鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Joaquín Ruano&“Nosotros”/グアテマラ、死が2人を分かった後に

Joaquín Ruanoによる崇高な第2長編“Nosotros”において主人公は2人いる。まず1人はロメロ(Jozef Coxaj)という先住民の男性であり、彼はグアテマラの地方都市で家族を養う日々を送っていた。しかし稼げない状況に業を煮やした彼は、首都であるグアテマラ・シティへ出稼ぎに赴く。ここで同じ境遇の仲間とともに警備員の仕事を得るのだったが……

もう1人の主人公がヌビア(Lola Vásquez)である。トランス女性である彼女はロメロが勤めるショッピングモールで質屋を経営しているのだが、孤独を深めながら満たされない日々を送っていた。そんな中で彼女はロメロと出会い、何度も交流するうちに彼に惹かれるようになる。

監督はそんなロメロとヌビアの姿を通じて、まずグアテマラの実情を描きだしていく。グアテマラにもやはり地方都市の衰退とそこからの若者の流出が問題となっており、ロメロは正にその問題を象徴していると言える。そして首都のグアテマラ・シティは地方都市に比べれば栄えながら、その代償として治安は相当に悪い。ロメロの仕事は警備員だが、常にショットガンを携帯としており、職務遂行が命懸けというのが一目で伝わらざるを得ない。

ここにおいて撮影を担当するPaolo Giron(担当作“Jóse”は鉄腸ブログで紹介済み)のカメラは基本的に被写体と距離を取っており、そこにデジタル撮影特有の、映る全てに焦点が当たるという解像度の高さも相まって、定点カメラさながらの観察的な冷やかさが画面全体から滲んでいる。そこでは登場人物たちとともに、建築や都市がより印象的に映る。ロメロたちの働くショッピングモール、彼らが交流を積み重ねていく雑踏、親密さを深める部屋、そしてこういったものを抱くグアテマラ・シティという都市そのもの。これがGironの撮影でまず際立つのである。

そんな中でふとロメロやヌビアの顔へと一気に近づく瞬間がある。携帯を見つめる時の無表情、相手の感情を伺うような不安げな顔。そういったものが観客に迫るのである。この緩急こそが1つ1つの画を印象深くさせるのだが、それは編集を担当したCésar Díazの功績だろう。鉄腸ブログでも紹介した“Nestras madres”の監督でもある彼は編集技師としても独自のテンポを作品に宿すのに成功している。こうして都市の光景と人の佇まいが、ロングショットとクロースアップの交錯によって1つになることで、躍動感すらある豊かな情感がここに生まれるのである。

そして今作はクィア映画としても際立つものがある。ロメロは故郷に妻や子供といった家族を残しながらもグアテマラ・シティでトランス女性のヌビアと親密な関係になる。こうしてクィアな愛の領域に足を踏みこむことになり、性において多数派として生きてきた彼は当惑せざるを得ない。そんな彼の心と体をヌビアは少しずつ解き放っていき、自身の孤独が癒されるのも感じる。先述した演出の豊かさも相まって、このクィア・ロマンスは静かに心揺さぶるものとなっている。

だがそこにグアテマラの過酷な現実が襲いかかる。性差別はもちろん先住民差別をも内包した社会的な悪意が2人に牙を剥くのだ。そうして私たちが目撃することになるのは喪の作業である。亡くなったという報を受ける、遺体を棺へと移動させる、棺を故郷へと運ぶ。そういった喪の作業があの冷ややかな撮影とともに淡々と描かれていく。

社会的偏見がゆえにクィア当事者はより多くの差別、より多くの暴力の被害者となり、そして必然的に早すぎる死すらも彼らには多く訪れる。そんな荒涼たる状況に在ることをクィア当事者たちは強いられるのだ。私たちはこうして切実で悲痛な形で、グアテマラの今に死にゆく、それと同時に今を生き続けていくクィア当事者たちの姿を“Nosotros”に目撃することになる。

Shahrbanoo Sadat&“No Good Men”/アフガニスタン、仕事に恋に自爆テロに


razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
2021年5月、アメリカ軍がアフガニスタンから撤退を開始した。兵力、そして財政的な負担ゆえのことだった。この期に乗じて旧支配勢力であるターリバーンが首都であるカブールに進軍、国土を制圧して政権を奪還することとなる。ここにおいて女子教育の禁止など特に女性たちへの抑圧が激しさを増し、少なくない女性たちもまた国外への移住を余儀なくされる。その中には世界的に有名な女性監督もいた……今回紹介するのはそんな亡命監督が当時について描いた、アフガニスタン舞台のロマンティック・コメディ……ロマンティック・コメディ!?な驚きの1作であるShahrbanoo Sadat監督作“No Good Men”だ。

主人公となるのは30歳のシングルマザーであるナル(Sadat監督が兼任)だ。彼女は離婚後に女手一つで息子のリアム(Liam Hussaini)を育てながら、アフガニスタンの首都カブールにあるテレビ局で唯一の女性撮影技師として忙しい日々を送っていた。

まず今作は彼女が繰り広げる波乱だらけの日常を活写していく。仕事場はかなりの男社会であり、女性で現場に出ていくのは撮影技師のナルくらいしかいない。だからか撮影技師としての技術を“女性だから”という理由だけで常に見くびられている。さらには法的にも性差別が内在しているゆえ、リアムの親権が常に危機に晒されており元夫の脅威に怯えなくてはならない状況が続いている。

このようにして監督はナルの悪戦苦闘を通じてアフガン社会の男性中心っぷりを批判していくわけだが、その様は重苦しくなくむしろ小気味よい。例えばこの苦闘の裏側で、ナルは友人に“アフガニスタンにいい男なんていやしない!”と愚痴ってみせる様はアメリカのロマコメで見掛けそうな場面だ。そして今作は正にそんな雰囲気から予感できる道筋を辿っていく。

ある日、ナルはコドラット(Anwar Hashimi)という年上のジャーナリストと出会う。その第一印象はサイアクなもので出会った瞬間「女が撮影?プロを連れてこい!」とクレームを入れられ、ナメた態度を露骨に見せる。それでもナルがプロとして確かな技術を見せていくなかで、コドラットは少しずつ彼女を認め始める。

こうして今作はお仕事恋愛ものへと変貌を遂げる。最悪の出会い方をした2人が、職業人としてのプロ意識を互いに見せる中で信頼を育み、そこからさらに互いの人間性を垣間見ていくことで惹かれあっていく。その様はロマコメか、いや少女漫画かといった展開だ。

さらに今作ではそこに、銃撃戦が繰り広げられるテロ現場でひょんなことから距離が縮むといった、アフガニスタンといった情勢不安な国でしか起きない吊り橋効果レベル100的な描写も加わっていく。これがアフガニスタンの日常!なのかは断言できないが、深刻さと軽やかさが混ざりあった独特の雰囲気がここには広がっている。

この中でナルの“いい男なんていない!”という考えは変わっていくわけだが、より印象的なのはコドラット側の変化だ。当初は典型的な“男は仕事、女は家事”という凝り固まった価値観を持っており、それでナルをムカつかせるわけだが、彼女の奮闘や主張に感化を受けていき、いつしか考え方が変わっていくわけである。ここで興味深い描写として、ナルがアフガニスタンの男性にいい男がいない理由に関して皆がある“トラウマ”を抱えているからだと持論をぶつ場面がある。これに関して監督自身はインタビューでこのトラウマと、アフガニスタンの男性全般についてこんな言葉を残している。

“彼らの多くは“男とはこうあるべきだ”という硬直した観念――家族を養い、家長として君臨し、絶対的な権威であること――に縛られています。何世代にも亘って、誰もそのあり方に疑問を抱いてきませんでした。しかし今、それに疑問を投げかける女性たちが現れ、それが彼らを落ち着かなくさせてるんです。

(中略)思うに今は男性というアイデンティティが危機に瀕しているんですよね、もし男性が絶対的な稼ぎ手や権威でなければ“彼は一体何者なのか”と問われてしまうと。そうした状況が不安を生み、フェミニズムを脅威とみなす人々も現れるわけですね。

それから女性は互いに支え合うネットワークを築いていることが多いですが、男性はむしろ孤立していることが多いという点にも気づきました。孤独がいわば蔓延しているんです。彼らは友人同士であっても、自分の弱さをさらけ出すのが苦手というわけですね。それでも、私は変化を信じています。もし“男性であること”に多様なモデルが存在すれば、新しい世代は別の道を歩めるようになるはずだと”*1

そして私たちはこういった難しい状況の背景にいかなる存在があるかをまざまざと見せつけられることとなる。文章の最初で言った通り、今作の舞台となっている2021年はタリバンがアフガニスタンの政権を掌握した年である。劇中でもタリバンが少しずつ権力を奪取し、市井の人々の生活が変貌を遂げる様が描かれる。

そこにおいて特に印象的な場面として、以下のものが挙げられる。序盤、ナルとそして同じテレビ局で働くレイラが、アメリカ帰りの友人と再会を果たす。彼女は“これ、離婚祝い!”とナルに、ご丁寧に亀頭や皮も再現したディルドをプレゼントする。ナルはディルドに爆笑、レイラはドン引きといった形で何だかんだ再会を喜ぶのだが、それからしばらくしてレイラが自爆テロの犠牲になってしまう。

これほどまでに急激に情勢が変わっていく中で、いち市民はその大いなる流れに対して無力であり、そこに影響を与えられるはずのジャーナリストたちも実際は彼らと同じく大いなる政治的暴力に呑みこまれるのみである。

今作の原作はコドラット役のHashimiが実際のタリバン政権奪取期に記していた日記であり、Sadatがその脚色も行っている。主人公のキャラ造形が自身の境遇に近いので、物語には両者の経験が多分に反映されてもいるのだろう。さらに主演すらもSadatが兼任しているわけだは、先述したアメリカのロマコメに登場しそうな恋に仕事に大忙しなカメラ技師をコミカルかつ魅力的に演じている。インタビューによるとこの役を情勢的な意味で他のアフガニスタンの女優に担わせることはできないと、主演兼任を決めたらしい。男性に希望は持ちたいし、1人1人にはいい人もいるが彼らが構成する社会に対しては絶望感しかないと、そんなアフガニスタンに生きる女性の心を彼女はこうして体現したのだろう。

2021年、タリバンによる政権奪取の年、サイアクな出会い方をした年上のアイツに恋しちゃったアタシどうなっちゃうの!?アフガニスタンの少女漫画風お仕事ロマコメは、テロに亡命にと命懸け!?……こんな実体験を基にこんな映画作れるのは、Shahrbanoo Sadat、アンタしかいねえよ……

Zaid Abu Hamdan&“Boomah”/ヨルダン、クソアマのこの生き様

中東諸国は映画産業の規模がそこまで大きくはなく、かつイスラム教の影響もあるのか、ジャンル映画が少ない印象がある。もしくは地産地消で消費されるに留まり、地域外にそういった映画が届かないか。例外は映画大国のイランとイスラエルくらいだろうか。こういう状況なので中東のジャンル映画を見つけたら即観るくらいの勢いでいるわけだが、今回紹介したいのはそんな中でとうとう見つけたヨルダンの犯罪映画であるZaid Abu Hamdan監督作“Boomah”だ。

主人公となるのはアラビア語で“フクロウ”を意味する渾名を持つブーマ(Rakeen Saad)という女性だ。彼女は子供の頃に親に捨てられて以来、孤児としてスラム街を生き抜いてきた。今はファデル(Majd Eid)をリーダーとするギャング団に所属、レバノンの首都アンマンに広がる地下経済で生存闘争を繰り広げる日々を送っている。

今作はそんなブーマを中心に弱肉強食の世界を描きだすスリラー作品となっている。ブーマのそのサイコパス的な気質や気性の荒さから多くの人から恐れられる存在だ。住処の周りで騒ぐ子供たちには暴言を吐き、露天商から地代をほぼ強奪かのように徴収し、ギャング内でも自分を侮る者がいれば暴力も辞さないし、権力奪取の時も虎視眈々と狙っている。

監督以下スタッフたちはそんな荒々しい物語を娯楽映画として語る腕に長けている。撮影監督Samer Nimriは生々しさと端正さを合わせ持った映像を展開させていきながら、観客を弱肉強食の物語世界へと引き込んでいく。そして編集を担当するDina Faroukは観客がブーマの一挙手一投足にドン引きする暇すらも与えないまま、息もつかせぬテンポで物語を前に進めていく。

ここにおいて暴力/アクション描写もなかなかのものだ。物語の随所でブーマたち登場人物は容赦ない暴力を躊躇なく繰り出していくわけだが、グロテスクな描写は意外なほど抑えられながらも勢いと迫力は印象に残るに十分だ。ギャングも金がないからか銃はあまり使われず、素手やナイフが主な武器ゆえの泥臭さも特徴的だ。個人的に、ウィリアム・フリードキンの「ハンテッド」を彷彿とさせるナイフファイトはアガるものがあった。

こういった状況で、やはりというべきかギャング同士の抗争が勃発することとなる。ブーマもこの抗争に巻き込まれ襲撃を受けるなどもするが、彼女はこの混乱に乗じて、大金を奪う計画を立てるのだったが……

今作において何を措いてもインパクト大なのはブーマを演じるRakeen Saadの存在感だろう。ブーマという女は搾取、恐喝、暴力、殺人などの犯罪行為を行うのにいささかの躊躇もない、最近の映画では昨今あまり見掛けないレベルのクソアマだ。そんな共感や同情を一切受けつけない泥と血塗れの狂犬に、Saadはそのまま受肉したかのように熱演してみせる。

それでいて彼女は、後半においてブーマの秘めたる側面をも説得力を以て演じてみせる。ある日彼女は孤児のきょうだいと出会う。最初はいつも通りの人を人と思わぬ態度で接するのだが、彼らとの交流の中でなけなしの良心が芽生える。そしていつしか彼らを助けることが、親に見捨てられたことで受けたトラウマを癒すことにも繋がっていく。だが今まで成した所業はそれだけで贖われるはずもない。この状況で紡がれるクソアマとしての生き様はかくも壮絶なものであり、Saadはそれを鬼気迫る形で体現していく。こうして“Boomah”は2026年において最も濃密なジャンル映画の1本として際立つのである。

Mahmoud Al Massad&“Cinema Kewakeb”/ヨルダン、とある映画館で

今、娯楽の多様化や配信状況の発展といったものの影響で映画館が少なくなっていっているという悲しい現状がある。2026年においては新宿のシネマカリテが閉館したことが、個人的に衝撃でもあった。そしてより悲しいことに、これは日本だけで起こっているわけではない。ということで今回は中東はヨルダンのとある映画館を描く1作であるMahmoud Al Massad監督作“Cinema Kewakeb”を紹介しよう。

舞台となるのはヨルダンの首都アンマン、そこに位置するシネマ・ケワケブという映画館だ。コロナ禍でヨルダン全土の映画館が次々と潰れていった中、1945年から営業しているこの老舗は何とか命脈を保ち続けていた。とはいえいつ閉館してもおかしくない状況で、Al Massad監督はシネマ・ケワケブの記録を後世に残すためドキュメンタリー製作を始めるのだった。

こうして映画館の記録映像がまず映し出されていく。こじんまりとした規模で、かつその内装はボロボロで落書きだらけだ。そこでも様々な場所に張ってあるアラビア語の映画ポスターはマニアなら垂涎ものだろう。そしてフィルムを保管するための倉庫もあるのだが、相当に朽ちており端から見れば廃墟も同然だ。

シネマ・ケワケブはこんな状態でありスタッフもほとんどいない。最後に残ったのはアリとユセフという勤続数十年のベテラン2人だけであり、監督はそんな彼らに話を聞いていく。ヨルダンの現代史とともに歩んだ歴史、コロナ禍から始まった過去最大の苦境……さらに監督は映画館常連であるホームレスのフセインにもインタビューを行い、観客の視点からのシネマ・ケワケブも描きだしていく。

状況はすこぶる過酷なものでありながら、今作に満ちている雰囲気はどこか微笑ましいものだ。監督が彼ら3人や周辺で生きている人々の信頼を得ていってこそ、言葉を引き出しているのが分かるのだ。インタビュー外で3人がお喋りにかまけている様なども映し出されており、映画を通して彼らが気の知れた友人のようにも思えてくるのだ。

そしてここには緩さも存在している。記録映像には音声マイクが映り込み、カットの掛け声も何回も響く。そしていい感じの画を撮るため、監督が被写体に指示するも彼らは俳優ではないので妙な動きをしたりする。そのたびに“いや、こう動いて!”と指示し撮影はグダグダな進み方をする。こういった映画の体裁を整えるために普通は真っ先にカットされるだろう撮影裏の風景が意図的に多く使われており、これが作品の微笑ましく、かつ緩い雰囲気に寄与しているわけである。

そんな今作では随所にフッテージ映像が挿入されていく。第1次世界大戦の勃発、大戦終結のため開催された首脳会談、ホロコーストを乗り越えユダヤ人たちがイスラエル建国に励む姿、そしてハマスのテロを受け演説を行うネタニヤフ首相……これらのフッテージ映像は20世紀から今に至るパレスチナ問題の推移を表しているわけだが、ヨルダンがこの問題と深く関わっている何故ならこの国がイスラエルとパレスチナの隣国だからである。

フッテージ映像では直接描かれないが、そこで起こる出来事の数々にヨルダンは翻弄されてきた。イスラエル建国後、隣接するヨルダンにはパレスチナ難民が流入、現在その人数は250万を優に越えている。経済状況は芳しいものではなく、世界銀行の分類において“低位中所得国”とされている。そんな状況でパレスチナ難民に加え、同じく隣接するシリアやイラクからの難民も数多く、財政的ひいては社会的負担は甚大なものだ。

こうした状況でヨルダン映画界は難しい立ち位置にある。ある場面でフランスからの観光客がアリとユセフにこんな質問をする、ここではどんなヨルダン映画が上映されるんですか?と。彼らはこう答える、いやヨルダン映画なんてやらないよ、そういうのはテレビ局しか作らないからね。というのもテレビ界は世界的にもNetflixとタッグを組みドラマシリーズ「アルラワビ女子高校」を制作し好評を博すなど上向きだが、映画産業はそこまで発展しておらず、1年に製作される長編映画は未だに数本単位だ。そんな中でヨルダンの映画館はアラビア語圏の作品、アメリカやインドの映画を上映することで観客を集めていたが、先述の通りコロナ禍で壊滅状況に陥ってしまい、シネマ・ケワケブが孤軍奮闘を続けている。先の問答はこういったヨルダン映画界の状況を端的に示しているとも言えるだろう。

裏側の難しい現状が徐々に顕になっていくうち、今作の雰囲気も少しずつ変貌を遂げていく。撮影において監督は被写体への演技指導を行うわけだが、その指導がどんどんエスカレートしていき、彼らの動きや見え方を完全に支配しようとするかのごとく映る。そうすると必然的に現場には緊張感が生まれ、空気がギスギスし始める。今作は数少ないヨルダンの映画監督によるヨルダン資本で作られたヨルダン映画なわけだが、それゆえの自負がこの緊張感を生んでいるのではと思わされたりもする。

こうなると観客の頭に浮かばざるを得ないのはドキュメンタリー撮影をめぐる倫理的な問いである。現実をありのまま見据え、そして語る。フィクションと対比したうえでドキュメンタリーの根底には一応こういった考えがあるべきとされるわけだが、今作でこの前提条件が明らかに失われていくのを私たちは感じざるを得ない。ドキュメンタリーにおいてこういった演出の数々はどこまで許されるのか。

“Cinema Kewakeb”はまず瀬戸際にある映画館についての微笑ましい記録として幕を開けながらも、首都アンマンの今、隣国パレスチナひいては中東の激動の現代史、ドキュメンタリー製作が必然的に伴う倫理的問いをもまるっと描く複雑微妙な作品へと変貌を遂げていく。未だ楽観視はできないが、それでもヨルダン映画界の飛躍を期待せざるを得なくなる1作だ。

Amartei Armar&“Ego Reach We All”/アクラ、ここじゃ金こそ全てさ

今回紹介するガーナの新鋭Amartei Armarによるデビュー長編“Ego Reach We All”、その主人公となるのはオウスとアドベア(Idrissu Tontie Jr&Dorothy Adobea)という2人の孤児だ。実の母親に捨てられたオウスはアドベアの母親に育てられたゆえ、2人は兄と妹同然の関係性だ。しかし彼女が亡くなったことで彼らは孤児院に入れられてしまう。そこでの生活に耐えられなくなった2人はオウスの母親を見つけるため、ガーナの首都であるアクラを目指す。

まず監督はそんな2人の旅路を描きだしていく。衣食住のその全てがままならない旅路はあまりに過酷なのもので、幼い2人は見る間に疲弊していく。だがまるで大地の精霊の加護を受けたように、彼らは様々な巡り合わせに恵まれ旅は続いていく。こうして序盤においては、どこかスピリチュアルな雰囲気の中で物語は展開していく。

そしてオウスたちはとうとうアクラに辿り着くのだったが、そこで痛烈な洗礼を受けることになる。生命力溢れる混沌に圧倒された彼らはストリートに生きる同年代の少年少女に荷物を奪われ無一文になってしまう。だがどうしても諦め切れずギャングの根城にまで喰らいつくのだったが、リーダーであるジギー(Emmanuel Wilberforce)にその意気を認められ、2人はギャングに加入することになる。

こうして2人のアクラでの生活が始まるわけだが、撮影監督であるJohn Kwame Markinは手振れの伴った勢いある撮影で以て彼らの姿を綴っていく。生きるためにアクラ中を駆け回る姿の熱気はもちろん、ガーナで最も栄える都市アクラに満ち渡る活力をこれでもかと観客は味わわされるわけだ。そして都市に広がる喧騒や匂いまでもがスクリーン越しに迫るゆえ、視覚だけでなく聴覚や嗅覚といった他の感覚までもが刺激され、その映画体験は豊かなものとなっていく。

そしてここでは若者文化も活写される。特に大々的に描かれるのは音楽であり、ギャングにはラッパーもいる関係でヒップホップを含めたガーナの最新音楽が全編で流れるのだ。劇伴を担当する一人がガーナ系イギリス人ラッパーのK.O.Gなところにもその気合の入りようが伺える。曲の数々を通じていつの時代も、どんな地域でも若者文化はこうして新鮮かつ反抗的な力で満ちているというのを観客はまた知るだろう。

だが今作が最も鋭く見据えるもの、それは資本主義そのものである。オウスたちはジギーたちと共に露天商として、服やアクセサリー、食べ物などなど売れる物は何でも担ぎ、アクラを練り歩きながら金を稼いでいく。今までは大人の庇護下にあったオウスとアドベアは初めて仕事というものをするわけだが、商売のコツを掴んで商品を売り捌くことで初めて自分の手で金を手に入れ、そして初めて自分のケツを自分で拭けるようになる。こうして彼らは今までにない高揚感と、そして自由を得る。

ただその資本主義的な生活には当然だが負の面も存在する。ギャングは定住できる場所がなく、廃墟などを不法占拠して生活を続けている。ゆえにいつ追い出されるか分からない恐怖や不安がある。さらに商売には好況不況が存在し、金が稼げなければ生活の質は落ちざるを得ず、この不安定さがゆえにギャング内の雰囲気も不穏なものになる。この弱肉強食の社会には安心は存在する余地がない。

ある場面、車通りの激しい道路上でオウスたちは商売をするのだが、ギャングの1人がある看板と自撮りをする。そこに描かれているのはガーナの初代大統領であるクワメ・ンクルマだ。ガーナ独立の立役者として有名な彼は、社会主義とアフリカ土着の文化の親和性に着目し“アフリカ社会主義”を提唱していたことでも有名だ。この場面はそんな彼の時代から長い時間が経ってしまったことを皮肉な形で伝える意味で印象的だ。

こうして過酷な資本主義下で生き抜こうとするオウスたちの姿が描かれるわけだが、過酷ではありながらもそれはオウスたちにとっては確かに“青春”でもある。同じ思いや志を共有する同年代の友人たちと、若さの勢いのままにその可能性を探求していく。その時代では、喜びも悲しみも他の時代にはない瑞々しさとともに輝いている。だがそんなかけがえのない時間は、全てがそうであるように永遠には続かない……

それでいて資本主義は永遠と思われるほどに続いていく。そこにおいて自分たちには何ができるのか?監督はガーナの今を見据えたうえで、彼なりに答えを見せてくれる。劇中には3つの言語が登場する。まずはピジン英語だ。ガーナの土着言語の数々と英語が混交したこの言語は、ガーナひいてはアクラの共通語であり、それはつまりここにおいて資本主義を駆動させる言語ともなっている。

あとの2つはガーナの土着言語であるトウィ語とガー語である。オウスとアドベアはトウィ語が母語であり、ギャング内にはガー語を母語とするメンバーがいる。同じクワ語族ではあるが、意思の疎通はできないゆえに、ピジン英語が共通言語として使われるわけだ。だが共通言語でお茶を濁すのでなく、それぞれの母語や民族に立ち返ったうえで、異なる言語と民族について知っていくことこそが今求められるのではないか。監督はそういった理想を提示するのである。

これは過剰な個人主義から緩やかな共同体主義へと移行を目指すことでもあるだろう。もしかするのなら先述したンクルマのアフリカ社会主義へと再帰する試みであるのかもしれない。もちろん社会主義とまでは行かないだろうが、かといって資本主義も最良のものではない。“Ego Reach We All”はこうして資本主義下における青春の光と闇を描きながら、その先にあるより善き未来への道を提示しようとする野心的な1作だ。

Florin Șerban&“Nu e locul tău aici”/ルーマニア、ここはお前の居場所じゃない

先日、スイスでロカルノ国際映画祭が開催された。去年は三宅唱の「旅と日々」がコンペ部門で最高賞を獲得したわけだが、今年の最高賞受賞ルーマニアのFlorin Șerban フロリン・シェルバン監督作“Nu e locul tău aici”(意味は“ここは君の居るべき場所ではない”)だった。日本でも「俺の笛を聞け」が上映されている監督だが、カンヌでクリスティアン・ムンジウが“Fjord”でパルムドールを獲得したのに続き、ロカルノでも最高賞とはやはりルーマニア映画は最高だろと言わざるを得ない。ということで今回はそんなロカルノ最高賞獲得作である“Nu e locul tău aici”を早速紹介していきたいと思う。

今作の主人公はマリユス(Adrian Văncică)という中年男性だ。彼は故郷であるレシツァという故郷の町にある病院で、外科医かつ医療の最高責任者として勤勉に仕事に励む日々を送っていた。一方、最愛の妻を事故で失った後にマリユスは男手一つで十代の息子ヨアン(Teodor Butănescu)を育てているのだが、仕事が忙しく彼をあまり気遣うことができていなかった。

まず監督はそんなマリユスの日常を描きだしていく。手術を行う、入院中の患者に問診を行う、同僚と話し合いをする。そういった仕事場での風景にはプロとしての意識が強く伺える。一方で家庭生活は杜撰なものだ。リビングで夕食を食べるが、電球が切れながら特に動じもせずに暗がりで食事を続ける。その姿を見掛けたヨアンに引かれながら、どうでもいいとばかり彼にも暗いリビングで食事をさせる。そこには冷ややかさと無関心に満ちた生活、何より父子関係が象徴されている。

ここで際立つのは、現代ルーマニア映画にとっての十八番とも言うべきかもしれない極度の長回しである。撮影監督であるLiviu Mărghidanはほとんどの場合被写体からは距離を取り、最低5分は一切カットがかからないまま、目の前を監視カメラ的に映しとっていく。移り変わる時間のありのままが剥き出しで提示されることで、観客はその時空間に満ち満ちる空気感とそれがいかに変貌を遂げていくかをまざまざと味わわされるのだ。

そんな中、町で殺人事件が発生する。町で屯するファシストのバイカー集団がロマの男性を殺害したのだ。彼の死体が病院に運びこまれたことでマリユスは事件について知り騒動に巻き込まれることとなるのだが、その裏側で実は事件にヨアンが関わっていることが少しずつ明らかになっていく。

そして先述した濃密な長回しによって事件の渦中に置かれた両者の動向が描かれていく。被害者の遺体をめぐって事件の当事者ゆえ解剖が行われるべきとの病院や警察側と、解剖なしに遺体を引き渡してほしいとの家族側の間でマリユスは苦しまざるを得ない。そしてヨアンは事件で負った怪我を秘密裏に処置し、さらに証拠も隠滅するため奔走するが、十代ゆえの幼さで計画は見る間に破綻していく。これらの光景が交互に、相当な時間と徹底したリアリズムを以て描かれるがゆえ、途轍もない緊張感が今作には宿るわけだ。

こうして禁欲的なまでに長回しを続けるからこそ、ある場面で対峙する二者の顔がアップになった上でカットが激しく切り替わる様は印象的だ。この切り返し自体むしろ映画でよく見掛ける技法であるのに、そんな技法が弩迫の圧を以て新鮮に映る。監督とMărghidanはこうして長回しを核として様々な技法を自在に駆使するのである。

今作は技法だけでなく、テーマに関してもルーマニア映画の王道を行く。ここで描かれるのは公の倫理と私的な倫理が衝突する悲痛な光景である。マリユスは善き人でありたいと願っており、より多くの人に先端医療を広め救うために都市部の病院でなく、地方にある故郷の病院に勤務しているという事情がある。だがその崇高な信念は医療腐敗と、凝り固まった官僚主義の中で磨り減っていき、彼は疲弊していくわけだ。

さらにその疲弊は、マリユスの魂をも歪ませていっている。彼の仕事にはプロ意識が確かに見え隠れするが、同僚や患者たちにはどこか冷淡でその信念に根付いているはずの人間性は伺えない。さらに家庭生活も幸福には程遠い状況に陥っているわけだが、マリユスはある人物にこう言い放つのだ。息子を見ると失敗という言葉が思い浮かぶよ、と。医師としても父としても、彼自身が“失敗”していく様を、私たちは一切の容赦なしに見せつけられるのである。

加えてこの事件の背景にはヨーロッパ、特にルーマニアでは顕著な問題が横たわっており、それがロマ差別である。遊牧民というルーツを持ち、現在は東欧を中心として世界に散らばる少数民族がロマであるが、ルーマニアは特にその数が多く彼らに対する差別は激しいものだ。今作でも殺人事件であるのに、殺されたのがロマゆえにその遺体が無惨な扱いを受け、家族に寄り添おうするマリユスですらロマに対する差別用語である“țigan”という言葉(日本でも“ジプシー”という言葉を使わないようにしようと言われるが、この言葉より差別の度合いは大きく感じる)を使い続けるなど、その差別意識は根深い。こうして監督は公私における価値観の衝突、親子関係など普遍的な要素と、ロマ差別といったルーマニア特有の要素であったりと、多方面から倫理的問いを提示していくのだ。

だが何よりも今作の核となる存在はマリユスを演じる主演のAdrian Văncicăに他ならないだろう。善性と悪性の狭間で苦しむ父親を、彼は静かに力強く体現しており、その姿からは目が離せなくなる。Văncicăは本国では“Las fierbinți”という長寿コメディドラマで有名であり、Facebook上で私が“来年のゴーポ賞(ルーマニアのアカデミー賞的存在)ではVăncicăと“Fjord”のセバスチャン・スタンで主演俳優賞を争うだろうな”と書いたら結構笑われた。そんな存在だがここではコメディ的存在感は完全に封印しているのが相当に印象的だった。

そしてこの末に起こる悲劇の数々に、マリユスは値するような人間になっていたかもしれない。しかしそうだったとしても、絶望に打ちひしがれた果ての彼の叫びはあまりに悲痛で、聞きながら私は涙を堪えることができなかった。ロカルノを制覇したこの“Nu e locul tău aici”という1作は何て、何て力強く残酷な映画なのだろうか。

Elham Ehsas&“Hershewe fazanawerd”/アフガニスタンから、遠く離れて

1988年8月29日、ソ連は再びの宇宙飛行を実施、有人宇宙船ソユーズTM-6は宇宙ステーション・ミールへと向かう。クルーの中にはロシア人はもちろんのこと、アフガニスタン人飛行士アブドゥル・アハド・モーマンド(パシュトー語表記:عبدالاحد مومند)もいた。アフガニスタン最初かつ現時点では唯一の宇宙飛行士である彼の知名度は、しかし驚くほど少ない。今回はそんな彼を題材としたアフガニスタン期待の新鋭Elham Ehsasによる短編ドキュメンタリー“Hershewe fazanawerd”(英題:“Forgotten Spaceman 忘れられた宇宙飛行士”)を紹介していこう。

まずはモーマンドのプロフィールについて紹介していこう。1959年1月1日、アフガン南東部のガズニー州に生を受ける。カブール工業大学では工学を学び、1978年に軍に召集された後は、ソ連の航空学校に留学していた。帰国後はアフガニスタン空軍に勤務する中で、1987年11月、ソビエト・アフガン共同の宇宙飛行計画におけるの宇宙飛行士候補者に選抜される。そして翌年の1988年8月29日、ソユーズTM-6の乗組員となり、アフガニスタン初の宇宙飛行士となったのである。

今作はそんなモーマンドの宇宙飛行前後を描きだすドキュメンタリーなのであるが、通り一遍の人物紹介ドキュではない。語り手となるのは彼についてのニュースを子供の頃に見ていたEhsas監督自身となっており、彼の言葉を通じて観客はモーマンドの姿と当時のアフガニスタンを知ることになる。

モーマンド自身の経歴やその偉業は華々しいものだったが、当時のアフガニスタンは平和には程遠い状況だった。1978年にアフガニスタン人民民主党政府に対する武装蜂起が勃発、さらに翌年にはソ連が軍人介入を開始、反政府ゲリラであるムジャーヒディーンは政府軍とソ連軍双方に反旗を翻し、紛争は混迷を極めていた。監督は正にこういった紛争下で子供時代を過ごした人物であり、今に残されたフッテージ映像からもその壮絶さが見て取れるだろう。

そしてモーマンドが宇宙飛行を果たした1988年もまた紛争の最中であった。1985年に成立したゴルバチョフ政権は外交政策を軟化、ソ連軍は徐々に撤退を開始していたが、未だ緊張が続く状況がそこにはあった。そして1988年9月7日にモーマンドは地球へと帰還、ソ連邦英雄の称号とレーニン勲章が授与されることとなる。だがこの状況においてモーマンドは監督含め国民にとっての希望や国の英雄というよりも、アフガニスタンがソ連の従属国であることの象徴として映ったわけである。

この1年後にソ連軍はアフガニスタンから完全撤退を果たすが、それは紛争の終わりを意味しなかった。ソ連軍撤退後の国内支配をめぐって、各部族同士で内戦が激化することになってしまったのだ。モーマンドは帰還後、民間航空次官としてアフガン宇宙研究所で働いたが、ターリバーンがアフガニスタンの権力を掌握したことを受けて、ドイツへ亡命せざるを得なくなる。

今作はこうしてモーマンドの姿、アフガニスタンの現代史を描きだすわけだが、監督の個人的な想いの数々がそれらを他にはない形で纏めあげていく。
さらに主人公の家族も内戦を逃れるためにイギリスに亡命、ジャーナリストだった父は工場労働者となるなど苦境に陥ることとなる。そんな状況で監督が初めて覚えた英語の単語は“refuge 難民”だったのだという。

これらが語られる際、画面には写真や映像が映るのだが、そこかしこでマウスのカーソルが映りこんでくる。おそらく監督が見ているパソコンの液晶がそのまま提示されているからだろう。それを見ながら監督が過去を振り返っていく、その様を観客は追体験していくのである。ゆえの心を打つ懐かしさと切なさとが、この“Hershewe fazanawerd”には宿るのである。