鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

鏡の中に映る誰か~Interview with Moe Myat May ZarChi

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはミャンマー映画作家Moe Myat May ZarChi モーミャメイザーチーだ。彼女の短編作品"Her Mirrors"ミャンマーにおける自己イメージと理想の乖離が引き起こす恐怖を描きだしたホラー作品である。今作が映画祭でお披露目予定である一方、彼女はミャンマー初の映画雑誌である3-ACTの発刊者(以前紹介したAung Phoyeは共同発刊者)でもあり、現代のミャンマー映画界を様々な面から支える人物という訳である。今回はそんな彼女に"Her Mirrors"についてはもちろん、ミャンマー映画界の現状やミャンマーにおける映画批評などについて聞いてみた。という訳でどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思いましたか? どのようにそれを成し遂げたんでしょう?

モーミャメイザーチー(MZ):映画製作を始めたのは偶然でした。とても小さな頃、私の姉が"21世紀東アジア青少年大交流計画"によって日本で開かれるという映画祭が映画監督になりたい子供を募集していると教えてくれたんです。私は日本に行けるという機会に興奮して、そのために映画を作りました。その映画祭でユニークな短編映画に会った後、映画とは娯楽映画やハリウッド映画だけじゃない、映画製作はとても創造的で自由で、そして楽しいものだと分かりました。その後、私はたくさんの外国映画を観ることでこのメディアの深さを探求していきました。私は映画製作の本を読んだり、Youtubeの動画を観て、家で映画を学んでいきました。そして映画というメディアが、6つの芸術の次にある第7の芸術であることに愛と敬意を深めていきました。アメリカ・メイン州で通っていたリベラルアーツ系の大学から中退してから、私は映画監督になることを決め、ニューヨーク映画学校に通い始めました。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のミャンマーではどういった映画を観ることができましたか?

MZ:ミャンマーの"Memory"というDVD店に行っていたんですが、ここで見つけられるたくさんの映画を観ていました。このお店は元俳優である人物が経営しており、ここに行く度彼が映画をオススメしてくれたんです。そして"Memory"は主なマーケットにはない作品を売ってくれる、ミャンマーでは唯一の店でした。例えばダンサー・イン・ザ・ダークゴダールの映画、エターナル・サンシャインなどを見つけました。ここはミャンマーの映画製作者にとってクライテリオン級の場所でした。

TS:あなたの短編"Her Mirrors"の始まりは一体何でしょう? あなたの経験、ミャンマーにおけるニュース、その他の事実などなど。

MZ:私のエグゼクティブ・プロデューサーであるThet Zaw Winが、彼の友人が執筆した脚本を映画化してくれないかと接触してきたんです。それはDVについての1ページだけの物語で、ある若い女性が鏡に囲まれることで癒しを感じる様を描いていました。この物語を読んだ時、私は反射の意味合いや、鏡がいかに自己内省の例示になるかに魅了されました。鏡の元々の目的は人の外見を映すことですが、"Her Mirrors"においては人の内面をも映し出すんです。この物語に似た経験をしたことはありませんが、いかに多くの女性が外見に執着し、自尊心がそれに依存しているかに心を痛めているんです。

TS:私は今作の鋭く効果的な撮影に魅了されました。まずカメラは幽霊のように冷ややかで観察的なスタイルで主人公を見据えます。しかし徐々に不穏で恐ろしいものとなっていきます。撮影監督であるMichael Zawとともに、どのようにこの撮影スタイルを組み立てていったんでしょう?

MZ:監督として私は、最初の場面において主人公の個人的な空間に侵入したくはありませんでした。主人公は意図的に人形のように描かれ、リアルに見えることはありません。故に私は映画を冷たく、ロボット的に見せたかったんですが、それは彼女の存在がプラスティック的だからです。映画は何も情報を語らないので観客は彼女を知ることはできません。知れるのは彼女の外見と彼女が表現するものだけです。そんな浅さ、文脈の欠如がここで描きたかったものです。そういった理由で、私はMichael Zawとともにショットを固定的でゆっくりとした、不動のものにしたかったんです。ここにおいてカメラの仕事は彼女の行っていることを映しながら、それを暴きだしはしないことです。そして美しいショットを強調するために4:3の比率を採用しました。

しかし映画がもっと親密になっていくごとに、私たちは早いペースでクローズアップを行っていき、雰囲気を組みたてる前に場面場面の撮影的トーンを変えていったんです。

TS:そして最も感銘を受けたものの1つが音楽です。まず主人公が歌を唄いますね。おそらくミャンマーの伝統的な音楽でしょう。しかし後に、この映画は観客の鼓膜を刺し貫くインダストリアルな響きに満ちていきます。それは冒頭の音楽とは真逆です。このコントラストはとても鮮烈で魅力的なものですね。ゆえに音楽について幾つかお聞きしたいです。まず、この鮮やかなコントラストを、音楽家Ito//Cgaussとどのように作りあげたのでしょう? 第2にIto//Cgaussとコラボレートしようとした理由は何でしょう? 最後に、冒頭の歌はミャンマーで有名なのでしょうか? この曲をどのように見つけたんでしょう?

MZ:音楽について聞いてくれてありがとうございます。私たちは本当に深くこの要素について探求しました。音響については"Her Mirrors"の脚本を執筆する際から考えていましたね。普通、映画作家はポストプロ時に音響を考えるものですが。

私は主人公の内面を演技やセット・デザイン、カメラワークといった視覚的な側面だけでなく、音によっても描きたいと思っていました。登場人物のビジュアルや場面が柔らかい感触の一方で、私たち(私とIto//Cgaussです)は主人公の壊れた内面を実際に描くための手段として音について話しあいました。登場人物の生き方、彼女の生きる世界の存在という意味で、この音以上に登場人物や彼女の周囲を過酷で生々しく描けるものはありませんでした。見た目と内面のコントラストを強調するため、私たちは音をこの人物の内面をコントロールするために利用しました。そして鏡が生みだす音の響き的な可能性を探求していったんです。例えば鏡が割れる、鏡がシュッと音を立てる、投影がセレナーデを奏でる、鏡が衝突する、鏡が軋む……

私がIto//Cgaussと協同したのは、彼がミャンマーにおいて才能ある前衛ジャズとノイズ音楽のエキスパートだったからです。彼のメロディックな旋律への感受性、響きにおける実験に関する独創性に感銘を受けていました。ミャンマーで彼のような才能を見つけるのはとても難しいことです。彼の作品はとても独特なんです。

そうです、冒頭で主人公が口ずさんでいたのはとても有名なミャンマーの歌謡曲"Hmone Shwe Yi"です。この曲はミャンマーにおいて美と女性性についてのトレードマークなんです。女性の美を、鬱蒼たる森に命を与える花の美になぞらえた作品でもあります。

TS:思うにこの映画は女性のセルフイメージにおける理想と現実の致命的なギャップについて描いていると思います。そこで題名が示唆する通り、鏡はとても重要な役割を果たしますね。女性は鏡に依存し、しかしそのせいで彼女の自尊心は徐々に崩れ去っていきます。そこで聞きたいのはこの映画の核を描くために何故鏡を選んだかということです。

MZ:ミャンマー社会において、伝統と現代性が闘争を続けています。この社会の女性たちは外見で自分を判断するように洗脳されているんです。彼らはソーシャル・メディアの世界において、もしくは愛と対面している際、可能な限り外見を魅力的なものにしようとしています。スクリーンは新しい鏡なんです。私は、鏡とスクリーンからの反射が自分自身のアイデンティティを映し始めた時、私たちは本当の自己を受け入れることができるかを探求したかったんです。

TS:そしてNay Pann Chiの存在感は本作において重要ですね。彼女の顔や身体に浮かんだ虚栄が、不安や怒りとともに崩れていく様は恐ろしいものです。彼女がスクリーンで魅せる力はとても深いものです。彼女はどのように見つけましたか? この映画に彼女を選んだのはどういう理由でしょう?

MZ:彼女はこの映画のオーディションにやってきて、それで知ったんです。彼女は美しくとも、エッジィもしくは雑誌的なものではなく、過度にパーフェクトでもないところが好きです。彼女はミャンマーの伝統的な女性のように豊かな身体を持っています。そして顔には無邪気ながら魅力的な視線を持っています。オーディションを開催した時、私は女優たちに鏡を見ながら自分を褒める、そして鏡に向かって自分の外見を軽蔑するという2つの演技をしてもらいました。Nay Pann Chiは複雑微妙で練熟した演技を見せてくれて、洗練と無邪気さ、美と未完成さを同時に演じるという完璧なバランスを体現していました。二分法を愛する者として、私は彼女を選びました。そして俳優たちと仕事をするに辺り、性格は大きな意味を持ちます。彼女には即座に、本能的にピンときましたね。

TS:ミャンマー映画の現状はどういったものでしょう? 外側からは良いように見えます。新しい才能たちが現れ、ワタン映画祭が存在感を発揮し始め、多くの映画の専門家がFAMU Burma Projectから巣立っていっています。しかし内側から見ると、現状はどのように見えているのでしょうか?

MZ:内側から見ると、かなりトリッキーなものですね。ミャンマーでは映画作家が初長編を作るのが難しいんです。ここではプロデューサーたちはローカルにヒットする映画を求めているんです。今やっとミャンマーの観客たちがより創造的でパーソナル映画に触れ始めたので、まだ独特な映画やスローな映画が製作されたり、ファンディングを受けられたりする状況にないんです。国際共同制作において、プロデューサーたちはローカルな人々の生活をリアリズム方式で描く伝統的な映画を探しています。外国人というレンズからすると、ミャンマーは低次元な、やっと門戸を開けた第3世界の1国といった訳です。外からではただ一般化することしかできず、故にメディアを通じて見る物語の表象を求めているんです。

ですから冒険的で概念的、より実験的な映画作家が初長編という領域に踏みこむのは難しいことです。ローカル的にも国際的にも、長編・短編マーケットともに彼らを探し求めてはいないんです。

TS:そしてあなたはミャンマーの映画雑誌"3-ACT"の発刊者ですね。日本の読者にぜひこの雑誌について説明してください。なぜこの雑誌を始めようと思ったんですか? その過程は一体どういうものでしたか?

MZ:この雑誌を始めたのは、ミャンマーにはメディアの深みを探求するような映画教育が欠けているからです。ニューヨークで研究を終え、しばらく無職になった時、映画に関する本を読み、その情熱をコミュニティに還元したいと思い、このアイデアを思いつきました。そして私は多くの映画作家たちが映画製作に関する英語記事をミャンマー語に翻訳し、ミャンマーの映画ネットワークに共有していることを知りました。そこでもし私が記事を選別し、紙媒体でそれを掲載したら、多くの映画作家にとってそれは引用したり学ぶための資源になると思いました。それに、ローカルな人々や国際的な研究者が頼る、ミャンマー映画に関するアーカイブになるとも。そうして私たちは同僚の映画作家映画批評家、シネフィルたちとともに3-ACT計画の手始めとして、雑誌3-ACTを創刊したんです。3-ACTが成長していくのに貢献するための共同体もあります。今まで読者の範囲が狭かったため続刊には苦労しました。今でもこの共同体が続くため、成長していくための補助金や寄付、スポンサーを求めています。現在、3-ACTではワークショップを行い、未来の映画作家に短編製作のアドバイスをしたり、制作会社としても発展してきています。さらにオンラインでパネル・ディスカッションを行ったり、もっとワークショップやラボ、キャンプなどを行う予定です。

TS:前の質問に関連して、ミャンマーにおける映画批評の現在はどういったものでしょう? 外側からだと、ミャンマーの批評に触れることはできません。なので内側からだと、状況はどういったものに見えてくるでしょう?

MZ:ミャンマーでは文化や育ってきた環境によって、過酷な批評状況をコントロールできる人は多くありません。しかしミャンマー映画を研究し、正直な考えや意見を表明する勇気を持った批評家も何人かいます。そして多くの新聞がフリーランスの批評家が執筆した映画批評のコラムを掲載するようになってきています。さらにソーシャルメディアの発達によって、誰もが批評を書けるようになりました。それ故にミャンマーではプロとアマチュアの明確な区別というものが存在しないんです。

TS:シネフィルがミャンマー映画について知りたいと思った時、どの映画を観ればいいでしょう? その理由も知りたいです。

MZ:私はミャンマー映画史にあまり詳しくはありません。古典的な作品に触れずに育ってきましたからね。2000年代、子供の頃に観ていた作品は、それ以前に作られDVDになった作品たちでした。子供として、それらには余り重要性を感じなかったんです。もっとミャンマー映画史における重要な作品を特集するようなイベントや上映会があればよかったのですが。なのでこの世代に生まれた私のような人々は後々学ぶことになるんです。

しかし私は友人の勧めで最近「柔らかいステップ」を観ました。今作はミャンマーの音楽や芸術、伝統を鮮烈に描き出しています。ミャンマーの伝統的ダンスや音楽という枠において、名声の行く末が描かれる今日的な作品として今作を勧めたいです。

TS:もし1作好きなミャンマー映画を選ぶなら、どの映画を選びますか? それが何故だかも知りたいです。何か個人的な思い出がありますか?

MZ:個人的に昔のミャンマー映画はあまり観ていません。大きな映画館での再上映がないからです。そして多くの作品が失われ、数少ない作品だけがあるウェブサイトにアップされているだけなんです。そんな中でMemory映画祭とSave Myanmar Filmのおかげで、レストアされた"Emerald Jungle"(1934)をアウトドア上映で観ることができました。この経験は素晴らしかったです、一生忘れることがないでしょう。都市部からジャングルへやってきた怖いもの知らずの若い女性によるアクションシーンを多く描いた物語が好きですね。個人的に惹かれる理由は、今作は私がいつも夢見ていたファンタジーのようだからです。素晴らしい女性戦士になるという夢です。ミャンマー映画においてこういった女性キャラを見るのは新鮮で心打たれました。

TS:新しい短編、もしくは長編を作る計画はありますか? あるなら、ぜひ読者に教えてください。

MZ:はい、今は"The Ballad of a New Bud"という長編映画の脚本を執筆中です。今作は1980年代の政治的危機に揺れるヤンゴンに生きる3人の女性を描いています。映画は彼女たちの個人的な部分、そして彼女たちの互いへの嫉妬が、どのように無意識と終着についてのアイデンティティ移行の物語に関わってくるかに焦点を当てています。それからここ10年でのパフォーミング・アート、大学生活、そしてプロテストについて研究する私自身についての短編映画を撮る計画も立てています。今作は映画製作者の断片的な想像力、まるで研究によって解けていくようなジグソーパズルを思わす、メタ的な語りとなっています。

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Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって

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私がここずっと注目している才能がメキシコにはいる。それが若き奇才Nicolás Pereda ニコラス・ペレダだ。彼は虚構と現実を自由に行きかいながら、奇妙な映画作品を作り続けている。私も彼の代表作"Juntos"と、彼のフィルモグラフィでも一二を争う奇妙な作品"Minotauro"を紹介したことがある。そして今年、多作な彼はまた新しい作品を作りあげた。それこそが新作"Fauna"である。

とあるメキシコの田舎町に3人の男女がやってくる。ルイサとパコという俳優カップル(Luisa Pardo&Francisco Barreiro)、そしてルイサの兄であるガビーノ(Gabino Rodríguez)だ。彼らは兄妹の両親の元に集まり、一緒にしばしの休息を楽しむことになる。その時間は静かで、平穏なものだ。

まず最初、監督は3人の日常だけを淡々と描きだしていく。例えばパコは煙草を買いに小さな売店へと赴く。ガビーノはベランダの椅子に座って、本を読む。5人は近くのピザ屋に行って、他愛もない会話を繰り広げる。彼は撮影監督とともに、緩やかな長回しで以てその日常を映しだしていく。その感触はまるで白昼夢を見ているようだ。

だが時おり、今作は奇妙な世界へと足を踏みいれる。酒場でビールを飲んでいる際、ルイサの父(José Rodríguez López)はパコに対して演技を見せてほしいと懇願する。彼は最初拒否するのだが、最後には演技を行う。が、父は今度セリフありで演技をしてほしいと頼む。パコは躊躇いながらも見事な演技を見せるが、父は再び演技を見せるよう頼む。その一方でルイサは母にオーディションで披露する演技を見てもらっている……

この演技が行われる際の緊張感は、日常を描いていた時とは全く異なる濃密さを誇っている。演技をする者の周囲には現実とは一線を画した異様な雰囲気が流れ、彼らはフィクションの世界へと入りこむ。それはまるで日常の狭間に存在している異界へと潜りこんでいくような感覚がそこにあるのだ。

だがそんな日常の些細な変化が、大きな変化へと変わる瞬間がある。ある時、ガビーノは本を読んでいるのだが、それについてルイサが尋ねてくる。"この小説の主人公は昔の友人を探しているんだけども……"そんな言葉とともに映画はその小説内へと入ってしまう。主人公ガビーノ(Gabino Rodríguez)は友人を探しに、あるホテルへやってきた。だがあることが原因でルイサ(Luisa Pardo)という女性と知りあいになってから、彼の運命は大きく変わってしまう。

この第2の物語は主人公が友人を探すという語りに終始するかと思えば、それは違う。その語りは目的地への道筋から何度も何度も逸脱を繰り返す。新品のタオルをめぐるルイサとの奇妙な問答、友人と会おうとする過程で出会った謎の男パコ(Francisco Barreiro)など、ある意味で今作は意図的に迷走を続けるのだ。

さて、ここで気づくことがあるかもしれない。2つの物語において同じ役名が並び、さらに演じる俳優も同じなのだ。Peredaはここ10年、Rodríguez、Pardo、Barreiroというこの3人の俳優たちとともに映画を作ってきた。冒頭で記事を紹介した2作品は正にその代表的な作品だ。

同じ俳優陣ということで、映画には個々の魅力とともに、物語が緩やかに繋がるような、旧知の友人たちに再び会うような親密さが宿るのだ。今作は2つの物語を、同じ役名を持つ同じ俳優で以て描きだしている。ゆえにいつもは複数の映画が繋がる時に現れる親密さをこの"Fauna"は1本で成しとげているのだ。

"Fauna"は物語にはこんな語り方があるのかと驚かされる、頗る野心的な1作だ。こうしてメキシコで虚構の面白さを探求しつづけるのがNicolás Peredaという存在なのである。最後に今作を端的に示すような彼の発言を紹介して、この記事を終えよう。

"私は現実を捉えることに興味はありません。現実についてどう語るかについて興味があるんです"

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ
その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制
その398 Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ
その399 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その400 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所

ラトビア映画史の運命~Interview with Agnese Logina

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはラトビアの映画エキスパートAgnese Logina アグネセ・ロギナである。彼女は映画批評家として活動するとともに、リガ国際映画祭やリガ映画美術館にも所属しており、正に現代のラトビア映画界を陰から支える重要人物である。そんな彼女にラトビア映画史の連綿たる流れや現代ラトビア映画界の才能たちなどについて尋ねてみた。ということでどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まず映画批評家になった理由は? どのようにしてそれを成し遂げたのでしょう?

アグネセ・ロギナ(AL):映画批評家になろうとは計画していませんでしたし、今も主な仕事ではありません。私にとって中心となる仕事はキュレーターですね。しかし映画について書き始めたのは、それが意味あることであり、それをやりたかったからです。私は人があまり観ていない映画をたくさん観ていました。なのでそれについて書いて、人々にそういった作品が存在することを伝え、魅力的なトピックに触れてもらいたいというのには意味がありました。私にとって映画批評家として最も重要なミッションはこれです。例え今書こうとしている映画を観ている人が少なくとも、未来のためにアイデアや観察を守り続けることです。最低でもそれについて語ることで、それらを守り活力を与えることができます。

TS:あなたが映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時ラトビアではどのような映画を観ることができましたか?

AL:私の家族はいつだって文化において活動的で、子供の頃から面白い映画をたくさん観てきました。そして自分で映画館に行くようになってから、熱心な映画館信者になりました。なので映画に興味を持ち始める前のことが思い出せないくらいです。子供だったので1990年代に関してはあまり思い出せませんが、リーガに初めてシネコンができた2003年から私は活動的に映画館へ行くようになりました。リガでは普通、当時最も重要だったハリウッドの大作映画やロシアの娯楽映画、その他の大作やラトビア映画を観ることができました。リガには特別上映という力強い伝統があり、インディーズの映画館がレクチャーや歴史的にとても重要な映画とともに上映会を組織していました。思い出せるのは14歳の時リガの小さな映画館で、満員の上映会でレクチャーとともに地獄の黙示録を観たことです。映画館でよくやっていたインディーズ映画やハリウッド映画とともに、特別な上映会でもたくさん映画を観ていました。

TS:初めて観たラトビア映画は一体何でしょう? その感想もお聞きしたいです。

AL:ハッキリと思いだすのは無理ですが、初めて観た現代のラトビア映画はnis Streičs ヤーニス・ストレイチスの1997年に上映された"Likteņdzirnas"ですね。それは大きなイベントで家族と一緒に観にいったことを覚えています。当時はファンディングの欠如のせいで新しいラトビアが上映されることは稀だったんです。どこで観たかなど覚えていないことも多いですが、感動したことは覚えています。もちろん後にもう一度観たのですが、映画のポイントの多くを見逃していることに気づきました。しかしその時私は7歳で、理解できなかったことも納得できます。そしてラトビア映画はTVで定期的に放送されていたので、子供の頃はラトビア映画の古典をたくさん観ていました。

TS:ラトビア映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムと黒いユーモアです。ではラトビア映画はどうでしょう?

AL:おそらく私はラトビア映画界に関わりすぎているように思えます。映画の美術館で働いていますからね。しかし今や私にはこの問題に答えることは不可能です。他の作品と一線を画する、それぞれの映画における多くの差異をずっと見てきました。なのでもうこれ以上一般化することが私にはできないんです。特にこんにち、ほとんどの作品は共同制作で作られているので、私たちの映画を表現することはどんどん難しくなってきています。それでもプロフェッショナルたち――監督、撮影監督、編集やその他――の映画的な様式について語るのは可能だと思います。

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"Likteņdzirnas"

TS:ラトビア映画史において最も重要なラトビア映画は何ですか? その理由は何でしょう?

AL:これはとても難しい質問ですね。ラトビア映画の歴史を通じて魅力的な逸話を持つ素晴らしい映画は多くありますからね。しかし1作だけ選ぶなら、私は1本の完成しなかった映画を挙げたいと思います。それは1974年に制作がストップした、Rolands Kalniņš ロランツ・カルニニュシュ監督作"Piejūras klimats"です。今作はガス会社を舞台にロマンスを描きだすはずでした。しかし監督が彼のチームとともに選んだ様式や視聴覚的言語はとても驚くべき、新鮮なもので、ソ連映画の承認を担当する人々を恐怖させ、結局完成することはありませんでした。こんにちまで30分のフッテージ映像が残っていますが、ラトビア映画史においてそれは最もオリジナルな映画の1本であり、今作が完成していればとても深いレベルで私たちの映画に影響を与えていたでしょう。しかしそれは起こることはありませんでした。ここから今作についての英語記事を読むことができます。

TS:もし1本だけ好きなラトビア映画を選ぶなら、それは何でしょう? その理由もお聞きしたいです。そこには個人的な思い出があるのでしょうか?

AL:これもとても難しい質問ですね。この答えは毎日変わる類のものですからね。しかし今私にとって最も重要な、最も印象的な映画は1968年制作のLeonīds Leimanis レオニーツ・レイマニス"Pie bagātās kundzes"ですね。私は昨年今作に関する展覧会を開く機会に恵まれました。今作のアイデアの豊かさには今でも驚かされますね。そして今作は内容においても様式においてもとても重要で印象的な芸術作品であり、さらにシンプルにとても美しいんです。今作はモノクロ映画で1920年代後半、1930年代前半にリガに生きていた貧しい人々に焦点を当てています。そしてテーマはそれが運命でなかったという理由で手にすることのできない物への憧憬です。息を呑むようなサウンドトラックや素晴らしいパフォーマンスに支えられた深くメランコリックな映画で、ラトビアでもとても愛されています。

TS:ラトビア国外において、世界のシネフィルに最も有名な映画作家Gunārs Cilinskis グナールス・ツィリンスキスです。"Ezera sonāte""Agrā rūsa"といった彼の作品は新鮮で豪勢な映画的言語によってシネフィルたちを驚かせています。しかし彼とその作品はラトビアでどのように評価されているでしょう?

AL:Gunārs Cilinskisは主に俳優として愛され尊敬されています。例えば"Ezera sonāte"のルドルフ役はとても人気になりました。ゆえに彼は芸術家として今のラトビアでも人気で愛されていると言えますが、それは主に俳優としてですね。

TS:そして私の好きなラトビア映画作家の1人がAda Neretiniece アダ・ネレティニヤツェです。"Svešiniece ciemā""Vārnu ielas republika"といった彼女の作品を観た時、その繊細さや輝きにとても驚かされました。しかしラトビア映画史において彼女とその作品はどのような意味があるのでしょう?

AL:不幸なことにAda Neretnieceは現在ラトビア映画史における未発見の宝石のような存在です。しかし、私は彼女の作品に光を当てるため、来年女性映画作家を特集する映画祭を組織する予定です。そこで彼女の作品群を上映できると思います。

TS:"女性映画作家を特集する映画祭"というのは興味深いですね。それに関連してラトビア映画における女性作家について日本の読者に解説してもらえませんか? 特に昔の女性作家についてはあまり知られていません。

AL:計画している映画祭は2年前から友人たちと計画している主要事項でもあります。このアイデアは3月8日辺りから増え始めた保守主義へのカウンターであり、女性たちが創造しながらも名声や注目を獲得できていない芸術を祝福することで、女性の権利を尊重しようと試みています。ジェンダーの表現を通じてラトビア映画業界を分析するというのとは少し違います。シンプルにそれに関してはデータがあまりないんです。しかし私の最初の印象としては実体のない1つの問題、現実に関する他の対処方法があります。技術的に、私たちには1950年代から長編映画を作り続けている女性映画作家がいます。1957年にはAda Neretniece"Rita"という作品でデビューしたんです。最も注目すべき女性作家はAda NeretnieceDzidra Riterberga ジドラ・リテルベルガ、それからVija Beinerte ヴィヤ・ベイネルテLūcija Ločmele ルーチヤ・ロチュメレでしょう。しかし更に多くの女性作家がドキュメンタリーの領域で活動して(例えばLaima Žurgina ライマ・ジュルギナBiruta Veldre ビルタ・ヴェルデレなどです)おり、そしてもちろんRoze Stiebraが居なければラトビア映画は全く違うものになっていたでしょう。彼女のビジョンはラトビアにおいてとても生き生きとしたアニメーションの世界を作りあげ、彼女の作品によって幾つもの世代が育っていきました。こんにち現状は理想的なものではありません。それはもちろんファンディングがとても制限されているというのもあります。しかしラトビア百周年の映画プログラムにおいて16作の新作が作られましたが、その半分の8作は女性監督作であり、それは女性だって映画は作れることを意味しています。私たちは今後の状況がどう発展していくかを見極める必要があるでしょう。平等な表現や平等な機会が十分なファンディングによって何を生んでいくのかを。それに加えて、映画を作るには時間がかかります。だから5年と言わず、もっと長いスパンで両性の平等な機会についての現状を分析していく必要があります。個人的に私はもっと女性監督が増え、彼女たちが映画を作っていくことがことを祈っています。さらに女性の脚本家もですね。現代映画には女性視点から共感しやすく、アクセスしやすい作品が欠けていますから。才能は確かに存在します。ただ彼女たちに機会を与えるべきなんです。

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"Rita"

TS:そして現代ラトビア映画界において最も重要な存在は間違いなくLaila Pakalniņa ライラ・パカルニニャでしょう。1991年から、彼女はラトビア映画界の最前線に立ち続け、彼女の作品は世界のシネフィルに熱狂的に受け入れられています。しかし彼女や彼女の作品はどのようにラトビア人に受け入れられているでしょう?

AL:Laila Pakalniņaは良く知られたラトビア映画作家であり、人々は彼女の映画を、少なくとも何作かは観ています。しかし彼女の作品は深く実験的であり、家で夜リラックスしながら観るには適していません。彼女は形式に焦点を当て、ナラティヴに頼らない映画を探求することで観客に挑戦しているんです。なので彼女の作品は興行的にヒットすることはなく、どこにおいても違う状況を想像することは難しいことです。

TS:2010年代も数か月前に幕を閉じました。そこで聞きたいのは2010年代において最も重要なラトビア映画は何でしょう? 例えばRenārs Vimba レナールス・ヴィンバ"Es esmu šeit"Juris Kursietis ユリス・クルシヤティス"Oļeg"Laila Pakalniņa"Ausma"などがありますが、あなたのご意見は?

AL:これを再び言うのは心苦しいですが、この質問もまた答えるのがとても難しい質問ですね。ラトビアの映画業界でプロとして働き始めて10年が経ちましたが、それ故に私の意見は深くパーソナルで、個人的な経験に基づいています。そして私の友人たちが映画を作り始め、長年映画を作り続けている彼らと友人関係になったのもこの10年なんです。ですから最も重要な映画を1本選ぶというのは無理です。どれだけ多くの映画が作られ、その影響力がいかに強かったか、そしてそれらがラトビアの映画史において新しい線を作り上げたかを知っていますからね。しかし強調したいのは、この10年は国からのファンディング無しでもプロとしてプライベートで映画を作れるようになった時代でもあります。だからその事実をこの時代におけるラトビア映画の最も重要なターンとして選びたいと思います。人々がラトビア映画をまた観るようになって、映画に投資することが投資家やスポンサーにとって厄災ではなくなったことは重要な発展であり、それがラトビア映画に多様性をもたらしていると思います。

TS:ラトビア映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだとその状況は良く思えます。Laila Pakalniņaの後にも、新たな才能が有名な映画祭に現れ始めています。例えばアヌシーGints Zilbalodis ジンツ・ジルバロディス、ベルリンのRenārs Vimba、カンヌのJuris Kursietisなどです。しかしラトビア人として、現状についてどうお考えですか?

AL:状況は良いと言えますね。ここ数年、私たちはラトビア映画を観る人々が増えていく姿を目撃しており、観客もとうとうローカルな映画に戻ってきているんです。それを愛してもくれています。同時に、私たちは国際的な讃辞を楽しんでもいます。つまりラトビア映画が頻繁にA級の映画祭に参加するようになっている訳です。ラトビアにおける映画へのファンディングは未だ不十分ですが、結果は圧倒されるほど印象的で、ラトビア映画がA級の映画祭でワールド・プレミアとなることは驚くに値しません。更に"Dvēseļu putenis"が観客動員数を更新し、ラトビア映画を観るのに興味がなかった人々を映画館に連れもどしています。そして映画館で共に映画を観るんです。現状には将来性があり、ラトビア特有の物語に興味がある観客たちもいる、そして既に国外で多くの経験を積んだ映画作家がいればキャリアを始めたばかりの全く新しい世代の映画作家もいる、更には現代という条件下において成功する映画を作ることのできるプロデューサーやその他のプロフェッショナルもいるんです。この波が失われないことを、未来にたくさんの希望があることを願います。

TS:今ラトビア映画界で最も注目すべき新しい才能は誰でしょう? 例えば私はその独特な映画的言語という意味で、Signe Birkova シグネ・ビルコヴァLiene Linde リエネ・リンデの名前を挙げたいと思います。あなたのご意見はどうでしょう?

AL:BirkovaとLindeに関しては間違いなく賛成します。彼らは素晴らしい才能です。それから去年長編"Blakus"でデビューしたAlise Zariņa アリセ・ザリニャも挙げたいです。今作はラトビアの30代という世代の肖像画として受け入れられるだろう、現代的で生き生きとしたロマンス映画です。他には現在デビュー長編"Tizlenes"を撮影しているMarta Elīna Martinsone マルタ・エリーナ・マルティンソネがいます。彼女はまず脚本家として自身の鮮やかで興奮するような声を証明してみせています。彼女は先述した"Blakus"Alise Zariņaと共に、そして歴史映画"1906"では監督のGatis Šmits ガティス・シュミツと共に、去年ラトビア・ナショナル映画賞の脚本賞にノミネートされました。Martisoneはとても独特の、印象的なユーモアセンスを持っており、その片鱗は卒業制作である"Viesturs Kairišs iznāk no meža"に観ることができます(Viesturs Kairišs ヴィヤストゥルス・カイリシュスは実際の映画、舞台、オペラ監督であり、彼の作品は広く愛されています)もちろんまだ続けられますよ。プラットホームを必要とする新鮮な物語を持った若い才能はとても多くいて、彼らがラトビア映画界における悲劇である不十分なファンディングで才能を失わないよう祈っています。そして独立したラトビアで育った世代が今映画界に入ってきており、彼らにはこんにちの生活について言いたいことがたくさんあるようです。

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"Blakus"

Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所

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さて、今映画界におけるトランスジェンダー表象が話題である。例えばNetflixトランスジェンダー表象を当事者の目線で描きだした"Disclosure"(邦題は長すぎる)が配信された一方で、ハル・ベリートランスジェンダー男性を演じようとして批判が殺到、彼女が役を降りるといった出来事も起こっている。個人的にはこれは今までトランスジェンダー役にシスジェンダーばかりが配役されてきた労働格差を解消するために、トランスジェンダー俳優を積極的に登用すべきだ。そして労働における格差の是正も大事ながら、トランスジェンダーの当事者のトランスをめぐる物語を語ってもらうことで今までに語られなかった、魅力的な物語が語られる可能性が飛躍的に上がるという美学的な理由も合わせて挙げておきたい。そしてこれを私に確信させた理由が、今から紹介するIsabel Sandoval監督による傑作"Lingua Franca"だ。

今作の主人公はオリヴィア(監督が兼任)というトランス女性だ。彼女はフィリピンからアメリカへとやってきた不法移民であり、息を潜めながら日々を生きている。そして彼女はオルガ(Lynn Cohen)という女性の元で介護士として働くことになるのだったが……

まず監督は撮影監督であるIsaac Banksとともに、彼女の日常生活を静かに観察していく。彼女は甲斐甲斐しくオルガを介護する一方で、グリーンンカードを獲得するために同じくフィリピン移民である友人と奔走することになる。その合間には故郷にいる母親と電話で会話をするのだが、その声には疲労の色が滲んでいる。

そしてオリヴィアはグリーンカードを手に入れようと全く見知らぬアメリカ人男性と結婚しようとするのだが、その一方で彼女はオルガの孫息子であるアレックス(Eamon Farren)と知りあう。最初はぎこちない関係が広がっていたが、彼を深く知っていくうちオリヴィアはアレックスに惹かれていく。

こうして本作はオリヴィアとアレックスの関係性の移りかわりに焦点を当て始める。アレックスは少し粗暴な男であり、夜の精肉場で働いている。そんな状況で彼は孤独を深めながらも、オリヴィアと出会うことで少しずつ癒されていく。だが彼はオリヴィアがトランス女性であることを知らなかった。

今作で際立つのは彼らの関係性がいかに複層的なものであるかだ。まずオリヴィアはフィリピン人でアレックスはアメリカ人という人種上の差異が存在する。そこにはアジア人と白人という違いが上乗せされ、更にはオリヴィアがアジア移民である一方、アレックスはロシアからの移民という血筋を受け継いだ東欧移民でもある。アジア人であることは当然アメリカで差別の対象となるが、東欧移民は同じ白人でありながら"White nigger"と蔑まれる存在でもある。そういった一筋縄ではいかない関係性がここにはある。

だが最も焦点が当たる関係性はトランス女性とシス男性という二項対立だ。オリヴィアは誰にも公言はしないながら自然体で女性として生きる一方、それ故かアレックスは彼女がトランス女性とは知らないままに関係性を深めていき、そして最終的には恋人関係となる。

ここで凡庸な、言い換えればシスジェンダーによるトランスジェンダーについての映画では、オリヴィアがトランス女性ということが分かった後、アレックスは激高し、そうしてサスペンスが醸造されるなどの陳腐な展開があるかもしれない。だがSandval監督はそういった二の轍を踏むことがない。

Sandoval監督は自身もトランス女性であり、ここでは監督・脚本・編集・主演を兼任している。つまりはトランスパーソンが当事者としてトランスの物語を語っている訳だが、ここで興味深く表れるものが1つある。シスジェンダー作家がトランスの映画を作る時、トランスの描写が当然の如く論外な一方、自身も属するはずのシスジェンダー描写すら陳腐ということがよくある。それは、相手がトランスだと知って我を失う類の人物か、相手がトランスだと知って全てを受け入れる類の人物かの二極化だ。"Lingua Franca"のシス男性であるアレックスの描写は前者に属しそれでサスペンスを演出するという人物造形と思いきや、物語が展開するにつれもっと複雑な感情と優しさが立ち現れるのだ。Sandoval監督はむしろシス男性である彼の描写をこそ綿密なものにすることで、他の凡百なトランスジェンダーを描く映画とは一線を画するのだ。

Sandoval監督はこの"Lingua Franca"において、この複層的な関係性が、トランプが移民やトランスジェンダーを筆頭としたLGBTQの人々への差別を先導する現代のアメリカを舞台に紡ぎだしていく。そして物語が最後に辿りつくのは希望とも絶望ともつかぬ場所だ。監督の視線は怜悧なれど何て、何て豊穣な物語なのだろうか。

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私の好きな監督・俳優シリーズ
その381 Fabio Meira&"As duas Irenes"/イレーニ、イレーニ、イレーニ
その382 2020年代、期待の新鋭映画監督100!
その383 Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている
その384 Jure Pavlović&"Mater"/クロアチア、母なる大地への帰還
その385 Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨
その386 Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福
その387 Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録
その388 Eduardo Morotó&"A Morte Habita à Noite"/ブコウスキーの魂、ブラジルへ
その389 Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界
その390 Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する
その391 Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威
その392 Davit Pirtskhalava&"Sashleli"/ジョージア、現実を映す詩情
その393 Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春
その394 Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで
その395 Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録
その396 José Luis Valle&"Uzi"/メキシコ、黄金時代はどこへ?
その397 Florenc Papas&"Derë e hapur"/アルバニア、姉妹の絆と家父長制
その398 Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ
その399 Radu Jude&"Tipografic majuscul"/ルーマニアに正義を、自由を!
その400 Radu Jude&"Iesirea trenurilor din gară"/ルーマニアより行く死の列車
その401 Jodie Mack&"The Grand Bizarre"/極彩色とともに旅をする
その402 Asli Özge&"Auf einmal"/悍ましき男性性の行く末
その403 Luciana Mazeto&"Irmã"/姉と妹、世界の果てで
その404 Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時
その405 Ismet Sijarina&"Nëntor i ftohtë"/コソボに生きる、この苦難
その406 Lachezar Avramov&"A Picture with Yuki"/交わる日本とブルガリア
その407 Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように
その408 Isabel Sandoval&"Lingua Franca"/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所

ラトビア・アニメーションの宇宙~Interview with Ieva Viese

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さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)

この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。

今回インタビューしたのはラトビアの批評家であるIeva Viese ヤヴァ・ヴィアセである。彼女は主にアニメーション批評家として活動しており、ラトビア・アニメーションの専門家として広く活躍している。ということで今回は映画ではなくラトビアのアニメーション史に限って、話を聞いてみた。ラトビア・アニメーション史の重要人物や個人的な思い出、未来に巣立っていくだろう新人作家たちなどについて聞いてみた。ラトビア・アニメーションに興味がある方にはぜひ読んでほしい。それではどうぞ。

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済藤鉄腸:最初に観たラトビアのアニメーションは何ですか? その感想もお聞きしたいです。

ヤヴァ・ヴィアセ:何が最初に観たアニメーションかはハッキリしませんが、覚えているのはRoze Stiebra ロゼ・スティヤブラAnsis Bērziņš アンシス・ベールジニュシュの作品がたくさん入ったVHSをもらって、それをノンストップで観ていたことです。子供ながらに一番感銘を受けたのはRoze Stiebra"Skatāmpanti"(1988)ですね。この映画は超現実的な冒険の物語で主人公が何度も変身していくんです。視点が変わっていきながら、鏡から鏡を渡っていって変身していくなかで今作は日常の論理に対抗していき、しかしそれはとても真実味がありました。物語は4人の登場人物を中心に進んでいくのですが、彼らはルドーというボードゲームをやるために急いでいて、待ち合わせ場所に行くため冒険に出ます。その間彼らはゲームに出てくる色とりどりのトークンが出てきて、ギャングに返信し彼らを襲うんです。今作は不思議の国のアリスのような夢見心地の感触を持っていて、言葉遊びや視覚的な洒落(題名自体も言葉遊びになっていて"Skatāmpanti"は"見つめてくる韻"という意味ですが、それは"童謡"という意味の"skaitāmpanti"が基になっています)があります。そして私は、アニメーションは他のメディアが出来ない形で想像力を捉えることができると確信しました。ですが当時、私はとても夢見心地な子供で、おそらくそれを"想像力"ではなくただ"現実"と思っていたように感じます。

TS:ラトビア・アニメーションの最も際立った特徴は何でしょう? 例えば日本のアニメーションは今敏や他のTVアニメの作家たちに見られる極端なエロティシズムや超現実主義、ソ連のアニメーションはユーリー・ノルシュタインレフ・アタマノフらの民話的、文学的アプローチなどです。ではラトビアのアニメーションに関してはどうでしょう?

IV:ラトビアのアニメーションの最良の特徴はどんどん捉え難くなってきています! しかし表面上幾つかの傾向がありますね。

例えばラトビア・アニメーションは常にとても詩的なリズムを持ち、最もダイナミックな映画に関しても音楽や視覚的な比喩に似た構成を持つ傾向にあります。思うに主な理由は歴史的なものです。1960年代、Roze Stiebraは詩やフォークソングを基に音楽映画を作り始め、そのリズムや反復、全体的な構成はAからBへと向かうリニア的なものというより、視聴覚的なイメージに近いものでした。そして比喩はソ連時代のラトビア芸術にはとても現実的なものでした。何故なら検閲が経験を直接描くことを許さなかったです。当時の詩は象徴的でサブテキストに溢れていましたが、それはドキュメンタリー作品も同じでした。当時リガには詩的ドキュメンタリーに関する有名な学校が存在し、アニメ作家であるAnsis Bērziņšはそこの監督たちと共同し、触発されていました。彼のアニメーション映画、例えば"Bruņurupuči"でカメが傷つく時、直接血が出ずともカゴからレッドベリーが溢れだしたり、太陽が赤みがかった空に輝くという光景が見えてくるでしょう。

最近より若い作家たちは多様なジャンルやコミュニケーションの方法に挑戦していますが、私が思うに彼らの作品には古典や最新の人気作品(Signe Baumane シグネ・バウマネVladimir Lesciov ヴラディミル・レショフEdmunds Jansons エドムンツ・ヤンソンスらの作品です)からの影響があるように思います。

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"Bruņurupuči"

TS:ラトビアのアニメーション史において最も重要な作品とは何でしょう? その理由も聞かせてください。

IV:私の意見ではRoze Stiebra"Kabata"(1983)ですね。今作はラトビア最初のプロフェッショナルなアニメーションなんです(彼女が切り絵制作に乗りだす前の作品ですね)しかし他の"最初のセル画"作品とは違い、今作は他の様式を模倣しようとはせず、確立された詩や主義を利用していました。それからArnolds Burovs アルノルツ・ブロフスの作品にも言及するべきでしょう。彼は1960年代にリガの映画スタジオで初めてプロとしてアニメーションを作り始めましたが、その時使っていたのがパペットです。そうして詳細で正確、シリアスな雰囲気の作品を作っていました。

その一方で最も重要なラトビア・アニメーションと"なるはずだった"作品は1920年代にOļģerts Ābelīte オルジェルツ・アーベリーテ"Šitā šeitan dzīvojam"でしょう。彼は後々有名になるのですが、当時は様々なメディアに関わっており、手書きの登場人物やストップモーションを使い映画を作っていました(今はSigne Baumaneに受け継がれています)しかし本作は公開されることなく、最初期の設定やスケッチが書かれたこと以外は何の情報もありません。

TS:1作だけ好きなラトビア映画を選ぶなら、それはどんな作品になりますか? その理由は何でしょう。個人的な思い出がありますか?

IV:私のアニメーションとの関わりという視点から言うと、私が選びたいのはVladimir Leschiov"Spārni un airi"ですね。今作が上映された2009年、私は映画理論を勉強していましたが、そこでアニメーションに注目しようと決意したんです。初めての真剣な論文はLeschiovの作品における詩と技術に関してで、そこからアニメーションは私にとってリサーチ、批評、そしてプロとしての仕事における様々な形態の最も重要な場となりました。

TS:海外において世界のシネフィルに最も有名なラトビア人アニメーターの1人はRoze Stiebraでしょう。"Sēd uz sliekšņa pasaciņa""Kā es braucu Ziemeļmeitas lūkoties"といった彼女の作品を観た時、その魔術的な世界や虹色の超現実主義には本当に驚かされました。しかし彼女や彼女の作品はラトビアで実際どのように評価されていますか?

IV:彼女は今アニメーションを製作している人々全てに直接影響を与えていると思います。 これは誇張しているとは思いません。歴史上においてラトビアには2つほどアニメーションの非公式な学校がありました。Arnords Burovsによるパペットを学ぶ学校、Roze StiebraAnsis Bērziņšによる手書きのアニメーションを学ぶ学校です。思うに彼女が最も影響ある存在ですね。現在、ラトビアには様々な背景を持つアニメーターがいますが、彼らの最初の教師はStiebraであり、彼女の作品を観て育ってきたと思いますし、彼女の映画製作に参加もしています。

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"Sēd uz sliekšņa pasaciņa"

TS:そして私の最も好きなラトビア人アニメーターはAnsis Bērziņšです。彼のアニメシリーズ"Fantadroms"は最も可笑しく、ファンタスティックなSFアニメーションの1つでしょう。これを観ていると宇宙を旅する宇宙飛行士になりたいと思わされます。そこで聞きたいのは彼の生涯や他の作品です。ラトビアではとても人気なようですね。あなたにも個人的な思い出がありますか?

IV:Ansis Bērziņšは以前ラトビアのTV局において有名なドキュメンタリー作家でしたが、その頃彼はレーニングラードの演劇映画アカデミーで学んだ、若く野心ある人物Roze Stiebraと出会いました。彼女はアニメーションを作りたかったんです。当時のどちらにもその経験はありませんでしたが、そういった映画を製作する許可を取ろうと奔走した後、生涯のパートナー関係が始まりました。彼らは芸術や哲学、地方性の重要さ、真実味ある作品に関して似たような考えを持っていましたが、監督としては全く異なる視線を持っています。

まず"Fantadroms"に関してですが、私より後の世代に関しては定かではないながら、私が子供の頃"Fantadroms"は何度も何度も放映されており、同じ名前の小さなテーマパークや絵本(作品で使われた本物のセル画も使われていました!)、それから他にも色々な商品があり、私たちにはとても魅力的でした。多くの人々が登場人物を覚えていて、当時は普通の人物に思いましたが、今観るととても奇妙です! 私はBērziņšと登場人物のクリエイターであるAivars Rušmanis アイヴァルス・ルシュマニスにもインタビューしました。

それから"Bruņurupuči""Tālavas taurētājs"(1988)といった作品にはとても思い入れがあります。何故なら子供時代、私はそこに何らかの謎めいた存在を感じていたからです。そこには共同体の協力によってある生が聖性化された精神的次元が存在し、登場人物たちは死後にその姿を現すんです(それは例えばPOVや音楽、隠喩的なイメージとともに)彼のアニメーションは子供にとって恐ろしい印象を与えましたが、心を動かし深く考えさせるものでもありました。

TS:そして海外において、現代ラトビア・アニメーションの最も重要な存在は間違いなくSigne Baumaneでしょう。特に彼女の作品「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」は日本において最も人気ある海外アニメーションの1つでもあります。多くの日本人が今作を観て、驚き感銘を受けています。しかし彼女はラトビアの観客によってどのように受け入れられているのでしょう?

IV:ここ最近、彼女の作品に関するポジティブな関心が増えてきているのをとても嬉しく思っています。最初彼女はあまり深く理解されませんでした。彼女の露骨にセクシャルな表現や妥協のない正直さは多くの人々のとって奇妙に映っていました。彼らは共産主義政権の崩壊を目撃はしましたが、その当時パーソナルなことは全て隠さなければならなかったことを忘れられなかったんです。そして芸術は示唆的で象徴的なものに限り、直接的なものは存在しませんでした! そしてアニメーション、それって子供のためのものではないの???と。しかし「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」が広く受けいれられたことで、例えばアニメシリーズの"Teat Beat of Sex"など彼女の作品に多くの関心が寄せられ、ラトビア共和国独立記念日が復活したその日に国産映画の1本としてプログラムされるほどになりました。このイベントはとても大きなものです。しかし彼女の映画におけるトカゲの舌、漬物のようなペニスはテレビで放映されるにはまだ!

TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのはこの年代において最も重要なラトビア・アニメーションは何かということです。例えばSigne Baumane"Rocks in My Pockets"Gints Zilbalodis ジンツ・ジルバロディス"Away"Edmunds Jansons"Jēkabs, Mimmi un runājošie suņi"などがありますが。

IV:2010年代は様々な面でラトビア・アニメーションにとって重要でした。まず短編映画が映画祭のサークルにおいて広い観客層を獲得しました。オンラインのプラットフォームの登場で世界的に、アウトドアという形の映画祭での上映、インディーズ上映、他のイニシアティブ(例えば親と小さな子供たちが参加する上映会などです)でラトビアにおいても広く作品が観られています。次に重要なのはこの時代は長編アニメーションの素晴らしい可能性がよって高められたことです。あなたの挙げた3人はその完璧な例で、テーマやスタイル、ビジョンの多様性が彼らによって表現されてきた訳です。私としてはこれらの映画の成功が文化施設を動かし、将来の計画へのファンディングが増えることを願いたいです。

TS:現在のラトビア・アニメーションの現状はどういったものでしょう? 海外からだとそれは良いものに見えます。BaumaneやZilbalodis、Jansonsといった先述の才能が現れ、Ilze Burkovska Jacobsen イルゼ・ブルコフスカ・ヤコブセン"My Favorite War"が由緒あるアヌシー国際映画祭で作品賞を獲得しました。2020年代の幕開けとして素晴らしいものです。しかしラトビア人批評家として、現状をどのように見ているでしょう?

IV:そのスタートがとても有望なことは私も賛成します。それから国立映画センターのアニメーションの専門家として観た作品から判断すると、可能性を持つ新しい計画やアイデアが幾つもあります。ラトビア人として思うのは、いつかパペットやストップモーション作品の新しい波が来るだろうということですね。新しい作家の大部分は手書き/絵具/デジタルというメディアで活動しており、パペット・アニメーションは90年代から抜本的な変化がないんです。当時、Māris Puntniņš マーリス・プントニニュシュやJānis Cimmermanis ヤーニス・ツィンメルマニスがその風刺劇で、Arnolds Burovsのシリアスなパペット作品を打ち倒したんです。しかし現在もパペットの領域で活動している人物もおり、それがAnna Zača アンナ・ザチャSigne Birkova シグネ・ビルコヴァといった作家たちです。

TS:あなたにとって2020年代にブレイクするだろう、ラトビア・アニメーションの新しい才能は誰でしょう? 例えば私はその独特のユーモアセンスからIlze-Ance Kazaka イルゼ=アンツェ・カザカを挙げたいです。あなたのご意見はどうでしょう?

IV:そうですね、Ilze-Ance Kazakaラトビア美術学校に所属する彼女の同級生たちは多くの可能性、そして新鮮で興奮するような映画を作るための正しい道具を持っています! 私は彼女の友人であるMonta Andžejevska モンタ・アンジェイェフスカの、9月に完成する修士号作品を批評しました。その作品はアニメーションの文法といわゆるFPSのとても際立ったスタイルの伝統を融合しています。これらの新しい映画作家たちは深くそのメディアを探求し、よりヒエラルキー的な態度で制作してきた前の世代とは一線を画するだけではなく、より大きなスタジオで作られるのとは違う、全く独特の美術空間に作品を生みだしてきています。アニメーションを描くための道具がより広く使えるようになった時、この深く分析的なメディアとの関係性はより創造的な発明の鍵となるでしょう。

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「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」

焦点合わず~Andy Bausch"La Revanche"と価値の問題 by Gérard Kraus

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さて、ルクセンブルク映画である。以前、私はルクセンブルク映画批評家であるGérard Krausによる、ルクセンブルクで最も有名な映画作家の1人Andy Bausch アンディ・バウシュの代表作"Le club des chômeurs"の批評記事を翻訳し、紹介した。その後、彼に他にルクセンブルク映画について英語で批評を書いていないかと聞いたところ、Forumという雑誌に掲載された批評を紹介された。それは同じくAndy Bauschが監督した作品"La Revanche"という映画の批評記事だった。そして何と今作は"Le club des chômeurs"の続編的な作品だそうではないか。正に翻訳する価値があると思われた。ということで今回はGérard Krausによる批評記事の翻訳をお送りする。批評自体も、前述した"Le club des chômeurs"の記事の続編として読んでもらえれば幸いである。それではどうぞ。

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ルクセンブルクのトップ映画監督であるAndy Bausch アンディ・バウシュが作った最新作"La Revache"ほど議論を起こした新作映画はない。大衆と批評家の反応は最低でも2つに分かれ、人々の多くは映画を観るべきかどうか悩んでいる。今作はルクセンブルク映画の1本に加わりながらも、問われる問題として、そうして加わったことで兎にも角にもどうなるのか?ということがある。私は"La Revanche"が"良い"映画かそうでないかの議論に参加しようとは思わない。だが今作がルクセンブルクの文化的生活やアイデンティティにどんな価値を持つかにこそ興味があるのだ。

"続編でありながらそうではない"とAndy Bauschが言う通り、今作の前編である"Le Club des chômeurs"は全てが少しだけ異なるオルタナティブな世界で展開しているように思われる。主人公であるジェローム"ジェロニモ"クライン――演じるはThierry Van Verweke ティエリー・ヴァン・ヴェルヴェケ――は金もなく恋人もおらず職すらもない人物から、同じく金はないが結婚した、職業紹介事業で働く社会人となった。彼の妻テシー――演じるのはSascha Ley サッシャ・レイ――は語学学校を経営しており、そこではテレサという教師が働いている。彼女は前編でアンジーの恋人を奪った人物だ。Andre Jung アンドレユングFernand Fox フェルナンド・フォックスは前作の役を再演しており、Jungのセオドアは今キャバレーを経営しており、後者は無効退職という身分を謳歌している。Mr.ボブという残酷な銀行員タイプの男は(前作のキャラクターである)フルンヌの双子のきょうだいであり、Marco Lorenzini マルコ・ロレンツィニは両方を演じている。彼らに加わるのはCartouche カルトゥーシュという俳優が演じる無駄にうるさいティトーと、Fani Kolarova ファニ・コラロヴァが演じる彼の恋の相手であるナターシャだ。

"La Revanche"におけるメディアでの議論は苛烈なものであり、映画に疑問を抱かせるほぼ全てのものはルクセンブルクの新聞で取りあげられている。美学的に鍛えられた批評家たちはミザンセンのなかに問題の数々を見出している。映画言語に詳しくない者たちは前者の視点を模倣し、そこに自分の意見を付け加えている。ベネルクス地方の映画についての最新の本から引用してみる。

"(ベネルクスという)低地の映画史は自己欺瞞で溢れている。その言説は不平という文化によって支配されている。低予算、観客の興味のなさ、不十分な専門知識と無能さ、サポートの欠如(民間企業から国まで)、政治的介入、倫理的な心配、美学的な失敗、そして文化的な今日性のなさ、そういった不満の数々である。それらは産業自体から来るだけでなく(中略)観客、地方の理事会、政府、そしてプレスからも来ている。低地の映画群は常にそうした不安の大いなる歴史的な(そして時事問題的な)重荷とともに他の映画と競わなくてはならないようだ"

(この著者の)Ernest Mathijs エルネスト・マチスが嗅ぎつけたのは"La Revanche"と、その前には"Le Club des Chômeurs"が直面し、ある意味で体現していたことなのだ。"La Revanche"に関して悲しいのは、当初はその反映でありながら、プロット的毒気への、漫然とした様々な間投詞によって、その緊張を失っていることだ。

映画に対する批評的な受容から現れたのは、今作の目的や対象に対する一般的困惑である。その中でも最初の映画の成功から金を稼ぎだしたいというハリウッドの伝統を思わす欲望を指摘することもできるだろう。それはBausch自身がインタビューで示唆している。もし続編を作ること自体が目的だったなら、おかしいことになっている。主な登場人物を除き、前作との繋がりはほとんどない。言及とカメオ出演を除くなら、スポンジは"Le Club des Chômeurs"のラストシーンがお膳立てしたものを綺麗にするために使われたようである。Myriam Muller ミリアム・ミュラーChristian Kmiotek クリスティアン・クミオテックLuc Feidt リュック・フェイトが出演しないことについては説明されないし、語りにおいて仄めかされもしない。Bausch自身も今作が続編と言えるかについては悩んでおり、登場人物は同じでありながら異なる文脈の中にいると発言している。テーマと登場人物の行動理由、その行動の数々は少しだけ表に現れた後、すぐに跡形もなく消えてしまう。その例としてはジェロームが彼の好きなネイティブ・アメリカンについて1度しか言及しないこと、アッベが彼の年金について話そうとしないこと、セオドアがARBED(ルクセンブルクの鉄鋼会社)の長い話を短く語ることなどだ。

文脈について語ると、これに関して少し目を通したなら私たち自身をどこにいるかについての手がかりが幾つか見つかるだろう。ASジュネス・エッシュ(ルクセンブルクのサッカーチーム)のピッチで伝統的な"Grenzer Terrain"が流れる時、私たちは前作が描いた同じルクセンブルク南部に自分たちがいることが分かるだろう。しかし私たちはすぐさまルクセンブルクの灰に染まった都市部、キルヒベルクという拡大途中の金融街に移動することになる。前作の中心的テーマだった鉄鋼街での出来事とは全く関係がない場所だ。

ここからある者は映画に通底するテーマの外観を嗅ぎとることだろう。Van Wervekeのキャラクターであるジェロームは唯一最初の映画から続いている存在として見ることができる。彼の根源はミネット地方にあり、"La Revanche"は新しい状況と対峙する人々に関して彼が抱く問題を描いている。ジェロームは剥き出しのユーモアセンスを見せ、粗暴な言葉を話す唯一の登場人物だ。だが彼をめぐる状況は変わってしまっている。セオドアは今やオーダーメイドに身を纏い、キャバレーを経営することに忙しい。犯罪者としての過去に舞い戻るのは金に逼迫した時だけで、彼はある意味尊敬すべきビジネスマンに変わってしまったのである。アッベは恋に落ち、フロラと移民であるという理由で生まれた彼女のジレンマを労わっている。ジェロームに婚約を告白した時、アッベは彼からこの登場人物に期待したいだろうマッチョな発言、女性は"乳と尻みたいな存在"だという発言を喰らう。ここで現れるのはジェロームが変化に対処できないことと、彼をめぐる新しい社会的文脈だ。他の人物は進歩していっているのに、ジェロームだけは最初の映画の地点に留まり続けているのである。これは"国宝ティエリー"というVan Wervekeが公共において愛おしく体現する概念をめぐる性格/ペルソナ、繋がり/神話に関連するのか、それとも脚本家3人による慎重な努力に関連するのかは推測するしかない。

この疎外に関する2つ目の例はジェロームとセオドア、アイメが融資会社におけるビジネス用語の集中砲火に晒される場面に現れる。ジェロームの反応は完全な否定であり、彼は"クニュタンジュ出身のこの2人とは時間を過ごしてこなかった"というのを示している。

もしある者が主な登場人物を監督とつなげるなら、アクションやその反応の意味はBauschが他の世界に手を突っこんだような形で読みとれるだろう。すなわちコンクリートとガラスに包まれた、灰色のアーバン・ジャングルであるキルヒベルクによって表現されているような形で、である。"Le Club des Chômeurs"ケン・ローチピーター・カッタネオ(フル・モンティの監督)、マーク・ハーマン(ブラス!の監督)らの社会的リアリズムを模倣しようとした者にとって、続編を作ることのプレッシャーがその対象から逸脱しようと思わせたのかもしれない。

国的なスケールで結ばれる2つの考えは50、60年代に現れたARBED以降のルクセンブルク、成長するEUによる自由化の波に脅威を感じるこの国の住民たちが感じている一般的な不安を指し示しているように思える。

Bauschのルクセンブルク映画界におけるキャリアに塀の外と中をめぐる映画"Troublemaker"や関連作"Back in Trouble"があることを考慮した時、"Le Club des Chômeurs"における開かれた語りを続けないという彼の決意は論理的に思える。物語を続けたなら彼をとても親しみのある道に戻すであろうし、その美術的決意は理解できるものだろう。他方でこれによってより未知の地平で考えをめぐらせる必要がある。Bauschはドイツのリューベックに住んでいるが、それは問題や自国における成りゆきに関わり続けることをサポートしない。Bauschはこの国の映画文化について、この国の言葉で遠慮なく発言する数少ない人間の1人だ。これは文化庁長官Francois Biltgen フランソワーズ・ビルトゲンが体現する政府の主要な関心ごとのようには思われない。Biltogenは"カチュケイス"(ルクセンブルクの有名なチーズ)的でない映画、例えばホテルや他のビジネスが、キャストやクルーから利益や、私たちの国の街やその道を闊歩する映画における人気の人物という特権を得たりできない作品のためには動かない人物です。これはルクセンブルク表象の伝統や、内容や価値をめぐる収益性において立脚しているように思われる。

最初の映画からのもう1つの注目すべき変化は異なる文化の表象である。最初の映画においてはCamilo Felgen カミロ・フェルゲンの神父が体現していたが、今回は私たち自身が多文化主義の中心にいるように感じることができるだろう。ブラジルと中央ヨーロッパのダンサーたち、フランス人のサッカー選手や銀行家、ラテンアメリカ人のスポーツスター、中国人やフィンランド人の店員などなど。"Le Club des Chômeurs"ポルトガル人移民や彼らをめぐる世代の表象において外国人差別的と見做されたが、今作でもそういった物を多く見られる。脇役のステレオタイプ化やCartouche演じるティトーの安い性格づけは簡単に認識することができる。しかしそれ以上のことは彼らに成されず、かといって鋳型も破られることはない。ナターシャは教師からダンサーになったフランス人として予想通り賢く、ティトーは少しばかり暗いスポーツマンで、他の外国人が被る肩飾り的な存在感に言及されることはない。イエスやMr.ヘン、そしてルクセンブルクの若者にとってのカルチャーアイコンThorun ソルンが演じる過剰にウザったい人物は形式的に外国人たちを良い混在具合にする。だがより酷いのはMr.ボブのタフな部下で、彼は攻撃的なバルカン半島のヨーロッパ人というステレオタイプに収まってしまっている。それ故に多様な文化や民族性、人種において魅力的と見做されるものは、良かれ悪かれパロディのように見えてしまう。

これら全ての要素に他のものも合わせ、"La Revanche"ルクセンブルクの映画ファンドを再考するきっかけになるべきではなかったと思う人物もいるだろう。開発途中で映画を助ける時により大きな強調は必要ないのか? 大衆から現れた今作への批判は脚本が酷いだとか、映画にする価値がないといったものである。そういったプレッシャーが大衆からかかってきながら映画は結局予算を得たのである。上映の後、同じ問題が叫ばれた。早い段階からサポートは割り当てられるべきではないのか? 専門家の理事会や映画の理論家から建設的な批評を受ける可能性はないのか? もしBiltgenの映画に関する"国際的な興味"という考え、"強靭で普遍的な物語を語る脚本"を基とする映画という考えはルクセンブルクの映画産業を確実に成功させるだろうし、政府はより強いコアを持った映画、つまりはより強い脚本を執筆するための方法論やシステムを作り始める手助けをする必要があるだろう。

オリジナル:"Out of Focus~Andy Bausch’s La Revanche and the question of value" by Gérard Kraus on Forum No.242 December 2004

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チェコ、ある夏の解剖学~Interview with Adam Martinec

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて、今回インタビューしたのはチェコの新鋭作家であるAdam Martinecである。彼の短編作品"Anatomie českého odpoledne"はある夏の日のチェコが舞台、小さな湖沿いの砂浜で休む人々と騒動に巻き込まれる人々、最初はドタバタ的な筆致で話が進んでいくが、物語はだんだんと不気味な方向へと舵を切っていく。そんな巧みなディレクションに魅了され、私は早速監督にインタビューを行った訳である。作品についてに加えて、チェコ映画界の現在について聞いてみたのでぜひ読んで欲しい。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):どうして映画監督になりたいと思ったのですか? どのようにしてそれを成し遂げたのですか?

アダム・マルティネツ(AM):自分を映画監督とは見做していません。どちらかと言えば"映画を監督することについて学ぶ生徒"ですね。FAMUに入るまでの道のりはとても曲がりくねってカラフルなもので、長い話を短くすると、大きな偶然に無限の感謝をしたいという訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のチェコではどういった映画を観ることができましたか?

AM:13、14歳という小さな頃、TVの前で眠ってしまったんですが、アントニオーニの「欲望」が放送している時に起きたんです。次の朝、私は何が夢で何が映画だったのか定かではありませんでした。それでも心を動かされたという頗る強い思いがあり、それが未来においてとても重要なものになりました。私は1990年に生まれたんですが、その時には以前は禁止されていたチェコや外国の映画を観ることができました。

TS:あなたの短編作品"Anatomie českého odpoledne"の始まりは一体何でしょう? あなた自身の経験、チェコにおけるニュース、もしくは他の出来事でしょうか?

AM:今から2年前にチェコである事故がありました。2人の少年が人でいっぱいの海岸で溺死してしまったのですが、人種差別的な文脈も関わってきて、メディアではこの事件が大きく騒がれたんです。海岸にいた数百人もの旅行客が肌の色のせいで誰かを助けないというのに恐怖と怒りを抱きました。その後、調査の手順が技術的に正しく行われた後、告訴されたのは子供たちの両親だけでした。おそらく皆ができることをしたのでしょう。全てに介入することはできず、悲劇は私たちの世界の一部分なんです。しかしチェコにおける人々の他者に対する振る舞いに不満を抱いたんです。

TS:この映画に現れる場所は印象的な要素の1つです。小さいですが、とても親密な場所で、日本にある同じような場所とは違います。ここはどこでしょう? チェコでは有名な場所なんでしょうか?

AM:ここはプラハから車で30分ほどの場所にあります。チェコ全土にはこういった自然の泳ぎ場があり、自然に溢れています。

TS:私はその技量豊かな撮影に感銘を受けました。時には題名が示唆するように観察的でありながら、時には激しい手振れを交えてとても感情的になります。この多様な撮影が映画の高いクオリティを支えていると思いました。撮影監督とともに、あなたはどのようにこの撮影様式を組みたてていったのでしょう?

AM:今回はどういった映画をも参考にはしないようにしました。そしてこの平凡な瞬間と人生において最も重要な瞬間が重なりあうというのは、ボフミル・フラバルの小説作品において広く行われていることでした。

撮影監督のDavid Hofmann ダヴィド・ホフマンはとても才能ある、技量豊かな若者であり、チェコの撮影監督トップリストにも入りますね。彼は他のクルーメンバーと同じようにとても重要な存在でした。私たちは何度もカメラテストを行い、撮影の前にはいくつかの原則に従いながら、登場人物たちが影響を受ける近く的に狭い視点に意識的でありつづけました。

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TS:今作の核は雰囲気の巧みな移行です。最初、雰囲気はとても軽やかで滑稽であり、まるでアンサンブル・コメディのようです。しかしその作風は切ない悲しみとともに生と死の暗部へと移行していきます。この興味深い移行について、脚本上・セット上両方においてどう作っていたのでしょう?

AM:これはおそらくとても本能的なものと言わなくてはなりません。それは私が世界を見る方法であり、この"移行"に本物の信頼性を見出すことができます。正直に言えば、これは数十年ここで生きてきた故の文化的文脈が存在し、チェコニューウェーブからの遺産、そしてフラバルやヴァーツラフ・ハヴェルミラン・クンデラヤロスラフ・ハシェク、それからその他の世界文学の遺産もそこにはあるんです。

TS:最も感銘を受けた1つの要素として、その題名"Anatomie českého odpoledne"("チェコの夏にまつわる解剖学")があります。そこにはコメディ的な面白さと観察的なシリアスさが同居しています。そしてこの複層的な題名は先述した多様な撮影にも共鳴しますね。どうしてこのタイトルを選んだのかをお聞きしたいです。

私はチェコにおけるある暑い午後について描きたかったんです。可能な限り努力はしましたが、本当の意味で"解剖学的"とは思っていませんけども。私としてはこの題名のなかの特に普遍性が好きですね。今作は全てのチェコ人がスクリーンに投影される倫理的失敗についての物語なんです。そして解剖学というのは"複雑さ"という意味も含み、本当に小さな要素の数々が人生において特大の効果を持つと私は理解しています。十分な変化はなくとも、扇風機は壊れていようとも。

TS:チェコ映画界の現状はどういったものでしょう? それはとてもいいように思えます。チェコ映画は日本を含め全世界で上映され、多くの若い才能たちが有名な映画祭に現れています。しかし内側からだと、現状についてどう見えるでしょう?

AM:私はこういった評価をいつも避けようとしています。自分の作品に注視したいんです。現状はベストではない故に、新しい世代の映画作家が現れ、何かを変えてくれることを願っています。成功は続いてこそ本当の成功になるんです。

TS:日本のシネフィルがチェコ映画史を知りたいと思った時、どのチェコ映画を観るべきでしょう? その理由は?

AM:基礎はチェコスロヴァキアニューウェーブでしょう。基本的にこの時代に作られた映画は全て傑作でしょう。ミロシュ・フォアマンヤン・ネメッツイヴァン・パッセルパヴェル・ユラーチェクヴェラ・ヒティロヴァジー・メンツェルエヴァルト・ショルムユライ・ヘルツヤロスラフ・パプーシェクなどなどです。この若かった世代の加え、私はFrantišek Vláčil フランチシェーク・ヴラーチルの作品を愛しています。"Markéta Lazarová"は私の中では一生越えられない映画です。現代映画だとVáclav Kadrnka ヴァーツラフ・カドルンカ(特に彼の"Krizácek"は素晴らしいです)、それからBohdan Sláma ボフダン・スラーマOndřej Provazník オンジェイ・プロヴァズニークMartin Dušek マルティン・ドゥシェク(特に彼の作品"Staríci"ですね)と、現在のドキュメンタリー映画の力強い潮流です。

TS:もし1つだけ好きなチェコ映画を選ぶなら、どの映画を選びますか? その理由も聞きたいです。個人的な思い出がありますか?

AM:1つを選ぶというのは本当に難しいですね。でも選ぶなら"Markéta Lazarová"(František Vláčil)、"Intimní osvětlení"(イヴァン・パッセル)、「夜のダイアモンド」(ヤン・ネメッツ)などはとても重要な作品ですね。

TS:新しい短編や長編を作る予定はありますか? もしそうなら、ぜひ日本の読者に教えてください。

AM:今はFAMUが修士課程に入れてくれるよう祈っています。それから家庭における豚の屠殺にまつわる短編を作りたいです。これは(あるエリアでは今でも)家族にとってのお祭りなんです。ドラマの背景としては素晴らしい、とても特別な出来事だと思います。

現在は初長編の計画も進めています。おそらく強い登場人物をここで描けると思います。ポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも情熱には負けてしまうだろう人物です。

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