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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

焦点合わず~Andy Bausch"La Revanche"と価値の問題 by Gérard Kraus

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さて、ルクセンブルク映画である。以前、私はルクセンブルク映画批評家であるGérard Krausによる、ルクセンブルクで最も有名な映画作家の1人Andy Bausch アンディ・バウシュの代表作"Le club des chômeurs"の批評記事を翻訳し、紹介した。その後、彼に他にルクセンブルク映画について英語で批評を書いていないかと聞いたところ、Forumという雑誌に掲載された批評を紹介された。それは同じくAndy Bauschが監督した作品"La Revanche"という映画の批評記事だった。そして何と今作は"Le club des chômeurs"の続編的な作品だそうではないか。正に翻訳する価値があると思われた。ということで今回はGérard Krausによる批評記事の翻訳をお送りする。批評自体も、前述した"Le club des chômeurs"の記事の続編として読んでもらえれば幸いである。それではどうぞ。

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ルクセンブルクのトップ映画監督であるAndy Bausch アンディ・バウシュが作った最新作"La Revache"ほど議論を起こした新作映画はない。大衆と批評家の反応は最低でも2つに分かれ、人々の多くは映画を観るべきかどうか悩んでいる。今作はルクセンブルク映画の1本に加わりながらも、問われる問題として、そうして加わったことで兎にも角にもどうなるのか?ということがある。私は"La Revanche"が"良い"映画かそうでないかの議論に参加しようとは思わない。だが今作がルクセンブルクの文化的生活やアイデンティティにどんな価値を持つかにこそ興味があるのだ。

"続編でありながらそうではない"とAndy Bauschが言う通り、今作の前編である"Le Club des chômeurs"は全てが少しだけ異なるオルタナティブな世界で展開しているように思われる。主人公であるジェローム"ジェロニモ"クライン――演じるはThierry Van Verweke ティエリー・ヴァン・ヴェルヴェケ――は金もなく恋人もおらず職すらもない人物から、同じく金はないが結婚した、職業紹介事業で働く社会人となった。彼の妻テシー――演じるのはSascha Ley サッシャ・レイ――は語学学校を経営しており、そこではテレサという教師が働いている。彼女は前編でアンジーの恋人を奪った人物だ。Andre Jung アンドレユングFernand Fox フェルナンド・フォックスは前作の役を再演しており、Jungのセオドアは今キャバレーを経営しており、後者は無効退職という身分を謳歌している。Mr.ボブという残酷な銀行員タイプの男は(前作のキャラクターである)フルンヌの双子のきょうだいであり、Marco Lorenzini マルコ・ロレンツィニは両方を演じている。彼らに加わるのはCartouche カルトゥーシュという俳優が演じる無駄にうるさいティトーと、Fani Kolarova ファニ・コラロヴァが演じる彼の恋の相手であるナターシャだ。

"La Revanche"におけるメディアでの議論は苛烈なものであり、映画に疑問を抱かせるほぼ全てのものはルクセンブルクの新聞で取りあげられている。美学的に鍛えられた批評家たちはミザンセンのなかに問題の数々を見出している。映画言語に詳しくない者たちは前者の視点を模倣し、そこに自分の意見を付け加えている。ベネルクス地方の映画についての最新の本から引用してみる。

"(ベネルクスという)低地の映画史は自己欺瞞で溢れている。その言説は不平という文化によって支配されている。低予算、観客の興味のなさ、不十分な専門知識と無能さ、サポートの欠如(民間企業から国まで)、政治的介入、倫理的な心配、美学的な失敗、そして文化的な今日性のなさ、そういった不満の数々である。それらは産業自体から来るだけでなく(中略)観客、地方の理事会、政府、そしてプレスからも来ている。低地の映画群は常にそうした不安の大いなる歴史的な(そして時事問題的な)重荷とともに他の映画と競わなくてはならないようだ"

(この著者の)Ernest Mathijs エルネスト・マチスが嗅ぎつけたのは"La Revanche"と、その前には"Le Club des Chômeurs"が直面し、ある意味で体現していたことなのだ。"La Revanche"に関して悲しいのは、当初はその反映でありながら、プロット的毒気への、漫然とした様々な間投詞によって、その緊張を失っていることだ。

映画に対する批評的な受容から現れたのは、今作の目的や対象に対する一般的困惑である。その中でも最初の映画の成功から金を稼ぎだしたいというハリウッドの伝統を思わす欲望を指摘することもできるだろう。それはBausch自身がインタビューで示唆している。もし続編を作ること自体が目的だったなら、おかしいことになっている。主な登場人物を除き、前作との繋がりはほとんどない。言及とカメオ出演を除くなら、スポンジは"Le Club des Chômeurs"のラストシーンがお膳立てしたものを綺麗にするために使われたようである。Myriam Muller ミリアム・ミュラーChristian Kmiotek クリスティアン・クミオテックLuc Feidt リュック・フェイトが出演しないことについては説明されないし、語りにおいて仄めかされもしない。Bausch自身も今作が続編と言えるかについては悩んでおり、登場人物は同じでありながら異なる文脈の中にいると発言している。テーマと登場人物の行動理由、その行動の数々は少しだけ表に現れた後、すぐに跡形もなく消えてしまう。その例としてはジェロームが彼の好きなネイティブ・アメリカンについて1度しか言及しないこと、アッベが彼の年金について話そうとしないこと、セオドアがARBED(ルクセンブルクの鉄鋼会社)の長い話を短く語ることなどだ。

文脈について語ると、これに関して少し目を通したなら私たち自身をどこにいるかについての手がかりが幾つか見つかるだろう。ASジュネス・エッシュ(ルクセンブルクのサッカーチーム)のピッチで伝統的な"Grenzer Terrain"が流れる時、私たちは前作が描いた同じルクセンブルク南部に自分たちがいることが分かるだろう。しかし私たちはすぐさまルクセンブルクの灰に染まった都市部、キルヒベルクという拡大途中の金融街に移動することになる。前作の中心的テーマだった鉄鋼街での出来事とは全く関係がない場所だ。

ここからある者は映画に通底するテーマの外観を嗅ぎとることだろう。Van Wervekeのキャラクターであるジェロームは唯一最初の映画から続いている存在として見ることができる。彼の根源はミネット地方にあり、"La Revanche"は新しい状況と対峙する人々に関して彼が抱く問題を描いている。ジェロームは剥き出しのユーモアセンスを見せ、粗暴な言葉を話す唯一の登場人物だ。だが彼をめぐる状況は変わってしまっている。セオドアは今やオーダーメイドに身を纏い、キャバレーを経営することに忙しい。犯罪者としての過去に舞い戻るのは金に逼迫した時だけで、彼はある意味尊敬すべきビジネスマンに変わってしまったのである。アッベは恋に落ち、フロラと移民であるという理由で生まれた彼女のジレンマを労わっている。ジェロームに婚約を告白した時、アッベは彼からこの登場人物に期待したいだろうマッチョな発言、女性は"乳と尻みたいな存在"だという発言を喰らう。ここで現れるのはジェロームが変化に対処できないことと、彼をめぐる新しい社会的文脈だ。他の人物は進歩していっているのに、ジェロームだけは最初の映画の地点に留まり続けているのである。これは"国宝ティエリー"というVan Wervekeが公共において愛おしく体現する概念をめぐる性格/ペルソナ、繋がり/神話に関連するのか、それとも脚本家3人による慎重な努力に関連するのかは推測するしかない。

この疎外に関する2つ目の例はジェロームとセオドア、アイメが融資会社におけるビジネス用語の集中砲火に晒される場面に現れる。ジェロームの反応は完全な否定であり、彼は"クニュタンジュ出身のこの2人とは時間を過ごしてこなかった"というのを示している。

もしある者が主な登場人物を監督とつなげるなら、アクションやその反応の意味はBauschが他の世界に手を突っこんだような形で読みとれるだろう。すなわちコンクリートとガラスに包まれた、灰色のアーバン・ジャングルであるキルヒベルクによって表現されているような形で、である。"Le Club des Chômeurs"ケン・ローチピーター・カッタネオ(フル・モンティの監督)、マーク・ハーマン(ブラス!の監督)らの社会的リアリズムを模倣しようとした者にとって、続編を作ることのプレッシャーがその対象から逸脱しようと思わせたのかもしれない。

国的なスケールで結ばれる2つの考えは50、60年代に現れたARBED以降のルクセンブルク、成長するEUによる自由化の波に脅威を感じるこの国の住民たちが感じている一般的な不安を指し示しているように思える。

Bauschのルクセンブルク映画界におけるキャリアに塀の外と中をめぐる映画"Troublemaker"や関連作"Back in Trouble"があることを考慮した時、"Le Club des Chômeurs"における開かれた語りを続けないという彼の決意は論理的に思える。物語を続けたなら彼をとても親しみのある道に戻すであろうし、その美術的決意は理解できるものだろう。他方でこれによってより未知の地平で考えをめぐらせる必要がある。Bauschはドイツのリューベックに住んでいるが、それは問題や自国における成りゆきに関わり続けることをサポートしない。Bauschはこの国の映画文化について、この国の言葉で遠慮なく発言する数少ない人間の1人だ。これは文化庁長官Francois Biltgen フランソワーズ・ビルトゲンが体現する政府の主要な関心ごとのようには思われない。Biltogenは"カチュケイス"(ルクセンブルクの有名なチーズ)的でない映画、例えばホテルや他のビジネスが、キャストやクルーから利益や、私たちの国の街やその道を闊歩する映画における人気の人物という特権を得たりできない作品のためには動かない人物です。これはルクセンブルク表象の伝統や、内容や価値をめぐる収益性において立脚しているように思われる。

最初の映画からのもう1つの注目すべき変化は異なる文化の表象である。最初の映画においてはCamilo Felgen カミロ・フェルゲンの神父が体現していたが、今回は私たち自身が多文化主義の中心にいるように感じることができるだろう。ブラジルと中央ヨーロッパのダンサーたち、フランス人のサッカー選手や銀行家、ラテンアメリカ人のスポーツスター、中国人やフィンランド人の店員などなど。"Le Club des Chômeurs"ポルトガル人移民や彼らをめぐる世代の表象において外国人差別的と見做されたが、今作でもそういった物を多く見られる。脇役のステレオタイプ化やCartouche演じるティトーの安い性格づけは簡単に認識することができる。しかしそれ以上のことは彼らに成されず、かといって鋳型も破られることはない。ナターシャは教師からダンサーになったフランス人として予想通り賢く、ティトーは少しばかり暗いスポーツマンで、他の外国人が被る肩飾り的な存在感に言及されることはない。イエスやMr.ヘン、そしてルクセンブルクの若者にとってのカルチャーアイコンThorun ソルンが演じる過剰にウザったい人物は形式的に外国人たちを良い混在具合にする。だがより酷いのはMr.ボブのタフな部下で、彼は攻撃的なバルカン半島のヨーロッパ人というステレオタイプに収まってしまっている。それ故に多様な文化や民族性、人種において魅力的と見做されるものは、良かれ悪かれパロディのように見えてしまう。

これら全ての要素に他のものも合わせ、"La Revanche"ルクセンブルクの映画ファンドを再考するきっかけになるべきではなかったと思う人物もいるだろう。開発途中で映画を助ける時により大きな強調は必要ないのか? 大衆から現れた今作への批判は脚本が酷いだとか、映画にする価値がないといったものである。そういったプレッシャーが大衆からかかってきながら映画は結局予算を得たのである。上映の後、同じ問題が叫ばれた。早い段階からサポートは割り当てられるべきではないのか? 専門家の理事会や映画の理論家から建設的な批評を受ける可能性はないのか? もしBiltgenの映画に関する"国際的な興味"という考え、"強靭で普遍的な物語を語る脚本"を基とする映画という考えはルクセンブルクの映画産業を確実に成功させるだろうし、政府はより強いコアを持った映画、つまりはより強い脚本を執筆するための方法論やシステムを作り始める手助けをする必要があるだろう。

オリジナル:"Out of Focus~Andy Bausch’s La Revanche and the question of value" by Gérard Kraus on Forum No.242 December 2004

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