
Joaquín Ruanoによる崇高な第2長編“Nosotros”において主人公は2人いる。まず1人はロメロ(Jozef Coxaj)という先住民の男性であり、彼はグアテマラの地方都市で家族を養う日々を送っていた。しかし稼げない状況に業を煮やした彼は、首都であるグアテマラ・シティへ出稼ぎに赴く。ここで同じ境遇の仲間とともに警備員の仕事を得るのだったが……
もう1人の主人公がヌビア(Lola Vásquez)である。トランス女性である彼女はロメロが勤めるショッピングモールで質屋を経営しているのだが、孤独を深めながら満たされない日々を送っていた。そんな中で彼女はロメロと出会い、何度も交流するうちに彼に惹かれるようになる。
監督はそんなロメロとヌビアの姿を通じて、まずグアテマラの実情を描きだしていく。グアテマラにもやはり地方都市の衰退とそこからの若者の流出が問題となっており、ロメロは正にその問題を象徴していると言える。そして首都のグアテマラ・シティは地方都市に比べれば栄えながら、その代償として治安は相当に悪い。ロメロの仕事は警備員だが、常にショットガンを携帯としており、職務遂行が命懸けというのが一目で伝わらざるを得ない。
ここにおいて撮影を担当するPaolo Giron(担当作“Jóse”は鉄腸ブログで紹介済み)のカメラは基本的に被写体と距離を取っており、そこにデジタル撮影特有の、映る全てに焦点が当たるという解像度の高さも相まって、定点カメラさながらの観察的な冷やかさが画面全体から滲んでいる。そこでは登場人物たちとともに、建築や都市がより印象的に映る。ロメロたちの働くショッピングモール、彼らが交流を積み重ねていく雑踏、親密さを深める部屋、そしてこういったものを抱くグアテマラ・シティという都市そのもの。これがGironの撮影でまず際立つのである。
そんな中でふとロメロやヌビアの顔へと一気に近づく瞬間がある。携帯を見つめる時の無表情、相手の感情を伺うような不安げな顔。そういったものが観客に迫るのである。この緩急こそが1つ1つの画を印象深くさせるのだが、それは編集を担当したCésar Díazの功績だろう。鉄腸ブログでも紹介した“Nestras madres”の監督でもある彼は編集技師としても独自のテンポを作品に宿すのに成功している。こうして都市の光景と人の佇まいが、ロングショットとクロースアップの交錯によって1つになることで、躍動感すらある豊かな情感がここに生まれるのである。
そして今作はクィア映画としても際立つものがある。ロメロは故郷に妻や子供といった家族を残しながらもグアテマラ・シティでトランス女性のヌビアと親密な関係になる。こうしてクィアな愛の領域に足を踏みこむことになり、性において多数派として生きてきた彼は当惑せざるを得ない。そんな彼の心と体をヌビアは少しずつ解き放っていき、自身の孤独が癒されるのも感じる。先述した演出の豊かさも相まって、このクィア・ロマンスは静かに心揺さぶるものとなっている。
だがそこにグアテマラの過酷な現実が襲いかかる。性差別はもちろん先住民差別をも内包した社会的な悪意が2人に牙を剥くのだ。そうして私たちが目撃することになるのは喪の作業である。亡くなったという報を受ける、遺体を棺へと移動させる、棺を故郷へと運ぶ。そういった喪の作業があの冷ややかな撮影とともに淡々と描かれていく。
社会的偏見がゆえにクィア当事者はより多くの差別、より多くの暴力の被害者となり、そして必然的に早すぎる死すらも彼らには多く訪れる。そんな荒涼たる状況に在ることをクィア当事者たちは強いられるのだ。私たちはこうして切実で悲痛な形で、グアテマラの今に死にゆく、それと同時に今を生き続けていくクィア当事者たちの姿を“Nosotros”に目撃することになる。












