鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ユーゴスラビアからインドへ~Interview with Anuj Malhotra

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはインドと旧ユーゴ圏を活動拠点とする映画批評家Anuj Malhotra アヌジュ・マリョトラである。私が彼の批評に出会ったのは、ベルギーの映画雑誌Photogenieに掲載された"To Swim in the Eternal Coffee: Memories of Vjekoslav Nakić, Sasha and More"という記事を読んだ時だった。クロアチアの謎めいた作家Vjekoslav Nakićとの思い出について語られたこの記事に私は一目で恋に落ちた。それと同時にインド人批評家でありながら、旧ユーゴ圏を中心に活動し英語で批評を執筆するMalhotra自身にも興味を抱いた。ということでインタビューを行った次第である。今回彼には先述の記事を始まりに旧ユーゴ圏の映画の受容から、インドの映画界・映画批評界の現状についてまで幅広く質問を投げかけてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸:まずどうして映画批評家になりたいと思ったんですか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?

アヌジュ・マリョトラ(AM):思い出せる限り、意識的に映画批評家になろうと思った訳ではありません。私の信条としては映画批評とは――もしくは批評それ自体は――組織化された職業以前の態度であると思うのです。探求としての批評の実行可能性について問われた時、Manny Farber マニー・ファーバーはこう答えました。"自分自身の時間をやりたいことに費やすこと以上に良いことがあるとは思えません"と。私にとってはこれこそが批評を伝統的な定義や"キャリア"といったパラメーターから救いだしているのであり、それ自体が人生への近づき方であると想像しています。これは決して世界中で個人や個人のグループが成した素晴らしい努力を無効にするものではありません。これは自身の標や装備で以て映画批評を職業的なフレームへ組織する訳ではなく、代わりに普遍的で基本的な原理を強調することになるんです。私が理解する限りは。

関連する限り、それは文化的な継承において培われました。私が育った世界の一部では、個人がスクリーンに返事をするというのが普通だったんです。ここにおいて、この個人たちは――家族や遠い親戚、友人やそのまた友人――はスクリーンに惹きつけられたことはなく、それを意識してもいないんです。結果として、彼らは観ているイメージと連続的意識の独特な関係性を形成しています。しかしながら、だまされやすさの契約は無条件という訳ではありません。もしスクリーンで描かれる出来事が凄まじく暴力的なものなら、工夫が語りに浸透しているとしたら、もしくはある映画で救世主を演じた俳優の倫理コードが次の演技では変わっていたとしたら、この映画の現実の外に存在する間違いは"スクリーンに知らせるべき"対象として指摘され、強調されることは明白なんです。私はこの内在的に不自然な、人工的なメディアという映画の、自動的で素朴な意識が、何よりもまず批評という行為であると思われるんです。その意味で批評家は映画については書いておらず、実際においてはどこにおいても、映画に何かを知らせようとしているんです。

私は書くことを通じてある種の頻発性や活動的な興味を耕していくことが好きでした(それは批評行為それ自体とは区別されます)その時にはIMDbのメッセージボードなどの闘技場的な場所に参加していました。そこは際立った矛盾が集積したどこにも似ていないフォーラムでした。理知に長けながら感動に欠け、優雅ながら生の感触を持ち、複雑ながら素朴な場所です。公共でありながら、耕された匿名性に浸っているんです。便利なトレーニング場所であり、私はそこから活動を始めた映画批評家の存在にも気づきました。2017年にデジタルの流れによって全てが洗い流されてしまったことは悲しいことです。そして私の批評家としての活動がインド人映画作家に関する慎重で、シネフィル的な活動に限られていた2年を除いて、私はこの分野での活動を映画の、そしてシネフィルのとても個人的なコンセプトを耕すために使っていました。これは私自身のためだけのより広い目的からも自由だったと考えていますが、誰が分かるでしょう?

TS;映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のインドではどのような映画を観ることができましたか?

AM:意識的に映画を観察しようという目的を以て映画を観始めたのは、17歳の時でした。私はこの国の首都の郊外に住んでいて、それが2006年頃です。なので観られた映画に関して言うと、近くにフリーマーケット(Sunehriマーケットです)があって、そこに位置する縮小気味の店では人気曲のCDや映画、宗教的なショーを売っていました。使い捨てのストックにおいて、店の店主は在庫を気にしてはいませんでした。故に奇跡的なコンピレーションが存在していました。黒澤8-in-1、デ・ニーロ7-in-1、西部劇4-in-1などです。奇妙なことにそれらはちゃんと再生ができましたが七人の侍に他の6本の作品が1枚のDVDに収録されているんですからクオリティは推して知るべきです。これを通じて私は影響力ある"古典映画"を発見し始めました。黒澤ももちろんのことレイジング・ブルセルジオ・レオーネの作品群、ドーネン-ケリーのミュージカルなどです。そしてその頃ディネシュという、パリカ・バザールで海賊版DVDを不法に売っている人物を知りました。そのバザールは都市の中心に陣取るアンダーグラウンドなマーケットで、ここでならペーパークリップから飛行機まで買えるという伝説がありました。

しかしながら言うべきなのは、私はそのディネシュという人物とは最近まで直接の繋がりはなかったということです(彼が公共から消えざるを得なかった時、私は違法商品のバッグ3つほどをベッドの下に隠さなくてはならなかったことは、また別の話です)ある友人を通じてです。彼は戦艦ポチョムキン「フィッツカラルド」のコピーを持っていたんですが、それらはNitesh Rohit ニテシュ・ロヒットという人物から貸しつけられたもので、彼はインドの映画作家たちの元で編集をやっており、インドのシネフィルの間ではパイオニアでした。それが影響力ある作品を越えて、本物の情熱を以て映画を発見しだした時でした。

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TS:私があなたの作品に会ったのはオンライン雑誌Photogenieに掲載された記事"To Swim in the Eternal Coffee: Memories of Vjekoslav Nakić, Sasha and More"を読んだ時です。とてもパーソナルで、監督であるVjekoslav Nakić ヴィエコスラフ・ナキッチという人物に対して頗る愛情深い記事でした。あなたはどうしてこのPhotogenieに参加し、この素晴らしい記事を書くことになったんですか?

AM:記事を気に入ってくれてありがとうございます。Photogenieやここを運営する素晴らしい人々と関わりを持ったのは、この雑誌の批評家ワークショップに参加した2015年からです。設立者であるBart Versteirt バート・フェルシュタイルトは去年注目すべき批評を達成しました。ワークショップの異なる参加者たちに雑誌を編集させるというものです。これによって民主主義や雑誌のより広範な運営に関する所有権を強化することが目的でした。それぞれの号のテーマは入念に議論され、総意を以て決められます。Vjekoslav Nakicに関する記事の時のテーマは"長い映画"、もしくは"映画における持続時間"というものでした。何人もの論評者がそれぞれの命題を仮定していきました。例えばタル・ベーラR・W・ファスビンダーラブ・ディアスといった監督の作品です。私は、もし持続時間というものを統計的な、単なる属性ではなく、注意を払う時間のクオリティという機能として想像できたなら、議論に価値ある切れ目を入れることができるのではないかと思ったんです。つまり時の流れに反して、集中や密度を通じて時間について考えることができるか?ということです。イシューの編集者であるMaximilien Luc Proctor マクシミリアン・リュック・プロクターがこの考えをポジティブに受け取ってくれた時、私はNakicの作品が時間という考えの定式化に関する有益な例となるのではと思いました。そして最後にその記事は、主な出来事の数々が始まりも終りもなく、いわゆる永遠のなかで漂い続ける映画のセットで構成されることとなりました。

TS:先述した記事の主人公はVjekoslav Nakic、私が聞いたこともなかった旧ユーゴ圏の映画作家です。しかし彼の作品をYoutubeで観た際、彼の作品たちがいかに万華鏡的で実験的かに驚かされました。彼の様式はそれぞれ完全に異なり、それに感銘を受けます。あなたはどのようにNakicの作品に出合ったのですか? 彼の作品の何があなたを最も惹きつけるのですか?

AM:ええ、彼の作品は素晴らしいものです。それが好きなのは作品たちが、かつてのユーゴスラビアに伝わった素朴派絵画――そして映画も――の重要な伝統を呼び起こすからです。ここにおいて、この映画作家は世界を"ありのまま"受け止めようとし、この受容は彼の子供時代(そしてそこに宿る構成物全てです。原始的な古代の知識、自身が育った環境、家族もしくは文化的な繋がり、大地やそれが生じる背景……)を直接的な源とする感性によって裏付けられています。私は彼の映画が注目すべき理論的概念(実際、彼の作品群は技術研究所から生まれています)から生まれているところが好きなんです。しかしそこには献身的な無邪気さも存在しています。これこそ私にとって最良の映画なんです。そして私は世界が知識に向かず、攻撃的で持続的な既知に向いている今、もうそんな映画は生まれないのではと恐れています。今や到達ではなく、それは征服なんです。

Nakicの作品に偶然出会ったのは課題に取り組んでいた時です、本当ですよ。私は2015年のプラヴォ・リュドスキ映画祭(サラエボの人権映画祭です)の公式日刊紙において編集者としての責任がありました。私たちが編集チームとして成した重要な決意の1つが異なるセクションに分けてニュースレターを組織することで、内容やページに宿る声に多様性を確約することでした。ニュースレターの第2版において、私はちょうど町にいたVjekoslav Nakic(コーヒーショップにいたんです。本当です、作り話ではないです)にインタビューすることになりました。彼の作品の注目すべきレトロスペクティブについて聞くとともに、彼の同僚たちが1960年代70年代のユーゴスラビアでかつて作った、いわゆる素人映画の潮流について聞きたかったんです(私の好きな映画はKokan Rakonjac コカン・ラコニャツの無名な映画"Suze"(1964)です)ここで私は彼の作品を発見しました。その全てが驚くことに編集技師である彼の息子によってYoutubeに無料でアップされていたんです。そしてインタビューの準備として作品を観た訳です。その美学は偶然の出会いという意識的な耕作から生まれていました。つまり"出くわす"、"偶然出会う"、対象に"誤って"辿りつくというものでした。それに対しては普通ではない関心があてがわれ、宇宙的な重要性で満たされていました。

TS:Viekoslav Nakicは日本では完全に無名の作家です。しかし彼の故郷であるクロアチアセルビアなどの旧ユーゴ圏において、彼と彼の作品はどれほど人気なのでしょう?

AM:その地域についてよく知ることができるほど長くサラエボには住んでいませんが、それでもローカルな映画界への微かな印象はあります。これはKino Klub Split――ここで私はバルカン半島におけるオルタナティブな映画に関する興味を育みました。モデルとしても、そして逸話的にも――というクラブを運営する素晴らしい同僚たちのおかげです。クラブでは、若い世代の観客やシネフィルの間で、60年代70年代に作られた映画に関する興味の定義されたリバイバルが起こっていました。おそらくこのおかげでこれらの映画のリバイバルやレパートリー、レトロスペクティヴが近年この地域で行われていたんでしょう。しかし私はこれがより価値のあることと考えられているかは疑問に思っています。プログラマーや観客もそうですが、そんな映画作家たちの作品をコレクションとして、時代のモニュメントとして見るばかりで、彼らを個々の作家として考えることがないんです(彼らのキャリアがいわゆるブラック・ウェーブ運動に関わり、大きくならない限りは)これについては間違っていると思いますが。潮流における1人の監督だけに焦点を当てるこの特権は外側にいるからこそ存在します。潮流が育まれた時間的・空間的な文脈を除外することでこそ存在するんです。

TS:前の問いに関連して、インドでは旧ユーゴ圏の映画はどのように受容されているんでしょう? 例えばユーゴ・ブラック・ウェーブ運動のドゥシャン・マカヴェイエフジェリミール・ジルニクはインドでは人気でしょうか?

AM:不愉快な矮小化をしない限り、インドの映画界における広大な風景を簡単に解決しようとするのは難しいことです(後々それを試みますが)しかしマカヴェイエフは献身的なシネフィルの特定のグループや大学の映画クラブでは良く知られていると思います。彼のラディカルな美学や作品における政治的な闘争性が気に入られているんです(特に彼の最も有名な作品「WR:オルガニズムの神秘」に関しては)ジルニクに関してはそうでもありません。世界という観点で見ても、彼が人気を得始めたのは2015年にドキュリスボア映画祭でフィルモグラフィを総覧する注目すべきレトロスペクティヴが開かれた時からです。これによってインドでも自然と彼の作品への好奇心が膨れあがっていきました。私が聞いたところでは彼の作品を収録したZipファイルがこの国の地下世界では流通しているそうです(私が結び目かって? 違いますよ)

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TS:あなたが最も影響されたインドの作家(映画もしくは文芸批評家、哲学者、小説家など)は一体誰でしょう?

AM:今のところはAmit Chaudhuri アミット・チョウドリーですね。それから歴史的に、そして批評という分野において、私はB.D. Garga B・D・ガルガShanta Gokhale シャンタ・ゴーカレChidananda Dasgupta チダナンダ・ダスグプタを強く勧めたいです。更にAmit Dutta アミット・デュッタ"Invisible Webs"もぜひ読んでください。社会的パフォーマンスにおける美術の観念に関するとても影響力のある本です。それからAlexander Keefe アレクサンダー・キーフはインド人ではありませんが、インド文化における重要な側面についての彼の著作は何よりも基礎的なものです。

TS:インド人映画批評家で、シネフィルが翻訳を読むべき人物は一体誰でしょう?

AM:今から名前を挙げる人物たちは英語で批評を執筆しており、なので翻訳は必要ないでしょう。そのかげでより広く読者を獲得できる訳です。推薦リストにはSrikanth Srinivasan スリカンス・スリニヴァサンAnupam Kant Verma アヌパム・カント・ヴェルマTrisha Gupta トリシャ・グプタSatish Naidu サティシュ・ナイドゥ(彼はもう書いていませんが)、Devdutt Trivedi デヴドゥット・トリヴェディ(彼はこのリストに含まれるのを好まないでしょうね)、Sudarshan Ramani スダルシャン・ラマニなどです。非公式で書いていたり、私がソーシャルメディアを通じて読んだり、個人のEメールやチャットで話したりした人物だと、Madan Gopal Singh マダン・ゴパル・シンShweta Nambiar シュウェタ・ナンビアルChandan Sen チャンダン・センとそれからKanika Katyal カニカ・カチャル(素晴らしいですが、話題性の誘惑に呑まれない必要があります)などです。それから彼らによって書かれた本や、映画作家へのインタビューを集めた本も多くあり、それらが広く流通したなら、世界中でシネフィル的な議論の恩恵を受けられることでしょう。

TS:英語とあなたの母語で書く時の違いについてお聞きしたいです。例えば私は小説を日本語とルーマニア語で書いているのですが、2つの言語と2つの国の人々はとても違うので、言葉や文章の構成を頻繁に変えることがあります。

AM:私は母国語であるヒンディー語パンジャーブ語では批評を書かないんです。これはかなり初期から批評は全開の明瞭さのなかで行われる意識的行為だと吸収していたからだと思います。それゆえに私は英語を使っています。その方が分析という目的に合っているように思えるんです。しかしそれは相対的な教化の結果とも思えます。ヒンディー語パンジャーブ語を使うのは脚本やモノローグなどの散文を書く時です。その言葉で書くという行為は頭の上を漂う、もしくは料金なしにアクセスできる言葉やフレーズ、表現の準備された溜池として存在する、古代の、ほとんど亡霊的な知識から生まれると思えることが良くあります。英語においては払う必要のある料金、満足するべき仮定上の読者がいます。言うなれば、これが私の野心です。母国語における自由やパーソナリティを英語の文章にインストールできれば有用だろうということです。これは簡単な仕事ではありませんし、その言語で書いた際のそれぞれの言葉に対する判定をパスする、内在の批評家を完全に消し去る必要性があるんです。これは批評自体にインストールしたい目的でもあります。それをどうやって、パンジャーブ語の家庭生活において昼食の後に共有される隣人同士のゴシップに表現される先鋭的な分析に吹きこむことができるのか? 同種の喜びにどう注入することができるか? 手短に言えば、1つの実践的な批評が書き手を分析の対象のなかで泳がせながら、それ以上深くは潜っていかないことがどうやってできるのかということです。批評は活発で、生きた対象であり、ペンが紙のうえに置かれる前に死ぬものではないんです。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは2010年代最も重要なインド映画は何かということです。外国人としての私の観点から言うと、Vetrimaaran ヴェトリマーランはインドの文芸映画において最も重要な存在の1人であり、特に"Visaaranai"は2010年代において最良の世界映画の1本です。他にもSanal Kumar Sasidharan サナル・クマール・サシジャラン"Sexy Durga"Arun Karthick アルン・カルシック"Nasir"などがあると思います。

AM:私としてはここ最近インドで作られた最も重要な作品たちはこれらです。Pushpa Rawat プシュパ・ラワット"Nirnay"Anamika Haskar アナミカ・ハスカル"Ghode ko jalebi khilane le ja riya hoon"Amit Dutta アミット・デュッタ"Chitrashaala"Avijit Mukl Kishore アヴィジット・ムクル・キショレRohan Shivkumar ロハン・シヴクマール"Nostalgia for the Future"Rima Das リマ・ダス"Village Rockstars"Buddhadeb Dasgupta ブッジャデブ・ダスグプタ"Quartet 1"、そしてEkta Mittal エクタ・ミッタル"Birha"です。Visaaranaiは私も好きですね。思うにインドの男性作家によって作られる作品は国的な(もしくは国際的な)映画という遺産における彼ら自身の、想像された立ち位置に固執している傾向が見られ、それゆえに尊大に思えます。一方で女性作家たちは全体としてもっと自由で流動的、曲線が排された作品を作っています。これは総体的な普遍化ですが、この国で作られた最近の文芸映画という文脈において、それは刺激を意味しているんです。

TS:インドの映画批評の未来についてどう思いますか? 明るいでしょうか、それとも暗いでしょうか?

AM:インドの映画批評の真実というものは何ら新しいものではありません。どの世代も自分たちが初めて映画雑誌を発刊した、ウェブサイトを運営している、映画にまつわる社会を動かしていると思っているとはいえです。この誤謬は彼らだけの間違いではなく、インドにおけるシネフィルのより広い歴史は文書化されておらず(おそらくそれゆえに)大事にされてもいないゆえでもあるでしょう。結果として私たちは、メトロポリタン的な中心地が60年代70年代のオルタナティブな展覧会や出版物の上で隆盛しているというより広い現実を意識していないままなんです。しかしながらより大きな問題はその存在に関わらず、この分野における加害者である個人や組織が文化におけるメインストリームの議論、その分野に関する立案、インテリのより広い公共の構成に自分の居場所を見つけられないんです。これは主に彼らの仕事が誠実である一方、模倣を基にしているゆえだと私は信じています。ここにおいてある出版物における書き手たちや、映画社会を動かす活動家たちは、彼らを刺激する、西欧から輸入してきたシネフィルのモデルからの迫りくる影響を乗り越えようとはしてきませんでした。

インドにおいては不幸なことにこの愚かさが、同じように残酷な間違いを犯し続けている、"パイオニア"に続く全ての世代にとって皮肉と捉えられていることです。つまり世界的なシネフィルの(つまり第1世界のシネフィルという国際的観客の婉曲表現です)宣伝される理想(雑誌や批評家、社会や映画祭)に特に意識的でありつづけ、彼らにとって上辺だけの作品(レイアウトの洗練化、リベラリズムという演技、評価と裏書きのシステム)を複製する一方で、私たちは、ローカルな文脈(もしくはインドにおける複数の文脈)に関して適切な思考やアイデアののシステムをもっと活動的に御していく必要があるんです。私の意見としては、精神的もしくは個人的な批評の側面を発達させるにはもっと可視的な要素の数々に関する必要な進化と同時に進んでいかないといけないんです。もしそれを無視したなら、ここには資本主義の世代的な満ち引きにおける、偶発的で短い生涯の改善だけが現れることになります。つまりそれは長続きしないでしょう。

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ベラルーシ映画史を越えて~Interview with Irena Kotelovich

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはベラルーシ映画批評家であるIrena Kotelovich イレーナ・コテロヴィチである。彼女はベラルーシの新聞や雑誌に映画批評を寄稿すると同時に、ミンスク国際映画祭でも広報長を担当するなどベラルーシ映画界には欠かせない存在だ。今回はそんな彼女に映画批評家になるまでの道のり、ベラルーシ映画史における重要な映画の数々、ベラルーシ映画界の今後の展望について聞いてみた。ベラルーシ映画に興味がある人、興味がある以前にベラルーシ映画なんて観たことないよ!という方、ぜひこのインタビューを読んでほしい。ということでどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? それをどのように成し遂げましたか?

イレーナ・コテロヴィチ(IK):映画への情熱が職業になると分かるまでには何年もかかりましたね。私はジャーナリズムの学校で学び、夜にはモノクロ映画を観る生活を送っていました。そしてある理由からこの2つの間には厳然たる区別がありました。しかしそれは映画批評家や映画祭のプログラマーが教師をする、映画学のコースに参加するまででした。教師に出会った時、頭の中に"エウレカ!"という言葉が響くようでした。ジャーナリズムを学んで4年が経っていましたが、そこで映画を職業にできると理解し、嘘偽りなしに映画批評をやろうと決意したんです。それは無意識的でありながら、私の素質にあった選択だったとも思っています。映画は不完全な現実から目を背けさせてくれて、それがとても助けになる時があります。そして今でも映画レビューを書いている新聞で働き始めました。まず最初に書いたのは新しいベラルーシ映画に関する長く否定的なレビューです。これは試験のようなものでした。そして私はその試験に合格し、契約を結んだんです。その結果、映画のレビューを書いて6年になります。

TS;映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のベラルーシではどんな映画を観ることができましたか?

IK:今、私を形成した映画のリストを作るというのは難しいです。それでも映画を学び始めた時、私は学校が提示した特定の教育的なリストを通じ映画を観ていました。それに加えて、リストは主な映画作家の名前に注目して映画史を学ぶには十分でした。私はミンスクの店(今も存在してるかは分かりませんが)で映画のソフトを買い漁り、1つ1つ観ていきました。その時代は配信サイトはありませんでしたが、海賊版の映画が流れるウェブサイトにアクセスすることができて、そこでは地球上のどんな映画(まあ冗談ですが)を観ることができました。それからトレントでも映画をダウンロードすることができましたね。

TS:あなたが最初に観たベラルーシ映画は何でしょう? その感想もお聞きしたいです。

IK:それはLeonid Nechaev レオニド・ネチャエフの子供映画の1つだと思います。ベラルーシは子供映画に特別な関心を払っており、その中でもNechaevの作品は最も人気な例でもあります。他のベラルーシ映画と同じように、彼の作品もTVでよく放送されていました。そのおかげで私は例えば、灰色で悲痛な戦争ドラマ"Sign of Disaster"(監督:Mikhail Ptashuk ミハイル・プタシュク)などを観ました。断片的な思い出も存在しています。ある映画を観ていて、どんな人物がそこにいるんだろう、部屋はどんな風なのだろうと感じた覚えがあります。そして一番よく覚えているのは、ドイツ人兵士――映画は第2次世界大戦が舞台でした――が寂れた村で牛を殺すんです。銃声が響き渡って、フレームの中で女性が倒れます。牛は家族全員を養っていたんです。それからベラルーシでは時おりチェルノブイリにまつわる映画が学校で上映されました。大きな教室に集まって、少年たちがどの女優が"普通"か、どの女優が"ブス"かとお喋りしているんです。

TS:ベラルーシ映画史において最も重要な映画は何だと思いますか? その理由も聞かせてください。

IK:そうして1作だけ作品を選ぶというのは大きな慣習のようなものですね。もちろん重要な映画が1つという訳ではありませんが、もし1つ選ぶとするなら1968年制作、Valentin Vinogradov ヴァレンティン・ヴィノグラドフ監督作の"Eastern Corridor"ですね。モノクロ映画で第2次世界大戦中のミンスクに広がっていた地下世界を描いた作品で、当時の映画としては全く破格の作品でした。この戦争はベラルーシ映画において鍵となるテーマです。このテーマでいくつもの傑作(今作も含まれます)が作られ、ゆえに私たちにとっては栄光なんです。しかし同時に恥でもあります。ある時点から私たちの映画は救援も届かず、1940年代という時代に嵌ってしまったからです。

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TS:もし好きなベラルーシ映画を1本だけ選ぶとするなら、どれを選びますか? その理由は何でしょう? 個人的な思い出がありますか?

IK:私はエレン・クリモフ「炎628」を挙げたいですね。映画自体はお気に入りと呼ぶには恐ろしすぎるものですが。それは一種の美学的マゾヒズムというものです。しかし未だにこれ以上のベラルーシ映画に出会ったことがありません。間違いなく傑作であり、ユニークな芸術です。そしてやはり第2次世界大戦を舞台にした映画である訳なんですね。今作に個人的な思い出はありませんが、他にも時を経て特別な作品のリストに入ってくる作品はありますね。幸運なことにそれらは注目すべき面白さを持っています。

TS:ベラルーシ国外において、世界のシネフィルに最も有名な映画作家Viktor Turov ヴィクトル・トゥロフでしょう。彼の1作"Across the Cemetery"は私にとって、映画史において最も鮮烈で心を引き裂くような戦争映画です。しかし現在のベラルーシで彼はどのように評価されているでしょう?

IK:Viktor Turovの作品はベラルーシ映画界における古典と見做されています。最も偉大なベラルーシ映画作家のリストにおいて、彼が欠けることはありません。彼の戦争映画は現代における同種の映画に比べてさらに誠実で深いものだと思います。あなたは"Across the Cemetery""I Come from My Childhood""People from the Swamp"といった作品からベラルーシ映画を学ぶことができるでしょう。ところで彼の娘も映画作家として活動しています。

TS:興味深いですね。その娘さんであるElena Turova エレナ・トゥロヴァについて詳しく聞かせてください。

IK:彼女は子供映画やアニメーション映画を作っています。私としては彼女は間違った時代に現れてしまったのかもと思っています。その時代、ベラルーシ映画界のインフラは映画監督にとって必要な条件を満たしてはいなかったんです。Elena Turovaは何本か長編を製作し、今でも仕事を続けています。もちろん映画に興味がある人々には知られていますが、いわゆる"有名な"映画作家ではないですね。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは2010年代に最も重要なベラルーシ映画は何かということです。例えばDarya Zhuk ダリヤ・ジュク"Crystal Swan"Yulia Shatun ユリヤ・シャトゥン"Tomorrow"Vlada Senkova ヴラダ・センコヴァ"The Count in Oranges"などがありますが。

IK:個人的にYuliya Shatun"Tomorrow"にはとても感銘を受けました。彼女の複合的な価値観の美学やビジュアル的な正確さを楽しみましたね。それから"The Count in Oranges"の後に、Vladaは更に素晴らしい作品、痛烈で"苦い"映画"Ⅱ"を作りました。Daria Zhuk"Crystal Swan"は私たちの業界に欠けていたものという意味で重要です。ベラルーシ映画界が淀んだ時期にある今において、この90年代を描いた作品は前代未聞の大きな響きを持っています。それから時おり劇映画よりも素晴らしいドキュメンタリー映画についても忘れてはいけません。去年はAndrei Kutsila アンドレイ・クツィラ"Summa"Maxim Shved マキシム・シュヴェド"Pure Art"といった作品がありました。国営映画スタジオも伝統的に美しいアニメーション映画を作っています。不幸にも私たちにとって映画における"成功"とは例外的なものであり、未だ全力のベラルーシ映画界について語ることができません。

TS:ベラルーシにおける映画批評の現状はどういったものでしょう? 日本からはその状況に触れることが全くできません。ゆえに日本の人々もベラルーシの状況について知りたがっています。

IK:ベラルーシの映画批評は良くも悪くも業界の図式から独立しています。映画配給や国家的産業としての映画の必要に仕えている訳ではないんです。この選択としての自由には感謝していますし、職業上の観点からより誠実でいられます。私に関して言うと、カンヌ国際映画祭の作品からハリウッドの大作映画まで広く関心を惹かれます。例え各地の大きなスクリーンが商業的な作品に占有され、言ってもいいならアラン・ロブ=グリエのレトロスペクティヴが開催されないとしてもです。芸術の嗜好において今は"最良の時代"であり、ベラルーシ映画批評家は普段から映画に関して良い趣味を持ちあわせていました。唯一の、そして大きな問題はそう多くのメディアが映画批評に興味がある訳ではないということです。ウェブサイトにおいて映画のレビューはあまりView数を稼げません。

TS:ベラルーシ映画において最も注目すべき新しい才能は誰でしょう? 私は現在のベラルーシに向ける深い洞察という意味でAleksandr Zubovlenko アレクサンドル・ズボヴレンコを挙げたいです。

IK:私としてはAndrei KutsilaVlada SenkovaYuliya Shatunの新作、それから若い世代の作家たちに大いに期待しています。そしてここ数年は、驚きのために待ち続ける価値はあるということが証明された時期でした。だから私は今も待っているんです。

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コバルトブルーのミャンマーで~Interview with Aung Phyoe

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはミャンマー期待の映画作家であるAung Phyoe アンピューである。彼は映画作家であると同時に、ミャンマー最初の映画雑誌である3-ACTの発刊者・編集者であり、様々な側面からミャンマーの現代映画を支えている人物だ。彼の短編"Cobalt Blue"は1998のミャンマーを舞台に、引っ越しを控えた少年とその隣人の切ない交流を描き出した一作である。ミャンマーの歴史を背景としたこの繊細な人間ドラマは、ミャンマー映画界の光ある未来を予告しているだろう。ということで今回は監督に作品についてとミャンマー映画界の現状について尋ねてみた。ぜひ読んでみてほしい。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画作家になりたいと思ったのですか? それをどのように成し遂げましたか?

アンピュー(AP):私はいつも物語に魅了されている読者でした。若い頃は小説家になりたいと思っていたんです。しかし挑戦して数年後、自分にはその才能がないと悟りました。映画はだいぶ後に私の元にやってきました。10代の後半から映画を観始め、その力強さに魅了されました。最初それは追うのが不可能な夢でした。私自身エンジニアリングを勉強していて、映画業界やそこでの実践とは関りが何もありませんでしたから。学位を取った後、私は映画制作について学ぶことを決め(2年間ムンバイに留学しました)そこで映画を学んだんです。その前はただただ映画を観るだけでした。

TW:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のミャンマーではどんな映画を観ることができましたか?

AP:映画は子供時代においてそう大きな役割を果たしてはいませんでした。そこにあったのは文学です。それでも母と映画館に映画を観に行ったり、日曜日にはTVで映画を観たりしました(電気があった時はですが)そこは閉じられた世界で、映画に触れる機会があまりなかったんです。その時ミャンマーで観られたのはアクション映画やハリウッドの大作映画などで、それには興味がありませんでした。高校を卒業した後、エンジニアリングを学ぶためシンガポールに行った時、世界が開いたんです。まず文学を原作とした映画を観て、それから映画理論にまつわる本を読み始めました。インターネットのおかげで、多くの映画や本の中で言及されている監督にも触れることができてから、真剣に映画を観ることになりました。

実を言うとエンジニアリングにはあまり興味はなくて、だから読書をしたり映画を観たりして時間を過ごしていました(少なくとも1日中)その時間は物事を深く吸収する時間だったんです。私は特に日本映画とインド映画(ボリウッドではないです)に影響を受けました。まず日本映画については成瀬巳喜男の作品に大きな影響を受けました。ほとんどの作品が好きです。「流れる」「浮雲」「山の音」「めし」「乱れる」「女が階段を上る時そして彼の遺作である乱れ雲も好きです。それからインド映画に関しては、サダジット・レイのファンであることはありませんでしたが、リトウィク・ガタクムリナル・セン、そしてマニ・カウル作品における儚いメディアとしての映画には影響を受けました。

TS:あなたの短編"Cobalt Blue"の始まりは一体何でしょう? あなた自身の経験、ミャンマーのあるニュース、もしくは他の出来事でしょうか?

PA:これは私にとって2本目の短編映画なんですが、自分自身が何を語りたいかを見極める時間でした。軍事政権下における私の子供時代の経験を再構築したかったんです。困難なようにも思われますが、人生は今よりも素朴なものでした。そんなミャンマー人の普通の生活を再構築したかったんです。

TS:短編についての質問に入る前に、その歴史的な文脈についてお聞きしたいです。この映画は90年代後半を舞台としていますが、それは重要な要素に思えます。何故90年代後半を舞台にしようと思ったんですか? そこには外国人が知らない重要な文脈が存在しますか?

PA:その時代はアメリカによる制裁があった時代で、私たちにも、そして政府で働く家族の人生にも影響がありました。人々は他の地域へ移住させられ、失業する人もいました。これを背景に入れたかったんです。そしてもっと重要なことに、その頃は時の流れが緩やかで、待ちわびる感覚や希望のない憧れが今よりより強い時代だったんです。

TS:今作で最も印象的なことの1つは、少年と彼の隣人の複雑な関係性です。最初それはとても親密で優しいものですが、徐々に胸を引き裂く切なさを帯びます。観客は関係性が変化していく上で生まれる深い悲しみを感じることになるでしょう。あなたはこの関係性について、脚本段階と撮影段階、その両方においてどのように構築していきましたか?

AP:成長するにあたって、私は人生において何か実践的なものについていつも目を向けてきました。何を感じようと、何を求めようと、ある1つの事象を行い、ある1つの道を行く必要があるんです。その道を行くごとに小さな欲望や願い、夢といったものはゆっくりと消えていきます。私はこの諦めというものを描きたかったんです。そういった深い、パーソナルな哀しみを描くベストのやり方は登場人物を親密な神々しさに晒す(それは性格が強いとか弱いとかいったこととは関係ありません)ことだと思います。おそらくそれが成瀬巳喜男の映画に私が触発される理由でしょう。彼は登場人物をそういった親密な瞬間に晒すことで何か深遠なものを達成しているんです。

撮影の間、私は俳優たちに気楽でいるようお願いしました。登場人物の心理や複雑さについては特に説明してはいません。ただ引っ越して親友と別れる際、感じるだろう何かについて話しました。子役や隣人役の俳優とはワークショップを開きました。リハーサルをしたり、兄弟のようにゲームで遊んでもらったんです。

TS:今作の核は主人公となる少年の存在です。今作の力強い複雑さは彼の不満、怒り、悲しみによって増幅されています。この俳優May Paing Soe メイパンソーをどこで見つけましたか? どうしてこの映画で彼と組みたいと思いましたか?

AP:いえ、その俳優の名前はArr Koe Yar アコヤーです。May Paing Soeは母親を演じた俳優ですね。彼は多くの映画やドラマで活躍しており、カメラやセットを怖がることはありませんでした。私は彼のなかにある種の哀しみを感じましたが(それを理解しようとしたり、疑問に思ったりはありませんでした)それで彼を主演にしようと思えたんです。説明した通り、関係性の複雑さについて説明はしませんでしたが、もし兄の元を離れたり、町から移住したりしなくてはならなかったら?ということを彼に尋ねたんです。それは例えば"兄と一緒にいたいけど、それは許されないんだ"とか"彼は君を騙して、それに怒ってるんだ"とかいった風です。こうして彼が簡単に理解できるシンプルな状況を作りあげた訳です。

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TS:今作においてある1つのことが会話のなかで繰り返されます。上ビルマへの移住です。少年の家族は上ビルマに実際移住しようとしますし、彼の隣人も恋人とそれについて話しますね。この"上ブルマへの移住"というのはどういう意味を持つのでしょう? これには特別な意味合いがあるのですか?

AP:これは個人的な考えですね。私は上ビルマに産まれ、ここを映画として描き出したいといつも思っているんです。上ビルマはほとんど乾いた風景が広がり、埃臭い風が吹き、細く茶色い人々で溢れています。この町や村で過ごした子供時代は鮮烈な思い出として残っています。この要素に関しては次の作品でも探求していきたいと思っています。

TS:そして今作の素晴らしい場面は正に最後です。あなたのカメラは車の後ろに座る少年の顔に迫っていきます。その顔ではとても、とても多くの感情が浮かんでは消えていきます。その様には静かに感動しました。この長回しを最後のショットとして決めたのは何故ですか?

AP:私は彼らの人生がもはや彼らの望んだものではなくなってしまったということを伝えたかったんです。感情というものがどんなに強く誠実でも、それらは時間の流れのなかで消えていきます。私にとってそれが人生の最も残酷な側面なんです。彼がかつて感じていた愛はもう思い出のなかにしか生きていないんです。だからこそ(演技と顔にかかる影を通じて)その感情の変化が現れては消えていくようにしていきたかったんです

TS:ミャンマー映画の現状はどういったものでしょう? 外側からは良いように見えます。新しい才能たちが現れ、ワタン映画祭が存在感を発揮し始め、多くの映画の専門家がFAMU Burma Projectから巣立っていっています。しかし内側から見ると、現状はどのように見えているのでしょうか?

AP:私も良いと思いますね。強い信念を持つ多くの若い映画作家たちがいます(メインストリームにおいてもインディーズにおいても)FAMUとワタン映画祭はミャンマーにおけるインディーズ映画の勃興に重要な役割を果たしています。ここ最近、ミャンマーの若い作家は世界の映画祭で目に見える衝撃を与えています。Na Gyi ナージーは彼の作品"Mi"ASEAN国際映画祭の撮影賞を獲得しました。そしてZaw Bobo Hein ゾーボーボーヘインは自身の短編"Sick"で、シンガポール国際映画祭の監督賞を獲得しました。まだ長い道のりがありますが、光ある未来を願いたいです。

TS:あなたはミャンマーの映画雑誌3-ACTの発刊者ですね。この雑誌について説明してくれませんか? どうしてこの雑誌を始めようと思ったんでしょう? その過程はどういったものだったでしょう?

AP:この雑誌は映画作家や映画に真剣な興味を持つ人々のためのものです。1年に2回発刊され、今のところは4冊発行されています。雑誌は映画作家である私の友人Moe Myat May ZarChi モーミャメイザーチーによって発刊され、私も共同設立者と編集として携わっています。主にこの国の映画について(より批評的な側面から)、そして映画製作の分子的側面や映画理論の翻訳などについて特集しています。

TS:前の質問に関連して、ミャンマーにおける映画批評の現状はどういったものでしょう? 外側からだとその映画批評に触れる機会が全くありません。ですが内側からだと、その状況はどのように見えますか?

AP:ミャンマーにおいて映画批評の文化が強いとは思えませんね。批評というよりも個人的なレビューの方が多いです。しかしソーシャルメディアにおいて、より多くの批評ページが現れています。しかしその誠実さや映画への知識には疑問が残ります。

TS:もし1本好きなミャンマー映画を選ぶなら、どの作品を選びますか? その理由も知りたいです。何か個人的な思い出がありますか?

AP:それは1990年制作の"Khun-hnit Sint Ah-lwan"(監督:Maung Wunna マウウンナ)ですね。彼は私が影響を受けた唯一のミャンマー映画作家です。彼の最も称賛された作品は"Tender are the Feet"(1973)で、リストア版がベルリンと東京国際映画祭で上映されました。彼のほとんどの映画が好きです、様々な理由で。しかし"Khun-hnit Sint Ah-lwan"を選んだのは、そのミャンマー人の平凡な人生に対する信頼性を持った、成熟したスタイルとその複雑微妙さに感銘を受けたからです。

もちろん今作を初めて観たのは家族と一緒にです。TV放送でした。カップルが異なる倫理観のせいで別れることになりながら、最後には彼らの娘の願いで再び一緒になるという平凡な物語です。しかしそのクオリティは(ミャンマー人である私にとって)卓越したものです。

TS:新しい短編か長編を作る計画はありますか? もしそうなら、読者にぜひお伝えください。

AP:現在、私は"Fruit Gathering"というデビュー長編の準備をしています。今作は2人の平凡なミャンマー人女性をめぐる愛と憎しみの旅路を描いています。そして残酷な現実性を持った過渡期における親密さと所属の感覚についても描かれています。ミャンマーの過渡期を舞台として、今作は人生に苦闘し、自身のなかで繰り広げられる闘争を宥めようとする登場人物の人生を描くことを目的としています。

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ブルガリア映画史の色彩~Interview with Mariana Hristova

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Photo Credit: Àlam Raja

さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはブルガリア映画批評家Mariana Hristova マリアナ・フリストヴァである。彼女はKino MagazineやFilmsociety.bgなどブルガリアの映画雑誌に批評を寄稿する一方で、現在はスペインのバルセロナに在住、スペイン語でも映画評を執筆しているという人物である。今回はそんな彼女にブルガリア映画史の傑作やブルガリア映画史の未来を聞くとともに、現在広く活躍しているブルガリアの移民作家たちについても話を聞いてみた。これを読めば、ブルガリア映画への理解がより深まるはずである。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず、映画批評家になろうと思ったきっかけは何でしょう? どのようにそれを成し遂げたんでしょう?

マリアナ・フリストヴァ(MH):私はずっと映画を愛していて、それから多くの物事に対して批評的な目線を持っていました。この文字通りのコンビネーションは私にとって正しい選択だった訳です。映画批評家への道はとてもまっすぐなものでした。ソフィアの国立演劇映画アカデミーで映画について5年間学ぶと同時に、3年生の時からはブルガリアの映画雑誌Kino Magazineや他の地方の雑誌に寄稿を始めました。そうして物事は自然に進展していったんです。しかし自分は映画批評家だけであったことはないです。ほとんどの場合、文化ジャーナリズム、翻訳、イベント・マネージメントといった活動と同時にやってきたんです。そして独立した批評を書くため、プロとしての自由を保つために、可能な限り組織からは遠ざかる必要があると思います

TS:映画に興味を持った頃に観ていた映画は何ですか? 当時のブルガリアではどういった映画を観ることができましたか?

MH;映画はとても小さな頃から重要な位置を占めていました。4歳か5歳の頃、両親が彼らだけで夜に映画館へ行ったのに怒ったことを覚えています。それで両親はプロジェクターを買ってくれて、私は家の壁にブルガリアでとても人気だったDiafilms―イラストで以て物語を語る漫画のような映画です―――を映していました。それからTVでソ連のアニメーションもたくさん観ていて、そのうちの1つが"Just You Wait!"でした。トムとジェリーのような、しかし猫とネズミの代わりにオオカミとウサギが追いかけっこをするという作品です。それから"The Flying Cestmir""Arabela"というチェコスロヴァキアの子供番組も観ていました。しかしその頃は大人のための映画を観ることがほとんど禁じられており、そのせいで禁断のように思われた"本物の"、謎めいて高級な映画を観たいという欲望が増幅していきました。10歳頃、私は故郷のトロヤンという町にある唯一の映画館に行くことを許されました。ここでは1週間同じ映画だけを上映するという場所でした。ラッキーなことに映画館のマネージャーが母の親友で、同じ映画をタダで何度も観ることができたんです。覚えているのはティム・バートンバットマンティーブン・フリアーズ「グリフターズ/詐欺師たち」、それから特にバズ・ラーマンダンシング・ヒーローです。80年代のダンス映画、例えばフラッシュダンス「ダーティー・ダンシング」といった作品をもっとエキセントリックで奇妙にしたような作品でした。そして今はもうない映画館の映写技師の部屋にあった、Ivan Ivanov イヴァン・イヴァノフという有名なブルガリア人俳優の肖像画は今でも私のソフィアのアパートに飾ってあります。

TS:最初に観たブルガリア映画は何でしょうか? その感想も聞かせてください。

MH:最初の作品が何だったかをちゃんとは思い出せません。しかし覚えているのはTVに映った衝撃的な斬首シーンで、とても恐怖を覚えました。その映画が何か分かったのはずっと後です。それは"Constantine, the Philosopher"(1983)というテレビドラマで、聖キリルと聖メトディウスがキリル文字の前身であるグラゴール文字を作る姿を描いた作品です。映画館で最初に観たブルガリア映画"The Prince's 13th Fiancé"(1986, 監督:Ivanka Grubcheva イヴァンカ・グルブチェヴァ)でした。貴族とUFOが登場する素晴らしいおとぎ話で、あまりにゴチャゴチャしたプロットのせいで深くは理解できませんでしたが、それでも明るくカラフルで、輝くようなコスチュームは当時の私には魅力的でした。

TS:ブルガリア映画の最も際立った特徴は何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス黒いユーモアがあります。では、ブルガリア映画はどうでしょう?

MH:これはブルガリアの批評家たちが数十年間考え続けている、百万ドルの価値がある問いです。ブルガリア映画は強いアイデンティティを持っていませんし、例えばセルビアエミール・クストリツァギリシャテオ・アンゲロプロスのように、世界的に有名な監督もいません。私たちにはRangel Vulchanov ランゲル・ヴルチャノフという作家がいて、彼は海外で成功を収めていますが、ブルガリア国外やプロフェッショナル領域外ではあまり有名ではありません。スタイルが八面六臂で一貫性がないからかもしれません。そして後者のスタイルはブルガリア映画それ自体に言えます。この揮発性によって国的な映画ブランドが認知されないんです。それでは本題に入りましょうか。ブルガリア映画は変動が激しく、1つの文章で表現することができません。そして地方性が強すぎるんです。ベストではないでしょうが、最も魅力的で感動的なブルガリア映画は外国人にはほとんど理解されないんです。例えば"移住の輪"と呼ばれる作品群です。1970年代、地方の人々は突如人工的な都市化に晒されました。自然の成り行きではない、国の"光ある未来"のための社会主義プランによってです、この悲喜劇的なカルチャーショックを反映した作品群は特定の場所や時代を舞台としており、おそらくブルガリアのこんにちの若者たち、とくにベルリンの壁崩壊後に産まれたミレニアルたちにも作品の背景や問題を理解するのは難しいでしょう。あなたの問いに戻ると、ブルガリア映画はそうと分かるブランドはありませんし、それによって生じる魅力的で信頼性ある作品もあまり存在しません。他方で、それがある映画作家たちが外来的なスタイルやモデルの模倣に走る理由ともなっているでしょう。特に彼らが海外で成功したい時には。

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"The Prince's 13th Fiancé"

TW:あなたの意見として、ブルガリア映画史で最も重要な映画は何でしょう? それは何故でしょうか。

MH:ほとんどのブルガリア人批評家は"The Goat Hoan"(1972, Metodi Andonov メトディ・アンドノフ)を選ぶでしょう。他に"The Unknown Soldier's Patent Leather Shoes"(1979, Rangel Vulchanov ランゲル・ヴルチャノフ)を選ぶ人もいるかもしれません。私は後者に属します。今作はフェリーニ「アマルコルド」タルコフスキー「鏡」など、いわゆる"意識の流れ"を汲む映画における相互関係を描いている故に、重要と見做されています。それもあり、私たちにとって今作は小さな、あまり知られていない文化であるブルガリア映画を世界映画の地図に位置付けてくれる作品であるのです。脚本は上述の映画が上映される前の1960年代に書かれていましたが、"曖昧なメッセージ"を伝えようとしているということで権威は今作へのファイナンスに乗り気ではなかったんです。私個人として重要で素晴らしいと思う点は今作におけるブルガリアの伝統と民話への発見に対する誠実さと自発的なアプローチです。Vulchanovはブルガリア人の意識的・無意識的世界を自身の子供時代の思い出を通じて語ろうとし、その結果が劣等感やインテリ的な偽りなしの、1級の作家映画なんです。全体として、今作ほどオープンで、国を表現する性格の利点や欠点に対して誇りを持っているブルガリア映画は存在しないと考えます。様々な側面における勇気ある実験性が素晴らしいのです。当時の映画製作の状況――素人俳優の起用から監督が自身の声を映画に使用するというのを鑑みれば、なおさらです。

TS:もし1本だけ好きなブルガリア映画を選ぶなら、それは何でしょう? その理由もお聞きしたいです。何か個人的な思い出でもあるのでしょうか?

MH:私の好きなブルガリア映画は年月を通じて変わっていっていますが、もし1本だけ選ぶならそれは"Silna voda"(1975, Ivan Terziev イヴァン・テルジエフ)です。今作は2,3年に1回は観るのですが、観る度に文脈はローカル的(先述した"移住の輪"に属しています)なのに、複層的な現実味に驚かされます。今作は労働者の集団を描いているのですが、彼らは無能さを批判されることもなく行政の命令に従いつづけます。これは共産主義時代のブルガリアで実際に広く行われていたことです。そこでこんなことも言われるようになりました。"俺は仕事してると嘘ついてる、奴らは金払ってると嘘ついてる"と。しかしこの現象は政権が崩壊しても消えることなく、現在における西側の社会的民主主義にもこの精神性は見られると思います。特に仕事場ではそうで、国によってこの現象は過度に保護されているんです。この映画は労働者たちの中の反逆者チコに焦点を当てています。彼は嘘を生き続けることに居心地悪さを感じ、国に対してこの問題をオープンに語るんです。そうして今作は、社会主義システムにおける偽の前提によって生まれた、怠惰さや偽善性を広く普及したメンタリティとして提示するんです。しかしこの一時的な政治的文脈を越えて、今作は普遍的な倫理観について語り、私たちの現代社会は不利益な真実を語る告発者を周縁化しようとするということを鋭く描きだすんです。Ivan Grigorov イヴァン・グリゴロフ、私は"ブルガリアダスティン・ホフマン"と呼んでいるんですが、彼が熱演するチコは生涯4本の長編しか作ることの出来なかった映画作家Ivan Terzievの分身であるように思われます。彼は現在、最後の日々を老人ホームで過ごしています。おそらく真実を語ろうと固執するあまり、システムに適応することができなかったんでしょう。

TS:世界で最も有名なブルガリア映画作家は間違いなくBinka Zhelyazkova ビンカ・ジェリャズコヴァでしょう。"A byahme mladi""Baseynat"など彼女の作品は最良の形で独特でかつ壮大なものです。しかし彼女や彼女の作品は現在のブルガリアでどのように評価されているのでしょう?

MH:Binka Zelyazkovaの作品はブルガリア映画批評家や専門家に称賛されています。彼女はブルガリア映画界におけるデイムなんです。彼女の作品全てはオープンにも仄めかすにしろ政治的ながら、その存在論的な層は燃えあがる問題に対する単なる議論以上の立ち位置にあります。さらに、彼女の駆使する映画的言語は作品たちを時を越えた作品へと昇華しています。美学においては、同じ時代のヨーロッパにおけ文芸映画と等しいものです。"Baseyat"(1977)や"Golyamoto noshtno kupane"(1980)を知識なしで観る時、この作品たちが社会主義下のブルガリアにおける独善的・イデオロギー的な文脈内で作られたとは予想できないでしょう。私としては彼女の最後の作品"Noshtem po pokrivite"(1988)が好きで何度も観ています。今作は孤独と自発的な社会からの孤立を描いています。私の好きな登場人物――悲しげで、酔っ払いの、周縁化されたインテリで、フランス語の偽名を使い自身の存在論的な戯曲を舞台化しようと画策しています――はTodor Kolev トドル・コレフというブルガリアで最も愛されたコメディ俳優が演じています。そのコスタという人物は最も驚くべき、普通ではない性格を見せてくれます。

TS:私の好きなブルガリア映画Christo Christov クリスト・クリストフ"Barierata"です。今作の繊細さ、息を呑む崇高さには驚かされます。今作こそ私にとってはブルガリア的な美なんです。しかしChristo Christovと今作はブルガリアでどのように受容されているのでしょう?

MH:こんにちの観点から言うと、彼はとても称賛され、作品は古典と見做されています。しかし1980年代に"Edna zhena na 33"(1982)においてブルガリア社会を、日常レベルで深く腐敗したものとして描こうとした際には検閲に苦しめられました。映画は高い位置にある不誠実な人々を描いており、押し付けられた社会主義的理想と現実の食い違いは明確な物でした。そして"Kamionat"(1980)は社会における人間同士の関係性を暗く描きだしたことで、"明るい未来"を目指していた権威によって批判されました。"Barierata"(1979)は彼の最も人気な映画でしょう。不幸なことに、彼の作品が一般観衆によく知られているとは思いません。

TS:ブルガリア映画において最も印象的なことの1つは、文学を映画にすることの巧みさです。例えばVulo Radev ヴロ・ラデフ"Kradetzat na prakovi"Nikola Korabov ニコラ・コラブフ"Tyutyun"Metodi Andonov"Kozuat rog"Eduard Sachariev エドゥアルド・サチャリエフ"Mazhki vremea"などです。他の東欧の国に比べると、脚色に失敗しているということがありません。ブルガリア映画作家たちはどうしてこうも成功裏に文学を映画化できるのでしょう?

MH:それはおそらく監督たちが脚本を執筆する際に、作家たちと密に連携しているからでしょう。あなたの挙げた作品群に関してはそうです。さらにその中の1作だけは原作が長編で、他は短編だったり短い長編だったりします。その方が映画化しやすいというのもあるでしょう。素晴らしい結果となった作品として、Georgi Mishev ゲオルキ・ミシェフの短編や長編を基として、更に彼自身が脚本家として参加している作品を挙げたいと思います。"Vilna Zona"(1975, Eduardo Zahariev エドゥアルド・ザハリエフ)、"Matriarhat"(1977, Lyudmil Kirkov リュドミル・キルコフ)、"Dami kanyat"(1980, Ivan Andnovイヴァン・アンドノフ)などです。

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"Edna zhena na 33"

TS:そして多くのブルガリア人映画監督が海外で活躍していることにも驚きです。例えばドイツのSimona Kostova シモナ・コストヴァ、フランスのElitza Gueorguieva エリツァ・グェオルグエヴァ、カナダのTheodore Ushev テオドル・ウシェフなどです。どうして多くのブルガリア人移民作家が様々な国で活躍できていると思いますか?

MH:思うに彼らはその国にプロとしてのより良い実現を見出したんでしょう。ブルガリアの映画コミュニュティはとても閉鎖的なもので、自分の居場所を見つけるのは難しく、ファイナンスに関しても貧困で、システムは腐敗しています。ブルガリアの公共生活における様々な側面と同じようにです。そして世代間の衝突やギャップがあり、繋がりが存在しないんです。ベテラン映画作家たちは自分自身のルールや基準の密なネットワークがあり、そこに入ることが難しく、新鋭の作家は後々まで幼児退行した地位に居ざるを得ないんです。全体の環境は息苦しいもので、ここ最近目の当たりにする新鮮な結果の数々は独立している故に産まれたか、海外にいるか、それとも海外から援助を受けた故かなんです。この理由で、ブルガリアは商業映画でもインディーズ映画でも、独立したプロダクションが比較的多いんです。

特にTheodore Ushevに関しては、彼の実験的な映画の数々を初めて観た時、こう思ったんです。"彼が移住してくれたこと、神に感謝します。ブルガリアではこんな映画を作るのに、サポートなんて受けられませんから!"と。

TW:そして最も興味深い事実はとても多くのブルガリア人監督がドイツで活動していることです。例えばSimona KostovaPolina Gumiela ポリナ・グミエラHristina Rykova フリスティナ・ライコヴァEliza Petkova エリザ・ペトコヴァらです。彼女らは全員女性ですが、その作品は有名なベルリン国際映画祭で上映されています。どうしてこんなにも多くのブルガリア人作家(しかも女性が)がドイツで映画を作っているのでしょう? ブルガリア史においてこの国とドイツには強い繋がりがあったのでしょうか?

MH:どうしてこの特定の監督たちがドイツを選んだかは定かではないですが、私の知る限り多くの若いブルガリア人がドイツの大学に行くことを決意しています。1つの理由としては経済が発展しており、苦闘教育が無料なこと、もう1つは既に彼らがドイツ語を知っているからだと思われます。マイナーな言語を使っている故に、ブルガリアには外国語を学べる高校が多くあり、そのほとんどがドイツの名を冠しています。それは共産主義時代からで、東ドイツと政治的な"友情"が存在したんです。それから通常の学校で広く学ばれる"西側の"言語が、同じ理由でドイツ語だったんです。ブルガリアとドイツの繋がりに関して歴史を眺めてみると、第2次世界大戦前のブルガリア王室はザクセンコーブルク家とゴータ=コハーリ家というドイツの子孫にあたる家に属しており、戦争中ブルガリアはドイツ側に立っていたんです。

TS:2010年代も数か月前に幕を閉じました。そこで聞きたいのは、2010年代において最も重要なブルガリア映画は何かということです。例えばRalitza Petrova"Godless"Emil Christov エミル・クリストフ"The Color of the Chameleon"Ilian Metev イリアン・メテフ"3/4"などがありますが、あなたのご意見は?

MH:複層的なプロットという意味で、この10年の最初と最後に現れた2作の映画を挙げたいと思います。"Áve"(2011, Konstantin Bojanov コンスタンティン・ボジャノフ)と"Father"(2019, Kristina Grozeva クリスティナ・グロゼヴァPetar Valchanov ペタル・ヴァルチャノフ)です。2作は不条理な筆致とともに好奇心旺盛でオリジナルな物語を語っています。しかしそれ以上に興味深いのは細部の豊かな背景描写です。これらは現在のブルガリア社会を複雑微妙な形で描き、分析しているんです。2人の若者を描くなかで、アヴェは病理学的な嘘つきであり、彼女は若い世代の心を挫く、一般的で広く普及した"行きどまり"の感覚について遠回りに仄めかしているんです。もしくは映画が終わった後、観客としては"何故若者たちは自殺し、この国の現実から逃げたいと嘘をつくのか鮮明に分かった"と思うかもしれません。それから"Father"はもう1つの逃避主義的な傾向を描いています。インテリや教育を受けた人々の間にも蔓延る、迷信的な信条への傾き、それは失われた宗教的信仰のぎこちない代替品であり、彼らは精神的に疲弊した環境のなかで何らかの精神性を探し続けているというものです。監督たちがこのアイデアを意図的に描いているかは定かではありませんが、私の意見では彼らの作品はこの10年を通じてブルガリア社会のセンシティブで正確な投影でありつづけました。健忘症のなかで、価値観の深い危機感の見舞われ、私たちは現実を否定するため様々な手段に逃げているんです。

TS:ブルガリア映画の現状はどのようなものでしょう? 外側から見ると状況は良いように思えます。新しい才能がとても有名な映画祭に次々と現れているからです。例えばロカルノMina Mileva ミナ・ミレヴァVesela Kazakova ヴェセラ・カザコヴァサン・セバスティアンSvetla TsotsorkovaトロントIlian Metevなどです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えるでしょう?

MH:素晴らしいとまでは行かずとも、ブルガリア映画界は良い状況にあると言えるでしょう。特に20年前、私がプロとしてその状況を観察し始めた頃よりは良いですね。あなたが言及した映画作家に加えて、Kristina GrozevaPetar Vulchanov作品をぜひ挙げたいです。彼らは居心地悪い状況になかに生まれる不条理なユーモアを以て、極めて現実的でスリルのある社会的リアリズムの映画を作っています。それに加えて、彼らのキャリアはどんどん高まっていっており、映画を作るたびにクオリティが上がっていくんです。

しかし一般的にブルガリア映画には自尊心が欠けていると思われます。海外で好かれたり受容されたりしたいというなりふり構わぬ欲望が最近はとても普通になってしまっていて、それが彼らの基準がいかに不安定化を語っています。そして最終的な結果は目指したものの影でしかないんです。おそらく、この不明瞭さが先述したアイデンティティの危機の結果なんでしょう。

TS:あなたにとって最も際立った新しい才能とは誰でしょう? 例えば海外からだと、彼の力強いまでに徹底したリアリズムという意味でPavel G. Vesnakov パヴェル・G・ヴェスナコフを、美しい撮影を交えた大いなるヒューマニズムという意味でVesselin Boydev ヴェッセリン・ボイデフを挙げたいと思います。ではあなたのご意見は?

MH:あなたの選択には賛成です。Vesnakovのもうすぐ上映される長編デビュー作には期待していますし、Boydevも長編映画を作る機会があると思います。Boydevの作品"Clothes"は語り的な成熟性と撮影における繊細さがあり、よりその表現は広がっていく価値があると信じています。私はHristo Simeonov フリスト・シメオノフの荒いリアリズム("The Son""Nina"など)から詩情を生みだす才能も素晴らしいので、彼が長編映画を作る時を期待しています。

それから完成するのが待ち遠しい作品が、私の友人であるNikola Boshnakov ニコラ・ボシュナコフの第2作であるドキュメンタリーで、今作の主人公はソフィア生まれのドイツ系ブルガリア人、ドレスデンのパンクバンドFreunde der italienischen OpenのフロントマンをやっているRay van Zeschau レイ・ファン・ツェシャウです。彼は叔父であるブルガリア人画家Ljuben Stoev リューベン・ストエフの死後の遺産を扱うことになったんです。Boshnakovはオリジナルな精神を持っており、2000年代に人気だったBidon Film Undergroundの中心人物だった存在です。

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"The Father"

ウズベク映画史のはじまり~Interview with Mukhlisa Azizova

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて、今回インタビューしたのはウズベク映画界の重要人物であるMukhlisa Azizova ムフリサ・アジゾヴァである。彼女はウズベキスタン国立映画委員会の議長を務めるとともに、ウズベキスタン初の映画祭であるプロローグ国際映画祭で芸術監督を務めている。更に去年は映画監督業にも進出、デビュー長編「スコルピオン テロ組織制圧指令」(というかインタビュー後に、今作が日本でWOWOWスルーになっていたことに気づいた……)は、初めてカンヌ国際映画祭に選出されたウズベク映画となった。ということでそんな重要人物にウズベク映画誌の過去・現在・未来について聞いてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画業界で働こうと思ったんですか? どのようにそれを成し遂げましたか?

ムフリサ・アジゾヴァ(MA):小さな頃から映画には情熱を持っていて、何にしろこうなることは分かっていました。キャリアの最初の一歩を踏むにあたって、人生においてこれが一番したいことだという確信に至ったんです。

TS:映画に興味を持った際、どんな映画を観ていましたか? 当時のウズベキスタンではどんな映画を観ることができましたか?

MA:私の興味は写真から始まりました。それと同時にある映画も観始めたんです。最初は古典映画でしたが、そこでフレームが映画でいかに大切な役割をしているかを理解し、技術的な観点から映画を分析するようになりました。もちろん、その頃ソ連制作のウズベク映画は多くありました。しかし私はいつも映画において何が起こるかに主眼を向けており、それが映画を選ぶ際の尺度となっていました。

TS:最初に観たウズベク映画は何ですか? その感想も聞かせてください。

MA:最初の映画をキチンとは思い出せませんが、最初に鮮やかな印象を遺してくれた作品はYuldash Agzamov"Past Days"です。この当時における黄金の古典作品は、観ると長い旅からとうとう帰ってきたかのような感慨を覚えます。

TS:ウズベク映画史において最も重要な映画は何だと思いますか? それは何故でしょう?

MA:Khudaibergen Devanon"Monuments of architecture of our region"は私たちの国で最も重要な映画と呼ばれ、これによってウズベク映画の始まりを目撃したと言われます。今作が作られた当時は宗教的な基盤が大きな役割を果たしており、それによって制約が存在していました。そんな中で作るのに勇気が要ったゆえに、重要だとか素晴らしいと言われます。

TS:もし好きなウズベク映画を1本だけ選ぶとしたら、何を選びますか? その理由も知りたいです。個人的な思い出がありますか?

MA:多くのウズベク映画を観てきた後でも、私の故郷の国の頂点について聞かれたなら"Past Days"が思い浮かびます。本物の魂がこもった1作であり、私たちの文化や精神性を明確に表現しています。何度だって観るのが好きで、微笑みをもたらしてくれたり、過去に思いを馳せたりします。

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TS:世界のシネフィルに最も有名なウズベク映画作家Ali Khamrayev アリ・カムライェフでしょう。"Triptych""The Bodyguard"などの作品は偉大なるヒューマニズムと神々しい美が宿っており、シネフィルたちを驚かせます。では、彼と彼の作品群は現在のウズベキスタンでどのように評価されているでしょう?

MA:Ali Khamrayevウズベク映画における本当のマエストロであり、私たちの国の雰囲気を失うことなく、美しく隠喩に溢れた作品を作っています。ウズベキスタンでは高く尊敬され、全ての作品はどの世代の映画作家にとっても道標となってくれています。

TS:私の好きなウズベク映画の1本はKamara Kamalova"Bitter Berry"です。この作品は少女の夏をとても軽やかに、緑豊かに描き出しています。その鮮やかさには感銘を受けました。しかし彼女と彼女の作品はウズベキスタンの人々にどう受け入れられていますか。

MA:私はKamara Kamalovaの大ファンです。が、彼女は他のウズベク映画作家のように人気ではありません。それでも映画人の輪の中ではその独自のスタイルから尊敬され、よく知られています。

TS:日本において最も有名なウズベク映画は間違いなくズルフィカール・ムサコフ監督の「UFO少年アブドラジャン」です。日本人はその奇妙さ、可愛らしさにとても魅了され、カルト映画として見做されています。そこで聞きたいのは、日本と比べて実際ウズベキスタンではどのくらい今作が人気かです。ズルフィカール・ムサコフとは一体どんな人物なのでしょう?

MA:彼を国の宝と呼んでもいいでしょう。その作品は全てウズベキスタンの観客たちに暖かく受け入れられています。「UFO少年アブドラジャン」は一般人でも存在を知っている作品の1本です。ムサコフは明確に自分のスタイルとビジョンを持っており、それが彼の存在を際立たせ、作品たちは頭1つ抜けているんです。

TS:2019年、日本の監督である黒沢清の新作「旅のおわり世界のはじまり」が公開されました。今作はウズベキスタンを舞台としていますが、評価は真っ二つに分かれました。日本のシネフィルたちは今作を愛し、"黒沢映画でもベストの1本"と語る一方、ウズベキスタン中央アジア愛する人々からは"不誠実で差別的"と批判されています(私もこの見方に同意します)。そこで興味があるのは、ウズベキスタンでは今作がどのように受け入れられたか、そしてあなたの正直な意見です。

MA:黒沢清の作品を長い間追ってきたゆえに、数年前彼に会えたのは幸運なことであり、彼ほど興味深い映画作家はほとんどいないと思っています。正直に言って、私自身はただ観客としての立場で「旅のおわり世界のはじまり」を観たまでで、その思想や技術を分析した訳ではありません。怒りについても理解はできるのですが、個人的には彼がアーティストとしての自分を解放しているという点で感銘を受けました。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは2010年代において最も重要なウズベク映画は何かということです。例えばUmid Khamdamov ウミド・カムダモフ"Issiq non"Yalkin Tuychiev ヤルキン・トゥイチェフ"Dom dlye rusalak"などがありますが、あなたのご意見は?

MA:ここ10年、ウズベク映画界は際立った変化を経て、新たな時代に到達しました。Umid Hamdamov"Issiq non"ウズベク映画の発展において重要な役割を果たしており、アカデミー賞にもノミネートされたことは若い映画作家たちを振るいたたせ、彼らは新しい方向性を創造しようとしています。

TS:ウズベク映画の未来についてどうお考えですか? その未来は明るいでしょうか、それとも暗いものでしょうか。

MA:最近、政府はウズベク映画が国際的なレベルに到達できるよう積極的にサポートをしています。その変化のダイナミクスにも関わらず、若い才能はウズベク映画の古典作品に多く負った、とても良い趣味を誇っています。そして観客たちの高い基準は、若い映画作家たちが高いクオリティの作品を作れるよう勇気づけてくれるでしょう。

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ミャンマー映画史の向こう側~Interview with Myat Noe

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはミャンマー映画批評家Myat Noe ミャトノエである。彼は映画批評家・脚本家として旺盛に活動、ミャンマーの映画界を牽引してきた人物である。そして現在はミャンマー映画における検閲の立ち位置についての論文を執筆中だ。そんな彼に、今回はミャンマー映画への極個人的な思い出、ミャンマー映画界や映画批評の現状、ミャンマーと日本や台湾など諸外国との関係性、そしてミャンマー映画界における検閲など様々なテーマについて尋ねてみた。ミャンマー映画史についての日本語記事はこれが初めてではないか?くらいの自信を持っているので、ぜひとも読んでみて欲しい。それでは素晴らしいミャンマー映画史の旅へ!

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済藤鉄腸(TS):まず、どのようにして映画批評家になったのですか? どのようにそれを成し遂げましたか?

ミャトノエ(MN);まず、私は映画批評家になりたい訳ではありませんでした。私は脚本家からキャリアを始め、今でも時々長編の脚本を書いたり、コンサルタントをしたりしています。

しかし映画を分析したり、批評を書いたりするのは子供の頃からとても得意だったんです。友達と一緒に観ていた映画作品のある美学やスタイル、テーマやそれに対する意見について話していたんです。

ミャンマーには90年代まで良い映画批評家が少なかったんです。批評という芸術はほとんど沈黙を強いられていました。それは必ずしも政府の制約のせいだけでなく、紙媒体のメディアがエンタメ業界のスクープを手に入れるため、制作会社とズブズブだったからでもあります。なので2000年まで映画批評など誰も書きませんでした。映画のクオリティはどんどん酷くなり、批評の厳しい言葉の数々が必要とされていたにも関わらずです。

なので私は仕事(給料はなし!)として、2010年からFacebookに映画批評をポストし始めました。それは映画批評から遠ざかっていた業界に波紋を投げかけ、敵を幾人も作りました。それからある雑誌(今はもうありませんが)が給料ありの仕事を依頼してくれて、7ヵ月間ほど記事を書きました。それでも生計を立てるには程遠く、フリーランスで通訳や翻訳の仕事をする必要がありました。そして2017年脚本を書き始めたんです。そこから映画を観るのを止めて、批評を書くのも止めました。しかし若い人々が映画批評を書き始め、それをオンラインで発表してくれることを喜んでいます。彼らは自分の作品を掲載するため適切なプラットフォームを探し続けています、私がかつてそうだったように。そして幾つかの雑誌が彼らの作品を掲載するようになったんです。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のミャンマーではどういった映画を観ることができましたか?

MN:私はとても、とても若い頃から映画を愛していました。ミャンマー映画以外だと、子供の頃に観ることのできた作品はハリウッドの娯楽映画や香港のアクション映画でした。日本のドラマ映画も毎週日曜日にTVで放映していましたね(80年代、真田広之ミャンマーの観客にとても人気でした)90年代までには、タイや中国と距離が近いおかげで、多くの作品が海賊版のソフトという形で、お店で広く手に入るようになりました。

TS:初めて観たミャンマー映画は何でしょう? その感想も聞かせてください。

MN:正直覚えてません! ですがそれはTVで放映していた、60年代や70年代の古い白黒映画だったとは思います。私にとってほとんどのミャンマー映画は死ぬほどつまらないもので、それは古臭い様式の家族映画ばかりだったからです(例えば音楽がずっと流れていたり、カメラワークが無気力だったり、歌も絶えず流れていたり……)しかし思い出せるのは"Shwe Gaung Pyaung"というカンフー/冒険映画が好きだったことです。それから"The Emerald Jungle"(今作はヤンゴンのメモリー国際映画祭でリストアの後、上映されました)も好きですね。それからミャンマー人皆が好きな"Thingyan Moe"、これも大好きです。

TS:ミャンマー映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス黒いユーモアなどです。それではミャンマー映画はどうでしょう?

MN:"リアリズム"はミャンマー映画において大きいものであったことがないです。メロドラマ的な恋愛物語、恋人たちの間の階級差などが最も一般的な特徴でしょう。2つ目は親子関係です。検閲は映画のハイライトとしてモラル的美徳を守らせようとするんです。

TS:ミャンマー映画史において最も重要な作品は何でしょう? その理由もお聞きしたいです。

MN:今から語るのは個人的な意見であり、議論の余地が多くあると思います。が、私が選ぶのは"Chit Thu Yway Mae` Chit Ware Le"ですね。ここでは監督・脚本家であるWin Oo ウィン・オォが8役(7人の兄弟と父親役です!)を演じており、そこに7人のトップ女優たちが加わります(製作年は忘れてしまいました)こんにちから見ても技術的な達成が素晴らしいんです(特に今ですら私たちが使う撮影器具は流行おくれなのに)物語も楽しいですね。プロダクション・デザインも意義深いものです。今作は兄弟の末っ子が6人の結婚した兄たちを訪ねるという物語です。彼は兄から結婚や女性についてアドバイスをもらおうとするんですが、それは彼のフィアンセが魅力的でないからでした。そして彼は兄たちの6人の妻が持つ欠点や力を目の当たりにし、誰も完璧ではないことを知り、相互理解によって全ては進んでいくことを知るんです。そしてセットデザインはその6人の女性たちの性格を反映しているんです! それでも他の人にはそれぞれの意見があると思います。

TS:もし好きなミャンマー映画を1作だけ選ぶとするなら、何を選びますか? その理由は何でしょう? 個人的な思い出がありますか?

MN:それは"Bel Panchi Yay Lo Ma Mi"でしょう。今作は父と子の関係性や行動規範を描いています。まず父が村の狂った女性をレイプします。それを息子だけが知っているのですが、父の名誉を守るため沈黙を貫きます。しかしその女性が妊娠した時(父によってです)村の長はその犯人を追うため、魔女狩りを行います。村人たちは息子に疑いの目を向けますが、それでも彼は沈黙を貫くんです。そして利己的な父は告白したり、息子を守ろうともしません。映画は真相が明かされないまま悲劇で終ります。今作はモラル的に複雑な映画で、全ての登場人物が灰色の立ち位置にあります。そして多くの問いを投げかけるんです。真実の代償とは何か? 秘密や家族の責任によって醜い真相を社会から隠し続けるのは美徳と見做せるのか? ミャンマー映画においてこういった挑戦的な問いを持ち、複雑でモラル的に疑わしい登場人つを描きだす映画はとても少ないんです。今作が私にとってとても新鮮なのは、ほとんどのミャンマー映画がとても説教に満ちたものだからです。

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TS:ミャンマー映画史において、ミャンマーと日本の関係性はとても興味深いものです。2国の共同制作で作られた「日本の娘」から市川崑監督のビルマの竪琴はもちろん、最近では日本人監督がミャンマーで映画を作るようになっています。例えば藤元明緒監督の僕の帰る場所北角裕樹監督の「一杯のモヒンガー」などです。そしてもちろん清恵子さんの存在感もミャンマーの現代映画においては大きいでしょう。ではミャンマー映画批評家として、この状況をどのように見ているでしょう?

MN:そうです、とても興味深いですね!(彼らはアジア三面鏡においてミャンマーが舞台の映画も作っていますね)私としては日本の関わりをとても歓迎しています。というのも彼らは最も複雑微妙な映画を作り、若い頃から日本の家族映画は私たちの大好きな作品だったからです。最も際立った日本映画はスタイル的に頭1つ抜けているだけではなく、その素朴さも鍵でしょう。端的に言えば、日本映画は私たちにいい映画を作るのに最新の撮影機器や狂ったカメラワークは必要ないと教えてくれます。個人的には、日本の映画作家やプロデューサーがミャンマーに来てもっとワークショップやマスタークラスを開いて欲しいと思います。しかし今のところジャパンファウンデーションは1年に1回映画祭を開くばかりで、そういった活動をすることはないのが残念です。

TS:そして興味深いのはミャンマーと台湾で活動する映画作家たちの登場です。例えばMidi Z ミディZは台湾を拠点にミャンマー人の現実を描いた作品を作りつづけていますし、Lee Yong-chao リー・ヨンチャオ"Blood Amber"ロカルノ映画祭で上映されるなどしました。そこで聞きたいのは、ミャンマー史において2つの国には特別な関係性が存在したのかということです。

MN:政治的に、台湾とミャンマーに素晴らしい歴史は存在しません。50年代のミャンマーにおける中国国民党の存在が原因です。しかしそこから全てが好転し、過去は赦されるようになりました。ミャンマーと台湾には正式な国交は存在しませんが、今2国は良い、健康な関係性を保っており、人々は頻繁に行き来しています。

しかし文化的な意味では、繋がりや交流はとても小さなものです。実際、ミャンマーのほとんどの人々はMidi Zが誰か知りませんし、その作品について聞いたこともありません。私としてはMidi Zの作品はミャンマー人の現実に対する"印象"のように思えます。ミャンマーに来て、ゲリラ撮影を行う時、彼が地元民にコンサルタントを頼んだり、彼らと議論をしたりしているかよく分かりません。もちろん"ミャンマー人"という登場人物を実際にはミャンマー人ではない人物が演じるというのも作品の助けにはなっていません。彼らは全員監督が出会った台湾人俳優なんです。しかし彼の映画には美徳もあり、ミャンマーにおける田舎生活に満ちる雰囲気の一部を反映しているとも思います。

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのは2010年代において最も重要なミャンマー映画は何かということです。例えばMidi Zマンダレイへの道」The Maw Naing ティーモーナイン"The Mank"Htoo Paing Zaw Oo トゥーパインゾーオー"Night"などがありますが、あなたのご意見は?

MN:芸術的な意味で、"The Monk"は2010年代のミャンマー映画を代表するベストの映画でしょう。しかしここミャンマーでは上映されておらず、私たちのような小さなシネフィルのグループしか観ていないことは念頭に置かなくてはなりません。そしてマンダレイへの道」ミャンマー映画であると主張されていますが、実際にはミャンマーの関係するものは何もありません。ミャンマー人移民労働者たちは全くミャンマー人に見えません。何故って彼らはミャンマー人ではありませんからね!

そして多くの人々がこの2本を知りません。故に私としてはこれらを最も重要な作品と見做すことはできません。私は大衆映画から1作選びたいと思います。それは"Mi"です。今作は1950年代のミャンマーを生きたミーという女性についての物悲しく、ゆっくりとした、絢爛な撮影の印象的な1作です。出演するのは大作のスター俳優たちですが、テーマは確実に大作のものではありません。基本的に本作は謎めいた女性と、彼女を救いたい情熱的な男性の運命的な愛を描いたメロドラマです。女性は男たちから愛され軽蔑される存在であることを好みながら、炎と戯れ社会的な慣習を無視していきます。今作はマレーシアのASEAN国際映画祭や韓国のASEAN映画週間にも選出されました。そして検閲への人々の興味や怒りを掻きたてたんです。何故なら検閲によって酒を飲む場面が全て削除されたんです。"正しいミャンマー人女性は酒を飲まない"という理由で。

TS:ミャンマー映画の現状はどういったものでしょう? 外側からは良いように見えます。新しい才能たちが現れ、ワタン映画祭が存在感を発揮し始め、多くの映画の専門家がFAMU Burma Projectから巣立っていっています。しかし内側から見ると、現状はどのように見えているのでしょうか?

MN:商売に偏っていて、現状は未だに不安定です。私たちの国はとても小さな力しか持っていませんし、供給が需要を上回っている状況です。映画館では月に6-8本ほどのミャンマー映画が公開されています。心配しているのはバブルが崩壊しないかということです。もちろんこれはメインストリームの映画についてです。"Night""Mi""Mone Swel"などの例外を除いて、大衆映画は国際的な映画祭においては価値がないし、上映の準備もできていません。興奮するような新しい才能が現れていることは本当です。しかしその中の3、4人だけが境界線を越えてローカルな映画市場を広げていく力と野心を持っています。

それからFAMUのトレーニング・プログラムや他の組織によって、海外で学んだ若者たちとともに多くの映画の専門家がこのシーンを揺り動かそうとしているのも本当です。しかし……彼らは国際映画祭で上映される短編映画以外は作れていません。多くの長編の計画は未だ発達段階なんです。そしてほとんどが拒否されたり、放棄されています。なので私としては"作品を多く、言葉は少なめに"というのがメインストリームでもインディーズでも必要とされていることだと思います。

TS:そしてミャンマーの映画批評の現状はどういったものでしょう。"3 ACT"というミャンマー初の映画雑誌が発刊され、2010年代に存在感を発揮しているというのを聞きました。あなたもこの雑誌に記事を執筆していますね。しかし現状はどのように見えているでしょう?

MN:大部分の問題は前の質問のなかで答えたと思います。映画批評は私たちの多くにとって"趣味"なんです。これをプロとして、フルタイムで仕事にすることはできません。しかし雑誌における映画レビュー記事の割合が増えてきていることは嬉しいです。酷いのもあれば、面白いものありますし、クオリティは様々です。しかし私たちは未だスタート地点にあります。なので成長していくことを願っていますね。

TS:今あなたはミャンマー映画界における検閲についての論文を書いているとお聞きしました。ぜひともこの検閲について詳しくお聞きしたいです。1962年の軍事クーデターから映画作りの自由が失われたそうですね。今でも検閲は存在しているのですか?

MN:検閲は1962年のクーデター直後に始まりました。基準は極めて厳しいものでした。例えばホラー映画は全て禁止されたんです。しかし1990年代まで、政治的な問題から離れ、登場人物の行動や服を保守的なものにすれば、ほとんどは検閲を通りました。私が先述した名作の数々が70年代80年代に実際公開されました。

しかし軍事政権が崩壊した1988年から、物事は悪い方向に進みました。検閲は市民や政府の人物が混じった形で再編されましたが、彼らは皆超保守派で元軍人であったりしました。例えば政府の人物は軍人、警察、消防士(ジョークじゃないですよ!)たち、それに様々な省庁の代表者が加わり、彼らは自身の領域においてネガティブな側面を持つ作品を検閲していきました。基準は90年代半ばからとても極端なものになり、馬鹿げたロマンティック・コメディ以外は何も撮影できなくなりました。

検閲委員会は言葉による定義が先立つような規制を行うよう課されていました。例えば"文化的な価値を支持する"、"法と秩序を支持する"、"猥褻性を抑える"、"子供のイメージを守る"などです。

"それぞれの領域を守る"というのに加え、検閲のメンバーは自身の気まぐれで任意の決定を行いました。例えば多すぎる赤色の使用はカット、という風に!

2010年、連邦団結発展党(USDP)が政党として登録された後、少しの間自由の窓が開きました。検閲のメンバーたちはこの新しい"民主的な"システムにおいてやるべきことを何も為さなかったからです。長い間、禁止されていたホラー映画も再び作れるようになりました。しかし検閲が再び力を持ち始めます。

2015年、国民民主連盟(NLD)が政権を奪取したことで、検閲が改正されるか寛大になるかという希望が生まれました。レイティングの発展は1996年のモーションピクチャー法の改正を必要としたため、未だ遠かったですが。しかしそれでも私たちは検閲の基準が人道的かつ寛大になることを祈っていました。そしてその願いが完全に誤っていたことが証明されます。

NLDの新しい情報大臣は映画という福祉にほとんど興味がないように思えました。映画はその情報庁の管轄だったのにです。そして検閲委員会は未だに超保守主義者や軍人らに支配されたままでした。彼らは軍隊のルールを検閲基準に適用しようとしただけでなく、自身の個人的な信条や感情によって検閲を勧めようとしたんです。彼らは公式な権限者でも政治家でないにも関わらず。例えば最近の映画において、男性が恋人の足の爪を切るという場面がカットされました。何故なら検閲のメンバーが男性は女性の下半身を触るべきではないと思ったからです!

TS:2020年代にビッグになるだろう、最も若く才能あるミャンマー人監督は誰でしょう? 私としては独特の映画的言語を持っているという点で、Nyi Zaw Htwe ニーゾートウェZaw Bo Bo Hein ゾーボーボーヘインの名前を挙げたいと思います。

MN:ああ! この質問は私を難しい立場に追いやります。彼らの多くは個人的な友人で、彼らに敬意を持つなら、誰かを傷つけたくないなら質問に答えるべきではないでしょう。それに誰が最も若いというのは分かりません。年齢は気にしてませんからね。しかし新しい監督たちは皆それぞれの形で才能に溢れており、メインストリームにしろインディーズにしろ国際的にしろ、彼らの成功を祈りたいです。

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"Le club des chômeurs"~ルクセンブルクの秘められた表情 by Gérard Kraus

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さて、ルクセンブルク映画界である。この小国で作られた映画を観ることはとても難しく、ゆえに映画史を探ることも難しい。そんな逆境のなかで、私はルクセンブルク映画史をルクセンブルク人批評家を探してネットの海を彷徨っていた。そんななかで、私はある記事を見つけた。それはルクセンブルク映画界を代表する1人Andy Bausch アンディ・バウシュが制作したコメディ映画"Le club des chômeurs"の、何とルクセンブルク人批評家による英語記事である。そして驚いたのは、この記事が1作の映画を通じたルクセンブルク論にもなっていたことだ。執筆されたのは2002年ごろだがその批評性や珍しさは全く色褪せていない。ということで私は著者であるGérard Kraus ジェラール・クラウス氏に連絡を取り、翻訳の許可を取りつけた。ということで今回は1万字にも渡るルクセンブルク映画論を読んでいただこう。更に現在、Kraus氏にルクセンブルク映画史をめぐるインタビューを実施中であり、それとともに読めばルクセンブルクという未知の国の映画を広く知ることができるだろう。ということでまずはこのレビュー記事をどうぞ。

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今のところルクセンブルク映画の制作数がとても少ないことを考えると、Andy Bausch"Le club des chômeurs"(2002, "失業者クラブ")はルクセンブルクの文化的アイデンティティを体現していると解釈されてもおかしくはないし、ありえなくもない。この国の工業地帯で撮影を行い、銀行の国という固定概念を巧妙に避けることで、今作はルクセンブルクで大きくヒットすることとなった。

しかし明確にフィクション化されていたり、郷愁を抱きがちな負け犬やチンケな泥棒たちの描写が軽蔑的であったり、脚本が熟していないという点で、"Le club des chômeurs"ルクセンブルクの国家的アイデンティティを文化的に、現実的に体現していると言うのはミスリードであるという側面もある(この国の小さな批評家グループはこの点に関して厳しい目を向けている)では、どうすればこのルクセンブルクの文化を描いた映画への、表面上矛盾した2つの立ち位置をどう仲直りさせられるのだろうか、そして何故今作はそんなにも人気を博したのだろうか?

怠け者たちと泥棒たち

"Le club des chômeurs"は5人の無職男性たちがこの苦難を乗り越えるため、相互的なサポートを通じ、ある"クラブ"を作るという物語だ。メンバーは全員2つのルールに従わなくてはならない。

1. 誰も働いていないこと
2. 生活資金のフラン*1は詐欺や不法就労、失業手当から賄うこと

"Le club des chômeurs"ジェロニモという人物(実際の名前はジェロームだが、ネイティブ・アメリカンの文化が好きな故にこんなニックネームがついている)を中心にして語られる。他のメンバーは過去に生き続け、働いていた工場での事故について語るのが好きなセオドア、仕事に就くには病気が重すぎると思われたいアッベ、借金で大わらわのフルンヌ、そして最も若いメンバーであり、密かに仕事へ行ってルールを破っているソニーボーイだ。

物語のなかで、ジェロニモの耳が聞こえない幼馴染ペッツが上映技師としての仕事を失い、クラブに入ることになる。その間、ジェロニモは職業紹介所で彼を担当するアンジーという女性に恋に落ち、クラブが溜めこんで売り払おうとしていた携帯電話やコンピューターをフランス人の犯罪者集団に奪われたりする。そしてフルンヌが借金を少なくするために、銀行強盗に走ってしまう。さらにソニーボーイはクラブで孤立していき、最後には仕事しているのを見つかって除名されてしまう。そしてジェロニモとアッベ、セオドアは家宅侵入で刑務所に収監され、ジェロニモはアンジーと結婚する。

プロットを詳細に見ていく前に、Bauschの作品が持つ意味をより理解するため、ルクセンブルクとその文化、その映画史を見ていこう。

狭間にある国家

今作の物語はルクセンブルク、ドイツとフランス、ベルギーを隣人とする、ヨーロッパの心臓部にある1000平方マイルの国で繰り広げられる。人口は約44万人(40%近くは外国人である)で、彼らはヨーロッパ1のタックス・ヘイヴンで暮らしている。3つの大きな国に囲まれているという状況ゆえ、ルクセンブルクは文化的好奇心のような存在であり、ドイツ語とフランス語、ルクセンブルク語という3つの公用語は文化の多様性に寄与している。ルクセンブルクの子供たちは5歳からはドイツ語を、6歳からはフランス語を、ルクセンブルク語を通じて学ぶことになる。

2001年10月において、TV局であるRTL Tele Letzebuergは1日に1時間のみ、日曜日には2時間のみルクセンブルク語で放送する。そしてRTLは3時間の放送*2、他にTango TV*3やChamber TVの放送が続く。Chamber TVではルクセンブルクの議会が生放送されている。この未だ初期のメディア状況で、ルクセンブルクはフランスやドイツ、ベルギーのテレビ番組の爆撃を喰っているかのようだ。この外部からの影響は社会の様々な場所に見られるが、最も顕著なのは芸術界においてだ。

その"狭間性"と文化的製品のほとんどは周囲の国々から作られているという事実によって、ルクセンブルクの芸術シーンは好ましいという域を出ないことを運命づけられていた。そして1980年代中盤まで、この国は国産映画というコンセプトをただいじくるに留まっていた。歴史において生きのびた2つの存在のうちまず1人がRené Leclère ルネ・ルクレールであり、彼は1937年から1953年まで9つの映画を製作した。そしてもう1人はPhilippe Schneider フィリップ・シュナイダーであり、1945年から1970年代後半まで30作の映画を製作した。それでもこうした作品は旅行映像か工場映画以上のものではあまりなかた。しかしこの後、2つの発展の極点が現れたことで、ルクセンブルクのアマチュア映画界の評判が培われ、国産アマチュア映画の祭典で上映されるようなホリデー映画という方向性が変わることになる。

まず1つ目がAFO(Atlantic Film Organisation)である。これはエヒテルナハを拠点として、60年代終りから16mm映画を作り続け、成功を収めた中学校の教師のグループである。このグループは例えば"Cong fiir en Mord"(1981)や"Mumm Sweet Mumm"(1989)、"Dammentour"(1992)を製作した。

2つ目がNasty Artsというグループでデュドランジュを拠点としている。メンバーにはAndy Bausch, Jani Thiltges ジャニ・シルツェスJean Thiltges ジャン・シルツェスChristian Kmiotek クリスティアン・クミオテクなど、こんにちのルクセンブルクのメディア界で重要な立ち位置を占める人物が揃っている。彼らの初期短編には"Rubbish"(1978)、"Vicious Circle"(1979)、"Vu Kanner fiir Kanner"(1979)、"Abgrenzungen"(1980)や"Hoffnung"(1980)などがある。これらはAFOの作品群と合わせて、ルクセンブルク映画の揺りかごと見做されている。

Paul Lesch ポール・レッシュによると、ルクセンブルク映画が生まれたのは1981年、AFOとNasty Artsがルクセンブルク語で長編映画作った年だという。それがAFOの"Waat huet en gesoot"とNasty Artsの"When the Music is Over"である。予算的制約と国のファンドの欠如によって、ルクセンブルクの映画製作は、後で示唆するように未だに問題含みであるが、とにかく1982年からはルクセンブルク映画が毎年上映されるようになったのである。

1988年にAndy Bauschの第2長編"Troublemaker"が公開された。その制作は1度ストップしながらも、サールランド放送制作がファンドと共同制作を買って出たことで再開された。映画評論家のViviane Thill ヴィヴィアーヌ・シルはこう記す。

"映画は特に若者たちの間で成功を収めた。そしてこの現象はThierry Van Werveke ティアリー・ヴァン・ヴェルヴェケ(Bauschは彼を短編製作時に見つけていた)を国民的スターの座に押しあげ、15000人もの人々が商業映画に押しかけた。そしてAndy Bauschのドイツの評判も不動のものにした。"

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"Troublemaker"

1989年、この地域での活動を中央に集合させるため文化庁の延長としてNational Centre of the Audiovisualが作られ、そして1990年にはFond National de Soutien à la Production Audiovisuelleが設立された。ファンドの助けにより、ルクセンブルクは世界中からプロデューサーを集められるようになり、1899年から1990年の間に作られた映画が110なのに対して、1990年から1999年のたった9年で120もの映画が作られるようになった。この機会はルクセンブルク映画が海外の会社とともに制作できるようになり、この地のクルーたちが経験を得て(それにお金も稼げる)、ルクセンブルクの俳優たちが共同制作作品においてジョン・マルコヴィッチマシュー・リラードウィレム・デフォーといった国際的スターと共演できるようになったことから生まれた訳である。

この見返りは明確なものだ。経済的な利益だけでなく映画に関する芸術的価値も高くなった。難点はルクセンブルク語で作られる映画がとても少なくなったことだ。

国際的な共同制作における少数派の製品というルクセンブルグ映画の状況が作られたことで、私たちはAndy BauschGeneviève Mersch ジュヌヴィエーヴ・ミエシュPol Cruchten ポール・クルーテン(彼は2001年に"Boys on the Run"という作品をアメリカ資本で撮影した初めてのルクセンブルク人作家もである)といった作家の重要性に気づく。彼らはルクセンブルク映画への興味を失うことはなかった。

証明される興味

"Le club des chômeurs"はミネットと呼ばれるルクセンブルク南部で撮影されている。ここは19世紀後半から20世紀中盤まで国の鉄鋼特別保留地として搾取されている場所だった。撮影は2001年の3月20日から4月14日までの22日間で撮影されたが、カメラはDigiBetaだった。

Andy Bauschはこの方法論や限られた予算で撮影をするための時間制限について、これは自分の意志でやったと説明している。実際、Bauschは今作をデンマークの映画製作ルールであるドグマ95を駆使して撮影するため、ラース・フォン・トリアー接触したという。しかしこの考えは抑制が過ぎると放棄してしまった。映画はIris Productions(ルクセンブルク)とFama Film(スイス)の共同制作として、トータル959000ユーロで作られた。そのうち732000ユーロ(予算の76%)は海外のファンドから賄われた。

今作は2002年の1月に上映され、配給会社は40000人が映画館で今作を観たと主張している(実際には35000から37000人というのが無難なところだ)一方で、フランスのヒット作アメリ(2001)は43週間で34000人を動員し、2001年にはトータルで1414000人が来場したという。配給であるPaul Thitges ポール・シルツェスはベスト5とは行かずとも、2002年で最も人気だった映画のベスト10に入ると計算している。さらに10月、今作がDVDとVHSでリリースされたが、2002年の11月までに4900枚のDVDと2000個のVHSを売りあげた。これが証明するのはルクセンブルク映画のマーケットは現に存在しており、人々はルクセンブルク映画を観たがっているということであった。

アイデンティティの問題

映画の評価は分かれた。ほとんどの批評家はBauschの新作をポジティブな批評と記事で迎えた。しかしViviane Thillを含めた小さな批評家グループはその言語感覚やミネットの描写、脚本や登場人物の未熟さ、他にも多くの点を論いながら、今作への反対意見を明確にした。Viviane Thillは特にBauschの監督としてのスタイルが以前に監督した、同じくミネットが舞台の"A Wopbopaloobop A Lopbamboom"(1989)から進歩していないと指摘した。

今作をめぐっては小さな論争が巻きおこったのだが、それは監督とその取り巻きが映画への批評をよく受け入れなかったからだ。しかしこれは国産映画は活動的な才能からだけでなく、批評家たちからも生まれるということを示していた。この場合、批評家たちはより良い作品を生み出したいと思っている監督が作る、何か新しいものを観たがっていた訳である。

では"Le club des chômeurs"はどのようにルクセンブルクの文化的アイデンティティの表象として見られるのだろうか。

重要なのは、ここにおいてルクセンブルクの文化的アイデンティティという概念がそのドイツやフランス、ベルギーからの影響、つまり狭間性によって複雑になっているだけではなく、ミネットをBauschは異なるアイデンティティを持つと描きだしていることで更に分裂しているという事実によっても複雑になっているということである。この地域は鉄が生命における血のようであった時、ルクセンブルクの心臓であったのである。

この時期、ARBEDという鉄鋼採掘組織はこの地域の住人を多く雇っており、人々も多く集まっていたが、映画内でジェロニモがアンジーに説明するように、彼らはこれが生涯の仕事だと思っていた。こんにち、鉄鋼採掘はとても少ない人数で運営されており、鉄鋼炉は閉鎖され、残っているのは"南の大聖堂"、つまりは鉄鋼業から生まれた廃墟、もしくはセオドアが言うような"写真家のための被写体"だけなのである。

"Le club des chômeurs"はこの問題に触れており、映画を通じてシュメルツェン(ルクセンブルク語で工場はこう呼ばれる)が背景にある。冒頭と終盤における最も際立ったクレーンショットは、ジェロニモが性的なパワーを回復するため(まるでARBEDの"去勢"がジェロニモのベッドでの問題の原因となっているかのようだ)ペッツとともに行うネイティヴ・アメリカンの儀式を描いている。アンジーがバルコニーで独り座りながらジェロニモからの連絡を待つ時、ゆっくりとしたトラッキング・ショットが"de stoolenen A"、ARBEDの象徴、かつてはルクセンブルクの鉄鋼業の力と同義であったものが捉えられる。そしてアンジーがそれを見ながら溜め息をつくのだ。彼女の反応はジェロニモが連絡しないのを苦に思っていることを意味するとともに、ARBEDが彼や他の人々にした仕打ちを思い返すという意味がある。そして象徴が今何を意味するか、つまり鉄鋼業の零落と消失を指し示している。

"Le club des chômeurs"におけるThierry Van Wervekeジェロニモという役は、Bauschの以前の作品と同じく好ましくも頭は良くない負け犬である。Bauschは彼の"心は小さな人間にこそ寄り添う"と言い、それは労働者階級と同義だが、その理由として銀行員という固定概念以上に"ルクセンブルク人は様々な顔を持つ"からだと主張する。彼の言葉によると、Bauschはルクセンブルクの明確ではない側面に光を当てたいという。そのためにはこの工業地帯における鉄鋼業の労働者たちが住む場所について調べなくてはならないと。

映画は運命が見放した人々への注目によって、この事実を反映している。ソニーボーイを除いた全員が仕事をすることを拒むが、それは仕事に幻滅し、人生が彼らを扱うやり方に良くも悪くも慣れてしまったからだ。ソニーボーイは唯一仕事に幻滅せず、貧乏生活に飽き飽きしているのだ。

働きたくない失業者の問題に取り組むことで、Bauschはルクセンブルクの確立に目を向けている。世界で最も低い失業率を持つ国の1つにおいて、失業とは映画においてある程度無効なトピックでもある。しかしBauschは"ルクセンブルクにたった5人だけしか失業者がいなかったとしても、彼らは私やあなたと同じ人間であり、彼らについての映画を作る価値はある"と語っている。

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今作の題名はいくつかのトラブルを引き起こしている。プロデューサーであるNicolas Steil ニコラス・ステイルは題名の露骨さによって、投資家が予算をサポートする可能性が失われたと語っている。おそらく元々計画された題名"Steel Crazy after All These Years"が使用されたなら、結果は異なっていただろう。この題名は映画における鉄鋼業の文脈や栄光の日々は過ぎ去ったという事実により近いものとなっている。

ネガティブなレビューにおいて指摘されているもう1つのポイントは映画において描かれる郷愁の感覚だ。それはシュメルツェンや廃墟によって表現されるが、他にもそれを示すものは存在する。ペッツが働いていた映画館Cinema de l'usineや1930年代に作られたようなサッカースタジアムの門に描かれた落書きなどだ。多くの小さな郷愁深い瞬間が映画には見られ、古きよき時代への切望という普遍的な感覚がそこに表れている。

Ander Jung アンデル・ユングの演じる人物セオドアはこれをキャラクター化したものである。序盤のフラッシュバックにおいて、メンバーが全員紹介されるのだが、私たちはそこでセオドアが事故で右の人差し指を失ったことを知るだろう。映画を通じて、彼は工場で起こった事故の逸話について語りつづけるが、よりグロテスクになるほどそれは迫真性が増す。ある撮影チームがジェロニモにインタビューしようとして、その陰りある仕事ぶりでクラブを驚かせる時、セオドアはこうコメントする。"もちろん俺はいくつか物語を語ることができるさ。テープはどれくらいある?"と。これは彼が皆と以前の生活について共有したいという思いを明確にしている。セオドアは、人々は否定するとしても、ルクセンブルクのバーで時々出会う類のステレオタイプを基としているのだ。

ネイティヴ・アメリカンというテーマは、ジェロニモが安心毛布的なものとして執着するところからも、同じく郷愁深いものとして見做せる。社会的にも経済的にも薔薇色だった子供時代から、彼とペッツは"カウボーイとインディアンたち"という劇を上演し続けている。彼らがこのお遊戯に戻ってくるのは二重の後退という訳である。

Bauschが行ったほとんどのインタビューにおいて、彼はブラス!(マーク・ハーマン, 1996)とフル・モンティ(ピーター・カッタネオ, 1997)からの影響が"Le club des chômeurs"には存在することを公言しており、特にリハーサル場面やストリッパーが女性だけのパーティーに乱入してくる場面にはそれが顕著だ。最も重要なのは、この失業者を描いた2作の英国映画は両作とも、より影響力ある文化的パワー(例えばBBCというメディアや芸術界を支配する、ロンドン拠点の南イングランド文化)によって周縁化された小さな地域(ヨークシャーのある郡)における文化的アイデンティティを表現している例であることだ。それゆえにヨークシャーの失業者たちについての物語をルクセンブルクに移植し、場所についての明確な意味を変えることで、Bauschはルクセンブルクにおける周縁化された文化的アイデンティティを描き出したと言えるだろう。

映画で描かれる、もう1つのとても重要な要素は多文化主義である。伝道者はペッツと話す時、これを数字とともに語る。"ここには60もの国の民が住んでいる"と。ルクセンブルクは今までも、現在でもとても多文化主義的な国である。工業化の初期段階において、労働者たちは労働力を提供するためイタリアからやってきた。この移住の第1波はHagen Kordes ハーゲン・コーデス言うところの周縁的統合によって定住していった。外国人たちを社会の境界線に置き、徐々に組みこんでいくというものである。この周縁的統合という要素はViviane Thillによっても議論されており、それはヴェロとペッツのZamboni ザンボーニというポルトガル風苗字に由来する。ポルトガル人の移住の波は60年代に始まり、未だ彼らは十全に組みこまれてはいないのである。

この側面はアンジーの友人や恋人たちによって体現されている。関係性の終りについての会話の間、アンジーと恋人のリノは彼が他のポルトガル人女性と結婚し、ポルトガルに移住するという話をする。その後リノとの別れについて話す時、アンジーは"クソポルトガル人"と言うのだが、友人のテレサは"クソルクセンブルク人"と返事をする。そこでアンジーテレサルクセンブルクに国籍を変えたことを指摘するのだが、そこでテレサは"しょうがないでしょ。それでやっと私はあなたと同じになれた"と語る。それはルクセンブルクポルトガル人は価値が劣るとでもいう風だ。この強烈な描写は国籍の問題と、ルクセンブルクの文化における外国人の立ち位置は周縁的統合のモデルに深く依存しているということを示している。

最後に、Bauschは多くのインタビューにおいて国産映画という概念が自身にとって重要であると語っている。

全ての国には自身の言語で作られ、固有の問題を描いた映画が必要なんです。アイスランドもとても小さな国ですが、固有の映画があり、ルクセンブルクよりもずっと貧しい国にも彼ら特有の映画文化があるんです。

それゆえにBauschは、文化を反映し、自国の言語を使った国産映画の守護者として自身を確立したのである。そして共同脚本家(Jean-Louis Shclesser ジャン=ルイ・シュクルッセルとともに執筆)として、彼の郷愁深い感覚とルクセンブルク、特にミネットという地域へのビジョンが映画から読みとれるのである。

結論として、今作はスタイルと内容両方において議論を呼ぶ映画だとしても、"Le club des chômeurs"ルクセンブルク文化の表象と考えることができる。映画が表現する文化はミネットにおける夢追い人、郷愁、希望なきケースの1つなのだろう。だが映画がルクセンブルクを舞台と死、キャストやクルーもほとんどがルクセンブルク人で占められ、ルクセンブルク語を使って、ルクセンブルクにおける生き方を表象していることを考えると、フィクション的で非現実的であるとはいえ、映画が自然な文化の投影であることは否定できないだろう。

オリジナル:Other faces Andy Bausch'sLe club des chômeurs (The Unemployment Club, 2002) on Kinoeye written by Gérard Kraus

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*1:今作はユーロ導入前に制作された

*2:番組の構成は次の通りである。1時間は子供番組、ほとんどがカートゥーンである。1時間は青少年のための番組。そして最後の1時間はニュースと様々な番組、例えばフィットネスや映画、金融や台所に関する番組である

*3:Tango TVはフランスやベルギーから輸入した様々な番組を放送する青少年向けのTV局である