鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

何物も心の外には存在しない~Interview with Noah Buschel

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Noah Buschel&"Bringing Rain"/米インディー映画界、孤高の禅僧
Noah Buschel&"Neal Cassady"/ビート・ジェネレーションの栄光と挫折
Noah Buschel&"The Missing Person"/彼らは9月11日の影に消え
Noah Buschel&"Sparrows Dance"/引きこもってるのは気がラクだけれど……
Noah Buschel&”Glass Chin”/持たざる者、なけなしの一発
Noah Buschel ノア・ブシェルのプロフィールと作品に関してはこちら参照。

済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思ったのでしょう? どうやってそれを成し遂げましたか?

ノア・ブシェル(NB):私は映画にこそ左右されるんです。映画は私に沢山のことを教えてくれたと同時に、私が持つ妄想の数々を強靭なものにもしてしまいました。盤石で永遠に続き、誰とも乖離した自己を持つことができるという妄想です。ある時点から、唯一性という観点に由来する映画を作りたいという興味が膨れあがっていったんです。もしくは唯一性という感覚が滲み渡っていたんです。登場人物は全員1つの身体と1つの精神を共有する訳です。言うは易し行うは難し、ですが。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時において最も思い出深い映画体験は何でしたか?

NB:小さいときにTVで「波止場」で観たのは頗る衝撃的な経験でしたね。映画において全ての登場人物が明白に1つの身体を持つということの素晴らしい例でしょう。その後、Ziegfeld Theaterに兄弟と一緒にシン・レッド・ラインを観たのも覚えています。この映画も相互関連性にまつわる作品でしょう。それからやはり兄弟と二番館で「こわれゆく女」を観ましたが、これも心を揺るがす経験でした。さらに19th street theaterに独りで宮崎駿千と千尋の神隠しを観に行った経験は正に人生を変えるものでした。しかし心を開いてくれた映画と同時に、心を閉ざすような作品も100はありましたね。

TS:映画監督であると同時に、あなたはPat Enkyo O'Hara パット・エンキョ・オハラの許で禅の修行を行っていましたね。この記事によると映画監督・脚本家として鍛錬を積むと同時に、禅とその文化からも様々なことを学んでいたと。そこで聞きたいのはこの禅が映画製作や映画体験に影響を与えたかということです。

NB:私は禅についてまだ殆ど知りません。ただ足を組んで、1日に最低数時間を座布団の上で過ごしているというだけなんです。これは日々のメンテナンスのようなものであり、私にとっては歯を磨くことと同じなんです。

TS:あなたの作品に関する質問に入っていきましょう。あなたが2003年に制作したデビュー長編"Bringing Rain"は胸を打つ荒涼とした青春映画、目覚ましい群像劇として展開していきます。今作を観た時深く驚いてしまったのは、この映画が私の若さに対する深淵のような感情を、そして未来への幻滅を映しだしているようだったからです。そして一切の陳腐な救済が存在しないことも印象的でした。この映画がとても好きなんです。今振り返って、あなた自身はこの映画をどう見ますか? 今でも心に残っている映画製作に関する個人的な思い出はありますか?

NB:チャールズ・ブコウスキーはこう書いています。"魂が掠れていくごとに、形式が現れる"と。"Bringing Rain"において私は映画製作の形式や技術をあまり知らず、そこには魂だけがありました。今作は寄宿舎学校を舞台としたメロドラマという体裁を借りた、インドラの網にまつわる映画なんです。私にとって最新作である"The Man in the Woods"は同じく寄宿舎学校が舞台ですが、多くの技術と設えられた形式が存在します。つまりこれが未来に繋がった訳です。"The Man in the Woods""Bringing Rain"は2つのブックエンドなんです。今、私は監督として燃え尽きている状況で、作品はその念に由来するものであり、万人受けからより遠ざかっています。配給会社の人々はこの作品群を間違って宣伝する方法すら分からなくなっています。ゆえに主流のTVや映画スターを使って映画を作る行為自体がもうすぐ終わると感じます。他の映画作家のために脚本を書くということはあるでしょうが、監督としてはいわゆる実験映画と人々が言う作品を作るようになるでしょう。

TS:第2長編"Neal Cassady"に関連して、あなたのアメリカ文学への考えをお聞きしたいです。あなたのアメリカ文学への志向は、ジャック・ケルアックデニス・ジョンソン――後述しますがあなたは彼の作品を映画化する計画を立てているそうですね――切実な騒々しさや無限の荒野の彷徨い人たちを向いているという印象を受けます。しかしあなたが実際に心惹かれるアメリカ文学というのは一体何でしょう? その理由もお聞きしたいです。

NB:自分がどんなアメリカ文学に惹かれるかというのは分かっていません。ですが読むのは殆どがアメリカ人作家の作品です。Maxine Hong Kingston マキシーン・ホン・キングストンRudy Wurlitzer ルディ・ワーリッツァーGloria Naylor グロリア・ネイラーDavid Goodis デイビッド・グーディスMichael Herr マイケル・ハー……おそらくこれは私が他の言語を知らないからで、翻訳小説を読むのも避けているからです。そして英国の小説家に関しても殆ど無知です。それでも宮沢賢治の作品は全て読んでいます。

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TS:それでも"Neal Cassady"は正確に言えばジャック・ケルアック「路上にて」を含め、どんなアメリカ文学も基にはなっていません。しかし今作は「路上にて」ディーン・モリアーティのモデルとなったNeal Cassady ニール・キャサディの人生を通じ、アメリカ文学の裏側にある複雑な現実を描きだしています。あなたは何故、もしくはどのようにNeal Cassadyの人生に惹かれたのでしょう? 彼の人生のなかにあなたは何を目撃したのでしょう。

NB:"Neal Cassady"ですか……あの映画は内容に見合う予算がなく、しかしそうであるべきだったとも思います。私は人間がいかにペルソナというものに囚われるかに興味がありました。私にとって今作はCassady自身についての物語ではないんです。つまり私は彼らを公平に扱うということがなかった。そしてIFCは酷な形で短くカットしたバージョンをリリースし、最近になって弁護士のおかげでやっとそれが撤廃されたところです。

TS:第3長編の"The Missing Person"に行きましょう。今作で最も印象的だったのは、いつだって壮大なマイケル・シャノンとの信じられない共同制作と、彼からいかに深遠な感情を引き出し得たかです。シャノンの煌びやかなフィルモグラフィにおいても、"The Missing Person"は甚だしいほどユニークで、深く感動的な存在感を放っています。マイケル・シャノンとの仕事はどうでしたか? 彼と再びタッグを組む予定はありますか? もしそうなら今度は彼にどういった役を演じて欲しいですか?

NB:私が思うに"The Missing Person"においてシャノンは殆どの部分でありのままでいたんです。思いやりを持ち、繊細な人物であり続けたんと。彼は美しいまでに控えめな人でした。映画を押し進めてくれたのは彼なんです。

素晴らしい俳優たちと関わりながら監督をする以上のことはありません。イーサン・ホークやリザ・ウェイル、ポール・ジアマッティやポール・スパークス、ジェーン・アレクサンダー……彼らに冷静かつ集中していられる環境を与えながら、もし安全圏に逃げ込もうとしたら少し小突いてやるといった風です。全ての俳優には安全圏というものがあり、もしそこから演技をするというなら、その演技はもう既に少し古びてしまっているんです。私はまたこの言葉に戻るべきでしょう。"魂が掠れるごとに、形式が現れる"と。

TS:そしてあなたの最も感動的な長編"Sparrows Dance"については、あの重要なシーンに関する質問をしたくて堪りません。あの引きこもりの主人公と彼女の想い人が部屋でダンスをするのをカメラが映し出す時、それがセットだったと明かされます。それはまるでヒッチコックのあの言葉、"たかが映画じゃないか"を彷彿とさせながら"確かにたかが映画だ、だが映画こそが人生を救う、映画が私たちに幸福を齎してくれるんじゃないか!"と言いたくなります。この興奮と感動をどう言葉で表現できるでしょう? 少なくとも私にはできません。しかしぜひともこの場面についてお聞きしたいです。この場面はどのように思いついたのでしょう? この信じられないような場面を俳優のMarin Ireland マリン・アイアランドPaul Sparks ポール・スパークスとともにいかに組み立てていったんでしょう?

NB:このショットでは特殊効果が使われる予定でした。主人公のアパートメントの背景に抽象的なVFXで都市の風景を使おうとしていました。しかしスタッフが設置した照明やバーバンクの倉庫が見えるこのショットを見た時、思ったんです――"ああ、これだ。何でそこに何か付け加えて風景を偽る必要がある? ありのままにしない理由があるのか?"と。

TS:あなたの作品における俳優たちに話を移しましょう。作品のレギュラー俳優でも特にマリン・アイアランドユル・バスケスが好きです。アイアランドが例えば"Sparrows Dance""Glass Chin"といった作品でまるでミューズさながら多様に光り輝く一方で、バスケスの存在は"Glass Chin""The Phenom"において作品を魅力的なまでに引き締め、力強いものにしてくれます。この2人の名優とどのように出会ったんでしょう? 彼らと頻繁に仕事をする最も大きな理由は一体なんでしょう?

NB:マリン・アイアランドユル・バスケスと頻繁に仕事をする理由は彼らを愛しているからです。そして映画監督という存在がその作品において同じ俳優と仕事を続けることにいつも素晴らしさを感じます。私たちが生きているのは、多くのインディーズ映画が実際はハリウッドの代理店によって制作されているとそんな時代です。ある種の決まったレパートリーを持つ一座を抱えるというのは、機械的な雰囲気を避ける効果があります。私は厳密なまでにプロフェッショナルな雰囲気を湛えた映画というものを作りたいと思ったことはありません。家族のような存在と映画を作ると、その作品にはホームムービー的な感触が宿ります。もし映画がただ滑らかでプロフェッショナルのものであるなら、私にとってそこに無邪気な何かが見えることはありません。そして付け加えるべきなのは、私は最も仕事がしやすい人物という訳ではなく、作品もそうではないことです。何度も仕事をしている俳優たちは出世階段をとんとんと登っていくような人物ではありません。多くの俳優たちが何か少しだけ異なることをしてから、隠れてその反応を見守るなんてことをしていて、あなたもそれを見たことがあるでしょう。ユルやマリンのような俳優はそれ以上の存在で、恐れなど持っていません。彼ら自身が芸術家なんです。これは彼らと一緒に一か月間電車に乗るだとかそういう次元の話ではなく、信念にまつわる話しなんです。

TS:あなたが今のアメリカを捉えようと試みる際、例えば"The Missing Person""Glass Chin"、"The Phenom"といった作品群は全くアメリカ的な心理模様への深遠なる旅路ともなります。時にあなたは歴史的イベントを物語に織りこみ("The Missing Person")、時にあなたはレナ・ダナム"Girls"ウータン・クランソニー・リストンといった固有名詞を多く投入する("Glass Chin")こととなります。こういった手捌きに触れる時に感じるのは"ああ今自分はアメリカ映画を観ている。今自分はアメリカを目撃している"ということです。そこで聞きたいのは作品においてアメリカの現実やアメリカそれ自体を描きだそうとする時、最も重要なことは何なのか?ということです。

NB:そうですね、アメリカにおいて私たちは転落や挫折をうまくすることができません。思うにアメリカと日本はここが共通していると思います。挫折は私たちの社会において悪しき何かとなってしまいました。挫折などするべきではないということです。このテーマは私の作品に多く見られるでしょう。挫折によって苦悩する人々、挫折は過程の一部として健康的であると感じていない人々。西側の人間として、私たちは成功を追い立てられながら成長していきます。成功と失敗の二項対立の中で生きている時、その人生はいつだって他人からの承認に頼る極度に敏感なものになってしまいます。それに加え、私たちが考える成功という概念が今より歪んだものになってきています。もっと存在するべき、もっと観られるべき、もっと所有するべき……これこそが私たちにとっての悲劇なんです。

スタイルとして、私はクラシックなアメリカに惹かれます。ダイナーや野球、ジャズや煙草、コカコーラにボクシング、バーに車……これはいわば図像学的な夢の風景であり、時に戯れることもあれば、時に覆すべき時もある。そして時には時代考証よりも人工的な細工によってこそ現実に近づける時もあります。私の映画には1970年代のアメリカ的スタイルというものは存在せず、代わりに50年代、もしくは60年代序盤のスタイルがあります。私にとってこの年代にはある種時代を超越したものが存在しているんです。時代ものを作るとしても、その時代よりもその超越性を探し出そうという興味の方が大きい。そしてその時に現代を表現するものに関して言及することはありますが、それはこの超越性をより高めるための演出なんです。

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TS:そしてあなたの映画がいかに万華鏡的にジャンルを越えていくかにも感銘を受けます。"Bringing Rain"は荒涼とした青春もの、"The Missing Person"はハメットやチャンドラーを彷彿とさせる探偵もの、"Sparrows Dance"は古典的ななロマンス、"Glass Chin"はやはりノワールですが「ボディ&ソウル」「罠」といったボクシング・ノワール、そして"The Phenom"はスポーツものの皮を被った心理スリラーといった風です。フィルモグラフィを通じて、あなたのテーマや演出の選択はカメレオンのように自由自在です。この作品群のなかに、何らかの嗜好や一貫した傾向があると自分で感じますか? ジャンルには意識的でしょうか? 映画製作のために物語を選ぶ際、最も不可欠な要素は何でしょう?

NB:ジャンルとは私たち皆が共有するしきたりです。私にとって、これらのしきたりは地盤となってくれる意味で有益なものなんです。そして映画が完全な非現実性へ傾かないようにしてくれる多様なお約束というものも存在しています。つまり私がどんなジャンルを作っていようとも、それは漫画として描かれる小さな詩のようになります。漫画として描かれる小さな詩、私自身作品をこう表現しています。辰巳ヨシヒロの劇画とある種似通ったものなんです。

TS:あなたの撮影スタイルにも興味があります。作品を通じて、ショットの長さは徐々に長く長くなってきていますね。いわゆる長回しというのはとても興味深いスタイルです。何故なら表面上それは現実を指向していますが、それが長くなるにつれ、むしろ非現実に近づいていくんです。言い換えれば、長回しは瞬きといった人間の生理現象を越えることで現実味やリアリズムを超越し、映画的な形で超現実性へと肉薄していくんです。この衝撃を伴った超現実性はあなたの作品でも観られます。例えば"Glass Chin"における主人公と敵対者の会話、シャワー内での主人公と恋人の会話という連なった2つの場面などです。作品を通じてどのようにこの撮影スタイルを築いた、もしくはそこに到達したのでしょう? 他の映画作家や映画作品からのレファレンスや影響はありますか?

NB:18日や21日で映画を作る場合、早く早く撮影する必要があります。そこで撮影日をもっと実践的なものにする(照明のセットにかける時間を短くするなどです)ためにショットが長くなるというのが部分的な理由です。そしてセーフティ・ネットとして代わりとなるショットは要らないなと感じた時にもやります。さらにカットや編集が多くなると俳優を見据えるのに邪魔になります。あなたが言及した場面において、私は舞台を観劇するようにビリー・クラダップを見据えたかったんです。ショットがしばらく持続すると、フレーム内にエネルギーが満ち始めます。こうして異なるやり方で時間と戯れることもできます。そしてもしそのショットが唯一撮影したものなら、本物の後押しとなってくれるんです。時の流れをありのままにし、そこで実践するしかないんです。

ここ西側諸国においては時間をありのまま流れるようにするというのが、時間を切り捨てることと混同されています。しかしこのあるがままの姿勢が、執着したり圧迫したりしないまま、何かと共にあることを私たちに許すんです。映画を作ることはあるがままであることの過程なんです。脚本やストーリーボードなど準備は全て揃っており、どう進むべきかは熟知している。それでもこれを手放し、理知的な思考やファンタジーを適用できない場所へ自分を突き動かさなくてならないんです。

映画作家に関しては頗る普通の感傷しか持っていませんが、小津安二郎はあるがままである勇気を私にくれる意味で確実に影響を受けています。

TS:これは最後になりますが、あなたの最新の計画についてお聞きしたいです。あなたはデニス・ジョンソンドッペルゲンガーポルターガイストクリストファー・アボット主演で映画化しようとしていると聞きました。ジョンソンの作品の中でも、このエルヴィス・プレスリー陰謀論にまつわるとてもアメリカ的な1作を選んだのは何故でしょう、もしくは作品の方があなたを選んだのでしょうか? (これは些細なことかもしれませんがこのニュースを聞いた時"Glass Chin"で素晴らしい演技を見せてくれたビリー・クラダップマイケル・シャノンジーザス・サン」の映画版に出ていたことを思い出しました。彼らにこの計画やジョンソンへの愛を語りましたか?)

NB:これについて話したのはユル・バスケスクリス・アボットだけです。デニス・ジョンソン……"Train Dreams"はオールタイムベストの1作です。彼の作品は私にとって大きなインスピレーションとなっていて、そういった人物は多いことでしょう。この短編に惹かれた理由は、あなたのジャンルに関する問いにも関わってくると思えます。これはいわゆる探偵ものです。ある詩人がエルヴィスにまつわる事件を解明しようとする。しかしジョンソンはこの探偵ものというジャンルを使い、ユング的な影、輪廻転生、永遠、自殺、9/11、精神疾患、80年代のニューヨーク、兄弟の絆、そして喪失など様々なことを描こうとしている。テーマが本当に広範で、だからこそ胸を引き裂くような作品となっているんです。そして今作は内面と外面が1つになった物語でもあるんです。何物もあなたの外には存在しない。世界全ては心以外の何物でもないんです。

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アゼルバイジャン、ある1人の女性~Interview with Tahmina Rafaella

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

今回インタビューしたのはTahmina Rafaella タフミナ・ラファエッラだ。彼女はまず俳優として活動した後、2020年に"Qadın"("ある女性")で監督デビューを果たす。現代のアゼルバイジャン・バクーを舞台として、1人の女性が妻・母・娘など様々な役割を果たしながら、自分を探し求める姿を描きだした1作である。アゼルバイジャン映画には珍しい女性監督による女性主人公の映画(しかも監督が主演も兼任している)という訳で、ぜひともインタビューしてみたかったが、これが実現したのである。今回はアゼルバイジャンにおける女性の権利の現状、その演出の数々、そしてもちろんアゼルバイジャン映画史に関する質問をぶつけてみた。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思いましたか? それをどのように成し遂げましたか?

タフミナ・ラファエッラ(TR):いつだって物語というものを語ってみたかったんです。最初は演技を通じて、しかし時が経つにつれ私自身の物語を創造したいと思えました。私たちの文化や社会が描かれていない、多くの人々がアゼルバイジャンを知らない、だからまだまだ多くの物語、特に女性たちの物語が語られる必要があると感じたんです。私はいつも人々の人生における経験、そして何がその人物を形成したのかに興味を抱いてきたんです。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういう映画を観ていましたか? 当時のアゼルバイジャンではどういった映画を観ることができましたか?

TR:映画に興味を持ち始めた頃は主に古典作品を観ていました。13歳の頃ですね。インターネットに時間を費やし読書をして、そして古典映画について学んでいた訳です。海賊版のDVDを売っていたお店にも行って、それを買っていました(当時はそういった海賊版しか売られていなかったんです)時々は監督に着目して、彼らの作品を全部観てから、また興味を持った監督の作品を観るなんてことをしていました。

TS:あなたの作品"Qadın"の始まりは一体何でしょう? 自身の経験、アゼルバイジャンにおけるニュース、もしくは他の何かでしょうか?

TR:思うに始まりはアゼルバイジャン映画における女性表象、そして女性たちをめぐる正確な描写の欠如ですね。男女の不平等に関するアゼルバイジャンの毎日のニュース、称えられることもなく相応な信頼も得られることのない女性たちとの私自身の個人的な経験が混ざりあっているんです。

TS:映画に関する詳細な質問に入る前に、アゼルバイジャンにおける女性と女性たちの権利の現状についてお聞きしたいです。世界ではこれに関して様々な状況が広がっています。例えばポーランドでは中絶が禁止されようとしており人々がこの決定を覆そうと活動しています。一方でアルゼンチンでは中絶が合法化され、性教育の拡充も約束されました。他の国々と比べて、アゼルバイジャンにおいて女性の権利はどういったものとなっているでしょう?

TR:はい、世界が多くの意味で未だに進歩していない様を目撃するのは悲しいことです。幸運なことにアゼルバイジャンで中絶は合法ですが、今日でも女性たちは多くの問題に直面しています。この国において家庭内暴力は多くの人々に見過ごされている大きな問題です。社会はこの問題を深く見据えようとしないんです。政府で働く人間の中には性差別的な宣言を垂れ流すようなプラットフォームを持つ人物もいて、それが閉鎖される気配もありません。もちろん男女平等のために戦う活動家もいますが、もっと政府が公式レベルで取り組む必要があるんです。殆どの人々がムスリム国家で初めて女性に参政権を与えたのはアゼルバイジャンだと誇らしげでいますが、家庭内暴力や社会的抑圧、強制的結婚などそういった女性が日常において直面する苦難については忘れてしまうんです。もし胎児が女の子だと分かると中絶を選ぶという、いわゆる性選択的中絶の問題もあります。殆どが農村地域で起こっているのですが深刻に対処されるべき主要な問題の1つであり、適切な教育が行われるべきなんです。

TS:作品の重要な要素の1つは複雑なリアリズムを湛えた撮影です。表面上はシンプルなものに見えますが、その静かな激しさは主人公であるレイリが持つ複雑微妙な感情をより際立たせ、印象的なとします。撮影監督Daniel Quliyev ダニエル・グリイェフとともに、どのようにこの極めて現実味のあるスタイルを構築していったのでしょう? これに関してあなたはダルデンヌ兄弟の作品が好きであるとお聞きしました。彼らの作品に影響を受けているなどはありますか? もしそうなら、どのようなものでしょう?

TR:私はこの作品を日常という現実を反映したものにしたいと思っていました。1人の女性、その人生のたった1日がその他大勢を代表するようなものにしたかったんです。Danielには最初から、長回しを盛りこみながらも映画的な完璧さは求めない、観客が演劇的すぎるとかリハーサルをしすぎと思わないようにしたいと話していました。ダルデンヌ兄弟の作品は確かに好きです。私にとって彼らは"芸術性"を求めない映画製作というものの素晴らしい美を体現しているんです。彼らは現実に根づいた問題と対峙するリアルな人々を描いていて、それを通じて私たちの心から人間性を引き上げてくれるんです。その作品はいわゆる社会的リアリズムというスタイルで作られていながら、人間の内面性にまつわる詩情や思索にも満たされています。それらに触発され、私も自分の周りにこそある物語を描くことに興味を持ったんです。遠くに興味深い物語を探す必要はありません、そういった物語は私たちの周りに、私たちが出会っていく人々のなかにこそあるんです。

TS:そして物語において主人公の役割が多様に変わっていく様に感銘を受けました。レイリは母、妻、娘としての人生を生き、時にはその全てでもあるんです。この役割から役割への頻繁な移動は映画の核でもあります。社会における女性の役割という現象を脚本として描くにあたって、最も重要なことは一体何でしたか?

TR:世紀を通じて女性たちは誰かをケアするということをしなければなりませんでした。伝統的に彼女たちは自分の子供を、自分の夫を、そして自分の家をケアし、両親が自身を世話できなくなった時には彼らをもケアしてきたんです。その上多くの女性たちは男性がそうするように仕事もこなしてきたんです。物事は変わり、伝統的な役割も変わってきましたが、一般的に女性たちはやはり多くのケアを担わねばならず、そうすることを未だ期待されるんです。"こんなに多くのことをしてくれて、もっと女性たちに感謝するべきだ"と思ってくれる人も少ないでしょう。

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TS:この映画において登場人物たちは共存する3つの言語を自由に使いますね。ロシア語とアゼルバイジャン語、そして英語です。この言語の共存は現代アゼルバイジャンにおける現実を反映しているようにも思われました。これについては個人的に話しましたが、日本の読者にもこの言語的共存に関して詳しく説明して頂けないでしょうか? アゼルバイジャンではこの3つの言語がどのように使われているのか、アゼルバイジャン人はこの言語をどう使っているのか?

TR:ソ連崩壊前、この国の人々、特に首都バクーに住んでいた人々はロシア語を喋っていました。私の両親も学校に行ったり、他人と喋ったりする時にはこの言語を使っていた訳です。今日に至るまでロシア語が使用される学校も存在していますが、今はこれに関して否定的な風潮があります。ソ連崩壊後、この国から植民地としての過去にまつわる遺物を消し去ろうという大きな動きがあり、ロシア語もその遺物に含まれていました。私たちの美しいアゼルバイジャン語に関して感傷や誇りを抱き、この言語を使って文化的財産を発展させていきたいという欲望も理解できます。しかしながら、ロシア語を私たちの日常から根本的に失くしてしまうという過激な選択はこの言語を喋りながら生きてきて、アゼルバイジャン語を流暢には喋れるようになるための機会を与えられなかった人々への共感に欠けています。ここで起こっているのはロシア語話者とアゼルバイジャン語話者の交わりです。殆どの人々はどちらも喋れますが、両親が家でどちらを話していたかによって、その人の中でどちらがより強い言語となるかは変わってきます。そして両方の話者のグループにおいて差別や偏見があり、これが人々を分断するんです。

TS:あなたは主演俳優としても監督としても素晴らしかったです。俳優として言葉にならない不満を抱えた女性の複雑な感情を見事に体現していましたし、監督としては自身を含む俳優たちから日常に根づいた深いフィーリングを引き出していました。俳優と監督どちらも務めるうえで最も難しいこと、そして最も興味深いことは一体なんでしたか?

TR:ありがとうございます! 最も難しかったことは両方を同時にコントロールすることでした。俳優としては自分を役に埋没させたいのに、一転して監督という役割も果たさなくていけない時にそれは難しいんです。2つの役割を行きかうのは、特にスタッフが多くない時には簡単ではありません。

TS:この映画においてKomança コマンチャという楽器が印象的に表れますね。レイリは家族にまつわる騒動の最中にこの楽器を演奏し、これが彼女を落ち着かせるようです。そしてその音はエンドクレジットにおいても現れ、まるで地から天へ逆さまに流れる神々しい雷のような響きは映画の余韻を高めてくれます。とても美しいものです。ここで聞きたいのは映画の中でこの楽器を使おうと思った理由、そしてKomançaとその音のどこが最も魅力的でしょうか?

TR:Kemançaはこの国が持つ美しい楽器です。あなたの言う通り音色はこの地において神々しく独特なものなんです。曲を演奏できるほど上手くなくとも音は詩的に響いてくれます。私としてはこの楽器を国を代表するものとして使うのと同時に、音を作品に取りいれたかった訳です。いつだってこの楽器を愛してますから。

TS:もしシネフィルがアゼルバイジャン映画史を知りたいと思った時、どういった作品を観るべきでしょう? その理由もお聞きしたいです。

もし1本だけお気に入りのアゼルバイジャン映画を選ぶなら、どれを選びますか? その理由もぜひ知りたいです。何か個人的な思い出がありますか?

TR:もし最初から始めたいというなら、映画史を下っていくべきでしょう。ソ連時代の映画を観るのは楽しいですし、独特の"味"もあります。もし現代の作品を観たいなら、私が観た作品の中からだとElçin Musaoğlu エルチン・ムサオグル"Nabat"をお勧めします。今年は何人かの映画作家の作品が映画祭でお披露目され、好評を受けていますが、私はまだ観れていませんね。

TS:アゼルバイジャン映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いもののように思えます。有名な映画祭に新しい才能が続々現れていますからね。例えばカンヌのTeymur Haciyev テイムル・ハジイェフロカルノElvin Adigozel エルヴィン・アディゴゼルRu Hasanov ルー・ハサノフ、そしてヴェネチアHilal Baydarv ヒラル・バイダロフです。しかし内側からだと現状はどう見えているでしょう?

TR:確実に良くなっています! 若く新鮮な声の数々がもう既に語られたものでなく、自分たちが作りたい映画を製作しているんです。私たちの多くは困難な形でインディペンデントな映画製作を行っており、それはこの国において芸術映画へのファンディングが広く行われていないからというのもあります。しかしこの国の映画作家が将来を何を成し遂げるかを考えるのは興奮します。今という時代に、映画作家たちは伝統を打ち壊し、自身の声や視点を世に問いているんです。

TS:新しい短編か長編を作る計画はありますか? もしそうなら、日本の読者に紹介をお願いします。

TR:今は長編映画に取り組んでいます。2度目のナゴルノ・カラバフ紛争が行われている最中、子供の養育権を得ようと苦闘する若い女性にまつわる物語です。興味のある要素の数々を組み合わせたもので、これを私たちの社会に問うのは重要だと感じています。

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HuyungとNawi Ismailの間に:モンタージュ~Written by Umi Lestari

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想像してみてほしい。あなたは探偵で、最小限の情報を頼りにある依頼の証拠を探している。そして突然、素朴だが重要な証拠を見つける。まあ……これが探偵ごっこというものだ。研究の際、私はいつもこういうことをしている。私たちが触れられるものから周囲のゴシップまで、データを総体的な形で探し求める。見つけた物象を恣意的に繋げ、衝動的に行動する時もある。例えば私がNawi Ismail ナウィ・イスマイルの作品に降伏した時、Dr. Huyung ドクトル・フユンの作品「天と地の間に」("Frieda", 1950)と再会することとなった。この邂逅から、Nawi Ismailに関する美学的旅路の図式は瞬間にダイレクトなものになった。その作品を探求し、研究を深めていきたいという熱狂を探しあてたかのような気分になったのだ。

「天と地の間に」アーカイブとフィルムの数々はKultursinemaによって、2017年のArkipel映画祭で披露された。偶然のせいでそこに参加することは叶わなかった。しかし今、幸運は私の側にいる! Dr. Huyungの作品群がジョグジャカルタにやってきたのだ。Kultursinemaによる展覧会は2017年の4月3日から7日にKedai Kebun Forumで行われる。この展覧会は拡大していく映画の可能性を探求するためのものであり、ここではDr. Huyungの作品が上映されるだけではなく、植民地時代の映像から1963年にインドネシアで開催された新興国競技大会(GANEFO)のドキュメンタリーまで様々なアーカイヴが上映される。そしてポスターや雑誌のレビュー、制作現場の写真から作品に関する論文が動くイメージの数々と一緒に展示されるのだ。この展示会という炎によって、観客として私たちは映画を観にいくという文化がインドネシアでいかに培われたかの見取り図について知ることになるだろう。

「天と地の間に」とDr. Huyungについて

「天と地の間に」の物語はオランダ人の祖先を持つ女性のロマンスとそのスパイ行為を軸に展開していく。フリーダとインドネシア人のアビディンは長い間離れ離れだった。インドネシアが独立を果たした後、そんな新しい国家で彼らは再会を果たす。そのメッセージは明白なものだ。ナショナリズムというものはインドネシアを自身のアイデンティティにしようとする個人個人の自発的な性質によって形を得ていくということだ。これがフリーダというスパイによって表現される。オランダの植民地主義が栄光を誇っていた時、フリーダは過去に囚われないことを選択する。最後には天と地の間に留まることなく、インドネシアに生きることを決めるのだ。

「天と地の間に」の物語は現在のジャワにおける芸術の地図を鑑みると、頗る今日的なものだ。舞台はジャカルタとバンドン、そしてジョグジャカルタだ。私たちはFTV(テレビ放送用に制作された映画)に当然親しんでいる訳だが、そこではバンドンやジョグジャカルタといった都市は、首都ジャカルタの喧騒から逃れて束の間の静寂を求める人々のための心地よい場所として仮定されていた。しかし「天と地の間」においてそういったレクリエーション的な側面は描かれない。登場人物たちがジョグジャカルタやバンドンへ出発する姿は、自身の内面世界における危機への答えでもある。アビディンの妻は最初夫の活動家としての行動に疑問を抱くが、ジョグジャカルタにおいて彼女は戦争における食糧配給をサポートするために女性たちの軍隊へと加入することになる。そしてフリーダはバンドンに行くことで、自分のこの2本の足で立つことがどういったものかを経験するのだ。他方で彼女はアビディンとロビジンという人物がそれぞれの方法で独立を維持しようとする様と、彼らの自発的な姿勢に感銘を受けることになる。町から旅立つことで登場人物たちのナショナリズムへの意識はどんどん強靭なものとなっていくのである。

映画を製作する前、Dr. Huyungもしくは日夏英太郎は日本のプロパガンダ組織である日本映画社からの任務を携えてインドネシアへやってきた。HuyungはJavanese Eiga Koshaに加わり1942年から45年までの間、インドネシアの現状を映したフッテージ映像を編集していた。独立後、HuyungはBerita Film Indonesia(BFI)に参加し政治家スカルノヒジュラに従ってジョグジャカルタへ移住した。そして写真という芸術分野において、インドネシアにはIPPHOSという組織があった。BFIとIPPHOSは愛を目的として活動した一種の共同体であり、彼らこそが革命の間に独立の理念を支えたのだと想像することもできる。この2つのグループは実際にインドネシアの革命が世界的に知られるようになった時、解散することになる。

ジョグジャカルタにおいて、Huyungは"Stiching Hiburan Mataram"という作品を作った。HuyungとBFIはジョグジャカルタの難民キャンプに腰を据えることとなったのだが、BFIの代表として彼は現地を記録するだけでなく、映画製作を学ぶためのグループも設立した。そこで教えたのは、ドラマや映画の製作は例え戦争の最中においても真剣なものでなくてはならないという原理についてだった。教師はDr. HuyungAndjar Asmara アンジャル・アスマラGayus Siagian ガユス・シアジヤンといった人物、そして生徒にはDjadoeg Djajakusuma ジャドゥク・ジャヤクスマSuryo Sumanto スリョ・スマントSoemardjono スマルジョノUsmar Ismail ウスマル・イスマイルといった人物がいました。もしインドネシア映画の歴史が人種的アイデンティティを抜きにして綴られるなら、Huyungはインドネシア映画界において間違いなく重要な人物だ。

HuyungとNawiの間に

HuyungとNawiを繋げるものは一体何か? モンタージュ! 1973年にNawi Ismailが記した短いプロフィールによると、彼は編集補や脚本補として日本映画社で働いていたという。そこで彼はHuyungと仕事をしていたのだ! もっと詳細なアーカイヴを探すとNawiがHuyungの相棒であったことも分かる。Usmal Ismailがインドネシア映画の父として"Stiching Hiburan Mataram"の制作に関する短期授業を行うずっと前に、Nwiはモンタージュの技術を彼から学んでいたのだ。

ではモンタージュとは一体何か? これは画の数々を1つのシークエンスへと仕立て上げる技術のことだ。これらのイメージが最後には観客へ何かを表現するのである。その最も初期の例がこれだ。最初の画はあなた自身、2つ目の画はあなたの友人、そして3つ目の画はまぜご飯だ。この3つの画が1つのシークエンスになった時、観客はあなたとその友人がまぜご飯を食べていると知覚するだろう。この"モンタージュ"という言葉はロシアの映画作家・理論家であるセルゲイ・エイゼンシュタインによって紹介された。今私たちはデジタル映画など人気のメディアにおいても様々なモンタージュを見つけることができるだろう。

私は常にNawiがインディペンデントな学び手だと主張してきた。独学で映画製作を学んだと。オランダの植民地支配下において、Java Industrial Film(The Teng Chun テ・テン・クヌが設立した映画製作会社)やStandard Filmといった場所でアシスタントやエキストラとして働きながら映画製作について学んだ訳である。そしてこの時代に彼は映画のエコシステムに関する知識を得たり、パフォーミング・アート出身の芸術家たちと出会ったのだ。しかしHuyungと仕事を共にするうち、彼はイメージを重ねていく自身の能力を開花させたのである。Nawiは極めて独特な映画監督だ。Usmar IsmailAsrul Sani アスルル・サニなど文学やパフォーミング・アートの分野から現れた映画監督とは違う。Nawiは映画学校の同窓生であるDr. Huyungから直接英が製作を学んだ、正に映画という分野から現れた映画監督なのである。

さよなら、アビディン……
さよなら、フリーダ……
なぜさよならと言うの、こんにちわと私は言うよ……

実際私は諦めてしまっていた。Nawi Ismailの作品への好奇心を抑えてしまったのだ。ここから前に進んで、研究の主題を他の何かに変えたかったのだ! しかし「天と地の間に」のクレジットにNawi Ismailの名前が載っているのを発見した時、思わず興奮していた。私とNawiはまるでフリーダとアビディンのようだった!

とにかく……前の記事で仄めかしたようにNawi Ismailの重要なものだ。彼はただの画だけでも私たちを笑わすことができる。NawiのコメディはNya Abbas Akup ニャ・アッバス・アクプといった、知的なユーモアを殊更強調する人物の作品とは違う。NawiのコメディはErnest Prakasa エルネスト・プラカサといった低い階級の人々を嘲笑うしかできない人物の作品とは違う。Nawiがシステムを描きだす重要なコメディを作れるのはDr. Huyungに学んだからだ。「天と地の間に」について、私たちは今作と当時の映画の数々が異なることが分かるだろう。だから……そう……モンタージュ理論を学び終えた人々を馬鹿にするのは止めよう。いつかモンタージュはコメディ文化と融合し、伝統的なパフォーミング・アートから離れるだろう。笑いがあなたの息の根を止める!

私が感じるのはNawiとHuyungはイメージの速度を編みこむ上での近似性だ。ジャンルは異なりながら、イメージの移ろいは等しく滑らかなものであり、カウントも正しい。今から説明する場面を通じて、NawiとDr. Huyungのモンタージュを比較することもできるだろう。1つ目は"Benyamin Biang Kerok"において登場人物のペンギがドアを開けるとバケツが落ちてくる場面、2つ目は"Benyamin Tukang Ngibul"において登場人物ベニが靴を投げた後に不幸に見舞われる場面だ。そして「天と地の間に」において、ある人物がロビジンを訪ねてドアを叩いたのを、自分を呼ぶものと勘違いするのである。

原文:Between Huyung and Nawi Ismail: Montage | Umi Lestari

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彼女の息子によるCristiana Nicolae~Written by Radu Nicolae

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いつものようにルーマニア映画について調べていた時、Cristiana Nicolae クリスティアナ・ニコラエを見つけた。彼女は共産主義時代のルーマニアで活躍した数少ない女性監督でありながら、例えばルーマニア映画界のアントニオーニと呼ばれたMalvina Urșianu マルヴィナ・ウルシアヌや長編1本のみを残して忽然と消え去りカルト的な人気を博すAda Pistiner アダ・ピスティネルらに比べると話題に上がることは殆どないし、故に映画作家として語られることも少ない。しかしそういった隠れた映画作家にこそ私は興味を持つのである。分からないことに関してはそれを知ってそうな人物に聞くのが早いと、Facebookルーマニアの人々に彼女について尋ね、ともすれば鉄腸マガジン用の記事を書いてもらおうと思ったのだが、まさかの人物が私に接触してきた。Radu Nicolae ラドゥ・ニコラエCristiana Nicolaeの息子である。という訳で彼にCristiana Nicolaeを日本に紹介する記事を書いてもらうことを依頼し、彼の執筆してくれたルーマニア語の記事をここに訳出する。日本の映画好きにもぜひCrisitana Nicolaeという作家を知っていただければ幸いである。

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春のある晴れた朝、1人の若いスチュワーデスCristiana Nicolaeが旅から帰ってきて、食事をするために帰宅した。その巨大な邸宅はブカレストの中心に位置していた。彼女の姉妹であるLuli ルリに迎えられ、彼女たちはテーブルを囲んで議論を始めようとしていた。そして議論を戦わせた後、Luliが言った。「知ってるでしょ、私の友達のMircea Veroiu ミルチャ・ヴェロイユが映画を監督してるって自慢してきて、その傲慢さに頭おかしくなりそう。だからあなたも映画監督になってみてよ、だってそしたら彼が自慢してきても『私の妹も監督やってるし』って言えるし、そしたら自慢も終わるだろうしね」と。

「映画監督って何?」と聞いたのはCristianaだ。「知らない」と静かにLuliが言う。「でも必要なのは一般的な文化の知識だけ、それならあなたも十分に持ってるでしょ」

Cristianaは姉をおちょくるため試験を受けた。しかし最後のテストの前、彼女は仕事に出かけてしまった。別にその大学に受かりたい気はなかったからだ。だけども旅から帰ってくると空港には映画監督のIulian Mihu ユリアン・ミフがいた。試験をちゃんと受けるよう説得するため大学からやってきたのだ。Cristianaはそれを拒んでしまう。こうしてあのMircea Veroiuがその年に監督科の生徒になった訳である。

1年後、パリへの飛行の最中、彼女はIulian Mihuの付き添いでやってきた映画監督Liviu Ciulei リヴィユ・チュレイと俳優のGina Patrichi ジーナ・パトリキと出会うことになる。Ginaと知り合った後、Cristianaは再びMihuと言葉を交わす。彼はこう尋ねてくる。「大学に戻る気はないか?」と。Cristianaはやはり断ってしまう。「まあいい、全てをいったん戻してみようじゃないか」

そんな会話の後、初めて大学に挑戦した時と同じ衝動を彼女は感じ、2度目の試験に挑戦してみる。今回は最終試練もキチンと行い、そこで彼女は映画監督という仕事に恋した訳である。

彼女にとって初めての長編映画"Întoarcerea lui Magellan"("マジェランの帰還")だった。第2次世界大戦下における愛を描きだす作品だ。自分をマジェランと呼ぶ若い女性が1人の若者に救いようもないほど深く恋に落ちてしまう。この最愛の人と近くにいるために、マジェランは男と行動を共にし、最後には殺されてしまう。続編として"Zidul"("壁")という作品があるが、Crisitina Nicolaeは監督でもなければ脚本を執筆してもいない。当時こういったことが良くあった訳である。

人間性を揺るがすような歴史的出来事に左右される恋人たちというテーマは、ギリシャ神話において英雄たちが自身の運命と対峙する様に共鳴し、例えば「ドクトル・ジバゴといった作品にも同じような趣向が見られる。そしてこのテーマは次回作で更に深まっていくのだ。

"Rîul care urcă muntele"("山を登る川")はやはり第2次世界大戦時を舞台とした、エモーションに満ちた作品であり、タトラ山脈を進撃するルーマニア軍が起こす波紋に揺れ動く2人の若者を描いている。この歴史的出来事が2人の心を近づけながら、最後には暴力的な形でその関係性を引き裂くのである。人間的な行動への柔らかな眼差しによって、今作は国のために戦おうとする青年の熱意、ある種の頑なさで恋人を探し求める女性の姿――これはルーマニア文化における女性のパーソナリティなのだ――を綴っていく。加えて今作は第2次世界大戦が市井の人々にとってどういう意味を持っていたのかに関する人間心理のフレスコをも作りだしているのである。そしてこの"Rîul care urcă muntele"は俳優Cartrinel Dumitrescu カトリネル・ドゥミトレスクのデビュー映画でもあった。

そして"Cumpăna"(分水嶺)である。今作はいわゆる刑事もので激しい吹雪で孤絶したコテージを舞台としている。共産時代のルーマニアでは頗る珍しい設定だが、実際に在り得る、現実味があるという意味では完璧なものだ。描かれるのは労働者の所有する金が強奪される様だ(当時労働者のための銀行振替など存在しない、あるのは現金だけだったのだ)

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次回作"Stele de iarna"("冬の星々")には多くの感情的な変化がある。というのも今作はルーマニアに実在したレーサー、エンジニアでありながら速さに情熱を持ち、ルーマニアのレースカーでは西欧に太刀打ちできないと悟った人物Horst Graef ホルスト・グラエフの人生を基にした作品なのである。こういった訳で彼は新たな車を見つけ出す、それがボブスレーだった。彼はレースカーの部品を大量に使って、自分で空気力学的に優れたボブスレーの雛形を発明してしまう訳だ。そして現代においてはこれが世界中に広まることとなる。しかし彼の両親はそれを知らない。設計図は全てビデオ映像を通じて、ルーマニアボブスレー連合に売り飛ばされてしまった、そんな都市伝説も存在する。

この映画の後、Cristiana Nicolaeは劇的な転回を果たして、子供たちのための映画を作り始める。"Racheta albă"("白いラケット")は1話55分で全9話のドラマシリーズであり、並行して"De dragul tău, Anca"("君のために、アンカ")という映画も制作した。今作は子供映画として見做されているが、実際には彼女が若い頃に深く慕っていた友人Anca Bursan アンカ・ブルサンに捧げられるオマージュでもあった。主人公は体制に反旗を翻すようなヒーローであるボーイッシュな少女アンカであり、ドレスよりもサッカーに惹かれ、喧嘩の際に少年たちに守られるということもない。今作は比喩としての、社会に押しつけられた規範に反した考え方を厭わない人間の孤高さなのである。

"De dragul tău, Anca"は世界の数々の映画祭で上映されることになった(シカゴやジッフォーニ・ヴァッレ・ピアーナなど)そして今作に続いて"Al patrulea gard lângă debarcader"("埠頭近くの4つ目の柵")を製作、高校を卒業しようとする4人の若者が砂浜で過ごす1日を描きだした美しい物語だ。映画は現代的な映画言語を持っており、今日的なものだ。2人の若者は話すことすらないまま、遠くから見つめあうだけで恋に落ちる瞬間というものを体感する。そして高校最後の日、彼らは砂浜でデートをするのだ。今作は2人の少年少女や彼の親友、そして彼女の甥といった登場人物たちへ優しさの溢れた視線を注いでおり、ルーマニアで興行的成功を収めた。

そしてすぐさま次回作である"Recital în gradina cu pitici"("小人たちの庭でリサイタル")を製作、再び子供たちを描きだす1作であり、しかし今回物語の中心となるのは若いバイオリニストの少女であり、彼女は芸術の名の許に様々な犠牲を強いられることになるのだ。

これらの映画を製作した後、Cristiana Nicolaeは膨大な予算と政治的な後ろ盾を獲得し"Hanul dintre dealuri"("丘の間の宿")を監督する。今作は歴史映画という体を持ちながらも、反共産主義的な力強いメッセージを持っていた。劇作家であるI.L. Caragiale ヨン・ルカ・カラジャーレの、しかしあまり知名度のなかった中編小説を原作とした本作はある若い貴族の従属的なスピーチから始まる。彼は1848年にルーマニアで起こった革命後すぐ、金のために結婚をしたという訳だ。脚本は学校卒業後から執筆していたもので、映画自体もCristiana Nicolaeという人物の魂を表現している。物語としては、この若い貴族が結婚のために義父の邸宅へと赴く姿がまず描かれる。道の途中、夜に休息を取るため彼は宿に泊まることにする。しかし彼は宿の主人に恋に落ちてしまい、もうどこへも行かないと決意してしまう。しかし将軍でもあった未来の義父は処刑された革命分子から奪った富で財を成した人物であり、彼の反抗を、そして彼の結婚が潰え貴族の地位を獲得できるチャンスが無くなろうとしていることを受け入れようとはしなかった。この光景は秘密警察セクリターテの行った行為にも共鳴するし、以前共産主義者たちが貴族たちを追放し土地を奪った行為とも重なる。若い貴族は魔術に操られるかのように行動していく。これはルーマニアに実際存在したプロパガンダにも通ずるもので、政治犯はその存在自体を隠匿されていた。

そしてこの宿主は革命分子の妻であったが、彼は主人公の義父に殺害されていたという事実が明かされる。故に義父はこの騒動を宿の主人を殺すことで終らせてたかったのだ。

こうして今作にもCristiana Nicolae作品の主要テーマが浮かびあがってくる。例えば"De dragul tău, Anca"にも表れるような抑圧的なシステムとの闘い、そして"Întoarcerea lui Magellan""Rîul care urcă muntele"にも表れた、大きな歴史的出来事に引き裂かれる愛、そして踏みにじられる市井の人々の人生。

今作のエンディングはハッピーエンドと言えるようなものではない。宿は収奪された後に将軍の兵士によって燃やされ、最後には消えてなくなってしまう。若い貴族だけが反抗し兵士たちのリーダーと戦うが、行動が遅すぎたし力も及ばなかった。それでも"Întoarcerea lui Magellan""Rîul care urcă muntele"がそうだったように、最後の場面は若い貴族と宿の主人が何とか再会し一緒に逃げていく風景が想像されるようなものとなっている(彼らが抱きあう姿が燃える宿に置かれた鏡に映るのだ。しかし最後にはその鏡も焼き尽くされ、あれが幻影だったのかそうではないのか定かでなくなる)これが観客に想像の余地を与え、2人の間の愛は救われたと信じさせるのである。

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Critics and Filmmakers Poll 2020 in Z-SQUAD!!!!!

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去年の今頃、焼酎を飲みながら何かのスロヴェニア映画を観ていた。確かこの国1の巨匠Boštjan Hladnik ボシュチャン・フラドニクの作品だったが、正確にどれだか思い出せない。でもこの時思ったのだ。スロヴェニア映画って全然知らないな、スロヴェニア映画史について知りたいなと。じゃあどうすればいい?と思えども普通すぐに名案が思いつく訳がないが、焼酎と酩酊のおかげでふとアイデアが降ってきたのである。じゃあスロヴェニア映画批評家に聞いてみればいいじゃないか! 私は友人だったブルガリア映画批評家Yoana Pavlova ヨアナ・パヴロヴァに連絡を取り、スロヴェニア映画批評家にコネない?と尋ねると、Petra Meterc ペトラ・メテルツという人物を紹介してくれた。そして彼女にインタビューをし、こうしてスロヴェニア映画史に関する記事ができあがった。ここから私は世界の映画史を知るため、その国の批評家にインタビューをしていきミャンマーブルガリアボスニア、コロンビアといった大文字の映画史には無視された国々の映画の歴史にまつわる、約30本のインタビュー記事ができあがった。この頃には、私はなかなか大きな世界の批評家たちとのコネを持つことになっていた。同時に新人映画作家にもインタビューしていたので、もはやちょっとしたコミュニティすらできていた。そこでこの繋がりを駆使して何かできないかと考えた。

年末年始、世界の映画雑誌では批評家や映画作家を集め、その年の映画ベストを集計する記事が掲載される。カイエ・デュ・シネマやSight & Soundといった老舗雑誌からLittle White LiesやDesist Filmといった歴史は長くないながらキレた映画誌までそれぞれに所縁のある人物を集め、興味深いリストの数々を掲載する。ここで知った作品を新年に観るというのも何度かあった。こういうのやってみてえなあ、そうは思いながら別にコネもないのでただ普通の記事を書くだけだった。が、時は来た訳である。私はこの実現のために知り合った人々にメッセージを送ると、特に有名である訳でもないこの鉄腸マガジンのためにリストやコメントを送ってくれた、何とも有難いことである。という訳で、ここでは世界の映画好きたちによる2020年映画ベストのリストをお送りする。人数は私含めて36名、まあ規模は小さいが初開催としては悪くないだろう。気に入ってるのはその偏りである。アメリカやイギリス、フランスの奴らばかりでは他の雑誌と何も変わらないので、この記事には1人もいない。代わりにアゼルバイジャンから4人、ミャンマーから3人、スロヴェニアから3人などなどめちゃ偏っている。だがそれこそがこの鉄腸マガジンの独自性という奴である。

今年はコロナ禍で新作が観れなかったという人物も多かったので、選出できる作品は新作から旧作、長編から短編、フィクションからドキュメンタリーまで何でもありにした。なのでまとまりなさはもはや混沌レベルである。集計とかも最初の時点でやる気がなかったのでやらなかった。という訳で純粋にそのリスト、映画の並びを楽しんでほしい。もちろん今後ともこの企画は続けていきたいが、目標はアルゼンチンの映画批評家Roger Kozaが主催するCon los ojos abiertosの総括記事だ。ここはラテンアメリカを中心に世界中の名だたる映画作家や批評家が集結しているゆえ、正に圧巻の風景が広がっている。今後続けていくにあたって、この鉄腸マガジンZ-SQUADをここまでの規模に押し上げたいとそう思っている。日本の映画雑誌のベストは日本人だけで構成されたダサい風景ばかりが広がっているので、これに対するカウンターにはなっていると思う。鉄腸マガジンはいつだって日本にある既存の映画雑誌への幻滅と怒りが原動力なのだ。という訳でぜひこの記事を楽しんでほしい。寄稿者の名前の隣には彼らへのインタビューや作品のレビュー記事を貼りつけたので、一緒に楽しんでくだされば幸いだ。それではどうぞ。

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Aung Phyoe アンピュー (ミャンマー、"Cobalt Blue"監督) (インタビュー記事)

1. "Anwar Ka Ajab Kissa" (Buddhadev Dasgupta, 2020)
2. "The Disciple" (Chaitanya Tamhane, 2020)
3. 「神水の中のナイフ」(ワン・シュエボー, 2016)
4. "CatDog" (Ashmita Guha Neogi, 2020)
5. "The Cockroach" (Sxar Kiss, 2020)
6. 「ファイアー・ウィル・カム」(オリヴァー・ラクセ, 2019)
7. 「旅のおわり世界のはじまり」 (黒沢清, 2019)
8. 「火の山のマリア」(ハイロ・ブスタマンテ, 2015)
9. "First Cow" (Kelly Reichardt, 2019)
10. 「カンウォンドの恋」(ホン・サンス, 1998)

2020年、お気に入りのミャンマー映画:"The Cockroach" (Sxar Kiss, 2020)

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Hamza Bangash ハムザ・バンガシュ (パキスタン、"1978"監督) (インタビュー記事)

1.「獣の棲む家」(レミ・ウィークス、2020)
難民映画とホラー映画が心臓を以て繋がる映画です。このジャンルにおいては最も偉大な解釈の1つであり、私たちは今、ホラーの黄金期に生きていると教えてくれます。

2. "Zindagi Tamasha / Circus of Life" (Sarmad Khoosat, 2020)
物語があまりに美しく誠実で、そして恐ろしいゆえにパキスタンで大規模な抗議運動が起こるほどでした。そして作り手たちの生活が危機的状況に追いやられたんです。今作は映画の力というものを思い出させてくれる作品で、いつにも増して今になぜ映画が必要かも教えてくれます。

3.「殺人捜査」(エリオ・ペトリ、1970)
ファシズムの不条理な恐怖が描かれた1作です。そして2020年にこれほど今日的な作品はないように思えます。

4.「40歳の解釈 ラダの場合」(ラダ・ブランク、2020)
とても可笑しいです。偉い白人たちが何が"金蔓"になるかの最終決定を行う芸術の世界で、黒人のクリエイターたちが活躍する映画をもっと観たいと思わせてくれます。深い観察に裏打ちされた、軽快で根性のある映画ですね。

5.「ヘレディタリー/継承」(アリ・アスター、2018)
ここ数年、観ながらこれほど恐怖を感じた映画はありません。規格外なまでに悍ましかった。しかし美しく独創的でもあります。「ローズマリーの赤ちゃん」に連なる――敢えて言わせてもらうと――オールタイムベストのホラー作品です。

6.「ビッグ・シティ」(サタジット・レイ、1963)
サタジット・レイ作品で最も好きな1作です。私にとっては、資本主義の辛辣な批評という意味で「パラサイト 半地下の家族」とパラレルになる作品です。最後の場面で、主人公の夫が"毎日食べるパンのために稼ぐことが、僕らを臆病にしてしまった"と言います。映画は時を越えるんです。

7. "The Wound" (John Trengove, 2017)
ほとんど完璧な脚本です。さらにアフリカの民族的な伝統を描く鮮烈なイメージがクィア的なスリラーと重なりあい、爆発的で驚くべき結論へと至ります。魔術にかかったような心地になりました。本当に痛烈でした。

8. "Never rarely sometimes always" (Eliza Hittman, 2020)
素晴らしい演技、そして打ちひしがれた若い女性が中絶をするまでの試練に見据える鋭い観察眼、今作は頗るクオリティの高い社会派映画なんです。

9.「映画に愛をこめて アメリカの夜」(フランソワ・トリュフォー、1973)
この映画を愛しています。観ている間笑いが止まりませんでした。今作が、私が映画の素晴らしい伝統のなかにいて、昔からこの世界がいかに変わっていないかを教えてくれるのが心地良いんです。カメラは進化しようと、人は根本的に同じなんです。これほど共感できる映画を観たことがないです。いつまでも何度でも観たい映画です。

10.「オーランドー」(サリー・ポッター、1992)
今年観たなかでも最も奇妙な作品の1本ですが、深く心に残っています。ティルダ・スウィントンの演技が時間とジェンダーの境界を曖昧にしていくんです。時代に先駆けた1作で、30年前の作品でありながら現代における性のクエスチョニングにも繋がっているように思えます。人間の魂は同じであり続けるんでしょう、肉体だけが変わっていくんです。

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Bátori Anna バートリ・アンナ (ハンガリー、映画研究者・"Space in Romanian and Hungarian Cinema"著者) (インタビュー記事)

今年の映画体験におけるトップ5やトップ10を選ぶと言うのは難しいことでしたね。例えば賞を獲得した類の映画は私の心に何も残りませんでした。しかし、これが私のトップ5です。

1."The Manslayer, the Virgin, the Shadow / Mehetapja/Süütu/Vari" (Sulev Keedus, 2017)
このエストニア映画に出会ったのは最近のことです。美しい撮影、素晴らしい物語の一貫性、そして最も大事なのは今作が私たちが語りや個人的な歴史にまつわる全てを要約していることです。さらに今作は3つの語りを通じて女性性というものを描いており、ジェンダーの構造を考えるにあたり、これほど重要な映画があるのかと思えるほどです。

2.「ピエロはお前を嘲笑う」(バラン・ボー・オダー、2015)
今年の2月に、偶然古いフォルダの中からこの映画を発見しました。その時から、大好きな映画の1本になっています。ポストモダンな語りによって、今作はハッカーたちの世界と彼らの持つ力への洞察を私たちに見せてくれます。美しい構成と終盤における大きなツイストによって「ピエロはお前を嘲笑う」は究極の映画体験となってくれるんです。

3.「フリーバッグ」(フィービー・ウォーラー=ブリッジ、2016-2019)
コメディと悲劇、そして21世紀の女性たちの存在感が混ざりあう知的なドラマシリーズですね。第4の壁を破りながら今作はテレビシリーズとして普通ではない語りを行い、個人的な物語(歴史)と私たちが直面する毎日の悲劇を面白可笑しく、しかし心が溶けるような様式で以て描きだします。必見です。

4.「タブラ・ラサ 隠された記憶」(フィーラ・バーテンス&マリン=サラ・ゴジン、2017)
思うに、映画研究者を、彼らの予想を覆すようなエンディングがある類のミステリアスな物語で驚かせるというのは難しいでしょう。ですがタブラ・ラサに私は驚かされました。その最後を全く予想できませんでしたし、認めなくてはならないことが1つあります。このホラースリラーは私にとって極めて刺激的な体験だったということです。

5.「ニック・ヤリス~21年間死刑囚だった男~」(デヴィッド・シントン、2015)
今作は今年観たドキュメンタリーのなかで一番気に入った作品です。語られるのはニック・ヤリスという犯していない罪によって20数年間も刑務所に入れられていた人物の物語です。興味深いのは彼が自身の人生を語る方法論、そして彼の苦闘の裏側にあるイメージの映像詩です。どうすれば死刑を宣告され22年も生きていくことができるでしょう? 何が異なる人間になるための力を与えてくれるのでしょう? そして刑務所の独房にはどんな人間の物語というものが存在するんでしょう? 映像詩としてシントンの作品は閉じ込められた人々の魂への扉を開いてくれるものでした。

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Hilal Baydarov ヒラル・バイダロフ (アゼルバイジャン、「死ぬ間際」監督) (作品のレビュー記事)

1. "The Beginning" (Dea Kulumbegashvili, 2020)
2.「日子」(ツァイ・ミンリャン、2020)
3. "Malmkrog" (Cristi Puiu, 2020)

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Ratchapoom Boonbunchachoke ラチャプーン・ブンバンチャーチョーク (タイ、"Aninsri daeng"監督) (インタビュー記事)

2020年はそう多くの新作が観られませんでした。おそらく皆にとってとても奇妙な年だったでしょう。今年の大部分において、私の映画への旅は古い作品を発見することに費やされました。

1.「シルヴェストレ」(ジョアン・セーザル・モンテイロ、1981)
「黄色い家の記憶」ジェラートの天国(神の喜劇)」などモンテイロも作品群、特に自身が出演する作品に最近慣れ親しんできましたが、この巨大な傑作を観る準備は全然できていませんでした。「シルヴェストレ」「細い道」はより複雑微妙で抑制された様式を持つ、あの奇妙なユーモアは影を潜めたモンテイロの初期作ですが、特に「シルヴェストレ」には文字通り息を呑んでしまいました! 素晴らしく崇高です!

2.「リベルテ」(アルベール・セラ、2019)
私にとっての夢の映画です。全編ほぼ他人に欲情する人間たちで構成されているんです。たいしたチャレンジであり、監督はド派手にこの映画を作ってみせた訳です。

3.「鏡」(アンドレイ・タルコフスキー、1975)
今作を観るのはとても遅くなってしまいましたね。彼の主要作品をほぼ観たうえで「鏡」は最も偉大なタルコフスキー作品だと思いました。彼の遺産は現代映画において未だに強靭で、明白な衝撃を与えています。

4.「宮本から君へ」(真利子哲也、2019)
頗る男性的なリベンジスリラーで否定し難いほど様々なレベルで問題があります。しかし今作が私にもたらす感情的ローラーコースターを楽しまなかったと認めないなんてできません。

5. "Oblivion Verses" (Alireza Khatami, 2017)
胸をうつような凪の詩情があります。未だ発展と宙の世界に住んでいる誰かである私は強く共鳴してしまうような作品でした。

6.「大理石の男」(アンジェイ・ワイダ、1977)
「鉄の男」と一緒に観たんですが、力強い女性主人公と、カルト的に信奉される人物像の、知的で容赦ない、プロト・ポストモダン的な脱構築という意味でこちらの方が好きですね。

7. "Profit Motive and the Whispering Wind" (2007, John Gianvito)
歴史映画にはいつだって惹かれます。しかしそれはコスチューム劇だとは必ずしもないです。Gianvitoの作品は頗る経済的で簡潔な形で、アメリカ史を解剖していくんです。

8.「子供はわかってあげない」(沖田修一、2020)
少しも希釈されていない喜び! 正に10代の魂があります。

9. "The White Meadows" (Mohammad Rasoulof, 2009)
胸引き裂かれるほど美しい物語です。

10. "Dead Man’s Voice" (1954, Bernett Lamont)
この長い間失われながら、最近発見されたこの"タイ"映画は、アメリカのプロパガンダ組織のサポートを受け作られた、厚顔無恥なほどに反共産主義的なノワール映画です。いわゆる探偵ものというジャンルはこんにちまでローカルな人気を獲得できませんでしたが、今作は稀な例外です。見た目や制作のクオリティは現代のローカルな作品群と比べて、より優れたスタンダードを誇っています。西側的な様式とタイの物語がぎこちなく組み合わさることで、魅力的なまでに奇妙な味が生まれているんです。

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Juan Mónaco Cagni フアン・モナコ・カーニ (アルゼンチン、"Ofrenda"監督) (作品のレビュー記事)

1.「フュー・オブ・アス」(シャルナス・バルタス、1996)
2.「三日間」(シャルナス・バルタス、1991)
3.「内なる傷痕」(フィリップ・ガレル、1972)
4.「ヴィタリナ」(ペドロ・コスタ、2019)
5.「イサドラの子供たち」(ダミアン・マニヴェル、2019)

映画自体が声を持っています。故に私が何かコメントを付け加える必要はありません。それから今年は1本もアルゼンチン映画を観ませんでした。

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Csiger Ádám チゲル・アーダーム (ハンガリー映画批評家) (インタビュー記事)

「続・ボラット 栄光ナル国家だったカザフスタンのためのアメリカ貢ぎ物計画」(ジェイソン・ウォリナー、2020)
この映画を観る時が待ちきれませんでした。サーシャ・バロン・コーエンのいたずらを知った後には普通のコメディ映画には戻れません。彼はモキュメンタリーの王であり、彼の離れ業は2度はできないものでありながら何度だって楽しませてくれます。彼のボラット「ブルーノ」を観た当時は彼の作風に関して殆ど知りませんでしたが「アリ・G」とテレビシリーズ"Who Is America"を観た後には、彼は最も素晴らしくも過小評価されているコメディアンだと分かりました。今年はパンデミックのせいで本当に酷い年――映画にとってもそうです――になりましたが、私にとって今作こそがそんな2020年のベスト映画でした。

「テネット TENET」(クリストファー・ノーラン、2020)
クリストファー・ノーランは好きな映画監督という訳ではないです。確かにメメントは好きですがプレステージは明確に嫌いで、バットマンシリーズは過大評価されていると感じるしインセプションの時点で彼のマインドファック的演出、ツイストに秘密の暴露はクリシェとなってしまいサウスパークにパロディを作られるほどです。「テネット TENET」はとても複雑な物語ですが、極秘のアナログ的効果による、大きなスクリーンには完璧なスペクタクルでした。今作はコロナウイルスの第1波の後に映画館へ観客を戻すためにも完璧な映画でもあったでしょう。

シチリアーノ 裏切りの美学」(マルコ・ベロッキオ、2019)
シチリアーノ 裏切りの美学」ハンガリーで公開されたのは今年でした。今作はシシリアン・マフィアに関する野心的で叙事詩的な映画であり、例えばマーティン・スコセッシブライアン・デ・パルマらの作品、そしてフランシス・フォード・コッポラによる素晴らしいゴッドファーザーシリーズなど、忘れがたいハリウッドのギャング映画に対するイタリアからよき回答だと思いました。"マフィア大裁判"と呼ばれる最大の反マフィア裁判に関する緊張の裁判劇であり、コーザノストラの罪状を証言したボスであるトンマーゾ・ブシェッタ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノが演じています)の人生を描いた作品でもあります。

「天国にちがいない」(エリア・スレイマン、2019)
パレスチナ映画作家によるメタ映画もハンガリーでは今年上映であり、コメディが達成しうる映画的・ヴィジュアル的境地に達していました。スレイマン――彼自身、もしくは気のいいパレスチナ人映画監督を演じています――はほとんど喋りませんが、代わりにチャーリー・チャップリンバスター・キートンジャック・タチへの道を行きながら、ユーモアが動きや詩的イメージからこそ現れる、現代のサイレント映画を作りあげています。今作のタイトルは主人公が自身の映画の企画を売りこむため、ナザレからパリ、そしてニューヨークへ赴きながら、どの都市も"地球上の天国"とは思えない、そんな状況に由来しています。

「アンカット・ダイヤモンド」(サフディ兄弟、2019)&「悪魔はいつもそこに」(アントニオ・カンポス、2020)
「アンカット・ダイヤモンド」は2019年の12月終盤にプレミア公開されましたが、私は今年観ました。2017年制作のロバート・パティンソン主演グッド・タイムを越えて、今作は再び大胆で生々しく、迫真性のあるサフディ兄弟によるクライム・スリラーとして面白い。アダム・サンドラーの演技も素晴らしかったですね(引退したNBAスターであるケヴィン・ガーネットもそこまで悪くなかったです)そしてもし2020年にハンガリーでプレミア上映された作品を選ぶなら、もう1本のネットフリックス作品「悪魔はいつもそこに」を選びますね。ナレーションが多すぎる(そこから今作の原作が小説というのが分かるでしょう)とは思いますが、タランティーノが作らなかったタランティーノ映画として出色です。

2020年一番気に入ったハンガリー映画"Final Report" (István Szabó, 2020)
幸運なことに"Preparations to Be Together for an Unknown Period of Time"が正当な評価を受けているので、少し過小評価されている(私の意見ではハンガリーの批評家は特にです)作品について語りましょう。今作はハンガリーで最も有名な映画作家の1人であり、1981年制作の"Mephisto"がオスカーを獲得したIstván Szabóの最新作です。彼は今作でお気に入りの俳優で"Mephisto""Colonel Redl"、そして"Hanussen"に出演したクラウス・マリア・ブランダウアーと再びタッグを組んでいます。8年のブランクの後に作られた今作はおそらく彼にとって最後の作品になる(タイトルもそれを示唆しています)かもしれませんが、82歳のこの映画作家が永久に引退することがないように願っています。ブダペストに住む医師が引退後、余生を過ごすために故郷へと戻ってくるという物語ですが、自伝的なサブテクストとして東側ブロックで数十年の輝かしいキャリアを築いてきたこと、そして政府の秘密警察に与する密告者として活動してきたことが描かれています。

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Arman Fatić アルマン・ファティチ (ボスニア・ヘルツェゴビナ映画批評家) (インタビュー記事)

10."Minotaur" (Zulfikar Filnadra, 2020)
9. "Birthday After the Apocalypse" (Farah Hasanbegović, 2020)
8."Berlin Alexanderplatz" (Burhan Qurbani, 2020)
7. "The Metamorphosis of Birds" (Catarina Vasconcelos, 2020)
6.「照射されたものたち」(リティ・パン 2020)
5. "Uppercase Print" (Radu Jude, 2020)
4. "Radiograph of a Family" (Firouzeh Khosrovani, 2020)
3.「もう終わりにしよう」(チャーリー・カウフマン、 2020)
2. Quo Vadis Aida (Jasmila Žbanić, 2020)
1.「悪は存在せず」(モハマド・ラスロフ、2020)

2020年のボスニア映画:"Quo Vadis Aida" (Jasmila Žbanić)
ヤスミラ・ジュバニッチはこの最新長編"Quo Vadis Aida"によってスレブレニツァの虐殺の歴史的重要性を捉えようとする。ゆえに今作を観るのは精神的に困難なものでありながら同時に観られる必要があるのだ。UNFのため働く女性主人公の視点から物語を語るということは、彼女の同胞にとっては特権的立場にいながら、ヨーロッパの当局者たちには抑圧されるという立場の人間を描いており、それが観客を物語に深く関与させる。おそらく最も重要で、注目すべき映画というのは数十年という距離を越えて人々を並び立たせる作品だ。異なる背景を持つある1つの場所を見ることが、不安と痛みの感覚を胸に呼び覚ますのであり、これに対して無感覚でいるのは難しい。

1つ1つの場面や台詞、文学的背景(Hasan Nuhanović"Under the UN Flag")などの着想源となったアーカイブ映像に対して可能な限り客観的であろうとしながら、ジュバニッチはヨーロッパ映画におけるルールや期待へ同時にフィットする映画言語によって、尊敬を以て物語を描きだす自由さを持ちながら、その哀しみなかりに腰を据えることはなく、90年代のボスニアにおける戦争やそこから生まれた社会に関する問いについて考え、自身にそれを投げかけるよう観客を促すんです。

結論として今作はジュバニッチにとってのベストであり、旧ユーゴ圏において今作が観られることは頗る重要なことだ。しかし願わくば世界レベルで知られ、観られ、理解される機会があって欲しい。20世紀後半にヨーロッパの大地で起こった最も大きな罪の1つにまつわる過酷で重苦しい物語、その豊穣さと現実に寄り添った本質に触れる機会があって欲しいと。

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Teymur Hajiyev テイムル・ハジエフ (アゼルバイジャン、"Towards Evening"監督)

2020年短編ベスト5

"Rubber Coated Steel" (Lawrence Abu Hamdan, 2016)
"La Cartographe" (Nathan Douglas, 2018)
"The Chicken" (Neo Sora, 2020)
"I Am Afraid to Forget Your Face" (Sameh Alaa, 2020)
"Forastera" (Lucía Aleñar Iglesias, 2020)

2020年長編ベスト10

「真昼の不思議な物体」(アピチャッポン・ウィーラセータクン、2000)
メコン・ホテル」(アピチャッポン・ウィーラセータクン、2012)
風の向こうへ」(オーソン・ウェルズ、2018)
"Suburban Birds" (Qiu Sheng, 2018)
「象は静かに座っている」 (フー・ボー、2018)
「ヴィタリナ」(ペドロ・コスタ、2020)
アンナと過ごした4日間」(イェジー・スコリモフスキ、2008)
「早春」(イェジー・スコリモフスキ、1970)
"White Noise" (Antoine d'Agata, 2019)
"Gobelin" (Rinat Bek、プレミア上映前)

2020年のアゼルバイジャン映画:「死ぬ間際」(ヒラル・バイダロフ、2020)

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Mariana‌ ‌Hristova マリアナ・フリストヴァ‌ ‌(ブルガリア/スペイン、映画批評家) (インタビュー記事)

このリストは狭くバランスの悪い(トップ10でもトップ5でもあります)パーソナルなリストであり、この難しい1年を通じて私を感動させ、映画的な記憶の中に跡を残してくれた作品が入っています。今年は、プロとして映画を追うこととなってから、おそらく作品を観た数が最も少ない年でした。リストに掲載された作品のうち3本は映画館で鑑賞できたものです。goEast Symposium(7月後半にフランクフルト・アム・マインで開催)やCCCBの‌Xcèntric‌ ‌experimental‌ ‌film‌ ‌archive(バルセロナ)、そしてスペインの配給ネットワークなど、勇気ある人々が映画館上映を行ってくれたおかげです。残りはオンラインで行われた映画祭を追い、成功したとは言えないながらも何とか観ることのできた作品で、殆どが東欧映画です。

トップ6

1. "My Morning Laughter" (セルビア、2020、‌Marko‌ ‌Djordjevic)
胸を打つほど誠実なデビュー長編であり、紛争後のセルビアでその傷ゆえに過保護な両親に成長を邪魔される繊細なアダルト・チルドレンを描いています。2018年に亡くなってしまった愛すべきセルビア人俳優‌Nebojsa‌ ‌Glogovacによる印象深い演技、そして現代のバルカン半島映画においておそらく最も信頼に足る、感動的な官能の場面によって、今作は際立ったものとなっています(goEastオンライン版で鑑賞)

2. "Preparations‌ ‌to‌ ‌Be‌ ‌Together‌ ‌for‌ ‌an‌ ‌Unknown‌ ‌Period‌ ‌of‌ ‌Time"‌ ‌‌(ハンガリー、 2020、‌‌Horvát Lili‌)
一目惚れという妄執の物語を描き出す妄執の1作です。とても主観的なスタイルで主人公の感情的動揺や親密さへの渇望を描くことによって、今作は彼女の内的世界を綴っていきます。共にあるという安らぎを得るための代償に高さの限界はない、それがメッセージであり、魂の伴侶と繋がりあうことが生と死という問題に繋がってしまう"新しい普通さ"においてはより迫真性のあるものと感じられます(テッサロニキ国際映画祭オンライン版で鑑賞)

‌3. "Decay" (アメリカ/ソ連、1990、Mikhail Belikov)
自然発生的で感情的、ヒリヒリするような怒りを湛えたチェルノブイリという悲劇への、そしてソ連による計画の破綻への内省といった1作です。激烈な政治的批判がドキュメンタリー的な信頼性と比喩的な含みを背景として炸裂しているんです。HBOの「チェルノブイリ」の熱狂的なファンたちは今作を観るべきで、様々なことを考えさせられる筈です(goEast Symposiumでレストア版を鑑賞)

4. "I‌ ‌diari‌ ‌di‌ ‌Angela‌ ‌–‌ ‌Noi‌ ‌due‌ ‌cineaste"‌‌ (Yervant‌ ‌Gianikian‌ ‌&‌ ‌Angela‌ ‌Ricci‌ ‌Lucchi,‌ ‌2018)
実験映画の作り手であるカップYervant‌ ‌Gianikian‌ ‌Angela‌ ‌Ricci‌ ‌Lucchiにまつわる、感銘をもたらすような美しい肖像画であり、Angelaが2018年に亡くなった後に彼女の日記を基としてYervantによって製作されました。特に印象的なのは最初のパートです。レアなアーカイブ映像が彼らの日常に根づいた啓蒙的な交流と混ぜ合わされた後、彼らが世界を旅するビデオ映像の記録が現れるんです。作り手の1人は身体的な死を遂げながらも映画によって乗り越えられ、その仕事や芸術、そして人生が終りなき円環として表現されていくんです(バルセロナのXcèntric‌ ‌experimental‌ ‌film‌ ‌archiveで鑑賞)

5. "Zana" (コソボ/アルバニア、2019、Antoneta Kastrati)
世界における戦争の傷はスクリーンにおいて何度も何度も解釈され続けており、バルカン半島映画においては特にこの傾向が見られながら、Antoneta Kastratiはこの難しいトピックを描くオリジナルな方法を見つけ出しています。戦争のトラウマは反復される超現実的な悪夢によって描かれ、場面場面でサスペンスが増幅していく一方、不気味な雰囲気が信頼に足る民話的なモチーフによって醸造されていくんです。数えきれない喪失が生み出す、悲しみへの無意識的な衝動を描き出した驚異的な1作です(サラエボ映画祭オンライン版で鑑賞)

6. "The Brilliant Biograph: Earliest Moving Images of Europe" (1897-1902; Frank RoumenとEYE Film Instituteによるレストア作品のコンピレーションで2020年にプレミア上映)
6番目の作品は正確に言うと映画ではなく、芸術としてよりアーカイヴとしての価値があるサイレント映像です。映画の黎明期に作られた作品群の素晴らしいコンピレーションであり、映画の核的な機能、つまり時間を捉えるという機能を私たちに思い出させてくれます。これらは現存していた68mmのミュートスコープやバイオグラフ社の最も大規模なコレクションから復元されたもので、急速に変わりゆく近代化の時代にある西欧への旅が繰り広げられます。東欧や中欧のイメージは基本的に失われており、"ヨーロッパ最古の映像"という題名は少し誤りではないかと思わされます。スクリーン上で私たちが観るのは西欧を代表する映像だけなんですから。それでも120年前に躍動していた生を観察することの可能性は衝撃的なものでした(ポルデノーネ・サイレント映画祭オンライン版で鑑賞)

2020年のブルガリア映画"German Lessons/ Уроци по немски" (ブルガリア/ドイツ、2020、Pavel Vesnakov)
ブルガリアで最も才能ある短編映画作家による待望の初長編は、ポスト社会主義における失われた世代に属する存在にまつわる複層的な肖像画です。刑務所から出所したばかりの50歳の男性が、逃したチャンスを取り戻すため、第2の人生への曖昧な幻想を抱きながらドイツへ移住する姿を描いています。主演であるJulian Vergovによる規格外の演技はカイロ国際映画祭で称賛を受けましたが、"German Lessons"自体への称賛はまだまだと私は思っています(オンラインで鑑賞)

2020年のスペイン映画:"The Human Voice" (スペイン、2020、ペドロ・アルモドバル)
アルモドバルは20年以上愛してきたジャン・コクトーの1作がとうとう、映像的にも言語的にも爆裂的な、愛の喪失にまつわる1人の女の独演劇として結実しました。死の恐怖すらも霞んでしまうほどの作品です。パンデミック禍のなかで創造された、この著名なテキストを自由に解釈したこの1作は、何にも代え難く必要なものとしての人間的繋がりへの賛歌なんです(バルセロナの映画館で鑑賞)

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Weronika Jurkiewicz (ポーランド/アメリカ、"The Vibrant Village"監督) (インタビュー記事)

パンデミックが私の映画鑑賞の習慣へ確実に影響を及ぼしたと告白せざるを得ません。いつもより心地よさを求めてしまっていて、なので2020年の選出作はその反映となっていますね。

アバター 伝説の少年アン」(マイケル・ダンテ・ディマーティノ&ブライアン・コニーツコ、2005)
やっと観ることのできた古典です。普通こういった気分が良くなる語りは合わないんですが、特に現状を鑑みるに"善"がいつだって勝つと知ることに慰めを感じたのもまた事実です。そして今作の脚本がいかに感情的な意味で洗練されているかには驚くほど感銘を受けました。

となりのトトロ」(宮崎駿、1988)
もはや説明の要らないもう1作の古典、そして暖かながら複雑な感情を持ちあわせた作品です。パンデミックの間、スタジオ・ジブリの作品を全部観てしまいましたね。この悍ましい時代に対処する力をくれたんです。

"Merry Christmas, Yiwu" (Mladen Kovačević, 2020)
サラエボ映画祭で上映されたこの作品は世界的な消費主義に対する美しく複雑微妙なコメンタリーであり、現代中国の複雑な肖像画なんです。モザイクのような構成、観察的なスタイル、そして素晴らしい撮影が観客をこの入り組んだ世界へと誘ってくれるんです。

"Again Once Again" (Romina Paula, 2019)
MUBIで見つけたこの作品はアルゼンチン人の劇作家Romina Paulaによる美しく複雑で、深くパーソナルな映画なんです。出産後に自身のアイデンティティを再構築するという難局を描きだすという意味で、今作は女性性、セクシュアリティ、家族の絆に関する複層的な思索でもあるんです。

"Egg" (Martina Scarpelli, 2019)
短編アニメーション/ドキュメンタリーである本作は拒食症を映像的に最も印象的で感動的な形で描きだしています。ぜひ観てください!

My Crush was a Superstar (Chloé Galibert-Laîné, Kevin B. Lee, 2017)
この作品を観たのはロンドンのオープンシティ・ドキュメンタリー映画祭におけるマスタークラスででした。イベントがオンライン開催となったので参加できたという訳です。パンデミックにおいてパソコンの液晶画面が今までになく拡大的な形で外の世界へのポータルとなった今、デスクトップが舞台のドキュメンタリー形式は現状に対する興味深いコメンタリーとなっています。

2020年お気に入りのポーランド映画ですが、今年は本当に沢山の素晴らしいポーランド産ドキュメンタリーを観ましたね。中でも私の心を奪った作品はMichał Hytroś監督作"Sisters"ですね。クラクフ近くにある、外界から隔絶された修道院における生に関する感動的で、信じられないくらい面白い肖像なんです。

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Sona Karapoghosyan ソナ・カラポギョシャン (アルメニア映画批評家エレバン国際映画祭プログラマー) (インタビュー記事)

1. "Nasir" (Arun Karthick, 2020)
2. "For the time being" (Salka Tiziana, 2020)
3.「ハッピー・オールド・イヤー」(ナワポン・タムロンラタナリット、2019)
4.「気球」(ペマツェテン、2019)
5. "It's not a burial, it's a resurrection" (Lemohang Jeremiah Mosese, 2019)
6. "My Mexican Bretzel" (Nuria Giménez, 2019)
7. "Prayer for a lost mitten" (Jean-François Lesage, 2020)
8. "None of your business" (Kamran Heidari, 2019)
9.「逃げ去る女」(ホン・サンス、2020)
10."The metamorphoses of birds" (Catarina Vasconcelos, 2020)

2020年、お気に入りのアルメニア映画:"Twist"(Ovsanna Shekoyan, 2020)

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Knights of Odessa (日本、東欧映画愛好家)

1. Veslemøy's Song (2018, Sofia Bohdanowicz) / Point and Line to Plane (2020, Sofia Bohdanowicz)

今年最大の収穫はソフィア・ボーダノヴィッチという監督に出会えたことだと断言できる。カナダ新世代の旗手として世界の映画祭を股にかける彼女は、オードリー・ベナックという架空の人物を使い、監督自らの家族の歴史を振り返ることで現実に血肉を与えていく手法を好んで使っている。多くの場合、手紙やレコード、コンサートホールなど実際の物質を起点に薄れた記憶や失われた歴史や埋もれていた感情を紐解いてきた。

前者は祖父の師匠で20世紀初頭のカナダで活躍した"失われたヴァイオリニスト"であるキャスリン・パーローの肖像を追う短編である。壊れかけのレコードによって現実でも虚構でも到達できない不可侵の神秘を垣間見るような、存在が奇跡のような作品である。

後者は同じくオードリー・ユニバースの一作だが、少し毛色が違う。親しい友人を二人続けて亡くし、行き場を失った途方も無い悲しみを起点に、彼らの記憶をカンディンスキーやクリントの絵画に紐づけていくことで、映画にそれらを焼き付け、彼らを生かし続けているのだ。他の作品に比べて非常に感情的で、かつ記憶をオードリーの身体に宿しているために軽やかさも目立つ。この作品を観た時、同じ時代を生きていることに感謝した。

2. Queen of Diamonds (1991, ニナ・メンケス)

アルベロス社によってリマスターされた、90年代アメリカ映画の金字塔。70年代にシャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』で成し得なかったことを、90年代にニナ・メンケスが今作によって成し遂げたと言われる、あるカジノディーラーの日常風景。昼間は仕事まで寝たり、湖に遊びに行ったりしながら、夜はディーラー席に座りながら、無意味な時間を空費し続ける。ヤシの木が燃え尽きる伝説的な長回しを含め、今作の各シーンには始まりも終わりもない永遠の"過程"が存在し続けるだけなのだ。フィルダウス=楽園という名を持った主人公による、あまりにも華麗であっけない退場こそ、今作の永遠を唯一終わらせる方法に違いない。

2. Quiet Happiness (1986, ドゥシャン・ハナック)

看護師として働きながら、妻としての行動も求められる主人公ソニャ。無気力で意志薄弱な夫が口にすることと言えばソニャへの悪態か自身の母親の言葉の繰り返しだけ、彼が小言を言わなくなると、今度は義母が顔を覗かせて嫌味を並べ始め、ソニャには居場所がどこにもない。彼女が働く病院の上司もまた、意志薄弱な男であり、親密になったソニャをキープしようとするなどお世辞にも良い人間とは言い難い。今作は極めて人間臭く、二元論で片付けられない人々を驚くほど簡単に連れてきて"誰も完璧ではない"としながら、"だから両成敗"という安易な結論を軽々と飛び越えるパワーがある。

3. サマーフィルムにのって (2020, 松本壮史)

映画サークルには恋愛キュンキュン映画のお花畑しかいないので、ゴリゴリの時代劇好きの私達はどうなるんだぁぁ~!と対抗心むき出しな、昨今の観客の分断を具現化したような設定を、映画そのものが消えるかもしれないという未来を前に"結局映画が好きって一緒じゃん"とまとめた上で、混在する作り手と観客の視点を、本人の熱意に関係なく全て映画史の参加者にしてしまうパワフルな映画。私はこの映画を信じたい。そして、2020年の10月にこの作品に出会えたことこそが奇跡だったに違いない。

4. ラスト・ダイビング (1992, ジョアン・セーザル・モンテイロ)

自殺を思いとどまった二人の男が人生の輝きを取り戻す話、のはず。私にはモンテイロ世界そのものが不思議な現象に他ならない。ファビエンヌバーブ…とその名を転がすうちに、圧倒的なひまわり畑で彼女に心を奪われる。

5. あばずれ女 (1979, ジャック・ドワイヨン)

誘拐事件とストックホルム症候群の話のようだが、そういった既存の枠に収めるにはちと勿体ない傑作。社会から見捨てられた二人の男女が薄汚い部屋にユートピアを見出していく刹那の耽美。

6. ジュデックス (1963, ジョルジュ・フランジュ)

ルイ・フイヤードファントマから『レ・ヴァンピール』に進化させてきたファントマ的イメージの集大成とも言える『ジュデックス』ジョルジュ・フランジュがリメイクしたのが今作。意味不明なタイミングで登場する白タイツのシルヴァ・コシナが全部美味しいところを持っていく展開に身悶えする。手品や勧善懲悪という予定調和が崩されていく快感が凄まじい。

7. ジュ・テーム、ジュ・テーム (1968, アラン・レネ)

カート・ヴォネガットよりも先に存在した発作的時間旅行の物語。釘を刺したニンニクみたいなタイムマシンに乗って記憶の旅に出た主人公が、記憶の中で記憶を生き直しながら、それが都合よく歪曲され、改竄され、遂には未来が侵入してくる。何度も登場するバカンスのシーンでは、登場する度にディテールが変わっているという細かさ。無限に広がる過去の先にあるのは、共に時空を旅した物言わぬネズミである。旅を共にしたこのネズミに意思があるのか、どの時点のネズミなのかは判別できず、"シュレディンガーのネズミ"として回収される呆気なさがとても優秀。

8. Wuthering Heights (2011, アンドレア・アーノルド)

泥と風と霧にまみれた五感で感じる嵐が丘ヒースクリフを黒人が演じる、子供世代がほぼ登場しないなどの改変が霞んで見えるほど、艶やかで寒々しい"丘"の全てが圧倒的。

9. 花嫁人形 (1919, エルンスト・ルビッチ)

人形劇による開幕から狂気じみているルビッチの傑作コメディ。モブまで含めた登場人物全員が面白いという稀有な映画だが、やはりオッシー・オスヴァルダのコロコロと変わる表情には惹かれてしまう。彼女が生き残りを賭けて暴走する後半30分は息つく暇もないくらい爆笑シーンの連発。

9. コンドル (1939, ハワード・ホークス)

ワーカホリックな飛行機野郎が、戦争映画ばりの男臭い仲間意識とハードボイルドな仕事への終着を見せつける"お仕事映画"とロマンス映画を巧妙に混ぜ合わせた社畜スクリューボール。仕事関連で後ろ暗い過去のある男とこれでもかと結びついていた人間関係は後の航空パニック映画を想起させる。親友の"旅立ち"に際してグラントの涙の代わりに帽子から流れる水滴の美しさ、確率1のコインの雄弁さなど細部まで凄まじい一作。

10. The Pleasure of Being Robbed (2008, ジョシュ・サフディ)

"今しがた地球に降り立った成人女性"と形容するのが正しいとも言えてしまうほど、何にでも無邪気に興味を持って近付いて、そこにドラマを作ってしまう紛れもない主人公エレノア。ニューヨークで小さな犯罪行為に手を染め続ける彼女の人生のある瞬間を切り取ったかのような作品は、まあまあ卑劣な行為に反してある種の優雅さすら携えている。だからこそ"盗まれたことへの歓喜"という題名が付いているのだろう。彼女を断罪するわけでも称賛するわけでもなく、世界の観察者として空間に新たな意味を付与し続けるエレノアを、映画は優しく観察し続けるのだ。

10. Bait (2019, マーク・ジェンキン)

バカンス事業の暗部とも言うべき人間のドス黒さを見せつけてくる傑作。観光事業のために実家を金持ちの別荘として売払われ、唯一の生活手段である船すら観光船に改造され、主人公に残ったのは海岸で網を張る仕事しかない。モノクロ、フィルム、アフレコ、そして動作を徹底的に分解して遅延させる編集によって、理想と現実の乖離が物語られ、都会人たちへの"撒き餌"として振る舞っていた人々が餌だけ食われて窒息していく様をグロテスクに提示している。

11. Fourteen (2019, ダン・サリット)

14歳のときに知り合って、長らく親しい友人関係を続けてきたマーラとジョー。気分が乱高下するジョーに振り回され続けても、マーラが彼女を見捨てられないのは、イジメから救ってもらって以来の繋がりがあったからだ。そんな二人の変わらない友情と変質していく関係性を、小気味よい会話とテンポ良い編集でドライに捌いていく。まるで慣性のみで回るコマが次第に速度を落としていくという、どうしようもないが必然的な終焉を見させられているかのようだ。決定的な決別もないまま、あれだけ仲が良かったのに疎遠になっていった人々の顔が脳裏に浮かんできて猛烈に寂しくなった。この映画は人生の縮図だ。

11. Mank / マンク (2020, デヴィッド・フィンチャー)

昨年の新作ベストに『Curtiz』という作品を選んだ。この作品はカサブランカの枠組みを利用して監督マイケル・カーティスの悩みを描いており、大枠は本作品にも似ている。しかし、極めて内的な作品だった同作に比べると、本作品は言葉、そして映画の真実性について自己批判を重ね、反骨の宮廷道化師が孤軍奮闘する様を映画史から引きずり出してくる本作品は"世界"を描いていると言えるだろう。アプトン・シンクレア落選のために製作されたフェイクニュースは勿論、ハーストのでっち上げ新聞、メイヤーのおべっか、ナチスプロパガンダ、そして真実らしき怪物市民ケーンから本作品自体に至るまで、真実性と信条の迷宮は全てを飲み込んで歴史を現代へと橋渡しをしてくれる。

12. Glass Ceiling (1971, エロイ・デ・ラ・イグレシア)

頻繁に家を開ける夫の帰りを待ちながら、同じ状況にある上階の夫婦の物音に耳を済ませ、殺人を夢想する。『ガス燈』『裏窓』を足したような昼下がりのロマンスサスペンスは、聴こえる/聴こえない、いる/いない、見る/見られるという関係性が変化していく中で、足し算が掛け算になっていく不気味さがある。

2020年の日本映画:「サマーフィルムにのって」(2020, 松本壮史)

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今野芙実 (日本、映画ライター)

今年は「確かにそこに在る/在った」ものを想う映画に惹かれた年でした。社会の不確かさに心が弱る1年のなか、人間のよくわからなさは恐ろしさでもあり、同時に可能性でもあるということをよく考えていました。そうした人間性のことを考えながら、現実と非現実、スクリーンのあちらとこちら、過去と未来の「境」を溶かす語りの図式を面白く見た1年だったのを感じています。

<2020年観賞映画ベスト10>

1.「幸福」(アニエス・ヴァルダ、1965)

そうなってしまったら、そうなってしまう。どうしようもないから、どうしようもない。しあわせなひとは、しあわせなのでしかたがない。私は仏映画に苦手意識があり、アニエス・ヴァルダ作品でさえ全く見てきていなかったのですが、この代表作に今年初めて触れ、完全にノックアウトされました。圧倒的な透徹で人間のよくわからなさを「ただ在るもの」として捉える凄みの前に、何を言えばよいのでしょう。色彩のしりとり構成、感情が痺れて倫理や論理が停止する瞬間を物理的に切り出しごく短い静止画で畳み掛けるフラッシュ演出、声を与えられない存在を連想させる静物としての切り花、ワンカット内で人物を入れ替え続けるダンスシークエンス、家事や手仕事の家庭内労働者の手の運動の捉え方の的確さ、冒頭とラストの円環。普遍的でありながら、常に異様で、かつ完璧に美しい。私が映画に求めているもののほとんどすべてがここにありました。

2.「栗の森のものがたり」(グレゴル・ホジッチ、2018)

落ち葉の中にたくさんのいがぐりが埋められていく冒頭から、言葉少なに、しかし非常に鮮やかで雄弁な情景によって「土地の物語」が時系列不明のまま進んでいき、やがて「このように語られた意味」が見えてくる。森のあちらとこちらに暮らす、妻が死にかけている老大工と、出稼ぎにいって帰らない夫を待つ最後の栗売り娘。彼らに何があり、その地には何があったのか。過酷な寒村、皆が消えた場所に残った物語の断片。私はこのような「やがて忘れられていった場所に確かに存在した人たち」の幻視が大好きです。人間は物語る生き物であり、ゴーストは存在し、そして季節はめぐりゆく。音楽映画としても素晴らしく、特に終盤での意表を突く名曲使いの鮮やかさには驚かされました。

3.「ザ・ライダー」(クロエ・ジャオ、2017)

実際にロデオで大きな怪我を追ったプロではない演技者を、現実と非現実の間に解き放つ。丁寧に丁寧に掘り起こされていく、バッドランドの苦難と寂寥。生と死のギリギリの縁に立つロデオの世界、動物であれば簡単に同じ意味になる負傷と死。ドキュメンタリー(「確かにそこに在ること」をどう撮るか)と劇映画(「無いもの」を確かに存在させる)の最良の部分を重ねた語り口に舌を巻きました。彼らが歌うのではなく、彼らが歌であり詩であるということ。あの地を駆ける馬上にだけ吹く風が確かにそこに在ること。荒野に生きるものへの深い敬意に胸打たれる作品でした。

4.「在りし日の歌」(ワン・シャオシュアイ、2019)

止まってしまった「あの日」からずっと、「あとは人生の残り時間」になってしまった夫婦の物語。冷徹といってさえいい視線でやるせない状況を映し出し、悲しさも苦しみも、ずるさや諦めや怒りもあますところなく映しながら、記憶の中の確かな幸福や喜びも、常に同じ筆致を保って描き出す。その歩みを乱さない語り口が大変魅力的でした。私は基本的に長尺の映画が得意ではないのですが、今作についていえばこの「ずいぶん遠くまできたな」と目を細める市井の人たち(時代と国家に翻弄されない人などどこにもいません、ましてや中国のこの30年です)を「ただ見つめる」視点には3時間超の長さが必要だったのは間違いないと感じました。1980年代から2010年代に存在した、無数の「彼ら」に捧げられた一大叙事詩を堪能。いつしかとしもすぎのとを、あけてぞけさはわかれゆく。

5.「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ、2019)

絶賛の理由にも批判の理由にも「格差問題が徹底的に図式的に描かれている」ことがあると思うのですが、私は「図式だけで出来ている」面白さに感じ入るばかりでした。社会的な上下構造を物理的な上下構造で描く表現自体はオーソドックスとはいえ、室内の視線誘導といいサウンドデザインといい、ここまで完璧に作り込まれていると震えてしまいます。光の庭と闇の奥。悲喜劇をシリアスにやらない判断はストーリー自体が「デッドリー・シリアス」な現実だから、と思うと笑ってもいられないのですが、その洒落にならなさを力任せにせずコントロールしきって、状況と状況の玉突き事故で最後までやりきった覚悟にぐっとくる。我らは今日も真顔のままでぼんやり笑い、悪夢のシステムを再生産しています。お疲れさまです。

6.「サッドヒルを掘り返せ」(ギレルモ・デ・オリベイラ、2017)

それを作れば彼は来る……彼は来るのだ……!愛するもの(この場合は『続・夕陽のガンマン』)の一部になりたいと希うファンダムの熱狂、その「光の部分」だけでできている幸福感に胸がいっぱい。掘り返されたのは物理的な過去の遺物だけではなく、そこに憧れ続けた我らの夢、なのです。いわゆる「推しが尊い……(言葉を失う)(手をあわせる)」経験がある方には絶対おすすめですし、そうじゃない方にも沸き起こるあたたかな歓喜に触れてほしい。ファンと創作者の関係を通じて、映画とはみんなで見る夢なのだということに気づかされて……まあ泣いちゃいましたよね、こんなの見せられたら泣きますよ。そりゃ。

7.「プリズン・サークル」(坂上 香、2020)

今年の日本映画ではこれがNo.1(あまりたくさん見ていないのですが)。2年間にわたって日本国内の刑務所にカメラを入れて、負の連鎖を断ち切る試みをまっすぐ、ひたすら実直に捉えたドキュメンタリー。服役する人々が「死なないために感情を麻痺させてきた」過去を他者に語ることで、自分という存在の輪郭を理解し、罪を初めて知覚する様子。自分が何を感じていたのかを認識することで、初めて他者の感情を想像することが可能になっていく様子。そこに人間という存在の可能性が見えてきます。この緩やかな人間の可能性の肯定がとても好ましく感じられました。ただただ人物を丁寧に掘り下げ、個々のストーリーを勝手に作らないインタビューが非常に誠実な一方、語られる彼らの過去に共通した「ストーリー」が多いという点も社会課題の重さを浮かび上がらせます。

8.「愛する時と死する時」(ダグラス・サーク、1958)

虐殺行為にすっかり慣れたドイツの兵士をごく自然な形で「帰郷を喜び、愛に歓喜し、家族を思う青年」として描く。それをドイツからの亡命者である監督・原作者(レマルク本人も教授役で出演)が英語で撮っている、という。このハリウッド・メロドラマの商業主義ダイナミズム!……とかいってしまうとどうもこの映画の繊細な筆致とギャップが産まれてしまうのですが、そこにこそ私は深く感動を覚えるのです。戦時下の人間はいかに麻痺してしまうものなのか。本来の自身で考える頭は他者との遭遇(愛)によって復活しうるのか。そして考える頭を取り戻すことは、いかに生きることを困難にするか。張り巡らされた問い、緊張と緩和の反復。しかしそうした要素がどこまでも「メロドラマの背景」機能として利用されているのが素晴らしい。感傷の力を信頼する態度を私は信頼します。

9.「初恋」(三池崇史、2019)

捨てられた子たちが都会の真夜中を駆けて過去から自由になってゆく。1990年代後半~2000年代初頭にかけての三池作品に「映画ってこんなことができるんだ」ということを教えてもらった世代の私にとって、今作は特別に嬉しい映画体験になりました。縮小再生産大いに結構。本質は叙情の人であるところのこの監督の照れ隠しとしか思えない過剰な暴力や露悪趣味と適当さという作風が生かされる機会がどれだけ貴重なことか……ただただ懐かしくて優しくて愛しく、シリアスとコミカルも丁度良い塩梅。滅びゆく仁義者への初恋を、かつてあの世界を夢見たあなた(=私)に捧ぐ、的な都市のおとぎ話。全ての映画が新しくなくたっていい、完璧じゃなくたっていい。こういう映画が劇場で見られたことそのものに大きな喜びがありました。

10.「スキャンダル」(ジェイ・ローチ、2019)

MeTooムーブメント前年、FOXニュースで起きた”白人美人女性”たちのセクハラ告発という題材からし2020年代には通りが悪い。個人的にも全然連帯したくないタイプの女たちの話で、そもそも気持ちの良いものになりようがない。だけど「個」として実利を見て動く女たちの「関わりたくなさ」に触れた作品が出てきたのが嬉しいのです。「強い女」のシステムに乗せられてきた女は、勝てない勝負に負けないのが精一杯。その現実の捉え方に非常にまっとうな女性映画の精神を感じました。正直、演出には特筆すべきところはあまり……と思ったのですが(撮影とエモーションの連動はほとんど感じられない、第四の壁破りは全然効果をあげていない……)それでもこの映画がやろうとしたこと、志のありようがとても好きです。

<2020年の映像作品としてのベスト>
ちなみに、上記ベスト10は条件なしだったのですが、個人的に比較が難しいため「長編映画」で括りました。これとは別に「2020年の映像作品」として見た瞬間にベスト1に決めた作品があります。それがThe ChicksのMV『March March』(2020.Seanne Farmer)です。完璧な「今」の記録だと思います。

www.youtube.com

BLMをはじめ、世界各地で広がるマーチとは何なのか。ビデオを見れば分かる通り、触れられているのは人種差別のイシューだけではありません。あらゆる「抵抗の歴史」のフッテージが使われているのですが、驚愕すべきはこの「音」の面。このビートでこのテーマでカントリーミュージックの伝統的な楽器(バンジョーフィドルが絡んでくるところめちゃくちゃかっこよくないですか?)を重ねることそのものが現状の排他主義がはびこる社会に対する明確なプロテストであり、ステイトメントになっている……!これがショウビズを革新し続ける国の「技術的に本質にリーチする」凄みだと感じました。そしてその反逆のアジテーションこそがパトリオティズムであるという根底の価値観こそ、私がアメリカ文化に興味を抱き続けている理由なのかもしれません。

<その他好きだった映画いろいろの話>

劇場公開作では『ルース・エドガー』『はりぼて』『ラ・ヨローナ~彷徨う女~』は最後までベスト10リストに入れるか迷った秀作でした。

映画祭のオンライン配信のおかげで出会えた(地方在住としては都市部の映画祭は今年限りと言わずずっと配信を続けてほしいと心から願っています)作品の中では『幸運の女神』『家庭裁判所第3H法廷』『THE FIGHT』も素晴らしく、心に残る作品でした。

また今年は意識的に色々な時代の有名な作品を配信やソフトで色々見てみたので、旧作では『ぼくの好きな先生』『みかんの丘』『酸っぱいリンゴの木の下で』『スケート・キッチン』『アマンダと僕』『鴛鴦歌合戦』『ガス人間㐧1号』『ダゲール街の人々』『バベットの晩餐会』『真珠のボタン』等々、たくさんの好みの作品と出会うことができました。

ということで、2021年も、時代・国・作り手・ジャンルを問わず、より多様な作品を見ていきたいと思っています!

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Jannis Lenz ヤニス・レンツ (オーストリア、映画監督"Battlefield") (インタビュー記事)

1.「晩春」(小津安二郎、1949)
映画館に行く機会がほとんどなかったので、今年は主に好きな映画監督の作品を再見してその隙間を埋めるとともに、既に観ていた古典作品の再発見に努めました。今作もそんな1作ですね。私は小津の芸術の相当な崇拝者で「晩春」はお気に入りの映画の1本なんです。

2.「イサドラの子供たち」(ダミアン・マニヴェル、2019)
この美しく構成された1作はとても静かゆえに、とても激しいんです。ダミアン・マニヴェルが3人の異なる女性たちの運命をダンスによっていかに繋げていくか、そして彼女たちの痛みと喪失を普遍的なものとしていかに表現していくかの手捌きに感銘を受けました。

3.「ホモ・サピエンスの涙」(ロイ・アンダーソン、2020)
今年映画館で観ることのできた数少ない1作ですね。もうシンプルに素晴らしくて、アンダーソンの奇妙で、愛らしいまでにデザインされた状況と風景にはいつもインスパイアされます。

4.「愛しのタチアナ」(アキ・カウリマスキ、1994)
これはカウリマスキ作品でも唯一今まで観たことなかったんです。もちろんガッカリすることなんて有り得ませんでしたよ。

5. "Another Round" (Thomas Vinterberg, 2020)
社会というものを学ぶに魅力的な1作で、最も的確に表現するなら素朴化された答えを与えることを拒み、モラルの教科書となることを拒んだ1作なんです。

6. "How to Disappear" (Total Refusal, 2020)
分析的でありながら同時に詩的な今作ですが、その複雑でありながらアクセスしやすい形式に私は感銘を受けましたね。

7.「ブリスフリー・ユアーズ」(アピチャッポン・ウィーラセタクン、2002)
この映画を観るといつも、主人公たちと森を散策している途中、時間と空間にまつわるルールが完全に違う別世界へと迷い込んでしまった心地になるんです。ラスト数分におけるあの減速ぶり、あの素朴さ、そしてあの激しさは溶けあいながら、深く私の心に残るんです。

8.「映画館の恋」(ホン・サンス、2005)
今作があまりにも優雅なのに驚いてしまい、観た後にはその構成について長く長く考えてしまいましたし、同僚たちと内容について何度も議論してしまいました。

9.「トラブル・ウィズ・ビーイング・ボーン」(サンドラ・ヴォルナー、2020)
この勇気を以て設えられた作品は、よくあるように暴力やセックスの露骨な描写によって挑発する訳ではなく、多くの人々が対処しようとしない、不愉快でありながらも確実に今日的な問いの数々をもたらすことで私たちを挑発するんです。

10.「もう終わりにしよう。」(チャーリー・カウフマン、2020)
この映画は奇妙で、精緻に編まれた夢のような作品で、この夢を観続けたいのか、それとも目覚めてしまいたいかすら分からなくなってしまいます。そして観た後には内容と形式両方の意味で、憑りつかれたように考えてしまう1作なんです。

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Thomas Logoreci トーマス・ロゴレツィ (アルバニア映画批評家・映画監督) (インタビュー記事)

今年は他の国々と同じように、アルバニアのティラナでも集団的な映画体験が止まることとなってしまいました。私の場合は映画祭のプログラマーとして、自分のアパートで安全を確保しながら大量のドキュメンタリーを観ていましたね。おそらく現実という冷たい厚版が、私がトップ10としてドキュメンタリー作品だけを選んだ理由なのでしょう。それでもこれらの激しい映画体験は2020年を規定する淀んだ暗闇から束の間でも私を救ってくれました。

ロックダウンの間、私たちは最も人気の俳優であり映画監督の1人であるRikard Ljarjaを失いました。アルバニアマルクス主義的国歌であった1960年代、超越的な力を持つアルバニアの仲間が中国でした。中国において文化大革命が起こっていた時代、そこで唯一上映された外国映画はアルバニア映画だったんです。1967年、Rikardは何百万人もの中国の映画好きが観たというモノクロ映画"Ngadhnjim mbi vdekjen"に出演しました。そして2019年の後半、私とパートナーであるIris Erezi、そしてシネマテークは彼を称え、彼が脚本と監督を担当しながら、アルバニア独裁政権によって公開を禁じられた作品"Sketerre 43!"(1981)の35mmフィルム上映を行いました。

彼に最も近い家族しか葬儀に参加することができませんでした。しかし彼が亡くなった後、人々は安全な距離を保ちながら、彼が住んでいたアパートの外に立ち、棺が運ばれていくのを見ていたんです。霊柩車がやってきた時、アルバニア映画を作ってきた、今は年老いた職人たちや、映画好きたちが称賛の声を上げました。この瞬間について思いだすと、イメージの瞬きはここアルバニアでも、そして世界でも広がっていくというある種の希望が浮かんできます。

アルファベット順
1. "Andrey Tarkovsky. A Cinema Prayer" (Andrey A. Tarkosvsky) (2019)
2. "Bloody Nose, Empty Pockets" (Bill Ross IV, Turner Ross) (2020)
3. "Campo de Mayo" (Corporate Accountability, Jonathan Perel, 2020)
4. "Coup 53" (Taghi Amirani) (2019)
5. "Iesirea trenurilor din gara" (The Exit of the Trains, Adrian Cioflanca, Radu Jude, 2020)
6. "Grève ou crève" (Strike or Die, Jonathan Rescigno, 2020)
7. "Il Varco - Once More into the Breach" (Michele Manzolini, Federico Ferrone) (2019)
8. "Pino" (Walter Fasano) (2020)
9. "The Viewing Booth (Ra'anan Alexandrowicz) (2019)
10. "Wake Up on Mars" (Dea Gjinovci) (2020)

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Anuj Malhotra アヌジュ・マリョトラ (インド、映画批評家) (インタビュー記事)

映画のリストを作るには作りましたが、それぞれについて詳しく書くには時間が足りず、私が今直面している状況も相まって無理でした。なので作品をそれぞれ異なったグループに分け、イデオロギーや芸術的目的に従い組織化し、読者が映画のタイトルと見出しとなるテキストの間に何らかの結びつきを描けるようここに招待したいと思います。

ある地域(全ての地域)において、その神話は市井の人々、日常、その存在から滲みでる。そして存在それ自体が育まれ、その大局的な神話性に繋がっていく。
1.「セノーテ」(小田香、2019)
2.「別離」(エクタ・ミッタル、2018)
3."Escape from the 'Liberty' Cinema" (Wojciech Marczewski, 1990)

それ自身の物象、真正な――戦争映画、しかし劇的なコメディに出来事が感染していく。それでも今作は驚くべきことに暴力の効果を些かも減退させることなく、それでいてこれを荒唐無稽な恐怖の地点へと高めていく。
1.「ビッグ・パレード」(キング・ヴィダー、1925)

カメラはそれ自身の自律的な軌道を記していく。時おり身体は反抗し、それ以外の時には適合する。一般的に身体上で演技をし、それらを幾何学的、多次元的、そしてシンプルに物体とするのはカメラなのだ。
1. "Contactos" (Paulino Viota, 1970)
2.「アートマン」(松本俊夫、1975)
3.「ジャンピング」(手塚治虫、1982)

ある女性が不可能的な物体を待ち構えている。自分自身の柔らかさを育み、魂の黙示録に対して自分を要塞化していく。
1.「Gaのポートレート」&"Aerial" (マーガレット・テイト)
2.「ヴィタリナ」(ペドロ・コスタ、2019)

信仰は彼らを見捨てた、最後には――セックスならもっと簡単に得られるのに、なぜ救済を待つ?
1.「魂のゆくえ」(ポール・シュレイダー、2019)
2.「アンカット・ダイヤモンド」(サフディ兄弟、2019)

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Firuza Mammadova フィルーザ・マンマドヴァ (アゼルバイジャン、字幕翻訳家) (インタビュー記事)

1.「ダンガル きっと、つよくなる」(ニテーシュ・ティワーリー、2016)
アミール・カーンは創造的な俳優で、いつも独創的なアイデアとともに異なるスタイルで演技をしています。「きっと、うまくいく」から彼の才能に気づいた時から、私の期待はいつも高いんですが後悔させられたことは全くないんです。若い頃に私も女性に対する差別を経験していたので、実話を基にした今作を興味深く観ました。ジェンダーにおいて見くびられている全ての人々に忍耐と反抗の心を教えてくれる1作です。

2.「パピヨン」(マイケル・ノアー、2017)
今作はフランス領ギアナ終身刑を言い渡された2人の囚人を描いた作品です。ショーシャンクの空にという素晴らしい作品を観た後、この友情と生存にまつわる物語にも惹かれたんです。

3.「7番房の奇跡」(メフメト・エイダ・エズテキン、2019)
今まで観たなかで最も素晴らしいドラマ映画の1本で、涙を流しながら観ていましたね。今作はリメイクですが、俳優たちの演技は完璧で、彼らによって見逃せない1作になっています。それから音楽も映画と同じくらい素晴らしいんです。演技も音楽も完璧なんですよね。

4.「アドリフト 41日間の漂流」(バルタザール・コウマウクル)
深く胸を打つような場面に満ちた、とても面白い映画でした。ラストには本当に驚きました。この作品が実話に基づいているというのにも驚かされましたね。過小評価されているので、ぜひともオススメしたいです。

5.「ジョジョ・ラビット」(タイカ・ワイティティ、2019)
1言で言うと"伝説"です。ナチス支配下のドイツで育った少年の視点からあの出来事の数々を目撃すること、当時のドイツでの暮らしを経験することはとても面白かったです。今作は人種差別というものが頭の鈍い男たちによって植えつけられるものと語り、そして自由であること、さらに重要なこととして人間であることはこれらのパターンを乗り越え、自分自身の視点を得ることで可能となると教えてくれます。最後の引用も好きですね。

"全てを経験するようにしよう
美しさも恐ろしさも
進んでいこう
絶望も永遠には続かない"

6. "The Stoning of Soraya M" (Joel Ransom, 2008)
完璧な映画ですね。ここで起こる出来事の数々はシャリーアへの批評としてだけではなく、全体主義的システムへの批評として見るべきだと思います。ほとんどの文化において、女性などの弱者たちが同じ状況にあるんです。そしてもちろん石打ち刑というのは極めて残酷なものでしょう。

7.「透明人間」(リー・ワネル、2020)
キャスト陣は豪華という訳ではないんですが、脚本と編集がとてもいいんです。今作はその最初から観客に興奮と緊張を与えてくれる訳です。

8.「マリッジ・ストーリー」(ノア・ボーンバック、2019)
ラストから話し始めましょう。今作は理想的な終わり方をするんです。"ああ離婚しなければいいのに"という思いを全編通じて持っていましたが、最後には"それがよりよい選択なんだろう"と思うことになるんです。脚本も精緻に綴られています。省略することなく人々の素質を見せていくんです。この映画には私たち自身の欠片の数々を見ることになるでしょう。深くオススメしたいです!

9.「アラバマ物語」(ロバート・マリガン、1962)
この映画の大胆なプロットや人道的アプローチを褒めない訳にはいかないでしょう。子供たちの窓から見る正義……とても素晴らしいです……今作は重要なイシューを、とても印象的で共感を呼ぶ視点から描いているんです。まず原作を読むのが有益でしょう。私が読んだ本のなかで最も素晴らしい作品の1つでもあります。

10.「アイリッシュマン」(マーティン・スコセッシ、2019)
素晴らしい演技、とてもいい撮影。もしこのキャスト陣でTikTokの作品が撮られたとしたら、私でも観てしまうでしょうね! "1度だけでも言ったなら、それは1000回言ったことと同じだ。彼らがアイルランド系なのは気にしていない。カトリックなこともだ。もしこの人生を信じられない人間が1人でもいるなら、それは億万長者の子供という訳だ" このセリフにも感銘を受けましたね。

アゼルバイジャン映画に関してですが、この映画が2020年一番好きな作品です:"Daxildəki Ada / The Island Within" (Ru Hasanov, 2020)

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Petra Meterc ペトラ・メテルツ (スロヴェニア映画批評家) (インタビュー記事)

1.「フォートレス・ダウン 要塞都市攻防戦」(エルシン・チェリック、2019)
2. "Never Rarely Sometimes Always" (Eliza Hittman, 2020)
3. "Gagarine" (Fanny Liatard, Jérémy Trouilh, 2020)
4. Kill it and leave this town (Mariusz Wilczyński, 2020)
5.「失くした体」(ジェレミー・クラパン、2019)
6. "Little Axe: Lovers Rock" (Steve McQueen, 2020)
7. "First Cow" (Kelly Reichardt, 2019)
8. "This is not a burial, it's a resurrection" (Lemohang Jeremiah Mosese, 2019)
9. "The Assistant" (Kitty Green, 2019)
10. "The Orphanage" (Shahrbanoo Sadat, 2019)

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Ivan Milosavljevic イヴァン・ミロサヴリェヴィチ (セルビア、映画監督) (インタビュー記事)

今年は世界的なパンデミックのせいで様々な意味で特別な年になりました。それ故に私たちは映画館や映画祭でより、より小さなスクリーンで映画を観るようになりました。しかし映画祭には殆どいけないながら、私は前と同じ本数の映画を観ようと試みたんです。

これが2020年に観たお気に入り映画のリストです。
天国の口、終わりの楽園」(アルフォンソ・キュアロン、2004)
「ラブ、デス&ロボット」(ティム・ミラー他、2019)
「パラサイト 半地下の住民」(ポン・ジュノ、2019)
マシニスト」(ブラッド・アンダーソン、2004)
「ハニーランド 永遠の谷」(リューボ・ステファノフ&タマラ・コテフスカ、2019)

2020年のセルビア映画はMarko Đorđević監督作"My Morning Laughter"です。

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Moe Myat May ZarChi モーミャメイザーチー (ミャンマー、"Her Mirrors"監督) (インタビュー記事)

1. 「三人の女」(ロバート・アルトマン, 1977)
2. 「冬の旅」(アニエス・ヴァルダ, 1985)
3. 「リアリティのダンス」(アレハンドロ・ホドロフスキー, 2013)
4. 「砂の女」(勅使河原宏, 1964)
5. 「エターナル・サンシャイン」 (ミシェル・ゴンドリー, 2004)
6. 「大人はわかってくれない」(フランソワ・トリュフォー, 1959)
7. 「ぼくの伯父さん」(ジャック・タチ, 1958)
8. 「ひなぎく」(ヴェラ・ヒティロヴァ, 1966)
9. 「ミステリー・トレイン」(ジム・ジャームッシュ, 1989)
10. "Emerald Jungle" (Maung Tin Maung, 1934)

2020年のミャンマー映画:"Emerald Jungle" (Maung Tin Maung, 1934)

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Ines Mrenica イネス・ムレニツァ (ボスニア映画批評家・TV司会者) (インタビュー記事)

1.「もう終わりにしよう」(チャーリー・カウフマン、2020)
この2020年アメリカ制作の心理的ホラー映画は今年最も奇妙な映画体験となりましたし、今年どころか人生で最も奇妙でもあったんです。物語の普通ではない次元、カウフマンが描く2時間半にも渡る抽象性はジェシー・バックリージェシー・プレモンストニ・コレットといった素晴らしいキャスト陣に支えられていました。こんな形で人生の意味、時の流れ、老い、そして幸福の追求を描きだした物語はないように思えます。

2. The Platform (Galder Gazdelu-Urrutia, 2019)
このスペイン産ホラーは階ごとに存在する1つの垂直な独房、そこに収監された2人の人間を描く作品です。食事のためのプラットフォームは1つしかなく、食事を行える時間は1日に2分しかありません。"穴"での終りなき悪夢は、カール・マルクスが自身の著作資本論で予言した崩壊する資本主義のメタファーとなっているんです。人間には食物と資源があれば十分であり、欲望と病理学的な独善性が彼らを厄災へ導くんです。

3.「殺人ホテル」(ヤーラン・ヘルダル、2020)
このノルウェーディストピア映画は私たちを核の災厄によって甚大な影響を受けた世界へ誘ってくれます。この世界において、ある3人家族がホテルで開催されるチャリティイベントに参加するのですが、人々が失踪を遂げるなかでドス黒い展開を迎えることになります。舞台で演技をすることで彼らは暖かい食事を取ることができますが、突然地下の解体場で肉(つまり死体です)にされて"俳優たち"や"ホテル"のスタッフに振舞われることになるんです。オーウェル的な悪夢がブレードランナーと融合することで、世界が今向かっている未来が現れる訳です。

4. "Exile" (Visar Morina, 2020)
今年のサラエボ映画祭における勝者はこのドイツ映画でした。外国にルーツを持つ化学エンジニアが仕事場で虐めを受け差別されていると感じ、それによってアイデンティティの危機とパラノイアへと追いつめられていきます。今作は西欧において幸福を追求するバルカン半島の人々と、彼らが対処することになる人種差別を描いています。

5.「めまい」(アルフレッド・ヒッチコック、1958)
いつまでも色褪せないこのヒッチコックによる古典作品はオールタイムベストの1本です。何度も何度も観ていますが、このパンデミック下においては全く新しい経験となりました。ある1人の元刑事が自身の心の悪魔と対峙し、悍ましいほど美しい女性に周年を燃やす。全ての原因は高いところでは眩暈を起こしてしまうという彼の弱さです。確かなことは、こういった装飾を持つ映画はもう以前と同じようには見えないことです。

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Myat Noe ミャトノエ (ミャンマー映画批評家) (インタビュー記事)

「旅のおわり世界のはじまり」(黒沢清、2019)
TVリポーターがめぐる旅路、そしてウズベキスタンにおける彼女の充足と自己発見を描いた、柔らかく笑いに満ち、悲しくも感動的な作品です(この国のシステムの描き方に関しては少し上から目線で軽蔑的です。おそらくウズベキスタンの検閲に気に入られるためでしょうか?)しかし全体としては、主人公の肖像画、彼女の精神的旅として上手く機能しています。最後に歌で終るところにはサウンド・オブ・ミュージックの冒頭を思い出しました。陳腐だと感じる方もいるかもしれませんが、時々此処に在るという喜びを楽しみ、そこに浸りたい時もあるでしょう。今年私たちが必要だったものです!

「Swallow/スワロウ」(カーロ・ミラベラ=デイヴィス、2020)
エリザベス・マーヴェルの異様な演技それだけで、自身の喉を感じながら一時停止せずにはいられないこの映画を観通す価値はありますね。それから嬉しかったのは今作の監督が血とゴアに定住することなく、深刻な問題を持った主人公と彼女の変貌を深く探求することを選んでくれたことですね。

「ロッジ -白い惨劇-」(ヴェロニカ・フランツ&セヴリン・フィアラ、2019)
ほとんどの人々は"Relic"を褒めていますが、私はもう1本のこの不気味な映画を選びますね。主演俳優(ライリー・キーオ)による全く圧倒的な演技が今作を支えていると思います。じわじわと展開していく、心理的ホラーであり、心搔き乱された女性主人公の、困惑させるような暗黒の迷宮へと観客を誘うことに成功しています。

「獣の棲む家」(レミ・ウィークス、2020)
アフリカで起こっている人道的問題の中でも更に深刻なものを、イギリスへと辿りついたスーダン人難民のカップルの姿を通じて描くホラー映画です。本物の恐怖は幽霊ではなく、人間は生存の名の下にいかなることをやってのけるか?という可能性のなかにあるんです。

「猿」(アレハンドロ・ランデス、2019)
武装反乱軍の少年兵たちを描いた「蠅の王」のようなコロンビア映画です。子供たちが速く成長しなければならない世界、喰うか喰われるかが生存の問題となる世界で失われる無邪気さについて描いています。霧深い凍てついた山々からうだるような暑さのジャングルまでその風景も素晴らしいです。彼ら子供たちから見る戦争の不条理よりも不条理なものはないでしょう。

"Sputnik" (Egor Abramenko, 2020)
ジャンル映画として、ソ連の封じられた研究所で驚くべき秘密を発見してしまった飛行士を描くこのロシア産スリラーはまあ無難な映画でしょう。しあkしそのコンセプトは邪悪で、多く明かしてしまうのはネタバレというものです。だから座ってリラックスして、晩餐会を開きましょう!

「ラ・ヨローナ~彷徨う女~」(ハイロ・ブスタマンテ、2018)
子供を獲物とする泣く女の魂を描くクソみたいなハリウッド映画は忘れてください。この恐ろしいグアテマラ産ホラーは自責の念というものを深く描きだそうとする1作です。虐殺を指揮した非情な元将軍とその一家に焦点を当てながら、今作はこの忌まわしい人々をとても人道的、中道的なやり方で描き、その腐敗した魂を開いていくんです。そんな彼らがデモ隊に囲まれて大邸宅に閉じ込められ、その端思惟が罪の否認に捕らわれるなか、もちろん泣く女という超自然的な現象も起こり、罪や隠された恐怖が描かれる訳です。

バッド・エデュケーション」(コリー・フィンレイ、2019)
公的資金を着服した校長の失態がジャーナリストによって白日に晒されるという実在の物語を描いたHBOオリジナル映画です。ペースは軽快でプロットも首尾よく構成されています。全ての音調が正しく、派手でなくシンプルに作られた映画の1本と言えるでしょう。それからヒュー・ジャックマンが彼の多面的魅力を再び発揮しており、ウルヴァリンシリーズから一歩進んでいます。

「ひとつの太陽」(チョン・モンホン、2019)
喪失と悲しみを描きだす、どんどん少なくなっていっている家族映画の1本で、普通の人々が規格外の感情的な重荷に対処する姿を美しく描きだした作品でもあります。少し長すぎますが、毎秒毎秒、今作は自分たちの家族に関して覚えのあるものを柔らかく探求していくんです。

「Mank マンク」(デヴィッド・フィンチャー、2020)
いや、これを書いている時点ではまだ今作を観ていません。ですが私は好きになるに決まってます(笑)(それから今年は観ている映画が少なすぎて、ベストに選ぶ映画が無くなってしまったんです)

それから今年お気に入りのミャンマー映画ですね。コロナウイルスのせいで4月から一切新しいミャンマー映画が公開されていません。なので今年のワタン映画祭上映作から選びましょう。

Burn Boys (Kaung Myat Thu Kyaw, 2020)
野性的で実験的、通俗的語りの抑制からは全き自由な、それでいて大袈裟でもなく、他のインディー映画のようにゲージュツ的であろうとしないそんな1作です。ある父親と彼の疎遠だった双子の息子が再会するという物語が、思い切った歌舞伎のような父の演技と双子の固まった無表情が豊かに衝突することで描かれているんです。

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Raluca Nagy ラルーカ・ナジ (ルーマニア、"Un cal într-o mare de rebede"作者)

「王国(あるいはその家について)」(草野なつか、2019)
コンセプトが好きなんです。最近観てきた映画とは全く違っていました。観た後も長い間、心に憑りついています。

「ファミリー・ロマンスLLC」(ヴェルナー・ヘルツォーク、2019)
外からは奇妙に見える、ある意味で古典的な日本にまつわる物語の1本ですが、ヘルツォーク独特の感性とアプローチが好きですね。

MUBIのエリック・ロメール特集
少し"安っぽい"だとは感じながら、全ての映画に共通する心地よい雰囲気が好きで、観るのを止めることができませんでした。必ずしも居心地のいいドラマや状況が広がっている訳ではないのに、最後に感じられるのは喜びと郷愁なんです。あの時代にあったパステル・カラーの服を着るようになってしまいました(笑)

「マリッジ・ストーリー」(ノア・ボーンバック、2019)
疑念を抱きながら観てしまったし、スカーレット・ヨハンソンの熱烈なファンである訳でもないんですが、でもああ今回の演技は良かったですね! とうとうという感じです!

「ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密」(ライアン・ジョンソン、2019)
何度も笑ってしまいました。とてもスマートなプロットでオスカーにノミネートされたのも納得ですね。

2020年のルーマニア映画
「トトとふたりの姉」/ "Felicia înainte de toate"
おそらく後者の方がより好きです。外国に住むルーマニア人として、故郷に帰るという物語には共感してしまうんです。

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Héctor Oyarzún エクトル・オヤルスン (チリ、映画批評家) (インタビュー記事)

"The Year of the Discovery" (Luis López Carrasco, 2020)
"Isabella" (Matías Piñeiro, 2020)
"Danses macabres, Skeletons and, Others Fantasies" (Rita Azevedo Gomes, Pierre Léon and Jean Louis Schefer, 2019)
"One in a Thousand" (Clarisa Navas, 2020)
エッシャー通りの赤いポスト」(園子温、2020)
"First Cow" (Kelly Reichardt, 2019)
"The Physics of Sorrow" (Theodore Ushev, 2019)
「逃げた女」(ホン・サンス、2020)
"Something to Remember" (Niki Lindroth von Bahr, 2019)
「ウルフウォーカー」(トム・ムーア&ロス・スチュアート、2020)

チリ映画:「老人スパイ」(マイテ・アルベルディ、2020)

このリストが"普通の"年ならどうだったかは分かりませんが、アヌシー国際映画祭に"参加"(今年は多くの""を使いますね)するという可能性は重要なものでした。セレクションに関しては楽しめませんでしたが、Theodore UshevNiki Lindroth von Bahrの最新作を観れるという可能性は個人的なハイライトの1つでした。Ushevの作品は正に傑作アニメーションであり、Bahrの作品は最も奇妙で特別なユーモアセンスを持つ作品でした。前々から好きな映画作家の作品(ホンやライヒャルト、ピニェイロらです)もお気に入り作品に入っていますが、NavasとLópez Carrascoを知れたことの驚きを伝えたいです。この2人の映画作家は今後とも追っていくでしょう。

今年のチリ映画の1本を選ぶのはそこまで難しいことではなかったですが、今年は観たいほどにチリ映画を観れなかったと思わざるを得ませんでした。このテレワークをしながらの映画祭映画の一気見においては"有名な"映画作家の作品の多くをまず観ていたんですが、今は後悔していますね。とにかくアルベルディの作品は映画に映画を隠す"潜入"映画監督としての彼女の仕事を体現する素晴らしい例でしょう。それは彼女が"The Lifeguard"(2011)から一貫して作っているものですが、実際に"スパイ映画"を作りだしてからはこの傾向がより明確(そして面白可笑しく)になっています。

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Yoana Pavlova ヨアナ・パブロヴァ (ブルガリア/フランス、映画批評家・映画研究者)

フランスにとって2020年は苦難の年でした。コロナ禍に加えてテロリストの襲撃、自然災害、警察官撮影禁止法という新しい法をめぐって激化した議論、暴力的なプロテスト、そして政治と文化の世界における多くの象徴的存在の死までも起こってしまったんですから。その"若さに溢れた"、"隠し立てをしない"スタイルにおいて、エマニュエル・マクロンは頗る視(聴)覚的人物でした。それはニュースだけでなく、彼自身が所有するSNSのチャンネルにおいてもです。2020年における最も困難だった時期に"波長を合わせる"ために発した周波数によって、彼は彼自身のやり方でスターYoutuberになったんです。アマチュア演劇における経験は、骨を折ることでこそ得られる洗練のレトリック、慎重なまでに計算されたPR能力を彼に齎し、こうして作られたビデオの数々は完璧さへの弁解ともなっています。ある部分ではTVドラマ的、ある部分ではライブ・パフォーマンス的、ある部分では教科書に載った礼儀作法的に、マクロンのスピーチはあらゆる意味で模範的であることを目指し、そうでありながらパンデミックの超越的現実とエントロピーの闖入はこのビデオの数々を最もスリリングな意味での映画に変貌させたのでした。

1.「昨日の夜、私はコロナ陽性と診断されました」(12月18日投稿)
美学においてもその実践においても、このリストで最もユニークな1作でしょう。この動画は、マクロンがコロナに感染したというニュースが世界で報道された翌日にアップされました。手振れを伴ったカメラと、フランスの大統領が既に隔離状態にあると外の世界に知らせる自発性は感動的なものでした。ファウンド・フッテージ・ホラー的に幕開けながらビデオはすぐにメロドラマ的になる、その軽やかなミザンセーヌと感情的な含意によって、今作は自然と私のお気に入りになりました。加えてこのビデオは驚くべき"vlog"であり、これを通じてマクロンは自身のコンディションに関して毎日その進行を視聴覚的な形でアップしていくことを約束しました。実際に行われることはなかったですが……でも、そう、これは彼のシネマティック・ユニバースにおいては反復されるモチーフなんです。

2. "Entretien exclusif : Emmanuel Macron répond à Brut" (12月4日投稿)
Brutは4年前の2016年に立ち上げられたメディア計画で、ビデオ・フォーマット専門です。12月の始め、マクロンは3人のジャーナリストにオフィスへ招待され、そこで反対尋問が行われ、この光景がライブ中継されました。その間、質問やコメントが他のSNSチャンネルから飛び込んできました。2時間以上に渡って、このインディーな長編ドラマ作品はアクション満載のリズムとともに見事なモンタージュを備えていました。フランス大統領は俳優として印象的な演技の幅を見せ、そこかしこで輝くその無邪気な微笑によって、説教的な人間にも呑気な人間にもなれることを証明したんです。皆が知っての通り、フランス映画というのはお喋りに過ぎる傾向がありますが、私がハッキリさせておきたいのはこのインタビューがハリウッドによる最良のポリティカル・スリラーとも競えるということです(その後のリアクションを見る限り、Rotten Tomatoesの指数は100%でしたね)

3. "Adresse aux Français" (3月12日投稿)
この動画は2020年に私たちが共有したディストピア的規範のトーンを用意した最初のものであり、私としても感傷的な形で動画に心を重ねてしまいます。もう既に知られた事実の数々、例えば皆に手を洗いましょうといったことを大統領として言い連ねていき、最後には全て良くなると断言することで、善良警官マクロンというお約束が最高潮に達します。ライブ中継における台本のスクリーンショットの数々はインターネット・ミームとして即座にミイラ化し、古びたフレーズと企業的な言葉遣いを混ぜるマクロンの独特な表現方法はメディアによって真剣に分析されました。ランタイムは30分ですが、リアルタイムでこのビデオを観るのは、話しぶりの重力的側面も相まって長編映画を観るようでした。

4. "Adresse aux Français" (3月16日投稿)
3つ目の動画から4日後に放送されたいわばシークエルであるとともに、この動画は2020年の春を舞台とした最初のロックダウンの就任式といった風でした。このセレクションにおいては唯一の娯楽映画であり、100万回以上も視聴されたんです。3月15日に行われた地方選挙の余波で、今作は数日前に押しつけたルールを守らない人間に対して指を立てる、悪徳警官としてのマクロンを流れに組みいれたのでした。そのトーンを除いて、ビデオは3月12日のものとそれほど変わりませんが、2つは互いに補完しあっているんです。それでも少し違った雰囲気のなか、似たモチーフやジェスチャーが反復される様は観客に、素材に対する批評的距離を齎したのでした。

5. "French President Emmanuel Macron Press Conference in Beirut on 6/8/2020 following Beirut Port Blast" (LBCIレバノンに8月6日投稿)
疑う余地はありません、8月4日にベイルートで起こった大爆発は2020年最も劇的なイベントの1つですが、驚いたことにマクロンは事件後すぐに現場へと現れました、まるでディザスター映画におけるデウス・エクス・マキナのように。彼は自身がお気に入りである2つの役柄を花咲かせました。決意に満ちた政治家(スタイリッシュな暗青色のスーツ、キャラクターとしての強靭さ、簡潔な言葉遣い)、そして群衆のなかにいて話に耳を傾ける、白いシャツの袖を捲りあげた親し気な男の2つです。後者についてもっと観たいなら、このマクロンYoutubeページに投稿してある"Le Liban n’est pas seul"(8月10日投稿)をお勧めします。しかし記者会見の場で撮影された、国際共同制作であるこの熾烈な1作を観察する時に興味深く思えるのは、ポスト植民地主義的なダイナミクスです。少しばかり揺れを伴うカメラ、大統領の顔に対する"非フランス的"で記号論的なフレーミング、多様なアクセントを持った女性たちの数多の声、そして本当の答えを求めるプレス記者たちの存在はこの視聴覚的芸術を相当魅力的にしており、マクロンの公共イメージを故郷の土に広まってきているという、操作された現実を強調しているのでした。

6. "Déclaration après l’attaque terroriste de Conflans-Sainte-Honorine" (10月16日投稿)
フランスはここ数年イスラム過激派に対して独自の趣味嗜好を持っていますが、2020年の10月に起こった教師の斬首事件は本当に闇深いエピソードとなりました。コンフラン=サント・オノリーヌで撮影されたこの動画は短いですが、夜の闇を舞台にしているという点で心を震わせるものです。背景には"Liberté, égalité, fraternité"("自由、平等、友愛")の象徴があり、フランスの学校全てのファサードにはこのサインが見えます。画面の前面には暗青色のコートを着たマクロンがおり、役人には見えない類の人々に囲まれており、彼らは大統領に対して命じられた通りの"ソーシャル・ディスタンス"を実践している訳ですが、このおかげでマクロンは中心に立つことが出来ています。自身の黒いマスクを外してから、次の数分を彼はマスクを握りしめるという行為のみに費やしますが、ここであの悪徳警官というキャラクターが戻ってきた訳です。"戦い"という言葉、そして難解な"彼ら"という言葉が言及され、心理的スリラーの様相を呈しながらもその画面は荒涼としたものです。それでも10代にまつわるフランス映画と考えれば、陰気な瞬間にすらも少々のユーモアは存在し、曇った眼鏡をかけた1人の派手な名士が現れる訳です。

7. "REPLAY - À Nice, Emmanuel Macron dénonce "une attaque terroriste islamiste" (France24に10月29日投稿)
コンフラン=サント・オノリーヌでの事件からたった2週間後、新たな襲撃がニースで起こりましたが、この5分の動画は6つ目のそれとは様々な観点から異なります。大統領は再び人々に囲まれていますが、今回は100%男性だけであり、同じスーツと制服を着ながら全員が窮屈げにフレームに収まっています。時間は昼ですが、雰囲気は頗る"カトリック的"で、襲撃の状況やこの撮影が諸聖人の日の直後に行われたという事実も鑑みたか、実際この単語をマクロンは何度も繰り返しました。多くのジャーナリストたちに話しかけるにしても、この状況において大統領はカメラを真っ直ぐ見据え、ゆっくりと厳粛に言葉を紡いでいました。そう遠くない場所で鳥がガアガアと鳴いており、ちょうど今作にゴシック的な雰囲気を齎すようでした。

8. "COVID-19 : suivez mon interview" (10月14日投稿)
コロナウイルスの第2波がフランスで台頭を始めた時、マクロンは大衆へのアナウンスにおいて少しばかり異なるフォーマットを適用しました。こうして国は外出禁止措置という苦い錠剤を呑みこむことができた訳です。2人のよく知られた、目立ちたがり屋のジャーナリストたちを"敵対者"(纏うのは暗青色のスーツ)として、いつもの独白を会見という形式に変えたのです。2つ目や5つ目の熱狂には全く及びませんが、大統領は古きよき"これが現実さ"という言葉を例えるためだけ、弁証的な方法で手綱を加えたんです。スプリット・スクリーンは映像的に興味深い革新でありながら、実際にコメディ的な層を加えているのは手話翻訳者の振付であり、これがステージ化された民衆扇動のデマに対するカウンターとなりました。

9. "Adresse aux Français" (10月28日投稿)
2020年10月28日、マクロンは2度目のロックダウンをアナウンスするためライブ映像に再び現れました。今回彼はより説得力を持ち、瞳と手によってこそ語っていたんです。それはこの話がパンデミックについてだけでなく、直近の出来事全てについてであり、彼の話しぶりが深い政治的サブテキストを纏っていたからです。中間管理職モードがフルに発揮され、スクリーンに瞬くインフォグラフィックがそれを彩っていました。大統領は、それぞれ社会の広範囲において可能性として受け入れ難い様々なアイデアを売り込まざるを得ない状況にありました。ある種オンライン・マーケット的、ある種教育動画的な形で、この動画は連続ドラマ化という背景の内から現れたんです。

10. "Vœux 2021 aux Français" (12月31日投稿)
毎年12月31日の午後8時、フランス大統領はライブ中継で国について語ります。2020年は当然、公式の見解を聞くというのは重要なことであり、それ以上のこと、ウィルスから回復しようとしているマクロンの姿を確認するという行為でもあったんです。大統領の机を映す通常のミザンセーヌは煙突がついたエリゼ宮殿の心地よい片隅と、見栄えのいい現代的な家具に取って代わられていました。彼が感情的な中盤において言及する"普通の人々"という言葉は視聴者に"お前の家、CNNに映ってるんじゃないか?"というバルカン半島の古めかしい罵倒を思い起こさせます。しかし彼の朗読技術は来たるワクチン接種と今までからのレッスンという意味で、"ポジティブな"魂を注射するという目的に適っていました。マクロン最後の言葉の脈動が消えていき、彼がより遠い場所にある2つ目のカメラを見据える時、そこには疲労の色があり、少しばかりサルコジ的であるこの孤独な姿はマーベル映画のポスト・クレジット・シーンを彷彿とさせます。

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Juan Carlos Lemus Polanía フアン・カルロス・レムス・ポロニア (コロンビア、映画批評家ポッドキャスト“Cine con Acento”司会者)

2019年には休息を取っていたので翌年の2020年には映画祭に戻ろうと思っていました。しかし、分かるでしょう、このクソみたいな現実のせいでベルリン国際映画祭にしか行くことができませんでした。今年のベルリンは、こんにちの全てを仮想性と取り違えてしまう恐怖がそこになかったことを考えると、力強いものでした。しかしぜひ2020年について幾つかの考えを共有したいところです。2月には既に何かが変わっていました。ベルリンで、私は何人かと今目撃している多くの小さな変化について話していました。例えば“お大事に bless you”という言葉を私たちは誰かがくしゃみをした時に使っていましたが、私たちの心のなかでその言葉がある考え、時には実際に叫ばれる言葉“マスク着けろよ、おい!”に変わってしまったこと。それから人間が直面する現実のなかで最も大きな恐怖である死、それに裏打ちされた過ちによって手を繋ぎあうことになる。そこかしこで素直にしろそうでないにしろ、私たちは自分の人生を隔離、もしくは“ロックダウン lockdown”に差し出すようになりました。そしてこの新しい英単語が皆の語彙に加わった訳です。説明つきで東側からやってきたウイルス、その西側による解決法? これがグローバル化の悪夢です。それでも私たちには普遍的言語としての映画があります。ゆえに独りの時も、仲間と一緒の時もありましたが、この運命的な時代において私はシネフィル的な快楽のなかに逃避を見出だしました。これからそれを要約していきましょう。

Fauna (Nicolás Pereda, 2020)
今作においてまずNicolás Peredaは注意を促すようなユーモアを以て、断絶と痛みという家族関係における価値観の浮かびあがるようなグロテスクな家族の再会を描きます。それからこの映画は同じ場所に腰を据える鉱業会社と社会の間にある不均衡を描きだす不条理なネオノワールへと私を誘ったんです。両パートにおいて、フィクションと現実がいかに消費する者と消費される者を描きだすかについて見出だすことができるでしょう。

First Cow (Kelly Reichardt, Berlinale 70, 2020)
Kelly Reichardtが寒いベルリンを暖めるためにやって来てくれました。彼女は殆ど感知されることなくとも、時には不変である出来事の力が描き出される、映画狂のための繊細な料理を振る舞ってくれました。自然、移民、野心、友情、そして商業会社がいかにその友情を罰するか、これがテーマです。

「トラブル・ウィズ・ビーイング・ボーン」(サンドラ・ヴォルナー、Berlinale 70, 2020)
このSF映画を観て哲学者であるマーサ・ヌスバウムの言葉について深く考えることとなりました。感情やモラルの構築において、私たちがより人間的であるために必要な共感を培うため、物語はどのようにサポートしてくれるのか?

「もう終わりにしよう。」(チャーリー・カウフマンNetflix, 2020)
カウフマンが帰ってきました、登場人物たちの心理へのいつだって魅力的な旅路と戯れながら。鮮烈で知的な独白は時に恐ろしく、時に面白おかしく、去ってしまった人生を振り返る過程というものを描きだしているんです。

Lovers Rock (Steve McQueen, Amazon, 2020)
ここでMcQueenは解き放たれたのか? 男女が踊りながら触れあう時のあの動きと騒ぎを感じてみて欲しいんです。パーティーを準備するための解説が1歩1歩丁寧なマニュアル本のようで、映画としては少しのことしか起きません。しかし監督によって披露されるその光景こそが私をあの夜へ誘い、歴史においてあの瞬間に何が起こったかについての全てを教えてくれたんです。今作は、共有し共にある時私たちは誰なのかという思いに捧げられる詩なんです。

Never Rarely Sometimes Always (Eliza Hittman, Berlinale, 2020)
Eliza Hittmanがヨーロッパの素晴らしき三大映画祭の1つに現れました、彼女をアメリカから連れ出してくれたことをCarlo Chatrian カルロ・チャトリアンに感謝しましょう。この映画が寒々しいのは何物をも甘く描きだしていないからで、それと同時に主人公である10代の少女たちが孤独の旅へ赴く様を敬意とともに詳細に綴っているんです。酷い時代と過酷な旅路の混ざりあった友情を祝福するような、素晴らしい1作です。

「息子の面影」(フェルナンダ・バルデス、Zurich Film Festival, 2020)
このメキシコ人監督による印象的なデビュー作は、私が生まれた場所、そこで人々が生まれる意味について考えさせてくれました。ラテンアメリカの暴力の円環は、最も酷な先天的病である貧困を植えつけるような、無能な制度によって生じているんです。我々の持つラテンアメリカの暴力の歴史が別の角度から描かれ、より悍ましいからこそより詩的な形で表れているんです。

Malmkrog (Cristi Puiu, Berlinale, 2020)
以前はアパートがありましたが、今回は豪華な邸宅がそこにあります。監督は私たちをある種の空間へと誘い、その登場人物たちが仮定する論争においての立ち位置に関して傍観者になってほしいようです。頗る滑らかなカメラワークがもたらす極度の倹約性という意味でとても美しい映画であり、何度も観て、劇中に現れ登場人物たちの間を動き回る使用人たちさながら矛盾を抱こうと思えるそんな映画でもあります。

Siberia (Abel Ferrara, Berlinale, 2020)
もしくは“Tommaso”(2019)の続編と言うべきでしょうか。この映画は滑り去るソリ、そして知らぬ間に一切の曖昧さすらなく複雑さへと変貌する人生そのもののようです。もちろんその痛み、狂気、深いヒビの数々、監督が至った高み、そしてこれらを披露する幾つもの問いが私たちに残されることとなります。

奥付 / Colophon

払った去年の借金:「ペイン・アンド・グローリー」(ペドロ・アルモドバル、2019)&「アンカット・ダイヤモンド」(サフディ兄弟、Netflix、2019)
料金つきの貢献:「Mank マンク」(デヴィッド・フィンチャーNetflix、2020)
いつもの奴:「道」(フェデリコ・フェリーニ、1954)
古典:レベッカ」(アルフレッド・ヒッチコック、1940)
忘れられない1作:「美しき仕事」(クレール・ドゥニ、1999)
コロンビアの1作:“Los conductos” (Camilo Restrepo, 2020, Berlinale 70)

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Maja Prelog マヤ・プレログ (スロヴェニア、"2045"監督) (インタビュー記事)

"The Rabbit hunt" (Patrick Bresnan, 2017)
短いですが、スウィートで説得力のあるこのドキュメンタリーを観ながら、私たちの魂の深くへ永遠に根差した幾つかの事柄について考えてしまいました。

"América" (Eric Stoll&Chase Whiteside, 2018)
ラテンアメリカにおける祖母と孫の関係性を描くドキュメンタリーです。とても悲しくて思わず笑ってしまうかと思えば、面白くて泣いてしまうような映画でした。

「地球はオレンジのように青い」(イリナ・ツィルク、2020)
ウクライナにおいて今起こっている戦争の最前線で映画を作ることについてのファミリー映画でもあります。同情を誘うとか道徳的とかは全くなく、救いのなさを力へと変える本物の、人々を深く引きこむ物語が語られています。

Space Dogs (Elsa Kremser&Levin Peter, 2019)
犬たちの視点で語られる、陶然としてしまうような物語です。今作が好きなのは全ての要素が人間を中心に回っていかないからです。

「そして俺は、ここにいない」(フェルナンド・フリアス、2019)
最初に"何だこりゃ"という場面がありますが、それよりもモンテレイにおけるサブカルチャーとその生き様へと観客を導く受動的な語りに思わず引きこまれてしまいました。

それからサムライ・ジャック全5シーズンもオススメしなくてはいけません。本当に深く愛してるんです。

2020年、お気に入りのスロヴェニア映画:"The End" (Vid Hanjšek, 2016)
死にまつわる軽妙な作品で、スロヴェニア映画史において最も印象的な人物が登場するんです。もう本当に痛々しいほどスロヴェニア的で、しかし美しいほどに普遍的でもあります。

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Pablo Roldán パブロ・ロルダン (コロンビア、映画批評家・"Cero en conducta"編集) (インタビュー記事)

まだこれらの新作映画を観ていません。例えばPaul Vecchiali ポール・ヴェキアリ"Un soupçon d’amour"Luis Lopez Carrasco"The Year of the Discovery"フレデリック・ワイズマン"City Hall"Claire Simon クレール・シモン"The Grocer's Son, the Mayor, the Village and the World"Paula Gaitán"Light in the Tropics"Alfonso Amador"Camagroga"Tizza CoviRainer Frimmel"Notes From the Underworld"などなど。しかし私の選んだ作品は胸を打つほど美しく、大胆で情熱的、そして雄弁なんです。これより研ぎ澄まされた偉大さを想像するのは難しいですね。この状況にも関わらず、映画それ自体、そして本当に重要な作品たちにとって良い年であったと。

「日子」(ツァイ・ミンリャン、2020)
"The Salt of Tears" (Philippe Garrel, 2020)
"First Cow" (Kelly Reichardt, 2020)
"Atarrabi & Mikelats" (Eugène Green, 2020)
"Blue Eyes and Colorful My Dress" (Polina Gumiela, 2020)
"Gorria" (Maddi Barber, 2020)
「リチャード・ジュエル」(クリント・イーストウッド、2020)
"Fauna" (Nicolás Pereda, 2020)
"Bloody Nose, Empty Pockets" (Turner Ross & Bill Ross IV, 2020)
"Cartas de una fanática de Whistler a un fanático de Conrad" (Claudia Carreño, 2020)
"All the Dead Ones" (Marco Dutra & Caetano Gotardo, 2020)+ "Sertânia" (Geraldo Sarno, 2020)
「仕事と日(塩尻たよこと塩谷の狭間で)」(C.W.ウィンター&アンダース・エドストローム、2020)

コロンビア映画
"Los conductos" (Camilo Restrepo, 2020)
"Como el cielo después de llover" (Mercedes Gaviria, 2020)
"Tantas almas" (Nicolás Rincón Guille, 2020)

これらはコロンビアにおける2020年のベストとは思っていません。しかしコロンビア映画がどこに位置するか、何が悪徳で何が美徳かを知っている水晶玉のように思えるんです。この3つの作品は私たちの映画的伝統から何かを生み出し、それを隠れたテーマとして翻訳しているんです。

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済藤鉄腸(日本、映画痴れ者・Z-SQUAD編集長)

1.「死ぬ間際」(ヒラル・バイダロフ、2020)
2.「劇場版仮面ライダーゼロワン REAL×TIME」(杉原輝昭、2020)
3. "Lemminge - Arkadien" / "Lemminge - Verletzungen" (Michael Haneke, 1979)
4. "Szörnyek évadja" (Jancsó Miklós, 1987)
5. "Iesirea trenulior din gară" (Radu Jude&Adrian Cioflâncă, 2020)
6. "Ofrenda" (Juan Mónaco Cagni, 2020)
7. "De l'or pour les chiens" (Anna Cazenave Cambet, 2020)
8. "Izaokas" (Jurgis Matulevičius, 2019)
9. "Alors voila" (Michel Piccoli, 1997)
10. "Kopfplatzen" (Savas Ceviz)

11.「スーパー戦隊MOVIEパーティー:劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO」(渡辺勝也&山口恭平、2020)
12. "18 kHz" (Farkhat Sharipov, 2020)
13. "Moj jutarnji smeh" (Marko Đorđević, 2020)
14.「迂闊な犯罪」(シャーラム・モクリ、2020)
15. "Būris" (Ansis Enpers, 1993)
16. "The Austrian Field" (Andrei Chernykh, 1991)
17. "Atração Satânica" (Fauzi Mansur, 1990)
18.「ホット・ロッド/0→400m 勝利への疾走」(ジョージ・アーミテイジ、1979)
19. "Lingua Franca" (Isabel Sandoval, 2019)
20. "Özgə vaxt" (Hüseyn Mehdiyev, 1996)

1. だが今作を観終わった後の私は、1896年にリュミエール兄弟「ラ・シオタ駅への列車の到着」を初めて観た観客と同じような心地にある。スクリーンから猛然と列車が迫ってくる。その見たことのない迫真性に恐れを成した観客は、部屋のなかを逃げ惑う。彼らはそこに他でもない自分たちの死を見たからだ。そして私もまた「死ぬ間際」という作品のなかに己の死を見た。今でも心の震えを抑えることができていない。「死ぬ間際」を以て本当の意味で、映画の2020年代は幕を開けた。今作は今後の10年間を規定する1作となるだろう。そして私は映画の未来はアゼルバイジャンにあるという確信に至った訳である。

2. この作品において"神は人間に生という試練を与えた"という命題が提示されることとなる。コロナウイルスによって世界中で人々が加速度的に亡くなっていく状況において、この命題は悍ましいリアリティを以て迫ってくる。しかし仮面ライダーゼロワンやバルカン、ヴァルキリー、そして滅や迅はそれと真正面から対峙する。私がそこに見るのは監督である杉原輝昭や脚本家の高橋悠也、そして大勢のスタッフたちが"今の時代に映画を作ること"や"今の時代にカメラを動かすこと"の意味と真正面から対峙する姿だ。弱さもある、甘さもある。しかし今作は暴力的逸脱をも越えて、世界を、人間を肯定する。今作は閉塞と絶望のこの時代に、私を生へと突き動かしてくれた熱き傑作だ。

3. ミヒャエル・ハネケほど絶望と虚無の裏返しとしての、悲壮で壮絶なる希望を語る芸術家は居ないと。彼の作品は命を容易く刈り取る暴風の中で震える小さな灯のような、生きる勇気を、人間を生へ突き動かすような勇気を私に与えてくれる。ハネケこそ無二たる希望の作家だ。

4. もはやここには内容だとか哲学だとか、そういったものは存在しない。ただただ死と生がハンガリーの無限に広がる荒野を躍動し、絶叫し、爆ぜるのみ。映画だとか芸術だとかそういった概念を超越した、正にヤンチョー・ミクローシュという唯一無二。何なんだこれは一体?

5. 1941年、ルーマニアの地方都市ヤシにおいてユダヤ人の大量虐殺が行われる。ナチスドイツに侵略されたルーマニアユダヤ人の大規模弾圧を開始する。6月29日、ユダヤ人たちは警察に拉致され、凄惨な拷問を受け、最悪の場合は射殺される。運良く生き延びたとしても、彼らは死の列車に載せられ、強制収容所へと送られていく。そして多くのユダヤ人は劣悪な環境の中での窒息や飢えによって死んでいった。この虐殺を被害者の写真と証言を基に再構成した本作では、10000人以上の死が淡々と読み上げられていく。その様はあまりにも悍ましい。ラドゥ・ジュデSHOAHに匹敵する人間の残虐性についての映画を作り上げた。間違いなくルーマニア映画史に残る1作だ。

6. 映画を観ている時、時おり映画にしかできないことはなんだろうと考えることがある。小説や演劇、絵画や彫像、芸術には様々な形態がありながらも、それを越えて映画にしかできないことは一体何かと。正直言って答えは簡単にでることはない。それでも、この映画がその答えだと言いたくなる作品が存在する。今作には言葉にし難い感情の数々が自然や人物の表情に浮かび上がりながらも、明確な形にされることはない。だからこそ切なさがこみ上げる瞬間というものがあるだろう。その瞬間がこの映画にはあまりにも多くある、そしてそれは映画にしか描けない魔術であるのだ。"Ofrenda"は映画にしかできないやり方でこそ、私たちの人生を祝福する。

7. アニエス・ヴァルダ「冬の旅」を彷彿とさせる、異性愛者である少女の痛ましい心の彷徨、そしてこの世で女性として生きることの苦痛から、少女2人の禁欲的で壮絶なクィア的絆を描く後半への移行はあまりに華麗だ。少女の性の目覚めを描きだす作品は欠伸が出るほどに多いが"De l'or pour les chiens"は他の映画が持つことのできなかったドラスティックさを持ちあわせている。肉体的なエロティシズムと精神的な官能性、ヘテロ的な愛のしがらみとクィア的な禁欲と峻厳の絆、1つの映画でこの極を行きかう様には脱帽という他ない。今作は間違いなく2020年最高のデビュー長編の1本だ。

8. このリトアニア映画は過去の罪を暴こうとする者、そして過去の罪を隠蔽しようとする者たちの静かな、しかし激烈なる闘争を描きだした作品だ。監督はこの闘争を誰もが出口へと辿りつけない迷宮的な悪夢として描きだしていく。その根本にあるものとはリトアニアの犯した罪への壮絶な反省と、そしてこの国に対する深淵さながらの絶望だろう。この国に希望はあるのか?と、そんな悲嘆がスクリーンからは聞こえてくるようだ。だが私が信じるのは、この自国の罪業をここまで痛烈に抉りだすJurgis Matulevičiusという若き才能が存在すること自体が、既に強靭な、峻厳なる希望であるということだ。

9. まるで家族映画という枠組みの中で作られたアール・ブリュット、もしくは殺人鬼がクレヨンで描いた家族の絵を目前とするようなこの畏怖。私たちとは明確に異なる論理が紡ぎだす、静かな支離滅裂さと日常に溶けこんだ禍々しい歪み。監督ミシェル・ピコリの圧倒的才に唖然。

10. ドイツに生きる1人の小児性愛者、彼はシングルマザーとその息子と出会い…小児性愛者の現実を壮絶なまでの内省、傷つけることを運命づけられた交流、医療的な対話を通じ描く今作は、心が震わされるほどに衝撃的で誠実な、絶望についての物語だ。そして常日頃"この世界に産まれてきたことの絶望"と"私が生きるということは誰かを傷つけることを運命づけられている、という絶望"について考えている自分としては、ここで描かれるものはあまりにも、あまりにも身に覚えがありすぎて、心を本当に震わされた。私は主人公マルクスが死ではなく、生きることでもって絶望の先に行くことを願っている。

11. 今、自己模倣を延々と繰り返してジョセフ・H・ルイスロバート・シオドマクら40年代50年代におけるハリウッドのB級映画職人たちの域まで辿りついたブライアン・デ・パルマ、今の日本で彼に対抗できる作品はあまりに少ない。だが私たちにはスーパー戦隊MOVIEパーティーがある。一切の淀みなき経済的語り、卓越した崇高な職人性、懐かしき2本立て興行という旧さ、それでいてテレビ放映など外部の作品を観なければ十全には映画を楽しみきれない、ある意味でMCUにも似た体験を重んじる物語構造。今作は旧世代と新世代のハリウッドの構造を内に搭載し、そういう意味ではアメリカ映画以上にアメリカ映画ながら、今作は紛れもなき日本映画として屹立する。日本の興行収入ランキングが話題になる時、間抜けな映画評論家や映画作家たちは"1本も観ていない(笑)"と無知を露呈する。悲惨だ。だが私たちは彼らの陳腐なニヒリズムに騙されることなく、誇りを以てスーパー戦隊MOVIEパーティーを観に行こう。そこに映画の未来があるのだから。

12. 淀んだ鬱屈を持てあまし、2人の青年は闇へ深く潜行する……徹底的に凍てついた眼差しから描かれるカザフスタンの青春はあまりの荒廃に、果てしなき焦土を目撃するよう。そして焦土は出口なき迷宮へと変貌し、始まりも終りも消失した虚無が全てを包む。"18 kHz"は映画史にも稀なるドス黒い虚無を我々に提示する壮絶なる1作だ。だが絶望の先にこそ新たなる希望は広がるのかもしれない。何故ならこの絶望を提示したFarkhat Sharipovという映画作家は、カザフスタン映画界の大いなる2020年代を牽引する1人だと運命づけられたからだ。

13. 今作は寒々しく荒涼たる筆致で、孤独な男の魂の行く末を追う。彼はこの負の感情をどう処理していいのか分からず、何か行動に移すことが全くできないでいる。それが人生の停滞を引き起こし、負の螺旋を描き出されていく。そうして男性の性的不満についての物語として展開していくと思えば、社会から無理解を被るアセクシャルの物語としても解釈できる複雑さをも宿している。世界と相いれない寂しさや悲哀は濃厚なまでに滲み出ている身体にとって、その解消の鍵はある女性との関係性でありながら、可能性は曖昧で複雑微妙な地点へと至ることとなる。こうして描かれる繊細なる心の機微が圧巻だ。

14. 今作は映画にまつわる映画だ。だが映画への愛を描いている訳ではない。私たちはこの作品を通じて、イランと映画の間に横たわる忌まわしき闇を直視させられることになる。まるで映画館にまつわるコロナ禍の絶望を更に炎上させるような凄まじい力を持ちあわせている。正直、この映画をどう解釈していいか今でも私は分からないでいる。そんな激しくも未分化な感情を観客に齎す作品が、この「迂闊な犯罪」だ。

15. まるで安部公房砂の女「けものたちは故郷をめざす」ラトビアの山奥で運命的再会を遂げたような、1人の男の実存主義的牢獄での壮絶なサバイバル。表現主義の幻惑へ潜行する末、終着点はツリー・オブ・ライフその圧倒的壮大さに畏怖を禁じ得ず。

16. 様々な愛が、様々な言語が、様々な残響が夕暮の地平線へと溶けていき、誰そ彼の世界が現れる。不退転の覚悟を以て無限の曖昧であろうと、黄昏色の亡霊であり続けようとするこの崇高さには網膜すらも蕩ける。何て、何て美しい途方もなさ。

17. ラジオDJが語る陰惨な物語、空想だったそれはやがて現実へ……殺人描写の真摯なまでに多様でグロテスクな構図が、空想と現実をめぐる多層の語りへブチ撒けられることで生まれる猥雑でグルーヴィーな世界観。ブラジル産ホラーの底力を見せつけられる1作、カッコ良すぎる。

18. 米ジャンル映画界の異端児ジョージ・アーミテイジによる傑作。自由なる魂を持つレーサー、彼は気ままに町を流離う。取り留めのない手つきで描かれる日常の寄せ集めが、在りし日のアメリカへの郷愁へ。何て優しく切なく多幸感溢れるアメリカ映画なのか。静かなる1作。

19. アメリカ人とフィリピン人、アジア人と白人、認められた移民と不法移民、アジア移民と東欧移民、トランス女性とシス男性。そんな複層的な関係性が現代のアメリカで紡がれることで辿りつく、希望とも絶望ともつかぬ場所。監督の視線は怜悧なれど何て、何て豊穣な物語なのか。

20. 半身不随の父の介護によって、愛も友情も何もかも失う女性の悲劇を描くアゼルバイジャン映画。濁りきったセピアの映像の凄み、部屋内で白蟻さながら蠢く鳩の群れの異様さ、そして鳩による悍ましい嬲り殺しからのカタルシス。これこそアゼリ映画史の至宝、私が求めていた1作だ。

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Szöllősi Anna セッレーシ・アンナ (ハンガリー、"Helfer"監督) (インタビュー記事)

1."Idiot‌ ‌Prayer:‌ ‌Nick‌ ‌Cave‌ ‌Alone‌ ‌at‌ ‌Alexandra‌ ‌Palace"‌ ‌‌(Nick‌ ‌Cave,‌ ‌2020)
彼が今年開くはずだったブダペストでのコンサートのチケットも買っていたんです。だからこのコンサート映画を観るととても感情的になってしまいました。‌ ‌

2.「ジョーカー」(トッド・フィリップス、‌‌2019‌)
おそらくこの映画について皆さんに説明する必要はないでしょう。重要なトピック、巧みに書かれた脚本を持つ素晴らしい映画で、ホアキン・フェニックスもまた輝いているんです。‌‌

3.「フリーソロ」‌(‌エリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィ, ジミー・チン‌2018)‌ ‌
登山家であるアレックス・オノルドがロープ無し、独りでエル・キャピタンを登る姿を衝撃的な撮影で以て描き出す美しいドキュメンタリーです。

4. "Where‌ ‌Does‌ ‌a‌ ‌Body‌ ‌End?"‌‌ ‌(Marco‌ ‌Porsia,‌ ‌2019)
スワンズというバンドのとても面白いドキュメンタリーです。彼らは私のお気に入りのバンドで少しバイアスがかかっていますが、それでもロックダウン前に映画館で観た最後の映画でもあったんです。
‌ ‌
5.「ハイ・フィデリティ」(スティーヴン・フリアーズ、‌2000)‌
ここでズルをしてしまいました、何でって今作はもう15年前に観てるんです。ロブというレコード・ショップの店長を描いた作品で、彼が5つの失恋を振り返っていくんです。ロックダウンの間、新しい趣味としてレコードを集め始めました。この映画は完璧には程遠い作品ですけど、私にとってはとても楽しめる1作ですね。登場人物たちの映画やレコード文化への興奮を観ているだけで楽しいんです。

2020年のハンガリー映画Szerelempatak‌ ‌‌(Sós‌ ‌Ágnes,‌ ‌2013)‌
トランシルヴァニアハンガリー人地区出身である老齢の男女が自身の若かった時代、愛、そして性的な生活について語る美しいドキュメンタリーです。とても思索を促してくれる作品で、美しい風景とともにヒューマニズムが溢れているんです。

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髙橋佑弥 (日本、映画文筆・批評)

今日の朝、慌ただしく準備を終え、昼に引っ越してきた新居で、夜に荷ほどきを済ませたあとに灯りを落としてこれを書いている。2020年は、COVID-19の蔓延で世間の様相が一変したが、結局のところ私的な個人生活という面において殆ど変化はなかった。3月末から6月の初めまで一度も映画館に足を運ばなかったことは、確かに例年と比べてきわめて異例ではあるものの、“自粛”などという大層なものではなく、単に上映が中止ないし延期になり、めぼしい作品が見当たらなかったからにすぎない。また数々の映画がインターネット上で配信されもしたが、結果的にさほど活用することもなく一年が終わることになった。この一年で確認できたのは、いかに多くの人々が“コミュニケーション”なるものを盲目的に信奉し、それに依存しているかという事実であり、同時に映画好きにとってそれは関係のないものであるということだ。つねに、見尽くすことなど到底不可能な映画が周りにはある。見ることに勝る優先事項など存在せず、見ることは、独りで出来る。

さて、以下に提示するのは、わたしが今年見た映画に関するふたつのベストリストである。まずひとつは〈初見劇場新作ベスト〉で、文字通り──こんな状況ではあるが──映画館という空間で初見を迎えた新作のみを対象とする。いうまでもなく、劇場で見た旧作も、自宅で見た初見の新作も、本邦において“新作”として封切られたが既に別の手段で見ていた作品も含めることはできない。そして、ふたつめが〈初見旧作ベスト〉で、呼称を便宜上 “旧作”としているが、“初見”である限りにおいて、〈初見劇場新作ベスト〉範囲外のすべての映画を対象としている。

ではまずひとつめから。

〈初見劇場新作ベスト10〉
1.『ブルータル・ジャスティス』(S・クレイグ・ザラー、2018年)
2.『ドミノ -復讐の咆哮-』(ブライアン・デ・パルマ、2019年)
3.『フォードvsフェラーリ』(ジェームズ・マンゴールド、2019年)
4.『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(グレタ・ガーウィグ、2019年)
5.『名もなき生涯』(テレンス・マリック、2019年)
6.『Mank/マンク』(デヴィッド・フィンチャー、2020年)
7.『空に聞く』(小森はるか、2018年)
8.『幸せへのまわり道』(マリエル・ヘラー、2019年)
9.『ウルフウォーカー』(トム・ムーア&ロス・スチュアート、2020年)
10.『死ぬ間際』(ヒラル・バイダロフ、2020年)

わたしは物忘れが激しいので、一週間前に見た映画であろうとも、ごく一部しか思い出せないことが珍しくない。ゆえに一年かけて見てきた作品群など、むろん思い出せるはずもない。沈殿した記憶を釣り上げる助けになるはずの覚書すらとっていないことも多く、忘却には拍車がかかるばかりである。しかし、それでもなお、ヴィンス・ヴォーン演じる停職を言い渡された刑事が上司の机上にぽーんと放り投げるバッジの放物線、作品全体の均衡を保とうとすらしないデ・パルマの貫徹された形式主義、職人監督の確かな力量に裏打ちされた近年稀に見る見事な“アメリカ映画”においてレース&テスト以外の走行場面が一度しかないという徹底された抑制の感動、海辺で朗読されるジョージ・エリオット「私は慣れ親しんだ世界の単調さを愛す」と恋のエチュードを彷彿とさせる書き手による画面に向けた手紙の読み上げ、細切れに刻まれ再度編まれる時間と美しいボイスオーヴァー、「何も成し遂げていない」男が無謀な破滅的蜂起を選びとる瞬間、陽光に照らされた手元と「ここしかない」という見事な幕切れ、セットの壁の影からパペットを操作する姿を盗み見る後ろめたい緊迫、駆け抜ける感覚を習得していく新鮮さ、90分に満たない上映時間にもかかわらず果てしなく膨張する体感とショットの始点と終点で決定的に変容する事態…はおぼろげに脳裏に残っている。その感動、印象深さを今更言語化することは望めないとしても、没入した瞬間瞬間として今後も忘れることはないはずだ。また、今年は短くない時間をテレンス・マリックの重要性について考えながら過ごした。現代においてマリックは揶揄や嘲笑の対象となりがちであるが、影響下にある後続監督の卓越が遡ってその才を証明しているように思える。

では、ふたつめ。

〈初見旧作ベスト20〉
1.『クリストファー・ウォーケンのアクターズ・ラブ』(ジョナサン・デミ、1982年)
2.『美味しんぼ』(森崎東、1996年)
3.『River of Grass』(ケリー・ライカート、1994年)
4.『野良犬』(森崎東、1973年)
5.『静かなる男』(ジョン・フォード、1952年)
6.『SELF AND OTHERS』(佐藤真、2000年)
7.『ゆがんだ月』(松尾昭典、1959年)
8.『ジャズ・シンガー』(リチャード・フライシャー、1980年)
9.『Outrage』(アイダ・ルピノ、1950年)
10.『SIGNAL7/真夜中の遭難信号』(ロブ・ニルソン、1985年)
11.『ゴダールの決別』(ジャン=リュック・ゴダール、1993年)
12.『ガラスの動物園』(ポール・ニューマン、1987年)
13.『君と別れて』(成瀬巳喜男、1933年)
14.『ザ・デッド』(ジョン・ヒューストン、1987年)
15.『拳銃王』(ヘンリー・キング、1950年)
16.『ドカベン』(鈴木則文、1977年)
17.『就職』(エルマンノ・オルミ、1961年)
18.『メイトワン1920』(ジョン・セイルズ、1987年)
19.『善良なる悪人』(アラン・ドワン、1916年)
20.『エージェント・マロリー』(スティーヴン・ソダーバーグ、2011年)

今年は、わたしにとって何よりまず森崎東を“発見”した年だといえる。森崎は今年7月に亡くなったが、計らずもその数ヶ月前にインターネットで見つけた『野良犬』スマートフォンの小さな画面で電車内で見ており、あまりの凄まじさに打ちのめされたのだった。忘れがたい衝撃を記憶に留めつつも、放ったらかしにしていたところ、年末に追悼特集上映があり、その多くの仕事に触れることができ、結果的に素晴らしい作品群の困惑してしまうほどの捉えどころのなさが、今年のすべての印象を塗り替えてしまったという次第。間違いなくすごいという確信があり、現に見ながら感動しているにも関わらず、どこがすごいのか皆目見当がつかず、断定することができない…それが森崎東の衝撃である。枠が足りずに場所を与えることができなかったが、そのほかにも『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』、『喜劇・女は男のふるさとヨ』、『喜劇・女売り出します』、『時代屋の女房』、『ペコロスの母に会いに行く』、『生まれ変わった為五郎』、『喜劇・女は度胸』、『喜劇・特出しヒモ天国』、『喜劇・女生きてます』、『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』、『夢見通りの人々』…見た作品は総じてどれも良かった(順はあまり考え過ぎず、今の気分で好きだった順に並べた)。個人的にはあまり好きになれなかった『ラブ・レター』、『ニワトリはハダシだ』、『黒木太郎の恋と冒険』でさえ、“必見”と断言できる。森崎のほかに、とくに書き残しておきたい事項はない。いずれも、これまで見ていなかったことを恥じるとともに、今年めぐり合うことができた幸運を喜ばしく感じている掛け値なしの傑作であり、少しでも多くの人が見てくれたなら嬉しい。

長々と文章を書き継いでいるうちに数日が経ち、日付を跨ぎ、つい先ほど2021年になってしまったので、そろそろ筆を置くことにしたい。こんな状況ではあるけれど、あいもかわらず映画を見ることは本当に楽しい。まだ何を見るかは決まっていないが、きっと今日も映画館に行くだろう。今年もたくさん映画が見たい。

2020年の日本映画:『空に聞く』(小森はるか、2018年)

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Kostis Theodosopoulos コスティス・テオドソポロス (ギリシャ、"Rouge"監督)

2020年のギリシャ映画:"Digger" (Georgis Grigorakis, 2020)

Top 5
「もう終わりにしよう。」(チャーリー・カウフマン、2020)
"Josep" (Aurel, 2020)
"Bloody Nose, Empty Pockets" (Bill Ross IV & Turner Ross, 2020)
"This Is Not a Burial, It's a Resurrection" (Lemohang Jeremiah Mosese, 2019)
"In a Whisper" (Patricia Pérez Fernández, Heidi Hassan, 2019)

鉄腸、君は素晴らしい仕事をしているよ! ぜひそれを続けてくれ、何故なら映画が再び勝つんだから!

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Viet Vu ヴィエト・ヴー (ベトナム/ベルギー、"An Act of Affection"監督)

1.「仕事と日(塩尻たよこと塩谷の谷間で)」(C.W.ウィンター&アンダース・エドストローム、2020)
この映画はベルリン国際映画祭のエンカウンターズ部門で観ました。小津、ブレッソン、そしてソープオペラの素晴らしい融合と言えるでしょう。

2.「ヴィタリナ」(ペドロ・コスタ、2019)
この映画はペドロ・コスタのキャリアにおける最高潮でしょう。アントニオ・レイス学校の生徒として、彼に"まず岩をただ岩として見ろ"と教えられました。しかしこの映画において私たちはフレームを越えた超越的な魂を眼前にするんです。

3. "Los conductos" (Camilo Restrepo, 2020)
今作もまたロベール・ブレッソンの魂の下に作られた1作であり、それがコロンビア映画魔術的リアリズムと組み合わさっています。2020年のベルリン国際映画祭で観ました。

4. "Two Years at Sea" (Ben Rivers, 2011)
喜びと幸せの聖歌です。ブダペストコロナウイルスが蔓延しているロックダウンの最中、この作品を観ました。物象と音の世界を通じて描き出される超越的な喜びは私の心に本当に深く寄り添ってくれました。 ベンの作品でお気に入りの"Things"と"Ah, Liberty"は音とイメージを越える旅路が極まったものなんです。

5.「トルパン」(セルゲイ・ドボルツェボイ、2008)
カザフスタンの過ぎ去った日々に対する郷愁、これを内面化した美しいロングテイクが大好きなんです。

6. "My Winnipeg" (Guy Maddin, 2006)
数多の詩的イメージ、カッティングの美しい様式。ガイが自身のドキュメンタリーを虚構化された思い出、夢、メロドラマの断片の集積へと変貌させるやり方が好きです。"物事を間違って思い出すことは実際に起こる事象よりも重要だ"とガイは言っていました。

7.「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(ジム・ジャームッシュ1984)
ロカルノのクラシック上映で今作を観ました。今作を紹介してくれたのは映画作家Marí Alessandriniの美しい言葉です。"霧のなかで進んでいくこのモノクロのロードムービーにおいて、ウィリーとエヴァ・エディは'アメリカン・ドリーム'というものの中に発見するべきものは何もない、そんな発見をするんです"

8.「悪夢の香り」(キドラット・タヒミック、1977)
今作は最もモダンな東南アジアの芸術家の1人による、脱植民地化にまつわる宝石のような作品です。

9.「トラス・オス・モンテス」(アントニオ・レイス&マルガリーダ・コルデイロ、1976)
ポルトガルの巨匠による最も美しいドキュフィクションの1本でしょう。この映画を観たのは私がポルトガルに住んでいた時と同時期なんですが、今作を通じてポルトガルの魂を体験することができました。2つのカットの間に存在する"遥か彼方"という概念は私を感動させてくれました。

10.「密告の砦」(ヤンチョー・ミクローシュ、1965)
長回しの巨匠による衝撃的なまでに最も美しい映画の1本です。"ヤンチョーの国"においては加害者しか存在せず、彼らの役割は常に変わっていくんです。彼からは美学的選択によっていかに政治的となるべきかを学びました。

    • -

お気に入りのベルギー映画"Hellhole"(2019)です。今作はヨーロッパの十字路としてのブリュッセルが現在いかなる様相を呈しているか、それをスタイリッシュな撮影と音響によって描く最新の、説得力ある作品の1本です。360度回転するトラッキング・ショットの数々は地下鉄駅の入り口やモダニズム的な家屋でクールに繰り広げられるんです。これらのショットは登場人物たちがその内側に住む、多言語的かつ極めて国際的な都市における疎外を内面化しているんです。

お気に入りのベトナム映画は"The Tree House"(2019)です。若いベトナム人映画作家Truong Minh Quyによる何度だって観たくなる作品でしたね。

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Varga Zoltán ヴァルガ・ゾルターン (ハンガリー、映画史家) (インタビュー記事)

「天国にちがいない」(エリア・スレイマン、2019)
今作はある旅路、そしてパレスチナ人監督エリア・スレイマン(彼は彼自身を"演じている"んです)が世界中の様々な場所を渡りながら紡いだ思索についての、ほとんどプロットの存在しない映画です。地政学的な問題に取り組みながらも、その実際の魅力は夢見心地な雰囲気にあります。登場人物としてのスレイマンバスター・キートンの親類に遠からずであり、監督としてのスレイマンは、観客が何を観たいのか、何に注目すればいいのか自分で探さざるを得ないほどのロングショットを使い、ジャック・タチモダニズムを再構築していくんです。20年前、ハンガリーにおける映画批評の第一人者であるBikácsy Gergelyオタール・イオセリアーニの今作に似た映画素敵な歌と船はゆくに関してこう書きました。イオセリアーニの映画を退屈に思う人々のことを理解できる、しかしイオセリアーニの静かな作品を観た後、やかましいスペクタクル的な映画を観たくなくなる人々のことはもっと理解できると。同じことを「天国にちがいない」にも言うことができるでしょう。

「ザ・ハント」(クレイグ・ゾベル、2020)
最初は人間狩り――「猟奇島」からの伝統ですね――というテーマのより暴力的な派生作品に見えましたが、だんだんと最低でも2つのサプライズが持つような政治風刺劇に変わっていくんです。それを語るのはネタバレでしょうが、このサプライズのおかげで今作は本当に印象深い作品となっています。そうでなくとも黒いユーモアが満載の端正なアクション・スリラーとしてもよく機能しているんです。

"The Lighthouse" (Robert Eggers, 2019)
ここにどれほど異なる着想源があるか考えると、今作は最近でも最も大胆な映画のように思い出されます。まるで「シャイニング」タル・ベーラ独自のスタイルと組み合わさったかのようです。さらにラブクラフト的なテーマ、神話的要素、そしてベケットを彷彿とさせる不条理劇のテイストも加わっています。そして表現主義映画とサイコ・スリラーの汎用的な慣例という意味で、ドッペルゲンガーというテーマに対するとても強烈な繋がりもあるんです。しかし最も驚くべきは、これらの着想源が多かれ少なかれ巧みにブレンドされていることです! ハムレットに登場するポロニウスの言葉が今作には当てはまるでしょう。"狂ってははいるものの、筋は通っている"と。白と黒の撮影も素晴らしく、2人の俳優――いつだって輝かしいウィレム・デフォーと近頃どんどん洗練されていくロバート・パティンソンです――は完璧、そして音響デザインは特に奇妙で、神経に障る魅力を誇っているんです。

"Themroc" (Claude Faraldo, 1973)
今作はゴダールの「ウィークエンド」のように黙示録的で、ブニュエルブルジョワジーの秘かな愉しみのように可笑しいほど不条理で、パゾリーニ「テオレマ」のように寓話的で、フェレーリの"Dillinger è morto"のように美味なほど雄弁でありながら、Claude Faraldoの最も異様な映画"Themroc"は有名なヨーロッパのモダニズム的芸術映画のどれにも属しません。この基本的に台詞がない映画において、ミシェル・ピコリが主人公を演じています。セムロクという工場労働者が新しい人生をスタートさせるにあたって自身の住処を破壊し、現代の穴居人となり、一種のコミューンを作り出すんです。最も素晴らしい――もしくは最もドス黒い類の不条理コメディです。

「キング・オブ・マーヴィン・ガーデン 儚き夢の果て」(ボブ・ラフェルソン、1972)
ハリウッドがいわゆるルネッサンスを迎えていた時代の忘れ去られた宝石の1つであり、監督とジャック・ニコルソンが共に作った1作「ファイブ・イージー・ピーセス」に比べると知名度は低いです。今作はそれぞれに負け犬として生きる2人の兄弟を描いています。1人は現実や自身の限界と向き合うことから目を逸らしている、そしてもう1人は自身の内的な世界に引きこもってしまっているんです。彼らの関係性は片方の妻とその継娘の存在によって複雑になっています。今作の驚くべき点は俳優たちが成したものであり、全員が素晴らしかったです。ジャック・ニコルソンは静かな男としてこれほど奥ゆかしく見えたことはないし、ブルース・ダーンは全くの逆で、荒々しく生命力に溢れた、エキセントリックな人物です(この性格は私たちがかつてニコルソンに見ていたものでしょう)エレン・バースティンエクソシストでのブレイク前でしたが、精神的に不安定な妻を彼らと同じ素晴らしさを以て演じていました。そしてもう1つの主要な財産としてその撮影が挙げられます。ハンガリー移民であるコヴァーチ・ラースロー/ラズロ・コヴァックス(その前にはイージーライダーを、その後にはゴーストバスターズを手掛けています)で、彼のディープフォーカスを多用した撮影やキアロスクーロ的な照明は映画において独自の生を生きており、打ち捨てられた場所の空虚さを強調しながら、それが登場人物たちの孤独と映像的に共鳴していくんです。

  1. 1:

2020年のハンガリー映画"Dűne" (Ulrich Gábor, 2020)
現代ハンガリー・アニメーション界における最も多作な作家Ulrich Gábor(彼はケチュケメートに住みながら仕事をしています)が作ったこの小さな宝石――音響デザイナーであるChris Allan Todの助けも借り――は既に数十のアニメーション映画祭で上映されています。今作は夢、もっと正確に言えば悪夢を基にした作品です。イメージや音は全く真逆の方向性に構築されています。私たちは白と黒の世界でゆっくりと動く百のガラスを目撃する一方、音はとても多様なノイズで満たされ、徐々に不穏なものとなっていくんです。そして何かが起こる……しかしネタバレはやめましょう。この作品は映画の効果というものはその長さに依らないことを示しています。今作はたった3分30秒しかありませんが、亡霊的な印象はそれよりもずっと長く続くんです。

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Veronika Zakonjšek ヴェロニカ・ザコニシェク (スロヴェニア映画批評家) (インタビュー記事)

1. "First Cow" (Kelly Reichardt, 2019)
これは友情への美しい頌歌でしょう。1820年代のオレゴンアメリカにおける初期資本主義と大陸横断的貿易の過酷な現実が、人々の人生の毛穴1つ1つにまで浸透し始めていた頃の話です。愛、忠誠、そして社会的不平等によって既に分断された世界で存在を追求する苦闘についての話でもありますが、西部劇でもあり、団結とアメリカ人開拓者たちの野蛮さへの問いも描いています。

2.「突撃」(スタンリー・キューブリック、1957)
夏における健康上のちょっとした制限からの短い休息の間、私はスロヴェニアシネマテークでこの反戦映画の傑作を観る特権を得ました。今私の国では強烈な軍事的渇望を持つファシズム政権が台頭を始めており、そんな状況が続くパンデミックの最中、マスクを顔に着け観客と安全な距離を保ちながら今作を観るのは今年最も力強い映画体験となりました。

3.「ヴィタリナ」(ペドロ・コスタ、2019)
持たざる者にまつわるコスタの映画はいつだって、それ自身1つの世界であるんです。そしてポルトガルの首都に位置する貧困地区フォンタイーニャスが解体されてしばらく経ちますが、カーボヴェルデというポルトガルの旧植民地からリスボンへやってきた移民の魂たちをコスタは描き続けています。「ヴィタリナ」は信仰、悲しみ、静かな苦痛、叶わない夢、そして大胆な反抗心にまつわる映画なんです。

4. "Never Rarely Sometimes Always" (Eliza Hittman, 2020)
この女性たちの友情を描く青春映画は、社会が私たちの身体をコントロールできないようにする時に行うだろう秘密の旅路を描いています。そしてこの映画は少女の痛み、語られない重荷と孤独を描いてもいるんです。

5. "This Is Not a Burial, It's a Resurrection" (Lemohang Jeremiah Mosese, 2019)
南アフリカの一国レソトから現れた夢見心地の、神話的な前衛映画であり、土着的な自然主義と民族の祖先が都市化と自然資源の搾取と激突している大地における、経済的・精神的関心を精緻に綴っています。大地に広がる瞬間瞬間を流れていくシンボリズムと胸を打つビジュアル、そこから魔術的リアリズムの領域への滑らかな移ろいなどに満ちた詩的物語としても面白いです。

6. "The Fever" (Maya Da-Rin, 2019)
ブラジルの先住民たち、そして都市近隣に住むため所有する熱帯雨林を捨てざるを得なくなった彼らの膨らみゆく内面的闘争を描いた、多層的で悲壮な作品です。さらに現代的文明化から隔たった純粋なる場所への憧憬を描いてもいます。

7. "A Yellow Animal" (Felipe Bragança, 2020)
今作は植民の歴史、モラルの流動性、民族紛争、多幸的な無関心、そして人類存在が持つ底なしの強欲を通じてアイデンティティを探求する、大陸を跨ぐオデッセイなんです。ブラジルからモザンビークポルトガル、そしてブラジルへと戻っていく旅路を綴るにあたり、この映画は喜劇と魔術的リアリズムを軽快にミックスしています。それでいてブラジルに戻ってきた時、この国はボルソナーロが支配する、深刻なまでに異なった国へと変わっているんです。

8. "The Assistant (Kitty Green, 2019)
1人の若いアシスタントが単調な仕事をこなしていくある1日がこの映画では描かれます。しかしフレーム外には何かより暗いものが常に這いずっているんです。仕事場におけるハラスメントや虐待が謎めいた、不可視の存在感を持っている訳です。そして今作は沈黙、共犯性、誠実さか仕事かという倫理的ジレンマについての映画でもあります。

9. "Exile" (Visar Morina, 2020)
人種差別と"他者性"への不寛容が喚起する、西側諸国の日常に根づいたマイクロアグレッションを描きだす、不安に満ちたスリラー作品です。しかしこのVisar Morinaによる作品における反逆というのは、ドイツの郊外に住むコソボ生まれの移民を彼自身の不安定さ、そして社会が押しつける偏見の被害者として描いている部分です。彼の被害者性と自家撞着のパラノイア、内在した外国人差別自己憐憫というポイントにおいて、全てのラインが曖昧になっていくんです。

10. "Vesna Goodbye" (Sara Kern, 2020)
スロヴェニア映画にとって2020年は痛ましい年でした。現在繰り広げられる文化的政治という意味でも、パンデミックの間に本当に少しだけしか映画が公開されなかったという意味でもです。その中でも稀な形で傑出した1作がSara Kernの短編作品"Vesna Goodbye"です。今作はスロヴェニア人のKernが現在住んでいるオーストラリアで撮影された作品です。十代である2人の姉妹は自分たちの世界が崩れ去る様を突然目撃し、互いが何を経験しているか理解できずコミュニケーションもできなくなった姿が描かれています。時々自分たちに最も近いものが最も大きな謎になり得る、そんな光景を力強く描きだしています。

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Donart Zymberi ドナルト・ジンベリ (コソボ、"Bzzz"監督) (インタビュー記事)

まず今年は167本の映画を観ました。その幾つかは傑作で、その幾つかは良い映画で、その幾つかは平均的、その幾つかは酷いです。私にとって2020年は特別な年で、それは自分で短編映画を製作し始めたからです。このリストから分かることの1つは、2020年に公開された作品の多くが入っていないことです。主な理由としては、パンデミックのせいで他の年のように映画を観れなかったことが挙げられます。新作のために映画館へ行くのは好きなんですが、今年はクリストファー・ノーラン「TENET テネット」と他の数本以外は映画館に行くことができませんでした。

魂のジュリエッタ」(フェデリコ・フェリーニ、1965)
「白夜」(ロベール・ブレッソン、1971)
愛のコリーダ」(大島渚、1976)
コヤニスカッツィ」(ゴッドフリー・レッジョ、1982)
ブラッド・シンプル」(コーエン兄弟、1982)
エレメント・オブ・クライム」(ラース・フォン・トリアー1984)
「恐怖分子」(エドワード・ヤン、1986)
「ア・ゴースト・ストーリー」(デヴィッド・ロウリー、2017)
「TENET テネット」(クリストファー・ノーラン、2020)
"Exile" (Visar Morina, 2020)

コソボ映画のお気に入りはVisar Morina"Exile"ですね。サラエボ映画祭で作品賞を獲得し、アカデミー賞におけるコソボ代表にも選ばれました。それから期待しているコソボ映画は、2021年のサンダンス映画祭に選出されたBlerta Basholli"Hive"ですね。まあ今作は来年と来年のリストのためにとっておきましょう。

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Șamil Əliyev&"Etiraf"/アゼルバイジャン、狭間の歴史

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アザド(Elşən Rüstəmov エルシャン・リュスタモフ)は彼の所属していたギャング集団と友人に裏切られ、無実の罪で刑務所へと収監されることになった。数年の後、彼は釈放されながらも怒りが収まることはない。アザドは復讐を果たすために、バクーという都市を彷徨い始める。

粗筋から伺える通り"Etiraf"("告白", 1992)はギャング映画・犯罪映画という体裁を持っている。だがその観点から観てしまうと満足度はかなり低くなるだろう。監督であるŞamil Əliyev シャミル・アリイェフの演出は独特の間を伴っており、ある種の弛緩をここからは感じることになる。故に例えば暴力シーンや銃撃シーンには緊張感が微塵も存在せず、何とも味気ない雰囲気だけがそこには存在している。

だからこそそこは主眼ではないと考えるべきだろう。なら見据えるべきはどこか。1992年は、ソ連の崩壊によってアゼルバイジャンが独立を果たした翌年であり、その不安定さが今作には直截に反映されている。アザドは今まで監獄に入っていたので、ソ連の植民地であった時代しか知ることがない。その状態で彼は突然独立したアゼルバイジャンへと投げだされたのである。前の社会にも受け入れられることはなかったが、その境遇によって新たな社会でも彼は除け者としての人生を運命づけられてしまった。つまり彼は植民地としてのアゼルバイジャンと独立国としてのアゼルバイジャン、その狭間に居る存在なのだ。

彼はまず身体をバクーという都市に彷徨わせながら、心をも彷徨わせることになる。彼の恋人であるヌリッヤ(Nara Nağıyeva ナラ・ナグイェヴァ)と、そしてAxund アフンドと呼ばれるイスラム教の宗教指導者であるアリ(Süleyman Ələsgərov シュレイマン・アラスガロフ)との会話に彼の心の彷徨が象徴されるが、前者が主人公の独善性や都合の良い存在としてのヌリッヤの性格が際立つ意味で、今作ひいてはアゼルバイジャン映画における女性表象の貧相さが反映されている一方で、後者は興味深い。アゼリー人の大部分はイスラム教徒であるが完全に世俗化されており、信仰はかなり緩やかで自由なものだ。それでもこの宗教はアゼリー人の精神の大きな影響を与えていること自体をアリとの対話は象徴しているのだ。部屋の隅に座しながらこれを頼りに、アザドは自身の人生と移ろいゆくアゼルバイジャンへの思索を深めていくのである。

Rövşən Quliyev レヴシャン・ギリイェフによる撮影は硬質な感触を伴ったものであり、彼は過渡期にあるバクーという都市の風景を一種の凍てつきとともに捉えていくのだ。そして硬質さは宗教的対話のなかで崇高さを湛え始めるのである。が先述したような監督の演出の緩みや鷹揚さもあって、彼の撮影が暴力を捉える時は奇妙な迫力のなさが付きまとう。これを瑕疵と取るか、作品の精神性に寄与する重要さと取るかは観客次第である。

そして今作の核となるのはアザドを演じるElşən Rüstəmovの存在だ。当時は21歳でありこれが初出演かつ初主演作だったが、確かに一種の蒼い幼さを纏いながらも、同時にどこか浮世離れた雰囲気をも纏っていることに観客は気づくだろう。これはそのまま2つのアゼルバイジャンの狭間で彷徨うアザドの居場所のなさ、その人生のままならさを体現しているのだ。これ以後、彼は舞台俳優としても活躍を見せ、映画俳優としても"Özgə vaxt"("もう1つの時", 1996)や"Nə gözəldir bu dünya..."("何て美しいこの世界", 1999)などに出演後しばらく舞台に専念するが、2004年頃から再び映画界に復帰し多数の作品に出演を果たした。であるからして、この"Etiraf"アゼルバイジャンの歴史の狭間を描きだすとともに、1人の迷える若者に未来を齎したとも言える。そしてそれがひいては2020年代におけるアゼルバイジャン映画の躍動を用意した、かもしれない。

最後に監督Şamil Əliyevについて記していこう。1960年に生まれた彼は映画を学んだ後、1990年から映画界で活動を始める。80年代から90年代のアゼリー映画界を代表する人物Hüseyn Mehdiyev ヒュセイン・メフディイェフ"Şahid qız"("目撃者の女", 1990)や、Əliyevより年下ながら先に監督デビューを果たしていたCəmil Quliyev ジャミル・グリイェフ"Şirbalanın məhəbbəti"("シルバラの愛", 1991)の助監督経験を経て、1992年制作の"Etiaf"で監督デビューを遂げた。だがこの後はテレビ局で短編ドキュメンタリーを製作するなど、監督長編はかなり少ない。そんな中で2012年に監督した長編作品"Çölçü"チェルチュという青年の愛をめぐるお伽噺的な1作だったが、今作は2014年のオスカー国際作品賞のアゼルバイジャン代表にも選出され話題となった。まだまだ今後が期待される中堅作家である。

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Həsən Əbluc&"Pəncərə"/アゼルバイジャン、絶望の内の子供たち

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主人公のアフサン(İlham Babayev イルハン・ババイェフ)は父親(Valeh Kərimov ヴァレフ・カリモフ)によって"孤児院"と綽名される寄宿舎学校へと入れられることになる。だがここは暴力と悪徳が支配する無法地帯であり、臆病な彼はただただ脅威を耐え忍ぶしかなかった。この極限状態のなかで彼の精神は変容を遂げていく。

"Pəncərə"("窓", 1991)において描かれるのは当時のアゼルバイジャンにおける教育システムの腐敗だ。無法地帯である学校では子供たちの心は荒廃していき、残酷な行為の数々がいとも容易く行われる。だがそれ以上に酷なのは強権的な教師たちの存在だ。彼らは子供たちを度を越えて厳しく律していき、子供たちはそれに反抗することによって状況は悪化の一途を辿ることとなるのだ。

その最中には生徒たちそれぞれの背景も描かれていく。ある者は"孤児院"から逃げ出したいと願い、重く閉ざされた扉を叩き続ける。ある者は故郷への恋しさに震えながら、枕を涙で染めていく。そしてある者は隣接する女子寮の少女に恋をして、愛を育んでいくのだ。こういった思春期の多様な風景が繰り広げられながらも、全体としての印象はとても荒涼としたものだ。少年たちは否応なく暴力と苦痛に蝕まれていき、自身も悪徳に手を染めるのだ。そして教師たちもまた確かに自身の理想を持っている。だがその理想こそが子供たちへの抑圧に繋がるという悪循環がここには広がっているのである。

監督であるHəsən Əbluc ハサン・アブルジュƏnvər Əbluc アンヴァル・アブルジュ(劇中では寮長役も兼任)の演出は、ブレッソンを目指すとでもいう風な厳粛さに満ち溢れている。当然その領域には至らないが核に粛たる規律が刻まれているかのようなリズムや空気感は悪くない、そう大きくはないアゼリー映画界でこれは野心的だと称えたくなる程だ。

そしてこの森厳なる雰囲気はElxan Əliyev エルハン・アリイェフの冷徹な撮影によって増幅していく。そのレンズと被写体の距離感はどこか凍えた緊張を湛えており、時おり不用意な肉薄を遂げる瞬間はあれども一線を越えることはないままに、凍てを持続していくのである。そのなかでMobil Babayev モビル・ババイェフの劇伴は少々騒々しく、これでは監督たちのブレッソンへの野心も形無しだ。

この"孤児院"に生きる子供たちは無法と暴力に埋没していき自身を残虐へと変貌させるか、それとも彼らに虐げられる敗者になるかしか道はない。監督たちがこの状況を丹念に描きだしていくなかで、その最も大きな被害者となるのがアフサンだった。様々な事件の勃発によって神経を擦り減らしていった彼の精神は平衡を失い、最後には窓から飛び降り自殺を遂げる(題名の"Pəncərə"はこの"窓"を意味する訳である)

ソ連属国末期のアゼルバイジャン映画は暗い作風の作品が多い。例えば1987年制作のHüseyn Mehdiyev ヒュセイン・メフディイェフ監督作"Süd dişinin ağrısı"(レビューをどうぞ)は出産時に亡くなった母を想いながら、その罪の意識と彼女を忘れていく家族への怒りから、1人の少年がショットガンで自殺するまでを描いた反出生主義の傑作であり、主人公が自殺するという点で凄まじい絶望を共有している。そして今作が制作された1991年、アゼルバイジャンは念願の独立を果たしながら、ナゴルノ・カラバフ紛争の激化とそれに伴う情勢や経済の悪化によっていっそうの闇の時代を迎えることとなる。この安定はHeydər Əliyev ヘイダル・アリイェフが第3代大統領就任を果たす1993年を待たなくてはならない。安定を引き換えにアゼルバイジャンは世界でも随一の縁故主義と腐敗政治を得ることになるが……

最後に監督であるHəsən ƏblucƏnvər Əblucについて記していこう。Həsənは1942年、Ənvərは1947年生まれであり、両親はイラン北西部のアーザルバーイジャン出身のアゼリー人だが政治犯として追われ、アゼルバイジャンへ流れ着いた。Həsənは演技を学んだ後に映画や舞台で俳優として活躍する一方、Ənvər はアゼルバイジャンソ連双方で監督業について学び映画監督としてキャリアを積んでいくことになる。そんな彼らが数少ない共同監督として一緒に手掛けた作品がこの"Pəncərə"という訳である。だがHəsənはこの3年後に51歳の若さで亡くなることとなる。それでもƏnvərは映画作家として"Ağ atlı oğlan"("白馬に乗った少年", 1995)や"Tərsinə çevrilən dünya"("裏返った世界", 2011)などを製作、アゼリー映画界の巨匠の1人としてキャリアを確立した。

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