鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Petna Ndaliko Katondolo&“Kumbuka”/コンゴ民主共和国について語る時、私たちが語ること

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Joris Postema ヨリス・ポステマというオランダ人監督がコンゴ民主共和国を舞台に“Stop Filming Us”という作品を製作した。今作はコンゴの現状を映し出したドキュメンタリー作品であり、世界の国際映画祭で評価されることになる。だがこれを疑問に思ったのは他でもない、コンゴ民主共和国に生きる映画作家たちである。彼らはこの作品をコンゴの現実を映し出しておらず、ステレオタイプ的考えを助長すると考えた。よくある西欧諸国によるアフリカに対する植民地主義、そのクリシェという訳である。

この抗議を聞いた製作側は映画作家たちにフッテージ映像を提供、これを使って彼らはこの映像を使い、どのようにすれば自分たちが実際に目の当たりにしている現実を描きだせるかに思考を巡らせることになる。そんな若手作家たちの相談に乗っていたのがこの国で映画製作や教育を行う人物Petna Ndaliko Katondolo ペトナ・ンダリコ・カトンドロだった。彼らとともに映画を作る最中、Katondoloはある計画を思いつく。この製作過程自体を映画にしたらどうだろうか?と。そうして出来上がった作品が、Katondolo自身の監督作“Kumbuka”である。

先述通り今作は2人の若手作家が、どうすれば自分たちが見ているコンゴ民主共和国の現実を提示できるか?を探求する様を描いており、そこには様々な映像が現れることになる。例えば2人が映画の計画について会話を重ねる姿、師であるKatondoloに意見を求める姿などだ。そしてこの最中に彼らが観る映像も“Kumbuka”自体に組み込まれていく。Postemaたちが撮影したフッテージ映像は勿論のこと、コンゴ民主共和国が植民地であった頃、宗守国であるベルギーが撮影した古いドキュメンタリーも挿入される。それは動物の生態ドキュメンタリーさながら、コンゴの部族の文化を紹介するという、相当に帝国主義的な色彩を持ち、観ているとかなり居心地の悪い気分にならざるを得ない。だが2人はこれを見据えながら、コンゴの歴史や文化についての考察を重ねていく。

だが考えを重ねるうちに、彼らもだんだんと途方に暮れ始める。もはや自分たちが何を作ればいいのか分からなくなり、その感覚が“Kumbuka”の妙な纏まりのなさにまで表れていくのである。だが2人はその果てにある新しい問いに辿りつく。自分たちは“Stop Filming Us”という作品が西欧諸国によるコンゴ民主共和国クリシェ的な作品だと思った、でも何故ここに描かれるもの、もしくは描かれ方をクリシェと感じたのか? こうなってくると“Kumbuka”は俄然面白くなってくる。今作はつまり人間の認識、もしくは知覚そのものに深く潜航し始めるメタ認知的な領域に入り始めるからだ。そしてそこに植民地主義や言語の問題、様々な歴史を経て移り変わってきたコンゴの文化も絡みあうことになり、事態は更に、更に複雑となっていく。

私はそこまで多くないがいわゆる実験映画と呼ばれる作品も観てきている。そのなかで時折吐き気を催す類いの作品と出会うことにもなる。例えば、外国のどっかで撮影して、そのフッテージを繋げりゃ実験映画(笑)としか言い様のない代物だ。例えば日本でも有名なベン・リバース&ベン・ラッセの下痢便タッグや小田香といったやつらが撮ってる作品だ。これらは民族誌だか人類誌学的とか呼称されるが、私にとっては植民主義的廃棄物でしない。今作を観ながら、最初はそういった作品に対するカウンター的作品と思った。だが私の予想を今作は軽く越えてきた。

これを観る前に、A.S. バーウィック著の「においが心を動かす」という科学書を読んでいた。嗅覚の研究者かつ哲学者でもある著者はこの本で、量子生物学における最新の科学的知見と、ある意味で真逆にも思える哲学的思考を駆使しながら、嗅覚がいかなる感覚なのか、それによって人間の認識がいかに規定されるのか?を探求する。その明晰さが全く見たことのないほどの精緻さで、読んでいて本当に興奮したのを覚えている。そして同じ興奮を“Kumbuka”に味わったのだ。

若手作家2人が映画の製作を進める過程は、コンゴ民主共和国が人々にとってどう認識されてきたか?という社会的・文化的探求と、そもそもの話としてこういった国という概念に対する人間の認識はいかに培われていったのか?というメタ認知的探求を横断している。この様に、私はまず科学に裏打ちされた思考を見出だしたのだ。

そしてこういったより曖昧な、形而上学的な思考は必然的に哲学へと辿りつかざるを得ない部分があるが、ここにおいてはコンゴ民主共和国に根づく土着の文化がその役割を果たす。2人はこの過程において、コンゴに広がる風景をアーカイブとして残すという活動にも着目するのだが、そこでこんな言葉を聞く。物語は何もされなければ忘れられ、その忘れられたことすらも忘れられる。アーカイブ映像を残すのは、忘れてしまっていたということを思い出すためなのだと。堂々巡りの言葉遊びのようにも思われるが、この言葉から新たな思考が始まり、そしていつしか“Kumbuka”という言葉に私たちは辿りつくことにもなる。

“Kumbuka”という作品においては、コンゴ民主共和国という国を舞台として、科学的思考と哲学的思考が溶けあいながら、現実、もしくはあるイメージへの人間の知覚や認識、その根本が鮮やかな形で問い直されていく。そんな今作が一見すれば支離滅裂で、終わりが何の終わりにも見えないのは全く必然だろう。それすらも引き受ける度量の大きさが今作には宿っているのである。

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