鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Narghiza Dotieva&“Skylark”/キルギス、ぼくは鳥になりたい

さて皆さんは、キルギス・タジキスタン国境紛争という出来事を知っているだろうか。これは2021年から2022年にかけてその国境沿いで起こった両国の国境線をめぐる紛争だ。キルギス南部に位置しているキルギス人とタジク人の集落が混在する雑居地域で、水や土地を巡る争いが頻発しそれが国境紛争へと発展、住民や軍同士の大規模な衝突で多数の死傷者が出てしまった。

この二国はロシア帝国、後にはソ連による支配を受けることになるが、1920年代にソ連が両地域に両国の歴史や文化、そしてその意思を無視する形で境界線を設けてしまい、このせいで飛び地が形成されてしまう。両国は1991年のソ連崩壊に伴って独立するも、この未画定区間が残ってしまった境界線が火種を生むことになる。そして2021年の4月から飛び地であるヴォルフ付近での水争いを発端として国境紛争が勃発する。

幾度となく衝突が起き、双方において国境警備隊や民間人から死傷者が出る中、戦車や装甲兵員輸送車も導入される大規模なものへと激化を遂げていく。停戦と停戦破りが頻発する中で2022年9月20日にタジキスタンとキルギスは和平協定に署名、紛争は終結することとなる。この紛争をきっかけとして二国は国境画定作業に奔走、2年後の2024年には1000キロメートル近い国境の画定を完了、翌年には国境に関する条約へ署名を果たした。ソ連崩壊に伴った独立から30年以上かかっての出来事だった。

このキルギス・タジキスタン国境紛争において、紛争は主にキルギス側で繰り広げられた。キルギスでは多数の犠牲者が出たのは勿論のこと、10万人以上が紛争地域からの避難を余儀なくされたという。紛争は終結し、国境が画定した今もキルギスの人の心にはその深い傷が残っている。今回はこれを背景とした1作である、上海国際映画祭でプレミア上映されたばかりのNarghiza Dotieva監督によるデビュー長編“Skylark”を紹介していこう。

主人公となるのは二国の国境近くの村に住んでいるアイベック(Ularbek Mirlanov)という10代の少年だ。彼にはとある事情から父と母が村を既に去ってしまっており、唯一の肉親である祖母(Bermet Omurova)と生活を共にしている。2人だけゆえに状況は貧しくも、何とか慎ましく生活を送っていた。だがそんな彼らのもとに紛争の影が徐々に迫っていく。

まず監督はそんなアイベックの日常を淡々と綴っていく。キルギスでも周縁に置かれた地域に位置しており、恒常的に情勢は不安定がゆえに人々は村を去り都市部へと移住していく。そうして村は過疎化し、寂れていく。しかしここで逞しく生活する人々も多く、アイベックはタミルベックやジャナットという同級生の友人たちに囲まれ楽しい時間を過ごし、独りの時は鳥や人の絵を描きだしていく。撮影監督のBenjamin Liddelによってそんな風景が静かに、かつ叙情的にスクリーンに浮かびあがる様は、観ていると心洗われる感覚を覚える。

しかしその生活に陰りが見えてくる。老い衰えていき自分の死期を悟った祖母は、未だ元気なうちにアイベックに対して遺言を残す、自分を愛していた祖父の隣に埋めてほしいと。しかしそこには問題があった。祖父が埋められている墓地は今隣国であるタジキスタンの領土内にあり、キルギス側の人々は簡単には立ち入りができないのだ。

この遺言が語られるのと時を同じくして社会としてもキルギスとタジキスタンとの対立が激化していくこととなる。タジキスタン側からの砲撃をきっかけに地域における緊張が激しさを増し、危険を察知した村人たちの中には村を退去する者も現れる。そしてジャナットの家族も退去と、首都であるビシュケクへの定住を決め別れの時は迫る。一方で祖母は絶対にここを去らないと腰を据え、アイベックも彼女に寄り添いここに残ることを決める。そして国境紛争の最中に大きな悲劇が起こってしまう。怒りに満ちた青年たちは復讐のためにタジク人の家に火を放ち大きな被害が出るのだったが、その青年たちの中にはアイベックの姿もあった……

こうして今作は中盤において詩的で叙情的な雰囲気が、誰が死んでもおかしくない不穏な雰囲気へと一転してしまう。雰囲気作りがすこぶる丁寧であるからこそ、その転換とここから始まるアイベックの心を観客のそれごと折っていくような展開の数々は衝撃的なものがある。

だが今作の核となる存在はアイベックと、彼を演じるMirlanovに他ならない。アイベックは運命に翻弄され続ける存在だ。父は他の女を追い母を捨て去り、母もそんな裏切りを苦にして村を去ってしまう。だが彼女がアイベックを連れていかなかった理由は、この子は家を継がなくてはならないと祖母が強制的に引き取ったからなのだった。優しい祖母もまた罪を抱えているのだ。

長男が家を継がなくてはならないという伝統が呪いであると同時に、そんな祖母の遺言も国境紛争下においては2人の間に存在する絆以上にまた呪いとして機能してしまう。そしてアイベックはそんな呪いを背負い生きる覚悟を決めなくてはならなくなる。題名の“Skylark”とは“ヒバリ”を意味しており、否応なしに土地に縛られたアイベックは国境など軽々と越えてみせるヒバリの姿に切ない眼差しを向ける。その時にMirlanovの表情に浮かぶのは、自由を踏みにじりその土地に人を縛る存在への絶望と諦念なのである。

キルギス・タジキスタン国境紛争を描きだす今作はまじりっけなしの悲劇である。そしてこの傑作にはそんな堂々たる悲劇だけが宿せる深い絶望、諦念、そして崇高な浄化の感覚が宿っているのだ。

Laïla Marrakchi&“La más dulce”/モロッコとスペイン、搾取のその構図

スペインとモロッコは、地中海と大西洋を結ぶジブラルタル海峡を挟んで向かい合っている。この距離感ゆえに関係性は深く、歴史を通じて双方からの行き来が盛んであるわけだが、経済的により発展しているスペインにはモロッコからの出稼ぎ移民も数多い。そしてそこには、世界中の各地で起こっているような労働力搾取という問題がやはり生じている。今回はスペインにおけるモロッコ人移民の搾取を詳らかに描きだしていく、モロッコ人監督Laïla Marrakchiによる第3長編“La más dulce”(英題“Strawberries イチゴ”)を紹介していこう。

主人公である女性ハスナ(Nisrin Erradi)は故郷であるモロッコを離れてスペインへと移住を果たす。アンダルシア地方のイチゴ畑で季節労働者として働き、稼いだ金で家族のためにアパートを買うというのが彼女の目的だった。そこで彼女はメリエム(Hajar Graigaa)、アリ(Larbi Ajbar)、ハディージャ(Fatima Attif)といったモロッコ人女性と出会い、友情を育むのだったが……

今作はハスナを通じてモロッコ人移民たちの苦難を見据えていく。冒頭においてハスナの姿には明るさが宿っている。スペインは彼女にとって今までの人生を変えてくれるかもしれない新天地であり、そこには希望が溢れている。故郷と比べるなら週単位で何倍もの金が稼げると聞いているゆえ、過酷なイチゴ摘みに同僚たちとともに精を出す。

しかし徐々に雲行きは怪しくなっていく。居住環境は労働者が何人もひしめきあう劣悪さであり、監視員たちは高圧的な態度を崩さずハスナの理解できないスペイン語で何度も罵倒する。さらには頼みの綱だった給料も中抜きされて、食費や雑費で自由になる金はほとんど少ない。それすらも故郷の家族に仕送りする必要があり、手元に残るのは雀の涙ほどのお金しかない。こうして自分が騙されていることに、そしてその搾取の渦から容易には逃れられないことにハスナは気づくことになる。

今作は社会派スリラーとしての様相を帯びていく。Tristan Galandによる撮影は例えばダルデンヌ兄弟の作品を彷彿とさせる陰鬱なリアリズムを指向している。昼は畑で働かされ、夜は狭苦しい部屋に押し込められる奴隷のような生活、それが手振れが生々しく入り混じる撮影によって提示される様にはとにかく息が詰まる感覚を覚えてしまう。風光明媚な観光地として名高いアンダルシア、そこに広がる眩い陽光からも腐敗臭がしてくるほどだ。

監督とDelphine Agutが手掛ける脚本は、こうしてモロッコの移民労働者たちとスペインの資本家たちの間に広がる階級対立の構図を描くわけだが、興味深い存在感を放つのがメリエムである。途中から彼女は唯一家政婦として上司に雇用されるのだが、外で過酷な肉体労働を行うハスナたちは快適な邸宅で家事労働を代行する彼女に羨望を抱き、その関係性にヒビが入り始める。だが観客はそんな邸宅の中で、メリエムが性的虐待を受けていることを目撃する。どちらも搾取されているのは同じながら、メリエムは資本家への不満の捌け口として、いわばスケープゴートとして利用されているとそんな光景が見えてくる。監督たちは資本家側のこういった卑劣さをも見据えているのだ。

そしてある日メリエムは下半身から大量出血、命の危機に瀕することとなる。そこでハスナが頼るのがピラール(Itsaso Arana)というスペイン人女性、彼女はスペインにおける移民搾取を追っている人権派の弁護士だった。メリエムを保護した後、農場を告発する準備が整えられていくのだが、しかし様々な障害が持ちあがっていき、ハスナが隠していた秘密も明らかになっていく。

Erradi演じるハスナという女性は見ながら喉奥に小骨の引っかかるような印象を覚える存在だ。故郷ではテコンドーの金メダリストであるが、正当な評価を受けられなかったゆえか、どこかプライドが高く他人に対して当たりも強い。メリエムたちとも一応は信頼関係を築きながらも、対立は多い。フィクションではあまり見掛けない類の、生々しい性格の悪さをしているのだ。しかしメリエムを救い、農園を告発しその犯罪を白日の下に晒したいという正義への意志もまた確かに存在している。

この悪性と善性に引き裂かれているかのようなハスナは、社会的にもそんな状況に陥らざるを得ない。搾取の関係性に置かれた労働者と資本家、経済的格差が厳然として存在するスペインとモロッコ、男性中心社会において権力勾配がやはり存在してしまう男性と女性、そういった二項対立の狭間に投げ込まれて、ハスナは倫理的問いに懊悩せざるを得ない。それゆえ心の彷徨いをErradiは力強く体現しているのだ。

さらにその状況はアリやハディージャといった他の女性たちもまた同じなのである。メリエムや農園告発のために証言を行えばもうスペインで仕事ができないかもしれない、それどころかモロッコへ強制的に送還されるかもしれない。だからこそ証言を躊躇わざるを得ない。昨今女性同士の連帯、シスターフッドというものの重要性が謳われるが、実際それがこの男性中心の、そして資本主義の激化した社会においていかに難しいかこそがハスナたちの姿からは見えるのである。

その果てに“La más dulce”という作品は、人間の尊厳とそれを踏みにじろうとする社会、2つの対立は続くと思わされる複雑な余韻を伴いながら幕を閉じる。この戦いは世界中で繰り広げられている、終わりが来るのはいつの日なのだろうか?

Jonas Spriestersbach&“Meanwhile in Namibia”/ナミビア、その植民地主義の名はドイツ

1884年から1914年の間、ドイツはナミビアを植民地として支配していた。“ドイツ領南西アフリカ”と呼ばれていたナミビアで、ドイツ人植民者たちは壮絶な搾取の末にこの地域に住む少数民族を虐殺するという事件、いわゆるヘレロ・マナクア虐殺をも引き起こすこととなり、これが20世紀最初のジェノサイドともなった。それでもナミビアは英国からの支配を経て植民地支配から解放され独立を果たすわけだが、ドイツは一連の植民地支配を犯罪とは認めず、賠償金を支払うことも拒否する状況が続いている。今回紹介したいのは、そんな現状を背景にナミビアで未だに蠢きつづけるドイツの植民地主義を追ったドキュメンタリーであるJonas Spriestersbach監督作“Meanwhile in Namibia”だ。

まず冒頭で映し出されるのはナミビア南部に位置し、大西洋に面している港町Lüderitz リューデリッツとそこにやってくる白人観光客たちの姿である。ナミビア植民地化の礎を築いたドイツ人商人Adolf Lüderitz アドルフ・リューデリッツの名を冠したこの町は、彼の代理人であるHeinrich Vogelsang ハインリヒ・フォーゲルザングが主導者として形成された商業拠点の1つで、漁業やダイヤモンドの採掘で一時期は繁栄もしていた。しかしその裏側では奴隷化した現地人を線路などのインフラ建設に動員し、町と面するシャーク島には収容所も作られていたという。

現在この町はアール・ヌーヴォーといった植民地時代の建築、アシカやペンギンといった野生動物たちが見られるということで観光地化しており、そこにドイツ人を含めたヨーロッパからの観光客がやってくるわけである。そしてある現地人ガイドは彼らにこういったことを語る。この町を拠点として1885年から1890年まで“ドイツ領南西アフリカ”の帝国弁務官を務めたのがHeinrich Göring ハインリヒ・ゲーリング、あのナチス・ドイツで国家元帥をも務めたヘルマンの父親である。ハインリヒ統治下でシャーク島には収容所が建設されたわけだが、これをヒントにヘルマンたちナチス・ドイツは絶滅収容所のアイデアを思いついた……そんな話に対して観光客たちはそこまでの関心を向けず、話題は別のものに移っていく。

さて先程ドイツは植民地支配に対する賠償金を払うことを拒否していると書いたが、ナミビアに金を支払っていることは支払っている。復興のための支援金、経済発展のための資金という名目でである。賠償金を支払うと植民地支配を犯罪と認めることになるゆえ、こういったレトリックを使って一応の補償はしながらその責任を背負うこと自体は巧妙に避けているわけだ。

そして最近では観光資源ともなっているナミビアに広がる生物多様性、これを保護するという名目で補助金を支払っている。監督はそれが語られる場にカメラとともに潜入を果たす。その会議場ではいかにナミビアの生物多様性を守るか、いかにこの保護活動を発展させて事業として成り立たせるかを話し合うわけだが、参加者はほとんどが白人であり黒人はほとんどいない。だが逆にこの会場を清掃する人々は全員黒人である。残酷な格差がここには存在しているのである。

この光景を説明するかのように字幕では、ナミビアにおいて白人住民は2%と少数派であるのだが国に存在する資源の70%を占有しているのだと語られる。さらに国民の半分は貧困状態にあり、アフリカでも格差の度合いが随一なのだという。生物多様性の保護というのはSDGsの取り組みにも直結する行動であり重要なのは間違いないが、ここにおいてはその保護活動にまつわる意思決定にナミビアの黒人たちがほとんど関われていない。その状態では取り組みも資本主義と人種差別の悪魔合体した偽善にしか見えてこない。

さらに監督は白人たちのそんな偽善をスクリーンに曝け出していく。彼らが取り組んでいる計画の1つに“生きた博物館”というものがある。これは失われゆく少数民族の文化を後世に残すために彼らの生きている場所を観光地として観光客に開放、その日常を見てもらうという計画だ。白人たちは計画遂行のため奔走、現地人に参加の交渉をするとともに、彼ら自身も忘れていっている伝統文化について講義を行う。白人たちが、自分たちこそが伝統文化の担い手とばかり現地人に講釈を垂れる様はすこぶるグロテスクだが、おそらく彼らは本気で失われゆく文化を救うという崇高な目的のために邁進しているんだろうと思わされる。その様には“地獄への道は善意で舗装されている”という言葉を想起せざるを得ない。

その“生きた博物館”に勤めている現地人は観光客が誰もいない時には洋服を着たりと現代的な生活、彼らにとっての普段の日常を過ごしているのだが、観光客がやってきたとなるとすぐさま現代文化を投げ捨てて民族衣装を着たうえで彼らに対応する。民族伝統の歌や踊りを披露することもあれば、わざわざ道具を使って火起こしに励むなどする。これを見て白人の観光客たちは「今でもこんなことをしてるんだね。大変だな!」と、博物館の展示物を眺めるかのように楽しむわけである。

さらにここでもまたあの生物多様性が顔を出してくる。“生きた博物館”において保護のために狩りが禁止されていると現地の人々が観光客に語る場面があるのだが、次に描かれるのは白人たちがサバンナで狩りを楽しむ姿である。金を支払っているのか、違法ではないのかということは表立って語られないが、白人ならナミビアでも堂々と狩りができる状況がここに厳然と存在していることは明らかだ。それでいて殺した動物を剥製にするしごとは、全て黒人たちが担当している。そして剥製師は言うのだ。白人たち、私たちが自分に近づいてほしくないクセに、アフリカの黒人が黒人らしくしてる姿は自分から見にくるんだから……

監督であるJonas Spriestersbachはドイツ人かつ白人であり、まず黒人たちの信頼を得たうえでその生活を映しだし、虐殺や植民地主義を率直に語ってもらうことに成功している。彼らの言葉から植民地支配がいかに悲惨だったかを私たちは知るだろう。だが今作のより注目すべき点は、ドイツ人/白人であるからこそナミビアの白人コミュニティに入りこみ、彼らが時には微かに、時にはあからさまに差別意識や優越感を見せる様を白日の下に晒している点だろう。上述した通りあまりにもヤバい行動や発言が何度も出てくるので私も度肝を抜かれ、苦笑が何度も何度も溢れてしまったほどだ。

Spriestersbachが撮影も担当しているわけだが、白人たちのヤバさに巻き込まれないためか、彼は被写体と常に距離を取ったうえで定点カメラさながらに冷やかな観察の姿勢を徹底している。だからこそ常に緊張感が張り詰めており、それがあまりにヤバい差別意識の発露によって緩み、思わず呆れの笑いが込みあげるとそんなドス黒いユーモアすらも宿るわけである。

“Meanwhile in Namibia”はドイツの、反省からも贖罪からも逃げおおせるために理屈を捏ね回すその悪辣さを見据えることで、ナミビアには今も形を変えて植民地主義が残り続けているかを告発する。ドイツがいかに過去を反省してないか、これを見るならばこの国が今正にイスラエルによるパレスチナ侵攻を支援し、イスラエルを批判する者を弾圧する理由の一端も分かるというものだ。日本も大概だが、ドイツだって結局どっこいどっこいだ。

Sara Ishaq&“Al Mahattah”/イエメン、平和は遥か遠くに

さて、イエメンである。2015年から始まった、政府と反政府勢力のフーシ派の対立をきっかけとした内戦が未だに続いており“世界最悪の人道危機”と呼ばれる状況が続いている。さらにイスラエルによるパレスチナ侵攻勃発後はイスラエルと敵対、軍事的応酬が繰り広げられている。今回はこうした状況を背景としてイエメンの現在を描きださんとする作品である、イエメンの新鋭監督Sara Ishaqによる初長編“Al Mahattah المحطّة”(英題:“The Station 拠点”)を紹介していこう。

今作の背景となっているのは長く続く戦争において成人男性は軒並み徴兵され、男性は子供か老人しか残されておらず、ゆえに町にしろ村にしろ社会を支えているのは女性という状況だ。そんな中で主人公となる女性ラヤル(Manal Al-Mulaiki)は年の離れた弟であるライフ(Rashad Alrajeh)ともに、ガソリンスタンドを経営しながら何とか生計をたてていた。

まず監督はラヤルたちが過ごす逼迫した毎日を描きだしていく。成人男性を大部分が動員されようとも戦争は終わることがなく、とうとう12歳以上の子供も徴兵され始めている。町には徴兵を促すポスターが大量に貼られるとともに、少年兵たちが村内を警備する厳戒態勢が敷かれている。そこにおいては女性が家事も仕事も一手に引き受けざるを得ず、さらに彼女らを追い詰めるがごとく、村には毎日「子供を産め!避妊は違法である!」と大音量で流れる。

こういった状況下において“男子禁制、兵器も戦争も持ち込み禁止”という標語を掲げるスタンドには様々な事情を抱えた女性たちが集まってくる。イスラム教の戒律が女性を抑圧するために悪用されている外の世界では禁止された事柄、例えば色とりどりのベールやアクセサリーや美味しい食事やお喋りを楽しむといったことができる。このガソリンスタンドは女性たちにとって安らげる唯一の場所、オアシスなわけだ。だからこそここを経営するラヤルは女性たちに尊敬されているのだ。

しかしラヤルの前には様々な障壁が立ちはだかる。現状においてはライフも徴兵され兵士として訓練を受ける必要がある。ラヤルは何とかして徴兵から弟を逃れさせていたのだが、彼女はとうとう自分では到底払えない額の罰金を課されてしまう。彼女は金を用意するために疎遠だった姉シャムス(Abeer Mohammaed)に頼るのだが、彼女こそが厄介事を持ちこむこととなる。

ここから物語はイエメンにおける男性性への洞察を深めていく。厄介事とは彼女がアフメド(Saleh Al-marshahi)という少年兵をスタンドに連れこんだということだ。兵士として訓練を受けた彼は尊大な態度で女性たちに接するが、同年代のライフと遊びに耽るなかで本来の子供らしい表情を取り戻していく。アフメドたち少年兵は「男になれ!」という言葉の下に子供である権利を奪われた存在であり、この男子禁制の場で初めて子供に戻れる。逆に言えばここ以外では子供には戻れない。イエメンとはそんな場所だという哀しみが、アフメドの姿には宿っている。

物語が進むにつれてラヤルとライフの関係性は変貌せざるを得ない。明らかになっていくのはラヤルが弟を守りたいがあまり、弟の思いに一切考えが向かないままに行動している側面だ。ライフ自身の考えやその自立性を認めないその過保護さもまた危ういというのが描かれていくのだ。こうして自分の考えを押しつけ対話しなかったゆえの悲劇、それはより弱き立場にある存在にこそ降りかかってしまう。そんな普遍的でもあるテーマは、イエメンの苦境により複雑で、哀しみに満ちたものとなってしまう様をも“Al Mahattah”は私たちに提示するのである。

Gessica Généus&“Marie Madelaine”/ハイチ、愛が培われ踏みにじられ

ということで、ハイチである。日本でも治安悪化が著しく危うい状況にあるという報道が伝えられているが、そういった記事や番組でしかこういった小国については知れないという現状がある。そこにおいて正に今生きている人の考えや営みを伝えてくれるものの1つが芸術であるように思う。今回はそんなハイチを舞台にした、新鋭Gessica Généusによる第3長編“Marie Madelaine”を紹介していこう。

舞台となるのはハイチ南部に位置する都市ジャクメルである。今作の主人公であるマリー・マドレーヌ(Généusが兼任)は娼婦として生計を立てる日々を送っていた。環境はひどく劣悪なものであり、体に爆弾を抱えながらマリーは必死に、しかし自由にハイチの危険な状況を生き抜かんとする。

今作は冒頭から壮絶な光景から幕を開ける。ある事情によってマリーは股から血をブチ撒けて息も絶え絶えになってしまう。ある男性に助けられて病院へと運ばれるのだが、待合室は満員でありさらに娼婦という身分から治療を拒否されてしまう。病院から追い出されたマリーは、具合が明らかに切迫しているのに男性に金をたかったかと思うと、横の店で宝くじを買い、そしてそのまま地面にブッ倒れる。ハイチの現状、マリーという女性の強烈なパーソナリティが観客の注意を鷲掴みにするのである。

そんなマリーを何とか助けた男性というのが伝道師であるジョゼフ(Béonard Monteau)だった。彼はマリーが勤める娼館の向かいに位置する教会で、父であるジャック牧師(Edouard Baptiste)に従って布教活動を行っていた。聖書の教えを忠実に守ろうとする敬虔な教徒でありながらも、少しずつその信仰の揺らぎも感じ始めていた。そこで出会うのがマリーだったというわけである。

こうして2人は少しずつ距離を深めていく。ジョゼフにはメロディーという恋人(Melissa Mildort)がいたのだが、聖書に従って婚前交渉どころかキスもしない禁欲的な生活をしている。マリーはそんな彼とは真逆でセックスを仕事として性の自由を謳歌する存在だ。助けてくれたお礼にセックスしようとすらするマリーだったが、その誘惑を拒むジョゼフが少しずつ気になり始める。撮影監督であるNicolas Canniccioniのカメラはそんな2人の姿を、ジャクメルに広がる猥雑で活力に満ちた風景とともに鮮やかに捉えていくわけだ。

だが2人の所属している娼館と教会は全く犬猿の仲だ。特にジャックを筆頭に教会側からの敵愾心は激しいものであり、人々の魂や地域の風紀を腐敗させる温床として糾弾を止めることがない。そのような状況では娼館側も黙っておらず、彼らを挑発するような行為を何度も行い教会側は激怒、対立はさらに不穏なものとなっていく。こうして共同体同士が激しく対立する中で2人は惹かれあう意味で、今作は正に「ロミオとジュリエット」さながらの様相を呈していく。

ここにおいてマリーとジョゼフは夜密やかに対話を繰り広げる。話題となるのは自由と、そして神への信仰である。互いが何故それを尊重するのかが最初は理解できないながらも、それを語り共有すること自体が2人の仲を自然と深めていくことになる。そして相容れるとまでは行かないまでも、しかし確かに共生への道が紡がれていくのである。

そして監督もまた双方に共通するものをも見出していく。娼館でマリーは大麻を吸って爆音でEDMを聞きながら同僚たちと忘我の境地に至る場面があるのだが、それは教会においてジャックが説教を行い、メロディたちが美しいゴスペルを響かせる際、信徒たちが我を忘れたように祈りを捧げる場面に重なる。忘我の対象や目的は違えども、そういった境地に行かんとする姿勢は共鳴するものがあるのではないか?と、観客は思わされることにもなる。

しかしマリーとの交流の中で教会で教えられるものとはまた違う自由を知っていくジョゼフを、共同体はよく思わない。セックス関係なしに女性と夜を過ごすこと自体をも咎め、ジャックたちはジョゼフに拷問まがいの罰を加える。そしてその糾弾はさらにキリスト教共同体による娼館への更なる弾圧へとも繋がり、その様は魔女裁判的な集団狂気へとエスカレートしていくのである。そしてそこからこそ暴力が始まり、容易く人の命が奪われていく。ハイチの今とはこれなのだ……そんな絶望が、観客の網膜へと叩きつけられていくのだ。

“Marie Madelaine”は娼館と教会、対立する2つの共同体の狭間で愛と理解を紡ぎあわんとする男女を追った1作であり、性と信仰をめぐる「ロミオとジュリエット」とも言えるだろう。監督が見据えるのはハイチの荒んだ現状とそれが生む暴力に、愛は踏みにじられていく様であり、その視線には怒りと悲しみが満ち満ちている。

Nantenaina Lova&“Cher ancêtre”/マダガスカル、ここで生きていく

さて、世界地図を見て欲しい。まずマダガスカルを見てみよう。アフリカ大陸の南東部に寄り添うように位置している巨大な島であるマダガスカル、ここが日本においてはあの童謡にも歌われているアイアイの住処であり、生物多様性にとって重要な場所である。さらにその横には2つの小さな島があるが左に位置するのがレユニオン島である(右はモーリシャス)インド洋に浮かぶ島でも方や国であり、方やフランスの海外県という違いはありながらこの近さがゆえに結びつきは強い。ということで今回はこの2つの島の現在とその結びつきを描きだすドキュメンタリー作品である、マダガスカルの映画監督Nantenaina Lovaによる長編“Cher ancêtre”(英題:“Dear Ancestors 親愛なるご先祖さま”)を紹介していこう。

今作はSF的な舞台設定から幕を開ける。舞台となるのは2067年、マダガスカル独立運動の始まりから120年もの時が経った年だ。今はレユニオン島に住んでいる1人の女性(Fela Razafiarison)が自身の娘(Johanne Aratus)に寝る前の物語として語るのは、自身の父、つまりは娘にとっての祖父であるダダべという名前の漁師についてだ。彼は先祖代々の職業である漁師として海に出るとともに、活動家として進む環境汚染とも戦う日々を送っていた……

そんなダダべの姿を通じて監督はマダガスカルの現在を見据えていく。ダダべたちのように海に生きる人々はvezo ヴェゾと呼ばれている。彼ら海の民は豊かな自然に育まれながら漁業を通じて生計を立ててきたのだが、気候変動の影響で数十年前に比べてその漁業もままならなくなってきていた。一方内陸部においても鉱山開発が進み、聖なる森が切り開かれていくことせ、祖先が代々守ってきた自然が汚染される状況が続いていた。

こういったマダガスカルの危機に対して、人々は立ち上がることになる。デモ活動を行い鉱山開発などの環境破壊に反対するのだが、政府による弾圧は相当に強いものであり、少なくない抗議者が逮捕されていく。そして抗議者の中には故郷を逃れ移住する先がレユニオン島でもあり、ここから政府への抗議活動を行う者も現れる。

経緯は異なるが監督自身もまたこの2つの島を股にかけて活動する人物でもある。1977年マダガスカル中央部のアンツィラベに生まれ、首都のアンタナナリヴで育つ。小さな頃から映画が好きでフランスで社会学、レユニオン島でコンピューター科学を学びながら、ジャーナリストとして活動する最中に映画制作を始める。2008年にはフランス・トゥールーズの高等視聴覚学校 École Supérieure d'Audiovisuelで本格的に映画を学び、2013年には初長編である“Avec Presque Rien...”を完成させる。ここからマダガスカルとレユニオン島を行き交いながら日夜映画を制作している。

双方を股にかけるというのはマダガスカルの政情不安ゆえでもあるのかもしれない。マダガスカルは1960年に独立を達成して以降1972年、1991年、2002年、2009年と大規模な政治危機を何度も経験してきた。そんな中で2009年に野党指導者として政変を主導したのがアンドリー・ラジョエリナだった。広告代理店出身で元DJという異色の経歴を持つラジョエリナは同年から2014年にかけて暫定大統領の座につき、その後は同国大統領として同国の国家元首の地位にあった。

だが失業率の高さ、汚職、生活費の高騰などに対する国民の不満にラジョエリナ政権は全く対応できずにいた。そして度重なる水道と電力の供給停止への抗議を皮切りとして2025年9月25日より反政府運動が発生する。この担い手となったのがZ世代の若者たちだった。今作はそんな彼らがマダガスカルとレユニオン島双方で、腐敗したラジョエリナ政権に立ち向かう様を活写すると同時に、その姿に希望を見出していくのである。

そして日が経つにつれて抗議は激化の一途を辿り、10月11日に軍の精鋭部隊CAPSATが反政府デモに対する支持を表明しラジョエリナから離反、翌日には反政府運動の高まりを受けてとうとう彼は国外脱出することになる。14日にはCAPSATのミシェル・ランドリアニリナ大佐はクーデターによる大統領から権力を奪ったと宣言、17日に正式に大統領に就任することになった。Z世代は一定の成功を収めたというわけである。

そんな激動を背景としたこの“Cher ancêtre”は未来を語りの起点にすることで、希望を信じる心や平和への祈りが際立つドキュメンタリー作品となっている。とはいえランドリアニリナ政権が今後どういった道を行くのかを私たちは注視すべきなのだろう。軍部主導のクーデターによる政権交代なわけで今後どうなるかは未知数だ。希望や祈りが踏みにじられないよう、声を上げていく必要があるだろう。

最後に書いておきたいことが2つほど。1つは音楽センスがすこぶる良いということだ。ヴェゾの伝統音楽であるbelongoが全編で流れ、そこでは伝統弦楽器であるlokangaの音が響き渡る。そういった伝統を継承した最新のヒップホップまで流れ、マダガスカルとレユニオン島における音楽の今昔を鮮やかに体感させてくれる。

もう1つは日本文化の存在感である。目を引いたのはデモに参加する若者のTシャツにルフィ海賊団のマークが描いてあったことだ。この記事によるとワンピースは世界的人気ゆえに、マダガスカル含めて世界各地のデモにおいて海賊旗を掲げる若者たちがいるらしい。一方で銃撃によってデモを弾圧しようとする警察隊を映したフッテージ映像も流れるのだが、彼らが乗っているのがデカデカとTOYOTAのロゴマークが描かれた軽トラだった。体制側と反体制側、どちらにも日本文化が関わっている光景を見るのは何とも複雑な心地だった。

Urška Djukić&“Kaj ti je deklica”/狭間にたゆたい、そして私は……

LGBTという言葉は昨今一般にも膾炙してきたと思える。これはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの略であるわけだが、クィア映画という観点においてはLGTを主人公とする作品は割合として多く、このブログでも何十本も紹介してきた。しかし男女両性を愛するバイセクシャル当事者を主人公とする作品はかなり少ない。それは少数派の中でも彼らがさらに少数派であることを意味している。ということで今回は未だ数の少ない、バイセクシャル当事者を主人公とするクィア映画である、スロヴェニア映画界の新鋭Urška Djukićのデビュー長編“Kaj ti je deklica”(英題:“Little Trouble Girls”)を紹介していこう。

主人公は16歳のルチヤ(Jara Sofija Ostan)という少女だ。カトリック学校に通う彼女は女子生徒だけのコーラス団に入部することを決めるのだったが、そこで年上の女子生徒アナ=マリヤ(Mina Švajger)と出会うことになる。引っ込み思案なルチヤにとって、カリスマ性という自分に全く欠けたものを持っているアナ=マリヤは羨望の的であり、すぐさま彼女に惹かれていくのだったが……

今作はコーラス団を舞台とするだけあって、冒頭からその音響設計の緻密さが際立っている。少女たちの喋り声や歌声、ピアノの伴奏が観客の鼓膜に鋭く迫ってくるのはもちろんだが、最も印象的なのは歌う前に行われる発声練習において空気を切り裂くような呼吸が、どこか居心地悪いほどに喘ぎ声のごとく聞こえてくる瞬間があるのだ。この緊張感に満ちた音の比喩が既に、作品が思春期における性の目覚めを描くものであることが予告されるわけである。

さらにLev Predan Kowarskiによる撮影もまた序盤から洗練の極みを誇っている。まずファーストショットの露骨なまでに大胆な性の隠喩表現から始まり、解像度の高い洗練かつ鮮烈な映像はルチヤたちの表情とその移り変わりを丹念に捉えていき、さらには彼女たちの周囲に満ちる緊張感を視覚的に濃密な形で提示していく。

この聴覚的にも視覚的にも描かれる性の緊張感の淵源はルチヤがこうむる性的な抑圧である。序盤アナ=マリヤから口紅を塗ってもらうのだが、その直後迎えに来てももらった母親に唇についたそれを見咎められて叱られる場面がある。性へ興味を抱くこと、ひいては性欲を抱くこと自体に抑圧が存在し、どこかそういったものを抱いてしまう自分へも嫌悪感を抱いてしまう。しかし突然現れたカリスマ的なアナ=マリヤに対して眼差しを向けてしまうわけだ。

ある時、コーラス団はスロヴェニアとイタリアの国境付近にあるチヴィダーレ・デル・フリウーリ、ここにあるカトリック協会の寄宿舎で合宿を行うこととなる。ここで練習に明け暮れるルチヤたちだったが、協会では工事が行われており、そこで働いているイタリア人の作業員(Mattia Cason)から目が離せなくなっている自分に気づく。

ここから前景化していくのが、ルチヤのバイセクシャルとしての性の目覚めである。クィア映画では同性愛者が主人公の作品が多数派だ。なので自分のセクシャリティに徐々に気づいていくタイプの作品だと序盤では社会の“普通”に従って異性と恋愛して関係性を築こうとしながら、同性に心惹かれる自分に気づき……というパターンが多い。だが今作は真逆で、まず最初ルチヤは同性であるアナ=マリヤに恋愛的/性的に惹かれていくが、しかし作業員の男への感情を通じて異性にも惹かれることに気づき、動揺するのである。

ここから監督はルチヤが抱く、両性を愛するがゆえに異性愛と同性愛どちらにも居場所がない寄る辺なさを描きだしていく。狭間の存在として周りに理解者はおらず、疎外感を抱くことになる。さらにはルチヤ生来の性への嫌悪感が事態をさらに複雑化させ、彼女は孤独を深めていかざるを得ないのである。

そして世間一般的にも、いわゆるバイフォビア/バイ憎悪は根深い。異性愛者からは同性愛者と思われ差別される一方で、同性愛者からはどうせ異性愛に戻る偽物と軽蔑されてしまう。こういった異性愛者か同性愛者かでありその狭間は存在しないという規範によって両性愛者の存在が消されてしまう“両性愛の消去”(Wikipediaにもページが立項されている)という傾向がかなりのところ存在してしまっている。さらに両性を愛することを性的に奔放と見做され、同性愛者とはまた違う形で過剰に性的という固定観念を担わされてしまう。

実は監督自身がバイセクシャルを公言しているのだが、ここにおいて興味深い記事がある。このPop Heistにおけるインタビュー記事では、インタビュアー自身もまたバイであり自身の体験も踏まえて“この映画は自分のセクシャリティに関して感じる困惑、そしてintangibleness 形にならない曖昧さを本当に上手く描いていると思いました”と書いている。ルチヤの悲痛な姿が体現しているのはこのintangiblenessなのだろう。

さらに今作において目を惹くのがそのカトリック性である。ルチヤはアナ=マリヤに惹かれる最中、カトリック教会である彫像にキスをするのだがそれは聖母マリア像である。さらにルチヤの惹かれる逞しい男性は工事の作業員で大工仕事をこなす……それは大工であったヨセフ、もしくは彼の息子であるイエス・キリストを彷彿とさせる。つまり彼女のバイセクシャルとしての性的目覚めはマリア、そしてヨセフ/イエスというキリスト教において最も重要な家族関係の中で培われるのである。

これはキリスト教に限らないが、クィア映画において宗教は性的少数者への抑圧と結びつきがちである。今作が異色なのはカトリック信仰こそが自分の奥底に隠されたクィアな欲望に気づかせ、それと向きあわせてくれることである。単純に“前向き”と形容はできないが、しかし他作のように“後ろ向き”でもない信仰とクィア性の複雑な関係性を今作は提示しているのである。

そんな今作を牽引するのはルチヤを演じるJara Sofija Ostanに他ならない。両性愛者としてどちらの性にも惹かれるがゆえに、どちらからも受け容れられず狭間に揺蕩わざるを得ない少女の悲哀を彼女はその身で象徴している。そして彼女がその曖昧さ、白黒つかなさを抱き前へ進んでいくラストに、私たちはルチヤの幸せを願わざるを得なくなるだろう。