鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

死にたい…死にたい…一緒に死のう…"Amour Fou"

ヴェロニカ・フランツ"Ich Ser Ich Ser"Lukas Valenta Rinner"Parabellum"など、今オーストリアの新鋭たちの活躍は目覚ましい物だ。彼らの存在は映画界に"オーストリアの新たなる戦慄"という言葉を生み出し、その潮流を世界へと広げていく。そんな中、戦慄の源たるミヒャエル・ハネケの一番弟子であるジェシカ・ハウスナー、彼女がルルドの泉」から5年の歳月を経て新作を生み出した。それがこの"Amour Fou"だ。

この物語の舞台は19世紀のベルリン。ヘンリエッタ(Birte Schnoeink)は夫のフォーゲル(Stephan Grossmann)や娘のパウリーヌと共に暮らしている。サロンでは人々と知的な会話を楽しみ、夜は美しい歌の響きに聞き惚れ、自身も娘の拙くも愛おしいピアノの伴奏に合わせ歌を披露するとそんな上流階級としての生活を大いに満喫していた。そしてある時ヘンリエッタは"自由"という物についてこう語る、私は夫の所有物なのですから、自由など必要ありませんわと。

フォーゲル家のサロンに出入りしている者の中の1人に、ハインリッヒ(ヒトラー暗殺、13分の誤算」クリスティアン・フリーデル)という男がいた。彼は愛についての物語を書く小説家であったが、その作品は全く売れず希死念慮に捕らわれる日々を送っている。この地球上に僕を癒してくれる者など存在しない、彼はマリー(Sandra Hüller)という女性に口走る、だから死にたいのです、しかし愛なしには死ぬことは出来はしない、どうです、私を好きというなら一緒に死んではくれませんか……そんな彼の姿を遠くから、ヘンリエッタは軽蔑の目で見つめている。

"神は細部に宿る"この映画を一言で表すとするならこうだ。貴族である登場人物たちの髪形に服装に身ぶり手ぶり、ヘンリエッタが住む邸宅には高級家具が設えられ、ベッドからランプ、ピアノから紅茶カップまで19世紀の文化が異様なほど作り込まれている。時にはフォーゲルにかしづくメイドすら家具の一部とも思えてしまう程に。おそらくこの時代に詳しい人々なら美術だけでも何千字費やせるのではないだろうか。しかしそうでありながら、これを観ながらこの装飾の数々がこの作品に息づいていないのでは、と不可解な感触をも抱く方もいるのではないだろうか。

ハウスナー監督の志向するのは美術を作り込んだ上で、その空間に存在する虚無を撮しとることだ。それにおいて最も重要な存在は、このブログでは"Cure: The Life of Another"を取り上げた撮影監督Martin Gschlachtだ。ヘンリエッタが歌声を皆に聞かせるシーン、フォーゲルたちが晩餐を楽しむシーン、ハインリッヒが会話を繰り広げるシーン、そのどれもが不必要なまでに絵画的な完璧さを湛えている。この"不必要さ"が肝だ、完璧な構図が次々と連なっていく中で、私たちはカメラに映る全てが人工的で無機質な、自然の一切介在する余地のないものの集合体ではないかという疑念に苛まれ、そして視線はあの虚無へと誘なわれていく。家族が囲む食卓の奥に何もない空間、椅子に座るパウリーヌを真っ正面から撮す時、彼女の頭上には大きな空隙が広がっている。この作品には何処にであれ不気味な空白が存在しているのだ。何もあからさまには起きないが、水面下で不穏が高まるとそういった雰囲気を、監督はこの空白を以て巧みに演出していく。

ある日ヘンリエッタは家の中で突然倒れてしまう。医師に見てもらうのだが原因は不明、催眠療法瀉血など様々な方法を試してはみるのだが彼女は衰弱していくばかりだ。そんな彼女の前に現れるのがハインリッヒだった。死の足音が近づくのを肌で感じている彼女は、あれほど毛嫌いしていたハインリッヒの死と愛の言葉に共感すら抱き、2人で死を達成するための旅へと赴く。

ここまで書いて分かる通り、この作品は実在の人物である小説家ハインリッヒ・フォン・クライストヘンリエッタ・フォーゲルの巡った運命を描き出し、その姿を通じて死への洞察を深める作品な訳だが、興味深いのはその奇妙さだ。有り体に言えば今作は「死にたい」「へえ」「死にたい、死にたい」「私も病気でもう死ぬらしいから、死にたいです」「じゃあ一緒に死のう」「死にましょう」「やっぱ死ぬの止めよう」「止めましょうか」「やっぱり死のう」というのを延々と続ける作品とも言える。これは下らないと言えるかもしれないし、私自身下らないと思うが、死という存在への心の揺らぎは得てして、端から見ればこのような下らない物ではないだろうか。だが下らなさを下らないままに演出しては本気で受け取ってもらえないのを、ハウスナー監督は執拗に作り込んだ格調高き世界とそこに巣食う虚無によって、この下らなさに異様な説得力を持たせる。"Amour Fou"は迂延も迂延でありながら、だからこそ奇妙なほど魅力的な死への道筋としてスクリーンに刻み付けられる。[B+]