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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Ioana Iacob&“Wir könnten genauso gut tot sein”/ドイツのルーマニア移民たち

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ルーマニア人俳優は、ルーマニア以外でも世界の映画界で活躍している。ハリウッドで大活躍中のセバスチャン・スタンなどはその代表例だろう。他にもドイツのアレクサンドラ・マリア・ララなどがいるが、今同国でも著しく活躍の幅を広げている人物がいる、それがIoana Iacob ヨアナ・ヤコブだ。この鉄腸マガジンを読んでいる方はRadu Jude ラドゥ・ジューデ作品の常連といえば通じるかもしれない。実は彼女はルーマニアとドイツを股にかけ活躍する人物なのだ。ということで今回は彼女が主演を果たしたドイツ映画、Natalia Sinelnikova ナタリア・シネルニコヴァによる監督デビュー作“Wir könnten genauso gut tot sein”を紹介していこう。

今作の舞台となるのはとある高層住宅である。都市郊外の鬱蒼たる森林地帯、その傍らにこの住宅は建設されている。人々は絶対的な安心と安全を求めて、ここに住んでいるという訳だ。中年女性アナ(Ioana Iacob)もまたここに住んでいるが、同時にセキュリティ長として住民たちの平和を日々守り抜くことを使命としている。だが住民の1人であるリヒャルツ(Jörg Pose ヨルグ・ポーゼ)の愛犬が失踪を遂げた時から、その均衡は少しずつ崩壊していくこととなる。

まず描かれるのはアナの過ごす日常である。制服を身に纏いながら、アナは粛々と職務を遂行していく。住民たちへの定期的なアナウンス、来訪者たちのボディチェック、住宅地の見回り、住民たちとの交流など仕事は絶えることがない。そして彼女にはイリス(Pola Geiger ポーラ・ガイガー)という思春期の娘がいるのだが、1つ問題がある。彼女はいわゆる引きこもりで、ここ最近は常にバスルームに籠城しており、その対応に苦慮しているのだ。

だが先述した犬の失踪から、状況が徐々に悪い方向へと転がり始める。愛犬の失踪を嘆くあまり、リヒャルツは幾度となく奇行を繰り広げるのだが、住宅地の平穏を撹乱する不審者を見たとも証言する。セキュリティ長としてその証言を否定するアナだが、その後他の住民からも目撃証言が伝えられ、コミュニティ内には否応なく不安が広がる。事態を妙にややこしくするのがイリスの言葉だ。彼女は自身が“邪眼”を持っており、実はそれが犬を殺したのだととんでもないことを言い出す。この状況下でアナの神経は猛烈なまでにすり減っていく。

今作は建築映画としての趣向がすこぶる際立つものだ。舞台となる高層住宅は清潔で洗練されたデザインを誇り、住民の安全がまず第1であるがゆえに管理は最も行き届き、厳重なものとなっている。こうして安全と憩いが完璧に保証されながらも、どこか無菌的な、安全と居心地よさのトレードオフといった息詰まる雰囲気が広がるのを否定できない。そして外界から隔絶されているという意味で、住宅それ自体が陸の孤島といった様相をも呈していると思える。

これが想起させるものといえば、冷戦時代において東側ブロックの共産国家に存在していた住宅だ。集合住宅の冷ややかな画一性、住むという概念を力任せに圧縮したような狭苦しい感覚。あの時代から数十年が経ち、当然様々な面においてクオリティは格段に進歩しているが、それは住民の管理という側面においても同じなのである。加速度的に発展したテクノロジーによって、管理は激化を遂げているのだ。

この共産時代の住宅という想起は、何も脈絡なしに思い浮かんだという訳ではない。先ほども記した通り、主演であるIacobはルーマニア人俳優で、80年代というチャウシェスク独裁政権末期を地方都市ティミショアラで過ごしていた人物でもある。そして監督であるNatalia Sinelnikovaは1989年のソ連という、共産政権崩壊直前に生まれ、その後7歳でドイツに移住したという過去がある。彼女たちのこうした東側ブロックでの子供時代が作品に反映されている可能性は大いにあり得る。

しかし幾ら厳重に、無菌的な形で住民を管理しようとも、そこは人間である。それぞれの生き方や思惑があり、ただで管理下に置かれるという訳ではない。些細な逸脱、意図的な反抗、そうしたものが積み重なっていき、共同体に混沌や波紋が生まれることは避けられない。それを管理しようとして、むしろ悪化するなど日常茶飯事だろう。そして住民たちはそんな現状に不安を抱き始めるという訳だ。

そこで起きることとは何か? 今作において住民たちは手緩い管理に業を煮やして、自警団を設立することになる。彼らはゴルフクラブを片手に、敷地内を闊歩し、不審者の存在に目を光らせる。当然、アナら管理スタッフへの不信感は相当なものであり、自分たちでセキュリティ設備の増強を図ろうとしたり、スタッフの信任投票なども要求していく。こうしてアナは苦しい状況へと追いやられていくのだ。

この背景には昨今問題となっている、いわゆるゲーテッド・コミュニティの存在があるだろう。住宅地を要塞化することで、外界から積極的に孤絶し、かつ不穏分子を徹底的に排除して、究極の安心と安全を享受する。ここには富裕層と貧困層の断絶など様々な社会的問題が内包されているが、今作においても排外主義が極まった挙げ句、不審者と疑われた人物がリンチされ、即席裁判によって住宅地を追放されるという描写がある。こういった非道な行為の数々が罷り通るようになるのだ。

そして今作が着目するのは人種的な排外主義である。ドイツにおける、ルーマニア含めた東欧移民差別は悪名高いものがある。例えばコロナ禍においては、安い労働力となる彼らを酷使した末、感染クラスタが発生したというニュースも頻発している。更にアナの友人にはトルコ系の人物もおり、トルコ移民はドイツにおける最大の移民グループの1つという意味で排外主義の直接の被害者と成りうる。実際、その人物が自警団の中心メンバーと寝て、家族の安全を確保しようとするという描写も存在する。これはドイツにおける排外主義の1つの現実なのかもしれない。

このテーマの核にいるのがアナ、そして彼女を演じるIoana Iacobという訳だ。アナがルーマニア移民かは劇中で明示されないが、ルーマニア移民というIacob自身の出自は、監督がソ連出身であるということと同じく重要なものだろう。そういった背景を背負いながら、アナはセキュリティ長として冷徹なプロを貫こうとする一方でこの職務のあり方に疑問を抱かざるを得なくなる。プライベートでも娘との関係性を築くのは失敗の連続で、人生それ自体が危うい状況だ。こうして彼女は職務と自身の倫理観、住民たちの安全と自分自身の安全と板挟みになり、神経を磨耗させていく。そしてここに“Wir könnten genauso gut tot sein”が描こうとするドイツの微妙な今が存在するのである。

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