鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Peter Sant&“Żafżifa”/マルタ、この小さな島国で

さて、マルタ共和国である。この地中海に浮かぶヨーロッパの小さな島国には世界中から観光客が集まりその風光明媚さを楽しんでいる。さらに日本からも観光はもちろん、英語留学に訪れる人が多いというのはよく聞くところだ。これと同時に周辺のヨーロッパ諸国、さらにアフリカや中東といった国からの出稼ぎ移民もまた多く、彼らの生活もまたこの国には根づいている。ということで今回はそんな移民たちの暮らしを詩的な形で綴る作品である、オーストラリア移民の監督Peter Santによる長編“Żafżifa”を紹介していこう。

今作の主人公はディミトリオス(Dimitrios Giannakoudakis)という中年男性だ。彼はギリシャ系マルタ人なのだが、ギリシャでの生活に見切りをつけて故郷であるマルタに帰ってきた。ここで新しい生活を始めようとしながらも、彼はここに住んでいる別れた妻や娘に未練タラタラであり、彼らに会うためにストーキングまでしながらも当然すげなく拒否されてしまう。孤独を深めていくディミトリオスは、しかしマルタで介護士として働くフィリピン人のエイミー(Crishelle Medrano)と出会い、人生をやり直す気力を取り戻していく。

この映画は紛れもなく2025年制作の新作なのだが、観ながら思い出されるのはゼロ年代に制作されたインディーズ映画の数々だ。夢に破れ、恋人や妻子にも去られた中年の白人男性が都会の片隅で孤独を拗らせ、甘やかな自己憐憫を連ねていく。しかしその実女性には困っておらず、さらにある時自分と同じく孤独な女性と出会い、互いに傷を舐めあいながら傷を癒していく……昔こういった作品を、例えばインディーズ映画の祭典サンダンス映画祭で賞を獲得!という売り文句に釣られて観たことはないだろうか。今作の雰囲気は正にそれなのである。

さらにSant自身が手掛ける撮影においては16mmフィルムが使用されており、画面からは粗い粒子の質感が濃厚に迫ってくる。そこにはマルタに満ちているのだろう潮風混じりの陽光の熱が感じられるとともに「aftersun アフターサン」などを皮切りとして最近流行の兆しが見られるホームビデオ的な感触も見られる。時期は違うがここ20年のインディーズ映画の特徴が今作には随所に見られるわけである。

しかしここにはそういった陳腐なお決まり以上の何かも確かに存在している。Santの撮影は、地中海に面しているマルタの港町に宿る美しさをパッチワーク的に切り取ることで、旅行の記念として手に取りたくなるポストカードの絵を思わす構図を連ね、観客の目を飽きさせない。そして単なる旅行先としてだけでなく、ここで生活を営む人々の息遣いをも粗い粒子の中へと豊かに浮かびあがらせていく。バーに広がる気だるさや喧騒、路上で行われるサッカーの活気、夜の町の輝きとその隙間に宿る寂しさ……

ここで特に印象的なのは移民たちの暮らしぶりだ。ヨーロッパはもちろん、中東やアフリカ、アジアからやってくる移民たちによってこの小さな島国はいわゆる人種のるつぼと化している。彼らはルーツの垣根を越えて大小様々なコミュニティを作りながら、異国での生活を逞しく営んでいる。しかしマルタでもまた苦境は存在する。パキスタンからの移民に対して“インド人”と誤って呼ぶ様は、例えば東アジア人なら誰でも“中国人”と呼ぶような無知や悪意が感じられるだろう。さらには現地で移民が殺傷事件を引き起こしたことで、コミュニティが現地人による移民排斥に戦々恐々とするという場面も存在する。排外主義の忍び寄る足音は、ここでも聞こえてくるのだ。

そして主人公であるディミトリオスは名前からも伺える通りギリシャ系の人物だ。彼はマルタという国はあまりに小さすぎると自身のルーツであるギリシャへと移住したわけだが、そこにも馴染むことができずにマルタへと帰ってきた狭間の存在だ。それゆえの孤独があり、これをエイミーと共有することになる。だが子供を故郷に置いてマルタで介護士として働く彼女が抱く孤独とはまた異なるゆえに、物語が進むにつれて彼らの関係性は危機を迎えることになる。

さらに監督自身もまたオーストラリアからの移民である。先進国からの移住で作中の人物とは状況が微妙に異なりながらも移民としての実感をある程度共有し、さらに移民として生きることの孤独にも様々な種類があるということも彼は知っているからこそ、そんな彼らに寄り添うような作品を作ることができているのだろう。このようにして“Żafżifa”は、マルタという小さな国に生きる移民たちの寄る辺なさを、どこか懐かしさすら感じさせる、浮遊感ある白昼夢のように描きだしていくのである。

Nayla Al Khaja&“Baab”/娘と母、その心は彷徨う

世界最新の映画を追っていく中で、アラブ首長国連邦(UAE)において今女性監督によるジャンル映画が胎動を始めた予感がある。この国は自国初の長編映画が1988年制作、自国の映画が初めて劇場で上映されたのが2005年と大分遅咲きなのだが、2023年にこの国からから現れた新鋭Wendy Bednarzによる長編デビュー作“Yellow Bus”トロント国際映画祭に選出されることとなる。UAEにおける移民増加を背景に、娘の死の真相を追う女性の姿を描いたスリラー作品であり、いわゆる映画祭映画とは一線を画する娯楽性やジャンル性が際立つ作品だった。そしてこれに続く、また興味深いジャンル映画がUAEから現れた次第である。ということで今回はアラブ首長国連邦期待のジャンル映画作家Nayla Al Khaja نايلة الخاجة による最新のダークファンタジー“Baab”(アラビア語原題:“باب”)を紹介していこう。

今作の主人公はワヒダ(Shaimaa El Fadul)という中年女性だ。彼女は双子の妹であるニスマを失い悲しみに暮れる中で、夫との関係性がとうとう崩壊してしまい、子供たちを連れて母のファトマ(Huda Alghanem)が住む実家へと戻らざるを得なくなってしまった。ここで生活を持ち直そうとワヒダは試みるのだが、ストレス性の耳鳴りに苛まれ彼女は徐々に正気を失っていく。

今作はまず家族をめぐる愛憎劇として展開していく。ワヒダを追いつめる存在は母親であるファトマだ。親子関係は良好なものであるとは到底形容できるものではない。女性は夫に従い家庭を守るべきという旧態依然とした価値観を持つファトマは結婚生活を破綻させ、すごすごと実家に戻ってきた娘を軽蔑し、ネチネチとした厭味を彼女に投げかけ続ける。その様にはいわゆる“毒親”というに相応しい悪意が満ち満ちている。

そして観客は同時にその毒親的な側面をワヒダも引き継いでしまっているのに気づくだろう。長女であるアマル(Meera Almidfa)は進歩的な価値観を持ち、祖母よりも彼女に苦しめられる母親に同情的ながらも、アマルよりも幼い長男のタリク(Mansoor Alnoamani)は神経衰弱で自分を顧みない母親よりも、溺愛してくれる祖母に肩入れする。そして彼はスマートフォンの所有を禁止する母親を尻目に、彼女に取り入ってそれを買ってもらうのだが、ワヒダはこれに激怒し2人の溝はさらに深まっていく。家族間にこそ蟠る淀んだ感情が三世代で受け継がれていく様を、私たちは否応なしに目撃させられる。

監督はこうしたそんなワヒダたちをめぐる荒れ狂う日常を丹念に描きだしていくが、Rogier Stoffersによる洗練された撮影やSebastian Funkeによる小気味よい編集、さらにA.R. Rahmanの不安を煽るような劇伴、これらを纏めあげる監督の演出はすこぶる端正なものだ。そして物語において心労と耳鳴りによってワヒダは神経衰弱に陥るわけだが、これらの要素に加えて、その耳鳴りを模しているのだろうくぐもった音響設計を通じて、監督は彼女の不安定な状況や心理模様を観客に追体験させていくわけだ。

そしてワヒダがファトマに対して更なる猜疑心を連ねていくのは、彼女が亡くなったニスマが住んでいた部屋へと頑ななまでに誰も入らせようとしないからだった。邸宅において違和感のある緑色のドア、その奥に自分の母は一体何をひた隠しにしているのか。もしかするなら妹の死には秘密があるのではないか。猜疑心の果てにワヒダはとうとう部屋へと忍びこむのだったが、そこで見つけたカセットテープが彼女を悪夢の世界へと引きずりこんでいく。

ここから今作はダークな幻想譚へと驚きの変貌を遂げることとなる。悪魔崇拝、血に汚れた廃墟、肉体損壊などグロテスクな光景の数々がワヒダや観客を襲い始めるが、その様はギレルモ・デル・トロ作品などを彷彿の悍ましさが宿っている。だが今作においてはその背景にはキリスト教でなくイスラーム/アラブ文化が存在するゆえ、デル・トロ作品はもちろんハリウッド作品とも趣きを異としているのだ。

そしてこの変貌は、家族劇の舞台となる邸宅の様相をも一変させることになる。ファトマが所有する邸宅は驚くほど広大なものであり、その広さがゆえに数多くの使用人たちが敷地内を行き交うほどだ。さらに四角形を描くような形で部屋が作られ、その中心には中庭が存在しており、その様は1つの家族が住む邸宅というより集合住宅という印象を得る。このような広大な邸宅が、ワヒダの魂が彷徨うと迷宮と化すわけである。そしてその奥にあるのは宝ではない、妹の死の真実なのである。

今作の核となるのは主演俳優であるShaimaa El Fadulの存在感だろう。彼女は彷徨いを通じて抑圧からの解放を目指し、少しずつそれを成し遂げていく一方で、この解放とはつまり社会、特に家父長制社会からの逸脱であることも観客は目撃することになるだろう。ここにおいて解放と狂気は紙一重であり、その不穏さをEl Fadulは身を以て体現していくのである。こうして愛憎の家族劇とダークファンタジーがアラブ文化の中で交錯する個性的な一作こそが“Baab”なのだ。この作品によってNayla Al Khajaはジャンル映画界期待の新鋭として、アラブ首長国連邦はもちろん世界にまでその名を轟かせることだろう。

Mohamed Siam&“My Father's Scent”/エジプト、父と息子の最後の一夜

親子関係というものは創作において尽きせぬオアシスだろう。映画に関してだけでも、私がわざわざ名前を挙げずとも読者それぞれで頭に浮かぶ作品があるはずだ。そこにおけるサブテーマも千差万別なら、さらに作られた国も様々ではないだろうか。親子関係というテーマは最も普遍的なものの1つと思えたりするわけである。さて今回紹介したいのはそんな親子関係を描きだしたエジプト映画であるمحمد صيام Mohamed Siam監督作“كولونيا”(英題:“My Father's Scent 父の匂い”)を紹介していこう。

今作はある一人の老人オマール(Kamel El-Basha)の死から幕を開ける。彼は車の運転席で謎の死を遂げていたのだが、疑惑の渦中にいる存在がファルーク(Ahmed Malek)という彼の息子だった。彼は兄であるアリ(Abed Anani)から、昏睡状態から目覚めたばかりの父を一晩だけ介護してほしいと頼まれていたのだが、それでこの事件が起こってしまったわけである。誰もが彼に疑惑の目を向ける中で、ファルークは何も語ろうとはしない……

そして物語はそんなファルークの視点から昨夜の出来事を振り返っていく。子供時代のファルークは学校で優秀な成績を収め、大学では薬学を学んでいたが道を踏み外して麻薬常習者に身を落としていた。仕事もないので、父から受け継いだ雑貨屋を渋々経営していたが、その裏側では麻薬の密売も行っている。サラ(Mayan El-Sayed)という恋人もいるのだが、関係性を前に進めようとする彼女と正面から向き合えずにいる。

そんな状況でファルークは父の介護を任されることになったわけだが、父との仲はすこぶる険悪なものだ。オマールは癇癪持ちで頑固、自分を助けようとしてくれる相手にも罵詈雑言を吐き散らかす手に負えない存在だ。さらにファルークに関してはロクなこともできない放蕩息子と嫌っている。逆にファルークは彼が母を捨て、そのせいで彼女は若くして亡くなったという恨みを抱いている。2人は当然口論に次ぐ口論を繰り広げ、緊張感は加速度的に高まっていく。

Omar Doumaによる撮影は端正なものであり、その画からは常に陰影と、黒や群青といった鬱々たる寒色が迫ってくるほどだ。そして多くの時間、物語はファルークの自宅、特にオマールが横たわる寝室を舞台としているので、息詰まるような閉塞感もまた影とともに迫るのだ。こういった画を基調として、監督は不穏な家族劇として今作を組みあげていく。この緊張と閉塞感の中で、親子の口喧嘩はより陰鬱で痛々しいものとして響くのだ。

そのストレスに押し潰されてファルークは持っていた薬物を吸い現実から目を背けようとするのだが、これが予期せぬ事態を引き起こすことになる。トリップ状態となったファルークは自分を非難してくるオマールに対し、売り言葉に買い言葉とばかり反応するわけだが、これを期に今まで言えなかった本音をブチ撒けることとなり、逆にそれに応えるようにオマールも本心を吐露し始め、2人は互いに対して奇妙な形で心を開いていくことになるのだ。そして彼らは今まで自分たちが出来なかったことをするのだ。一緒にテレビを観る、一緒にドライブをする、一緒に“親子の時間”の時間を過ごす。

そうして物語においては今までの閉塞感がほどけていき、開放感すら感じさせられる瞬間がある。そしてそこには吹き抜ける隙間風のように、ユーモアすらも現れていき、観客の顔には笑みがこぼれてしまう時すらあるだろう。しかし同時に私たちはこの交流の終わりにオマールは死んでしまうと分かっている。それゆえにユーモアにはさらに、一抹の切なさすら混じりこんでくるのだ。

そしてこういった多様な情感を担っていくのが父と息子を演じるEl-BashaとMalkeたち俳優陣に他ならない。最初は観客に苦笑を催させるほどに激しくぶつかりあいながらも、彼らは互いを理解するとともに徐々に溶けあっていく。俳優たちは、キャッチボールで言えば投げる/受けとめるというのを代わる代わる成していくわけだが、その度に情感は豊かになっていくのだ。

“My Father's Scent”は親子関係というものが宿すダイナミズムを父と息子の一夜の交流に託した1作だ。血の繋がってるからこそ理解し合える部分、そして血の繋がっていたとしても理解し合えない部分、この2つが確かにあるというのを観客の心にもじんわりと実感させるような余韻がここにはある。そしてそれは悲しさだけでは終わらないのである。

Aleksander Hertz&“Bestia”/ポーラ・ネグリ、ポーランドの愛の野獣

さて、ポーラ・ネグリである。言わずと知れたサイレント映画時代のスターであり、ヨーロッパを股にかけ活躍するとともに欧州出身で初めてハリウッドに招かれた女優としても名高い。チャップリンルドルフ・ヴァレンティノと浮名を流したのを知っている方も多いかもしれない……が、私が興味あるのは当然そこではない。皆さんはこのポーラ・ネグリが東欧はポーランド出身であることをご存知だろうか。私も実際知らなかったわけだが、その理由の1つにはポーランド時代に出演した映画がほぼ現存していないことが挙げられる。だが“ほぼ”と書いた通り、実は1本だけ彼女が出演どころか主演した作品が残っている。ということで今回はそんなネグリが主演したポーランド映画であるAleksander Hertz監督作“Bestia”を紹介していこう。

ネグリ演じるポーラは田舎町に住む若い女性だったが、厳しい父親のもとで抑圧を受けながら日々を過ごしていた。そんな憂さを晴らすために夜な夜な彼女は同年代の仲間たちと酒にダンスにとはしゃぎまわり、しかしそれがバレるたびに父親に折檻されるわけだが、とうとう我慢の限界が来たポーラはこの家から、この町から逃げ出すことを決意する。

今作の内容はよくあるメロドラマと言えるだろう。ポーラが一緒に逃亡する相手として選んだのがドミトリ(Jan Pawłowski)という恋人だった。しかし逃亡の最中で彼を信頼できなくなったポーラは金を盗み出して、独りで華の都パリへと移住する。さらにそこで彼女はアレクシという紳士(Witold Kuncewicz)と出会い愛しあう仲になり幸せを掴んだかのように思えたのだが、実は彼は自分にソニア(Maria Dulęba)という妻がいるのをひた隠しにしていた。

こういった典型的なメロドラマ的な展開を繰り広げながらも、冒頭から何か妙に異様なものが見え隠れしている。とにかく登場人物たちの身振りが過剰なのだ。最初に描かれるポーラたちの夜遊び、ここで酒に酔った若者たちが喧嘩し始めるのだが現代の観客が引くほどガチで殴りあってる勢いがある。もちろん裏側は知らないので断言はできないが、スタントマンなど一切用意せず演者同士でガチで喧嘩してるような生々しさがあるのだ。その後のポーラとドミトリのイチャイチャも、先の暴力の余勢を駆るかのごとく、着ている服を振り乱しまくる荒々しさでイチャイチャの範疇を越えている。

そしてポーラはパリに移住後、キャバレーのダンサーとして成功するのだがそのダンスもなかなかに凄まじい。男女2人で行われるそれは官能だとか艶めかしさを越えてもはや下品である。衣装もそこまで肌を露出するものでもないが、とにかく肉体を絡めあわせ互いを貪りあうという過剰さで、かつ謎すぎる動きも相まってそのダンス自体が性欲の塊にすら見えてくる。これを見ながらデンマークにおけるサイレント映画界の巨匠Urban Gadのデビュー長編“Afgrunden”に出る、アスタ・ニールセンの異様官能ダンスを想起した。というか音楽どころか音すら一切ない状態でダンスを見ることがそもそも少ないので、異様に見えるのかもしれない。

そうなのだ、映るもの全てがどこか過剰なのだ。それは美術にも表れている。キャバレーであったりアレクシの邸宅であったり、その内装は贅を尽くした内装だというのが伝わる。撮影自体はモノクロでありながら、そこから極彩色が見えてくるような豪奢の圧が確かにあるのだ。これもまた過剰の一種なのかもしれないと思わされる。

そんな過剰さの中で、ポーラは予想通り堕落の一途を辿ることになる。ダンサーとして富と名声を掴んだかのように思われた彼女だったが、とうとうアレクシが妻子持ちだというのが発覚し、さらにポーラと家族の間で良心の呵責に苛まれる彼に振り回されることとなる。そして裏切られ金まで持ち逃げされた元恋人のドミトリはポーラに復讐するその時を虎視眈々と狙っていた……

今作の核となるのはやはりネグリの存在感である。先述通りその身振りはあまりにも過剰なのだ。料理を喰らう、他者を愛する、踊り狂う。全ての描写が粗暴であり、荒々しすぎてもはや暴力というのがその行動全てに言えるほどの勢いなのだ。かつその表情の躍動感もなかなかのレベルだ。映画用だろう特濃なメイクを施して際立った目や口が開いては閉まり、伸びては縮む様には相当のインパクトがある。

今作の内容として若い女性が性愛や金によって悪女として堕落し、さらにその報いを受けるという啓蒙映画のそれだ。若者たち、悪いことばっかりしてるとこういう天罰を受けるから良い子でいようね!といった感じだ。後半においては不倫されたアレクシの妻がその裏切りによって疲弊し死の床につくという、悪女によって人生を破壊される無辜な女性像が丹念に描かれるので、この印象もひとしおだ。

しかし今まで書いてきたように演技や描写が過剰すぎて下品になるどころか、その下品さがむしろ清々しいレベルにまで至っている。今作の少し後「リーファー・マッドネス」という大麻の危険を啓蒙するという映画がアメリカで制作されたが、その描写が過剰すぎて若者に大ウケ、むしろ大麻をやりながら観るカルトクラシックとして祭りあげられることになった。ここまでのレベルとは行かないが、それでも一周回って悪女の生き様を楽しむ、つまり“過剰さ”こそ良しとしたキャンプ映画の域にまで今作は達しているのだ。作り手の意図はともかく。

そして最後はポーラどころか登場人物全員が不幸のどん底へと堕ちていくことになる。絶望、孤独、苦痛、そして後悔……前半のちゃらけぶりは何処へ行ったかと思えるほど堂々たる悲劇が繰り広げられ、観客は呆然とせざるを得ない。そして同時にここには神話的なカタルシスすらも宿るのだ。サイレント映画は音や色彩の欠けを補うように演技や描写が過剰になる、というか演劇的な大仰さを伴うことが多いが、それが思わぬ形で興味深いものに結実したのが“Bestia”と言えるだろう。

Ivona Juka&“Lijepa večer, lijep dan”/不屈の魂、その傍らで

社会主義政権時代、ユーゴスラビアにおいてはパルチザン映画が多く作られていた。パルチザンというのは他国の軍隊による占領支配に抵抗した非正規軍のことであり、ユーゴでは特に枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力を指している。第二次世界大戦時、迫りくるイタリア軍ナチスドイツに対して果敢に立ち向かったそんな人々の勇姿を娯楽映画として描きだすことによって、社会主義政権にとって在るべき英雄像、在るべき人物像を戦後を生きる国民に提示しようとしていたわけである。

しかしこれらは愛国主義に満ち満ちており、ともすれば社会主義者たちが最も憎んだファシストたちが目指した全体主義に人々を容易に転じさせる危険もあった。今回紹介したいのはそんなパルチザン映画制作の裏側を描くとともに、社会主義政権に抗った人々を描きだすクロアチアクィア映画であるIvona Juka監督作“Lijepa večer, lijep dan”(英題“Beautiful Evening, Beautiful Day 美しい夜、美しい日”)を紹介していこう。

舞台は1957年のユーゴスラビア、学生時代からの仲であるロルヴォ、ネナド、ステヴァン、イヴァン(Dodo Cosic, Djordje Galic, Slaven Doslo, Elmir Krivalic)の4人は映画スタジオに勤めながら作品制作に明け暮れる日々を送っていた。だが彼らの作品はただの愛国的なパルチザン映画ではなく、戦争に倦んだ兵士たちが決死の覚悟で逃亡しようとするなど当時の価値観にそぐわない反戦的、反体制的なものだった。ロルヴォたちは先の戦争で活躍した英雄ゆえ当初はその作品の数々も黙認されてきたが、徐々に潮目は変わっていっていた。

そして4人は当局にひた隠しにしている秘密があった。それは彼らがゲイであることである。その共通点ゆえに4人は学生時代から特別な絆で結ばれており、特にロルヴォとネナドは長年恋人として親密な関係を築いていた。しかし他の国でそうであったようにユーゴスラビアでも同性愛は禁じられており、これが知られれば強制収容所へと送られる危険すらあった。それでも4人は己の愛に生きようとするのだったが……

そんなロルヴォたちを中心として、今作は当時のユーゴスラビアを活写していく。ティトーを中心としてこの国には一体感が培われてきている一方で、つまりそれは全体主義への道を一歩ずつ進んでいることをも意味している。この空気に呼応するように映画制作においても愛国心を煽るようなプロパガンダ映画が多く求められるようになる。だが実際に戦場へと赴き惨状をその目で見てきたロルヴォたちは“上のヤツらはあれを見たことがないんだ”と吐き捨てながら、反戦映画を制作してきていた。

だがこの状況で彼らは映画スタジオのオーナーであるエミール(Emir Hadzihafizbegovic)の圧力を受けて、今までのような作品ではなく当局が求めるような“プロパガンダ映画”を制作することを余儀なくされてしまう。それでも彼らはそこにも、一見体制的ながらもその奥にひそやかに批判的メッセージを仕込むという、従っているフリをして中指を突き立てる“面従腹背”的な作品を作っていく。この手法は例えばLucian Pintilieが60年代のルーマニアで撮影した傑作“Reconstituirea”など、社会主義下の東欧では広く行われていた手法である。これを脚本や撮影など様々な側面で実行していく様が今作では描かれるのだ。

Dragan Ruljancicによる撮影は硬質で洗練されているが、何よりも際立つのがモノクロであることだろう。おそらく当時のパルチザン映画の多くがモノクロ撮影だったことに合わせたからであるとともに、その映像は観客に対して50年代という過ぎ去りし年代を自然と意識させるような感触に満ちている。この中でRuljancicは抑圧の中においても4人が紡ぎだあう愛の美しさ、力強さをも描きだす。ロルヴォとネナドが愉しむ快楽に満ちたセックス、男たちが筋骨隆々な体を躍動させながら水中で交わす戯れ。これらの光景には愛する者たちと触れあい、肌を重ねることの喜びが輝いている。

だがそこには美しい洗練や喜びだけではなく、全体主義という途方もない抑圧すらも宿る。体制につく人々は外堀を埋める形で少しずつ4人を追い詰めていき、そして最後には圧倒的な暴力を彼らに対して振るうことで肉体ばかりかその魂までをも損なおうとする。監督はこういった体制側の残虐を真正面から見据えて提示することで、ユーゴスラビアの闇というべきものを告発していく。

それでいて観客は4人の逞しさをも同時に見るだろう。パルチザン映画ひいては当時のユーゴスラビア映画に頻出するのは、戦争といった極限状態においてもそれを生き抜く兵士たちが漲らせる不屈の精神である。作品ではこれが愛国心や男らしさへと結びつき、少数者を排斥する概念となることが多いが、しかし監督は抑圧と暴力を何とか生き抜かんとするロルヴォたちの姿にこそ託すことともなる。パルチザン映画を全面的に否定するでなく、その善き部分を抽出しながら映画に反映する強かさがそこにはあるのだ。

こういった描写と同時に、今作の後半で焦点の当てられるのがエミールである。彼は映画スタジオのオーナーでありロルヴォたちにとっては圧力をかける上司であるが、当局の上層部の言うことには頭を下げざるを得ない中間管理職という立場にある。そして家に帰るなら、先の戦争で息子を失った哀しみと老いゆえに認知症になった妻を介護している。この板挟みな苦労の中で、エミールは上層部の意思に従いロルヴォたちを強制収容所に送れるような証言を行うか、息子と同世代の彼らを守るか葛藤せざるを得ない。劇中ではこの葛藤ゆえに観客までもを苛つかせ翻弄させる行動を見せるが、そのブレる姿勢には生々しさすらも宿る。

そして後半において更に重い選択を迫られるエミールを見ながら、観客が直面させられる問いがある。少数派を抑圧し追い詰め、時には死に至らしめる社会において多数派である人々に一体何ができるのか?多数派は社会体制に順応して少数派など無視すれば平穏な毎日を過ごせるだろう。だがその横で少数派の人々が傷つけられるのを黙って見ているのか、黙って見ていていいのか。これを止めるために行動して、自分の、自分たち家族の生活が台無しになって本当にいいのか。それでも……エミールの姿は何より私たちにこういった懊悩を突きつける。そして多数派が背負うべき責任について私たちに問うのである。

“Lijepa večer, lijep dan”は潰されると分かりながら、社会を鋭く批判しそして愛に生きた人々を讃える叙事詩である。140分というすこぶる長い上映時間を誇っており、その長さを冗長と取る者もいるだろうリスクを背負いながらも、しかし監督はこの長さだからこそ語れるものがあるということに賭け、そうしてこの叙事詩を作りあげた。映画には、芸術には社会を変える力がある。今作を観た後にはそんな青臭い綺麗事を本気で信じたくなる。

Noémia Delgado&“A Princesinha das Rosas”/ポルトガル映画史に埋もれた秘宝たち

テレビ映画というのは得てしてナメられる。低予算で低質、規制がキツくて描写もテーマも穏当なものばかり。そういった固定観念(まあ、ある程度は当たってもいるが……)に加え、映画にとってテレビは自分たちの客を奪った敵であり、そんな敵であるテレビ局が主体で作られた作品は映画として認められないという恨みつらみもあるわけで、映画史においてテレビ映画は侮られ、無視されてきた。有名監督だっていわゆる劇場用映画を作る前にドラマのエピソード監督はもちろん、短編や長編を作っていたりする。だがそういった作品は無視され、その結果劇場用映画として作った作品こそが“デビュー長編”として扱われるなんていうのもザラである。

私はそんな風潮に映画批評家として対抗するため、特にアメリカで連綿と作られてきたテレビ映画についてTwitterで取りあげてきた。Twitterで“TV映画”と検索してもらえれば色々な作品の呟きが出てくるが、そんなテレビ映画の過小評価によって歴史に埋もれた作品や映画監督はポルトガルにもあったりする。ということで今回はそんな知られざる傑作テレビ映画“A Princesinha das Rosas”“Tiaga ou a Reencarnação Deli­ciosa”、そしてその監督であるNoémia Delgadoを紹介していこう。

まずは“A Princesinha das Rosas”から紹介していこう(字幕無しだがここから鑑賞可能)本作の舞台は昔々のポルトガルアルガルヴェ地方、広大な海に面した村にレアンドロ(Rui Baptista)という若い漁師が住んでいた。彼が船を漕いでいると美しい歌声とともに1人の美しい女性レオニス(Suzana Borges)が現れて、自分を誘うように周りを泳ぎ回る。実は彼女はこの地に住む人魚だったのだ。2人は岩礁にできた洞窟で愛を交わしあい、そうしてナイーデという娘が生まれたのだった。

前半においてはこの2人の視点から物語が描かれていく。人魚の視点から描かれるそれは大人のためのおとぎ話といった官能的なファンタジーである。大いなる自然に包まれながら、人魚たちは裸のままで大地や水の中で戯れあう。こういった耽美で幻想的な風景の数々は観る者の感覚を優しく撫でるような雰囲気に満ちている。

かと思えば漁師の視点では崇高なドキュメンタリーが繰り広げられていく。村落においては男たちは老いも若きも関わらず漁師として海へと出ていくが、そんな彼らが海岸に停めた船を押して海へと出ていく、石でできた家屋の前に集まって会話するといった場面が描かれていく。大自然と対峙する男たちの毎日が生々しい息遣いとともに映し取られていくのだ。ポルトガルにはAntónio Camposという映画監督がおり、彼は周縁部に広がる伝統文化や崇高な自然についての、主にドキュメンタリーを多く制作していた。そんなCampos作品に呼応する人類学的姿勢がこの部分には見えるのだ。

Delgadoはこうして2つの異なる方向性で世界を見据えるわけだが、撮影監督であるrio Cabrita Gilはその2つの世界を自身が作りあげる映像美の中で交わらせていく。ここにおいては完全に混じりあっている時があれば、どこか違和感をも抱かせる瞬間も存在している。このすこぶる複雑微妙なバランス感覚の中で物語は展開していく。

2つの世界が交わりあう中で生まれる狭間の存在こそが漁師と人魚の娘であるナイーデというわけである。そんな状況でしかし彼女は生まれた後、人魚の呪いから解き放つために2人と離れ離れになることとなる。運よく王家の人々に拾われて養子となり大切に育てられる。大人になり立派な姫として成長したナイーデ(Ana d'Orey)だったが、ある時何処かから自分を呼ぶ声が聞こえてくるのに気がつく。そしてそれは母の、人魚たちの呼び声だった……

今作は19世紀ポルトガル文学史における重要人物Fialho de Almeida、彼が故郷であるアレンテージョ地方に伝わる民話を基に執筆した短編小説が原作となっているそうだ。そういった民話などに特有だろう、語りにおける現実離れした不思議な飛躍が随所に存在している一方で、同時に漁師たちの生を映すことを通じドキュメンタリー性をも取り入れることで、その現実離れした物語が確かにこのポルトガルの大地に根づいているものだという感覚を観客は味わうことになるだろう。これを他のポルトガル映画とは全く異なる形で成し遂げているのがこの“A Princesinha das Rosas”という小さな宝石のような1作なのである。

次は先述作と同年に制作された“Tiaga ou a Reencarnação Deli­ciosa”(こっちも鑑賞可能)を紹介していこう。今作の主人公はティアガ(Isabel de Castro)という老女だ。彼女は険しい山岳地帯に独りで住んでおり、身寄りはいない。彼女に寄り添うのは飼っている黒いヤギだけという物寂しい生活を送っていた。夜には1人の女性が現れ自身を罵倒する悪夢に苛まれ、もうこれ以上は生きていても仕様がないという絶望に打ちひしがれる。

今作は外交官にして20世紀を代表するポルトガルの文学者Aquilino Ribeiroの短編を基にしているそうだが、ここから物語は「ファウスト」的な様子を呈し始める。ある時ティアガは山で彷徨う巡礼者(Jacinto Ramos)を助けるのだったが、そのお礼に1週間後彼女の1つ願いを叶えたいとの申し出を受けることとなる。彼女は若さを取り戻しもう一度人生をやり直したいと願うのだったが、1週間後現れたのはこの契約を邪魔しようとやってきた悪魔だった……

ポルトガルに広がる崇高な自然を舞台としたおとぎ話なのは前作“A Princesinha das Rosas”と共通しているが、前作の主な舞台が大いなる海だったのに対して、今作は山岳地帯が舞台でまた異なる印象を見せる。ここでも撮影を担当するGilが映し出すこの山岳地帯に宿る、生命がここに生きることすらも拒むような峻険さは観客の、そしてティアガたちの網膜に迫るかのようだ。

しかし驚かされるのは、騙しにやってきた悪魔との契約によって予想とは違う形で老女が若さを得た場面だ。ここから唐突にバレエが始まってしまうのである。闇の中、ティアガの周りだけにスポットライトが当てられ無言で踊り始める。そしてそこに男性が現れて、2人は身を絡め合わせるように踊りだす……その若返るという超現実的な事象をただ真正面から描くよりも比喩的に描こうとするうえで、このような大胆な形で描きだすのかと驚かされたのだ。

Delgado作品において興味深いのは時空間の混在というべき点である。前作は舞台が王制の存在した昔なはずなのだが、明らかに現代的な格好をした漁師たちがカメラに映り、漁に赴くのである。今作においても本筋の物語は古き時代を想起させながらも、前作のようにドキュメンタリー的な形で今に伝わる伝統音楽を若者たちが披露する様を挿入するのである。そして物語の終盤には現代的なバレエを放りこむのだ。このようにしてDelgadoは現在や過去、現実や幻想の垣根を越え何て自由なのか!と嘆息したくなるような、美と当惑に満ちた無二のおとぎ話世界を作りあげている。

そんな才気に満ち満ちた映画監督Noémia Delgadoなのだが、私は正直彼女の作品についてLetterboxdで知るまでは名前すら知らなかった。ポルトガル映画の受容は割合行っている日本でも紹介された形跡は見つからない。そして英語での情報もあまりなく、ポルトガル語の情報ばかりだ。それに関しても多いとは言えない。とはいえ一応はWikipediaページがあり、さらに彼女の経歴や作品群を特集するブログ記事も見つけたゆえ、これらを参考にしてDelgadoについて紹介していこう。

Noémia Delgadoは1933年、ポルトガル植民地下のアンゴラの町キビアに生まれた。その後にモザンビークに移住し視覚芸術を学んでいたのだが、この時にモザンビーク系ブラジル人監督のRuy Guerra ルイ・ゲーハや詩人で文芸批評家のRui Knopfliと親交を深めたという。
さらに彼女は1955年にリスボンへと移住、美術学校であるEscola de Belas-Artes de Lisboaで彫刻などのファインアートを学んでいた。

そして1960年代から映画界で編集技師として働きだすのだが、そこで手掛けたのがノヴォ・シネマの代表的存在パウロ・ローシャ「新しい人生」(原題:“Mudar de Vida”)やマノエル・ド・オリヴェイラ「過去と現在 昔の恋、今の恋」(原題:“O Passado e o Presente”)だったという。この一方でパリとリスボンを行き来しながら映画制作を学んでいくとともに自分でも短編作品を作っていたが、1976年に初長編である“Máscaras”をとうとう完成させる。これはトラス・オス・モンテス地方の伝統文化を描き出したドキュメンタリー作品だった。

ここから様々なプロジェクトを並行して進めていくのだが、際立つのがポルトガル国営放送(RTP)での活動だ。例えば1976年のドキュメンタリーシリーズ“As Palavras Herdadas”ポルトガルの名だたる文学者の生涯を追った番組で、ここではCamilo Castelo Branco カミロ・カステーロ・ブランコEça de Queiroz エッサ・デ・ケイロスらが取り上げられている。ちなみにBrancoオリヴェイラが1979年に制作した4時間半の大作“Amor de Perdição”の原作者でもある。さらにその原作は「破滅の恋: ある家族の記憶」という邦題で翻訳出版がされている。だのにただ長ったらしいだけな「繻子の靴」と違って日本でほとんど上映されてないのが謎だ。オリヴェイラ「破滅の恋」「狩り」メフィストの誘い」だけ観れば十分……というのはまあ別のお話。

そしてDelgadoはポルトガルシネマテークの館長だったLuís Pinaからサポートを受け、あるドラマシリーズを手掛けることになる。それこそが“Contos Fantásticos”だった。これはポルトガルの文学者たちによる作品を基にしたファンタジー作品のオムニバス短編集となっておりDelgadoはその全ての監督と脚本、さらには編集までもを手掛けている。ということで上述の2作はこのシリーズ内で放送された作品だったわけだ。“A Princesinha das Rosas”は1979年に制作され映画祭でプレミア上映が成されたが、肝心のポルトガル国営放送での放送は1981年まで待つことになる。ネットを見ると制作年数が媒体によってバラつきがあるのだが、こういったスレ違いが原因らしい。

だがこの後は幾つかの短編と1988年の長編ドキュメンタリーにして遺作“Quem Foste, Alvarez?”を手掛けた後、映画界から姿を消した。1986年には“Jacarandá no coração”という詩集を出すなどもしていたようだが、2016年に82歳でその生涯を終えた。

にしても何故にここまでNoémia Delgadoとその作品は知られていないのだろうか。自分なりに考えてみるとまず長編制作数が少ないのが原因ではないか。彼女が遺したのはデビュー長編の“Mascarás”と遺作の“Quem Foste, Alvarez?”の2作だけで、他はRTPで制作した短中編ばかりだ。さらに後者はもちろん“Quem〜”もテレビ映画なのである。テレビ映画が映画史に残るということは少ないし、オムニバス短編集なんて番組が入ることなんか更に少ないだろう。上述の2作ひいては“Contos Fantásticos”はその煽りを受けたとしか思えない。

そして“Máscaras”と同じ1976年に制作された作品が、あの「トラス・オス・モンテス」だった。トラス・オス・モンテス舞台で、その伝統文化に即した人々の生活を描く……なんて内容が少しばかり被っている。もちろんDelgadoの方はより人類学的なアプローチが取られており作風は全く違うが、後者が世界的に有名になりその影に隠れてしまった感は否めない。さらにその後にポルトガル映画界で天下を取ったのが監督アントニオ・レイスの教え子であるペドロ・コスタだったゆえ、さらに「トラス・オス・モンテス」知名度が上がり……という。あくまで予想だが、こういう事情もあるのではないか。

ということでTV映画の過小評価、そしてポルトガル映画史の悪戯によって歴史に埋もれたこのNoémia Delgadoについては今後とも取り上げていきたいと思っているので、どうぞ宜しくお願いいたします!


画像が粗いのしかなさすぎて“Mascarás”ので代用。

Goldberg Emília&“Tiszavirágok”/ハンガリー、歴史に埋もれたクィアな生

歴史は勝者によって描かれる。そしてその勝者というのは社会における多数派である場合が多いゆえに、力を持てない少数派は歴史から消されて後世で語られることも必然的に少なくなる。ここにおいてクィア理論は、そんな多数派の歴史を性的少数者の視点から描き直す試みをも行っていると言えるだろう。資料を渉猟する中で“この人物は今でいう……”といった風に、歴史に埋もれた人物に新たなる光を当てる。今回はそんな試みに満ちたハンガリークィアロマンスであるGoldberg Emília監督作“Tiszavirágok”(英題:“Mayflies カゲロウたち”)を紹介していこう。

舞台となるのは1930年代のハンガリー、この国を震撼させていたのがPipás Pista ピパーシュ・ピシュタ(Török-Illyés Orsolya)という連続殺人犯だった。殺人を行いながら10数年もの間潜伏していたが、1932年に彼はとうとう逮捕されることとなる。だが刑務所内で行われた身体検査で驚くべき事実が明らかになる。ピスタはFődi Viktória フェーディ・ヴィクトーリアという出生名で女性として生を受けた人物だったのだ。

今作はそんなピパーシュが獄中で過ごす過酷な日々を描きだしていく。彼は出生時の書類に従って“女性”として意図的に誤って扱われ、名前もヴィクトーリアという出生名で呼ばれるなど、今の言葉で言う“ミスジェンダリング”と“デッドネーミング”の犠牲になる。そうした非人道的な扱いに反抗するように、ピパーシュは獄中で何度も問題行動を引き起こし、刑務官たちの悩みの種となっていく。

そしてその人物像もただの殺人鬼ではなく、限りなく灰色の領域にいる存在といった解釈が成されている。彼は何度も殺人を犯しており余罪すら存在するが、その殺人は夫からのDVに苦しむ女性たちから金をもらった上で彼らを自殺に見せかけて殺害する、ある種の義賊的な存在かもしれなかったことを示唆している。家父長制に抗うクィアな反抗者、ピパーシュはそんな存在なのだと。

そんな彼の元にやってきたのが刑務所お付のカルヴァン派の牧師、その娘であるイルマ(Stork Natasa)だった。ピパーシュは女性刑務所に収監されているゆえ、男性の牧師ではなく彼女がピパーシュを“悔い改め”させる任を受けたのだ。ピパーシュの前で聖書の朗読を行ったり、読み書きができない彼に文字を教えることで導こうとする。ここにはハンガリーキリスト教事情も見え隠れする。この国はカトリックが多数派でプロテスタントは少数派だ。だからこそ殺人鬼を悔い改めさせ威光を見せつけ、信頼を勝ち取りたいというわけだ。しかしピパーシュは逆に、そんなプロテスタント側の使者として送られたイルマの心に蟠る不満や欲望を見抜いていく。

そしてピパーシュの日々と同時に、イルマの生活も描かれていく。イルマは牧師である父を含め周囲から結婚への圧力をかけられており、それにウンザリしていることが伺える。この鬱屈に拍車をかけるのが重度の生理痛だ。毎月その痛みによって体調は著しく崩れ、ベッドから動けないことも多々ある。社会という外部から、そして肉体という内部から女性性を押しつけられるがゆえ、その性を呪うような表情すらもイルマの顔には萌すのだ。だからこそ、あるべき性や役割を社会が押しつけようとも拒否し“これこそが私だ”と生きるピパーシュに惹かれていく。

ここにおいてSzilágyi Gáborによる撮影は陰影が印象的なもので、猥雑な刑務場を映すとしている時すらある種の格調高さが宿っている。そういった切れ味ある映像はDunai Laszloの編集によって適度なテンポで流れていくが、そこに絶妙なタイミングで長回し映像を挿入していくことで物語の緊張感を高めていく。長回しといえばハンガリー映画界におけるもはや伝統的個性であるが、今作にもその伝統は受け継がれていると言えるだろう。

こういった撮影において繰り広げられるのは、格調高くもスリリングなクィアロマンスである。性という側面において抑圧され社会の片隅に追いやられた2人が、剥き出しのコンクリートに四方を囲まれた独房で密やかに、しかし大胆に愛を深めていく。表立ってキスやセックスなどできるわけもないが静かに視線が交錯する、髪を梳かす、ベッドで並んで横たわるとそういった行動の数々に愛の高まりが豊かに見えてくる。

そして興味深いのはピパーシュが女性刑務所でも堂々と男性として生きる一方で、イルマの性への姿勢は常に曖昧である部分だ。結婚への社会的圧力や自身の肉体に嫌悪感を抱き、そういった性規範を嘲笑うように乗り越えるピパーシュに惹かれながら、どういう存在でありたいか、なるべきかへのイルマの姿勢は最後まで定まらない。翻ってそれは自身の性自認性的指向が定まっていない、もしくは定めない曖昧な領域に自分から立つ、いわゆるクエスチョニングといった姿勢にも思える。

このようにして“Tiszavirágok”は歴史 に埋もれていったクィアな生をロマンス映画として掬いあげる野心的な試みに満ちている。今までこういった歴史のクィア的な再解釈は性的少数者の権利において先進的な北米や西欧、ラテンアメリカで多く行われてきた印象があるが、今後は東欧においてもそんな作品が多く作られるようになるかもしれない、そんな予感がある。


イルマとピパーシュの実際の写真らしい。ニュースサイトhvgから引用。