鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Stathis Apostolou&“The Farmer”/2つの国、1つの肉体

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まずある1人の俳優との出会いについて語らせてほしい。先日、私はロッテルダム映画祭でプレミア上映された“Broadway”というギリシャ映画を観た。詳しくはレビューを書いたのでそれを読んでもらいたいが、少し内容を書くと、今作は家父長制に挑む反逆者たちの物語だ。しかしこのシステムの恐ろしさは弱き者たちの間にすら抑圧的ヒエラルキーを生みだすことでもあると映画は見据えながら、それでも両方に中指突き立て、生きるクィアなやつらの生きざまを祝福していく。

そのなかで最も印象に残った登場人物は、実は主人公たちでなく、彼女たちに立ちはだかる悪役だった。そのマルコスという男は生臭い性欲と生々しい負の感情を持つ人物であるという意味で、家父長制の立ち向かうはずの集団のなかで再生産されてしまった抑圧そのものだ。同時に、どこか浮世離れした異様なる存在感を持っている。激しいファックによって男性性を誇示しながら、銀髪を揺らす彼の姿からはバイナリー的な性を逃れるような雰囲気もあり、全く正体が掴みにくい。そんな驚くほど複雑なキャラを体現するΣτάθης Αποστόλου スタシス・アポストルという俳優に私は深く魅入られたんだった。

そしていつもやっているように、彼にもまた“あなたの演技、素晴らしかったです!”とメッセージを送ったのだが、彼は速攻で感謝の返信をくれて、しかもここから色々と会話が始まったのでまた驚いた。ギリシャの詩人たち、ギリシャ演劇と日本文学という自分たちが所属する場への不信感、彼が執筆しているという本の内容。ここで私が自分が英語で書いた詩を送ると、これまた即読んで、意見をくれた。いきなり現れたどこの馬とも知れぬ人間にここまで優しくしてくれるというのも珍しいだろう。そして逆にApostolouが6年前に監督したという短編作品を私に見せてくれたのである。ということで今回はそんな経緯で鑑賞した、Stathis Apostolou監督作品“The Farmer”を紹介していこう。

物語はあるギリシャ人男性(Foivos Papadopoulos フォイヴォス・パパドプロス、先述の“Broadway”で主演)が車を駆る場面から幕を開ける。彼は2年もの間、故郷の村に妻子を置いて、ドイツで出稼ぎ労働者として働いていた。そして今、男は新品の高級車と高級スーツを伴い、ギリシャへの帰還を果たそうとしていた。

車を駆る彼の姿に重なるのは、自身の境遇を木訥と語る男自身の独白だ。だが少しずつ様子がおかしくなっていく。ドイツとギリシャという自分が行き交う2つの国について語るなかで、男は車から降り、着替えを始める。高級スーツを脱いだかと思うと、彼は農作業用の素朴なシャツを身に纏うことになる。そしてこの服装のままで、妻子の待つ家へと帰っていくのだ。

設えられた高級スーツは、ドイツという国家が持つ富と名声であり、男はこれを纏うことでそれを手にしている“ドイツ人”としての威光を誇る。だが妻子の前では頑なにこの姿を隠し、農作業着を纏い続けるのだ、まだ自分は“ギリシャ人”であるということをも誇示するように。2つの服、2つの国、男はその狭間を行き交うのだ。

ここにおいて服を着替えるという行動は、彼のアイデンティティーが引き裂かれていることを象徴するようだ。そして引き裂いているのは国家/国民という漠然としながら、頗る強固なイメージに他ならない。近年においても経済破綻によって多くのギリシャ人が国を出ていき、移民として生きていく道を選んでいる(私自身、東京に住んでいるギリシャ人建築家と会ったことがある)男は中でもドイツを選んだ訳だが、EUが経済危機に陥ったギリシャに救済措置を行う一方で、ドイツはそれを批判し緊縮財政を求めていた。近年、2国間の緊張は高まっているのだ。そんな複雑な関係性にある2国の狭間で、彼の心は引き裂かれているのだろう。

そして故郷に戻ってきた男は農作業着を纏ったままに、鍬で農地を耕し始める。彼の肉体が質実剛健であり、一切手を休めることなしに、力強く作業を進めていく。だが広大な大地においては、そんな彼の勇姿もちっぽけなものとしか映らない。案の定、彼は疲れはてることになるが、何度も何度もこの作業を行う。そこまでして男が成したいものは一体何なのか。

私がApostolouと会話している際、彼が執筆中だという本の話題になった。それは“素朴なる人間の進化”という題だそうだ。彼が目指しているのは人種や性といった概念から解き放たれた人間、つまりただただ人間でだけ在ること、その状態で思考することなのだという。あの男は農作業によって肉体を駆動させることで、Apostorouの言う“simple human”を目指している、私はそう思った。しかしそう簡単に、ただ人間でだけ在ることを世界が許さないのである。

今まで見ていった通り、今作のストーリー自体はギリシャの移民事情を背景とした男の自我の探求と、地に足ついたものとなっている。だがこのローカリティ/土着性をも越えて、Apostolouは国籍や人間という概念そのものを存在論的に問おうとしている。その意味で私には今作がSFに見えてならないのである。彼の“simple human”という試みは、この世界においてもはやポスト・ヒューマン的な思考とすら重なりあうのだ。

“Broadway”における彼の演技、そして“The Farmer”において監督として彼がFoivos Papadopoulosから引き出す演技を目の当たりにしながら“存在感”という日本語を想起したと、Apostlouに伝えた。これは言うなれば人間がそこに在る時に宿す手触りであり、あなた自身が俳優として鬼気迫るほど複雑な存在感を宿すとともに、監督として他の俳優からもこれを引き出していく、その才覚があると。“The Farmer”はそんな才能の降臨を伝えるような超越的な1作なのだ。

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Farkhat Sharipov&“Skhema”/カザフスタン、底知れぬ雪の春

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Farkhat Sharipov ファルハット・シャリポフというカザフスタンの監督がいる。2020年に彼が製作した長編“18 kHz”は瞠目の1作だった。詳しくは執筆したレビューをお読み頂きたいが、そんな彼が2020年代におけるカザフ映画を注目しようと思ったきっかけの1人でもあるのだ。そんなSharipovが新作を携えて、2022年のベルリン国際映画祭に現れた。その新作“Skhema”はやはりと言うべきか、Sharipovという才能の異様な輝きを再び証明する1作であった。

今作の主人公はマーシャ(Victoriya Romanova ヴィクトリヤ・ロマノヴァ)という少女だ。高校生である彼女は友人たちと夜な夜なパーティ三昧に耽る今時というべき少女であり、その度に親たちに叱られては、反抗期特有の不機嫌さを露骨に示しながら、部屋に引きこもる。そしてほとぼりが冷めたなら、また友人たちとパーティへと赴き、酒を飲みまくり、友人たちと喋りまくり、酩酊を楽しむことになる。

まずSharipovはそんなマーシャの日常を丹念に追っていく。彼女にとって高校生としての毎日は退屈の極みだ。授業に関しては聞いているフリをして、実際には友人とメールのやりとりをしている。そんな致死的な退屈から解放され、まるで炸裂でもするかのように、彼女はパーティではしゃいでいく。酒を飲めば、全てが忘れられる。そこにはイケメンのリマ(Tair Svintsov タイル・スヴィンツォフ)も居て、どんどん仲が深まっているような感じだ。しかもパーティに参加した後は大金ももらえる。これは参加しない理由がない!

だがその後が当然最悪なことになる。酔っぱらってほとんど意識がないまま、何とか友人にタクシーに乗せてもらい、家に辿り着くことになるが、そこで待つのは両親の激しい説教の数々だ。この勢いが激越であればあるほど、マーシャは反抗心を抱いてパーティに飛びこんでいく。酷いときにはパーティ会場に警察が踏みこんできて、補導された挙げ句に両親に引き取られる。そして叱られ、しかしマーシャはまたパーティに行く。

こうして彼女は殆ど不毛としか思えない繰り返しを延々と続ける、おそらく両親にとっては不条理な悪夢そのものとして映っているだろう。彼女は何も学ぶことないままにパーティ三昧を享受する愚かな人物と見なす観客も少ないはずだ。そして同時にパーティの裏側で不穏な何かが進行していることにも気づくはずだ。あの妙な金回りのよさ、コソコソ動き回るリマと彼が恭しく対応する謎の男。マーシャもそれには確かに気づいている。だが気づかないフリをする、自分の目を誤魔化すために唇にアルコールをありったけブチこんでいく。

こういった不毛な情景を、Sharipovは撮影監督であるAlexander Plotnikov アレクサンデル・プロトニコフとともに撮しとっていく訳だが、それらが怖気を震わせるほどに荒涼としたものだ。近年、カザフスタンの首都であるアルマティは開発が進み、加速度的にきらびやかさを増しているという状況がある。街並みは整然として、洗練されたショッピングモールは家族連れで賑わっている。だが庶民の経済状況が改善されているとは言い難いようだ。マーシャの父は借金を抱え、母はその対応に苦慮、食卓での喧嘩は日常茶飯事だ。手振れを伴うリアリズム志向でこの口論が描かれる様を見るのは息が詰まる。これを肌身に経験しているマーシャの精神は磨耗していき、この現状から目を背ける意味でも彼女はパーティに逃げ込むのだというのを否応なく思い知らされる。

故にアルマティの街並みに広がる煌びやかな美はただただ表面上のものにしか思えない。色や飾りだけが目に輝くのみで、その奥底にある精神は痩せさらばえて、貧困そのものと化している。そしてアルマティに降り注ぐ真白い雪はその美もその貧困も等しく呑みこんでいく。時にマーシャはリマと一緒にこの雪を投げ合いながら遊んだりする。時にこの雪はただただマーシャの通学の邪魔になる。そういった二面性が常に今作には付きまとっているようだ。

冒頭で記した通り、Sharipovの前作“18 kHz”もまた荒涼の極みというべき青春映画だった。ドラッグ中毒によって袋小路に嵌まりこむ少年たちの姿には、言葉に尽くしがたい虚無感が宿っていた。今作においてマーシャを含めた少年少女はパーティやアルコール、そして何故だか振る舞われる大金に目が眩み、どんどん泥沼にはまっていく。そして1本の踏み越えてはならないだろう線へと肉薄していくのだ。

今作はベルリンのなかでもジェネレーション部門という青少年向けの部門に出品を果たしている。その選出理由は一応青春映画ということもあるだろうが、他にも注目すべき要素がある。前作の“18 kHz”もそうだったが、“Skhema”は表面上“ドラッグ/お酒、ダメ絶対!”という青少年向けの犯罪啓蒙映画のような内容となっているのだ。ドラッグやお酒は一時的には気持ちよくさせてくれるかもしれないが、それの中毒になってしまうと人生が崩壊してしまう。そうした道徳の時間に見せられるような教育映画を彷彿とさせる訳だ。

が普通はあくびが出るほど退屈になるだろう啓蒙映画も、非凡な映画作家が作るならば異様な作品に仕上がる時も存在する。例えば40-50年代ハリウッドB級映画の異才であるエドガー・G・ウルマーの初長編「傷物の人生」(“Damaged Life”)は性病の啓蒙映画として製作された1本だ。しかしメロドラマとしての堂々たる風格はもちろん、放埒な性生活の果て性病に罹かった者たちの末路を示す場面は、次回作「黒猫」ひいてはホラー映画群の片鱗をも感じさせる不気味さを誇っている。この“Skhema”もまたそうした啓蒙/教育映画から逸脱するような風格を持ち合わせているのだ。

何より今作に登場する青少年の無軌道さにはゾッとするものを覚える。当然、啓蒙映画に出てくる登場人物は観客が教訓を得るため、律儀なまでに悪辣な事件を引き起こす訳だが、今作において少年少女は何をしでかすか分からないのだ。酒を飲むなどはそれとして、彼らは例えば盗みや殺人など明確に悪と見なせる行為は表だって行うことはない。だがパーティ会場に鶏を持ちこみ奇妙なおふざけを繰り広げたりと、論理が明確に掴めない行為に打ってでる。この意味の分からなさが観客を落ち着かなくさせる。

マーシャはそんな異常な状況に追い込まれていく訳だが、戻れないと悟った時にはそのパーティ会場で元締めへの少女の“人身供養”が行われていることも知ってしまっている。そして必然的に彼女は次のターゲットになるのだ。金欲しさにリマたちが淡々とお膳立てを整えた後、マーシャは酒とドラッグにまみれながら捧げられることになる。

“Skhema”において子供たちはみな愚かである。だが愚かなのは彼らだけではない。子供を酒や金で釣り、搾取する大人がいる。タクシー内という密室で少女に言葉の暴力を投げ掛ける大人がいる。自分の子供が明らかに危険な目に遭っているのを知りながら、自身の事情にかまけ何もできない大人がいる。大人たちもみな愚かなのである。それはつまり人間という存在自体が救いようもなく愚かなのである。Sharipovは常にこの絶対零度の眼差しを崩すことなく、この世界においてそれらの避けがたい愚がどこへ行き着くかを見据えているのだ。

“Skhema”とは虚無である。そして徐々にこの虚無という言葉自体も生ぬるく思えてくるだろう。だが……終盤において私たちは何とも形容しがたい境地へとも導かれることになる。このどうとでも解釈できてしまう複雑微妙さ、これこそがFarkhat Sharipovという映画作家の底知れなさだと私は戦慄せざるを得ないのだ。

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Maria Ignatenko&“Achrome”/良心が、その地獄を行く

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ソビエト連邦支配下に置かれていたバルト三国の人々にとって、第2次世界大戦におけるナチスドイツの侵攻はある種の“解放”とも映ったのだという。そして彼らの中にはドイツ軍に加入し、枢軸国側としてソ連軍と戦った者たちもいた。更にナチスによるユダヤ人虐殺に加担する者さえいたという。こういった歴史は戦後に秘匿され、長らく語られぬままの時もあったが、ここ最近その歴史を映画として提示していく若手作家たちがいる。例えばリトアニア人監督Jurgis Matulevičius ユルギス・マトゥレヴィチウスのデビュー長編“Izaokas”(レビュー記事はこちら)はリトアニアにおけるユダヤ人虐殺とその余波を描きだした1作だった。そして今回紹介するのは、ロシア人作家Maria Ignatenko マリア・イグナテンコによる1作“Achrome”だ。

今作の主人公はラトビア人青年マリス(Georgiy Bergal ゲオルギイ・ベルガル)だ。彼の住む辺境の村にも戦争の影がチラつき、彼は弟であるヤニス(Andrey Krivenok アンドレイ・クリヴェノク)とともにナチスドイツに徴集されることとなる。彼らはドイツ国防軍に所属した後、基地として接収された修道院で待機期間を過ごし始めるのだったが……

まずこの“Achrome”はそんな戦時下における日常を過ごすマリスの姿を淡々と描きだしていく。同じく徴兵されたラトビア人男性に混じり、彼もまた機械的に検査を受けることになり、それが終わった後には装備一式を渡される。だが即時戦場へ送られるということはなく、待つことを余儀なくされる。打ち捨てられた迷宮さながらの様相を呈する修道院の奥を、マリスは目的もなく彷徨い歩く。その合間には神への祈りが捧げられる。闇ばかりの迷宮とは打ってかわり、祈りの広間は暴力的なまでの白光に包まれている。ここでマリスは今自分が直面する現実を神にもたらされた運命と捉えている。そして同僚とは全く異なる、粛々たる落ち着きを以て運命を受容するのである。

今作において注目すべきはAnton Gromov アントン・グロモフによる異様な撮影だ。まず印象的なのは画面の暗澹たる様だ。今作には常に闇が這いずり回っており、その暗さによって視覚情報が著しく制限されている。マリスを含めた登場人物が一体何をしているのか判然としないことが多ければ、彼らがいる空間を把握すること自体が困難なことも頻繁にあるのだ。

それは監督らが撮影のために最小限の光源だけを使用しているゆえに他ならない。例えば窓から差し込んでくる青みがかった灰塵色の陽光や、例えば全き闇のなかに心許ない橙色を揺らしている篝火、こういった弱々しい光だけを取り入れる禁欲性によって今作の異様なまでの暗澹が紡がれているのだ。これを詩的とするか、ただただ見にくい自己満足と取るかは評価がハッキリ分かれるだろう。

しかし不思議なのは、この極端なまでの不明瞭さが逆説的に空間、もしくは建築空間の存在感を際立たせるのだ。今作は修道院を主な舞台としているが、祈りを捧げる大広間を除いては全てが陰鬱な瘴気に支配されている。光があるとしても微かな陽光だけだ。それとも灰塵の色彩が石造りの壁や柱を照らす時、その荒い、ザラザラした質感が観客の網膜により迫りくるのだ。そして黒で塗り潰したような闇に篝火が輝く時、修道院という建築が持つ荘厳なうねりがのたうつのを観客は感じるだろう。“優れた建築は闇のなかにこそ浮かぶ”と、そんな言葉を否応なく思いださせる、ここにおいてはひどく恐ろしい形でだが。

この空間が催させる陰鬱なまでの畏怖というのは、マリスら兵士たちの心にも去来しているものかもしれない。だがこの畏怖に常に晒され続ける彼らの心は徐々に麻痺していき、虚無へと傾いていくことになる。そして思考の余裕を奪われていった先にこそ残虐の萌芽が存在している。修道院の一室には拉致されたユダヤ人女性たちが監禁されており、ドイツ人兵士たちから凄惨な虐待をも被っている。これにラトビア兵も荷担させられ、その神経、その精神は変質していくのだ。

そして陰鬱かつ荒涼たる風景に幻覚が浮かび始める。例えば闇のなかに得体の知れない何かがいるという風景。例えば虐待されていた女性たちが明滅を繰り返す1つの空間に集結し、こちらを眺めているという風景。そういった不気味な映像に更に付け加わるのは、鼓膜を貫いたり、押し潰したり、引き裂いたりするような攻撃的な音の数々だ。それはおそらく兵士たちを苛む幻影なのだろう。この麻痺を催させる闇と、激烈な幻影のイメージが交錯する様に、観客は兵士たちが発狂を遂げる様を追体験することになるのだ。

そんな中でマリスは神への献身によって能動的に自身の感情を麻痺状態にしていき、現状から目を背けることで、発狂という地獄から逃れようとする。だが彼はナチスや同僚兵による暴虐を目の当たりにするうち、この姿勢を問い直さざるを得なくなっていく。神は何故女性たちを救うことがないのか、神は何故こんな過酷にすぎる試練を与えるのか。神への献身は徐々に不信へと変貌を遂げていく。

“Achrome”はこのマリスの姿を通じて、極限状態に置かれた人間たち、彼らに残された良心の行く末を見据えていく作品だ。こういった状況下において、例え肉体は生き延びようとも、良心は潰えるしかないのか。それとも生き残るものもまた存在するのだろうか。だが少なくとも、凄まじき苦痛の道を歩むことは避けられない。戦争はこの地獄をもたらすのである。

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Maryna Er Gorbach&“Klondike”/ウクライナ、悲劇が今ここに

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現在、ウクライナに対してロシアが不穏な動きを見せ、ともすれば戦争が起こってしまうのではないかという緊迫した状況が続いている。そんなキナ臭い雰囲気のなか、サンダンス映画祭であるウクライナ映画がプレミア上映された。この作品を観ながら、私は正に今立ち上がっている現実について考えざるを得なかった。今回は今年最初の衝撃として私の前に現れたウクライナ映画である、Maryna Er Gorbach マリナ・エル・ゴルバック監督作“Klondike”を紹介していこう。

今作の主人公はイルカとトリク(Oksana Cherkashyna オクサナ・チェルカシナ&Sergey Shadrin セルゲイ・シャドリン)という夫婦だ。彼らはロシアとウクライナの国境に程近い町に暮らしていた。だが時は2014年、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島、東部のドンバス地方に侵攻、いわゆるクリミア危機・ウクライナ東部紛争が勃発した年である。イルカの町にもロシア軍が進駐し、常に厳戒体制が敷かれている。そんな状況だったが、イルカのお腹には待望の赤子が宿っていた。

今作は紛争に見舞われたウクライナの人々が極限の状況に追い込まれていく姿を淡々と描きだしていく。家の周りには重装備のロシア兵や戦車が闊歩し、心休まる時がほとんど存在しない。暴力と死の予感が常に隣には存在している。夫婦はそんな場所で生きている、ここから去る気は微塵もないようだ。もし去ったならば命は助かりながら、誇りは全て踏みにじられるとでもいう風に。

この生存闘争の過酷さを物語るのが冒頭場面だ。寝室にいるイルカたちは眠ろうとしながら、些細なことから神経を逆立てて、挙げ句の果てに痴話喧嘩を始めてしまう。寝室を行き交いながら互いに怒りを向ける2人、そして罵倒が響き渡る寝室そのものを、撮影監督であるSviatoslav Bulakovskyi スヴィトスラフ・ブラコフスキのカメラは見据えていく。そしてゆっくりと、まるで這いずる油のようにカメラは360°の回転を遂げていき、そこにはカットが一切かからない。しかしある瞬間爆音が炸裂し、家が煙に包まれることになる。2人は無事だが、寝室の壁は完全に破壊されてしまっている。

物語の始まりを悍ましい形で祝福するこのシークエンスは先述通り生の過酷さを象徴するが、それと同時に今作の撮影がいかに凄まじいものかをも語っていると言えるだろう。ここにおいてBulakovskyiは途切れなき長回しを主体とした撮影を遂行していく。カメラは目前の風景を極端なまでの自然主義的なアプローチで映しだしながら、常時固定されている訳ではなく、異様なまでに遅いズームやパンを行い、被写体を追うことともなる。この拳を遅々として石造りの壁に押しつけるような圧力に満ちた長回しのなかで、時間という概念は息詰まる無限として拡大されていくかのようだ。

ウクライナ映画において、長回しキラ・ムラートからの伝統といっても過言ではない形で脈々と継承されているが、近年それは加速度的に激化している印象を受ける。例えばミロスラヴ・スラボシュピツキー「ザ・トライブ」ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチアトランティスといった作品に、形式主義長回しが内容との均衡を崩していくような印象を受けた。ここまでとは言わずとも先鋭な形式主義を今作もまた共有しているように思われる。

更に今作ではロングショットが多用されることで、イルカたちの生活風景が、彼女たちの暮らす世界そのものの中に現れることにもなる。この地域は町や村というよりも、だだっ広く不毛な荒野に人や彼らの住まう家が点在するといった状況の方がしっくりくる。そしてそこに鼓膜を潰すような轟きを響かせながらロシア軍が進駐を遂げる訳だ。荒涼、虚無、不穏、そんな重苦しい言葉の数々だけが観客の頭には浮かぶはずだ。

こういった状況でイルカたちは生存を続けようとするのだが、その方法こそが家事なのである。例えば砲火で破壊された家の残骸を片付ける、それが終わったら料理を作って食べる、外では水を汲んで体を洗う、家事が終わった夜にはテレビを観てそして眠りにつく。こういった家事、もしくは生活そのものが先述した演出のなかで淡々と繰り広げられていく訳だが、ここで想起するのがシャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン」だ。今作は永遠にも思えるほど続く料理や掃除といった主婦がこなす家事の数々を、固定され一切動くことのない長回しによって延々と描きだす凄まじい1作だ。どちらも家事という日常の所作を長回しで描きだすという手法がよく似ている。

だが興味深いことに2作においては家事の意味合いが全く変わってくる。「ジャンヌ・ディエルマン」が家庭という牢獄における懲役刑のように家事を描きだしている一方で、今作では家事が生存戦略として機能している。戦時下という1つの極限状態においては、家事を続けることで日常を過ごすという行為自体が生の希望を繋ぎとめる役割を果たしているのだ。家事によって保たれる日常こそが生の核にあるのである。

そしてここにおいて撮影と同様に印象的なのが、監督自身が手掛けている編集だ。Bulakovskyiの長回しは時の流れをそのままスクリーンへと投影する一方で、ただただカットを長くすればこれが十全に機能するという訳ではもちろんない。むしろ長回しにおいてこそ、いつどのタイミングでカットするかが重要になる。監督の編集はこれを知悉しているかの如く、ショットとショットを繋げていく。一瞬に時間と時間を切り裂いたかと思えば、ある断面と断面が新たに繋がり先鋭なリズムが生まれるといった風なのだ。

先述した通り、今作は主人公たちの周囲に広がる荒野をも内包するロングショットを多用する。だがそれらロングショットの合間、ふとイルカらの表情のクロースアップが挿入される瞬間が何度かある。時間の流れを長く取りいれるロングショットにおいては人間を含め全てが一種の無機物に思える一方で、クロースアップにおいてはイルカらの顔に浮かぶ皺や動き、何より表情が中心に据えられ、無機物とはまた違う生の存在を感じさせる。後者はカットがかかるのもより早いので、無限にも感じられる時の流れとは様々な面で対比が成されていき、リズムは更に息詰まるような緩急を宿す。そうして彼女らの生活と日常にこそ存在するダイナミクスが露になるのだ。

そしてイルカの出産が近づくなかで、同時に戦争の影もまた濃厚になっていく。そんなある日、衝撃的な事件が起こる。家の近くに旅客機が墜落したのだ。マレーシア航空17便が飛行中、ロシアによって撃墜され墜落、乗客283人と乗組員15人の全員が死亡したというあの事件だ。こうして未曾有の惨状が広がるなかで、イルカたちの人生は急転直下の悲劇へと突き進んでいく。

この惨劇をきっかけとして、イルカたちはもはや戻れない一線を踏み越えることを余儀なくされるが、それでも彼女たちは死に物狂いで日常を保とうとする。これがウクライナに生きる人々にとっての全身全霊のサバイバルという風に。だが観客は目撃することになるだろう、この意志が完膚なきまでに破壊される、この悲劇が淡々と繰り広げていく様を。ここにおいて私たちは監督が提示するあまりの絶望に言葉を失うしかないはずだ。だが同時にこの悲劇が、今再び繰り返されようとしていることにも気づかざるを得ない。私もそんな1人だ。だからせめて、語らなくてはいけない。悲劇を繰り返さないよう私たちに訴える、この“Klondike”という映画について語らなくてはいけないのだ。この文章を読んだ方が、少しでもウクライナが直面する現実に思いを馳せてくれることを願う。

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Bogdan Theodor Olteanu&“Mia își ratează răzbunarea”/私は、傷ついてもいいんだ

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razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
監督のデビュー長編についてはこちらを参照。

今年の4月、ルーマニアの鬼才監督Radu Jude ラドゥ・ジューデのベルリン金熊受賞作品「アンラッキーセックスまたはイカれたポルノ」aka “Babardeală cu bucluc sau porno balamuc”が日本公開される。今作はセックス動画が流出した女性教師がめぐる狂騒を通じて、コロナ禍真っ只中のルーマニアを描きだす意欲作だ。だが今回紹介する作品はこれではない。実は今作製作の前年に、同じくセックス動画をテーマとしたルーマニア映画が作られていたのだ。「アンラッキーセックス」ルーマニア社会そのものにより焦点を当てた映画なら、その作品はよりパーソナルな心理模様を描きだした1作とも言える。という訳で今回紹介するのはルーマニア映画界期待の新鋭Bogdan Theodor Olteanu ボグダン・テオドル・オルテアヌの第2長編“Mia își ratează răzbunarea”だ。

今作の主人公はミア(Ioana Bugarin ヨアナ・ブガリ)という若手俳優だ。彼女は恋人のテオとド派手に喧嘩をし、ビンタされた挙げ句に別れることになってしまう。これについて母親(Maria Popistașu マリア・ポピスタシュ)や友人たちに愚痴を吐き散らかすのだったが、テオへの復讐としてあることを思いつく。それは行きずりの男たちとセックスしまくり、そのファックを撮影してやるということだった。というわけでミアは男を漁り、セックスしようとしたところでハメ撮り撮影を提案するのだったが、誰も彼もまずそれに困惑したかと思うと、セックスすらも拒否し始める。その態度が更にミアを苛立たせ、カメラを片手に彼らを罵倒し、煽りたてていくことになる。そして彼女は撮影を強行していく訳だったが……

この作品が描きだすのは、そんなアグレッシブなミアの迷走ぶりを描きだしたドラマ作品だ。彼女は男を漁りまくって動画撮影に打ってでる一方で、友人たちと酒を呑みながらお喋りを繰り広げたり、参加している舞台の稽古を行ったり、ブカレストで開催されたプライド・パレードに赴いたりする。今作はそんなミアの姿を通じて、今を生きるルーマニアの若者たちの姿を活写した作品であるとも言えるかもしれない。日本人から見ればとんでもなくアグレッシブという感じだが。

私は日本の誰よりもルーマニア映画を観てきている自負があるが、その過程で思ったルーマニア映画の特徴として、とにかくセリフ量が多いというのを挙げたくなる。老若男女問わず、映画の中のルーマニア人は喋りまくる。饒舌を突き抜けて言葉をブチ撒けまくる。それがただのお喋りの時もあれば、凄まじい口論の時もある。今作のミアたちも同様で生活の話からどのルーマニア人映画監督とファックしたいかみたいな他愛ない下ネタ、演技論からセックスについての真剣な対話まで、観客の頭がルーマニア語で埋めつくされる。ここはある種、ルーマニア映画を観る時の醍醐味でもある。

ここにおいてAna Draghici アナ・ドラギチによる撮影が面白い形で作用している。まず彼女はカメラを固定し一切動かさないまま、静かな長回しによってミアたちの姿を捉えていく。目前で繰り広げられる出来事を一瞬すら見逃すまいという風な気概すら感じられる、不動の観察眼がショットの1つ1つに宿るようだ。それは洪水さながら荒れ狂うルーマニア語の響きとは真逆の演出となっている。Draghiciの撮影に導かれ、私たちはミアの破天荒な行動の数々を静かに見据えることになる訳だ。

だが時折、ミアが所有するカメラ視点での映像が挿入されることともなる。先述の冷えた観察とは一転して、アマチュア的な手振れが目立つ映像はミアが感じている空気感を直接反映するかのようだ。くだらない下ネタで場が熱くなる、男とだけ部屋を共有する時間には親密さと居心地悪さが同時に染みでる。そしてミアが鏡に向かってカメラを向けたった独りで言葉を紡ぐ時、そこには孤独が豊かに立ち現れる。こうしてDraghiciは即物的な観察と心理主義的な表現を平行して行っていくことになる。

ミアという女性は頗る反抗的で、気の強さも相当なものだ。ハメ撮り撮影の際には男に喰ってかかり、口論を繰り広げる。自分のことを思ってくれる友人に対しても、自分の心に土足で踏み込んできたと思えば、ブチ切れることも辞さない。そのせいで彼女は常に不安定だ。これを象徴する場面がある。ミアは1人の男性と一夜を共にするが、朝起きた際に彼にハメ撮り撮影を持ちかける。馬鹿にされたと思った男性は彼女を帰らせようとするが、ミアは彼を罵り、自分から尻を突きだしてファックしろと煽りたてる。頭に血が上った男性はペニスを露出し挿入を試みるが、うまく勃起しないまま事はうやむやに終わってしまう。ここに現れるのは男女間における力関係とその絶え間ない反転、同意のあったセックスがレイプへと振り切れていく不穏さ、セックスを撮影するという行為が必然的に持つ暴力性だ。そしてこの後、ミアは独りの部屋で鏡にカメラを向けながら、自分の本心を吐露する。あんなことしたけど、本当は私も怖かったと。

最近のルーマニア映画に顕著になってきたテーマの1つが、被害と加害の間に存在している曖昧な領域だと私は考えている。2021年製作のAlina Grigore アリナ・グリゴレ監督の“Crai nou”(レビュー記事はこちら)を例として挙げよう。今作は強権的な親族に支配される人生を送ってきた女性が主人公だ。彼女はあるパーティで1人の男性と出会い、翌日自分が彼とセックスしていることに気づくが、泥酔ゆえに記憶が全くない。この同意なきセックス/レイプにおいて、女性は間違いなく被害者だろう。だが女性はこの事実を利用し男性を脅迫、親族の元から逃げるために彼の罪悪感を搾取していく。今作は家父長制に踏みにじられてきた女性が、被害者という現状を脱するために他者への加害を行い、自身が加害者になっていく様を忌憚なく描きだしていく。この社会で生き抜くためには自分が加害者にならなくてはならないのか?という問いをもこちらに突きつける。

今作もある面でミアは間違いなく被害者だ。別れ話の際にテオはミアに対してビンタという暴力を振るい、その記憶が彼女を苛み、セックス動画の撮影へと駆りたてていく。更に舞台の稽古の際にも、演出家がエロさが足りないとミアを含めた女優たちの衣装に文句をつけていく、そんな様が冷たい長回しで描かれていく場面がある。こうして生活のなかで彼女が性差別の被害者になっていく姿が頻繁に映しだされる。それでいて彼女が男性たちの同意も満足に取らず、セックス動画を撮影しようとするというのは明らかに加害行為だろう。ミアは被害者という立場から脱却するため、他の人間に対して加害を働くことになる。その様は“Crai nou”の主人公とよく似ている。そしてミアは冷静になり、己の行動を振り返るにあたり恐怖について吐露する。この恐怖とは正に被害と加害の間に存在している曖昧な領域、ここにこそ根づく恐怖なのだ。

だがそもそもミアがセックス動画を撮影しようと思った動機というのが何かといえば、それは元恋人であるテオへの復讐だろう。だが実際に何故そのセックス動画が彼への復讐になるのか、そういった理由は一応ミアから溢れでる言葉のなかに見出だせるかもしれないが、決定的なものがそこには欠けているといった印象も抱くはずだ。そして彼女の自暴自棄なまでの邁進ぶりには“自分が傷ついている”という現状から必死に目を背けようとしているのではと思える瞬間がある、彼女は自分の弱さを認めたくないとでもいう風に。

監督はそんなミアの姿を時には冷徹な観察を以て、時にはその不安定な心情をそのまま反映したような震えとともに描きだしていく。ここで重要になってくるのは、やはり言葉なのだ。ミアは母や友人たち、男たちと何度も何度も対話を果たし、止めどなく自身についての言葉を紡いでいく。それは見境なく、時には危険で、だからこそ感情に満ち満ちている。これによって彼女はセックス動画の撮影とその理由、つまりは復讐とその理由を手探りで見出だそうとするのだ。私が感動したのは、そうしてミアの行き着く先が“自分は傷ついてる、自分は傷ついてもいいんだ”と弱さを受け入れるというものだからだ。これがミアにとっては、自分が被害者でもあり加害者でもあるという事実にケリをつけるということだからだ。

今作の題名である“Mia își ratează răzbunarea”は、ルーマニア語で“ミアは復讐が恋しい”ということを意味している。復讐とそれによって生じた心のうねりを肯定も否定もしない、いや肯定も否定もする、何にしろどんな可能性も切り捨てることはなく、曖昧なままで受けとめる、そんなミアの感慨が現れたような題名だ。題材自体は頗る過激なものでありながら、今作はそうして性や愛への割り切れなさを抱えて生きていくことについて教えてくれる1作なのだ。

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Christos Massalas&“Broadway”/クィア、反逆、その生き様

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ギリシャ映画には連綿たるクィア映画の系譜がある。最近でいえば日本ではキワモノZ級映画と見なされている「アタック・オブ・ザ・ジャイアント・ケーキ」とその監督パノス・H・コートラスギリシャにおけるクィア映画史の重要人物でもある。彼の1世代後に現れた作家(ヨルゴス・ランティモスアティナ・ラシェル・ツァンガリなど)による、いわゆる“ギリシャの奇妙なる波”はクィア映画という面から様々な検証が成されており、2016年出版のMarios Psaras マリオス・プサラス“The Queer Greek Weird Wave: Ethics, Politics and the Crisis of Meaning”を嚆矢として、その研究は年々深化していっている。さて、今回紹介する映画はそんなクィアギリシャ映画の最新たる1作、Christos Massalas クリストス・マッサラス監督作“Broadway”だ。

今作の主人公はネリー(Elsa Lekakou エルサ・レカコウ)という若い女性だ。彼女はストリップダンサーとして働きながらも、貧困から逃れられない日々を過ごしていた。その閉塞感から彼女を救いだした存在こそマルコス(Stathis Apostolou スタシス・アポストロウ)だった。彼はネリーを連れてナイトクラブから逃走すると、自身が根城とするブロードウェイと呼ばれる廃墟へと赴く。彼はそこで仲間たちと暮らしていた。だがどう生計を立てているかといえば、スリなどの犯罪行為だ。しかしネリーはその犯罪家業に身を委ね、自由を感じるようになる。

マルコスが率いるこの名もなき集団は、資本主義や家父長制社会からは炙れた、野良犬のような者たちでできている。彼らはそのシステムに反旗を翻しながら、犯罪行為によって己の命脈を繋いでいく。例えば、広場でネリーがそのダンスによって通行人の注目を集めるなか、マルコスたちが観客から密かに財布を盗みとっていく。これを繰り返しながら、欲望の赴くままに生を謳歌している訳だ。

だがその中に、ネリーにとって謎の存在がいた。傷ついた体を、廃墟の一室に横たわらせるジョナス(Foivos Papadopoulos フォイヴォス・パパドポウロス)だ。殆ど死んでいるように見えたジョナスは、しかし少しずつ回復していき、ネリーのダンスの相棒として犯罪に参加するようになる。そこでジョナスは長髪のウィッグやドレスを身に纏い始め、そこに安らぎを見出だす。そうしてバーバラという名前を選びとった彼女に、ネリーは少しずつ惹かれていく。

Massalasによる演出は息もつかせぬ軽やかなテンポを伴った、目覚ましいものだ。編集のYorgos Lamprinos ヨルゴス・ランプリノスとともに、彼は社会の底辺で生存闘争を繰り広げるならず者たちの犯罪劇を一気呵成というべき勢いで軽快に語りまくる。そしてガブリエル・ヤレドの絢爛なるスコアはこの速度に更なる熱気をもたらしていく。この編集と音楽の交錯が、序盤における作品の推進力となっていく。

物語という意味で、今作はかなりの王道を行くことになる。はぐれ者たちが集まり、犯罪によって過酷な現実を生き抜かんとする。そういった犯罪映画は観たことがない人の方が少ないだろう。その展開に関しても観客の予想を裏切るといった類いのものでなく、その予想を堂々と踏襲してみせるといった趣向となっていると言える。

だが今作が他の犯罪映画と一線を画するのは、そのクィア性においてだ。この名もなき集団はクィアな人物たちによって構成されている。例えばネリーの先輩格で彼女の世話を焼いてくれる男性2人は恋人同士でもあり、加えて言えばインターレイシャルなゲイカップルでもある。そして主人公のネリーはバイセクシャルであり、最初はマルコスに惹かれながら、徐々にバーバラにも愛を抱くようになる。そしてそのバーバラはトランス女性だ。彼女は自己を模索する過程でネリーとダンスを繰り広げるうち、彼女もまたバーバラを愛するようになる。

これに対して不穏な感情を見せるのがマルコスだ。彼は秘められた暴力性と凄まじく強権的な性格を徐々に露にしていき、ネリーという存在を支配しようとする。例え警察に捕らえられ、刑務所にブチこまれながらも、その執念や愛憎の炎は消えることがない。そしてネリーとバーバラは、立ちはだかるマルコスとの全面戦争を避けられないものと知る。

今作の背景にあるのはギリシャにおける経済破綻だろう。2009年頃より顕著になった経済危機および破綻は、ギリシャ国民の生活を苦境へと追い詰めていき、映画界にもこれは波及していった。この状況で、限りない低予算とそれを補う映画作家同士の連帯、そして不条理な現状を元に紡いでいった奇想によってギリシャの奇妙なる波は幕を開けた訳である。しかしその余波は未だにギリシャ全土を苛んでいるようだ。アテネの寂れた風景、ネリーたちの舐める貧困の苦渋、そして打ち捨てられたブロードウェイという名の廃ビルがこれを象徴しているように思われてならない。

マルコスが率いる集団はこういった状況を作りだした資本主義に抵抗する反逆者の集まりである。そして資本主義に接続された、家父長制にも挑んでいくクィアな集団もであるのだ。しかしこれらのシステムの真に恐るべき点は、ネリーたち弱い立場に追いやられる人々をも分断し、互いに傷つけあうよう仕向ける、そんな抑圧的なヒエラルキーをもたらすことだ。連帯すらも無に帰すような現状がここから生じるのだ。

今作において悪として現れるのがマルコスという存在だ。マルコスは生臭い性欲と生々しい負の感情を持つ人物であるという意味で、集団のなかで再生産された抑圧そのものといった風に見える。同時に、どこか浮世離れした異様なる存在感を持っている。激しいファックによって男性性を誇示しながら、銀髪を揺らす彼の姿からはバイナリー的な性を逃れるような雰囲気もあり、正体が掴みにくい存在だ。彼を演じるStathis Apostolouは映画の出演本数自体は少ないようだが、しなやかな雰囲気を纏いながら、それでいて悍ましい攻撃性を持つ複雑な人物を、巧みに演じている。彼の存在が今作をより複雑にしているというのは間違いない。

ネリーとバーバラはそんなマルコスに闘いを挑むのだが、彼女たちの姿を見ながら想起した作品がある。それがウォシャウスキー姉妹のデビュー長編「バウンド」だ。今作は愛しあうクィアな女性2人が男たちを出し抜き、生存闘争を繰り広げるクライム・ロマンスというべき代物だ。この枠組みを“Broadway”は共有している訳だが、そこから更に1歩先へ行っていると思える部分がある。それはネリーがバイセクシャル女性であり、バーバラはトランス女性でかつレズビアンであることだ。バイセクシャルとトランス・レズビアンは女性を愛する女性のなかでも、マジョリティであるシスジェンダーレズビアンたちの周縁に置かれてきた。そんな彼女たちが今作では中心となり、抑圧者たちと対峙するのだ。この勇姿を目の当たりにしながら、ウォシャウスキー姉妹の魂はギリシャにも受け継がれている!と、思わず心が震えてしまった。

家父長制に挑む反逆者たちがいる。しかしこのシステムは弱き者同士が傷つけあう地獄をも生み出す。それでも両方に中指を突き立てて、愛を胸に生きるやつらもまた確かに、確かにいるのだ。この“Broadway”という作品は、そんなクィアな反逆者の生きざまを祝福する力強い1作だ。

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ワット、ウィスキー、広島、そしてウルグアイ映画史~Interview with Agustín Acevedo Kanopa

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

さて今回インタビューしたのはウルグアイ映画批評家Agustin Acevedo Kanopa アグスティン・アセベド・カノパである。私は2020年代に力を着実に蓄え、2030年代に一気に花開くだろう国を探している訳だが、今頭に浮かんでいる4国がモンテネグロキプロスミャンマー、そしてウルグアイな訳である。実は2021年のベスト映画リストに2本もウルグアイ映画を入れていたりするほどで(今回のインタビューにも何度か出てくる)この国の動向から目を離せないのだ。だがウルグアイ映画と言われて即座に頭に何かが浮かぶ人は少ないだろう。2000年代から映画を観ている方は東京国際でも話題になったコメディ作品「ウィスキー」を思い浮かべる人もいるかもしれない。あの映画は実はウルグアイ映画なのだ。ということで今回は、そんな日本においては全く未知のウルグアイ映画史についてこの国で随一に有名な批評家に色々聞いてみた。それでは、どうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?

アグスティン・アセベド・カノパ(AAK):自分が何を感じているか、なぜある作品を好きになったか、その作品がどのように機能しているか、子供の頃からこういったものを理論化するのに興味がありました。こういった感覚を人生において遭遇した全てに適応できると感じています。つまりどんな音楽を聴いたか、どんな本を読んだか、どんな料理を食べたか、もしくはもっとシンプルに、ある考えが頭のなかでどう変化したか、これを理論化するのが好きなんですね。これは芸術を体感するにあたって制限ととる人も多いですが、私の場合は真逆なんです。映画を観てそれを理解しようとするのは、あらゆるものをより興奮するものに変えてくれる、そして作品の効果というものを拡大してくれる行為という訳ですね。批評家としての仕事を振り返ると、まず日記に書いていたことを個人ブログにアップしていたんですが、2年後にLa diariaという雑誌が私をフリーランスの執筆者として迎え入れてくれました。2008年にこの仕事を始めて、毎週映画と音楽について執筆を行っていたんです。それから時間が経ち、ウルグアイ映画批評家組合に所属することとなり、このおかげでFIPRESCIの審査員として様々な映画祭に参加できるようになり、映画界というシステムにより深く関わることになった訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時、ウルグアイではどういった映画を観ることができましたか?

AAK:最初に大きな影響を与えてくれた1作はディズニーの短編カートゥーン「花と木」(1932)ですね。両親はビデオ再生機を2台持っていたので、映画を借りては観ていき、どれをコピーしてまた観たいか皆で吟味してましたね(それでお気に入りの映画を何度も熱にうなされたように観れた訳です)そのなかにはSilly Symphonies シリー・シンフォニーの短編群、例えば先述した「花と木」「音楽の国」「田舎のねずみ」といった作品があり、今でも素晴らしい作品だったと思ってます。とにかく、私のシネフィル文化は根本においてビデオレンタルから培われていきました。父には何を借りるかの基準などはなかったので、今の観点からいえば当時の年齢には全くそぐわない作品なども借りさせてくれましたね(例えばホラー映画や、セックスと暴力まみれのアクション映画などなど)それからカバーを見て気に入ったけども、子供の世界とは何の繋がりもなかった作品なども借りました(例えば思い出すのは、10歳の頃なんですけど、キシェロフスキのトリコロール/赤の愛」を借りて、何も分からなかったということです。何にしろ最初から最後まで観ましたけどね)そして真の意味でシネフィル的な人生が築かれるための大きな1歩を踏んだのは16歳の時でした。古典映画やアングラな映画に少しばかり特化したレンタルショップに会員登録したんです。初めて行った時に借りたのがルトガー・ハウアー/危険な愛」自転車泥棒」「蛇の卵」ピンク・フロイド ザ・ウォールで、そこから止まらなくなってしまいましたね。

TS:初めて観たウルグアイ映画は何でしたか? その感想もお聞きしたいです。

AKK:確か初めて観たウルグアイ映画はBeatriz Florez Silva ベアトリス・フロレス・シルバ“La historia casi verdadera de Pepita la pistolera”でしたね。テレビ放送だったと思います。当時この映画に関して大きな騒ぎがあったんですが、思い出すのは今作が相当に低予算で(私が観ていたハリウッド映画に比べると本当に規模が違いました)、私が日常を過ごすウルグアイの風景がスクリーンに映しだされており奇妙な心地になったことです。とはいえこの印象以上に、まだ10歳くらいの子供の目にはとても退屈に思えましたね。

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TS:あなたの意見として、ウルグアイ映画史において最も重要なウルグアイ映画は何だと思いますか? その理由もお聞きしたいです。

AKK:2000年までに、ウルグアイ映画は何度も構築され直していきました。新しい映画が現れるたびに“最初のウルグアイ映画”というオーラを纏っている、なんて風ですね。しかし20世紀初頭からこの国でも映画は作られてきていた訳です。しかしながら、私が思うのは“25 Watts”という作品が国際的な注目を浴びた時、初めてウルグアイ映画は外国人の目に触れたと言えるのではということです(私たちの国と同じような小国は常にメインから除外された枠に入っていて、自分たちの文化を真剣に受け止めるには他国の評価というのが必要なんです)こういった理由で“25 Watts”は私たちの国において映画の新しい歴史、公式な歴史が綴られ始めるうえでの分岐点なんですね。これも私の考えですが、説得力のあるウルグアイ性というもの、ここにおいてはウルグアイで若者として生きるうえで何もやることがないゆえにダルくて退屈で、同じことが延々と続くといった感覚をどう強度ある形で再構築していくか、これを最も良く理解していた映画が今作な訳です。他の国でも似た作品はあったでしょうが、特に北米においていわゆるマンブルコア映画がやっていたことを今作はやっていたということですが、それと比べてもこの“25 Watts”はさらに迫真性があり、笑えたんです。この時までにもウルグアイについて語る作品はありましたが、どれも常に分析的な距離感を持つか(例えばMario Handler マリオ・ハンドレルの映画など)より私的でインテリ的な(例えばPablo Dotta パブロ・ドッタの賛否両論な“El Dirigible”など)作品でした。しかし“25 Watts”はウルグアイ人による、ウルグアイ人のための、ウルグアイ人についての映画だと初めて感じられる1作だったんです。後に監督のJuan Pablo Rebella フアン・パブロ・レベージャPablo Stoll パブロ・ストール「ウィスキー」という第2長編を作り、映像面ではより洗練されています。“25 Watts”の倍も越えるほどの評価を受けました。しかし彼らの初長編こそがより広大なカルト的評価を獲得していると、私としては常に思っています。

TS:もし1作だけお気に入りのウルグアイ映画を選ぶなら、どの映画を選びますか? その理由は何でしょう、個人的な思い出などがありますか?

AKK:先の質問で答えたことに少し戻るんですが、私のお気に入りの1本は“25 Watts”ですね。個人的に思い出すのは今作を観て突然、慰められたような奇妙な感覚を味わったんです。私の退屈な人生が突然に映画的なものに見えるようになったんですよね。そして他2本として“Carlos, video-retrato de un caminante” (Mario Handler, 1965)と“Las Olas” (Adrián “Garza” Biniez アドリアン“ガルサ”ビニエス, 2017)を挙げたいと思います。2作は劇的なまでに異なる作品で、全く異なる理由で私を魅了し、興奮させるんです。

TS:日本において最も有名なウルグアイ人監督はPablo Stollでしょう。Juan Pablo Rebellaとの共同監督である第2長編「ウィスキー」はカンヌとともに東京国際映画祭でも賞を獲得、さらに日本でも劇場公開され暖かく迎えられました。今でも日本には「ウィスキー」のファンがいます、Stollの次回作“Hiroshima”は未だに日本で上映されていませんが(日本の都市の名前がタイトルなのに!)しかし彼と彼の作品はウルグアイ本国でどういった評価を受けているのでしょう? ウルグアイ映画史において彼の立ち位置はどういったものになっているでしょう?

AKK:Pablo Stollウルグアイ映画において欠かせない存在です。その理由は映画自体(中でも“Hiroshima”はより完成度の高い1作と思います)だけでなく、彼のおかげでウルグアイ映画が世界的な映画祭で短いハネムーンを過ごすこととなり、今後の道が築かれたという意味でもなんです(例えばManolo Nieto マノロ・ニエト“La Perrera”ロッテルダムで、そしてAdrián Garza Biniez“Gigante”でベルリンで銀熊賞を獲得しました)さらにこんにち、ある特定の映画、もしくは特定の場面(映画外でも日常のある状況も)が“Control Z-esque / Control Zっぽい”(Control ZとはJuan Pablo RebellaPablo Stollの制作会社です)という言葉で形容されるようになりました。何かが形容詞にまでなるというのは、人物やものが何か大きなことを成し遂げたということだと思います。

TS:現代の作家たちのなかで、国際的に評価されている作家は間違いなくFederico Veiroj フェデリコ・ベイローでしょう。彼独特のユーモア感覚は世界の観客を魅了していますが、特に「アクネ ACNE」「映画よ、さようなら」は日本でも上映されています。彼のウルグアイでの評価はどういったものでしょう?

AAK:Veirojはとても興味深い作家ですね。異なるテーマやスタイルに挑戦することを恐れない様は、ウルグアイの同世代にはあまりないことです。個人的に彼のベストは“Belmonte”(2018)だと思っていて、あの作品では現実と非現実が奇妙かつ巧みに混ざりあっているんです。

TS:前の問いにおいては2000-2010年代において国際的に認知されたウルグアイ人映画監督について尋ねましたが、他にウルグアイでは有名ながら国際的にはまだ認知されていない映画作家はいるでしょうか? いるならぜひともその人物がウルグアイでどう評価されている知りたいです。

AAK:この問いに答えるのが難しいのは私が興味深いと思う新人監督の多くが未だ2作ほどしか長編を作っていないからです、つまり彼らの作品を正確に見定める、そして次に一体何を作るのかを予想することが難しいという訳ですね。しかし何にしろ将来性のある作家は多くいます。例えばGuillermo Madeiros ギレルモ・マデイロスFederico Borgia フェデリコ・ボルヒア(2015年製作の“Clever”と2019年製作の“El campeón del mundo”)やAgustín Banchero アグスティン・バンケロ(2021年製作の“Las vacaciones de Hilda”)らですね。彼らの次回作がどうなるのか注目する必要があるでしょう。

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TS:ここでお尋ねしたいのが、あなたが思う2010年代最も重要なウルグアイ映画は何かということです。例えばFederico Veroijのユーモアたっぷりのコメディ作品、Gustavo Hernández グスタボ・エルナンデスのジャンル映画「shot/ショット」(“La casa muda” 2010)、2019年のサンダンス映画祭で評価されたLucía Garibaldi ルシア・ガリバルディ監督作“Los tiburones”などなど。しかしあなたの意見はどういったものでしょう?

AAK:2010年代でも最もお気に入りの作品はAdrián “Garza” Biniez監督の“Las Olas”ですね。今作は小さな、しかし同時に大いなる作品でもあり、様々なテーマについてまとめて語りたくなるような映画です。実験的なアプローチのおかげで均衡を失うことなしに、自身をパロディ化しながら、自分で定めたルールをも破り、越えていくような作品ともなっています。間違いなく私が一番観たウルグアイ映画であり、特に興味深いのは作品に引用やオマージュ(例えばカルロス・サウラの「従妹アンヘリカ」など)を見つけるたびに、作品は小さくなるどころか大きく広がっていくんです。あなたが挙げた作品だと「shot/ショット」Pedro Luque ペドロ・フケの替えが効かない撮影スタイルという献身以上のものでなく、“Los tiburones”も悪い作品ではないですが、いわゆるサンダンス的に収まるようにクッキーカーターで切られてできた作品と思えるんです。

TS:そして2010年代が終わり、2020年代が始まりましたが、コロナウイルスのせいで予想外なまでに過酷なものとなっていますね。それでもここでは映画について話していきましょう。あなたにとって真の意味でウルグアイ映画界の2020年代という新しい10年を始めた1作は何でしょう? 例えばベルリンに選出されたAlex Piperno アレックス・ピペルモ“Chico ventana también quisiera tener un submarino”は文字通り最初のランナーとなった1作でしょう。しかし個人的な意見ではEmilio Silva Torres エミリオ・シルバ・トレス“Directamente para video”ウルグアイ映画の2020年代、いや私にとってはウルグアイ映画への門戸をも開いてくれた作品でした。あなたの意見はどういうものでしょう?

AAK:思うにウルグアイ映画の最も大きな問題は長い間、本物の流行というものを作ってきていないことです。映画がリリースされ、興業収入ランキングに乗り、新聞にレビューが載ったり、時には映画祭で賞を獲得する。しかし長く続くような印象を観客に与えることができていないんです。ですからこの意味で10年の終わりや始まりを象徴する作品というものについて考えると長くなってしまいます(特に今はコロナウイルスのせいで、こういった観客への波及に制限がかかったりしていますからね)この候補になる作品の中で、一番のお気に入りは“Las vacaciones de Hilda”になるでしょう。“Chico ventana”は素晴らしい才能のある作家が力強い美学とコンセプトを込めた1作ですが、そのフォーマットや構成のせいで論理的すぎるきらいがあり、専門性のある閉じられた枠内でだけ大きく評価されている印象があります。“Directamente para video”は始めこそ興味深いのですが、監督がスタイルにまつわる1つの考えに捕らわれ、そのせいでこういったドキュメンタリーに不可欠な要素を入れ忘れてしまったゆえ、幾ら実験的でありたいとしてもこれでは、といった風です。

TS:ウルグアイ映画界の現状はどういったものでしょう? 外から見るとそれはとてもいいように思えます。Federico Veroijの後にも新たな才能が有名映画祭に現れていますからね。例えばベルリンのAlex Pipernoサン・セバスチャンAgustín Banchero、さらにManolo Nietoは第3長編である“El empleado y el patrón”がカンヌに選出されました。しかし内側から見ると、現状はどのように思えますか?

AAK:楽観はしていませんね。創造性と知性ある人々による革新という意味において自然とウルグアイは良い状態にあります(監督だけでなくPedro LuqueArauco Hernandez アラウコ・エルナンデスDaniel Yafalian ダニエル・ジャファリアンといった技術スタッフも才能ある人々が多くいます)しかし産業や製作システムにおいては映画を現実的な早さで作ることができないという問題が内在しています。補助金が少なければ、ターゲットととなる観客も少ない(ウルグアイの人口は300万人ほどというのを思い出してください)ので、必然的に製作に耐え難いほど時間がかかり、上映する頃には新鮮味が失われる訳ですね。そうして監督たちも十分な量の作品を作ることが叶わないゆえ、私たちもこの国の映画の本質について語ることも、この考えを組み換えていくということもできない状況にあります。失うばかりで得るものがありません。こういった意味でウルグアイ映画は、ウルグアイ映画について真実味を以て語るだけの製作の歴史が、少なくとも20年は欠けているんです。

TS:おそらくこれは曖昧で焦点の合っていない質問ですが、あえてさせてください。あなたにとってウルグアイ映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムとドス暗いユーモアなどなど。ではウルグアイ映画はどうでしょう?

AAK:現時点でウルグアイ映画と一般に関連付けられる特徴はControl Zがもたらした真顔のユーモアと、そしてカウリマスキやジャームッシュから受け継いだような、辛辣かつ酸っぱくも甘い物語様式のブレンドでしょう。問題はこの考え、つまりウルグアイ映画は全部こんな感じだという固定概念がウルグアイの観客にあまりに浸透しすぎて、誰かがある映画にいいレビューをつけると、他の多くの映画がそれを真似し始めるんです。ここ数年そういった小綺麗だけどもぬるい映画が積み上がっていく様を正に目撃しています。フレンチタイプのアコーディオンが背景で鳴り響いている映画を何本も観ました。ある国の映画が辿る道としては興味深さの対極にあるものとしか私には思えません。

文中に出てきた幾つかの作品はレビューを執筆しているのでぜひこちらも。
razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
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