鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

楊國瑞&“好久不見”/運命の人魚に惑わされて

何というか時々“妙な映画”としか呼称できないような映画に遭遇することがある。例えば演出があまりにも変な映画だったり、物語の展開があまりにも不可解なものだったり、登場人物の行動原理があまりにも理解できない映画だったりする映画に出会うと“妙な映画”だと言わざるを得なくなったりする。そういう映画にはそうお目にかかれるわけではない。さて今回紹介する映画はそんな最新の“妙な映画”である、シンガポールの新鋭である楊國瑞 ネルソン・ヨーによる初長編“好久不見”(英題:Dreaming & Dying)である。

今作はまずある3人の再会から幕を開ける。劇中で名前の明かされない妻と夫(卓桂枝 ドリーン・トー&何榮盛 ケルヴィン・ホー)は、幼馴染であるヘン(俞宏榮 ピーター・ユー)と久方ぶりに会うことになる。再会を喜び、キリンの一番搾りを飲みながら旧交を温めあう3人なのであったが、妻の方はどこか落ち着かない表情を浮かべている。その裏側には何か言いしれぬ思いがあるようなのだが……

この映画がまずもって描きだすのは、そこはかとない三角関係というやつである。妻はつまり未だに独身でフラフラしているらしいヘンのことを想っているわけだ。海岸で独りでいる時には、彼にそれとなく恋愛について聞く時の問いかけを予行練習して、彼と二人きりになったなら練習してきたその問いかけを実際に口にしてみるのだが、彼はそれを飄々と躱してくる。その風景に夫は何も知らぬ風を装うのだが、彼女の心が自分からはとっくに離れていることは彼だって知っている。さてさてこれからどうなるのか……

今作でまずかなり独特なのがLincoln Yeoの担当する撮影である。まず、彼が紡ぎだすショットが相当に美しい。フィルムの粒子によって世界から鮮やかな色彩を引き出していき、それをスクリーンに焼きつけるとそんなショットの数々は、単純に溜め息が溢れてしまうほどに美である。印象派の絵画を想起させるほど、Yeoは光を使いこなしていると感嘆するほどだ。

だが彼の持ち味はそれだけではない。冒頭、彼のカメラは妻の不安げな横顔を映しだすのであるが、徐々にズームが引いていき、フレーム内にヘンが現れたかと思えば夫も現れ、そうして必然的に世界も広がっていく。彼が印象的に使いこなすのはこのズームである。冒頭のようにズームが寄り世界が広がっていくような感覚を観客にもたらすこともあれば、逆も然り、最初はロングショットで風景を映していたと思えば徐々にズームが寄っていき、フレーム内にはヘンと妻の上半身だけという構図になる。ここにおいてはつまり2人だけの親密な世界がここには広がるというわけだ。この何ともズームを自在に駆使されることで、今作の空気感、英題が示唆するような白昼夢的な雰囲気が築かれていくことになる。

そしてこの風景に呼応するように、物語自体もまた夢のような感触を宿していくことになる。そもそもの三角関係が、愛が表立って語られることが一切ない未分化なものであり、水墨画さながら見えない部分にその豊かさが表れるといったものとなっているのだが、その合間に全く別の物語が挿入される。ウェンジンとジウファンという男女が再会を遂げる。ここでウェンジンはずっと隠していた秘密をジウファンに打ち明ける、自分は実は人間ではなく人魚なのだ……

これは妻の持っている奇想小説の内容なのだが、妻や夫がこれを読む際にその縦書きの字幕としてスクリーンに浮かびあがるかと思えば、加えてその映像もまた映画に挿入されるのである。そしてウェンジンとジウファンはヘンと妻の姿で描かれることになっている。妻はこの奇想を愛おしげに読み進めていき、夫は意味が分からんと拒否し、本を乱暴に閉じる。ここでは一体何が起こってるのか?おそらく登場人物にすら分かってないような形で、物語は気ままに進んでいく……とか思ったら、また別の話が始まるのである。その物語においてはあの夫婦が再登場する。彼らは森で散策をしているのかと思いきや、夫の方は何か箱を抱えており、この中に入っている何かを森の奥へと運んでいくことが目的らしい。

この森パートにおいては、Yeoの撮影の鮮やかさがさらに極まっていく。覆われた鬱蒼たる自然はまるで豊穣な影に満ちた冥界といった感じで、スクリーン越しに眺めているだけでも、東アジアに満ち満ちるあの濃厚な湿気を感じさせられる。そして先にも書いた白昼夢のような雰囲気が湿りの中で、また別の幻惑的な何かへと変わっていくのにも観客は気づかざるを得ないだろう。

ここにおいてやはりというべきか、その脚本の奇妙さを増していくのだ。森の旅路の合間に、あの人魚の話が引き続き介入してくるのだが、旅には見当たらないヘンの姿をしたウェンジンの存在感がどんどん艶めかしいものになっていく。見た目は安っぽい青い布を下半身に着け、それで人魚と言い張るような妙な姿なのだが、むしろそれが異界のモノ感に繋がっている。彼を演じるピーター・ユーの色気は絶品も絶品で、再会パートでも夫妻を惑わせる運命の男オム・ファタールとして説得力に満ち溢れていたが、森パートでは俗世を越えたゾッとするような艶を誇っている。

これらの幻惑的な要素が組み合わさることによって、今作には観客を煙に巻くような感覚が常に宿っている。私も観ながら、自分は一体何を観ているんだ?と狐ならぬ、人魚に摘まれる感覚を味わわされた。こうして長く文章を書いていても、言語化してある程度理解できたと思いきやその理解をスルッと躱される、そんな思いをも現在進行形で抱かされていると言ってもいい。こうして思うのは、演出が云々、テーマ性が云々と延永と語るのはこの映画には野暮かもしれないということだ。皆さんもその機会が来たなら、“好久不見”という奇妙なる白昼夢にただただ身を委ねてほしい。

Chloé Aïcha Boro&“Al Djanat - Paradis originel”/ブルキナファソ、フランスが刻んだその遺恨

ブルキナファソは西アフリカに位置する内陸国であるが、隣接国であるマリやニジェールなどともにフランスによって植民地化された国でもある。その影響は公用語がフランス語であることや法システムがフランスに則っていることなどからも理解できる。そんな国でここ数年クーデターが連続し、政情不安定な状態が続いているが、この裏側にあるものの1つが旧宗主国であったフランスへの国民の反感でもある。今回紹介するChloé Aïcha Boro クロエ・アイシャ・ボロ監督作“Al Djanat - Paradis originel”はそんなブルキナファソにおける反フランス感情の源を見据える1作となっている。

今作の発端は監督の叔父が亡くなったという知らせである。彼はブルキナファソのデドゥグという町の有力者であり、広大な土地の所有者でもあった。しかし彼が亡くなってしまったことで、10人以上もいる彼の子供たちの間で土地の権利問題が浮上することとなってしまう。監督はこれを受け帰郷、ここで起こる出来事をドキュメンタリーとして残すことを決意する。

そうして映し出される光景の数々は世知辛いものばかりだ。この土地を売るか売らないかで子供たちの間で必然的に激論が巻き起こる。先祖代々受け継がれてきた土地であり、手放すことなどはあってはならない。自分の妻が妊娠中であり金が必要だから、土地を売ることでそれを用意したい。こういった各自の言い分が現れては消えていき、議論は収拾がつかなくなっていく。

さらに事態を複雑にするのは、この土地に住む人々の存在だ。土地には様々な場所から流れてきた人々が住んでおり、身を寄せ合いながら暮らしている。子供たちは彼らから家賃を徴収するなどもしているが、この土地が売られてしまえば住む場所がなくなってしまう事情もある。こうしてこの土地には利害関係者があまりにも多すぎるがゆえ、解決の糸口が掴めないのである。

こういった時のためにこそ法は存在しているはずだが、ここにも落とし穴がある。ブルキナファソの法システムはフランスのそれを模倣したものであり、この国の文化や風土に則したうえで設計されたわけではない。ゆえに、特にこの国の伝統的な相続方式と完全に衝突してしまうのだ。そしてこれがブルキナファソにおける反フランス感情の源の1つとなっているのが今作では描かれる。劇中においても利害関係者の1人が、白人の押しつけた法のために伝統を放棄するのか?と激昂する場面が存在している。フランスが残した“遺産”によって何をするにしても、あちらを立てればこちらが立たずという状態が生まれてしまうのである。

監督であるBoroはブルキナファソ出身であるのだが、移住先のフランスを生活拠点としている境遇にある。これが故に、こういった反フランス感情が存在する祖国で監督の存在は良く思われていないようだ。昔は愛情深く接してくれた叔母の態度が、フランスに移住してしまった今は余所余所しくなってしまったと吐露する場面も劇中にはある。それでも今作はインサイダーとアウトサイダーの狭間にいる異物という独自の立場からそんなブルキナファソの光景を見据えており、だからこそ描けたものもあるのだろう。

ここからは少し現在のブルキナファソ情勢について書いていこう。今作完成の前年である2022年は軍事クーデターが2度も起こるという激動の年だった、まず1月にブルキナファソ国軍が機能不全の政府に業を煮やしクーデターを実行、そのリーダーであるポール=アンリ・サンダオゴ・ダミバ中佐が政権のトップに就くこととなる。だがこの政権も現状に上手く対処できず、不満を持ったクーデター参加者の一部が9月30日に新たなるクーデターを実行する。そうしてイブラヒム・トラオレ大尉が暫定大統領に就任、今も彼の政権は続いている。

この2回のクーデターは、政府がイスラム武装勢力を鎮圧できないことへの不満が原因の1つであるとされている。政府は反乱を恐れて自軍の強化を怠り(それで結局はクーデターを起こされたのだから何とも虚しい結果だ)、フランス軍に鎮圧の任を担ってもらっていたが、フランスへの不信感からその支援を十全に活かすことすらできなかった。トラオレ大尉はこの現状を抜本的に変えるため、2023年3月には何とフランス軍を自国から追放してしまう。これは反フランス感情を持つ国民の支持を得たいという側面もあったのだろう。そしてその勢いでブルキナファソ政府はロシアの民間軍事会社であるワグネルに接近する一方で、自国軍強化のための住民たちの総動員をも宣言、今に至るというわけである。

今作はこの混迷のブルキナファソ情勢を直接的に描きだしているわけではない。しかし土地の権利問題と法制度の矛盾を通じて、クーデターの背景にある国民の反フランス感情、そしてその複雑さを観客に伝えてくれる。そしてそれを生んだものこそが植民地化という近代ヨーロッパの原罪であることを、私たちは理解せざるを得ないのである。

Salam Zampaligre&“Le taxi, le cinéma et moi”/ブルキナファソ、映画と私

さて、ブルキナファソである。この国は例えばイドリッサ・ウエドラオゴ Idrissa Ouedraogoガストン・カボーレ Gaston Kaboréなど日本で作品が上映されるほど著名な映画監督にも恵まれている。さらにこの国ではアフリカ映画のある種メッカとも言えるワガドゥグ全アフリカ映画祭(FESPACO)が開催されており、日本未公開映画を探し求める私のような人々でもその存在を認識している人はかなり多いだろう。だが今回紹介するのは、様々な事情からそんなブルキナファソ映画史から消えてしまった人物を描きだすドキュメンタリー、Salam Zampaligre監督作“Le taxi, le cinéma et moi”だ。

今作の主人公となるのはDrissa Toure ドリッサ・トゥレという映画監督である。彼は1952年にブルキナファソで生まれた。そんな彼が若い頃に出会ったのが、日本でも「黒人女」「エミタイ」といった作品が有名な、セネガル映画界の巨匠センベーヌ・ウスマンの作品だった。当時、彼の作品は既にヨーロッパ圏で評価されていたわけだが、それらに衝撃を受けたことことをきっかけに映画監督を志し始めたのだという。

その時期、先に名前を挙げたウエドラオゴやカボーレが映画界でキャリアを築こうとしていた時期であり、彼らとの知遇を得たトゥレはパリへと留学、ここに創設されていたAtrisという組織で映画製作を学ぶことになる。短編制作などで着実にキャリアを積み重ねていった後の1991年、彼は待望の初長編“Laada”を完成させる。故郷の村と都市を行き交う青年の苦悩を描きだした本作は、何とあのカンヌ国際映画祭に選出されることになる。当時は先輩格であるウエドラオゴが「ヤーバ」「掟」と連続でのカンヌ選出と賞獲得(前者は国際批評家連盟賞、後者はグランプリ)でブルキナファソ映画の波が来ていたゆえの、大抜擢だったのかもしれない。今作は好評を以て迎えられ、トゥレの名は一躍有名となる。

そして2年後の1993年には第2長編“Haramuya”を監督、西側から流入してくる文化とブルキナファソ古来の伝統の狭間で翻弄される家族を描いた作品で、カンヌ筆頭にロッテルダム国際映画祭などでも上映され、話題を博す。ドキュメンタリー内ではトゥレがテレビ出演した際の映像が流れる。他の出演者から“語りが支離滅裂”と批判を受けるのだが、彼は“これは自分なりの語りを目指した結果だ”と堂々たる反論を行い、映画監督としての風格を漂わせているというのを印象付けられる光景だった。

こうしてトゥレはウエドラオゴらとともに、ブルキナファソ映画界の未来を背負って立つ存在としての地位を確立するのだったが、そこから約30年が過ぎ、彼が作った長編数は……0本である。今は故郷で運送屋として働きながら、家族を養っている。ウエドラオゴやカボーレが着実にそのキャリアを積み重ねていった中で、何故トゥレは映画を作ることが出来なくなってしまったのか?ここから今作はその問いに迫っていく。

そこには様々な不運が存在していた。自身の作品がニューヨークで上映された後、トゥレは映画製作の拠点をアメリカに据えるため、この都市への移住を試みる。しかし家族からの猛反対に遭ってしまい、移住を断念、彼はブルキナファソへと帰ることになる。そこで映画製作を再開しようとするのだが、ここで再び悲劇が起こる。パリにおいて自分の活動を支援してくれたAtrisが解体されてしまい、その他ブルキナファソ政府からの支援なども一切なくなってしまったトゥレは映画が制作できなくなり、そのまま約30年もの時が経ってしまったというわけである。

もちろん本人の問題もあるとは思われるのだが、今作はその批判の目をむしろブルキナファソ社会にこそ向けていく。あそこまで将来を嘱望されていた映画監督がその後1作も映画を作れなかったのは、ブルキナファソ政府がいかに文化を軽視し、数少ない文化振興に関しても明らかな機能不全が見られ、不平等が生まれてしまっている。この影響を致命的なまでに受けてしまったのがトゥレなのだと今作は語るのだ。

ここでなかなか複雑な立ち位置にいるのがワガドゥグ全アフリカ映画祭である。“全アフリカ映画祭”と称する通り、アフリカ映画のメッカとして華々しい活動を誇っているが、当のブルキナファソの映画人に対する支援などがここで行われているのだろうか、他国からの支援を取り繋いだりということをしているのだろうか……トゥレの実情を見るのならば状況はあまり芳しくないもののように思われる。

しかしそんなワガドゥグ全アフリカ映画祭を愛する者の一人が何を隠そうトゥレその人なのである。カメラの前で映画祭への憧れを語った後、彼は撮影クルーとともに久方ぶりに映画祭へと赴くのである。映画を楽しむのは勿論、満員で作品が観れなかった時にも「シネフィルの情熱はすごい!」と笑顔で語るなど、映画祭を心から楽しんでいる様子がありありと伝わってくる。映画への情熱は彼から一切失われてはいないのである。

“Le taxi, le cinéma et moi”Drissa Toureという、ブルキナファソ映画界が忘れ去ってしまっていた1人の映画人への、そして彼がかつて背負っていたブルキナファソ映画史へのオマージュである。そしてその深い敬意があるからこそ、監督は現在のブルキナファソへと鋭い批判を向け、これを世界の観客に問うている。トゥレが再び映画を作れるようになる未来のための一助に、この紹介記事がなることを願っている。

最後に少し。劇中でも重要な役割を果たすワガドゥグ全アフリカ映画祭、私がこれを知ったのは懇意にしている日本未公開映画の伝道師チェ・ブンブンさんを通じてだった。彼はブルキナファソひいてはアフリカの映画を熱心に探求し、その魅力を伝えようと活動している。例えばこの記事では友人が撮ってくれたという写真を通じて映画祭を紹介、下部にはアフリカ映画関連記事つきだ。この記事も含め、ぜひチェブンさんの映画ブログ“チェ・ブンブンのティーマ”を読んでくれたら幸いである。

france-chebunbun.com

Álfrún Örnólfsdóttir&“Band”/悲痛と悲哀のアイスランド音楽界

ビョークシガー・ロスオブ・モンスターズ・アンド・メン……その国の規模に反してアイスランドの音楽超大国ぶりたるや、他に並ぶ国を思いつかないほどだ。私がルーマニア映画をきっかけにルーマニア語を学んだのと同じように、アイスランド音楽に触れてアイスランド語を勉強し始めたなんて日本人も少なくないのではないか。意外と日本語でも教材がたくさん出ているわけで。そんな中、私はそんな自国の音楽業界を描きだしたアイスランド映画を見つけたのだが、これがなかなか痛烈な映画だった。ということで今回はこの国の新鋭Álfrún Örnólfsdóttir アールフルン・オェルノールースドウティルによるデビュー長編“Band”を紹介していこう。

この映画の主人公はサーガ、フレフナ、そしてアールフルン(Saga Sigurðardóttir, Hrefna Lind Lárusdóttir, そして監督本人)という3人の中年女性だ。彼女たちはThe Post Performance Blues Band、略してPPBBという3人組バンドを結成しており、ポップスターとして有名になる日を夢見て、日夜バンド活動に明け暮れていた。しかし子育てなど家庭生活も忙しく、既に30代も終わりが見えかけている。そうして彼女たちは決断する、40までに夢を叶えられなければバンド活動はもう終りにすると。

今作はまずそんな3人の日々を描きだしていく。夜にはバーで奇矯な衣装を着て“機能不全性!”という訳の分からない歌詞をがなりたて、前衛的なパフォーマンスを繰り広げる。その翌日は子供を学校に送り届けて、家事をこなした後には子供を学校へお迎え。その合間に時間を作って作詞や作曲を行うわけだが、その暮らしぶりは大分ハードなものだ。

そしてこのPPBBというバンドの音楽性だが、何というかなかなかにエキセントリックなものだ。演奏や風貌が前衛的ならば、歌詞から作っているPVから全部イカレた感じで、良く言えばキッチュ、身も蓋もない言い方をすれば正直ダサい。こういう妥協がない音楽性なので一般受けは良くないし、40手前でこれはイタいと腫れ物扱いされているのも自分らが一番分かっている。彼女らとしてはこの音楽性こそを信じ突き進んでいるわけだが、それでもさすがに限界を感じ始め、あの決断をせざるを得なくなったのだった。

今作の興味深い点はそんな彼女たちの姿をモキュメンタリー形式で描いているという点だろう。虚構ではあるのだがカメラクルーがPPBBに密着という体で、どんな場所でもカメラがその傍らに厚かましくも居座っている。一歩引いてPPBBの活動を観察するならかなり滑稽な面があるのだが、彼女たちは真剣も真剣に活動している。その真剣さゆえにそこには常に息詰まるような空気感が満ちている。観客は臨場感ってやつを感じざるを得ない。

モキュメンタリーという体裁に相応しく、今作には虚実が入り乱れている。サーガとフレフナ役のSigurðardóttirとLárusdóttirはパフォーマンス・アーティストが本業であり、劇中でもそうなのだが正直あまり成功しているとは言えない。そしてアールフルン役は監督のÖrnólfsdóttirが兼任しているのだが、実生活でも劇中でも俳優としての活動がメインで、しかし劇中ではそのキャリアはやはりパッとしていない。こういった鬱屈がゆえ、アイスランドの芸術界でも最も成上りやすい音楽業界に縋って、ポップスターという夢に一発逆転の希望を託しているというわけだ。

こういった一応アイスランドの芸術界に片足は突っ込んでいるのだがキャリアはパッとしないままそこにしがみついている中年たちの視点から、今作はアイスランド音楽界の内幕を描きだしていく、外から見れば才能の塊が群雄割拠で上り調子以外の何物でもない光景が繰り広げられているといった風だが、実際にはイマイチ突き抜けられない人々が燻りに燻り泥臭い失敗があちこちで起こっているとそんな目も当てられない状況だったりする。

そして興味深いのは他の領域で成功しているのに、音楽業界で成功できなかったことを未練としている存在すら現れることだ。劇中、日本でも有名な現代芸術家Ragnar Kjartansson ラグナル・キャルタンソンが本人役として登場するのだが、彼も昔はバンドを組んで音楽業界での成功を夢見ていたと語るのだ。だがそれには挫折し、アート界で成功したにも関わらず未練を吐露する。自分のレーベルも作ったけど台所で運営してるようなヘボいやつだよ……彼の語りからは、アイスランドの芸術界において音楽界は最も特権的な世界であり、ここでの成功以外は“成功”ではないくらいの圧を感じさせる。だからこそ3人もここでの成功に執着しているのだろう。

今作は“失敗の数々をめぐるコメディ”と公式側から紹介されている。だが作風としてはそのリアリズム重視の演出も相まってかなりシリアスなものであり、私としてはあまり笑えなかった。Sebastian Zieglerのカメラに克明に焼きつけられていくアールフルンたちの表情には強ばった笑みや必死さ、そして何よりも苦悩が満ち満ちており、その生々しさたるやそもそも笑う気になれないし、監督自身も笑わせようという気もないのでは?と思わされる。

確かに3人の行動の数々は大分痛々しい。バンドに新しい要素を取りこもうと男性メンバーを入れたりするのだが、自分たちは“ガールズ・バンド”なのだからと一方的に彼をクビにしたりする。そして音楽性の違いで脱退した元メンバーを引き戻そうと、彼女を説得しようとするなど、すこぶる身勝手な行為を幾度となくやらかす。そして必然的にバンドは崩壊の危機を迎えるわけだが、この無様さを痛々しい、痛々しすぎると最も思っているのは他ならぬ3人だというのはその真剣な表情から痛いほど分かる。それでも捨てられないのが夢というものなのだ。

今作からは笑いよりも何より悲壮さこそが感じられる一因は、これを描きだす監督が傍観者の立ち位置にはなく、主演の一人としてこの痛々しさをむしろ自らが前のめりとなって体現しているからではないかと思える。今作において痛々しさは笑いのめせる他人事では断じてない。もしかしたなら自分もこうなっていたかもしれないと思わされる、あったかもしれない未来なのだ。であるからして今作はコメディとしては笑えない失敗作と言わざるを得ない。だがそれは監督の真摯さの表れでもあるのかもしれない。

“Band”は40手前でポップスターになる夢を叶えようと足掻く中年女性たちを追う作品だが、彼女らのバカっぷりを嘲笑うものではない。むしろ今作は“ポップスターになるのを諦める”という道をどうしても選ぶことができなかった不器用な者たちにこそ捧げられる、壮絶なる鎮魂の歌なのだ。

Beinta á Torkilsheyggi&“Heartist”/フェロー諸島、こころの芸術

さて、フェロー諸島である。デンマーク自治領であるこの地域にも、実は固有の映画産業が存在している。まず70年代後半にフェロー諸島舞台、フェロー人キャスト、この地域で話されるフェロー語を使用した数本の映画がスペイン人監督Miguel Marín Hidalgoによって作られた。そして1989年にはこの地域出身であるKatrin Ottarsdóttir“Atlantic Rhapsody - 52 myndir úr Tórshavn”を監督するのだが、今作が初めてのフェロー諸島映画と見做されている。その後にも細々とフェロー諸島映画は作られているとはいえ、私のような日本未公開映画ばかり観ている存在ですらこの国の作品を観られる機会は本当に少ない。しかしとうとう、そんな珍しい機会が巡ってきた。ということで今回Beinta á TorkilsheyggiMarianna Mørkøreというフェロー人映画作家たちによる長編ドキュメンタリー“Heartist”を紹介していこう。

今作の主人公となるのはSigrun Gunnarsdóttir シグルン・グンナルスドッティルという人物である。日本においてはほとんど無名であるが、彼女はフェロー諸島では最も有名な画家として有名であり、デンマークなどの北欧においても高名だそうだ。“Heartist”はそんな彼女の作品や人となり、そして今年74歳になる彼女の人生を60分という短い時間ながらも、観客に小気味よく紹介していくという体裁を取っている。

まず彼女の絵の作風なのだが、本人が形容する通りなかなかに“シュール”なものである。彼女は風景にしろ物体にしろ人間にしろ、意図して平面的な描き方をしており、どれもこれも不思議にのっぺりとした見た目をしている。特にどこを見ているか分からないジトーっとした目をした人々は一番のっぺりしている。これらの絵画を眺めていると、まるでおとぎ話の世界がキャンバスにそのまま描き出されているような不思議な印象を受けるのだ。これが彼女の作品の魔力なのだろう。

今作はまずそんな彼女の日々の暮らしぶりを追っていく。朝は早く起きて朝食を摂った後、愛犬を連れて散歩に行ったりとその生活は規則正しい。それらを終えてからは作品作りを始めるのだが、独りで黙々と作業をしている時もあれば、近所の人々や政治家を招いてお喋りをする時もある。夫からのサポートも厚く、離れて暮らす娘も子供に囲まれ幸せそうでその人生は順風満帆といった風だ。

撮影監督であるRógvi Rasmussenはそんなグンナルスドッティルの暮らしぶりを映す際、その作品をなぞるようにかなり平面的な画作りをしている。人々や風景を真正面から捉えていき、むしろ奥行きを丁寧に取り除くような撮影を行っているわけである。この撮影越しに見える世界はどこかメルヘンチックでもあり、見る絵本を体験しているような感覚に陥る。だがそもそもフェロー諸島、正確に言えばフェロー諸島を形成する島の1つエストゥロイ島、そこに位置する彼女の故郷エイジ Eiðiという町それ自体がメルヘン的な雰囲気を宿しているのかもしれない。この町から彼女の作品が生まれたというのに、観客は納得せざるを得ないだろう。

さらに実写映像に加えてKaty Beveridgeによるアニメーションも挿入されていくことで、今作のメルヘン性はさらに深まっていく。彼女はグンナルスドッティルの絵を層のように幾つも重ねていき、独特の世界を構築していく。そこでは妙な表情をした人々や動物たちが思い思いに動き回っているのだが、その妙な可笑しみに満ちた風景はそのまま彼女の作品が宿す精神性を観客に伝えてくれるのだ。

そして話はグンナルスドッティルの人生へと映っていく。祖父もまたフェロー諸島で有名な芸術家の家庭に生まれた彼女は子供の頃から画家を志し、長じてはデンマークの美術学校で芸術制作について学ぶことになる。そこでスランプに陥ることになりながらも、試行錯誤の末にシンボリズムという天啓を得て、彼女は今のシュールな作風を確立していくことになる。このシュールで素朴な作風が注目されて、彼女は一躍有名になったそうだ。大衆からの人気はもちろん、今では政治家からも肖像画の依頼が届き、果てはデンマーク王女の肖像画まで描くことになるほどだ。劇中ではその行程も描かれている。

しかし北欧を股にかけて注目されながらも、彼女にとって一番重要な場所はフェロー諸島という故郷であるのが映画からは伝わってくる。彼女はここでこそ家族や友人たちとともに生き、作品を創り続けている。ゆえにその作品を最も愛しているのはフェロー諸島の人々なのである。劇中ではアトリエ兼ギャラリーである場所で展覧会が何度も開かれ、来場者とちへグンナルスドッティルが交流する姿が描かれている。彼女と同世代の人々から娘よりさらに若い若者たちまで幅広い層の人々がここに来場し、時にはコンサートまで開かれているのだ。ここは人々にとって交流の場にもなっているのだ。

さらに彼女の絵を基に大きなオレンジ色の鳥の像が作られ、それがお披露目されるという場面がある。これがなかなか巨大でトラックで運ばれている風景がまたシュールなのだが、このシュールさに子供たちはおおはしゃぎ。そうして小さな少年少女が像の周りで遊びに遊びまくる姿はこの映画でも随一に微笑ましいものだ。ここで分かるのはグンナルスドッティルの作品のある場所、いやその作品自体がもはやコミュニティの場ともなっていることだ。エイジという人口700人ととても小さい町において、彼女の絵画は共同体意識を培うための重要な存在としてそこに存在しているのだ。

“Heartist”というタイトルは“芸術というのは心なんです”という言葉から取られている。絵画として表れたグンナルスドッティルの心が、人と人とを繋げていくなんてとても素敵なことじゃないか。今作はそんな風景を余すところなく映しとりながら、芸術の在るべき形の1つを観客に提示してくれるのである。

Hamida Issa&“Places of the Soul”/カタール、石油の子供たち

さて、カタールである。アラビア半島の北東部に位置するこの小さな国は、映画界における存在感もまた比較的小さい。私のように日本未公開映画を観まくっている方ならばアラブ首長国連邦ルクセンブルクに並んで、他国の映画を共同制作する国として知っている人もいるかもしれない。だが他の2国もそうだが、自国の映画産業は完全に二の次であり、カタール人監督によるカタールを舞台としたカタール資本の、いわゆる“カタール映画”というのお目にかかれる機会は驚くほど少ない。しかしこの度、私はそんな一作をとうとう観ることができた。ということで今回はカタールの新鋭作家Hamida Issa ハミダ・イッサによる長編ドキュメンタリー“Places of the Soul”を紹介していこう。

まず映し出されるのはホームビデオの荒い映像である。そこには広大な砂浜で両親に囲まれながら、笑顔を浮かべる子供が映っている。彼女は子供時代の監督自身であり、この映像は監督の子供時代を映したものなのだ。母がホームビデオを撮影するのが趣味であり、そのおかげで多くの映像が今に残っている。家族でパーティをする姿、ゲームセンターで家族がはしゃぐ姿、そんな他愛ないからこそ愛おしい風景がそこには刻まれているのだ。しかしカメラの持ち主だった母はもう既にこの世にはいない。そして監督のなかでその喪失の傷は未だに癒えることがない。

映像に映っていた子供は亡き母親の影響もあり、長じて映画製作者としての道を歩み始めるのだったが、新しい仕事は南極の観測旅行に随行することだった。彼女は南極に降り立つ初めてのカタール人という責任を背負いながら、カメラクルーたちとともに南極へと向かう船に乗船することになる。ここで監督はカメラマンであるChristopher Moonと旅路に広がる風景を映しとっていく。船の出発地点であるアルゼンチンはブエノスアイレス、どこまでも広がる大海原、そこに漂う超巨大な氷山、そして小さな氷の板のうえをヒョコヒョコと歩くペンギンたち……

今作において独特なのは、カタールを映したホームビデオの映像と監督たちが映す南極の観測映像が織り合わされることで構成されている点だろう。かたや世界の端に存在する氷の世界、かたや中東に位置する砂の世界。一見するなら全く異なる場所同士とも思えるが、この映像詩を観るうちに2つは豊かな海に面しているという共通点に気づくことにもなるだろう。こうして監督の視線と記憶を通じて、2つの世界は優しく溶け合っていく。

しかし観客は不気味な影をもそこに見出すことになるだろう。監督はカタールを映す映像にある老人の証言を重ねていく。石油が発掘される前、カタールでは真珠漁が盛んであったのだが、これを通じて人々は自然といかに共生していくかを学び、ゆえに皆が自然への敬意を確かに持っていた。しかし石油産業の勃興はもちろん、真珠漁も養殖業に取って代わられ、人々はその敬意を失っていき、環境を破壊することにも躊躇わなくなってしまったと。

さらに南極を映した映像も少しずつ不穏なものとなっていく。気候変動が進んでいき温度は上昇していくことで氷山が加速度的に溶けていってしまっている。これによって南極に生きる動物たちの命が危機に瀕している。他にも様々な異常事態が連続しているが、根本としてこの気候変動を促進する大きな産業とは何か。それこそが石油産業というわけである。ここにおいてカタールは他の中東諸国に並んで、随一の石油および天然ガス埋蔵量を誇っており、このおかげで一人あたりのGDPは世界第4位となるほど高所得者数が多い。これもあってか一人あたりの二酸化炭素排出量は世界一であるという研究結果も存在している。監督が南極観測に参加した理由とは、おそらくこれなのだろう。

私たちは石油の子供なのだ、映画内でこんな言葉を監督自身が呟く。その実情を私たちはホームビデオのなかに何度も見てきた。豪勢なパーティ、厩舎での馬との触れ合い、ディズニーランドへの家族旅行。今までこの映像は甘やかな郷愁を観客にもたらしてくれていた。だが南極の実情とカタールの現代史が繋げられたその時から、映像からは苦い後悔と罪悪感が現れ始める。それはおそらく監督が抱く思いそのものなのだろう。

それでも今作はその罪の提示で終ることはない。こういったある種原罪にも似た苦悩に苛まれるなかで、監督は母との記憶を頼りにして、希望を探し求める。気候変動と引き換えに恩恵を得てきた自分が今できることは一体何なのか?この問いを彼女は突き詰めんとしていく。今作はその過程、カタールの特権的な富裕層に生まれた1人の女性がこれを自覚し、その特権を持つ者としての責任を引き受けるまでを描いた作品なのだ。

Fidel Devkota&“The Red Suitcase”/ネパール、世界を彷徨う亡霊たち

さてさて、この鉄腸ブログでは何度も書いているが、最近にわかにネパール映画界がアツいことになっている。この国の新鋭たちの作品が2022年辺りからサンダンスやロッテルダムなどの有名映画祭に続々と選出されているのだ。そして2023年、その中でもより特権的なヴェネチアトロント長編映画がそれぞれ選出されたのを目撃した時、私のなかでネパール映画界の今後10年における躍進を確信したのである。ということで今回は中でもヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に選出された、Fidel Devkotaによる第2長編“The Red Suitcase”を紹介していこう。

今作の主人公は名もなきトラック運転手(Saugat Malla)だ。彼はトラックを駆り、日々ネパールの各地へと荷物を届けるという仕事をしている。この日も彼は中東はカタールからやってきたという大きな荷物を受け取った後、首都カトマンズにある空港から山奥にあるという目的地に向けて出発するのだった。

まずこの映画は、そんなトラック運転手の旅路を静かに見据えることになる。ラジオの音声を相棒としながら、彼は黙々とトラックを走らせていく。時折ガソリンスタンドなどに止まりはするが、基本的には脇目をふることもなく目的地を目指す。周囲の景色は都市のそれからあっという間に山岳地帯のそれとなっていくのだが、その美しい自然は長閑にも見えながらその実崇高で険しいものだ。だが完全に慣れているのだろう、運転手はひたすらにトラックを走らせるのみだ。

Sushan Prajapatiによる撮影は長回しを主体としながら、主人公やトラック、彼らを包みこむ大いなる自然の数々を静かに見据えている。目前に広がるありのままを映し取ろうという風な姿勢は世界を観察する科学者の視線を思わせるものだ。その感触は冷ややかなものであり、例えレンズに浮かぶ風景がいかに美しくとも、どこか不穏な印象を常に観客に与えることになる。

旅の途中、運転手を予期せぬ事態が襲う。突然トラックが故障してしまい、道で立ち往生することとなってしまったのだ。しかし通りすがりの男から、自分は茶屋を経営しているのだがそこで休んでいかないかとの申し出を受ける。最初は躊躇しながらも背に腹は代えられないということで、運転手は男の優しさに甘えることにする。最初は男の世話を有り難く思うのだが、彼の態度は少しずつ奇妙なものとなっていく。

謎の男の登場から今作はそのテーマ性を露わにしていく。彼に勧められるがままに酒を飲み酩酊していく運転手だったが、酔いの勢いのままに運転手は驚くべき打ち明け話をする。彼が学校に通っていた頃、恩師である教師が毛沢東主義者によって嬲り殺しにされたというのだ。恩師が受けたという凄惨な暴力について語った後、運転手は自然とネパールという故国への呪詛をブチ撒け始める。この国において弱者は見捨てられる。その光景を目にする若者たちは必然的に国を捨て、国外へと逃げるように去ってしまう。こんな状況でネパールという国が存在していると本当に言えるのだろうか?

だがだからといって国外の生活がより良いものかといえば、それは違う。国際化という現象は小国の人間を労働力として搾取することでこそ成り立っている。この華々しく、可能性に満ち溢れたように見える現象の裏側には現代の奴隷労働こそが存在している。ネパールにおいては国外、例えば中東の富裕国で出稼ぎ労働者として働く人々も、ネパールに残ることを選んだ人々も等しく国際化に絡め取られ、酷使の末にボロ雑巾さながらに打ち捨てられる。

国際化という現象で重要な要素は物流だろう。この100年、車や飛行機といった輸送機はもちろん、陸海空を股にかける輸送路の発展によって物流は急速に、世界的な展開を遂げ、その勢いは留まるところを知らない。何もかもがどこにでもすぐ届くという状況は、つまり世界の一元化であり、この状況では欲望は加速度的に広がっていく。今作において、その限りなく逼迫した状況を象徴するのがトラック運転手である主人公なのだろう。全てがあまりにも開かれすぎ、そして緊密に繋がりすぎているがゆえに、仕事が終ることがない。そしてその仕事というのは……

この主人公の疲労感に満ちた道行きとともに、もう1つ描かれる道行きがある。物語の合間にはスーツケースを持った作業着の男(Prabin Khatiwada)が登場する。彼は運転手以上に黙々と、何処かを目指して歩き続けるのだ。街中、山道、森の中。どんなに険しく見える場所でも気にもせずに彼は歩く。

彼の存在こそが、今作にホラー的な趣きという別の層をもたらしている。とはいえいわゆるジャンプカットなどの観客を怖がらせようとする、扇情的な演出が行われことは一切なく、むしろもっと霧のなかに亡霊が佇んでいるといった、幽幻な雰囲気こそを醸し出すような演出が多く取られているゆえだ。観ているうちにどこか落ち着かなくなる、観客をそんな状態に陥らせることを目的としている風だ。

こういった演出法は、例えば長回しを効果的に駆使しながら世界観を丁寧に構築してきたシャンタル・アケルマンタル・ベーラらの作品、もっと言えばスローシネマの系譜に属する映画を彷彿とさせるものである。しかし監督の采配で独特なのは、このスローシネマ的な演出法をホラー映画に適用している点である。数日前にPerivi John Katjaviviというナミビアの新人監督による長編“Under the Hanging Tree”(レビュー記事はこちら)を紹介したが、ここで私は、今はジャンル映画をスローシネマ、もしくは実験映画の方法論で再構築し、その物語を新たに語り直していく新鋭が多く現れ始めていると記した。Fidel Devkotaはネパールにおいてこの潮流に共鳴する存在なのかもしれない。

そしてネパール新世代の作品を何作も観て感じたのは、霊的な存在とそれにまつわる出来事を描きだす作品の多さである。例えばSunil Gurungによる短編“Windhorse”は妻/母の死をきっかけにネパールの寺院を行脚する親子を描いた作品であったし、このNiranjan Raj Bhetwal監督作“The Eternal Melody”は亡くなった夫が心置きなく向こうの世界へ行けるよう奔走する女性の姿を描いていた。どれもネパールにおける霊的存在への畏敬を感じさせるものだったが、今作もやはりこの畏敬の念に裏打ちされた作品であり、これが国際化によって踏み躙られることへの怒りもまた存在している。これらの要素を描くにおいてホラーというジャンルが選ばれたのには全く説得力がある。

故郷であるネパールという国を心から憎みながらも、小国を下僕の立ち位置に追いこむ国際化にも与することができない。“The Red Suitcase”はそんな複雑な思いを抱える人々の悲哀、そして怒りを格調高いホラーとして描く1作だ。それでいて本作はネパール映画界の新世代到来を告げる記念碑としても記憶されるべき作品なのだ。