さて、この鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!では主に最新の日本未公開を紹介してきた。最近は本の執筆で忙しくなり、あまりここに記事が書けていないが、数ヶ月前には“済東鉄腸オリジナル、2020年代注目の映画監督ベスト100!!!!!”というまとめ記事を出したりとまだまだ最新の映画には喰らいついていきたい所存である。
では古い映画はあまり観ていないかと言えばそうでもない。私は、芸術はシンプルに権威や既存の概念に中指を突き立てるものであってほしいという古風な考えを持っているので、映画史にしろ何にしろ芸術史は権威主義的で好きではないので、必然的に古典映画はあまり観てこなかった。それにそういうのは他の批評家やシネフィルが観ているだろう、だから彼らにそれらを託して私は皆が観ない映画を観ようと、自分の趣味に生きていた。
ただ古典作品でも、意外と100年ほど前のサイレント映画に関してはあまり観られていないことに気づいた。なのでここで逆張り精神が発動し、サイレント映画を観始めたのだがこれが面白い。音も色もついた現代映画とは、明らかに全く違う理論や演出で作られていると一目で分かる。これがとても新鮮だった。そして色々観ていくうちに、サイレント映画にも日本未公開作、もしくは一応当時の日本では公開されたが昔すぎて全く顧みられていない作品が多くあることに気づいた。そうなるともう観まくってしまうわけですね。
ということで、そんな感じで観てきた映画の備忘録として、済東鉄腸偏愛のサイレント映画50作についてのリストをここに作った。本当は今年の上半期にこれを出して、下半期に100本のリストを作ろうと思ってたのだが、延びに延びて年末になってしまった。100本版は頑張って来年完成させられればと思う。ということで、みんなでサイレント映画の大海原に漕ぎ出していこうぜ!
Limite (1931, Mario Peixoto, ブラジル)
ブラジル映画史上の傑作と名高いこのサイレント映画、いや凄い、本当に凄い。今作を以てサイレント映画の可能性は全て究められたがゆえに、これ以後世界はトーキー映画へと移行することになった。こう言いたくなるほどに完璧な映画、今作を措いて他には存在しない。今作が国際的に再発見される契機になったのはマーティン・スコセッシ率いるWorld Cinema Projectによってリストアが成され、Criterionからソフトが発売されたこと。スコセッシはこのように世界中の知られざる傑作を世に広める労力を惜しまないのが素晴らしい。
Koskenlaskijan morsian / The Logroller's Bride (1923, Erkki Karu, フィンランド)
1923年制作のフィンランド産サイレント映画。若者たちの三角関係を描くメロドラマですが何より凄まじいの、上流から下流へ木材を運ぶ木こりたちの命懸け激流下り。何人も演者死んだと聞いても信じそうな、サイレント映画史上最も危険なアクションの1つがこの映画に。今作は内容だったり演出だったりがドライヤーの傑作「グロムダールの花嫁」を彷彿とさせるが、後者が牧歌的で多幸感を抱かせるようなものであったのに対し、こちらは荒れ狂った激流さながらに壮絶。最後も三角関係に敗れた男が発狂の後に入水自殺となかなかに激越。
The Half-Breed 火の森 (1917, Alan Dowan, アメリカ)
アラン・ドワン、サイレント映画時代の職人として創りあげた1917年の1作。ネイティブ・アメリカンへの激烈な差別、他人種に対して白人が盲信する優越性、人種の交わりこそが呼びこむ新たなる憎悪。これら西部時代のアメリカに根づいた宿痾を、メロドラマ西部劇として異様なほどの丹念さ、そして思い入れを以て描きだしていく凄まじい1作。そうして全て焼き尽くしていく弩迫の終盤にはただただもう呆然するしかない。
Maria do mar (1930, José Leitão de Barros, ポルトガル)
もしサイレント映画で最も美しい映画を挙げろというなら、迷うことは一切なしにこの1本を挙げたい。ポルトガルの海岸線を舞台に繰り広げられる悲劇的メロドラマは、その無音の躍動によって海岸線の向こうの輝きへと手を伸ばしていく。そしてその愛の意志によって神に近づく瞬間が幾度もあった。この映画は崇高そのものだ。
Glomdalsbruden グロムダールの花嫁 (1926, Carl Theodor Dreyer, ノルウェー)
内容は難しい愛についてながら、静寂を体現したかのような平穏な雰囲気には心が深く落ち着かされる。そしてその中にドライヤー自身が目を細め微笑みを浮かべる様が幻視され、彼の人間存在への情愛についつい想いを馳せてしまう。ドライヤーの傑作は「二人の人間」とこの「グロムダールの花嫁」だと思うが、特集上映では毎回ハブられるので悲しい。
Borderline (1930, Kenneth Macpherson, イギリス)
ナサニエル・ドースキーやロバート・ビーヴァースなど名だたる実験映画監督たちに影響を与えた映画理論家Kenneth Macpherson、彼にとって唯一の長編監督作はスイスのアルプス山脈に位置する町を舞台に、黒人差別と愛憎を描きだしたサイレント映画。エイゼンシュタインのモンタージュ理論を極めて先鋭化させて作られたこのメロドラマは、もはや実験映画と見分けがつかないほどで、これは噎せ返るような官能と業の映像詩のようだ。そして1930年にこんなにも濃密にクィアな映画が作られていたのか!とも驚いたのだが、そのクィア性を解説するAnother Gazeの批評記事を読むと、監督が両性愛者で俳優として出演する2人の詩人たちとオープンな関係だったという裏幕についての情報も。映画のクィアな雰囲気にも納得感がある。
Նամուս / Namus (1925, Hamo Beknazarian, アルメニア)
コーカサス地方に根づく名誉殺人の伝統を描きだしたサイレント映画、かつアルメニア初の長編映画。歴史のなかで培われた忌まわしき因習とそこに反旗を翻す若者たちの愛、その衝突が生みだす狂熱、妄執、暴力はどこまでも壮絶。眼球を握りつぶすほどの圧を持つ救いなき修羅場の数々には、これぞ正に悲劇だと言わざるを得ない。監督はアルメニア映画の父と言われる人物で、トビリシなどで映画制作を学んだ後、アルメニアへと戻り今作を作りあげたのだという。これ以後も10作以上の長編を監督した後、1967年にモスクワでその生涯を終えた。
La cruz de un ángel / The Cross of an Angel (1929, Amabilis Cordero, ベネズエラ)
1929年制作、ベネズエラ最初期のサイレント映画。とあるブルジョア家族の愛憎をめぐる物語だが、砂埃が猛々たる不毛の大地の風景だったり、ふとした瞬間に命が失われてしまう残酷さだったりと、劇中のそこかしこに言いしれぬ禍々しさが広がっており観ながら、正直ゾッとする時が何度もあったりする。最終的には確かに大団円を迎えながらも、それでも蟠り続けるこの虚ろさは一体何なのか。底が知れない荒涼を味わわされる作品。
Laenatud naene / The Borrowed Wife (1912, 監督不明, エストニア)
1912年制作、金持ちの叔父から援助金をせしめるため妻を“雇った”独身貴族の男を描きだす、エストニア最初期のサイレント映画だが、これがマジに無類のおかしさ。俳優の顔面が百面相とばかりグルングルン変わりまくり、それに呼応するかのように、スケート場で一般人集団がヤバいくらいグルングルン超絶回転しまくったりと、映画自体がマジに制御不能。クソ面白え!
The Red Kimono (1925, Walter Reid & Dorothy Davenport, アメリカ)
愛憎に翻弄されて殺人を犯した女性の贖罪を描きだす、1925年制作の1作。「緋文字」最初期の映画化で物語は王道メロドラマながら、主演プリシラ・ボナーの存在感が尋常でなく、愛人殺害の、壮絶なまでの遅さの聖性が今作を濃密なまでに高める。瞠目の厳粛。今作はWalter Reid ウォルター・レイドの初監督作ながら、今はノンクレで監督・脚本・制作を担当したらしい彼の妻Dorothy Davenport ドロシー・ダヴェンポートの方が著名。日本では知られざる女性映画監督の先駆けで、あのドロシー・アーズナーが今作の脚色担当という繋がり。
El pequeño héroe del Arroyo del Oro (1929, Carlos Alonso, ウルグアイ)
貧困が極まった果てに祖父が発狂、そして家族を皆殺しにしてしまうという凄惨な事件が題材となっているウルグアイ産実録サイレント。演技は正直に言えば再現ドラマレベルの代物、しかし妹を守る兄の逃避行を描く際に現れる、広大なパンパを収めたロングショットの悲痛さ、美しさたるや類を見ないほどに崇高なものだ。そして今作はウルグアイ1920年代の掉尾を血で飾る出来事としてこの事件を据えており、そのメッセージ性もなかなかに異様だ。忘れ難い余韻を残してくれる1作。
La boheme ラ・ボエーム (1926, King Vidor, アメリカ)
キング・ヴィダーが1926年に制作した1作。部屋で目まぐるしく交錯する人々、公園で舞い踊る恋人たち、反復されるお姫様だっこ、ラストの荒涼たる彷徨い……人間の身体が躍動する、そしてその末に死に至る、この原初的な驚愕をどう表現すればいいのか。ヴィダー作品でも屈指の傑作。
O homem dos olhos tortos / The Man of the Crooked Eyes (1919, José Leitão de Barros, ポルトガル)
地下世界で暗躍する犯罪者と彼を追う2人の刑事を描きだした、ポルトガル映画史上初の長編映画かつ、映画史上における初期ノワールの1本。有り得ない明らかに混濁した編集、技術的制約で強いられる弛緩した長回しとそれを反映した弛緩の語り。こういった瑕疵によってこそ映画黎明において闇というものの果てしなさを初めて捉え得た作品とすら思える。
Back to God's Country (1919, David Hartford, カナダ)
1919年制作の、カナダ産サイレント映画。動物たちと木々がひしめく山岳地帯、恐ろしいまでに白一色の雪原。この大いなる自然を1人の女性が駆け抜ける!マーガレット・アトウッド言うところのカナダにおけるサバイバルの精神性は、この大いなる自然から生まれたのだと有無を言わさず納得させられる、圧巻の1作。
Ukřižovaná / The Crucified (1921, Boris Orlický, チェコ)
暴動の果てのユダヤ人磔刑という悍ましい光景を目撃した男の、壮絶な道行き。グリフィス、アベル・ガンスと同時代に生きたチェコ人監督による戦争メロドラマで、人間存在の残虐、お愛の安らげる甘やかさ、剥き身の暴力と死骸の数々、超越存在と対峙する苦悩、全部ぶっこみ60分。今作含めこの時代は長編小説を60分で映画化とか平気でやるし、語りが暴力的に省略されることがよくあり、時間がブッ飛んだような錯覚を味わう。これがある種のサイレント映画を観る醍醐味。
The Salvation Hunters 救ひを求むる人々 (1925, Josef von Sternberg, アメリカ)
ジョゼフ・フォン・スタンバーグ、1925年のデビュー長編。泥寧と汚水の淀みまくった悪臭が匂いたつ社会的リアリズムの序盤も印象的だが、さらに人間存在の陰鬱なまでの優柔不断が埃臭さと交わりあい不快さMAXを迎える中盤も痛烈。しかし全てを爆散させるかのごとき、剥き身の拳が乱舞する自棄っぱち大暴力の終盤が一番ヤベえのなんのでさ。スタンバーグ、デビュー長編からもう既に贅の極み。
Where East is East 獣人タイガ (1929, Todd Browning, アメリカ)
トッド・ブラウニング、1929年の1作。獰猛なまでに過保護な父、むやみなまでに軽薄かつ親密さを露わにする娘、そして夫への復讐のために娘の恋人の肉を貪らんとする母。ラオスで繰り広げられる近親相姦サイコ・メロドラマ、これぞヘテロセクシャルどもの愛業の物語で、マジに痺れさせられる。「フリークス」や「知られぬ人」など良作が多いが、その中でも今作こそが間違いなくブラウニングのベスト1本。
Visages d'enfants (1925, Jacques Feyder, スイス)
スイス映画界黎明のサイレント映画が今作。最愛の母の死、そして父の再婚によって憤怒を募らせていく少年の愛憎遍歴が物語の筋であり、彼のそのふてぶてしい表情の渋みも相まり、再婚相手の連れ子をネチネチ追い詰めるメロドラマ展開は醜いまでに珠玉の一言。さらには雪崩のPOV視点から神による大いなる救済、そして母性の勢いのままに行われる激流ダイブなど目覚ましい展開に酔わざるを得ない。
You Never Know Women 女心を誰か知る (1926, William A. Wellman, アメリカ)
ウィリアム・A・ウェルマン、1926年製作のサイレント映画。ダンサー、奇術師、謎の紳士によって繰り広げられる複雑微妙な三角関係を描くロマンス。王道を行きながらも、細部には目を惹く捻りをいくつも加えての、あの堂々たる大団円。これ、題名はある種の反語であり、実際は“男心を誰か知る”なんだということが分かる仕掛けなのだ。本当に心の底から痺れに痺れる小逸品。
Aitaré da preia / Aitaré of the Beach (1925, Gentil Roiz & Ary Severo, ブラジル)
レシフェの港町に住む漁師の青年と村娘の悲恋を描きだした、1925年製作のブラジル産サイレント映画。海を、寄せては返す波だけを映しだす場面があるんですよ。それを見ていると、逆に自然が私たちを見ているような感覚に陥る。そんな海や木々、浜辺の砂の1粒1粒の視線からこそ浮かびあがる、鷹揚としてたゆたうような美しいメロドラマが今作であるとそう思える。Severoは監督と主演を兼任、これ以後にも20年代にかけて数本のサイレント映画を監督し、現在でもブラジル映画界で語り継がれる存在となっている。
Poor Little Rich Girl (1919, Maurice Tourneur, アメリカ)
親の愛を求めるおてんば娘の大騒動を描く前半から一転、幸せと死の狭間にある不気味な世界を彷徨うことになる後半へと。血眼のロバ、頭だけが人間の蛇、もはや悲痛な自暴自棄ダンス。幸せへと至るまでに子供たちが見せる必死さ切実さ、それに寄添う映画の優しさが今作には存在している。深く心打たれた1作。
Catherine ou Une vie sans joie カトリーヌ (1924, Jean Renoir & Albert Dieudonné, フランス)
共同監督作ながらも、ジャン・ルノワール長編監督デビュー作。ロングショットやクロースアップを使い分けながら紡ぎだすリズム感覚は既に才気煥発の艶やかさ。さらに階段を延々と、永遠と神経質に上り下りする様を描くのみでもサスペンスを持続する手捌きには感銘を受ける。その果てでの終盤の列車暴走、正気じゃない圧力でこれはもはや笑うしかない。全く絶品だ。
Straight Shooting 誉の名手 (1917, John Ford, アメリカ)
ジョン・フォードによる、1917年制作の長編。農夫とカウボーイによる、水をめぐっての壮絶なる戦争を描いた西部劇で、馬の肢体が米粒レベルにまでなるロングショットと、馬の疾走が砂嵐を起こす様を映すショット、2つが交錯する籠城戦の迫力たるや圧巻も圧巻だ。ハリー・ケリーの顔も邪だったのが、終盤には精悍さこそを増していくという様は感動的でもある。
The Man from Kangaroo (1920, Wilfred Lucas, オーストラリア)
血の気の多いボクサー牧師の苦難を描くオーストラリア産サイレント映画。コメディ、暴力映画、メロドラマ、西部劇を横断する雑多さが主演俳優の剥出し拳とキレまくり体技で1本極太の芯が通る。規格外の落下の数々を収めまくるロングショット、お世辞でなく時代随一。主演のSnowy Bakerはボクシング、ダイビング、ラグビー、乗馬と何でもござれのマルチアスリートでその運動神経を生かし一時期オーストラリア映画界で大活躍、いやマジにアクションすごくて、豪のバスター・キートンやん!と驚く。
Карађорђе (1911, Ilija Stanojević, セルビア)
1911年製作、セルビア最初の長編作品である、近代セルビアの祖カラジョルジェの生涯を描きだした作品。オスマン人ごと父を殺害する血腥さでこそ幕を開ける様は、歴史における原初の暴力映画に相応しい容赦のなさ。これと同時に、今作には殺しあう群衆を遠くから見つめる野良犬の覚めた視線をも宿している。暴力という概念に対する明晰な洞察が印象的な作品。
The Power of the Press 渦巻く都会 (1928, Frank Capra, アメリカ)
フランク・キャプラが1928年に監督した1作。冒頭、新聞社の記者たちの身振りをめぐる撮影、編集のリズムは本当に完璧の一言。そうしてそこからダグラス・フェアバンクスJrの軽快な動き(ガムをクチャクチャ!)にこそ新聞記者魂が託されて後、眩暈起こすほど野蛮なカーチェイスで作品を締めていく!これこそがキャプラによる最高傑作の1本。
劳工之爱情 / Laborer's Love (1922, 中国)
現存する作品でも最古だという中国映画は、果物屋の兄ちゃんが引き起こすドタバタ劇を描きだしたサイレント・コメディ。兄ちゃんが、片想いの相手が勤めている向かいの薬局を繁盛させるために何をするかって、アパートの階段を改造して住民を滑落させ怪我を負わせるという。キートンやらロイドやらこの時代のコメディ俳優による作品群を観て毎度思うのだが、こういった半端ねえ暴力の数々がお笑いネタとして炸裂する様に、サイレント映画界の無法地帯ぶりを再認識。
Afgrunden 深淵 (1910, Urban Gads, デンマーク)
1910年制作のデンマーク映画、再見。劇中にアスタ・ニールセンがエロいダンスを踊り続ける場面があるんですよ。ほぼ不動の画面、一切の無音状態、一度もカットがかからないで3分間ジッとエロいダンスを観続ける時に感じるあの禍々しい熱気。これがサイレント映画の魔なのだと。監督Urban Gad ウァバン・ギャズ、デンマーク映画界最初期の映画作家で、ニールセンの最初の夫でニールセンを映画スターに押しあげたのに、今や世界的にも無名と化してるのはマジに信じがたい。日本なんかでも最近はノーザンライツで上映したくらいでは?この過小評価は一体……
La vocation d'André Carel / The Vocation of André Carel (1925, Jean Choux, スイス)
ある男女の恋愛模様を通じ港町に広がる群像を描く、スイス映画界黎明のサイレント映画。主人公の旅の光景が淡々と繋がれる冒頭からその素朴な美に酔いしれ、人々の息遣いと潮風の揺蕩い、時々熾烈なブン殴りあいに身を委ねる。心洗われるような映画体験。監督のJean Chouxはスイス人かつフランスで活躍の映画作家、というわけでゴダールの先駆け的な。 日本でも"Maternité"という長編が「母性の秘密」という邦題で公開済みだそう。
Lāčplēsis / The Bear-Slayer (1930, Aleksandrs Rusteiķis, ラトビア)
ラトビア映画史における初の長編作品が今作。熊殺しの英雄伝説に導かれて、愛の三角関係がラトビア独立の気焔と惹かれあう。物語はシンプルなものながら、ソ連映画界から受け継いだ熾烈な戦争描写や、英雄譚とラトビア現代史の奇妙な交錯によって一大サイレント叙事詩に発展していく様が印象的。
Nummisuutarit 村の靴職人ヤーナ (1923, Erkki Karu, フィンランド)
妙な遺産相続条件のせいで村に巻き起こる大騒動描きだした、フィンランド産サイレント映画。無駄に混迷を極めているせいでよく分かんねえ物語への不満、それを全て吹き飛ばすのは圧倒的暴力!大乱闘!家ブチ壊し!泥棒ボコボコ!親父が息子のケツブッ叩き!これが、これこそサイレント映画が成せる剥き身の暴力!最高!
Tol'able David 乗合馬車 (1921, Henry King, アメリカ)
ヘンリー・キング、1921年の作品。前半は平凡な臆病の青年とその家族をめぐる割と平凡な物語が展開していきながら、事態が進むにつれて、そんな家族が悪しき運命によって屠られていく。そこに広がる青年の精神と肉体が傷つきゆく光景が、下敷きとなった"ダヴィデとゴリアテ"の神話と共鳴し、鬼気迫る聖性へと昇華されていく様たるや。前半から想像もできない地点へと連れていかれる作品。
Hævnens nat 復讐の夜 (1916, Benjamin Christensen, デンマーク)
ベンヤミン・クリステンセン、1916年の1作。私がサイレント映画で好きなもの、それは暴力と因果の輪廻。15年の時を越えて果たされる復讐の構図は、應揚たる編集のリズムのなか刻々と描かれ、そして時の流れを重んじるからこその大いなる断絶の後、破壊と救済の時は来たる。これが、美。
Cikáni / Gypsies (1922, Karl Anton, チェコ)
1921年制作のチェコ産サイレント。第1部はヴェネチアを舞台とした、なかなかに下らない寝取り物語。しかし第2部において、愛憎によって人間関係が錯綜した挙句、人間の業!と叫びたくなるような凄まじい因果応報劇へと変貌。この劇的っぷりには不覚の興奮を覚えてしまう。はだけた胸と木壁を這いずる蟻、白が散らばり宇宙的無限を得た真黒い監獄……そのイメージの数々は壮絶の一言。
Амок / Amok (1927, Kote Mardjanishvili, ジョージア)
シュテファン・ツヴァイクの「アモク」が、まさかのソ連支配下のジョージアで映画化され生まれたサイレント映画が本作。インドネシアとインドを混同した果てとしか思えないヤバいブラックフェイスには苦笑せざるを得ないも、神経衰弱の極みたる主人公の精神世界が、フィルムそのものの溶解や燃焼によって表現される様に映画の自由さを見た。大いなる欠点を補って余りある危うい魅力を持った1作。
Hypocrites 偽善者 (1915, Lois Weber, アメリカ)
ロイス・ウェバー、1915年の1作。信仰の腐敗に苦悩する聖職者が、自身の創りあげた“真実”という名の彫像を大衆に披露するのだったが……キリスト教への敬虔なる献身を観客へと粛然と問う1作である一方で、技術的にもその先進性が際立つ。カメラワークの洗練、編集の幻惑的逸脱、スクリーンプロセスの介入などなど当時の技術の粋が集約されることで聖性に満ちた前衛が展開、観客の理解を軽々と越えていく。
Cud nad Wisłą / Miracle at the Vistula (1921, Ryszard Bolesławski, ポーランド)
1920年に起こったワルシャワの戦い、ひいてはソ連赤軍を打ち破ったヴィスラの奇跡、これらの出来事は翌年に即映画化されたのだが、そんな経緯で生まれたポーランド産サイレント映画が本作。前半はなかなかに甘やかなメロドラマが主軸でありながら、後半ではその愛の隙間から死と戦争の血腥さが溢れだしてくるという。死体散らばる野原を彷徨う医師、銃弾に穿たれる白壁、十字架を掲げ戦地を駆ける神父など忘れがたい画も多く、当時にありがちな愛国映画としては頭一つ抜けている。
Buď připraven! (1923, Svatopluk Innemann, チェコ)
20年代チェコ、ボーイスカウトの活動を描くサイレント映画。ぶっちゃけ宣伝映画ながら、わちゃわちゃ騒ぐ少年たちの姿を見ていると何だかその素朴さに心がホカホカ。同時にハッとさせられる横移動撮影にラスト圧巻の船上撮影と、当時のチェコ映画の精髄を味わえる。監督のSvatopluk Innemannは戦前のチェコ映画界を支えた巨匠。こういったボーイスカウト宣伝映画からコメディ、ファンタジーまで何でも制作の多産ささながら、第2次世界大戦時にはドイツに協力、戦後その罪を問われる最中に謎の死を遂げたらしい。
The Jack-Knife Man 涙の舟唄 (1920, King Vidor, アメリカ)
キング・ヴィダーによる初期長編。家として改造した船で孤独に生きる老人、ある日死にゆく女性から子供を託され……安らげる孤独にも心温まる交流にも平等に優しき眼差しを向ける、ヴィダーのヒューマニスティックな側面が存分に発揮された珠玉の1作。興味深いのが、この老人は子供や突如現れた泥棒と疑似家族を作るのだが、1920年当時の雑誌でこの関係を形容するにあたり"queer family"(多分"奇妙な家族"のニュアンス)という言葉が使われていること。今の意味でこれを捉えるなら孤独なゲイ老人の子育て奮闘記とも読めそう。1920年当時のアメリカにおけるゲイ男性の生を核としたクィア・リーディングの価値があるのではとも思えたりする。ヴィダー作品のクィア的な可能性。
Οι Περιπέτειες του Βιλάρ / The Adventures of Villar (1927, Joseph Hepp, ギリシャ)
1927年制作のギリシャ産サイレント映画。ゼウス神殿でチャップリンとキートンを掛け合わせんとしたら、そこに未知のヤバい何かが混入してしまい、そしてお下劣珍コメディが爆誕しちまったような印象を与える作品。道端でのセクハラまがいのナンパ、周りの人のこと何も考えないでブチかます大爆走、仕事が厭になってやらかす工場ブッ壊し、そしてダメ押しなケツ大炎上!そうか、これがホントのケッ作なんやな。
The Cub (1915, Maurice Tourneur, アメリカ)
血みどろの抗争地帯に、お気楽3枚目バカ推参!というモーリス・トゥルヌール、1915年の1作。陰惨な紫煙の銃殺劇とお気楽バカの恋模様という2つの展開が暴力的なまでのチグハグっぷりで語られる末、あらゆる方法で家屋をブチ壊しまくる籠城戦が幕を開ける。尋常ではない大破壊の数々に、現代の暴力に慣れきった私もさすがに大大大興奮。
Le railway de la mort / The Railway of Death (1912, Jean Durand, フランス)
黄金をめぐって争奪戦を繰り広げる男たちを描きだしていく、フランス産サイレント西部劇。設定説明というお膳立てが終わった後には銃撃戦、列車屋根での大乱闘、列車脱線、極めつけの連続大爆発などなど、自棄っぱちな暴力的アクションが連続パンチさながら降り注ぐ。このあまり見かけないような、小気味よくえげつない野蛮さは、フランス制作がゆえなのだろうか。思わず口あんぐり。
Furcht (1917, Robert Wiene, オーストリア)
「カリガリ博士」を含めてロベルト・ヴィーネ作品で私が好きなのは、人間と建築物もしくは人間と空間の熾烈な相互的影響を語らんとしている点。今作もまた、良心の呵責苛まれた挙げ句巨大邸宅に己を幽閉する貴族が主人公というわけでテーマは一貫。そして亡霊がその邸宅の部屋部屋を進んでいくという、ただそれだけの終幕の象徴性に戦慄させられる。
Kire lained / Waves of Passion (1930, Vladimir Gajdarov, エストニア)
ある小説家が次回作のネタを得るため、フィンランドからエストニアへの酒の密輸を取材することになるのだったが……という内容の冒険もので、かつエストニアが初めて他国との共同制作で作りあげた映画作品でもある。なんですけれども、サイレント映画というよりも、トーキー映画を無音にして観ているような違和感は一体全体何なのだろうか。1930年というトーキー移行の過渡期ゆえの違和感なのだろうか?2つの狭間に宙吊りにされる、妙な映画体験。ある種、時代の徒花的な作品なのかもしれない。監督はムルナウやドライヤー作品にも出演したロシア人俳優ガイダロフで、今作は唯一の監督作でもあるという。
Trädgårdsmästaren / The Gardener (1912, Victor Sjöström, スウェーデン)
ヴィクトル・シェストレム作品のなかでも現存最古の作品の1本がこの短編だという。愛を失った女性の受難劇を描く1作ながらも、20分の経済的な語りにおいて積み重なっていくのは、いとも容易く訪れるそっけない死、死、死……その素っ気なさはもはや暴力的の域で、短い上映時間内で何度も言葉を失ってしまった。ラストにも微塵の救いすら存在しない様、潔し。
Barsoum Looking for a Job (1923, Mohammed Bayoumi, エジプト)
エジプトにおける初めての映画作品は、無職のオッサンが職探しに右往左往しまくるコメディ作品!藁のなかに埋まりながら爆睡するわ、カイロの街中を全力で疾走するわ、バカやりすぎて警察官にガチビンタされるわ、妙ちくりんなパワーに溢れていてサイコー。とにもかくにも映画という新たなるメディアの勃興にはしゃぎ回ってるなんて高揚感が伝わってきて微笑ましい。
Under the Southern Cross (1929, Lew Collins, ニュージーランド)
内容は王道も王道のメロドラマながら、その直球さを補って余りある存在感を誇るのは、20年代ニュージーランドの壮大なる景色と、そこに広がるめくるめく動物パラダイスっぷり。サイレント映画のはずだのに爆音が幻聴として聞こえるほど弩迫の大瀑布、かと思いきや草原にゆったりのほほんとまろび転がる羊たち。オセアニア地域のサイレント映画、ロングショットが他地域の映画とは段違いの豊穣さを輝かせている。
Quiriguá y Río Dulce / Quiriguá and Río Dulce (1927, 監督不明, グアテマラ)
グアテマラに存在するマヤ遺跡の1つキリグア、ここへのグアテマラ文化庁による探検旅行を追った1927年製作の短編ドキュメンタリー。見てくれはのどかな微笑ましい旅行記なのだが、しかしユナイテッド・フルーツ社や先住民たちが出てくる辺りから違和感が生まれ始める。そして思うのは、このカメラのまなざしは則ち植民地主義者のまなざしでは?ということだ。考えすぎかもしれないが、どこか不穏な記録映像。
Het geheim van Delft / The Secret of Delft (1917, Maurits Binger, オランダ)
とある工場で繰り広げられるゴタゴタをめぐるオランダ産のサイレント映画。字幕の説明過多ぷりといい過渡期なオランダ映画界の試行錯誤感じる訳ですが、終盤に現れる、トム・クルーズ魂すら感じたアブねえ風車アクションに大仰天。“これがオランダ映画じゃい!”という剥き身の力。
Almas de la costa / Souls at the Beach (1923, Juan Antonio Borges, ウルグアイ)
1923年制作、ウルグアイ最初期のサイレント映画。内容はある結核患者をめぐるメロドラマながら、冒頭にしか字幕が出ない過渡期の手探りっぷりとフィルムの劣化ぶりが思わぬ化学反応を起こし、愛の風景を映す走馬燈のような儚さがくゆる。“海岸の魂たち”という題名、正に。監督の名前からあのボルヘス!?と思ってしまったが、あっちはJ. L. Borgesだった。出身国もウルグアイとアルゼンチンも違うという。しかしこの二国は隣国で、生まれも1年違い。知られざるもう1人のボルヘスと。
アーティスト The Artist (2011, Michel Hazanavicius, フランス)
この映画を作ってくれて、ありがとう。他に言葉はいらない。
Limite
Koskenlaskijan morsian / The Logroller's Bride
The Half-Breed
Maria do mar
Glomdalsbruden グロムダールの花嫁
Borderline
Նամուս / Namus
La cruz de un ángel / The Cross of an Angel
Laenatud naene / The Borrowed Wife
The Red KimonoEl pequeño héroe del Arroyo del Oro
La boheme ラ・ボエーム (ヴィダー)
O Homem dos Olhos Tortos
Ukřižovaná
The Salvation Hunters 救ひを求むる人々
Where East is East 獣人タイガ
Visages d'enfants
Aitaré da preia / Aitaré of the Beach
You Never Know Women 女心を誰か知る
Poor Little Rich GirlCatherine ou Une vie sans joie カトリーヌ
Straight Shooting 誉の名手
The Man from Kangaroo
Карађорђе
The Power of the Press 渦巻く都会
劳工之爱情 / Laborer's Love
Afgrunden
La vocation d'Andre Carel
Lāčplēsis / The Bear Slayer
Tol'able David 乗合馬車Hævnens nat 復讐の夜
Cikani
Амок
Hypocrites 偽善者
Cud nad Wisłą / Miracle at the Vistula
The Jack-Knife Man
Buď připraven!
Οι Περιπέτειες του Βιλάρ / The Adventures of Villar
The Cub
Le railway de la mort / The Railway of DeathFurcht / Fear
Kire lained / Waves of Passion
Trädgårdsmästaren
Barsoum Looking for a Job
Under the Southern Cross
Quiriguá y Río Dulce / Quiriguá and Río Dulce
Het geheim van Delft
La Folie du docteur Tube
Almas de la costa / Souls at the Beach
The Artist アーティスト