鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Andres Rodríguez&“Roza”/グアテマラ、キチェの民のこの苦渋

中米はグアテマラ、この国にはキチェ族というマヤ人に属する民族が暮らしている。グアテマラ高地に住む彼らはマヤ語族であるキチェ語を話し、Wikipediaによればその“話者は現代のマヤ諸民族のうちではもっとも人口が多く、グアテマラ全人口の11%を占める”そうである。著名な人物にはノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュウがおり、彼女の証言集である「私の名はリゴベルタ・メンチュウ―マヤ=キチェ族インディオ女性の記録」が邦訳もされている。今回は彼らキチェ族が現在置かれている難しい状況を描き出した1作、Andres Rodríguez監督のデビュー長編“Roza”を紹介していこう。

今作の主人公はエクトル(Hector Ramos)という中年男性だ。彼は家族を養うため彼らを故郷に置いて都市部へと移住、出稼ぎの身として数年間暮らしていた。だがそこでの暮らしも限界を迎え、とうとう彼は帰郷を果たす。迎える家族の反応は冷ややかなものだ。母は何も改善されぬ自分たちの暮らしぶりを嘆き、妻は長年捨て置かれたゆえの反感を隠さない。そして息子のダルウィンはもはや自分の顔すら覚えておらず、父を見知らぬ他人として扱うばかりだった。

“Roza”はまずそんな苦境に置かれたエクトルの再起の日々を淡々と描きだす。信心深い家族は熱心に教会へと赴き、祈りを捧げるのであるが、そんな彼らにエクトルは距離感を感じざるを得ない。神父も自分たちに親身になってくれるのだが、その優しさにすら違和感を抱く。金を稼ぐために若い労働者に混じってサトウキビ畑で過酷な仕事に励むのだが、いまや中年の彼は明らかに他の男たちの足手まといになってしまう。そして疲れはて家に帰るが、そこでは自分に不信の眼差しを向ける家族が待っているのみだ。

撮影監督であるMichelle Rosalesのカメラはそんなエクトルの疲弊に満ちた暮らしぶりを静かに見据える。カメラはほとんど不動を保ちながら、目前に広がる鬱々たる光景を凝視するようだ。そして現れる映像において色彩は息詰まるほどに掠れており、その灰燼色の風景はエクトルの心証風景をそのまま反映しているかのようだ。そこには生の喜びといった明るい感情は一切なく、ただ泥ついた疲労感だけが滲みだしている。

そしてそれはキチェ族が現在置かれている苦境をも象徴しているのかもしれない。生まれ育った地域は貧困にまみれているゆえに、よりよい未来を望むのならば故郷から遠く都市部へと身を移さなくてはならない。だが移住したからといって無条件に幸福が得られることなどありえず、むしろ苦渋を呑まされることの方がしばしばだ。それに打ちひしがれ故郷に帰れども、都市生活で自分が変わってしまったなら、故郷や家族、友人たちも変わってしまっている。この変化に順応できなければ、自分が元いた共同体においてすら邪魔物として扱われる残酷な未来が待っている。今作においてエクトルはその苦難を一身に背負っているのだ。彼はどこにも馴染むことのできない余所者としての生を生きざるを得ない。

劇中において印象的なのが食事シーンだ。家族全員が集合し普通ならば団欒とでも言うべき状況がそこには広がっているが、雰囲気はどこまでも重苦しい。そこでは母が自分が置かれている状況への呪詛を愚痴として吐き散らかすか、さもなくば全員が無言か。響くのは食器がぶつかりあう音や食物を摂取する咀嚼音ばかりだ。エクトル及び家族の表情にもただただ虚無感しか見えてこない。

興味深いのは、今作のランタイムは78分と長編映画にしてはすこぶる短いのだが、そこに家族での食事場面が何度も挿入される。しかもカットの長く途切れない長回しでそれらは描かれる。カメラは重苦しい空気を執拗なまでに凝視し、観客はその空気感をこれでもかと味わわされる。そして私たちはこの構図を生ぬるい地獄絵図としか表現し難くなるのだ。

そんな状況でエクトルの状況は刻一刻と悪化していく。行商としての腕を姑に罵られた妻はその不満をエクトルにぶつけ、かといって彼はその権威を恐れ母を注意することもできず、家族の仲は凍てついていく。さらにサトウキビ畑でも彼の不注意で凄惨な事故が起こってしまい、同僚たちからも見放されていく。こうして彼の心には暗々しい鬱屈が溜まっていき、それが爆発する時、悲劇が起こってしまう。

今作の核となるのはやはりエクトルを演じるHector Ramosの存在感に他ならないだろう。彼は寡黙な男であり言葉として感情は表れることは少ないが、錆びたような色合いの、皺深い表情からは常に濃厚なる苦渋が滲みだし、観客に彼の苦悩の深さを思い知らせる。彼の存在は、例えカメラが姿を小さく映し出していた時ですらも、観客の網膜にグッと迫ってくる。迫真の演技は熱演ならぬ、濃密な静演とでも形容すべきものだ。

終盤、再びエクトルが家族と食事をとる場面が現れる。おそらく昼頃、ダルウィンや母と野外で仕事をした後、彼らは大地に積みあがった藁に腰を据えて昼食をとるのだ。その雰囲気は太陽の柔らかな輝きあってか、珍しくゆったりとし、初めて本当の意味で“家族団欒”と言える状況ができているように思える。だがここでこそ、エクトルは家族、ひいては共同体そのものと決定的な決裂を遂げることになる。様々な積み重ねの末に、夢見たかもしれない幸福がそのまま破綻を意味することになってしまうのだ。監督はこのようにして、グアテマラにおいてケチュ人の置かれる悲痛な状況を力強く提示する。彼らの絶望はいまだ深い。

Angela Wanjiku Wamai&“Shimoni”/ケニア、英語という名の怪物

さて、ケニアである。この国は多言語国家であり、バントゥー語群のスワヒリ語と、植民地支配によってもたらされた英語が共通語として話されている。この2つが国の公用語ともなっているのだ。そして40以上の民族から成り立っている国であり、キクユ語やルオ語などそれぞれの民族語も存在している。今回紹介するAngela Wanjiku Wamaiのデビュー作“Shimoni”は、ケニアにおける多言語性とこれが生み出す余波を描きださんとする1作だ。

今作の主人公はジョフェリー(Justin Mirichii)という青年だ。彼はある罪を犯したことで刑務所に収監され、今とうとう釈放されることとなった。行き場のないジョフェリーは懇意にしていた神父(Sam Psenjen)とともに、シモニという田舎町へと赴く。こここそが彼の故郷でもあったのが、数年ぶりに帰郷した彼に対する町民たちの視線はとても冷ややかなものであった。

まず本作はこのシモニで再出発を試みるジョフェリーの姿を淡々と描きだしていく。元々は英語教師であったが、ここにそのような仕事はない。ゆえに教会の雑用係として下働きをすることになるのだが、肉体労働の経験はあまりなく、慣れない経験に疲弊ばかりが募る。さらにただでさえ町民からの信頼はないなか、ジョフェリーは人付き合いも苦手ゆえ、彼らと新しく関係を築くこともままならない。疲労感の次にやってくるのは、深い孤独感だった。

演出の基調はどこまでも荒涼としたリアリズムである。撮影監督のAndrew Mungaiは余計な虚飾なしにあるがままジョフェリーの姿を見据えるが、その薄暗い映像を延々と目撃するうちに、私たちは彼の鬱屈した生活風景や心理模様を追体験することになるのだ。少しばかり無味乾燥といった印象を受けるかもしれないが、おそらくその砂を噛むような感覚がジョフェリーが抱く感覚でもあるのだろうとすら思えてくる。

そんなある日、事件が起こる。ジョフェリーはミサに参加するため教会へと赴くのだったが、そこで奇妙な男を見つける。頭に白い紋様が描かれた男がおり、彼の方を見据えているのだ。ジョフェリーの脳裏にはある忌まわしい記憶が思い浮かぶ。彼は昔、この町である男から性的虐待を受けていたのだ。そしてあの奇妙な男は……

ここから物語は少しずつリアリズムとは異なる方向へと舵を切ることになる。白の男が現れると同時に、ジョフェリーはこの村に伝わる怪物の伝説を聞くことになる。この怪物は空想の存在であると理解しながら、彼の抱く不安はその怪物とあの白の男を結びつけていく。恐怖に苛まれていき、不安定な状態に陥っていくジョフェリーだったが、怪物の幻影は容赦なく彼を襲っていき、そして彼自身もまた怪物と化していくのである。

こうして本作はリアリズムと幻想の間を行き交いながら物語を紡いでいくのであるが、巧みなのはここにまた別の要素、ケニアという国自体を射程に入れるような批評を絡めていく点だ。その中心となるのが“英語”なのである。村において通常使われる言語はキクユ語とスワヒリ語の2つである。町民たちはこれらで会話を行っているので、町での日常生活は2つの響きで満たされている。

ここにおいて例外的な存在が2人いる。まず主人公のジョフェリーだ。彼も町では基本的にキクユ語とスワヒリ語を話すのであるが、英語教師として生活していた癖なのだろうか、節々で英語が現れたりそれで喋り続けることもある。町民たちは英語を解するようではあるが、自分から積極的に喋ることはあまりない。ゆえにジョフェリーの話し方は奇妙に映るようで、彼に“Englishman 英語男”などという渾名をつける者まで現れるほどだ。この“英語で喋る”こと自体が、彼と町民を隔てる障壁の1つであるような印象すらも受ける。

そしてもう1人、例外的に英語を喋り続ける存在が神父である。もちろん町民には他の言語で話すのだが、ジョフェリーとは常に英語で喋り続け、場面としても彼と会話する場面が最も多いのも相まり、ジョフェリー以外では最も英語を駆使している存在として際立つのだ。彼はジョフェリーにとって唯一の理解者として親身になってくれるのだが、裏では何か不穏な動きを見せてもいる。ある時、ジョフェリーは世話になっている女性から自分の娘に英語を教えてほしいと頼まれる。こうして彼は英語の家庭教師としても働き始めるのだが、この事実を知った神父は女性に詰め寄るのだ。あれほど私が教えると言ったのに!

この奇妙な焦りぶりには、観客も不信感を抱くことになるはずだ。そして物語はケニアにおける英語の不気味な立ち位置をも暴きだしていく。ケニアで使用される英語は、宗主国だったイギリスのものが主となっている。そこに加え、スワヒリ語などから影響を受けたケニア英語が使われることもあるそうだ。植民地化以後より使われてきたこの英語は発展する都市の言語として使われたゆえ、商業、学校教育、政府という領域でより広く話されている。つまりは権力層/インテリ層の言語という側面もあるのだ。

この背景を念頭に“Shimoni”を見ていくのならば、興味深い風景が現れる。町において町民から信頼を獲得し、権力を保持しているのは神父である。つまりカトリック信仰が権威の座についているのだ。彼が英語を話し続けるのは権力の証であるのかもしれない。そして他の者が子供に英語を教えていると知り焦りを見せるのは、英語という権力の象徴が民にも共有され、自身が権力の座から引きずり下ろされることへの懸念ゆえなのかもしれない。英語は権力層に占有されなければならないのだ。

この権力構造の撹乱を、意図してにしろせずにしろ担っているのがジョフェリーということなのだろう。彼は元英語教師、つまり知識層に属する人間である。権力層と知識層は常に重なりあい、相互に影響を与えあいながら特権を享受しているが、今作においてジョフェリーはそれから逸脱し、英語を知として人々に共有しようとしている。彼を御しきれないと判断した神父は、裏での暗躍を始める。こうして現れるのは、ケニアにおいては植民地支配でもたらされた英語がキリスト教カトリック信仰と結託し、文化的な面から支配を行っていると、そんな不気味な構造なのだ。

“Shiromi”はその物語自体は、刑務所帰りの男が赦しを求めて足掻くという平凡なものかもしれない。だがこの物語に、英語という言語が不可避的に宿す政治性を見据える批評精神が合わさることで、今までの1作とは一線を画するような洞察を持った作品へと昇華されている。ここにおいて、怪物とはあまりにも多様な姿を持ちすぎるがゆえに、底を知ることなど叶わないのである。

Ove Musting&“Kalev”/エストニア人の誇りとは何か?

スポーツというものは政治情勢の煽りを喰らうことがとても多いように感じる。その最たるものが国の代表が一同に介するオリンピックだろう。冷戦時代は東側と西側の代理戦争としての役割をも必然的に担い、イスラエルのアスリート11名が殺害されたミュンヘンオリンピック事件は去年の東京オリンピックで黙祷が行われるなど今でもその傷は忘れられていない。さて今回は、ソ連の内部で繰り広げられていた政治闘争とスポーツが否応なく交錯する様を描き出した1作、エストニアの新星Ove Musting オーヴェ・ムスティンクによるデビュー長編“Kalev”を紹介していこう。

ソビエト連邦の崩壊が噂されるなか、バルト三国の情勢が荒れ模様を見せていた時期、毎年恒例のソ連バスケ・チャンピオンシップが開催されることになる。ソ連各地から強豪バスケチームが参加し、その頂点を懸けて戦うというわけだ。ソ連併合下だったエストニアからも代表チームであるKalev カレフが参加することになる。チームは意気軒昂な一方で、ソ連からの独立機運が高まっていたゆえ、エストニアの人々は彼らの参加を批難、ソ連の名を冠した大会に出るなんてお前らはソ連の奴隷か?というのだ。波乱含みのなかカレフの戦いが幕を開ける。

今作はスポ根バスケ映画というのが基調ではありながら、冒頭からカレフの道行きがソ連末期における東欧情勢の影響を露骨に受ける様が描かれている通り、スポーツと政治情勢の相互作用というテーマ性は他とかなり一線を画している。カレフは当然勝ちたい、大会で頂点に勝ちたい。だがまず本選に出場するために、大会運営者に賄賂を払う必要が出てくるのだからタチが悪い。最初から社会主義国家の権力腐敗に、モロに鼻っ柱を折られる流れだ。

その障害を突破しても、今度はエストニア国民から“ソ連の追従者!”と批難されてしまう。ここでチーム側が取った行動がなかなか興味深い。コーチたちはバスケに興味がある女性たちを勧誘したかと思うと、試合でチアリーダーとして踊ってもらったりするのだ。さらにアメリカから黒人バスケ選手を招聘し、チームの一員になってもらうなどする。つまり自分たちは確かにソ連主催の大会に参加してはいるが心は西側とその文化にある!というのを国民に伝え、ご機嫌とりをするわけだ。冷戦末期におけるカレフの涙ぐましい努力が伝わる1コマでもある。

だが王道スポ根ものとしての魅力も負けていない。若いチームメンバーが集まっていき、癖のあるコーチ陣と対立を繰り返しながら、彼らは成長を遂げていくという物語は少年漫画で何度も読んだことがあると思える。チームメンバーも適宜キャラ立てが成されており、バスケと家族の狭間で悩む花形選手、試合に出してもらえず不満を溜める新人、ロシア人でありながらチームへの参加を望む青年など定石的なキャラを丁寧に描き出している。そして上でも少し語ったが、コーチなど組織を運営する側の奔走ぶりも興味深い。バスケと政治情勢を取り持つ役割という意味で、彼らもまた今作の主人公なのだ。

そしてカレフが勝利に邁進するなかで、刻一刻と情勢は変化していく。1991年1月、独立運動が加速していたリトアニアにおいて、その動きに介入するためソ連軍が送りこまれ、民間人が死傷する事件が起こる。いわゆる血の日曜日事件/1月13日事件だが、これをニュースで知ることとなったカレフのメンバーは“果たして今、自分たちはバスケを続けるべきなのか?”という問いと直面する。政治の大いなる趨勢において、自分たちは全く無力なのか。それとも……

この辺りから明確になっていく今作のテーマが、エストニアのナショナル・プライドだ。ロシア革命の後、1918年から他のバルト国家とともにエストニアは独立を謳歌していたが、1940年にはソ連に併合され厳しい統制下に置かれることになり、ここから約50年、苦渋を味わわされることとなる。だがとうとうソ連の崩壊が近づき独立の機運が高まる一方、ソ連から抵抗を受けリトアニアでは実際に多くの血が流れた。ここからエストニアはどこに行くのか、どう行動すればいいのか?

こういった思索はかなり危ういテーマでもあり、少しでもバランスを崩すならナショナリズムへと繋がる恐れもある。ただでさえスポーツは政治からの影響が絶大ゆえに、ソ連からの脱却を謳ううえでカレフの勝利がエストニア国民の誇りへ過剰に紐づけされるなら、また別の危機が起こる可能性も否定できない。今作を観ながら私はウクライナ侵攻のことを想起せざるを得なかった。侵攻の最中、ゼレンスキーの指揮でウクライナにおいてナショナリズムが肥大する様を目撃したのはもちろんだ。

だが一方でバルト三国がロシアの防波堤として常に緊迫した状況にあり、ウクライナ侵攻後はどこより積極的に情勢安定に動いている様をも見てきた。その背景には先の歴史があるわけだ。そして“Kalev”では正に再びの独立をめぐるエストニアバルト三国の現代史が描かれている。物語ではカレフがチームとしての問題と政治情勢の問題両方に対処しながら成長を遂げ、そして国民たちからの信頼をも獲得し、皆の連帯が密になっていく。そこでは確かにスポーツこそが成せるナショナリズムの高まりがある。だが今作でその構図は私が単純に批判できるものではないと思わざるを得ない。私たちとバルト三国ではロシアに抱く危機感のレベルがあまりに違いすぎるのだ。

“Kalev”はこういった危険な橋を渡るのだが、結論として私はこの映画はナショナリズムを肯定するだけでない視点を持っていると思えた。ここからはそれをネタバレありで記していきたい。ラスト、カレフはソ連のトップチームと対戦し勝利、見事チャンピオンになるというスポ根映画の定石を堂々と行き、大団円を迎える。だが勝利に酔いしれる選手がトロフィーを床に落としてしまい、破壊してしまうのだ。周囲の熱狂は収まることはないが、選手やコーチは微妙な表情を浮かべる。劇中、このハプニングに関してアナウンサーが“あれはソ連の崩壊を象徴するものとなるでしょう”と言い、実際にこれは現実になる。

だが勝利の絶頂、エストニアナショナリズムの絶頂に、この熱狂に冷や水をかけるような場面を入れるだけで余韻もまた違ってくる。確かにロシアという脅威に対して皆が一丸になることは現実として必要にならざるを得ないだろう。しかしそれが行き過ぎれば何らかの悲劇と破綻を生むのではないか? そんな冷静な自己内省があの場面にはあると私には感じられたのだ。終り自体は予定調和で、物語後にも劇中の人物が今後バスケ界で大活躍を見せるという実録映画に付き物のテロップも流れる。だがそれを単純に“よかったなあ!”と思えるような余韻を、今作は提供しない。ここに描かれる“エストニアの誇り”は単純なものではない、そして“国の誇り”とはそんな単純なものであってはならないのだ。

Abner Benaim&“Plaza catedral”/パナマ、幼い命が失われゆく街で

さて、パナマである。グアテマラコスタリカとともに中米を構成する国の1つだが、この国について知られていることは少ないかもしれない。斯く言う私もパナマといえば、地理の授業で必ず習うだろうパナマ運河や、近年の金融スキャンダルで話題になったパナマ文書という感じだった。映画に関しても情報が乏しく、ただでさえパナマで作られた作品は少ないのに、その作品ですら管理の不徹底で大部分失われているゆえ、古典作品で観られるものはほぼない。こんなわけで現代においても映画産業はそこまで発展しておらず、年間の長編製作本数も2桁行くか行かないかのようだ。だがそんなパナマ映画界で気焔を吐く人物による新作映画を紹介したい。それこそAbner Benaim アブネル・ベナイム監督の第4長編“Plaza catedral”だ。

今作の主人公はアリシア(Ilse Salas イルセ・サラス、日本でも主演作「グッド・ワイフ」が公開)という、不動産業界に勤める中年女性だ。彼女はつい最近、最愛の息子であるルカを事故で亡くし、これが原因で夫との仲も破綻、孤独な生活を送っていた。

だがある日、彼女は13歳の少年チーフ(Fernando de Casta フェルナンド・デ・カスタ)と出会う。パナマは土地が狭いらしく、都市部では車を所有しても駐車スペースがない状況がある。これを背景に、運転手へと取りいり車の管理を行う仕事を行っている者たちがいる。チーフもそんな人物で、ほとんど押し売りさながらアリシアの車を管理し始めるので最初は煩わしく思われながら、徐々にチーフのことを気にかけるようになっていく。そしてこの2人の交流が、物語を牽引していくことになる。

チーフの勢いに負けて彼に車の管理を任せるようになった頃、思わぬ事件が起こる。アリシアは自身の部屋の前でチーフが血を流して倒れているのを発見する。何らかの犯罪に関与していることは明らかだ、あまり深く関わってはいけないと思いながらも、彼を病院へと運び治療を受けさせる。これで一旦は決着がついたと安堵するも、アリシアの部屋に再びチーフが現れる。匿ってもらいたいらしい。躊躇いながら、彼を居候させることを決めるアリシアだったが……

監督はアリシアの心理模様に焦点を当て始める。彼女は息子の事故死は自分が原因だと悔いており、その罪悪感によって彼女は自ら孤立を選びとってしまっている。その状況に波紋を投げ掛けるのがチーフであり、未だ幼い子供である彼にアリシアは息子の面影を認めざるをえない。そしてチーフは逆に母親から忌み嫌われる息苦しい生活を送っているのを知るなら、彼を放っておくこともできなくなる。

だがこの共同生活のなかで彼らを隔てる決定的な違いも明らかになっていく。アリシアは金銭的には不自由のない中産階級に属する一方で、チーフはスラム街に身を置かざるをえない貧困層に属している。さらに彼らは都市部の土地開発によって逼迫した状況に追い込まれているが、それを主導するだろう不動産業界でアリシアは働いている。また彼女はメキシコからの移民であり、好況著しい不動産業界で海外の富裕層と契約を取り交わすことに関与している。ある種、特権的な立ち位置から甘い蜜を吸っている状況でもある。そしてここに白人と黒人という人種的な緊張も加わる。出会った当初、チーフに“gringa 白人女性”というスラングを投げ掛けられアリシアが不機嫌になるという場面に、これが象徴されてもいるだろう。

これに関連して、今作は不動産・建築映画としての趣も宿している。まず最初の場面からしてこれが顕著だ。アリシアは建設中の高層ビルへと赴き、住居を探しているという富裕層の家族をガイドすることになる。パナマにおける不動産業の不穏な活気が見えてくる一幕だ。だがその後、アリシアはほとんど空と重なるような高さから真下に広がる都市の地べたを見据えながら、自身が投身自殺を遂げる姿を想像する。観客はそこにアリシアの絶望を見出だし、すぐその原因が息子の死であると分かることにもなる。

そして建築という意味で注目すべきはアリシアの住まいだ。彼女の住むアパートはまず入り口から戸締まりが厳重で、住民以外の存在を孤絶するようだ。アリシアはその一室に引きこもり他人の介入を拒んでいる。そうして己に孤独を強いているのだ。この様子を見ながら想起するのは富裕層が作るゲーテッド・コミュニティに関してだ。あそこまで厳重ではないし、このアパートの立地は都市部の中心で、隔絶した場所に作られているわけでもない。しかし厳重に戸締まりの成されたアパートは中産階級にとっての砦として屹立しており、外で自分たちから金をせびろうとしている貧困層を拒絶するのだ。

だがアリシアはそんな場所にチーフを招きいれ、彼と共同生活を送り始める。先述の意味で彼はアパートの住民たちにとって招かれざる客であるゆえ、アリシアはこの事実をひた隠しにする。実際、彼女自身が貧困層への不信を内面化しており、寝ている時にチーフに頸動脈を掻き切られるという悪夢も見ている。いくら交流を深めようと根底の部分で、彼は自分に取りいり最後には金品を盗んでいく泥棒でしかないのでは?という疑念を拭えない。それでもアリシアは彼を匿い続けるのだ。

この様を見るなら冒頭における自殺妄想も別の意味が見えてくる。経済状況という意味では、彼女は生活に何ら不自由のない中産階級としての生活を過ごしている。だがそれは貧困層と富裕層の板挟みになりながら、後者のために前者を搾取してこそ成せる自由なのだ。この状況に心を引き裂かれる彼女の良心は、富裕層が生活する高層ビルの一室という上部から下へと飛び降りたいと願っている。抑圧的な富裕層の世界から逃れたいのだと。

だがこれはある種、恵まれた者の戯れ事でしかないのかもしれないという事実を映画は提示していく。チーフの以前の暮らしぶりは絶望的なものであり、チーフや彼の姉たちは貧困と同時に母親や継父からの虐待も受けているのだ。そしてアリシアは彼の傷と血の理由もそこにあると知らざるを得ない。彼女はチーフに逃げ場を提供してはいるが、抜本的な解決とはなるはずもなく、それは結局のところこの中産階級の聖域にただ引きこもっているだけというのも意味している。この状況を変えるには一体どうすればいいのか?

今作を最も力強く支える存在がアリシアを演じるイルセ・サラスだろう。息子を失った悲しみのなかで救いを求めて足掻き続ける女性の姿を、彼女は静かに演じ切っている。そして物語においては彼女が体現する善意や良心はエゴイズムと表裏一体であり、単純な称賛や感動だけで形容できるものではない。状況があまりにも複雑なのだ。サラスの存在感はこの複雑さを背負っているのだ。

そして監督はチーフの悲惨な人生とともに、特権を持ってしまっていることに苦悩を抱くアリシアの葛藤に、パナマという国で格差がみるみる拡大している現実をも託している。そして私たちは、それが引き起こすものとは何か?という残酷な事実を知ることにもなる。エンドロール前、映画の裏側で起こったある信じがたい事実とともにこういった言葉が流れるーー“ラテンアメリカでは毎日何人もの子供たちの命が失われている”と。監督はアリシアとチーフの交流、そして彼らが最後に成す選択を通じて、“Plaza catedral”にこの残酷さを越えるための祈りを託している。それは希望というにはあまりにやるせない灰色の祈りであるが。

Paul Negoescu&“Oameni de treabă”/ルーマニア、お前はここでどう生きる?

Paul Negoescu パウル・ネゴエスルーマニア映画界には稀な、批評家や映画祭からも、ルーマニア国民からも愛される映画作家である。デビュー長編“O lună în Thailandă”(レビュー記事)はヴェネチア国際映画祭でプレミア上映後、映画批評家からも高く評価された1作で、個人的にも2000年代以降で「シルビアのいる町で」テイク・ディス・ワルツに匹敵するラブロマンスと思う傑作だ。そこから一転、第2長編“Două lozuri”(レビュー記事)は哀愁あるユーモアに裏打ちされたコメディで、2016年にルーマニアで最も興行収入を稼ぎだした1作となった。2018年の第3長編“Povestea unui pierde-vara”はとある大学教授のすったもんだな恋愛を描きだしたロマンティック・コメディで、批評家と観客双方から暖かく迎えられ、Negoescuは“ルーマニアウディ・アレン”とも呼ばれることになる(いや、アレンの不祥事を鑑みるとこの評も色々な意味でどうかと思うが)そして今年、満を持しての第4長編がプレミア上映された。この1作、全くルーマニア映画としか形容しがたい映画だった。

今作の主人公はイリエ(Iulian Postelnicu ユリアン・ポステルニク)という中年男性だ。彼は警察官なのであるが、そこまで尊敬を受けることもなく鬱屈した日々を送っている。だが彼には夢がある。果樹園を買い取り、ここで第2の人生をスタートさせるのだ。そのためにはまとまった金が必要だが、簡単には手に入れられそうにない。そうして鬱屈した日々はまだまだ続きそうだった。

しかし彼の住む静かな村で事件が起こる。ある男が惨たらしく殺害され、死体が野原に放置されていたのだ。赴任してきたばかりの部下であるヴァリ(Anghel Damian アンゲル・ダミアン)は事件を解決するために調査を熱心に行うが、イリエは身が入ることがない。更に彼は町長(Vasile Muraru ヴァシレ・ムラル)に呼ばれ、驚きの告白を受ける。彼こそが殺人事件の真犯人だというのだ。彼から直々に事件の隠蔽を依頼されたイリエは、隠蔽を遂行するのだったが……

監督と、脚本を担当したRadu Romaniuc ラドゥ・ロマニュクOana Tudor オアナ・トゥドルはそんなイリエの姿を丹念に描きだしていく。しがない中年のイリエは常に苦い表情を浮かべながら、何の期待も持たずに日々を生きているように思われる。そんな彼にとって最後の希望が果樹園を持つことだった。町長はこの夢の成就を交換条件に隠蔽を迫るわけだ。

そして黙々と証拠隠滅を行いながらも、思わぬ出会いがある。ある日、イリエは被害者の妻であるクリスティナ(Crina Semciuc クリナ・セムチュク)の家へと赴くが、そこで彼女が町長たちに脅迫される様を目撃する。ひょんなことから彼女の息子を世話することにもなってしまう。そうして彼女たちと交流を繰り広げるなかで、イリエの心には揺らぎが生まれる。このまま隠蔽を続けるべきなのか、それとも……

撮影のAna Drăghici アナ・ドラギチは監督の公私におけるパートナーで、短編含め多くのネゴエスク作品を手掛けているが、今回もその連携は巧みだ。リアリズム主体の硬質な映像は村の寂れた空気感を観客の皮膚に体感させるとともに、その陰鬱さにイリエの心理模様そのものをも浮かびあがらせている。Marius Leftărache マリウス・レフタラケが手掛けた音楽は不穏な震えを多く宿しており、観客の鼓膜に凄まじく厭なざらつきを残していく。

こうして専心丹念に、時には泥臭いまでの鈍さで物語を組み上げていくなかで、現れるものがある。現代ルーマニア映画は個の倫理と公の倫理の、もっと言えば個人の倫理と職業倫理の衝突を一貫したテーマとして描きだしているのを感じる。例えば私の人生を変えたと言うべきCorneliu Porumboiu コルネリュ・ポルンボユ監督の第2長編“Polițist, adjectiv”は、警察官である主人公が高校生をある容疑で逮捕すべき否かに苦悩する作品で、このテーマ性を持ったルーマニア映画でも最も力強い1本ともなっている。そして“Oameni de treabă”は正に同じ問題意識を持ち、同時に警察官が主人公という意味で“Polițist, adjectiv”の直系にある作品とも言えるのだ。

今作の核となる存在がイリエを演じるIulian Postelnicuだ。彼を最初に観たのはRadu Muntean ラドゥ・ムンテアン“Un etaj mai jos”(レビュー記事)だった。ここでPostelnicuは犯した殺人を隠そうとする男性役で、真実を知った主人公を追い詰めていく。いわば個の倫理と公の倫理について問うてくる側の存在だったが、今作では逆にこれについて問われ、倫理的ジレンマに苦しむ側の存在となっているのが興味深い。

Postelnicuは劇中常に渋い表情を浮かべており、ここに陽の何かが兆すことはほとんどない。その状態でさらに精神的に追い詰められ、皮膚は影によって黒く染められて、絶望に塗り潰されることとなる。この表情こそが今作が倫理への苦悩を描きだすうえで、またとない説得力となる。顔中に刻まれた影、ここから深く濃厚なる苦渋が滲みだし、スクリーンを染めあげる。観客はこの苦悩の色彩を味わうことになるのだ。

“Oameni de treabă”はそうして倫理への問いを突き詰めていき、最後にはこういったスリラー的な作品にお約束の暴力へと到達する。だがNegoescuの手捌きは他と一線を画す。今作自体スリルといった要素は慎重に排されているが、暴力の激発においてもそれは徹底している。私たちはここに血腥さを目撃するだろう。しかしそれは果てしなく不毛であり、その先に何も生まれることはないと確信することになる。倫理への問いの臨界点に現れるこの絶望、この虚無。私は敢えて言いたい、これが、これこそがルーマニア映画なのだと。

Amil Shivji&“Vuta N’Kuvute”/ザンジバル、黒い肌と茶色い肌

さて、ザンジバルである。これはタンザニアに属するザンジバル諸島の指す地域名であるが、名前を聞いてパッと何らかの連想が働く人は多くないだろう。とはいえここ出身の有名人が何人かいる。例えばクイーンのボーカルであるフレディ・マーキュリーはイギリスの保護国だった頃のザンジバル諸島で、ペルシア系インド人の両親の元に生まれた。幼少期はインドに住んでいたが、1963年に両親とザンジバルへと移住する。しかし翌年にザンジバル革命が勃発、アラブ系とインド系住民に多数の死傷者が出るなかで、今度はイギリスへ移住することになる。ということで彼はザンジバル現代史に翻弄される少年期を送った訳である。

もう1人の有名人物は2021年のノーベル文学賞を獲得したアブドゥルラザク・グルナだ。フレディ・マーキュリーが生まれた2年後の1948年に生まれた彼もまた、ザンジバル革命によって国を追われ(グルナはアラブ系)、1968年からはイギリスに住み、この地で文学研究や小説の執筆を行うなどしている。著作に関しても、自身と同じくザンジバル出身という主人公は多いらしい。らしいというのは、まあまだ読んでないのでネット情報頼りということだ。といった風に、ザンジバルは文化の面でかなり独特の存在感を誇っている。今回紹介するのは彼らの人生を大きく変えたザンジバル革命も関わってくる、タンザニア出身のAmil Shivji アミル・シヴィ監督作“Vuta N’Kuvute”(英題:Tug of War)を紹介していこう。

舞台となるのは独立の機運が高まっているザンジバル、そしてこの島に住むデンゲ(Gudrun Columbus Mwanyika)が今作の主人公である。彼は漁師として生活している一方で、この島を保護国として実質支配するイギリスの打倒を目指す闘士でもあった。彼はソ連マルクス主義を学んだ後、革命のために故郷へと帰ってきたのだった。虎視眈々とその時を待ち続けるデンゲだったが、彼はヤスミン(Ikhlas Gafur Vora)という女性に出会い一目で恋に落ちてしまう。

今作はそんなデンゲとヤスミンの愛を描きだすロマンス映画である。2人は急速に接近していくのだが、大きな障壁が存在していた。ヤスミンは結婚を控えていたのだ。ゆえに彼らの愛は禁じられたものでありながら、互いに惹かれあうことを止められず、愛は加速していく。

しかし更なる障壁が2人の前に立ちはだかる。デンゲはアフリカ系であり、ヤスミンはインド系であるという人種の違いだ。ここでザンジバルの歴史を少しおさらいしよう。イギリスはザンジバルの住民を分割統治するにあたり、アラブ系を役人、インド系を商人として任じる一方、アフリカ系を下層の肉体労働者として扱っていた。この後にアラブ系が民族解放運動を主導し、ザンジバルはイギリスから独立を果たす訳だが、アラブ系スルターンの長年に渡る統治への不満を募らせた末、アフリカ系住民が政府の転覆を画策、こうしてザンジバル革命が勃発する。アラブ系は元よりインド系に対する不満も根強く、先述したマーキュリーの家族含め多くが亡命を余儀なくされた。こういった人種的緊張がアフリカ系、そしてアラブ系とインド系の両者には存在し、デンゲとヤスミンの愛に陰りを投げ掛けている。

こうして愛に心を引き裂かれていたデンゲだったが、遂に仲間たちとともに革命への計画を遂行することになる。その果てに彼は警察に捉えられて、刑務所で惨たらしい状況に追い込まれてしまう。デンゲを救いだすためにヤスミンは奔走するのだったが、刻一刻と時間は過ぎ去っていく。

今作の原作はザンジバル出身の作家Shafi Adam Shafiが生涯最後に執筆した、1999年完成の同名長編だ。Shafiはスワヒリ語文学を代表する小説家だそうだが、英語ですらほとんど情報がなく詳細はあまりハッキリしない。だがザンジバル革命を背景としたこの悲恋の物語は傑作と名高いのだという。残念ながら翻訳は英語すらない。グルナも母語スワヒリ語でなく英語で執筆しているし、スワヒリ語は英語帝国主義に支配された世界文学の時代にはマイナーであらざるを得ないということなのだろう。

自身もザンジバルにルーツを持つShivji監督はこの長編小説を映画化するにあたって、興味深い趣向を凝らしている。撮影監督Zenn van Zylによるカメラがデンゲやヤスミンを撮す時、彼らの肌は艶やかな輝きを帯び、その美しさに息を呑んでしまうような瞬間がある。特に冒頭における、濃密な黄が彼らに降り注ぎ、その肌に馴染んでいく様はすこぶる印象的なものだ。

思い出すのはバリー・ジェンキンス監督による、オスカー作品賞も獲得したロマンス映画「ムーンライト」だ。今作はゲイのアフリカ系青年が貧困や暴力に翻弄されながら、愛を探し求める様を描く作品だ。そこにおいて官能性が重要な要素となるが、ジェンキンスは撮影監督のジェームズ・ラクストンやカラリストのアレックス・ビッケルとともに、アフリカ系の黒い肌がスクリーンに美しく映えることに細心の注意を払ったという。そうして「ムーンライト」の美しさや官能性が生まれたが、“Vuta N’Kuvute”は正にその手法に学んだ画面・色彩設計を行っているように思われる。

2つの物語には社会の片隅で抑圧される者たちの愛を描いたロマンスであること、そして愛が宿す力強い美しさについて謳いあげる作品であるというものが共通している。ゆえにShivjiは今作を映画化するにあたって「ムーンライト」という巨人の肩を借りて、官能の世界観を作りあげたと想像したくなる。

そしてここにおいてはアフリカ系であるデンゲの黒い肌、インド系であるヤスミンの茶色い肌は艶やかな輝きを宿し、2つは滑らかに溶け合うことになる。1つになった心はどんな状況にあっても離れることはない。抑圧の前でも、暴力の前でも壊れることなどなく、色褪せることもない。永遠のものとしてそこで輝き続ける。これこそが愛なのであると、“Vuta N’Kuvute”という映画はそう観客へと囁くのだ。

「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」のルーマニア語原題を訳す!

さて4月23日から日本でも「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」が上映されている。今作はルーマニアで今最も注目される映画作家Radu Jude ラドゥ・ジューデの最新作で、かつベルリンで最高賞の金熊賞を獲得している。ジューデ監督作が日本公開されるのは初めてゆえに、ルーマニア映画に衝撃を受けルーマニア語まで勉強し始めた私としては感慨深い。だがここで語りたいのは今作やジューデについて以上に、その異様な題名についてだ。

今作のルーマニア語題は“Babardeală cu bucluc sau porno balamuc”という。初めてこの題名を見た時、一応かなりルーマニア語を勉強していたのに、マジで全く意味が分からず驚いた。というのもこの題名、えげつないスラングまみれなのである。ルーマニアの友人ですら戸惑い、少なくとも他言語に翻訳は難しいと匙を投げるレベルだ。単語に関しては後で詳しく見ていくが、とりあえず、まあえげつなさを反映するなら“すっちゃかめっちゃかファックまたはキチガイエロ動画”という、下品さ差別的ニュアンスましましなものになる。

だがこれはあくまでニュアンスを汲み取っただけで、もう1つ重要な要素が欠けている。よく見てもらえば分かるかもしれないが、この題名は子音“b/l/c”と母音“a/u”を多用して韻を踏みまくってるというか、凄まじくリズミカルなものになっているのだ。カタカナで表記すれば“ババルデアラ・ク・ブクルク・サウ・ポルノ・バラムク”という感じだ。私もこれを連呼するのはかなり気持ちがいい、爽快感すらある。つまりこの題名は、死ぬほど“ルーマニア語的”という特徴があるのだ。

ここでちょっと英題と邦題を見てみよう。英題“Bad Luck Banging or Loony Porn”は意味としてはある程度近づけたうえでの妥協を感じる一方で、しかしより重要なのは先述した子音“b/l/c”と母音“a/u”のリズムを可能な限り再現した語彙を使っていることだ。冒頭を“Ba”で始めたり、“balamuc”にあたる言葉には綴りは違うが“lu”発音で意味も同じ“loony”を使ったりと芸が細かい。ルーマニアの友人たちはこれは訳すのが難しいと言う一方、この英題はかなりルーマニア語のニュアンスが再現されているとも言っている。おそらくこれはジューデらスタッフ陣が頑張って捻りだした英題なのだろう。

そして「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」という邦題だが、まあこれは英題から重訳したことは明らかで、ゆえに言葉遊びがないしえげつなさがない。そして英語ばっかで日本語になってる感がない。なので私としては物足りなさを感じる。ということで、何の因果かルーマニア語ができる日本語ネイティブとして、この題名の日本語訳に挑戦してみたい。

まず前節の“Babardeală cu bucluc”だ。これはニュアンスとしては“トラブった無秩序なファック”みたいなのを、更にスラング使って俗っぽくした響きを持っている。そして子音“b/l/c”と母音“a/u”を連呼するのがマジで気持ちいい。この2つをいかに両立するのかが問題だ。実をいえば最初の“Babardeală”が一番の曲者だ。オンライン辞書dex.roで確認すると、意味は“act sexual / 性に関する行為”という妙なまでにそっけない記述しかない。だが友人に聞けば“ファック”とか“ブチこみ”とか、相当強烈な意味で使われていると思える。しかも他に検索すると“ラクダのコブ”みたいなのもでてきて何が何だかサッパリだ。dex.roの記述はあまりに意味がカオスすぎるので、編纂者が匙を投げたって印象だ。まあスラングに関して辞書を頼るというのもアレだろう。

だから“babardeală”には“セックス”を意味する強烈な日本語が望ましいと私には思えた。そこでリズムも勘案すると、ここにはオノマトペ的な言葉を入れるべきと思えたんだった。エロに関するオノマトペとか日本の右に出るものないからね。で、最初の候補は“パコパコ pacopaco”だった。母音“a”と子音“c”、そして“b”に準ずる破裂音“p”を使ったオノマトペで“セックス”を意味するスラングだ。一見すると“セックス”って意味に結びつかず、しかしよくよく考えれば“ファックしてる時にちんことまんこがぶつかりあう音”と連想が働く。そういう思考の流れはルーマニアの人が見ても一瞬意味が取れず、しかしいつしかあの“ファック”を意味するスラングか!と分かる“babardeală”に近い、と思う。実際これはルーマニアの人に馴染みがあるとは言えないスラングで、その証拠に今作がルーマニアで公開された月、先述したdex.roで“babardeală”の検索回数がトップになったって記録が残っている。検索しないと意味が分からないって人が一定数いた訳だ。

だが正直“パコパコ”では物足りない自分がいるのに気づいた。そこで考えて思いついたのは、いっそ“p”を“b”に変えて“バコバコ”にするかってことだった。正直“バコバコ”がそういうスラングとして使われているのは見たことないが、これを検索したらケンドーコバヤシケンコバのバコバコテレビ」というバラエティ番組が出てきた。ケンコバとセクスィな女の子が何か色々エッチなことやるってエロ番組らしい。これは明らかに“パコパコ”と“コバヤシ”をかけたやつで、総意とまでは行かないが“バコバコ”を“パコパコ”に準じた言葉として使うことがない訳ではないってことと受け取った。そして個人的にはネットで検索するとこのケンコバの番組が出てきて、ニュアンスが理解できるって過程が気に入った。それに後述の言葉と組み合わされば“バコバコ”が“セックス”を意味してるってのは分かるという確信もある。なので俺は“babardeală”を“バコバコ”って訳すことにする。

そして“cu bucluc”だ。これは直訳すると“不幸、厄介事、無秩序と一緒に / with bad luck, trouble or disorder”という意味だ。つまり英題も邦題も形容詞として訳しているが、微妙に違うのだ。ここでわざわざ“cu”という前置詞を使ったのは、子音“c”と母音“u”を使うため、かつ同じくリズムのいい名詞“bucluc”を使うためだろう。後者の形容詞変化は“buclucaș / ブクルカシュ”であり、語尾でリズムが乱れる訳だ。そして“bucluc”は“不幸、厄介事、無秩序”という意味だが、実際これらを表現する時はそれぞれ“nenoroc”、“necaz”、“turbulare”という標準語彙を使うことが多く、これはあまり使われない。用法を検索するにしろ明らかに数が少ない。使わないということはないが、使用頻度は落ちるというそんなスラングなのだ。

これらの背景を勘案しての日本語の候補だが、俺の頭には2つ思いついた。“すっちゃかめっちゃか succhaca mecchaca”と“むちゃくちゃ mucha cucha”だ。どちらもまずリズム、そして口に出して気持ちがいい語彙というのを優先したうえで、“不幸、厄介事、無秩序”という意味に関しては、どれかでなくどれも包括したような感じを目指した。俺としてはどっちも悪くない気がするが、前者は“cu bucluc”と比べると長すぎる感が否めない。促音“っ”に関しても言ってて気分はいいが、原語にその音がないので少し齟齬がある。なので、まあ“むちゃくちゃ”だろうか。母音“a/u”と子音“c”で構成、そして“cu”が共有される。比べて発音すると、何か違うかな?とも思えるが、他にいい感じのが思いつかない。

ということで“Babardeală cu bucluc”は、これらを組み合わせて“むちゃくちゃバコバコ”で、どうですかね。ルーマニア語の語順を尊重して“バコバコむちゃくちゃ”にしようかとも思ったが、やっぱり変なので流れは“むちゃくちゃバコバコ”の方がいいという結論だ。

そして次は“porno balamuc”だ。“porno”はそのまま“ポルノ”か“エロ動画”でいいとして、問題は“balamuc”だ。今までスラングが4つ出てきたが、そのなかで一番の問題児がこいつだ。この意味は“精神病院”なのだが、かなり差別的なニュアンスがあるので放送禁止用語を使った“気違い病院”の方がより近い。そしてお気づきの通り、元々は名詞であり、ここでは例外的に形容詞的用法で使われている。そうなると、まあ“気違いの”みたいな、これまた相当ドギツい意味になる訳である。

で私が考えたのは、まず“いかれポンチ”だった。正直“気違い”をそのまま使うというのは抵抗感があるので、その意味を緩めた言葉としてこれを挙げた。邦題で唯一“イカれた”は悪くないと思っている、まあ“loony”の方が音という意味では上だがね。私も正直ここに関しては音と韻に関して最適解が思いつかなかったので、色々と意訳を試みている。でこの“いかれポンチ”に辿りついた訳だった。

だがここで怪我の功名というべきか、私は“いかれポンチ”のなかに“ポルノ”の“ポ”が隠れていることに気がついた。これを絶対に利用したいと思って、何気なく“ポンチ”をひっくり返したんだけども、ここで私はマジで驚いてしまったね。だって“ポンチ”を逆から読むと“チンポ”になるからだ。確かに元の“porno balamuc”に“チンポ”の意味はない。だけどさ、今作を観た人なら“チンポ”がどうやって劇中に出てくるか分かってるだろう。この“チンポ”は絶対に入れるべきだと思った。そうして完成した訳が“イカれチンポルノ”だった。ひらがなとカタカナの配分も考えたんだが、“イカ”をカタカナ表記にしたのは“イカ”ってのが“イカ臭い”みたいな言葉が精液関連で使われて、つまり性的な含みが存在するからだ。

と、いうことで私の考えた“Babardeală cu bucluc sau porno balamuc”の日本語訳は「むちゃくちゃバコバコまたはイカれチンポルノ」となった。スラングを多用しながらルーマニア語の意味へと近づけていった上で、前半に関しては子音“b/l/c”と母音“a/u”のリズムを優先しての“muchacucha bacobaco”とした。後半に関してはどうしても意味とリズムの両立ができず、かつ私のなかで“イカれチンポルノ”がガチッと嵌まりすぎて捨てるのは惜しく、このまま使った。正直、最善とかそういうものでは断じてない。しかし私の持てる日本語とルーマニア語の知識を余すところなく注ぎこんだとは思っている。だから私は「むちゃくちゃバコバコまたはイカれチンポルノ」を深く誇りに思うよ。