鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

悲しい週末にさよならを~Interview with Lida Vartzioti & Dimitris Tsakaleas

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて今回インタビューしたのはギリシャ映画界期待の新人コンビであるLida Vartzioti リダ・ヴァルツィオティDimitris Tsakaleas ディミトリス・ツァカレアスだ。彼らの最新短編"Sad Girl Weekend"の主人公はエリという少女、彼女は海外へ留学する2人の親友と最後の週末を過ごすのだが、その中で不満と悲しみが膨れ上がっていく……今作は色とりどりの風景と夢見心地のサウンドを通じて、人生のある時期との別れを描いた作品だ。さらに監督たちは今作によってカルロヴィ・ヴァリ期待の新人監督10組の1組に選ばれるなど、将来を嘱望されている。そんな彼らに今作の成立過程、ギリシャ映画界の現状、そしてヤモリとのコラボレーションについて語ってもらった。ではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず何故映画監督になりたいと思ったのですか? どのようにそれを成し遂げましたか?

リダ・ヴァルツィオティ(LV):映画監督になりたかったのは、物語を語る上で映画が最も美しく興味深い方法だったからです。子供の頃から、いつも頭のなかで物語を考えていました。そしてそれを紙に書き始め、私の目を惹くものについてだったら何でも映像にしたり、写真にしたりしたんです。映画監督になることはすぐに成し遂げられるものではありません。多くの過程があり、経験も必要です。何かに挑戦し、失敗し、また挑戦するんです。とはいえ最初の一歩が何かと言えば、それは映画学校に入ろうと決意することでした。

ディミトリス・ツァカレアス(DT):とても小さな頃から、いつも映画を観ていたのを覚えていますし、その経験を気に入っていました。面白いのは映画監督、映画に携わる人物になりたかったのが映画やTV番組(主に「フレンズ」です)の制作フッテージを眺めていて、どれだけ多くの人がそこに関わり楽しそうにしていたからかなんです。私が思うに映画製作とはチームスポーツであり、人々が協力して世界を作り上げることに魅力を感じます。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のギリシャではどんな映画を観ることができましたか?

LV:思い出せるのはディズニーやピクサー、スタジオ・ジブリ作品を観ていたことです。何度も観た作品の殆どについては今でも内容を暗記しているくらいです。そこに存在する素晴らしい世界、登場人物たちの冒険、幸福や悲しみ、それから彼らが私の目の前でどのように変わっていくのかをを観るのが好きだったんです。

DT:10代向けの作品や青春映画をよく観ていたのを覚えています。例えば「ブレックファスト・クラブ」ハイスクール・ミュージカルなどです。正直に言えば成長するにあたって、アメリカ映画が主な影響元でしたね。主にそういった映画を観ていました。ギリシャ映画を多く観ていたとは思い出せません。自分の興味に近いものだとは思えなかったからです。

TS:あなた方の作品"Sad Girl Weekend"の始まりは何でしょう? 自身の経験、ギリシャのニュース、それとも他の要素でしょうか?

LV&DT:"Sad Girl Weekend"はある時代の終り、新しい始まり、そして人生において常に変わりゆく状況をどうコントロールするかについての物語なんです。

今作について執筆する際、私たちは"本当の"大人への道の入り口にいました。大学を卒業し、自分自身について、それから私たちをめぐる環境、欲望、必要な物、癖や変わりゆく状況について観察する時期にありました。"明日"への不満は徐々に大きくなっていき、未来への思いは今日についての計画へと変わりました。

今作はテッサロニキアリストテレス大学ファイン・アート学部映画学科での卒業制作でした。それ故にここでは主人公エリの物語、つまり親友や学生としての生活に別れを告げなくてはならない寂しい少女の週末についての物語を語ろうと思いました。"Sad Girl Weekend"は私たち自身の大学生活への個人的なさよならでもあります。映画はエリと彼女の親友であるジョーとナターシャを描いています。後者2人は海外に留学することを決めた故に、3人は最後の週末を一緒に過ごすことを決めます。エリは友人と失うこと、これから来たるさよならに対応できずにいるんです。

エリは置いていかれると感じる私たち自身でもあります。彼女の友人たちは人生の新しい段階を始めようとしているのに、エリは未だ同じ状況にあります。"置いていかれること"、悲しみ、そしてさよならに直面して感じる深さに対応できずにいるんです。私たちは今作を、主人公が絶望に打ちひしがれている自分を発見し、何も考えられずに冷静でいられないという青春映画として語ろうと決めました。彼女は新しい状況に対応できず、友人関係もどうなるか分からないのです。

TS:私が感銘を受けたのは映画における軽やかで色とりどりの雰囲気です。3人の魅力的な少女たちの間で、その雰囲気はおもちゃ箱のなかのお伽噺のように展開していきます。撮影監督であるAsimina Dionysopoulou アシミナ・ディオニソプルとともに、この印象深いまでに色とりどりの雰囲気をどう作っていったんでしょう?

LV&DT:Asiminaとは私たちにとって最初の映画"Yawth"から組み始めました。彼女には全幅の信頼があります。まず物語について話し、彼女は脚本執筆の最初の段階から関わってもらいます。なので物語がどう展開するかも熟知しています。この映画においては主だった参照元はありませんが、感情や雰囲気、ある美学(例えば過去から来たポストカードなど)について話しました。

TS:今作の核は3人の魅力的な少女たちです。俳優たちが体現する彼女たちの不安や興奮、不満はとてもリアルなものでした。あなた方はどうやってこの3人の俳優たち、Natasa Exintaveloni ナターシャ・エキンタヴェロニElsa Lekakou エルサ・レカコGeorgina Liossi ヨルイナ・リオッシをどうやって見つけたのでしょう。そしてこの映画に起用した理由もぜひ知りたいです。

LV&DT:彼女たちがこの"Sad Girl Weekend"という物語に命を与えてくれたことほど幸せなことはありません。Georginaとは最初の短編"Yawth"で既に組んでおり、スクリーンでの彼女の存在感に恋に落ちたんです。それからElsaはCristos Massala クリストス・マッサラの有名な短編作品"Copa-Loca"(私たちのお気にいりの1つです)で見かけ、とても魅力的だったんです。それから私たちはNatasaの作品(映画もTV番組もです)を何度も観ていましたが、何よりソーシャル・メディアにおいて彼女が作りあげるキャラクターの大ファンでした。そして彼女が駆使するコメディやユーモアのセンスは私たちの物語に必要だと思ったんです。

TS:今作のもう1人の主人公はヤモリです。ヤモリは主人公の心において重要な役割を果たし、ヤモリに関する昔話も今作には出てきます。そこで興味を抱いたのは、例えばアイスランドにおける馬、日本における狐などのように、ギリシャでヤモリは特別な意味を持っているかということです。それからヤモリにはどうやって稽古をつけたのでしょう?

LV&DT:ヤモリの演技は私たちとしてもとても誇りに思っています(笑)これは才能あるCGIアーティストのAnestis Eralidis アネスティス・エラリディスに作ってもらいました。Anestisとはとても親密に仕事をさせてもらっていて、映画においてリアルに見えるように何度もテストをしたんです。それからギリシャや地中海沿いの国においてヤモリは幸運の象徴として扱われています。しかし特にペリオン、私たちが映画を撮影した場所であり、ディミトリスが子供の頃夏休みを過ごした場所では、とても悪いことへの兆しなんです。少女たちが映画内で話していた神話は、ペリオンに実在する都市伝説なんです。ですからこの都市伝説を使えば、この物語のレベルを新たに上げられると思ったんです。

TS:そして今作で最も魅力的な要素の1つはMelentiniによるサウンドトラックです。彼女の音楽はとても夢見心地なものであり、あなた方の物語に深く没入することができました。あなた方とMelentiniは何度かコラボレートしているようですね。どのようにMelentiniと出会ったんでしょう? 今作で再びコラボしようとした理由は何でしょう?

LV&DT:実際はこの"Sad Girl Weekend"が彼女との初のコラボレーションになります。その後に彼女の新しいMV"Kids of Glam"を監督したんです。私たちは彼女が素晴らしい劇伴を作ったStergios Paschos ステルヨス・パスホスの監督作品"Afterlov"を通じて、その作品に触れました。この作品では彼女と物語や、音楽がどのように物語に作用してほしいかを何度も話しあいました。彼女は"Koritsia se lypi"というメイン曲のアイデアがありましたが、私たちは彼女にやってほしいことは何でもできる自由を与えて、そのメイン曲が完成しました。そして他の曲も作ってくれたという訳です。

TS:ギリシャ映画界の現状はどういったものですか? それはとても良いものに思えます。何故ならヨルゴス・ランティモス以降にも多くの若い才能たちが有名映画祭に現れているからです。しかし内側からだとその現状はどう見えますか?

LV&DT:ギリシャ映画界の現状は最近良くなってきています。ヨルゴス・ランティモスの成功から、どんどん多くの人々がギリシャ映画界はどんな作品を作るのかに興味を持ち始めているんです。それが若い映画作家の可能性を切り開く可能性を与えてくれています。それでもギリシャの最も大きな問題の1つは映画の予算を獲得するための過程であり、そのせいで次回作を作るのにとても時間がかかってしまう訳です。現在のギリシャでは映画作家になるのには忍耐が求められます。映画作家としての目標を叶えるため自分に挑戦し続ける必要があります。

TS:日本のシネフィルがギリシャ映画史について知りたいと思った時、どんな映画を観るべきでしょう? その理由もぜひ教えてください。

LV&DT:ギリシャ映画を理解するために観るべき作品は多くあるので、選ぶのは難しいです。しかし挙げるならテオ・アンゲロプロスPanos Koutras パノス・クトラスAthina Rachel Tsangari アティナ・ラヒル・ツァンガリTonia Marketaki トニア・マルケタキDennis Iliadis デニス・イリアディス、それからリストはまだ続きます! 難しすぎる質問ですね、これは。

TS:もし1作だけ好きなギリシャ映画を選ぶなら、どの映画を選びますか。その理由もぜひ知りたいです。個人的な思い出がありますか?

LV:今パッと頭に思い浮かぶのはArgyris Papadimitropoulos アルギリス・パパディミトロプロス"Suntan"でしょうか。今作をギリシャの映画館で観たのは冬だったんですが、舞台は夏の小島だったんです。もし自分もこの島にいて、あの熱波を感じられたらと考えると、観ながら興奮しました。現実では冬の冷たい雨が降っていましたが、私の頭のなかは未だに夏だったんです。

DT:私にとってはAthina Rachel Tsangari「ストロングマンですね。予告がネットに流れた時から、ずっと観たいと思ってたんです。もう暗記できるくらい観ましたね。それからテッサロニキ映画祭で今作を観ましたが、どれだけそれに興奮していたか、監督が脚本家のEfthymis Filippou エフティミス・フィリップとともに素晴らしいコメディを作ったか覚えています。そして俳優たちととのコラボレーションも魅力的でしたね。

TS:新しい短編、もしくは長編を作る予定はありますか? もしあるなら、どうぞ日本の読者に教えてください。

LV&DT:今は次の短編を作るため予算を集めています。Uncool三部作の最終作です("Yawth""Sad Girl Weekend"は最初の2作でした)それから初めての長編作品も計画しています。とてもクールな要素がそろっていますが、今はまだ語れません!

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"Otac"~南東ヨーロッパの哀しみをめぐるリアルな肖像画 written by Arman Fatić

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この鉄腸マガジンは長らくこの私、済藤鉄腸が一人で運営してきた。が、最近世界中に映画批評家の友人たちができるにあたって、彼らから何か記事を執筆してもらえたら面白いのではないかと思いはじめた。そこで募集してみると、彼らからいくつか記事が集まってきた。ということで、今回はボスニア映画批評家Arman Fatićから寄稿してもらった、今年のベルリン国際映画祭上映のセルビア映画"Otac"のレビューをお届けする。

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神経衰弱の危機にある女性が、自分の子供たち――9歳ほどの少女と12歳ほどの少年だ――を連れ、古い工場へとやってくる。入口に立ち、女性は作業員たちや管理者に向けて叫ぶ。もし夫の未払賃金を払わなければ、自分と子供にガソリンをブチ撒け、火を放つというのだ。しかし工場には無視と怠惰の苦しみばかりが響き、とうとう女性は子供たちが抵抗するのも構わずガソリンをかけ始める。そして自分にもボトルの残りをかけて、絶望の最高潮で、火をつけた。この驚くほど陰鬱なオープニングで以て、セルビア人監督Srđan Golubović スルジャン・ゴルボヴィチの最新作"Otac"は観客に吐き気と怒りを催させる。しかしこれはセルビアで実際に起こった社会的・政治的出来事を描いたドス黒い物語において前奏でしかない。

工場での事件の後、映画に現れるのはニコラという男、今作の主人公だ――演じるのはGoran Bogdan ゴラン・ボグダン、おそらく彼のキャリアにおいて最も難しい役柄だろう。ニコラの妻は病院に搬送され、子供たちは社会福祉局に引き取られる。彼らを取り戻すため、父は評価委員会がやってくる前に、家族が基本的な生活を送れるようにしなくてはならなかった。しかし委員会はニコラに彼の日雇いでの賃金(工場は事件の2年前にクビになっている)では子供を世話できないと通告する。そして下劣な腐敗によって、地方の権力者はニコラを子供に会わせるのを禁じたため、彼は自身の住む村からセルビアの首都ベオグラードまでの300キロを歩いて踏破しようとする。大臣の決定を変えるためだ。

Golubovićが今作で表現しようとしているものは多い。表面上、この作品は当然旧ユーゴ諸国における官僚主義、抑圧された市民たちの自明な深淵を描いた作品であるが、最終的に今作は人生における社会的・政治的スフィア上の機能不全なシステムについての映画であるのだ。

それでも"Otac"は同様の作品群よりも多くのことを成し遂げている。映画は、顔の表情や感情両方から、官僚主義の恐ろしい堕落まで、その状況を可能な限りリアルに描こうとする一方、監督のGolubovićは不条理なまでに崇高な共感を主人公に向けることで、ここに希望の息吹を託そうとしている。ニコラの周囲にいる登場人物のほとんどは灰色の/黒いモラルや価値観、仕事を持っており、それがニコラとの対峙を緊張感溢れる、とても興味深いものにしている。おそらくそんな登場人物や状況の最良の例はニコラが移民の運び屋と出会った時だろう。彼は人々を虐待し裏切ることで多額の金を奪っていながら、ニコラに対しては慈悲を見せ、無料で彼を運んでくれるのだ。似たような場面として政府の管理者たちとの対話が挙げられる。例えば大臣から送られたベオグラードの監視員や地方のソーシャル・ワーカー、後者はニコラに対して厳しい裁きを下すのだ。

実際の出来事において、映画も同様にだが、メディアのイメージや可視性が際立った役を演じている。あるTVクルーの助けで、小さな地方紙へ向かう時、それは輝かしいものになり、市民たちの独立した行動を求める。それは当然権威が恐れるものでもある。その一方で、映画において権威の座にある者はポジティブなメディア・イメージの役割を熟知している。今作は抑圧的な政治家が少しの共感を見せながら、自身の興味に邁進する姿を映し出している。

もし今作で最も際立ち、衝撃的だという場面を挙げるなら、それは厳しく骨の折れる旅の後に広がる最後だろう。監督Golubovićは主人公に祝福の時やハーモニーを与えることはしない。しかし最後のショットにおいて、彼を取り囲む社会における、また1つの恥さらしなほど腐敗した状況にニコラを晒すのだ。

全体として"Otac"は南東ヨーロッパの社会を描き出した力強い社会派ドラマだと言える。それは他者への乾いた共感やより良い明日への希望から、生を生き始めている。このGolubovićにとって最も複雑な作品はヴェンダースパリ、テキサスのヨーロッパ版として観ることができる。そこに今作はヨーロッパの極における現状を描いているという強烈な事実が付け加わるが。

(オリジナル:Father - a realistic portrayal of the southeastern Europeans' sorrows? by Arman Fatić on Duart)

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Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように

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兄と弟の関係性を描いた作品というものは男らしく、武骨なものが大半を占めるだろう。それは実際の兄弟関係を反映しながらも、多様性という意味では少しつまらなく感じる。だが今回紹介するスロヴェニア期待の映画作家Martin Turkの第3長編"Ne pozabi dihati"はそんな従来の兄弟映画の枠組みを更新する試みに満ち溢れている。

今作の主人公は15歳の少年クレメン(Matija Valant)だ。彼はテニスの有望選手として期待されながらも、何よりも好きなのは兄であるペテル(Tine Ugrin)と一緒にいる時間だ。彼らはどこへ行くにもいつも一緒であり、その絆は簡単に断ち切れないように思われる。

まず今作はクレメンたちの日常を丹念に描きだしていく。例えば2人でバイクに乗って麦畑沿いを駆け抜ける、母であるアルマ(Iva Krajnc)を交えて夕食を食べる、離れて暮らす父親であるミロ(Nikola Djuricko)とともに車の運転を練習する。そういった他愛ない日常の数々が、深い慈しみを以て淡々と綴られていくのだ。

そこにおいて目を惹くのは撮影監督であるRadislav Jovanov Gonzoのカメラが映しだす、スロヴェニアの田舎町に広がる風景の美しさである。そこには常に夕焼けのような橙色が満ちており、それはこの地の夏がいかに豊穣なものであるかを雄弁に物語っている。

実を言うと、私はTurk監督が以前に制作した2つの長編も観ているのだがあまり感心しなかった。デビュー長編である"Nahrani me z besedami"は難解さが、ボスニアで撮影した第2長編"Dobar dan za posao"では素朴さが極端すぎて、観客の解釈に身を委ねすぎなような気がしたのだ。それ故に今作も期待はしておらず、それでもスロヴェニア映画と聞いたら観ざるを得ない質で落胆を承知で鑑賞を始めた訳である。

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しかしその鮮やかな撮影を一見すれば分かる通り、今作は明らかに前作から進歩を遂げていた。風景の鮮烈さが語るのは、監督の研ぎ澄まされた現実への解像度である。彼の視線は頗る明晰なものであり、以前の難解さや素朴さを越える、観客を魅了する豊穣さがそこからは立ち現れてくるのだ。今までと監督が見ている風景が違うと確かに感じられるのだ。

クレメンの望みとは裏腹に、彼の日常は少しずつ変化していく。母親であるアルマに新しい恋人ができたかと思えば、同じ時にペテルにまでソーニャ(Klara Kuk)という恋人ができる。ペテルは彼女にご執心であり、そのせいで徐々に兄との時間が減っていくことにクレメンは気づく。そして彼は孤独になっていく。同年代の友人たちはいるが、それでは満たされない何かが心で蟠るのだ。

そして今作はクレメンの渦巻く不満へと迫っていく。彼はとても寡黙な少年であり、自分をうまく表現できないでいる。ゆえに心に存在する荒波も、自分では到底理解することができない。それが仇となって、彼は無表情で不満を湛えるままで何も言わず、他者を傷つけてしまう。

その中で、彼は兄の恋人であるソーニャと奇妙な交流を果たす。最初は彼女たちのキスを遠目で見るばかりだが、ある時クレメンは彼女が風呂に入っている場面に遭遇する。その裸を目の当たりにしながら、クレメンはソーニャからキスや恋人の作り方について教えてもらう。見かけは初々しい出来事でありながら、しかしクレメンの顔には淡い憎しみのような感情が浮かんでいる。まるで彼女が自分から兄を奪ったとでもいう風に。

さらにクレメンの兄への微妙な感情も印象的だ。最初彼の抱くものは兄弟ゆえの恋慕のように思われる。それでも静かな、しかし熱烈な執着を見るうち、彼は兄にそれ以上の感情を抱いているかもしれないと思わされるのだ。つまり同性愛的な感情である。今作ではその未分化な感情に列記とした言葉が与えられることはない。しかしだからこその豊かさがクレメンの姿には宿っていると言ってもいいだろう。

Turk監督の眼差しは頗る真摯なものだ。彼は曖昧さに確固たる答えを与えようとはしない。曖昧さを曖昧なままに提示しようと試みるのだ。今作において言葉を越える美や人間心理の複雑さというものが柔らかく浮かびあがる鍵がこの真摯さなのである。

そしてクレメンの不満と怒りが頂点を迎える瞬間があるのだが、それは静かな驚きに溢れたものだ。登場人物たちの感情が結集し、胸を打つ光景がここには生まれるのである。"Ne pozabi dihati"は兄弟という関係性を新たな視点から描きだす美しい作品だ。

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アルメニア映画史、風に吹かれて~Interview with Sona Karapoghosyan

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

ということで今回インタビューしたのはアルメニア映画批評家Sona Karapoghosyan ソナ・カラポギョシャンである。彼女はアルメニアの映画雑誌KinoashkharhとKinoversusに寄稿を続ける傍ら、この国で最も規模の大きい映画祭であるエレバン国際映画祭でプログラマーとプロジェクト・マネージャーを兼任している。様々な立場からアルメニア映画界を支える人物だが、今回はそんな彼女にアルメニア映画界の過去、現在、そして未来について尋ねてみた。アルメニア映画といえばセルゲイ・パラジャーノフしか知らない方、ここにはあなたにとって未知の情報がたくさんあるはずだ。それではアルメニア映画界への旅を楽しんでほしい。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になろうと思ったのですか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?

ソナ・カラポギョシャン(SK):ああ、それはとてもシンプルな理由です。私は映画の大ファン、映画中毒で、ある時自分が観た素晴らしい映画について誰かに教えてあげたいと思ったんです。そこでブログを作り、執筆を始めました。

TS:映画に興味を持った頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のアルメニアではどんな映画を観ることができましたか?

SK:人生を通じて映画を観てきました。最初の頃、インターネットがなかった時代は、TVやDVDで映画を観てきました。ソ連やイタリアのコメディ、ホラー、ドラマ、ファンタジー、アニメーションなどなど。インターネットがやってきてからは、インディーズ映画を観始め、魅了されました。アルメニアでは映画配給が大きいものとは言えませんが、大作は首都のエレバンにもやってきます。例えばスパイダーマンが映画館で上映していたのを覚えていますね。

TS:初めて観たアルメニア映画は何ですか? その感想もお聞きしたいです。

SK:ふむ、思い浮かぶ最初に観た作品は"Tteni"(1979)でしょうか。2人の隣人と彼らの家族に関する面白いコメディ作品です。私の家の庭にも桑の木(tteni)があって、何か共感したんです。映画のシチュエーションは私の人生には何の関係もなかったですけどね。

TS:アルメニア映画の最も際立った特徴は何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス黒いユーモアがあります。では、アルメニア映画はどうでしょう?

SK:あまり深いことは言えませんし、これがアルメニア映画の特徴と言えるかは定かではありませんが、その核にはアルメニアの歴史があります。ほとんど全ての映画が歴史との繋がり、歴史の繁栄、もしくは歴史への理解であり、アルメニア映画を知るための助けとなってくれるでしょう。

TS:アルメニア映画史において最も重要な作品は何でしょう? それは何故ですか?

SK:思うにArtavazd Pelechian アルタヴァスト・ペレシャンの作品がこのカテゴリーに入ると思います。彼の作品はアルメニア人たちと彼らの業績、人生をめぐる苦闘を描いています。彼の映画こそアルメニア人の映画なんです。

TS:もし1本だけ好きなアルメニア映画を選ぶなら、それは何でしょう? 理由もぜひ伺いたいです。個人的な思い出があるのでしょうか?

SK:とても難しい質問ですね。何故ならアルメニア映画にしろ世界の映画にしろ、好きな映画を1つか2つかだけなんて選べないからです。それでも選ぶならFrunze Dovlatyan フルンゼ・ドヴラチャン監督の"Karot"(1990)になるでしょうか。今作はアルメニアに住む老人が主人公で、彼はトルコ(西アルメニア)にある自分の故郷へ帰りたいと願います。トルコとソ連に属していたアルメニアの国境は封鎖されており、帰るのは不可能に思えます。今作が特別なのは観た時の状況が理由です。エレバン国際映画祭で上映された際、私の隣にはある老人が座っており彼は映画中ずっと泣いていました。彼の心は登場人物に共感しており、おそらく似たような経験をしていたんでしょう。胸を打つ経験でした。特にこの痛みが全ての世代のものだと理解している時には。

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"Karot"

TS:世界のシネフィルに最も有名なアルメニア映画作家の1人はArtavazd Peleshianでしょう。"Mer dare"などの彼の作品は日本でも人気で、称賛を以て迎えられています。しかし現在のアルメニアではどのように評価されているんでしょう?

SK:彼は国際的な伝説であり、アルメニアでも海外でも称賛されています。

TS:私の好きなアルメニア人作家はHenrik Malyan ヘンリク・マリャンです。彼の"Yerankyuni""Nahapet"といった作品はアルメニアの歴史がいかに複雑化を描いており、とても好きです。実際アルメニアでは彼と彼の作品はどのように受容されているんでしょう?

SK:Malyanはアルメニアでの方がより人気でしょう。彼の作品は皆に知られ愛され、TVや映画祭でも何度も上映されています。例えばエレバン国際映画祭では彼の作品の記念の年を逃しませんし、必ずラインナップに組みいれます。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは、2010年代最も重要なアルメニア映画は何かということです。

SK:不幸なことにここ10年で傑出したアルメニア映画を私は挙げることができません。それでもMaria Saakyanが2000年代2010年代に作った作品は観るべきだと思います。

TS:アルメニアにおける映画批評の現状はどういったものでしょう? 海外からだとその映画批評に触れる機会がありません。しかしあなたは現状をどのように見ているでしょう?

SK:映画界には数多くの問題があり、アルメニア映画が世界に輸出されることを邪魔しています。不幸なことに、アルメニアが今制作している作品のクオリティはあまり良くなく、海外で配給されるようなものではありません。同時に配給の技術もアルメニアで広く駆使されている訳ではなく、そういう意味で映画は海外へ輸出されないんです。映画批評の現状はこの状況の直接的な繁栄です。映画ジャーナリストや映画批評家は少なく、何か書かれたとしてもそれはアルメニア語なので、世界の読者には届かないんです。

TS;あなたはエレバン国際映画祭のプロジェクト・マネージャーですね。そこで聞きたいのはこの映画祭がアルメニア映画界でどのような機能を果たしているかです。

SK:この映画祭で、私は2つの役割を務めています。プログラマーと業界プラットフォームのプロジェクト・マネージャーです。これは小コーカサス地域の才能ある映画作家のためにデザインされており、共同制作ミーティングやワークショップ、トレーニング、トークセッション、パネル・ディスカッションなどを行っています。この観点において、映画祭はアルメニア映画が世界の観客にお披露目されるためのプラットフォームとして機能しており、映画作家たちが自身の計画を発展させ、予算や共同制作の権利、プロとしてのネットワークを獲得できる共同体を作っています。

TS:あなたはアルメニアの映画雑誌Kinoashkharhの執筆者と聞きました。日本の読者にこの雑誌について説明してくれませんか? アルメニアの映画批評においてどのような機能を果たしているんでしょう?

SK:私はオンライン映画雑誌であるKinoashkharhとKinoversus両方に寄稿をしています。両方ともアルメニアと世界双方における映画イベントについて特集し、インタビューやレビュー、エッセーを掲載するなどしています。アルメニア映画界における批評の役割とは簡単に言うとアルメニア映画界の状況を改善し、世界的な舞台へ送ることだと思います。不幸なことに、それはまだ成し遂げられていませんが。

TS;アルメニア映画界の未来についてどのようにお考えでしょう? 海外からだとアルメニア映画界は良いスタートを切ったように思われます。何故なら新たな才能であるNora Martirosyan ノラ・マルティロシャンの監督作"Si le vent tombe"カンヌ映画祭に公式選出されたからです。しかし内側からは今の状況についてどう思われますか?

SK:彼女の作品がカンヌに選出されたのは国レベルの達成です。何故なら今作はカンヌに選出された初めてのアルメニア映画だからです。私は常に、アルメニア映画の未来は明るいと言っています。エレバン国際映画祭のプロジェクト・マネージャーとして、私は才能ある作家たちと仕事をともにしており、彼らの計画が発展していく光景、彼らの作品への献身のを目撃しています。私たちとしてもベストを尽くしており、エレバン国際映画祭ではワークショップやトレーニングを映画祭の期間だけでなく通年で行っており、皆に参加してほしいと思っています。そして最も重要なこととして、これらのイベントは全て無料で行われているんです。

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"Si le vent tombe"

ヴァルテルがボスニア映画史を救う!~Interview with Ines Mrenica

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはボスニアで最も有名な映画批評家であるInes Mrenica イネス・ムレニツァである。彼女は映画批評家であると同時に、ボスニアの映画番組で司会者を務めていたという実績も持っている。さらに今はボスニアで最も影響力のあるオンライン雑誌Klix.baで執筆をするなど、現在でも精力的に活動している。そんな彼女に今回はボスニア映画史の過去、現在、そして未来について語ってもらった。それではボスニア映画史への旅を存分に楽しんでもらいたい。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になろうと思ったのですか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?

イネス・ムレニツァ(IM):まず劇作家として、映画批評家は私の選ぶことができたプロとしての道の1つでした。最初の仕事の1つは25歳の時、映画と演劇について週刊誌"Slobodna Bosna"に執筆することで、カンヌ映画祭でのレポートも行いました。それからすぐにLondon UIP(ユニバーサル、パラマウント、ドリームワークス)の作品を配給する会社を設立しました。これによって私はボスニアの公共放送で15年間働くことになり、編集者、映画番組の司会者として勤務したんです。映画番組についてですが6シーズン、200回ほど放映されました。私は脚本家、コピーライターとしても活動していて、今はボスニアで最も影響力のあるオンライン雑誌Klix.baに執筆しています。長い長いマルチメディアの旅を経てきた訳です。今はザグレブに住んでいますが、ボスニアの関係性は切れていません。

TS:映画に興味を持った頃、どんな映画を観ていましたか?

IM:最も幼い思い出の1つは、父の映画に対する愛に関係しています。私がたった5歳の時、彼はアラン・パーカーの監督作ピンク・フロイド ザ・ウォール(1982)へと私を連れていったんです。彼はいわゆる音楽映画を期待していて、評価は気にしていなかったんですが、私にとっては子供たちが挽肉を作る機械に吸いこまれ"教育なんて必要ない!"と叫ぶ不適切な場面には驚きました。これが私の未来の嗜好を決定づけたんです。子供時代に、全てが精神分析的主張として運命づけられているのはいつものことだという訳です。

TS:初めて観たボスニア映画は何ですか? その感想もお聞きしたいです。

IM:思うにそれはエミール・クストリツァ「パパは出張中!」です。8歳の時私はクロアチアのザダルに住んでいました。そして今作はVHSに記録されていて、やはり子供には向かない作品でしたが、今では最も好きな映画の1つになっています。カンヌでパルム・ドールを獲得した本作は、父が逮捕され政治犯として刑務所送りにされた少年を描いています。彼の家族はティトーとスターリンの軋轢に深く影響を受けたんですが、少年は父が出張に行ったという母の嘘を信じつづけるんです。

TS:ボスニア映画の最も際立った特徴は何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス黒いユーモアがあります。では、ボスニア映画はどうでしょう?

IM:戦争はボスニア映画作家にとって永遠のテーマでした。90年代のバルカン紛争前、ユーゴスラビア映画は第2次世界大戦にフォーカスを当てていました。ティトーにとって反ファシズム共産主義を宣伝するのはとても重要だったからです。パルチザン映画という特定ジャンルもあって、社会主義の時代にはとても人気でした。ボスニア紛争の後、テーマの大部分はその紛争と余波についてになりました。ボスニア唯一のアカデミー外国語作品賞はダニス・タノヴィチ監督作「ノーマンズ・ランド」(2001)です。民族紛争の不条理とボスニア国際連合がいかに無力だったかを描いています。

TS:ボスニア映画史において最も重要な作品は何でしょう? それは何故ですか?

IM:Hajrudin Šiba Krvavac ハイルディン・シバ・クルヴァヴァツ監督作"Valter brani Sarajevo"(1972)はユーゴスラビアで最も観られた作品です。中国でも社会主義の宣伝によって広く観られました。統計では1億人もの人が今作を観たという結果が出ており、今日でもその人気は留まるところを知りません。今作は第2次世界大戦中、ドイツ人に占領されたサラエボで活躍した実在のパルチザンValter Perić ヴァルテル・ペリッチを描いています。他方で、サラエボ生まれのエミール・クストリツァパルムドールを2回獲得した6人の中の1人です。さらにデビュー長編「ドリー・ベルを覚えてる?」(1982)はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得しました。ボスニアにおいて戦争や紛争は、現代ルーマニア映画におけるチャウシェスク時代の共産主義のようなものです。

TS:もし1本だけ好きなボスニア映画を選ぶなら、それは何でしょう? 理由もぜひ伺いたいです。個人的な思い出があるのでしょうか?

IM:エミール・クストリツァ「ジプシーのとき」です。今作はいわゆる魔術的リアリズムの映画であり、監督はフェデリコ・フェリーニと比べられるでしょう。英国の映画誌Sight&Soundでも最も偉大な映画の1つに数えられており、1989年にはカンヌで監督賞を獲得しました。

TS:私の好きなボスニア映画の1本はGojko Sipovac ゴイコ・シポヴァツ"Opatica i komesar"です。人間心理への鋭い洞察に驚かされました。そこで聞きたいのは、ボスニアでこの作品と監督はどのように受容されているのでしょう?

IM:Gojko SipovacHjrudin Krvavacとともにオムニバス作品"Vrtlog"でデビューを果たし、先述の"Valter brani Sarajevo"では助監督も務めていました。人間心理という面であなたの言葉は正しいと思いますし、本作は私にイングマール・ベルイマンの作品を彷彿とさせます。登場人物たちの欲望は悲劇で終るのが常なんです。

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"Opatica i komesar"

TS:短くも興奮するようなボスニア映画への旅において、最も驚かされたのはセルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキンボスニアパルティザン映画"19 djevojaka i mornar"に出演していることです。バーキンボスニア語を喋り、マシンガンをぶっ放す! とても奇妙なものでした。この作品はボスニアで有名なんですか? この監督Milutin Kosovac ミルティン・コソヴァツとは一体誰なんでしょう?

IM:Milutin Kosovacサラエボで生まれた人物で、短編ドキュメンタリーで有名です。彼の長編は失業やプロ意識を通じて自身を規定しようとする人々など、社会的なテーマを中心に描いています。"19 djevojaka i mornar"は強い女性たちを描いた戦争映画で、他のパルチザン映画よりも人気ではありませんが、ボスニア映画史においてとても重要な映画です。

TS:最も有名なボスニア人小説家は間違いなくイヴォ・アンドリッチでしょう。彼の影響はボスニアのどの文化においても顕著です。しかし映画に関してはどうでしょう? 彼の作品や思想はボスニア映画にどんな影響を与えましたか? 少なくとも、"Anikina vremena"などの彼の作品は映画化されていますね。

IM:イヴォ・アンドリッチの小説は複雑で、映画的ではない語りを持っています。素朴な映像言語に翻訳するのはあまりに難しく、例えば彼の中心的傑作「ドリナの橋」の素晴らしい映画化は未だに成されていません。興味深いのは彼がハリウッドのプロデューサーの申し出を個人的理由で断ったことです。この小説は四世紀に渡って、オスマン・トルコやオーストリア=ハンガリー帝国支配下にあったボスニアを舞台に、人生や運命、その地に生きる人々同士の関係性を描いています。私たちはその映画化の成功を待っているんです。それから、Nenad Dizdarević ネナド・ディズダレヴィチは1985年にアンドリッチの短編"Zeko""I to će proći"として映画化しました。ある男がどういう訳か戦争の英雄になろうとする物語です。"Gospođica"は1980年に映画化された作品で、オールドミスがその強欲さに呑みこまれる姿を描いたものです。"Prokleta avlija"もTV映画に翻案されました。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは、2010年代最も重要なボスニア映画は何かということです。例えばAida Begić"Djeca"Alen Drljević アレン・ドリェヴィチ"Muškarci ne plaču"Ena Sendijarević エナ・センディヤレヴィチ"Take Me Somewhere Nice"……

IM:1作選ぶなら"Muškarci ne plaču"ですね。90年代の紛争によって破壊された、現代ボスニアにおける生活を描き出した、PTSDをめぐる物語です。とても深刻な映画ですがキャスティングが素晴らしく、帰還兵たちがリハビリをし社会復帰しようとする姿が印象的に綴られています。それからもう1作、"Scream For Me Sarajevo"も挙げたいです。今作はサラエボが包囲されている際に行われたコンサートを描いたもので、そこにはアイアン・メイデンのフロントマンであるブルース・ディキンソンがやってきたんです。若者たちの戦争への視点、それから町に水も電気もなかった時、彼らの前で大好きなミュージシャンがコンサートを開くというシュールな状況に関する思い出がとても美しく描かれています。

TS:ボスニア映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだと、状況は良いものに見えます。ヤスミラ・ジュバニッチ以降、新しい才能が有名な映画祭に現れています。例えばロッテルダムEna SendijarevićやカンヌのAida Begicらです。しかしボスニア映画批評家として、現状をどのように見ていますか?

IM:ボスニアの統計にはある奇妙さがあります。この国では毎年1,2本の映画だけが作られるのに、その1本が重要な国際的映画祭に選出されるんです。ボスニアは経済が崩壊した国であり、腐敗した悪しき政府は文化に注意を払おうとしません。映画の予算は、コストを減らすにあたってまず最初にカットされるものなんです。今年ボスニアで最も期待されている作品はヤスミラ・ジュバニッチ"Quo Vadis Aida"です。今作はスレブレニツァの虐殺を描いたものです。この出来事は1995年の夏に小さな町で8000人ものムスリム教徒が虐殺された、第2次世界大戦以後で最悪の戦争犯罪です。25年以上もの間、ボスニア人はこの悪行を記録するため、自分たちのシンドラーのリストが作られるのを期待していました。それからボスニアでは毎年夏、サラエボ映画祭が素晴らしい公式招待作品や豪華なゲストとともに開催されます。この映画祭は若い映画作家のためのプラットフォームであり、ここに住む人々が世界中の映画を観る貴重な機会でもあります。

TS:ボスニアにおける映画批評の現状はどういったものでしょう? 海外からだとその映画批評に触れる機会がありません。しかしあなたは現状をどのように見ているでしょう?

IM:批評という言葉は難しいものです。私はいつも、自分は映画やTV番組について執筆していると言っています。マスメディアの時代においては誰でも自分を映画批評家と言えますが、この国において実際に必要とされる知識を養える場所は舞台芸術アカデミーのドラマツルギー部門でだけです。病気の時はそれに関して勉強した者からこそ薬がもらえるのと同じだと思いますが、世界映画における最も偉大な映画批評家たちは映画学校では勉強していないという面もあります。失礼を許してもらえれば、あなたに「ダーティーハリー」のある台詞を引用したいと思います。誰もが身体の一部のように意見を持っているんです。世界のメディアはこの方向に進んでいると思います。

TS:あなたはボスニアのウェブ雑誌Klix.baの映画批評家と聞きました。日本の読者にこの雑誌について説明してくれませんか。ボスニアの映画批評においてどのような機能を果たしているんでしょう?

IM:Klix.baは批評家をポピュラーにするとともに、彼らのプロ意識も諦めない初めてのマスメディアで、ネットフリックスの作品とともにヒッチコックの古典作品も大衆に勧める役割を持っています。素晴らしいことです。Klix.baは現在の映画やTV番組に関する読者の意識を刷新しようとしており、そういったテキストは最も読まれる記事となっています。

TS:2020年代に活躍するだろう最も若く才能あるボスニア人映画監督は誰でしょう? 海外から見た時、自然のなかに宿る神々しさを捉えるその深いヒューマニズムという意味で、私はMaja Novaković マヤ・ノヴァコヴィチの名を挙げたいと思います。

IM:ボスニア映画の現状はとても複雑なもので、若い映画作家が機会を得て、映画を撮ることはそれ自体が成功なんです。去年Nermin Hamzagić ネルミン・ハムザギチはとても興味深く、雄弁な作品"Pun mjesec"で大衆の注目を獲得しました。スティーブン・スピルバーグはたった27歳で「ジョーズ」を作りましたが、ボスニア映画作家たちは30代後半でも"若い"と言われます。何故なら映画を完成させるのに5年から7年もの歳月がかかるからです。

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"Pun mjesec"

ボスニア映画史の、この魂~Interview with Arman Fatić

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて今回インタビューしたのはボスニア映画批評家Arman Fatić アルマン・ファティチである。彼は故郷のボスニアの映画批評に携わるだけではなく、クロアチアスロヴェニアなどでも映画評を執筆しており、クロアチアのオンライン映画誌Duartでは編集長も務めている。今回はそんな彼に個人的なボスニア映画史との関わり、ボスニア映画史に残る傑作、ボスニアの映画批評の現状などなど、ボスニア映画界に関する質問を多くぶつけてみた。ということでボスニア映画界への旅を楽しんでほしい。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になろうと思ったのですか? そしてそれをどのように成し遂げたのですか?

アルマン・ファティチ(AF):おお、それはとても長く奇妙な物語なんですよ。人生のほとんどと同じように、それは純粋な機会でした。2つの"純粋な機会"が私を映画批評家の道へ導いたのですが、その1つが親友に従って大学の第2科目として哲学を選んだことで(第1科目は文学でした)、もう1つがサラエボ映画祭のオーガナイザーによってMeeting Pointという映画館で行われた"I <3 film"に参加したことです。これも友人と遊びたいから参加したのでした。

とにかく、哲学の勉強に明け暮れていた2年目に、教授であるSulejman Bosto スレイマン・ボストが多大なる情熱を以て、キューブリック2001年宇宙の旅について語っており、それに観る必要があると思わされたんです。それを観た時には既にSFの虜になっていましたが、今作について哲学のレンズ越しに何か執筆するべきだという思いに駆られました。そして映画サークルの友人が自分の作品をプーラ映画祭のワークショップに送るべきと勧めてくれて、その週のうちにあるべき場所へ収まったという訳です。

そして自分が何をしたいかに気づいたのはある映画祭に参加して4日目の夜のこと、2つ目のレビューを書き終わり5つ目の映画を観るために列に並んでいた時でした。そこで私が思った最初の問いは、映画祭の認定から利益を得て、好きなミュージシャンのコンサートに行き、友人とタダで飲み明かせるのに、何でこんなに必死になってるのか?ということです。そしてそれは私が旅が好きで、思い出せる限り映画がずっと好きで、執筆するのも好きだからだと気づき、これをキャリアにすべきだと思いました。

そこからこの方向へ突き進んでいきました。独学を突きつめ、映画館で働き、映画祭へ赴き、様々な雑誌で執筆を行い……最近では幸運にも、若い映画批評家にDuartという雑誌の編集長としてアドバイスを行ったり、ジョージアスロヴェニアでサマースクールや小さなワークショップを行ったりできています。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか?

AF:この質問には2つのやり方で答えることができます。私は子供の頃からポップカルチャーが好きでしたが、映画批評家への道にある若い青年として(その時は22歳でした)私は映画への愛を再発見したんでした。

子供の頃、私はとても若い両親の元で育ちました。母は20歳で私を産み、父もその頃24歳でした。内戦後のボスニア、1995年から1996年における最初の記憶は、公共放送の規制が存在しなかった故、地方のTV局ではどんな作品でも放送していたことです。なので覚えてるのは両親がMTVを点けて、放送されている80年代90年代の映画なら何でも観ていたことです。例えばターミネーター」「ゴーストバスターズ」「ジュラシック・パークなどです。この思い出はとても素晴らしいもので、私の中にいつまでも残り続けています。私は可能な限り映画を観て、映画館に行くというこの愛や興味をいつも持っていた訳です。

プロとして映画を観始めた時、観るべき基本的な作品はIMDBのトップ250作品だと感じました。それを観終えた後、どの映画監督の作品を更に観ていけばいいか、どの国の映画は独特で他とは異なるものか、ということに関する良い考えが浮かびました。最初に全ての作品を観た作家はキューブリックとスコセッシだと思います。幸運だったのはギャスパー・ノエを早くに発見できたことで、彼の作品は正に私にとって分岐点でした。彼は今まで観たことのない作品を作っていたんです。そして彼の作品、特にパートナーのルシール・アザリロヴィック(彼女はボスニア人)が携わっている作品は世界映画という奇跡への門となってくれました。

TS:初めて観たボスニア映画は何でしょうか? その感想もぜひ知りたいです。

AF:思い出せる限り最初に観た作品は、TVで放映されていたAdemir Kenović アデミル・ケノヴィチ"Savršeni krug"でした。しかしそれを理解するには余りにも幼すぎて、注意深く観てはいませんでした。ですからちゃんと観たと言える最初のボスニア映画はダニス・タノヴィチノー・マンズ・ランドでした。彼がオスカーを勝ち取った時私は8歳で、すぐにTVで放送されることになりました。両親は子供が観るべき作品ではないと思っていましたが、放映当日はちょうど祖父母の家にいました。彼らは私がこの作品を観ても観なくてもどうでもいいといった風でしたが、私はトラブルに巻き込まれないように寝たふりをしていました。興味深い映画でしたね。当時、何故オスカーを獲ったかは分かりませんでしたが、世界にとって意味がある作品を観ているという実感はありました。

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ノー・マンズ・ランド

TS:ボスニア映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画なら愛の哲学、ルーマニア映画なら徹底したリアリズムと黒いユーモアなどです。では、ボスニア映画については?

AF:多くの人々は、ボスニア映画の2つの主だった特徴は戦争を描いている点と小規模の社会派ドラマが多い点と言うでしょう。私が思うにボスニア映画の特徴は西側諸国と東側諸国の影響を同時に受けている点です。例えばAida Begić アイダ・ベジチ"Snijeg"はトルコやイラン映画で見られるような夢見心地の感触を持つと同時に、西欧的なドラマの語りを保持しようとしています。ヤスミラ・ジュバニチの作品群はもっと控えめで、物語はとても西欧的ですが、ツイストや結末、作品に宿るメランコリーは中東映画からの純粋な影響が感じられます。これは映画に限る話ではなく、文学や私たちの生活そのもにも言えることです。私たちは2つの極に分断されています。私たちは精神の平穏や苦痛を愛すると同時に、成長し広がり、それらを押しのけたいとも思っています。1歩1歩進んでいくごとに私たちは矛盾していくんです。

TS:ボスニア映画史において最も重要な作品は何だと思いますか? その理由も聞かせてください。

AF:ボスニア映画の歴史が始まった時、その発展は厳しいものでした。ある者はボスニアで制作されたユーゴスラビア映画をボスニア映画とは見做していませんし、ある監督たちは自分たちはボスニアの真実を語る者ではないと否定もしています。しかし私の意見では、最も重要なボスニア映画はエミール・クストリツァパパは、出張中!だと思います。今現在、彼は自分をセルビア人と自認していますが、私は気にしていません。彼はボスニアで生まれ、今作もユーゴスラビアボスニア地域で撮影されており、さらに脚本家のAbdulah Sidran アブドゥラ・シドランボスニア人です。ゆえに私は今作がボスニア映画史における鍵であると思っています。今作はサラエボの芸術アカデミーにおける価値観に影響を与え、それゆえ内戦後のボスニア人監督たちはクストリツァの映画製作を基本理念としているんです。

TS:1本だけ好きなボスニア映画を選ぶなら、それは何になりますか? その理由は何でしょう。個人的な思い出がありますか?

AF:人々がもし映画を作るとしてどんな映画を作りたいかと尋ねてくる時、私はAdemir Kenović"Ovo malo duše"のような作品がいいと答えます。今作は先述したボスニア映画の良い部分が最高潮に達したかのような作品です。これはある村における素朴な生活の風景を描いた映画ですが、その素朴さにおいて、監督は歴史的文脈を捉えようとしており、そこまで描かれることのない人々の自然を表現しているんです。今作を観た時、私はオタール・イオセリアーニドゥシャン・マカヴェイエフモフセン・マフマルバフらからの影響を感じました。

TS:海外において、世界のシネフィルにとって最も有名なボスニア人作家はIvica Matić イヴィツァ・マティチでしょう。彼の作品"Žena s krajolikom"は厳粛さと無邪気さに溢れ、シネフィルたちに畏敬の念を抱かせます。しかし彼は1作のみを遺して、早逝してしまいましたね。彼や彼の作品は現在のボスニアでどのように評価されているのでしょう? そして興味深いことに、彼はエミール・クストリツァが監督した"Nevjeste dolaze"の脚本を執筆していますね。どのようにこの興味深い関係性が生まれたんでしょう?

AF:悲しいことに、私が知る限りIvica Matićは真のシネフィルか映画業界に携わる人々の小さなサークルでのみ知られています。フィルムセンター・サラエボは今作の復元を始め、今作を含めた知られざる傑作を宣伝し、相応の栄光を与えようとしています。そうしてMatićが観られることを切に祈っています。クストリツァとの関係に関してですが、それについては分かりません。謝罪します。

TS:私の好きなボスニア映画の1つはMirza Idrizović ミルザ・イドリゾヴィチ監督の"Ram za sliku moje drage"です。今作ではヌーヴェルヴァーグの軽快さとネオリアリズモの荒廃性が美しく同居していることに驚かされます。しかし今作はボスニアでは有名ですか? Idrizovićと彼の作品はどのように受容されていますか?

AF:ユーゴスラビアを覚えている世代にとって、彼は有名人です。しかし興味深いことに人々は"Miris dunja""Azra"など彼の後期作品についてばかり覚えているんです。先述しましたが、幸運なことにボスニアは東と西の狭間に位置しており、Idrizovićのような素晴らしい"偶然"が起こる訳です。ここ数年、ボスニアでは学校の再編成が行われているのですが、それが終わった暁には映画史が学校のカリキュラムに組みいれられ、新しい世代が時間を費やすに値するこういった作品を観ることができるよう祈っています。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは、2010年代最も重要なボスニア映画は何かということです。例えばAida Begić"Djeca"Alen Drljević アレン・ドリェヴィチ"Muškarci ne plaču"Ena Sendijarević エナ・センディヤレヴィチ"Take Me Somewhere Nice"……

AF:この変化は良いものでありながら、同時に居心地悪いものでもあります。何故ならどの映画、どの映画監督が自身をボスニア映画/ボスニア人と自認したいかについて言及するのは本当に難しいことだからです。例えばAida Begićの新作"Never Leave Me"はトルコで、トルコ人俳優とトルコ的なテーマを以て作られています。Ena Sendijarevićのルーツはボスニアにあり、彼女のデビュー作はこの地域での自身の経験に基づいていますが、彼女が自身をボスニア人監督と自認しているかは定かではありません。彼女の作品や教育はドイツとオランダに源があるからです。私自身、自分をボスニア映画批評家とは思っていません。自分は主にクロアチアの映画雑誌に勤務しており、ここ3年間はスロヴェニアに住んでいるからです。実を言えば、これらの国の方がボスニアよりも自分に大きな影響を与えています。

しかしとにかく、ここ10年で最も重要なボスニア映画を選ぶなら、それはIrfan Avdić イルファン・アヴディチ"Majkino zlato"です。何故なら彼はボスニア映画界で旺盛な仕事ぶりを見せる若き顔であり、今はそこまで有名ではありませんが、初長編を完成させた暁には彼はボスニアで影響力ある人物となるでしょう。

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"Majkino zlato"

TS:ボスニア映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだと、状況は良いものに見えます。ヤスミラ・ジュバニッチ以降、新しい才能が有名な映画祭に現れています。例えばロッテルダムEna SendijarevićやカンヌのAida Begicらです。しかしボスニア映画批評家として、現状をどのように見ていますか?

AF:ボスニアではそう多くの作品が作られている訳ではありませんが、作られる作品はたくさんの賞を獲得しています。当然、金が最も大きな問題です。国は映画作家たちが大きな結果を出しながらも映画に予算を出そうとしないんです。共同制作でもいいのですが、先述の通りボスニアよりも他の国やその制作会社が多く予算を与えたなら、出来た作品をボスニア映画と呼ぶのは難しいです。

私としては、国が犯している最も大きな過ちは予算のほとんどを数十年活動し続けていながら平凡である監督たちに与えていることです。そのせいで、低予算での映画製作を心得ながら、新鮮な考えと興味深い視点を持つ若い監督たちは何も作れないんです。

最も印象的な例はPjer Žalica ピェル・ジャリツァIrfan Avdićという映画監督が参加した、去年のとあるイベントです。Pjerは国際的な映画界には何ら意味を成さない地方色の強い作品を作っている監督ですが、彼がボスニア映画界が若い映画作家の手によってどうなっていくかについて語る一方で、イベント自体は彼の最新作"Koncentrisi se, baba"が予算を獲得したとアナウンスするためのものでしかなかったんです。その予算を、Irfanと他4人ほどの監督が分けあったとするなら、より素晴らしい映画が製作され、ロッテルダムやカルロヴィ・ヴァリ、ロカルノ映画祭などで上映されることとなったでしょう。

TS:サラエボは現代映画において最も重要な場所の1つです。何故ならここにタル・ベーラがFilm Factoryという映画学校を設立し、多くの才能ある監督たち(その中には日本人監督である小田香も含まれています)が巣立っていきました。では、このFilm Factoryはボスニアの映画産業においてどのように機能しているでしょうか?

AF:Film Factoryを閉める前のUrban Magazineにおけるインタビューで、彼はこう語りました。映画界において3人の生徒は素晴らしい作品を作るだろう。だがその他大勢は良いものしか作れない。Film Factoryが閉鎖された後、私たちが目撃したのは正にそれでした。彼は天才であり、生徒たちに適切な方法で映画を撮影する方法を教えようと努力しました。しかし生徒のほとんどには才能が、創造的な欲望が欠けています。彼らは技術的に素晴らしい作品を作るやり方は学んだでしょう。豪華絢爛な映画を観たり、業界の有名人に会うこともできたでしょう。しかし彼らが映画を感じられなければ、それで終わりなんです。タル監督は3人の生徒の名前を挙げようとはしませんでしたし、私にもその名を語る資格はありません。しかし信じてください。彼らはこの地で傑出しています。彼らの作品はもうすぐ自分で語り始めることでしょう。

TS:それからボスニアの映画批評の現状はどういったものでしょう? 海外からだと批評に触れる機会がありません。しかしあなたは現状をどう見ていますか?

AF:映画批評は映画業界よりも酷い状況にあります。もしサラエボ映画祭やタレント・プログラムがなければ、新しい批評家もいなければ彼らが成長するための機会もなかったでしょう。映画批評のシーンはローカルの雑誌やポップカルチャーに関するウェブマガジンから成り立っています。最も大きな問題は批評家の間に結束がないことです。私自身、上の世代の批評家に関してとても酷い経験をしています。仕事を取られたり、悪口を言われたり、私の仕事を彼らの利益として搾取されたりです。ここ数年で出ている私よりも若い批評家たちは素晴らしい人物ばかりで、私も同僚に関する意見は押しつけないままに彼らをサポートしようと努力しています。彼らはボスニアという障壁を乗りこえ成長しており、それはとても良いことです。この地域には素晴らしい批評家、本当に仲間と言える人物や友人らがおり、彼らとのコラボレーションは今私たちが出来る最高のことです。

TS:2020年代に活躍するだろう最も若く才能あるボスニア人映画監督は誰でしょう? 海外から見た時、自然のなかに宿る神々しさを捉えるその深いヒューマニズムという意味で、私はMaja Novaković マヤ・ノヴァコヴィチの名を挙げたいと思います。

AF:正直に言って、私は彼女の作品を観たことがありませんが、他の作家だとZulfikar Filandra ズルフィカル・フィランドラŠejla Lajlani シェリャ・ライラニFarah Hasanbegović ファラ・ハサンベゴヴィチ2020年代に何か素晴らしい作品を作ってくれるのではないかと信じています。Zulfikarは実験的な長編作品"Minotaur"をプレミア上映予定で私たちはとても期待しています。ŠejlaとFarahはその短編作品でいつも私たちを驚かせてくれます

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"Take Me Somewhere Nice"

Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア

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日本で最も有名なブルガリア人作家は誰だろう? 「軛の下で」イワン・ヴァーゾフ(Иван Вазов)か、それとも「あらくれ物語」ニコライ・ハイトフ(Николай Хайтов)か、もしくは「タバコ」ディミートル・ディーモフ(Димитър Димов)だろうか。だが驚くべきことに、それは歴史上の偉大な作家ではなく、最も若い世代の作家だ。そんな人物こそミロスラフ・ペンコフ(Мирослав Пенков)である。彼は英語で作品を執筆していることもあり、その短編集「西欧の東」が日本でも翻訳されている。本作が人気を博したことで、一躍彼は日本で最も有名なブルガリア人作家になった。ところで「西欧の東」の中で、日本人は「ユキとの写真」という短編を嬉しい驚きとともに読んだ。何故なら今作にはブルガリア人主人公の妻として日本人女性が出るからである。私もブルガリア人から見た日本人への考えというものを堪能した。そして喜ばしいことに、2019年本作は日本とブルガリアの共同制作によって映画として再誕を遂げた。それがLachezar Avramov監督作"A Picture with Yuki"である。

今作の主人公はブルガリア人男性ゲオルギ(Ruscen Vidinliev)だ。彼は日本人の妻であるユキ(杉野希妃)と一緒に外国で暮らしている。しかしある事情からゲオルギはユキと一緒に故郷であるブルガリアに戻ることになる。ユキの不妊治療を受けるためだった。しかしブルガリアはゲオルギにとって良い思い出ばかりが存在している訳ではない。故郷を半ば捨てたような過去ゆえに、再会した家族との間には微妙な距離がある。特に母親はゲオルギの不在を嘆き、妻であるユキに対して皮肉も隠さない。ゲオルギはこの地で居心地悪さばかり感じつづける。

そんな中で、不妊治療の関係でブルガリアにしばらく滞在することになったゲオルギたちは、亡くなった祖父が遺した家で時間を過ごすことになる。今まで見たことのないブルガリアの田舎町の風景にユキは興奮する一方、ゲオルギは家族から離れられて清々といった風だ。しかしそんな2人は不思議な出来事に遭遇することになる。

監督の演出は淡々としたものながら、目の前の風景に宿る複雑さを映しとろうという決意に満ち溢れたものだ。彼と撮影監督であるTorsten Lippstockの視線は何気ない日常、おおらかな自然の中にある詩情というものを見据えており、それは画面へと胸を打つ豊穣さを以て現れることになるのだ。観客はその風景に魅了されることだろう。

そして今作の核にあるものは日本とブルガリアの文化の交錯である。冒頭、ユキがポラロイドカメラで写真を撮影することを父に疑問に思われたゲオルギはそれについてこう説明する。日本には仏教が存在し、この宗教において時間は流れとして見做される。その流れの一瞬を切り取ることのできる存在がポラロイドカメラであるので、彼女はそれを大事にするのだと。これはブルガリア人の視点からの、興味深い日本人への洞察であると言える。

さらに劇中、ブルガリアの観客は村にロマがいると知ったユキが彼らに会いたがる姿を見て、怪訝に思うのではないだろうか。ブルガリア人にとってロマは肉体を持った現実だが、日本人にとってロマは遠くに見える溌溂で魅力的な蜃気楼のような存在だろう。私たちは旅番組やトニー・ガトリフの映画を通じて、ロマの文化に触れる。そこから生まれるイメージは"歌と踊りが好きな放浪の民族"といったものだろうか。この無邪気な幻想がユキの態度には表れている。

ある時、車を運転していたユキは自転車に乗っていたロマの少年を轢いてしまう。彼が病院に行くことを拒否するので、ユキとゲオルギは彼を帰らせるのだったが、後日少年が亡くなってしまったことを知る。自分のせいだと罪悪感に暮れるユキだったが、2人のもとに少年の父親が現れる。

ここから日本とブルガリアのいわゆる文化衝突は奇妙な方向へと舵を切ることになる。少年の父親は、亡くなった少年の身体と自分たちを、ポラロイドカメラで一緒に撮影して欲しいと頼んでくる。断りきれない2人は罪悪感をひた隠しにしながら、ロマの住む場所へと足を踏みいれる。

仏教にはいわゆる"諸行無常"という言葉がある。"この世界に存在するすべては常に変化しており、しばらくでも留まるものはない"という考え方だ。少年の家族は彼が亡くなった時、"諸行無常"という言葉は知らずとも、この考えに触れたのかもしれない。だからこそ少年の父親はユキに、時の流れの一瞬を捉えるポラロイドカメラで少年を撮影することを求めたのだ。全てが過ぎ去るなかで、それでも彼が生きた証を残すため。

ユキを演じる杉野希妃は俳優、映画プロデューサー、映画監督として、世界を股にかけながら活動する人物だ。日本よりも、アジアの諸外国での方が知名度が高い珍しい存在である。そしてその実力を、ブルガリアの観客も今作で思い知るだろう。彼女は未知ながら魅力的な異郷に迷いこんだ日本人の興奮と不安を、繊細に表現している。日本人としては彼女の顔に浮かぶ、馴染みある感情に驚かされる。

事件の真相を探る者の登場によって、ゲオルギとユキは少しずつ追いつめられていく。そうして彼らは死を見つめざるを得ないのだが、この過程において思いがけなく現れるのがユキの不妊だ。日本語には"輪廻"という言葉がある。死の後に生が現れ、死と生が円環を描くことを意味している。正に"A Picture with Yuki"はこの精神を描いているのだ。そしてその中で、日本とブルガリアの文化は静かに、優しく溶けあうのである。

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