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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

姚志衞&“明天比昨天长久”/シンガポール、僕は大人になるしかなかった

さて、シンガポールである。マーライオン、経済急成長、“明るい北朝鮮”という異名、徴兵制度などなど注目すべきところは多々あるが、映画という面ではどうだろうか。例えば最近でも斎藤工主演の「家族のレシピ」が公開されたエリック・クー「イロイロ ぬくもりの記憶」アンソニー・チェンなど気鋭の映画作家たちがいるが、日本ではそこまで多くのシンガポール映画やシンガポール映画作家が知られているわけではない。日本未公開映画ばかり観ている私ですら正直パッと思いつかないくらいだ。どちらかといえばシンガポールは自国の映画産業を育てるより、他国の映画、特に東南アジアの映画を共同製作することが多いことも理由の1つかもしれない。カタールルクセンブルクのような役割をアジア圏で果たしているわけだ。だがそれはもちろん注目すべき新人がいないことを意味するわけではない。ということで今回は先頃行われた2023年度のベルリン国際映画祭ジェネレーション部門でプレミア上映された、姚志衞 Jow Zhi Wei監督のデビュー長編“明天比昨天长久”を紹介していこう。

今作の主人公はチュアとメン(ベテラン台湾人俳優のレオン・ダイと新人俳優Edward Tan)という父子だ。妻であり母であった女性を亡くした後、彼らは2人だけで身を寄せあいながら暮らしていたが、その生活は不安定なものだ。チュアは生計を立てるために必死に働くも、それによってメンとはスレ違うばかりで会話などもほとんどない。彼らの住まう家に家族の団欒というものは一切存在することはなかった。

序盤において、監督はそんな冷えきった父子の関係性を静かに観察することになる。チュアは害獣駆除業者として働いており、都市のあちこちで駆除剤を散布しては疲れ果てて家に帰るという過酷な日々を過ごしている。その一方でメンは高校でいじめグループの標的にされ、暴力に翻弄されるがままだ。そしてたった1人残っている親類である祖母も病院で死の床にある。2人はそれぞれに苦しみを抱えながら、それを互いに告白することができない。気まずい沈黙のなかで、無為に時間だけが過ぎていく。

撮影監督Russell Morton ラッセル・モートンのカメラがまず見据えるのはチュアとメンがその顔に浮かべる表情だ。感情は既に磨耗してしまい、起伏の乏しい無そのもののような彼らの表情にはただ影だけが刻まれている。それはもはや生はどん詰まりであり、絶望だけしかないと語るようだ。彼らの顔から滲みだす苦渋はそのまま息詰まるような空気感として、スクリーン越しに観客へと迫ってくる。

これと同時にMortonはシンガポールの都市の風景をもレンズに焼きつけていく。常に湿気と影に満ち満ちている家族の部屋、チュアが駆除剤を撒き散らすビルのだだっ広い空間、休憩のために立ち寄る駐車場。それらは2人の表情と同じく一切の精彩を欠きながらも、ここにおいては侵食してくる陰影によって建築は朽ち果てる物体としての性を剥き出しにされ、不穏なる美しさすら宿すことになる。

シンガポールは経済成長著しい国の1つだと称賛されて久しいが、今作はその裏側にある荒廃を暴き出そうとしているかのようだ。都市は自己増殖を果たし、加速度的に巨大となっていきながらも、それは持続可能なものなのか?チュアが膨大な量の駆除剤をブチ撒けた後、チュア自身を覆い隠すほどの白煙がもうもうと垂れこめていく。そしてそれはチュアや他の作業員たちどころか存在する全てを白で塗り潰ししてしまう。その不気味な光景は、猛進するシンガポールの暗澹たる未来を警告するかのようだ。こういった表情や風景から、監督は都市に生きるものたちの孤独や悲哀を描きだしていくのである。

そして物語は徐々に父チュアの視点から息子メンの視点へと移りかわっていく。彼はいじめられっ子として虐げられ続けていたが、その座から這い出すには1つしか方法がなかった。それは自身がいじめっ子になり、より弱い立場にいる少年を虐げる側になることだ。いじめっ子への抵抗のために体を鍛えていたメンだが、いつしかその行動は暴力を振るうためのものとなる。こうしてとうとう事件を起こしてしまったメンは罰を受ける代わりに前倒しで兵役を課され、過酷な訓練を行うことになる。

前半において父の心理を都市の風景を通じて描きだしていたなら、後半において息子の心理を描きだす舞台となるのは自然だ。訓練の場となるジャングルは鬱蒼としてどこまでも濃厚なる緑が広がっている。木々を猿の群れが行き交い、得体の知れない洞窟すら存在している。都市も不気味な様相を見せていたが、ジャングルは全く別種の獣であり、そこにはなかった深遠なる神秘性すら宿っている。

ここでは同じく兵役にある仲間たちとの交流も存在しながら、しかし結局頼れるのは己自身のみであるという現実をもメンは突きつけられることになる。孤独な生存闘争を強いられる彼は今にも全てを呑みこんでしまいそうな緑を切り開きながら、森で生き抜かんとする。険しい道々を登り、闇のなかでたった独り眠り、そうして私たちは彼の顔つきや身体が急激なまでに引き締まり、強靭になっていくさまを目撃することになる。

これが成長というものなのだろう。好き好んでではなかろうと父親の庇護下で育まれ、その弱みを漬けこまれ少年たちに虐げられていたメンが、自然がもたらす壮絶な生存闘争のなかで心身ともに鍛えあげられ、驚くほどの強さを獲得していく。この成長を象徴するのが川を舞台とした長回しの場面だ。メンは小さくも流れの急な川へと細心の注意を払いながら入っていき、全身をことごとく濡らしながら対岸へ辿りつき大きな岩のうえに横たわる。そして濡れた制服を脱ぎ、下着1枚になった彼の顔にはあまりにも辛かったという疲労の色と1つのことを成し遂げた満足感とがない交ぜになった、複雑なまでに切ない表情を私たちに見せるのだ。そこには前半における無表情とは真逆の豊かさがある。

だが私自身はこの風景に喜びを感じることができなかった。感じたのはただひたすらなやるせなさだけだった。もちろん子供たちはいつか大人になる。それは当然のことで歓迎すべきことだ。しかしその成長が前向きなものでなく後ろ向きにならざるを得なかった、つまり大人になるしかなかったという子供たちもいる。メンは正にそんな存在だ。冷えきった家庭環境と過酷な虐めに追い詰められた末、彼は早すぎる兵役を課されることになった。この状況で確かに彼は大人になった。だがこれは本当に祝福されるべきことなのだろうか?

“明天比昨天長久”はシンガポールに広がる陰鬱な現状をとある家族、そしてその帰結を否応なく背負わされる者の姿を通じて描きだす、底冷えするような青春映画だ。それと同時に今作は大人にならざるを得なかったメンのような子供たち、彼らの苦渋と諦念に対する鎮魂の歌でもあるのだ。