagnostiの愛すべき"Përrallë nga e kaluara"(過去からの物語, 1987)やBujar Kapexheの崩壊を滑稽に予見する"Tela për violinë"(ヴァイオリンの弦, 1988)を観に行った。この印象的な2作は10年前は考えられないもので、ホジャ時代の社会主義的再現映画から、個人的な悪魔に憑りつかれた人々の映画へ移行していった訳である。Ndriçim Xhepa"Flutura në kabinën"(キャビネットの中の蝶, 1988)で、孤独で不機嫌な酔いどれトラック運転手として愛が持つ救済の力を目撃する。一方でMarjeta Ljarja"Rrethi i kujtesës"(記憶の環, 1988)で、精神医学の救済の力を発見するホロコースト生存者を演じている。

独裁制から民主主義への困難な移行は映画スタジオ"Shqipëria e Re"の死を引き起こした。そして西側諸国が初めて見たアルバニアのイメージは何千人もの難民たちが衰えゆく政権から逃げ出し、イタリアへ行くためボートでアドリアン海をわたる場面だった。90年代前半のほとんどはアニメーター、編集、監督、カメラマンたちには仕事がなかった。以前の従業員たちは映画スタジオから離れ、首都の外へ移住していた。そして閉じられた鉄の門が開き、再び映画製作ができるようになる日を願っていた。映画作家Eno Milkaniは1990年代中盤の悲しい時代をこのように振り返る。彼がスタジオに赴いたところ、ビルの重い鉄扉が撤去されスクラップとして売られていたそうだ。40年前に開いた後、映画スタジオ"Shqipëria e Re"は完全に消え去った訳である。

しかし90年代にそれ以降、観客の頭からは"Kapedani""Debatik""Përrallë nga e kaluara"が頭を離れなかった。何故ならこれらの作品がテレビで延々と流れ続けたり、ビデオが道端の市場で売られていたからであり。イデオロギー的な内容に関わらず、スタジオ映画はアルバニア人集合的記憶の一部になったのである。

だがこの20年間、アルバニアの映画遺産はあらたな困難に直面している。他の国と同じように、オリジナルのネガが褪色し始めているのだ。アメリカの映画活動家Regina Longoによって始められたアルバニア映画プロジェクト(ACP)という組織は、アルバニアの危機に瀕した映画に世界中の関心を集めるためのものだ。アルバニア独立の100周年が祝われた2012年の11月、ACPはViktor Gjika"Nëntori i dytë"リマスターを行った。次はXhanfize Keko"Tomka dhe shokët"のリマスターを行い、1977年のアルバニアで上映してから実に37年後、イギリスで劇場公開された。いくつかのリマスターによって、映画スタジオ時代にアルバニアで作られた映画の数々は国際映画祭やレトロスペクティヴで上映されることになるようだ。

こんにち、この映画スタジオ時代の映画たちはある種の復活を遂げている。映画批評家Julian Bejkoは過去のアルバニア映画における複雑なニュアンスと大きな社会的移行について分析した、2冊の素晴らしい本を出版している。アイルランド映画批評家映画作家Mark Cousinsアルバニアへと旅行し、長編のエッセー映画"Here Be Dragons"を製作、アルバニアの映画遺産を守ることの歴史的な重要性について描いている。Cinema Du Reelでは過去のアルバニア産ドキュメンタリーを上映するプログラムを行い、パリのポンピドゥーセンターでも上映が行われた。

それでも2016年、現状は恐ろしいものだ。次の10年間で深刻な進歩が成されず、映画を貪りつくす破壊的な科学の脅威に立ち向かえなければ、6400の最初期のアルバニア映画たちは消え始めることになるだろう。何よりも、この古典ポスターの展覧会"The Art of Albanian Motion Picture Design – Highlights from the Kinostudio Years"はアルバニアと各国の人々に向けて、この国の映画が直面する脅威を伝えるために行われている。

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映画スタジオ時代、アルバニア映画が上映されるにあたって、プロダクション・デザイナーたちは独創的でユニークなポスターを作るよう努め、それらは2016年、この国立芸術ギャラリーで開かれる展覧会でも展示される。Sali AllmuçaArben BashaKsenofon DiloMyrteza FushekatiGrigor IkonomiAzis KaralliuBujar LucaKleo NiniNamik PrizreniAlush ShimaDhimitër TheodhoriAstrit TotaIlia XhokaxhiShyqyri Sako(まだまだいるが)らこそ、才能ある職人たちであった。

彼らそれぞれの貢献は映画デザインという芸術において、想像を絶するほどの達成である。この展覧会は劇映画やアニメーション、ドキュメンタリーといった作品のオリジナルのワンシートやハーフシート・ポスターだけではなく、衣装スケッチや制作スチール、リーフレット、チラシ、オープニング・ナイトの案内なども展示してある。映画スタジオ時代に作られた数百のポスターから、キュレーターたちは特に手書きで書かれた作品を選出した。それらこそ最も芸術的で最もオリジナル、芸術とプロパガンダ、歴史を自由に内包したものであると思われたからである。

ある時代、これらのポスターはイデオロギー的な検閲や望まれないサブリミナル的メッセージの挿入という厳しい過程を経ており、そのコピーはアルバニア各地の数百という映画館に送られた。それらを今見ると、今とは異なる熱狂や刺激が存在した時代が戻ってくるようだ。才能あるアルバニア人の芸術家たちが集まり、クリエイティヴで目を惹くような形で映画を視覚化しようと試みる。しかも求められるイデオロギー的内容も無視しないでである。

彼らクリエイターにとって、構成や視覚的内容は芸術の核である。しかし検閲にとっては社会主義リアリズムの原理に従ったメッセージやポーズが絶対なのである。これらが均衡する場所を見つける必要があったのだ。デザイナーのほとんどは極めて慎重であり、間違った線や色彩、ポージングや人物で大きなトラブルに巻き込まれることを知っていた。それを敢えて越えようとする者はポスターデザインを一種の闘技場のように捉えていた。スタジオでよりも少しだけもっと自由に、自身を表現できる場所である。1960年代から70年代前半、ポスターのデザインや表現方法は、英雄的だとか革命的だとかは少し抑えた上で、さらに印象主義的で主観的なものだった。それは西側諸国の映画に多くを負っていて、例えばイタリアやフランス映画、そしてロシア構成主義が主だった。

いくつかの愛らしいものを除いて、展覧会のポスターは結局似たような主題に取り組んでいた。悪と戦う善の勝利、英雄的な反ファシスト戦線、国の経済的な再建、古い生き方との戦いと軽蔑、社会主義的リアリズムを背景に行われるロマンス、理想と共産党、国のために人生を犠牲にする伝説的な人物……映画スタジオはデザイナーたちが間違いを犯さないよう念を押し、人々の人生は主人公の姿が持つメッセージ性や気構え、苦闘や勝利を反映していると思わせた。ポスターは正しく比喩的で、写実主義的な形で描かれ、ネガティヴと思われる全てに対し、それらを消し去るようなポジティヴさが要求された。映画が上映されることを伝える以上に、ポスターは長年字が読めなかった多くの人々に"1000の言葉"を訴えかけるようなものとして実用的であるべきだったと、それは忘れるべきではないだろう。ポスターは来たる映画に対する視覚的プロローグであったのだ。映画の最初のピークとして、道で、組合で、壁や木に貼られ、工場や学校にも現れ、貼れる場所ならどこにでも現れるものだったのだ。

共産主義の間、これらのユニークなポスターたちは文化イベントを告知するにも重要な役割を果たした。政権下での乾いた、一辺倒な人生からの、しばしの休息を与えてくれた訳である。その時代は自身の願いを声高に主張するのも、自分が孤独であると認めるのすら危うい時代だった。マヤコフスキーが言った通り、ペンは銃剣でもあったのである。アルバニアにおいて、1970年代後半からヨーロッパ全土を覆った共産主義の終りまで専制政治が熟していく過程で、おそらくこれらの映画やポスターはその時代を耐える助けとなっていったのだろう。

アルバニア映画への私の個人的な旅路は2014年に完成した。Iris Eleziとともに、私はアルバニア/イタリア/コソボ共同制作の作品"Bota"の監督・脚本を手がけた。この劇的な(時おりコミカルな)作品はチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でプレミア上映された。映画はアルバニア共産主義後を描いた緩やかな比喩として、3人の夢追い人が沼の端に位置する寂れたカフェで時間を過ごす様を描いている。"Bota"主演の俳優として、映画スタジオ時代における2世代に渡る才能が顔を出している。Tinka Kurtiアルバニアの初長編"Tana"(1958)の主演俳優で、Artur Gorishtiハンフリー・ボガートに対するアルバニアからの解答とも言われた人物で、1983年にKujtim Çashku監督作"Dora e ngrohtë"(温かな手)で電撃的なデビューを果たした。

カルロヴィ・ヴァリのステージに立った時、私は頭の中で計算をした。そして、両親がカリフォルニアのモントレーにある軍用映画館に、たった2人残され"Skënderbeu"を観てから約60年が経ったのだと気づいた。

次の60年は簡単ではないだろう。アルバニアにはまたシネマテークがなく、映画館自体がかなり少ない。しかし希望もある。アルバニア国立芸術ギャラリーやアルバニア国立映画アーカイブアルバニア国立映画センター、そして映画を上映するキュレーターたち……アルバニアの豊かな映画史についてのこの魅力的な展覧会は議論や討論を呼ぶだろう。そしてアルバニアの映画にはもっと真剣に勉学や保護、祝福する価値があるとも分かるだろう。

Thomas Logoreci

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広大なるスロヴェニア映画史とLGBTQ~Interview with Jasmina Šepetavc

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて今回はスロヴェニア映画史特集第4弾である。インタビューしたのはスロヴェニア映画批評家Jasmina Šepetavc ヤスミナ・シェペタブツだ。彼女は批評家として執筆を行うと同時に、ヨーロッパ最古のLGBTQ映画祭であるスロヴェニアLGBT映画祭でプログラマーをしている。そしてスロヴェニアにおけるLGBTQ映画製作・受容についても研究している。という訳で今回はスロヴェニア映画史の他に、スロヴェニアで制作されたLGBTQ映画やそれがどのように受容されていくかについて聞いてみた。するとスロヴェニアとLGBTQの関係性の深い歴史が見えてきた。という訳でインタビューをどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず、あなたはどうして映画批評家になろうと思ったんですか? それをどのように叶えましたか?

ヤスミナ・シェペタヴツ(JS):まず私は熱心なシネフィルで、映画は人生に大きな影響を与えてきました。人生の様々なステージで私自身について教えてくれたり、新たな考え方を開いてくれたんです。だから映画はいつでも大切なものでした。毎日の現実から逃げるためのものであるだけでなく、新たな視点を獲得するためのきっかけだったんです。映画について書くという自信は最初なかったんですが、修士に取り組んでいる時、芸術の批評雑誌Tribunaに参加することになりました。この雑誌は1960年代から発刊されている学生雑誌で、歴史を通じて理論的、批評的、政治的、美術的議論を提供してきました。この実験のための空間では、記事の内容や形式などで新しいことに挑戦する自由があり、それが私を含め多くの人々にとって重要なことでもありました。それから私は映画について広く書き始め、とても才能ある人々と仕事をともにできるという特権を得た訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな作品を観ていましたか? その当時のスロヴェニアではどんな映画を観ることができましたか?

JS:私は1980年代の後半にツェリエというスロヴェニアで3番目に大きな都市で生まれました。日本の基準では小さな方だと思いますけどね(当時は4万人ほどの住民がいました。)しかし、ここには2つの古い映画館があったんです。古い建物の中に動くと軋むような木製の椅子があって、そこでコンサートやダンスが行われるとそんな場所です。私はそこが町の中で最も好きでした。シネコンよりこっちのが良かったです。

幸運だったのは、母が(今でもですが)すこぶるシネフィルで、早いうちから様々な作品に触れることができました。彼女は週末にテレビで古典映画を観ており、どのように作られたか、俳優は誰か、映画が作られた後にどのような運命が待っていたかなど、その背景についてもよく知っていました。それからビデオレンタル屋のサブスクをしており、スロヴェニアの映画館ではやらなかった新しい映画を観ていました。その頃ケーブルと衛星放送は普通ではなかったので、TVで観られる映画は限られていたのを覚えていますが、それでも何とかやっていました。スロヴェニアクロアチアの国営放送は文芸映画、商業映画に古典映画のラインナップが素晴らしかったんです。90年代にはケーブルテレビが普及して、シネコンも現れ始めました。そして2000年代にはインターネットも普及し始め、つまりは海賊行為も普通になってきた訳です。

TS:あなたが初めて観たスロヴェニア映画はなんですか? それについて感想もお聞かせ願えますか?

JS:正確に何が最初だったかは思い出せませんが、それは"Kekec"に間違いないでしょう。1950年代のとても人気な子供映画で、とてもスロヴェニア的(観念的とも言えるでしょう)な作品でした。舞台は山間部(初期のスロヴェニア映画は山岳地帯や登山にこだわりを持っていました。今でも山は国の象徴なんです)で、主人公はとても勇敢で善良な羊飼いの少年と彼の友人たちです。臆病だけども優しいロジュレに目の見えない彼の妹モイカです。彼女が囚われの姫君役で、恐ろしい山男ベダネツに誘拐されてしまいます。だから頭がよく勇気あるケケツが助けに行くんです。

私たちは皆この映画を観ていますし、続編もあります。何て勇気があって賢いんだ!とみながケケツに共感します。こんにちではその裏側にイデオロギーを見ることができるでしょう。スロヴェニア国民意識ジェンダーロールがいかにこの映画を形成しているのかという訳です。それでも"Kekec"スロヴェニアの皆が人生で1回は観たことのある映画です(テレビでも何度も放送していました)

TS:スロヴェニア映画史において最も重要な作品は何でしょう? その理由も教えてください。

JS:難しい質問ですね。それは何に価値を見出しているかで変わってきます。例えばスロヴェニアでは1905年に初めての映画が作られました。弁護士でパイオニア的な映画作家でもあるKarol Grossmann カロル・グロスマンが自身の故郷であるリュトメルや庭にいる家族(彼は妻の頭をフレーム外に置いているので、ただ女性の胴体や子供たちが見えるだけなんですが、それは象徴的です。なぜならスロヴェニア映画は歴史を通じて女性に優しくはなかったからです)を描いた作品を撮りました。最初の長編は"V kraljestvu Zlatoroga"は1931年に作られました。人々が(予想はつくと思いますが)登山に行くという内容です。技術的に制作するのが難しい作品でしたので、スロヴェニア映画史においては重要な1歩となりました。第2次世界大戦後、スロヴェニアユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となりましたが、連邦に所属するそれぞれの国はそれぞれの映画を作りました。広く普及したのはパルチザン映画でしたが、1953年には有名なチェコ人監督František Čap フランチシェク・チャプリュブリャナに移住し、"Vesna"を作りました。それはスロヴェニアにおける初めてのハリウッド的な作品で大ヒットしました。彼はリュブリャナ(当時は荒廃していました)を真の大都市に変えたんです。内容としては高校生の少年少女が大学を前にして最後の試験に臨む一方で、恋にも落ちるというロマンス映画です。60,70年代にはBoštjan Hladnik ボシュチャン・フラドニクMatjaž Klopčič マチャス・クロプチッチなど若い作家が、ヌーヴェルヴァーグ(彼ら2人はともにパリで勉強し、この潮流の作家の元で働きました)にインスパイアされた文芸映画を作り、当時は新しく興奮させられる作品として受け入れられました。

ユーゴスラビア解体後、新たな作家たちが前線に現れましたが、彼らの作品全てが素晴らしかった訳ではなく、観る人も多くはありませんでした。当時の大衆の意見としてはスロヴェニア映画は全てクソだというものでした。中には例外もあって、例えば1997年制作の"Outsider"は父が軍人だったためリュブリャナに移住してきたボスニア人少年が主人公です。1980年代、つまりユーゴスラビアの指導者ティトーが亡くなる時代を描いていました。それは映画において背景でしかありませんが、他に今作はスロヴェニア外国人差別やパンクムーブメント、80年代において共産主義的生活の力強いオルタナティヴとなった潮流を描いています。今作は大ヒットし、文化プログラムの一環として小学校でも上映されました。集団レイプの場面をジョークとして描く(レイプがそう描かれるのは90年代のスロヴェニア映画においては普通であり、同僚のTina Poglajen ティナ・ポグライェンはこのトピックについて調査し、当時作られた映画の50%でレイプや性的な虐待が描かれたと突き止めました。吐き気を催す事実です)など問題含みでもありましたが。

最近、過去とは異なる新しい世代の映画作家が現れ、スロヴェニア映画に新しい興奮をもたらしています。それは長い間この国に欠けていたものです。

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TS:もし好きなスロヴェニア映画を1本だけ選ぶなら、それは何になるでしょう? その理由は? 個人的な思い出がありますか?

JS:何本かありますが、新鮮なものを選びましょう。去年私が感銘を受けた作品に"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"があります。痺れるような画面に、ユーゴとイタリアの国境線に生きる人々を描いた夢見心地の物語が素晴らしいんです。今作を観ながら思い出したのは祖母について、彼女は語り手であり、田舎の人々や彼らの運命を描いたその物語からは魔術的リアリズムを仄かに感じました。奇妙な偶然と出会い、時には幽霊も現れ……その光景は祖母の物語を聞きながら浮かんだ子供の頃の想像とビジュアル的に、奇妙にも重なるところがありました。

TS:2010年代が数日前に終りを告げました。ここで聞きたいのはこの年代において最も重要な作品が何かということです。例えばRok Biček ロク・ビチェク"Razredni sovražnik"Vlado Škafar ヴラド・シュカファル"Mama"Gregor Božič グレゴル・ボジッチ"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"など色々ありますが、あなたの意見はどうでしょう?

JS:あなたの挙げてくれた作品全てがそれぞれの理由で重要なものでしょう。その監督全員が力強い映画作家であり、異なるビジョンを持っています。私としては他にOlmo Omerzu オルモ・オメルズ、現在プラハで活動している映画作家を挙げたいです。それからドキュメンタリー作家のMatjaž Ivanišin マチャシュ・イヴァニシンSonja Prosenc ソーニャ・プロセンツUrša Menart ウルシャ・メナルト(彼女の作品"Ne bom več luzerka"はある意味時流に乗った作品で、全てにおいて正しく立ち回った――いい子であり続け、大学に行き、おかしな仕事に就きながら、休暇を願う――のに、人生で成功できない女性を描いています)後者2人が重要なのは、スロヴェニア映画で女性が監督しているのはたった10%だからです。他にも才能ある人物は多いですが、予算もなしに短編を作り続ける人物もいます。もしリュブリャナ短編映画祭――才能ある映画作家Matevž Jerman マテヴヅ・イェルマンとドキュメンタリー作家であるPeter Cerovšek ペテル・ツェロシェクが運営しています――に行ったなら、未来のたくさんの可能性を目撃できるでしょう。

TS:スロヴェニアにおけるLGBTQ映画について質問する前に、まず聞きたいのはスロヴェニアにおけるLGBTQの現状です。日本においてはスロヴェニアの人々が国民投票同性婚を拒否したというニュースが流れました。実際のところはどのような状況が広がっているんでしょうか?

JS:最近、この国では同性同士の婚姻、権利(例えば相続などです)、同性カップルの養子に関する国民投票が2度行われました。大衆は真っ二つに未だ分かれています。ある一方でリュブリャナの人々はほとんどが協力的です。気にしていない人もいるでしょうが。しかしリュブリャナは世界の主要都市と同じく寛容なのは間違いないです。それでも一方で、投票後のデータによればより小さな町や村では同性愛者の権利に協力的な人の割合が減ります。これは独立後、カトリック教会が大きな影響力を手に入れ、大衆の意見にインパクトを与えるようになったからです。そして(伝統的な)家族に関する同性愛者の権利や問題は協会やポピュリストの保守政党にとって強力な政治的道具なこともあります。保守的な投票者の多くが同性愛者の権利にNOを突きつけるのは驚きではありませんが、リベラルな投票者が外は晴れているからと海へ遊びに行き、選挙に行かないというのには落胆させられます。

国民投票後、政府は同性カップルに異性カップルの権利を与える法案を密かに通しましたが、2つ例外がありました。人工授精と養子についてで、これが問題なんです。なぜならスロヴェニアには多くのLGBTQにまつわる家族がいるからです。実際にパートナーの子供を養子にすることはできますが、普通よりも複雑な過程を経なければなりません。

TS:あなたはスロヴェニアLGBT映画祭のプログラマーだそうですね。日本の読者にこの映画祭について説明していただけますか。スロヴェニアの映画産業においてどのような機能を果たしているんでしょう?

JS:スロヴェニアLGBT映画祭は1984年に始まった、ヨーロッパ最古のLGBT映画祭です。驚きでしょう? そんな映画祭が初めて開催されたのがリュブリャナでなんて。ですが1980年代、リュブリャナには力強いオルタナティブな文化が隆盛しており、異なるサブカルチャー(パンクやLGBTなど)、芸術家集団やバンドを包括していました。新しい世代は硬直した党の体制やその価値観に対してとても批判的で、この批評性は音楽などの芸術、ファッションや人生、政治に反映されていました。この時代は組織化された(当初は主にゲイ文化の)ムーブメントを作るには理想的で、1984年にはMagnusと呼ばれる文化イベントが始まりました。Magnusはゲイ映画の上映も行っており、つまりこの映画祭の前身となった訳です。さらにユーゴスラビアは東と西の狭間にある独自の国家であり、鉄のカーテンの両サイドから旅行者がやってきました。これによってMagnusは最初から国際的なイベントとなり、ヨーロッパの両側から有名なゲストを呼ぶことができました。後にここはゲイ・レズビアン映画祭となり、そして共同体が様々なアイデンティティーを内包するようになるうち、LGBT映画祭として知られるようになる訳です。

映画祭は時代によって異なる見方をされます。80年代には客層の核は(ほとんどがストレートですが)シネフィルや活動家で、彼らはR・W・ファスビンダーローザ・フォン・プラウンハイムデレク・ジャーマンなどの映画を観に来ていました。90年代にスロヴェニアでは価値観の伝統回帰が起こったゆえ、映画祭はますます周縁化されるLGBTコミュニティの強固な拠点となりました。近年、私たちはクィアな物語性を持つ素晴らしい映画の新たな波を目撃しており、そんな映画たちはA級の映画祭でも高く評価されています(例えば「ムーンライト」「お嬢さん」「女王陛下のお気に入り」"Portrait de la jeune fille en feu"などです)なのでこの映画祭はそういった作品を観客に届けられるよう試みており、同時に政治的であり続けながら、異なる国に広がるLGBTの生き方を描いた、周縁化されたイメージや観客が観る機会のない映画を見せられるよう努力しています。例えば、去年最も人気だった映画がクィア・ジャパンです。このドキュメンタリーは日本の多様なクィア・コミュニティや、自身のアイデンティティーに悩む人々を描いています。私たちが幸運だったのは、2年前からスロヴェニア映画センターからより広範な予算のサポートを受けられていることで、彼らはこの映画祭を国にとって重要と見做してくれた訳です。

TS;"Posledice"アメリカで上映された際、英語メディアは今作を"スロヴェニアで初のゲイ映画"と表現していますこれは正しいのでしょうか? 少なくともLGBT、特にゲイ映画の文脈において革命的な映画のようですが。

JS:"Posledice"はとても重要な映画で、少年院における同性愛や有害な男性性といったテーマに取り組んでいます。国際的な映画祭で高評価を獲得しましたが、それはスロヴェニア映画には珍しいことです。それでも今作は"スロヴェニアで初のゲイ映画"という訳ではありません。

ホモセクシュアリティについてはBoštjan Hladnik"Maškarada"(1971)という作品に明確な描写が見られます。今作は性的にあけすけなもので(例えば皆が全裸のヒッピーパーティや不倫、レイプなどが描かれます)10年もの間上映を禁止されていました。Hladnikは他にもクィアな(同時にとてもキャンプな)作品"Ubij me nežno"を1979年に制作しています。しかし彼は唯一の存在ではありません。アマチュア映画作家Stanko Jost スタンコ・ヨストは初のゲイ映画"Dečki"を1976年に制作しています。今作は寄宿学校に住んでいる2人の少年が恋に落ちるという内容の作品です。さらに高名な映画作家Vojko Duletić ヴォイコ・デュレティチはゲイを公言しており、インタビューにおいて自身の映画は"ゲイ"であると言っています。独立後にも同性愛のいくつかのイメージが描かれています。スロヴェニアで長編を作った初の女性監督Maja Weiss マヤ・ワイスは2003年に"Varuh meje"を製作しており、今作にはレズビアンカップルが登場します。内容は少女のグループが国境地帯に旅し、暴力的な家父長制と遭遇するというものです。それから例えば"Dvojina"(2013)にはスロヴェニアスウェーデン人の少女が登場し、リュブリャナで恋に落ちることになります。しかし(これはネタバレになります。が、レズビアン映画を多く観ている人はそう感じないでしょうね)片方は亡くなってしまいます。

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TS:前の質問において、あなたは"アマチュア映画作家であるStanko Jostスロヴェニアで初めてのゲイ映画"Dečki"を1976年に監督した"と答えましたね。グーグルで彼について検索したところ、スロヴェニアで初めてのゲイ映画を作った作家にも関わらず、IMDBにすら記載がなく、ただスロヴェニア語の文献があるのみです。この興味深くも隠れた監督Stanko Jostと彼の"Dečki"について是非とも知りたいです。彼は誰なんでしょう。スロヴェニアでは有名ですか。他に作品はありますか?

JS:Stanko Jostはアマチュアの映画製作者で、私の故郷ツェリエの出身です。彼はツェリエの劇場にアーキビストとして雇われましたが、映画にとても興味がありました。そんな中で彼はFrance Novšak フランツェ・ノシャクの小説"Dečki"と出会いました。今作は1938年に出版され、基本的にスロヴェニア初のゲイ小説とされています。Jostは今作に魅了され、映画を作ろうと決意しました。自身のお金を注ぎこみ、プロの俳優からアマチュアの友人にまで頼み、映画を完成させました。しかし最初の1作は禁止され、後のインタビューでの言葉を借りると、打ちひしがれてしまいました。3年後に自身のお金を使い、警察の監視付きで撮影を行いました(彼によると警察はただの市民で、毎日撮影に来ては万事快調かと聞いてきたそうです)映画はツェリエとリュブリャナで2回上映され、当時における最も有名な映画監督、例えばHladnikなども鑑賞したそうです。

Jost自身もゲイであり、2000年までには自身の人生に幻滅していました。なので作品の最後のコピーも焼き捨てたかったそうです。しかし幸運にもLGBT映画祭によって救い出され、デジタル化されました。そして彼はYoutubeにアップする許可も与えてくれました(残念なことに字幕はないんですが)

映画は技術的に良く組み立てられた映画ではありません。Jostは自分自身で撮影しなければならず、カメラの雑音も聞こえるでしょうし、影やブームマイクがショットの中に映りこんでもいて、さらにショットや演技もぎこちないです。しかし重要なのは内容なんです。さらにJostはワンマンの創作者で、大きな決断力がありました。映画を作るために懸命に戦い続け、1970年代スクリーンに同性愛を映し出したんです。彼に対する称賛は止みません。

TS:スロヴェニア映画はどのようにLGBTQというテーマに取り組んできましたか? 長い歴史がありますか、それとも短いものですか?

JS:前の質問でこれについては話しましたね。ですが1970年に作られた古典作品にも興味深いクィア的なイメージが数多くあります。それは世界的な価値観の自由化と若い監督がそれに触れることができるようになったことが関係しているでしょう。80年代にはクィア描写(BDSMも)のほとんどをビデオアートにおいて見ることができます。それは当時のオルタナティブな動きにおいて大きな役割を果たしていました。例えばBorghesiaというバンドのMVを観ればそれは分かるでしょう。90年代には価値観の脱伝統が行われ、それは生活の様々な面においても明らかでした。映画はもっとヘテロ中心主義的で、女性に対して暴力的になりました。とても陳腐な形でそれらは描かれています。同性愛(ほとんどはゲイですが)が映画やテレビに映し出される時、それは陳腐も同然で、時々は被害者として現れることになりました(例えば"Zeveneje v glavi"(2002)をご覧ください)トランスジェンダーは映画にはほとんど不在でしたね。しかしサロメというクロアチアスロヴェニア人のトランス女性を描いた短編ドキュメンタリーなども存在していました。サロメは当時公共の場ではだれも話さなかったトランスの可視性に多大なる貢献をしました。"Božja napaka"という作品で、Youtubeでも観ることができます。

ST:スロヴェニアにおいてLGBTQ映画はどのように受容されてきたでしょう? 例えば2019年には多くの映画、例えば"Portrait de la jeune fille en feu"「ダンサー そして私たちは踊った」"Booksmart"などが世界中の映画祭で上映されましたね。こういった映画はスロヴェニアでどのように受け入れられていきたでしょう?

JS:先に言った通り、近年はクィアな物語を持つ映画が国際的に成功し人気になってきています。スロヴェニアでも例外ではありません。多くの大きな作品、例えば「お嬢さん」女王陛下のお気に入り」"Portrait de la jeune fille en feu"などはスロヴェニアの最も大きな映画祭であるリュブリャナ国際映画祭(Liffe)で上映されましたし、席も売り切れました。"Portrait de la jeune fille en feu"に関しては、私たちのLGBT映画祭でも11月に上映しました(Liffeの14日後ですが)し、それも席が売り切れました。今作は多様な客層を引きつけたんです――LGBTコミュニティ、シネフィル、映画批評家、大衆、Liffeで見逃した人々、もしくはまた観たかった人々などです。

小さな動きが起こっています。過去、LGBT映画祭のオーガナイザーたちは困難を抱えており、それは映画祭に訪れない外野の人々がイベントを嘘の理由でゲットー化しようとしていたんです。映画祭は経緯を持ち、良い映画が観たいという皆に開かれているのに。今は事情が変わってきています。ある種のクィア映画に関して、スロヴェニアでの上映前に話題になった作品は、(異なるアイデンティティを持つ)人々が映画祭へ観に来るようになったんです。

TS:スロヴェニア映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだと良いものに見えます。新しい才能が有名な映画祭にどんどん出ていますからね。例えばロカルノMatjaž IvanišinトロントGregor Božičなどです。しかし内側からだと、事態はどのように見えてくるでしょう?

JS:現在は新たな世代の監督たちがいて、彼らはスロヴェニアを越えて、世界で競うことのできる作品を作っています。素晴らしいことですね。スロヴェニア映画センターもスロヴェニアの映画業界における男女不平等という問題に取り組んでおり、とてもポジティヴに働いています。同時に、スロヴェニア映画祭は毎年9月に開催されていますが、まだまだ改善の余地があることを私たちに教えてくれます。どれほどの物語がそのクオリティに即して予算がもらえるかは衝撃的です。非難はできません。なぜならそれを作るのに多くの人々が関わっているからです。しかしこれは批評家の仕事だと思いますが、何かがおかしい時、何が悪かったかを分析する必要があります。そうして私たちが自分に対して誠実である時、この国の映画は進歩するんです。同時に、将来がある物語のいくつに予算が下りなかったり、あまりに少なかったりします。スロヴェニアの映画監督に自国の現状を聞いた際、これが最も優先すべき問題だと聞くでしょう。

ファイナンスが貧しすぎるというのは本当です(国は少しだけ出資するばかりで、私たちは個人的にお金を出す機会はありません。しかし今事態は少しずつ変わり始めています。国の映画への出資が大きくなってきているんです)しかし映画は良いアイデアと熱意でできます。ウディーネ極東映画祭は私たちに近いところにあるので、ここ2年で日本から2作品を観ることができました。両方とも予算は少ないですが、とても面白く意欲的な作品で、「カメラをとめるな!」「メランコリック」という映画でした。両作からは、制作するスタッフの熱意が感じられるでしょうし、それが公共における人気に繋がっているのでしょう。

しかし映画作家として映画への愛を以てできることはそれだけです。初長編では機能すると思いますが、後々作家本人とスタッフはそれで生計を立てる必要がありますし、何度も起こる財政的な困難に疲れ果てるのを避ける必要もあります。これはおそらく普遍的なことであり、スロヴェニア映画の未来にも深刻に関わってくるでしょう。

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パキスタン、ここにある長き歴史~Interview with Hira Nabi

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはパキスタンアメリカを股にかける映画作家Hira Nabi ヒラ・ナビである。彼女の制作した短編作品"All that Perishes at the Edge of Land"パキスタンの港湾街ガダニを舞台とした作品である。ここでは毎日、巨大な船舶が労働者によって解体されるという営みが繰り返されている。今作はその営みを静かに観察しながら、ある1舶の船オーシャンマスターに注目する。彼女は私たちに自身の歴史を語りながら、ゆっくりと解体されていく。その様は悲痛なまでに詩的なものだ。今作はサンダンス映画祭などで上映され、話題になったのであるが、今回は今作の始まりからパキスタン映画界の現状まで、様々なテーマを監督に聞いてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず、どうして映画監督になりたいと思ったんですか? そしてどのようにそれを成し遂げたんですか?

ヒラ・ナビ(HN):もし子供の頃は映画の隣で生きていて、監督になることは運命づけられていたと言ったら信じてくれますか?

6歳まで、私はラホールの古い映画館の隣に住んでいました。物語を聞いたりすることも好きだったんです。最初は自分のことを監督というより語り手と思っていたんです。そして映画は素晴らしい物語ですよね。映画は様々な語りを組み合わせて、没入的な体験を作り上げます。それから私はたくさんのボリウッド映画やハリウッド映画を観て育ちました。それから世界の映画と出会い、大学で映画について勉強しましたが、それが映画とビデオアートから作られる実験的な世界を開いてくれました。それは留まることを知りませんでした。

TS:映画に興味を持った時、どんな映画を観ていましたか?

HN:思い出せるのは、例えばトーク・トゥ・ハーバッド・エデュケーションなどのペドロ・アルモドバル作品にクリス・マルケルラ・ジュテです。それからミーラー・ナーイル「モンスーン・ウェディング」ミケランジェロ・アントニオーニ「欲望」も観ました。あとはアンジェリーナ・ジョリージーアを演じたHBOの映画(ジーア/悲劇のスーパーモデル」)でしょうか。

TS:"All that Perishes at the Edge of Land"の始まりは何でしょう? あなたの経験、パキスタンのニュース、もしくはその他の出来事でしょうか?

HN:私は10数年前からガダニの船舶解体場に行きたいと思っていました。チッタゴンやガダニに広がる風景を見たことがあって、それがあまりに現実とかけ離れていると思えたんです。長い間そこに行きたいと思っていましたが、2018年の1月にとうとう行くことができました。カラチのアーティスト・イン・レジデンスのおかげです。その一環でガダニへの旅行を申請し、受け入れてくれた訳です。その時から調査を始めましたが、着いた時にはそのスケールや美しさ、困難さ、悲劇的な状況、そこにおいて広がる語りに圧倒されてしまいました。

TS:日本の読者に今作の中心となる都市ガダニについて教えてください。とてもエネルギーに満ち溢れた場所で観客はここがどこだか知りたがるでしょう。パキスタンにおいて有名な場所なのですか?

HN:ガダニはパキスタンで最も大きい都市カラチから北西へ2時間のところにあります。バロチスタン州の南西部に位置し、地理的にとても多様な地域で、海岸線に沿った場所でもあります。ガダニのある地帯に船舶解体場が位置しているんです。産業が傾くとともに、ガダニの名声も小さくなっていきました。今では忘れ去られ、世界中の移民労働者が船を解体するためにやってくる、打ち捨てられた土地となっています。現在は深刻なスランプに陥っており、解体場には少しの船舶しか存在せず仕事も減っています。もっと活気があった時代、密輸港として架空の口座が作られたことも読みました。労働者たちがこの地に着いた後、サーカス団のように迎えられ注目を一身に受けていたという話も聞きました。つまりガダニはバラバラになる前、人々が外からこぞって集まり驚きを育むような場所でもあったんです。

TS:あなたの撮影スタイルはとても静かで観察的なものであり、ガダニに広がる美しさや儚さを一切の虚飾なしに映しとっています。このようなスタイルを撮影者たちとともにどのように築いていったんですか?

HN:まずはありがとうございます!撮影監督は私自身であり、船や海を撮るにあたっての熟考に多くの時間をかけました。私はいわゆる"スローシネマ"のファンで、急かすことなく時間がそのままに移り変わるのを見るのが好きなんです。イメージは自身について明かすのに多くの時間をかけるべきなので、私はカメラを持ったままで、光が移り変わるのを映し、潮が満ちては引くのを観察し、船や労働者たちが岸辺や道の端で何か言うのを待ち続けていました。私だけじゃなく皆が。何がカメラを持ち続けさせたかと言えば、それは深い忍耐でした。

TS:最も印象的だったことの1つは労働者たちの存在感です。彼らは観客に自分たちの人生や仕事、そして未来について語ります。それは多様な物語としてあなたの作品に浮かびあがっていますね。彼らと交流し、彼らから物語を引き出すにあたって、最も重要なことは何だったんでしょう?

HN:もう一度になりますが忍耐です。彼らが現れるのを待ち、彼らの言葉を聞きます。聞き続けるんです。そして質問をしてから、彼らは去っていく。自分自身の人生、真実について語る余裕を与えるんです。

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TS:あなたの映画では労働者だけでなく巨大な貨物船オーシャンマスターも、また私たちに物語を語ってくれます。彼女の言葉は自身の人生についての長い告白のようでもあり、悲しみに溢れた詩のようでもあります。どのようにオーシャンマスターの言葉を書いたんですか? そして彼女の声を担当した人物Sheherezade Alam シェレザド・アラムをどうやって見つけたんですか?

HN:オーシャンマスターの語りは別の場所から来ています。その幾らかは実際の貨物船オーシャンマスターを調査した際に書いたものです。幾らかはガダニに対する問い、そして英語とウルドゥー語を行きかううち私を助けてくれた母から来たものです。さらにオーシャンマスターの神秘性が大きく負っているのはQurratulain Hyder クラトゥレン・ヒデルの作品、特に"River of Fire"です。

そして長い間Sheherezadeについては知っていて、彼女の顔に濃厚な生を感じたんです。私は老いた女性の魅力的で狡猾、世界主義的で、優しさを纏った残酷さを持つ声を必要としていたんです。そして自身を人生の最後にある船舶になれる人物を探していました。という訳で、Sheherezadeがオーシャンマスターになってくれると言ってくれた時は感謝しました。とても幸運でしたね。

TS:パキスタン映画界の現状はどのようなものでしょう? 外側からだと、パキスタンの映画が公開されないゆえにその状況を窺い知ることができません。しかし内側からだとどう見えるのでしょう?

HN:とても難しいものですね。80年代から90年代において生産性はひどく落ちました。ここ20年、映画製作者たちは死にかけた産業を復活させるために努力してきました。当初、私たちはテレビ的なスタンダードとの繋がりを捨てようとしてきました。今は多くの物語が語られています。ドキュメンタリーからフィクション、ホラーからSFまで様々な長編や短編が、多様な物語を伝えるために作られています。しかし検閲も厳しくなってきているんです。先の作品はパキスタンで禁止されてしまいましたし、今でも上映することができません。本当に恥ですよね。私たちはそれに対抗しているんです。芸術はいじめっ子や扇動者、宗教団体に支配されてはならないんです。

ST:日本の映画好きがパキスタン映画史を知りたい時、どんなパキスタン映画を観るべきでしょう? その理由も教えてください。

HN:不幸なことにパキスタンには映画のアーカイブが存在しません。なのでこの国で作られた映画を追うのは難しいことです。

それでも映画好きというのは賢い人々(私が知る限りは)なので、彼らが探し出すべき作品を挙げておきます;

"Jago Hua Savera" / "The Day Shall Dawn" (1959) 監督:A.J. Kardar A.J.カルダジュ
"They Are Killing The Horse" (1979) 監督:Mushtaq Gazdar ムシュタック・ガズダジュ
"Khamosh Paani" / "Silent Waters" (2003) 監督:Sabiha Sumar サビハ・スマル
"Pakistan's Hidden Shame" (2014) 監督:Mo Naqvi モー・ナクヴィ
"These Silences Are All The Words" (2018) 監督:Madiha Aijaz マディハ・アイジャズ

TS:新しい短編か初長編を作る予定はありますか? もしあるならぜひ日本の読者に教えてください。

HN:今は去年の夏からマリーのアーティスト・イン・レジデンスで始めた作品に取り組んでいます。この計画はとても生産的なものだと思い始めていますね。森の丘に位置する駅が舞台で、環境に関する権利を描くとともに、傷ついた環境でどのように共生を果たすかについて描いた作品になっていると思います。

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広大たるスロヴェニア映画史その3~Interview with Veronika Zakonjšek

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて今回はスロヴェニア映画史特集第3弾である。インタビューしたのはスロヴェニア映画批評家Veronika Zakonjšek ヴェロニーカ・ザーコニシェクである。彼女はスロヴェニア映画批評家でも最も若い世代に属しており、スロヴェニア各地の映画祭でプログラマーなどとして活躍しながら、映画批評を執筆している若き気鋭だ。Petra MetercAna Šturmらのインタビューを合わせて読むと、重なる点が多いが、世代が変わればその興味や思考も微妙に変わってくる。ということでこの記事含め3つのインタビューを読み、スロヴェニア映画の題名をググってYoutubeにアップされている作品を観れば、君もスロヴェニア映画マスターである。ということで、インタビューをどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず、どうして映画批評家になろうと思ったんですか? それをどのように成し遂げましたか?

ヴェロニーカ・ザーコニシェク(VZ):10代を振り返ると、映画批評というのは私の人生の選択には全く入っていませんでした。しかし大学在学中から映画ブログを書き始め、それが自分にとって意味のあるものとなったんです。考えさせられる映画に出会った時何かを書かなくてはと感じることがよくあり、このブログはそれと自己表現が組み合わさったものだったんです。英語の練習にもなりました。それが執筆の新しい機会をもたらすなんて思いもしませんでした。だけども人々が注目してくれたんです。その1人が同僚の映画批評家Ana Šturm アナ・シュトラムで、私に雑誌で執筆するチャンスをくれたんです。同じ頃、彼女はFilmFlowというポッドキャストに私を誘ってくれました。

10代の頃から異様な熱量で映画を観ていました。映画は人生をより満足いくものにし、世界をより理解させてくれて、さらに人として自分を再形成してくれました。しかし今の自分になるには長い時間がかかりました。いくつもの映画祭にボランティアとして参加し、何十時間も映画館に座って過ごし、様々な社会活動をサボってきました。友人たちと飲みに行くより1日4本映画を観る方が好きだった時期もあります。全ては映画への愛、それについて書かなくてはという思いから始まったんです。

TS:映画に興味を持った頃、どんな映画を観ていましたか? 当時スロヴェニアではどんな映画を観ることができましたか?

VZ;私が育ったのはスロヴェニアの経済が社会主義ユーゴスラビアから資本主義へ移行する時期でした。地方の映画館は少しずつ死に絶えていっている時期でもあったんです。大きなショッピング・モールやシネコンが建てられていった訳です。そのおかげで、私はマトリックスロード・オブ・ザ・リングなどのアメリカの娯楽大作とともに育ちました。町のレンタルビデオ店にもよく行っていましたが、ラインナップは限られていて、14歳までにはほとんど全部観てしまっていました。

当時、私にはハリウッド映画やヨーロッパの娯楽映画以外には考えが及びませんでした。例えばアジア映画はほとんど稀で、アフリカ映画やラテンアメリカ映画に関する知識はゼロに近かったです。しかしインターネットが助けになってくれました。普通には観られない故に、世界の古典映画を海賊版を通じて観ていたんです。ゴダールフェリーニベルイマンキューブリックを見つけた後から映画を探し続けた結果、私の世界は少しずつ開いていったんです。大学に入学しリュブリャナに引っ越してからは物事は容易になっていきました。スロヴェニアシネマテークやCity Cinema Kinodvorへ頻繁に行くようになり、映画祭でボランティアもするようになりました。

TS;あなたがまず最初に観たスロヴェニア映画は何ですか? それを観てどのように感じましたか?

VZ:60年代後半から90年代に生まれた子供たちはみなJože Gale ヨジェ・ガレ監督の"Kekec"三部作を観ているでしょう。私も例外ではありません。私が最初に観たスロヴェニア映画は"Kekec"(1951)と"Srečno Kekec"(1963)と"Kekčeve ukane"(1968)でした。ですが当時好きだった作品は"Sreča na vrvici"(1977, Jane Kavčič ヤネ・カブチッチ)と"To so gadi"(1977, Jože Bevc ヨジェ・ベヴツ)、それから最も好きだった作品が"Poletje v školjki"(1985, Tugo Štiglic トゥゴ・シュティグリツ)でした。その時妹が毎週1回はこの映画を観ていて、ほとんどの場合一緒に観ていたんです。今でも20回以上観た作品はこれくらいです。1988年には続編も作られましたが、ほとんどの作品がそうであるように最初のより半分も面白くありませんでした。

TS:あなたにとってスロヴェニア映画の最も際立った特徴はなんですか? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムと黒いユーモアなど。ではスロヴェニア映画はどうでしょう?

VZ:ほとんどのスロヴェニア映画に適用できるような特徴があると私には言えません。最低でも映画のトーンやテーマ、哲学に関する限りは。スロヴェニア映画は鬱々としてユーモアに欠けた社会派映画ばかりというのが公衆の意見であるようには思われます。ですが私はその意見に反対です。そう思う人々は明らかに、私たちの映画がもたらすものの表面にすら触れていませんよ。

ですがもし映画業界の文化的な政治性や予算的な側面について語るなら、際立ったいくつかの特徴があります。固い決意と耐え忍ぶ心、そして粘り強さです。私たちの映画業界は依然として予算的に栄養不足です。ゆえに少ない予算で映画作家たちがクオリティの高い映画を作れている理由は私にとって謎のままです。なので、際立った特徴というのは政府からの補助が欠けながらも、映画業界は――大きな困難にも関わらず!――絶好調なんです。

TS:スロヴェニア映画史において最も重要な映画はなんだと思いますか? その理由もお聞かせください。

VZ:それは"Na svoji zemlji"(1948, France Štiglic フランツェ・シュティグリッツ)でしょう。今作はスロヴェニア最初の長編トーキー映画です。1949年のカンヌ国際映画祭にも出品されました。Štiglicは一般にスロヴェニア映画史において最も重要な作家の1人として見做されています(私の好きな"Poletje v školjki"を監督したTugo Štiglicと混同しないように。彼はFranceの息子なんです)彼の作品"Dolina miru"(1956)は1957年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され、男優賞を獲得しました。"Deveti krug"(1960)はアカデミー賞にノミネートされましたが、イングマール・ベルイマン「処女の泉」(1960)に負けてしまいました。それから"Ne joči, Peter"(1964)はコメディックな戦争冒険もので古典であり、スロヴェニア映画において最も知られ愛されている作品です。

それから"Vesna"とその続編"Ne čakaj na maj"という色褪せない古典も重要です。本作はチェコ生まれの監督František Čáp フランチシェスク・チャプが制作していますが、彼はスロヴェニア映画史における支柱の1人として有名です。

もちろん歴史的な観点から見て、最初のスロヴェニア映画"V kraljestvu zlatoroga"(1931, Janko Ravnik ヤンコ・ラヴニク)も重要です。白黒で撮られたサイレント映画で、話自体は主人公たちがスロヴェニアで最も高いトリグラウ山に登るというシンプルなものです。スカラという登山クラブによって製作されているので、こんにちにおいては素人作品らしく見えます。

それから"Varuh meje"(2002, Maja Weiss マヤ・ワイス)は女性によって監督された最初期の映画です。そしてスロヴェニア映画祭では監督賞を獲得しました。さらに最近同じ映画祭で歴史的な出来事を目撃することになりました。Urša Menart ウルシャ・メナルト監督の"Ne bom več luzerka"(2018)が作品賞を獲得したんです。それは初めて映画祭で女性が最高賞を獲得した瞬間でした。

TS:もし最も好きなスロヴェニア映画を1作選ぶならば、それが何でしょう? その理由は? 個人的な思い出がありますか?

VZ:1本に絞るのは難しいですが、選ぶなら"Ples v dežju"(1961, Boštjan Hladnik ボシュチャン・フラドニク)です。今作はスロヴェニア映画界の古典として一般に見做されています。

私は大学に入学して映画の授業を取るまで観たことはありませんでした。この授業は私の恩師でスロヴェニア映画史のエキスパートでもあるPeter Stanković ペーテル・スタンコヴィチが講師をしていました。今作を観た時、完全に打ちのめされました。当時たくさんのヌーヴェルヴァーグ映画を観ていましたが、それに影響を受け、かつリュブリャナを舞台にした作品が突然現れた訳です。Hladnikは当然フランスで勉強しており、その時期ヌーヴェルヴァーグは最高潮に達していました。彼はこの思想の多くをスロヴェニアに持ちこんだ訳です。しかし官能的でセクシャルなテーマを追求したせいで、彼は"恐るべき子供"と言われるようになります。例えば"Erotikon"(1963)、そして雄弁な一作"Maškarada"(1971)――大好きな映画の1本です――はユーゴスラビアで検閲を受けた初めてのスロヴェニア映画になりました。完全版は1982年まで上映されることがなかったんです。しかし今は最も大胆でラディカルなスロヴェニア映画と見做されています。

"Razredni sovražnik"(2013, Rok Biček ロク・ビチェク)や"Nočno življenje"(2016, Damjan Kozole ダミヤン・コゾレ)、それから去年の"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"(2019, Gregor Božič グレゴル・ボジッチ)を観た時は、初めて"Ples v dežju"観た時と同じような衝撃を受けました。この経験がいかに崇高だったかに浸りながら映画館を後にするあの感覚です。これはそう起こる訳ではありません――スロヴェニア映画ならなおさら!――でも1度起こったなら、映画は琴線に触れて、深いレベルであなたに語りかけてくれるんです。

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TS:2010年代も数日前に終わってしまいました。そこで聞きたいのはこの年代において最も重要なスロヴェニア映画は何かということです。例えばRok Biček"Razredni sovražnik"Vlado Škafar ヴラド・シュカファル"Mama"Gregor Božič"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"などなど。あなたの意見は?

VZ:この10年は全く新しい世代の映画作家たちがスロヴェニア映画を更新していきました。それが始まったのはRok Biček"Razredni sovražnik"(2013)からでしょう。今から3年前には"Družina"(2017)という撮影に10年かけた素晴らしいドキュメンタリー作品も彼は作っています。それからŽiga Virc ジガ・ヴィルツの歴史モキュメンタリー"Houston, imamo problem!"(2016)も天才的で、今作は1960年代前半にユーゴスラビアが秘密裏に宇宙到達計画を進めており、アメリカがそれを買収したという都市伝説を描いています。私が観た中で最も滑稽だったスロヴェニア映画の1つです。

Sonja Prosenc ソーニャ・プロセンツ"Drevo"(2016)と"Zgodovina ljubezni"(2018)で、この10年に否定できない傷跡を残した作家です。Darko Štante ダルコ・シュタンテ"Posledice"も素晴らしいと思います。少年院が舞台の作品で、有害な男性性やセクシュアリティへの問いが沸騰していき、最後には暴力として炸裂していくんです。それからとても詩的で、幻惑的な"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"(2019, Gregor Božič グレゴル・ボジッチ)も挙げましょう。

ですが私個人としてここ10年で最も重要な映画は"Ne bom več luzerka"(2018)です。スロヴェニア映画界には決定的に女性キャラクターが欠けていますが、私にとって初めて共感できたのが今作の主人公でした。さらにこの作品は私たちミレニアル世代の現実を描き出してもいます。この世代は怠惰で無関心、甘やかされて無頓着というラベルを張られることが多いですが、Urša Menartはその語りを変えてしまったんです。この作品で、彼女は私たちの世代がこの経済的困難を生きるのがどれほど辛いか、自身の未来が大学に行く前からもはや変えられない状況がどれほど壊滅的かを描いているんです。今作は世代を越えた対話をスタートさせており、思うに将来はカルト的な評価を獲得するでしょう。

TS:スロヴェニアの映画批評の現状はどういったものでしょう? 日本からはそれを窺い知ることはほとんどできません。ですから日本の読者も現状について知りたがっています。

VZ:私たちはみなフリーランサーで不安定です。だから毎日が絶え間ない戦いなんです。わたしたちの殆どは財政的困難を克服するため他の仕事を並行して行っています。私は様々な映画祭、例えばスロヴェニア映画祭、キノ・オトク国際映画祭、アニマテカ国際映画祭、リュブリャナ短編映画祭(FeKK)で仕事をしています。映画批評だけでは生活できないんです。ですからお金のためというより、愛のために批評家をしているんです。

それでも、私たちの映画批評は信じられないほど強いものだと信じています。それは共同体のようなもので、私たちは力を合わせ、互いを気遣いサポートしているんです。この世界に参加した"最も若い"メンバーの1人として、ベテランの批評家陣からはサポートばかりを受けています。全てが個人に帰結し、争ってばかりいるこんにちの世界においては本当に貴重だと思います。

それから幸運だったのはKino!とEkranという2つの専門的な映画雑誌が存在することです。しかもこのデジタル時代には珍しい紙媒体です。そしてここに掲載されているエッセーやレビューは最高級品なんです。私たちは最近まで独学でしかスロヴェニアで映画批評を学べなかったにも関わらずです。しかし物事は正しい方向へと進んでおり、映画教育も学校のカリキュラムにおいて重要になり始めています。言及すべきなのはKino!の編集長であるMaja Kranjnc マヤ・クラインツです。彼女は将来有望な映画批評家やシネフィルのために"Sharpening the Gaze"という映画批評のワークショップを開催しています。

TS:あなたはプラハで映画批評や理論を学んだそうですね。ということは外国、特にチェコの映画批評についてお知りのものと思われます。スロヴェニアと他国の批評には何か違いがあると感じられますか? もしそうならどのように?

VZ:実際は映画批評を勉強している訳ではありませんでした。人文学のプログラムに登録していて、授業は主に映画学や哲学に焦点が当たっていました。ですが私の哲学教授Douglas Dix ダグラス・ディックスは筋金入りのシネフィルで、映画を通じてカントやハイデガーについて語りました(後者に関してはテレンス・マリック作品を通じてです)彼の授業のおかげで、もっとプロフェッショナルなレベルで映画批評を書きたいと、自分の中で何かが変わったんです。しかし授業は英語で行われチェコ語は勉強していないので、チェコの映画批評については語れません。

TS:あなたはFilmFlowという映画ポッドキャストのメンバーでもありますね。FilmFlowとは一体何でしょう? スロヴェニアの映画批評においてどのように機能しているんでしょうか?

VZ:FilmFlowは女性だけの月刊ポッドキャストです。4人の批評家とシネフィルが文芸映画やスロヴェニアの映画祭などについて語るんです。素晴らしいのはここ以外には映画を表立って語れる場がないことです。執筆は孤独な作業で、他の批評家やシネフィルと語ることで何かが試されることもありません。私にとってはいつでも欠けているものでした。私が育った頃には映画クラブや批評ワークショップは存在しませんでしたから、似たような興味を持つ人々と会ったり映画について語ったりできなかったんです。ですがFilmFlow――そしてこのポッドキャストの創設者Ana Šturm――はそんな世界を開いてくれました。

私が思うに、映画批評にとても重要なのは様々な形やメディアで表現を行うことです。私は紙媒体が好きですし、そこに記事を執筆できるのも本当に幸運だと思っています――今の時代、それは贅沢なことだとも分かってますよ!――けれど多くの人々はシンプルに忙しすぎたり、書かれた文字を読むには疲れ果てているといったこともあります。しかしポッドキャストは運転している途中や自然の中を散策している途中、簡単に聞くことができます。ですからFilmFlowはスロヴェニアの映画批評においてとても大切な貢献だと考えています。

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TS:あなたがスロヴェニア映画祭の宣伝リーダーというのを読みました。日本の読者にスロヴェニア映画祭について説明していただけないでしょうか。スロヴェニアの映画産業においてどのような機能を果たしているのでしょう?

VZ:スロヴェニア映画祭は、今はPortorož ポルトロシュという小さな港町で行われていますが、元々は国民映画週間というものが前身にありました。1970年代前半に私の故郷であるCelje チェリエで生まれたもので、スロヴェニア映画マラソンに名前を変えた後、Portorožに移りました。きっかけはスロヴェニアユーゴスラビアから独立したからです。しかし1998年まではこんにちの名前も役割も持っていませんでした。この映画祭は毎年行われるもので、最新の長編、中編、短編ーーフィクションからドキュメンタリー、アニメーションまで何でもですーーが5日間上映されます。学生による卒業作品や共同製作映画などもです。上映時には記者会見や多くのイベントも開催されます。海辺の1週間がスロヴェニア映画に捧げられ、映画作家やジャーナリスト、国際的なゲストやシネフィルたちが出会い、交わりあうんです。

映画祭はヴェスナ賞式典で幕を閉じます。ヴェスナとはFrantišek Čápが1953年に監督した作品のヒロインが由来です。先にも言いましたね。国際的にこの賞はあまり意味を持ちませんが、スロヴェニアの人々に映画の存在を知らせる意味では役に立ちます。彼らはある映画が賞を獲ったと知り、映画館へそれを観に行くんです。しかしいくつ賞を獲得したかに関わらず(“Stories from the Chestnut Woods”は11もの賞を獲得し、記録を更新しました)映画が利益を生むことは不可能なんです。スロヴェニアの人口は200万人ほどであり、市場があまりにも小さすぎるんです。

TS:スロヴェニア映画批評家に2010年代を代表するスロヴェニア映画を尋ねる時、彼らはいつもその1本にMatjaž Ivanišin マチャシュ・イヴァニシンと彼の新作"Oroslan"を挙げます。スロヴェニアの人々が彼の作品を気に入る理由は一体何なのでしょう? なにか外国人には理解できない、スロヴェニア人が気に入らざるを得ないようなローカル性があるのでしょうか?

VZ:はは、確かに私たちは彼の作品が大好きです! しかしどのくらい多くのスロヴェニア人が実際彼の作品に親しんでいるかは分かりません。彼の作品はメインストリームの観客には普通届いてませんからね。

それに彼の作品はロカルノなど世界の映画祭で好評を博しています。最近MUBIに掲載されたJames Lattimerによるインタビューに出会いましたが、そこで“Oroslan”は“昨年のロカルノにおける控えめな傑作”と紹介されていました。なので私としては海外の観客に対して翻訳で失われてしまうような特定のローカル性はないと思っています。彼のドキュメンタリー作品にはある種の詩情があり(“Oroslan”もそうです。今作を形容するに相応しい言葉は“ドキュフィクション”でしょう)監督は軽快さとユーモアの特別なセンスを持っていて、それが言語の壁を乗り越えていくんです。これは彼の驚異的なドキュメンタリー“Playing Men”に最も言えることでしょう。今作はゲームに明け暮れる男たちの姿を描いた作品で、監督も同じように映画の語りや構成で軽やかに実験をしているんです。このユーモアセンスは彼の学生映画“Che Sara”(2002)にも見られます。今作は神と対話し、イエスを生むと信じている15歳の少女を描いた作品です。

“Karpopotnik”(2013)はこの作品が“捧げられた”人物を知っていた方がより理解が深まる唯一の映画でしょう。その人物とはKarpo Godina カルポ・ゴディナです。しかし背景を知らずとも――今作は監督がGodinaが40年前にそうしたようにセルビアのヴォイヴォディナへ旅し、70年代におけるGodinaという古い友人の旅路を再構成した作品です――素晴らしい映画体験となるでしょうし、誰かがその旅路を追体験する様をぜひ想像してみたいです。

TS:あなたにとって最も将来有望なスロヴェニア映画作家は誰でしょう? 例えば外側からはPeter Cerovšek ペーテル・チェロシェクIvana Vogrinc Vidali イヴァナ・ヴォグリンツ・ヴィダリを推薦したいです。彼らは親密なリアリズムや神々しい詩情によってドキュメンタリーはこうあるべきという規範を乗り越えていっています。

VZ:今はたくさんの才能が現れ始めていますが、今回は私を興奮させてくれる女性作家たちの名前を挙げましょう。

まずはUrška Djukić ウルシュカ・ドゥキッチです。彼女は既に素晴らしい短編を何作も作っています。例えば“Mulci – abortus”(2014)、“Dober tek, življenje!”(2016)、そして“The Right One”(2019)です。本作はカンヌ監督週間とサラエボ映画祭が提携する共同監督プロジェクトの一環で作られました。彼女は現在パリを拠点としており、デビュー長編である“Good Girl”を制作中です。作品で好きな点は、彼女が軽快に映画の様々な技術を駆使していることです。例えばアニメーションや実写の混合など。彼女は中絶や女性の性、傲慢な母親などタブーと思われることが多いテーマに対しても臆することがありません。さらに彼女と脚本家・プロデューサーであるMarina Gumzi マリナ・グムジ(彼女は"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"の共同脚本・製作を務めています)との作品は注視すべきプロジェクトとだと思います。

そしてSara Kern サラ・ケルンです。彼女はスロヴェニア生まれで現在はオーストラリアのメルボルンを拠点に活動しています。 既に“Srečno, Orlo!”(2016)という素晴らしい短編を作っており、現在はデビュー長編“Vesna”(1953年に作られた色褪せない古典作品と勘違いしないでくださいね!) を制作中です。1人の少女ニカが母親の突然の死によってバラバラになった家族の中で成長を遂げるというものです。今作は姉妹のトラブルに満ちた関係性、望まぬ妊娠、虐待、鬱病、感情的に遠ざかった父親との関係などを描いています。作品はScreen AustraliaとFilm Victoriaから助成を受けており、過去にコラボしたRok Bičekが製作を担当しています。

最後はMaja Prelog マヤ・プレログと彼女の初長編“Cent’anni”です(今作は現在ポスプロ中で、2021年のどこかでプレミアが期待されています)私としてもこのとてもパーソナルなドキュメンタリーには期待しています。今作の主人公はブラズという監督の恋人です。彼は2017年に重い白血病と診断されました。骨髄移植の後に半年間病院に隔離されてから、彼はシシリアのエトナ山へ続くドロミテ山脈をバイクで横断することを決意したんです。監督はカメラを片手に少数のスタッフとともに、全てに抗う人生の素晴らしい旅路に彼と出掛けたんです。その結果はもうすぐ映画館で観ることができるでしょう。

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家父長制、ルージュの反乱~Interview with Kostis Theodosopoulos

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのは、"ギリシャの奇妙なる波"でテン年代を席巻した国ギリシャの新たなる才能Kostis Theodosopoulos コスティス・セオドソプロスである。彼は映画批評家アテネ国際映画祭のプログラマーとして活動した後、映画監督に転身した人物。そんな彼のデビュー短編が"Rouge"だ。今作はギリシャに根付いた家父長制にそれぞれの形で反旗を翻す3人の少女たちが主人公の映画であり、爆発的なテクノを背景としたそれぞれの闘争が印象的だ。そんな作品を制作したTheodosopoulosに短編について、ギリシャ映画について、フェミニズムについて聞いてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になろうと思いましたか? どのようにそれを叶えましたか?

コスティス・セオドソプロス(KT):自分はこの10年間、アテネ国際映画祭で映画批評家プログラマーとして活動してきました。それでも最初から映画を作りたいという思いを抱えていました。脚本を書いたり、映画を監督したり。"Rouge"という物語は本当に語りたかったもので、そうして全ては始まったんです。

TS:映画に興味を持った頃、どんな映画を観ていましたか? 当時ギリシャではどういった映画を観ることができましたか?

KT:ギリシャではどんな映画も観ることができました。娯楽大作から文芸映画まで、様々な選択肢があったんです。私はいつでも映画を楽しんでいましたが、ウォン・カーウァイ花様年華「2046」を観た時、もっと深く映画に関わっていきたいと思ったんです。

TS:あなたの短編作品"Rouge"の始まりは何でしょうか? あなたの経験、ギリシャのニュース、もしくは他の要素でしょうか?

KT:家父長制と性差別はギリシャ社会の構造に深く関わっています。不幸なことに女性たちに対するレイプや殺人、家庭内暴力といった事件が無数に起こっています。どれほど多くの事件がニュースにすらならないかについては考えたくないほどです。"Rouge"の始まりは家父長制やその病原性について語らねばという緊急性、そして理論と実践を追及する個人的な必要性なんです。

TS:今作の最も印象的な要素は俳優であるSofia kokkali ソフィア・コカリの存在感です。彼女の顔には厳しい現実への不満が満ち渡りながら、家父長制に対抗する力も漲っています。あなたはどのように彼女を見つけ出しましたか? どうしてこの役に彼女を選びましたか?

KT:彼女に脚本を送ると、気に入ってくれたので撮影できる時間をやりくりしました。彼女のスケジュールはとてもタイトなので。私の意見では、Sofiaは彼女の世代における最も素晴らしいギリシャ人俳優です。彼女と働けるのは祝福のようで、リハーサルや撮影時には最も興味深く、思慮に溢れた問いを返してくれました。彼女はダナイという役において何をしたいかについて頗る明確なビジョンを持っていたんです。

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TS:今作の題名"Rouge"はとても魅力的で大胆なタイトルです。この色は主人公の荒れ狂う心を正に象徴しています。タイトルにこの言葉を選んだ最も大きな理由はなんですか?

KT:"Rouge"は化粧品であることも忘れないでください。ですがこれ以上は語らないようにしましょう。まだ観てない方に説明はネタバレになりますからね。観てくれれば、この意味が分かると思います。

TS;感銘を受けたのは、あなたが"Rouge"で使っている曲の数々です。とても爆発的で未来的なビートは観客の心をワクワクさせます。そして家父長制に対する戦いがいかに鮮烈なものかを象徴してもいます。どのようにしてVejurThe Sexy Christiansらの曲を選んだのですか?

KT:自分は音楽オタクで、LPを集めたり時々は自分でDJもします。Vejurのアルバムを聞いた時、即座に彼の作品を映画で流したいと思ったんです。彼の音楽から漂う郷愁が好きなんです。このレトロな電子音楽は少女たちの物語にとって完璧だと思っていました。Vejurの作品は映画のために作曲された訳ではありません。ですがエンド・クレジットのために曲が必要で、なので私たちはRouge Fataleというバンドを結成し、Krzysztof(Verjurの別人格です)とコラボしました。その曲はここから聞くことができます。

TS:今作に関連して、聞きたいのはギリシャにおいてフェミニズムがどれほど人気であるかです。例えば、日本ではフェミニズムや"#Metoo"はアメリカやフランスに比べると下火です。しかし女性たちは家父長制と戦い始めています。一方で問題もあり、例えばいわゆるTERFという勢力によってトランス女性は排除され差別されています。ですが、ギリシャにおける現状はどうなのでしょう?

KT:ギリシャにおいてフェミニズムは人気のある言葉ではありません。大多数はフェミニズム理論や活動は不必要と考えていますが、不幸なことに現実は彼らが間違えだと証明しています。社会的生活のあらゆる側面において、私たちは不平等や女性嫌悪ホモフォビア、トランスフォビア、そしてもちろんレイシズムに遭遇します。一方でフェミニズムの活動が活発にもなってきていて、そこには未来があります。これこそが必要なことなんです!

TS:ギリシャ映画界の現状はどうでしょう? 外側から見ると素晴らしいものです。何故なら"ギリシャの奇妙なる波"の後にも、新しい才能が有名な映画祭に登場しているからです。例えばヴェネチアKonstantina Kotzamani コンスタンティナ・コザマニトロントMinos Nikolakakis ミノス・ニコラカキス、そしてロッテルダムにおけるJanis Rafa ジャニス・ラファとあなたです。ですが内側から見ると、この現状はどう見えてくるでしょう?

KT:ギリシャ映画界にはたくさん才能がいて、素晴らしいアイデアを持ち、それを興味深い映画として共有する準備ができています。大きな問題は予算を獲得することが難しいことで、映画を完成するのに時間がかかる訳です。ヨーロッパの諸国が補助してくれれば、その時間は短くなるでしょう。

TS:エンド・クレジットを見ていた際、キャスティング・ディレクターYorgos Zoisであることを知りました。彼は"Interruption""Third Kind"の監督でしょうか? もしそうなら、この最も才能あるギリシャ人監督の1人とどんな関係にあるんでしょうか?

KT:はい、彼はその"Interruption""Third Kind"の監督です。彼は素晴らしい監督であり、私の友人でもあります。アテネの国立演劇学校で講師もしていますね。あなたの想像通り、彼の助けは映画のクオリティを左右するものでした。

TS:日本の映画好きがギリシャ映画史を知りたいと思った時、どんなギリシャ映画を観るべきでしょうか? その理由もお教えください。

KT:どの映画を観ればいいのかというのは分かりませんが、私の好きな映画を挙げたいと思います。

"The Photograph" - Nikos Papatakis ニコ・パパタキス (Papatakisはギリシャで最も過小評価されている監督であると思います)

"Strella" - Panos Koutras パノス・クートラス(今作は最も心温まるギリシャ映画だと思います)

旅芸人の記録- テオ・アンゲロプロス (今作は1939年から52年までのこの国の歴史を描いているからです)

TS:新しい短編かデビュー長編を作る計画はありますか? もしそうなら、ぜひ日本の読者に教えてください。

KT:今は短編の脚本を書いています。ドラァグクイーンを主人公とした作品で、再び血が関わってくる作品になっていると思います。

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Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春

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さて、ペルーである。アンデス山脈の険しさ、リャマの可愛さ、日系人の多さなどなど日本人にも親しみ深い国の1つかもしれない。だがこの国の映画を観た人は少ないかもしれない。古い映画だとアルマンド・ロブレス・ゴドイ監督の「みどりの壁」が、新しい映画だとクラウディア・ジョサ「悲しみのミルク」が有名だろうか。しかし2010年代以降のペルー映画は知られていないのが現状である。という訳で今回はそんな国から現れた気鋭の作家Salomón Pérezと彼のデビュー長編"En medio del laberinto"を紹介していこう。

今作の主人公は10代の青年レンソ(Renzo Mada)、彼は母親と一緒にペルーの首都であるリマに住んでいる。彼は学生であるが勉強もせずに、ハードコアを聞きながら、友人たちとスケートに明け暮れる日々を送っていた。そんなある日、彼はゾエ(Astrid Casos Portocarrero)という少女と出会い、恋に落ちるのだったが……

今作はレンソのダラダラとした日常を描き続ける。彼はスケート場で様々な技に挑戦しては失敗し、時々はちょっと成功する。その合間には友人たちと他愛ないお喋りを繰り広げ、夜には家に帰る。反抗期的な態度のままに母親と晩御飯を食べた後、部屋に籠ってハードコアを聞くのである。そんな何の変哲もない日常がただただ続いていく。

監督は撮影監督であるGilberths Martín Rebaza Ponce de Leónこういった日常をめくるめく映像で描き出していく。例えば今作は16mmフィルムで撮影されており、フィルムの粒子が鮮やかに煌めいているのが分かる。そして四隅は丸っこくなっており、どこか夢見心地な雰囲気を醸造することとなっている(最近この丸枠画面をよく見るのだが、リサンドロ・アロンソ「約束の地」震源だろうか?)

そしてその合間には監督自身が作曲した電子音楽が流れ続ける。浮遊感あるその響きはいわゆるベッドルーム・ポップに属するだろう音楽であり、この映し出される世界に漂うような感覚が味わえる。この映像と音楽の組み合わせ、私はラテンアメリカのインディーバンドが大好きなのだが、そのPVを彷彿とさせるものだ。

と、説明するといわゆる80年代90年代にアメリカで流行ったMTV映画みたいな軽薄さなんじゃないか?と疑問に思う方もいるかもしれない。正直に言うと、私自身そんな印象を持っていて、最初は今作にあまり良い印象を抱いてはいなかった。しかしこの物語を目の当たりにし続けるうち、私はあるものを見出したのである。

映画好きならば、こういった10代の青春映画というものを好き嫌いに関わらずよく観ることになると思うのだが、私はそういった作品があまり好きではない。例えば去年だと「エイスグレード」"Booksmart"に乗れなかった。それは何故かと言うと、こういった青春映画は全てフェイクに思えるのだ。それは10代の青春を描いているのに、作り手のほとんどが20代や30代であるのだ。現実にはその時代を終えた人物が10代の青春を語り、"青春の喜びや苦しみだ!"と言う訳である。私はそれに苛立ちを覚えるのだ。

だが今作に関して言えばそうではない。今作の演出は退屈で怠惰で甘酸っぱい、そんな洗練のない青臭いものである。だがそれが誰も描けなかった青春のように思える。退屈で怠惰で甘酸っぱい、そんな洗練の一切ない青臭さだ。監督はこの演出を徹頭徹尾続けることで、まるで10代によって監督された10代の青春映画を作り上げることに成功している。

"En medio del laberinto"は青春の1つの真実に到達している稀有な映画作品だ。最後、レンソがゾエに語る愛の風景は何てぎこちなくも優しく、甘美なものだろう。この題名の意味を知る時、私たちの頬は柔らかく緩むはずだ。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その371 Antoneta Kastrati&"Zana"/コソボ、彼女に刻まれた傷痕
その372 Tamar Shavgulidze&"Comets"/この大地で、私たちは再び愛しあう
その373 Gregor Božič&"Zgodbe iz kostanjevih gozdov"/スロヴェニア、黄昏色の郷愁
その374 Nils-Erik Ekblom&"Pihalla"/フィンランド、愛のこの瑞々しさ
その375 Atiq Rahimi&"Our Lady of Nile"/ルワンダ、昨日の優しさにはもう戻れない
その376 Dag Johan Haugerud&"Barn"/ノルウェーの今、優しさと罪
その377 Tomas Vengris&"Motherland"/母なる土地、リトアニア
その378 Dechen Roder&"Honeygiver among the Dogs"/ブータン、運命の女を追って
その379 Tashi Gyeltshen&"The Red Phallus"/ブータン、屹立する男性性
その380 Mohamed El Badaoui&"Lalla Aïcha"/モロッコ、母なる愛も枯れ果てる地で
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
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その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
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その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春

Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情

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さて、前に2020年代期待の新鋭映画監督100!という記事を執筆した。この記事は未だ短編しか撮っていない、いわば未来の巨匠を特集した記事であり、これを書くために100本を優に越える短編を鑑賞した。そのうちに私は短編を観るのが好きになってしまった。ここには映画界の未来があるのだと思うと、ワクワクせざるを得ないのだ。そんな訳で今も短編を観続けている訳だが、そんな中で新たなる才能を見つけた。ということで、今回はジョージア映画期待の新鋭監督Davit Pirtskhalavaと彼の短編作品たちを紹介していこう。

まず紹介するのは2015年制作の初監督作"Mama"である。今作の主人公はジョージアの郊外に住む10代の兄弟だ。彼らはシングルマザーである母親とともに、慎ましやかな生活を送っている。だがある日、失踪していた父親が突如来訪し、彼らは動揺してしまう。表面上は彼への愛を示しながらも、その実心の奥底には憎しみが蟠っていた。

その夜、彼らは闇に包まれた世界へと出ていき、犯罪を犯そうと試みる。何かを盗み出してお金を稼ぐことが、彼らの生きる手段だったのだ。この日は車からステレオを盗み出そうとしながら、持ち主にバレてしまい、そこから逃走劇に発展してしまう。

監督はジョージアに広がる息苦しい現実を緊迫感とともに描き出す。うらぶれたジョージアの夜を、兄弟たちは生きるために必死に駆け抜ける。しかし現実が過酷なのは、被害者も同じだ。彼もまた犯人を捕まえるために夜を走り続ける。そこで兄弟と男は対面を果たすが、兄の手には銃が握られていた。

そこに響き渡るのは"Mama!"という今作の題名でもある言葉だ。ママは日本語で"母親"を意味するので少し奇妙に思われるが、ジョージアにおいては"父親"を意味している。父を心配する子供の声が、そこには響いているのである。そしてこの叫びは兄弟の心を突き刺す。父を憎み続ける彼らと、被害者を父として慕い叫び続ける子供。様々な情感が絡み合いながら、兄弟はある決断をする。

この巧みな構成が評価されて、2015年のロカルノ映画祭においては最優秀短編賞を獲得することになった。ここで一躍有名になった監督は、3年の時を費やした後、2018年に第2短編である"Sashleli"を完成させる。

今作の主人公は前作においては父の役割を果たしていただろう中年男性だ。描かれるのは彼の日常生活である。ストーブでお湯を沸かし、家族と朝食を食べる。アパートメントの狭苦しい階段を下りていく。そういった灰色の日常の光景が、静かに綴られていくのである。

今作には"Mama"にもあった凍りついたリアリズムが継承されている。ここにはジョージアの現実が鋭く焼きつけられているのだ。しかし物語を観続けるうち、私たちは前作とは何かが違うことを、言葉ではなく心で感じることになるだろう。

今作において鮮烈なのは、場所に関する監督の感覚である。例えば家族が暮らす埃臭く狭苦しい部屋、アパートメントの前に広がる寒々しい空き地、枯れ木が聳え立つ公園、そこでは子供たちがサッカーをして遊んでいる。この空間の広がりや空気感というものを、Pirtskhalavaは撮影監督であるShalva Sokurashviliとともに鮮烈に、そしてある種の息苦しさを以て捉えていく。

だが最も印象的なものはNodar Nozadzeによる編集である。彼の編集はすこぶる断片的なものであり、主人公たちの日常は無数の破片となって私たちに提示される。この断片性は研ぎ澄まされることによって、詩情として昇華されていくのだ。監督はリアリズムの先に存在している詩情へと到達しているのである。

Davit Pirtskhalavaという映画作家は様々な形でジョージアの現在を描き出す、注目すべき作家である。彼は現在、初長編の脚本を執筆中だそうだ。彼の作る長編作品が一体どうなるのか、その動向をぜひとも追っていきたいところだ。

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