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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Amjad Al Rasheed&“Inshallah a Boy”/ヨルダン、法が彼女を縛るならば

さて、ヨルダンである。ヨルダン映画と聞いて何か作品が頭に思い浮かぶなら、あなたは相当のシネフィルだろう。ヨルダンの映画産業は未だ発展途上で、年間の長編製作本数も数本ほどらしい。だが今まで後塵を拝してきたヨルダン映画界が近年にわかに発展を遂げ始めている。例えば2014年に製作されたナジ・アブヌワール監督作「ディーブ/ Theeb」ヴェネチア国際映画祭で上映後、初めてのヨルダン代表としてオスカー国際長編映画賞に選出された。日本でもフィルメックスなどで上映されているゆえ、知っている方もいるかもしれない。さらに2022年製作の、ダリン・J・サラム監督作「ファルハ」イスラエル建国によってパレスチナ人が難民と化したナクバの日がテーマゆえ、議論を巻き起こした。そして今年2023年にはヨルダン映画がカンヌ国際映画祭に初めて選出されることになる。今回はそんなカンヌ初選出のヨルダン映画である、この国の未来を担う新人作家Amjad Al Rasheedによる長編デビュー作“Inshallah a Boy”を紹介していこう。

今作の主人公は30代の主婦であるナワル(Mouna Hawa)という女性だ。彼女は娘のノラや夫と一緒に家族で慎ましやかな生活を送っていたが、ある日夫が急死するという事態に見舞われてしまう。悲嘆に暮れるナワルだったが、さらなる災難が彼女を襲う。義理の兄であるラフィク(Haitham Omari)が相続の名の下にナワルの住む部屋、そしてノラの親権を奪い取ろうと画策してきたのだ。

今作はそんな不条理に直面したナワルの孤独な戦いを描きだす作品だ。ヨルダンの法律は明らかに男性側に有利なものであり、そのせいで夫の死によってナワルの人生から全てが奪われてしまう可能性すら出てきてしまう。これに関して監督はインタビューで次のように語っている。

“ほとんどのアラブ諸国に似たような法があり、未だに施行されているんです。もしある女性が夫を失い、彼女に息子がいなかったとしたら、遺産の一部は義理の家族に相続されると。実際、今作は同じ状況に置かれた私の家族の1人が大きな着想源でもあるんです。彼女は家を買ったんですが、夫がその契約書にサインするのは自分だと求めてきました。妻の所有する家に住むのはとてつもない恥だからだそうです。そして彼が亡くなった後、彼女は義理の家族にこう告げられました。「その家に滞在することを許可しましょう」と。もし彼らがこれすら拒否していたら? 一体彼女はどうなっていたんだろう? これが“Inshallah a Boy”の背景というわけです” *1

そしてナワルはこの法の網を掻い潜るための苦闘に打って出なければならなくなる。相続を有利にするための方策として、彼女が取ったのは自分が妊娠しているという嘘をつくことだった。だが咄嗟の嘘ゆえ、これに信憑性を持たせるよう動く必要がある。そんな折り、彼女が家政婦として勤める家庭の一員であるローレン(Yumna Marwan)が妊娠したこと、しかし中絶したがっていることを知る。ここにおいて利害が一致したナワルたちはある計画を進めることになる。

監督がRula NasserDelphine Agutらと共同で執筆した脚本において最も痛烈に描かれるのはヨルダンにおける女性差別の実態である。先述した通り法体制が男性中心的であり、大部分が男性側に有利な体制として構築されているのが描写の数々から明らかになっていく。社会がそういったものなら、個人の日常にも女性差別は根づいており、登場する男性たちは息をするようにナワルを見下し、法を背景とした特権を以て彼女を追い詰めていくのだ。

この一方で、同様の濃密さで描かれるのが女性たちの生き様だ。ナワルが文字通りヨルダンの法に反旗を翻す反逆者ならば、計画のため手を組むローレンもそんな存在だ。ローレンはヨルダンにおける抑圧的な女性観に中指を突き立てるように“自分は愛する人とセックスしたかったから結婚した”と嘯く。そういった奔放な姿勢にナワルは最初嫌悪感を抱きながらも、いつしか自由への思いを共有しながら計画を遂行していくことになる。

こういった流れのなかで、ヨルダン人女性をめぐる性愛が興味深い形で劇中に表れていく。そこにおいて最も際立つのがスカーフの存在だ。女性たちは外出する際には必ずスカーフを着用し、自宅においても男性の来客がいる際はそれを外すことはない。そんななかでナワルは計画のためにマッチングアプリに登録するが、そこでマッチした男性に写真を送ると“スカーフなしの写真送ってよ”と求められ、辟易するという場面がある。ヨルダン(もしくはイスラム圏)において女性のスカーフの有無は、男性にとって性的興奮を左右するものであるのだ。

そしてこれの延長線上において、性愛的なものを含めある女性がある男性に心を開いているか否かをを指し示す象徴としてもスカーフは現れる。ナワルは勤め先の家族の一員であるハサン(Eslam Al-Awadi)という男性と懇意になり、その関係性を深めていくが、逼迫した状況のなかで彼に助力を請うか苦悩することになる。このテンションが最高潮に達する時、スカーフが印象的な役割を果たすのだ。スカーフがいかにムスリム女性に重要なのかがその場面には端的に表れているように私には思えた。加えてその舞台が車の座席というのも、女性による車の運転がよく思われていない国がイスラーム圏では少なくない意味でも重要なのかもしれない。

彼女は抑圧への抵抗として妊娠したという嘘をつかざるを得なくなり、これによって孤立無援の状況へと追い詰められていく。それでも彼女は諦めることなく闘い続けるのだ。こういった形でナワルの苦闘を描きだされていくわけだが、その姿にはこの男性優位社会において同じく闘い続けるヨルダンの女性の苦難が託されているのだ。そしてその力強いまでのメッセージ性の核となるのが、ナワルを演じるMouna Hawaの表情の数々だ。事態が進展するにつれて、疲弊が濃厚な陰影としてその顔に浮かび、そこには悲壮感すら感じられる。だが悲しみに打ちひしがれることなく、彼女は自由のために突き進み続ける。その姿からは陰影を塗り潰すほどに逞しく輝く希望が宿っている。

“Inshallah a Boy”はヨルダンの社会機構を背景とした女性映画として興味深い1作だ。闘いの果てにナワルが辿りつく場所を、皆さんにもぜひ目撃してほしい。