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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Bogdan Theodor Olteanu&“Mia își ratează răzbunarea”/私は、傷ついてもいいんだ

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razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
監督のデビュー長編についてはこちらを参照。

今年の4月、ルーマニアの鬼才監督Radu Jude ラドゥ・ジューデのベルリン金熊受賞作品「アンラッキーセックスまたはイカれたポルノ」aka “Babardeală cu bucluc sau porno balamuc”が日本公開される。今作はセックス動画が流出した女性教師がめぐる狂騒を通じて、コロナ禍真っ只中のルーマニアを描きだす意欲作だ。だが今回紹介する作品はこれではない。実は今作製作の前年に、同じくセックス動画をテーマとしたルーマニア映画が作られていたのだ。「アンラッキーセックス」ルーマニア社会そのものにより焦点を当てた映画なら、その作品はよりパーソナルな心理模様を描きだした1作とも言える。という訳で今回紹介するのはルーマニア映画界期待の新鋭Bogdan Theodor Olteanu ボグダン・テオドル・オルテアヌの第2長編“Mia își ratează răzbunarea”だ。

今作の主人公はミア(Ioana Bugarin ヨアナ・ブガリ)という若手俳優だ。彼女は恋人のテオとド派手に喧嘩をし、ビンタされた挙げ句に別れることになってしまう。これについて母親(Maria Popistașu マリア・ポピスタシュ)や友人たちに愚痴を吐き散らかすのだったが、テオへの復讐としてあることを思いつく。それは行きずりの男たちとセックスしまくり、そのファックを撮影してやるということだった。というわけでミアは男を漁り、セックスしようとしたところでハメ撮り撮影を提案するのだったが、誰も彼もまずそれに困惑したかと思うと、セックスすらも拒否し始める。その態度が更にミアを苛立たせ、カメラを片手に彼らを罵倒し、煽りたてていくことになる。そして彼女は撮影を強行していく訳だったが……

この作品が描きだすのは、そんなアグレッシブなミアの迷走ぶりを描きだしたドラマ作品だ。彼女は男を漁りまくって動画撮影に打ってでる一方で、友人たちと酒を呑みながらお喋りを繰り広げたり、参加している舞台の稽古を行ったり、ブカレストで開催されたプライド・パレードに赴いたりする。今作はそんなミアの姿を通じて、今を生きるルーマニアの若者たちの姿を活写した作品であるとも言えるかもしれない。日本人から見ればとんでもなくアグレッシブという感じだが。

私は日本の誰よりもルーマニア映画を観てきている自負があるが、その過程で思ったルーマニア映画の特徴として、とにかくセリフ量が多いというのを挙げたくなる。老若男女問わず、映画の中のルーマニア人は喋りまくる。饒舌を突き抜けて言葉をブチ撒けまくる。それがただのお喋りの時もあれば、凄まじい口論の時もある。今作のミアたちも同様で生活の話からどのルーマニア人映画監督とファックしたいかみたいな他愛ない下ネタ、演技論からセックスについての真剣な対話まで、観客の頭がルーマニア語で埋めつくされる。ここはある種、ルーマニア映画を観る時の醍醐味でもある。

ここにおいてAna Draghici アナ・ドラギチによる撮影が面白い形で作用している。まず彼女はカメラを固定し一切動かさないまま、静かな長回しによってミアたちの姿を捉えていく。目前で繰り広げられる出来事を一瞬すら見逃すまいという風な気概すら感じられる、不動の観察眼がショットの1つ1つに宿るようだ。それは洪水さながら荒れ狂うルーマニア語の響きとは真逆の演出となっている。Draghiciの撮影に導かれ、私たちはミアの破天荒な行動の数々を静かに見据えることになる訳だ。

だが時折、ミアが所有するカメラ視点での映像が挿入されることともなる。先述の冷えた観察とは一転して、アマチュア的な手振れが目立つ映像はミアが感じている空気感を直接反映するかのようだ。くだらない下ネタで場が熱くなる、男とだけ部屋を共有する時間には親密さと居心地悪さが同時に染みでる。そしてミアが鏡に向かってカメラを向けたった独りで言葉を紡ぐ時、そこには孤独が豊かに立ち現れる。こうしてDraghiciは即物的な観察と心理主義的な表現を平行して行っていくことになる。

ミアという女性は頗る反抗的で、気の強さも相当なものだ。ハメ撮り撮影の際には男に喰ってかかり、口論を繰り広げる。自分のことを思ってくれる友人に対しても、自分の心に土足で踏み込んできたと思えば、ブチ切れることも辞さない。そのせいで彼女は常に不安定だ。これを象徴する場面がある。ミアは1人の男性と一夜を共にするが、朝起きた際に彼にハメ撮り撮影を持ちかける。馬鹿にされたと思った男性は彼女を帰らせようとするが、ミアは彼を罵り、自分から尻を突きだしてファックしろと煽りたてる。頭に血が上った男性はペニスを露出し挿入を試みるが、うまく勃起しないまま事はうやむやに終わってしまう。ここに現れるのは男女間における力関係とその絶え間ない反転、同意のあったセックスがレイプへと振り切れていく不穏さ、セックスを撮影するという行為が必然的に持つ暴力性だ。そしてこの後、ミアは独りの部屋で鏡にカメラを向けながら、自分の本心を吐露する。あんなことしたけど、本当は私も怖かったと。

最近のルーマニア映画に顕著になってきたテーマの1つが、被害と加害の間に存在している曖昧な領域だと私は考えている。2021年製作のAlina Grigore アリナ・グリゴレ監督の“Crai nou”(レビュー記事はこちら)を例として挙げよう。今作は強権的な親族に支配される人生を送ってきた女性が主人公だ。彼女はあるパーティで1人の男性と出会い、翌日自分が彼とセックスしていることに気づくが、泥酔ゆえに記憶が全くない。この同意なきセックス/レイプにおいて、女性は間違いなく被害者だろう。だが女性はこの事実を利用し男性を脅迫、親族の元から逃げるために彼の罪悪感を搾取していく。今作は家父長制に踏みにじられてきた女性が、被害者という現状を脱するために他者への加害を行い、自身が加害者になっていく様を忌憚なく描きだしていく。この社会で生き抜くためには自分が加害者にならなくてはならないのか?という問いをもこちらに突きつける。

今作もある面でミアは間違いなく被害者だ。別れ話の際にテオはミアに対してビンタという暴力を振るい、その記憶が彼女を苛み、セックス動画の撮影へと駆りたてていく。更に舞台の稽古の際にも、演出家がエロさが足りないとミアを含めた女優たちの衣装に文句をつけていく、そんな様が冷たい長回しで描かれていく場面がある。こうして生活のなかで彼女が性差別の被害者になっていく姿が頻繁に映しだされる。それでいて彼女が男性たちの同意も満足に取らず、セックス動画を撮影しようとするというのは明らかに加害行為だろう。ミアは被害者という立場から脱却するため、他の人間に対して加害を働くことになる。その様は“Crai nou”の主人公とよく似ている。そしてミアは冷静になり、己の行動を振り返るにあたり恐怖について吐露する。この恐怖とは正に被害と加害の間に存在している曖昧な領域、ここにこそ根づく恐怖なのだ。

だがそもそもミアがセックス動画を撮影しようと思った動機というのが何かといえば、それは元恋人であるテオへの復讐だろう。だが実際に何故そのセックス動画が彼への復讐になるのか、そういった理由は一応ミアから溢れでる言葉のなかに見出だせるかもしれないが、決定的なものがそこには欠けているといった印象も抱くはずだ。そして彼女の自暴自棄なまでの邁進ぶりには“自分が傷ついている”という現状から必死に目を背けようとしているのではと思える瞬間がある、彼女は自分の弱さを認めたくないとでもいう風に。

監督はそんなミアの姿を時には冷徹な観察を以て、時にはその不安定な心情をそのまま反映したような震えとともに描きだしていく。ここで重要になってくるのは、やはり言葉なのだ。ミアは母や友人たち、男たちと何度も何度も対話を果たし、止めどなく自身についての言葉を紡いでいく。それは見境なく、時には危険で、だからこそ感情に満ち満ちている。これによって彼女はセックス動画の撮影とその理由、つまりは復讐とその理由を手探りで見出だそうとするのだ。私が感動したのは、そうしてミアの行き着く先が“自分は傷ついてる、自分は傷ついてもいいんだ”と弱さを受け入れるというものだからだ。これがミアにとっては、自分が被害者でもあり加害者でもあるという事実にケリをつけるということだからだ。

今作の題名である“Mia își ratează răzbunarea”は、ルーマニア語で“ミアは復讐が恋しい”ということを意味している。復讐とそれによって生じた心のうねりを肯定も否定もしない、いや肯定も否定もする、何にしろどんな可能性も切り捨てることはなく、曖昧なままで受けとめる、そんなミアの感慨が現れたような題名だ。題材自体は頗る過激なものでありながら、今作はそうして性や愛への割り切れなさを抱えて生きていくことについて教えてくれる1作なのだ。

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