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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

デヴィッド・ゴードン・グリーン&"All the Real Girls"/侘しい冬の日に灯る愛は……

長編デビュー作George Washingtonが世界中の映画祭で上映され、トリノ国際映画祭やニューポート国際映画祭では最高賞を獲得するなどして、デヴィッド・ゴードン・グリーンはその年最高の新人作家として大いに祭り上げられることとなった。そんな彼の元には様々なオファーが殺到するようになるが、彼が次回作として選んだのは大学時代から盟友ポール・シュナイダーと共に暖めていたとあるラブロマンスだった。彼らはこの原案を元に脚本を執筆、興味を持った大手スタジオSony Pictures Classicsのサポートを得て、3年越しに念願の第2長編“All the Real Girls”を完成させる。だが今作は彼らの熱意とは裏腹に、酷く歪んだ作品になってしまったと言えるだろう。

今作の主人公は青年ポール(「ベイビー・メイク 私たちのしあわせ計画」ポール・シュナイダー)、彼はうらぶれた田舎町で親友であるチップ(この世の外へ クラブ進駐軍シェー・ウィガム)たちとつるみ女遊びを繰り返す、そんな若さを浪費するような日々を送っていた。だがある日、チップの妹である18歳のノエル(「我が家のおバカで愛しいアニキ」ゾーイ・デシャネル)が町へと帰ってくる。ポールは不思議な魅力を持つノエルに惹かれ始めるのだが、彼に対してチップは良い顔をしない。

グリーンのデビュー長編George Washingtonが終らない夏の物語ならば、この“All the Real Girls”は短すぎる冬の物語と言えるだろう。舞台となる田舎町は緑の掻き消えた枯木の山に周囲を囲まれた場所で、前作の町とはまた微妙に違ううらぶれた佇まいを呈している。名も知らぬ何かの残骸が散らばる空き地、壊れたオルガンが放置された路傍、寒々しい灰色に染まった川の水……撮影監督ティム・オールは見ているだけで息が白くなってくるような冬の侘しい光を、この町には宿していく。

だが世界には寒々しい様相が広がろうとも、ポールたちの愛はだんだんと熱を増していく。女遊びにかまけていた彼はノエルの中に真実の愛を見出だし、ノエルも少しずつ彼が見せる愛を受け入れ始める。それに対しポールの素行を知るチップは激怒し、2人を引き離そうとしながらも彼らは離れることがない。2人だけの空間で互いに秘密を打ち明けあい、静かに唇を重ねあう。

George Washingtonに濃厚だった詩情が影を潜めている代わりに、今作においてグリーン監督は物語性に重きを置いている指向が映画全体から伺える。カメラの動きや過度に錯雑な編集を抑えながら、彼は物語と詩情を上手く溶け合わせようとしており、それはある程度成功していると言えるだろう。ポールとノエルがボーリング場へと赴き、レーンの上にまで足を踏み入れ愛を囁きあう、そしてポールが間抜けで微笑ましい踊りを披露するシークエンスには得も言われぬ多幸感が存在している。

が、今作にはそういった陽の側面だけでは説明しきれない不気味な感触すらも宿っている。その源の1つはポールがつるんでいるグループだ。彼らは酒を酌み交わし、猥談に花を開かせ騒ぎ回る存在だが、彼らは正に典型的なホモソーシャル的な集まりだというのが分かる。グループを繋げるのは女性蔑視的な価値観だ。ノエルがそこに居ない時、ポールは友人のバスト・アス(「ピザボーイ 史上最凶のご注文」ダニー・マクブライド)と彼女について話すのだが、彼が“あいつ良い乳してるよな”というとポールは満更でもない表情を見せる。他にも“喜びすぎて泣くなんて、俺って女々しい(pussy)奴だよな”という会話が繰り広げられたりと、節々に彼らの価値観が浮かび上がる。そしてチップの存在も特徴的だ。ノエルを“1人の人間”と見なさず“自分の妹”であると見なし続け、彼女を縛ろうとする強権的な存在としてチップは描かれていくのだ。

そうした観点から今作を見ると、詩情は反転を遂げまた別の構成が浮かび上がってくる。ある事情から故郷に戻ってきた女性が男性の幻想を投影される姿を描き出している作品のようなのだ。ここで注目したいのはノエル役のゾーイ・デシャネルである。彼女が主演している「(500日)のサマー」アメリカのロマコメ映画における“マニック・ピクシー・ドリーム・ガール”論争の中心的作品でもあるが、ここで問題となっているのは女性キャラが男性の幻想を投影するための充足装置でしかないということなのだが、今作と「(500日)のサマー」などと異なる点は、後者が個人の視点に依っていた一方、前者はホモソーシャルという共同体の視点から幻想が投影される様が描かれる点だ。その様にはジェフリー・ユージェニデスによるヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」に見られたような共同体が否応なく内包する不気味な感覚が宿っている。

だがここで致命的なのは、では作り手がそのホモソーシャル的な価値観を批判しているかと言えばむしろ逆で、グリーン監督自身はこの価値観側にいるということだ。物語が進むにつれ、ポールとノエルの愛は熱を失い、別離の予感が彼らを包み込むようになる。この時物語はポールの心に寄り添うゆえに、ホモソーシャルの醜さを鑑みれば独りよがりとしか思えない苦しみが頗る詩的な演出で描かれ、自己憐憫と自己耽溺が凄まじく濃厚となっていく。それゆえ逆説的にホモソーシャルの醜さが忌憚なく生々しく描かれるという側面もあるにはあるのだが、これは批判精神から来ているものではないと終盤で分かる。

ラスト、共同体の不気味な存在感を描いていた作品は、ポールとノエルの個人的な問題へと収斂していってしまう。そしてポールは別れを受け入れ、ノエルは彼の元から去っていく。これもある意味では幻想からの解放と取れるのだが、ノエルが向かうのは先に“あいつ良い乳してるよな”と言った件のバスト・アスの元なのだ。つまりノエルはポールから解放されながらも、ホモソーシャルからは完全に解放されることはなく終わるのだ。それでいて独りになったポールは辛い経験で成長しました的な良い話風の終わり方をしてしまう。いや、いやいやこれは完全に問題があるだろう、色々な問題を完全に投げっぱなしにしてしまっている。“All the Right Girls”は詩的なロマンスを描こうとして、その致命的な欠陥に気づけていない作品だ。それでいて監督の意図しない所でホモソーシャルの実体の一端をも描き出してしまっている歪な様相が広がっている。

最後に記しておきたいのは俳優陣についてだ。前作George Washingtonから続投のポール・シュナイダーゾーイ・デシャネルシェー・ウィガム、そしてダニー・マクブライドという現在一定の立ち位置を獲得している俳優たちが揃いも揃ってここで共演を果たしている。特にゾーイ・デシャネル「あの頃、ペニー・レインと」で既に有名ではあったが、今作でマル・デ・ラ・プラタ国際映画祭の女優賞を獲得、これを期にブレイクを果たすことになるなど、彼女にとって本作はとても重要な作品だ。

更にグリーン監督の今後を鑑みるにあたって注目すべきはダニー・マクブライドの存在だ。彼はジェームズ・フランコジョナ・ヒルジャド・アパトーらとつるんで映画を作る、いわゆるアパトーギャングの一員でもあるが、グリーン監督が後に「スモーキング・ハイ」「ピンチ・シッター」などコメディ映画を作るようになるきっかけの1つには彼の存在がある。少し経緯を説明すると、ゴードンとマクブライドはノースカロライナ美術学校時代から付き合いで、コナン・ザ・グレートのようないわゆる"剣と魔法使い"ものの映画が好きなことから意気投合したのだという。そしてマクブライドは"All the Real Girls"で俳優デビューを果たし、ここから彼はアパトーギャングに接近していき後に「スモーキング・ハイ」ひいては彼ら流の"剣と魔法使い"ものである「ロード・オブ・クエスト ドラゴンとユニコーンの剣」へと繋がる。更にマクブライドがクリエイターを務めるドラマ作品"Eastbound & Down""Vice Principals"でゴードンは製作&エピソード監督を担当、今後は「ハロウィン」の再リメイク映画を製作予定など蜜月は今でも続いている。この辺りの繋がりについては追って詳しく記して行きたいと思う。

参考文献
http://www.avclub.com/article/david-gordon-green-and-paul-schneider-13799(グリーン&シュナイダーのインタビュー、かなり調子乗ってる感がある)
http://www.popmatters.com/feature/green-david-gordon/(グリーン&シュナイダーのインタビューその2)
http://www.believermag.com/issues/200611/?read=interview_green(グリーン長文インタビュー)