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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ブリュノ・デュモンの"France"を観て、共感について考える

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ブリュノ・デュモンの"France"を観た。最初はすわコメディ版「ハデウェイヒ」か?と思ったが、最終的にはそれ以上の作品に思えた。ある人間存在の精神というものが一線を越える。これはデュモン映画のお約束だが、今回はふてぶてしさとグチャグチャさを行きかうレア・セドゥの顔面を通じて描き、その果てに現れるのは"白人の業"としか言い様のない代物だった。よくもまあ、こうも共感と反感を反復横跳びする、底知れない、薄気味悪いコメディ、白人映画が作れるわと思わず関心してしまった。

だがその薄気味悪さすらも越えて、最後にはそれでも生きていかなくてはならない人間への葬送曲として響くのが感動的だ。デュモンにしろ、ミヒャエル・ハネケにしろ、その直弟子ミシェル・フランコにしろ、彼らの作品を観ると"原罪を背負ってでも、お前は生きていけ!"と背中を蹴り飛ばされるような気分になる。そうして生きていこうとすら思える、悲愴な勇気をもらえる。本当にかけがえがない。

そして今作を観て思い出したのは、ある日本の批評家がカラックスの"Annette"を絶賛して"共感を拒む"みたいなことを言っていたことだ。全く安易でぬるいことだと思った。以前私はTwitterにこういう風なことを書いた。つまり、共感という言葉はその可能性が十分に探求されないまま批判されているとしか思われない。例えばブレイディみかこのようにシンパシーじゃなくエンパシーという風に、みだりに外来語を借用するのは頂けない(そもそも息子を自分の芸術のダシにする態度には吐き気を催すが)もっと善き方悪しき方、双方における共感の可能性をもっと見据えるべきだ。悪役と単純に見做す風潮には乗れない。

こういう意味で"共感を拒む"みたいな言葉が誉め言葉として扱われるのは、あまりにぬるいことだ。共感という概念への、安易で無思慮な考えが露になっている。人だとか、外界だとかと繋がりを絶つ、つまり断絶というのは、破壊と同じだ。簡単すぎるのだ。この断絶や破壊が現実だと冷笑主義虚無主義に陥る芸術家や批評家を、私は唾棄する。そしてそこから逃げることなく、何度裏切られようと繋がりを探求することが今は重要なのだと、私は思い始めている。共感という概念はその縁になる。

共感、ナイーブ、甘い。そういった人間の弱さを示す言葉たちが、一種の悪として扱われることには反対したいし、凄まじく危険なものだ。優等生的という言葉もそうなのだが、私はこういった言葉にこそ、繋がりを求める人間の弱さの複雑微妙さを見てしまうのだ。受けいれるべきしなやかさ、豊かさとして改めて使いたいし、解釈したい。これらを否定するのは、自己責任を要求し、強さに与しなければ、与できなければ生きる価値はないと弱者を切り捨てる社会へのケツ舐めでしかないのだ。ある芸術を"共感を拒む"という言葉で称賛することは、結局ここに繋がってくる。

そしてここからは"France"を観た時にまた更に考えたことである。しばらく繰り返しになるが、共感を拒んだり、共感を悪者にするのは全く簡単だ。だが人間はどうしても何かに共感してしまうし、共感を求めることが悪であるべきでない。だから私は"共感できないからこれは良くない"という芸術への感想と、それに対する"それはおかしい"という反論において、むしろ後者の方にこそ胡散臭さを覚える。何故ならこれを悪と、おかしいと見做すのは己の弱さを否定してしまう、強さへの傾倒を生んでしまうことだと思うからだ。だから共感を否定せず、しかしそれを御すること、共感への知を深めること。これがまた重要となってくる。

その意味でデュモンの"France"は示唆的だった。レア・セドゥの演じるフランスほど、共感と反感の両方を交互に、極端な劇的さで感じさせる人物は少ない。TVの人気司会者として栄華を誇り、やらせも辞さない傲慢さを持ちながら、交通事故を起こした際には本気で動揺し、被害者やその家族と交流する中で己を反省し、司会者も止めるほどになる。だが周囲の無思慮な反応の数々に悪い意味で吹っ切れ、司会者へ復帰した後には更なる傲慢を見せる。戦地で炎上する乗用車の前で、彼女は笑顔を浮かべながら、腰を振って楽しそうに踊る。本気で不愉快になった瞬間だ。それでいて様々な感情的修羅場をくぐりぬけた後、とある地方のロケ地を訪問中に、ふと立ち止まってどうということのない風景を見ながら「ああ、何かきれいだな」と彼女が思わず言ってしまった時、私は本当に深い共感を覚えた。適当に道を散歩している時、夕日を見て何となくきれいだなあと思ってしまう瞬間、それを私は思い出してしまったからだ。

先ほども書いたが、この"France"という作品は白人の業を描いた、薄気味悪い映画だ。それなのに私はレア・セドゥ演じるフランスに私は反感だけでなく、共感すらも抱いた。そして気づいたのは私は芸術家として、この共感と反感の危うい狭間にこそ近づきたいということだった。人間とは誰しも完璧な共感の対象、完璧な反感の対象とはなり得ない。人生においてこれは混じりあう。だが人生を芸術として描こうとすると、どこか一部分を切り取らざるを得ず、描かれるのは人間であるのに、完璧な共感の対象、完璧な反感の対象に堕してしまう。だが芸術家としてそここそ避けなければならないものだ。何故なら2つの狭間、そこにこそ人間存在という糞便が現れるのだから。ゆえに私はカラックス"Annette"の安易な共感の放棄よりも、デュモンの"France"のこの突き詰められた糞を推す。

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