鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Florin Șerban&“Nu e locul tău aici”/ルーマニア、ここはお前の居場所じゃない

先日、スイスでロカルノ国際映画祭が開催された。去年は三宅唱「旅と日々」がコンペ部門で最高賞を獲得したわけだが、今年の最高賞受賞ルーマニアのFlorin Șerban フロリン・シェルバン監督作“Nu e locul tău aici”(意味は“ここは君の居るべき場所ではない”)だった。日本でも「俺の笛を聞け」が上映されている監督だが、カンヌでクリスティアン・ムンジウが“Fjord”でパルムドールを獲得したのに続き、ロカルノでも最高賞とはやはりルーマニア映画は最高だろと言わざるを得ない。ということで今回はそんなロカルノ最高賞獲得作である“Nu e locul tău aici”を早速紹介していきたいと思う。

今作の主人公はマリユス(Adrian Văncică)という中年男性だ。彼は故郷であるレシツァという故郷の町にある病院で、外科医かつ医療の最高責任者として勤勉に仕事に励む日々を送っていた。一方、最愛の妻を事故で失った後にマリユスは男手一つで十代の息子ヨアン(Teodor Butănescu)を育てているのだが、仕事が忙しく彼をあまり気遣うことができていなかった。

まず監督はそんなマリユスの日常を描きだしていく。手術を行う、入院中の患者に問診を行う、同僚と話し合いをする。そういった仕事場での風景にはプロとしての意識が強く伺える。一方で家庭生活は杜撰なものだ。リビングで夕食を食べるが、電球が切れながら特に動じもせずに暗がりで食事を続ける。その姿を見掛けたヨアンに引かれながら、どうでもいいとばかり彼にも暗いリビングで食事をさせる。そこには冷ややかさと無関心に満ちた生活、何より父子関係が象徴されている。

ここで際立つのは、現代ルーマニア映画にとっての十八番とも言うべきかもしれない極度の長回しである。撮影監督であるLiviu Mărghidanはほとんどの場合被写体からは距離を取り、最低5分は一切カットがかからないまま、目の前を監視カメラ的に映しとっていく。移り変わる時間のありのままが剥き出しで提示されることで、観客はその時空間に満ち満ちる空気感とそれがいかに変貌を遂げていくかをまざまざと味わわされるのだ。

そんな中、町で殺人事件が発生する。町で屯するファシストのバイカー集団がロマの男性を殺害したのだ。彼の死体が病院に運びこまれたことでマリユスは事件について知り騒動に巻き込まれることとなるのだが、その裏側で実は事件にヨアンが関わっていることが少しずつ明らかになっていく。

そして先述した濃密な長回しによって事件の渦中に置かれた両者の動向が描かれていく。被害者の遺体をめぐって事件の当事者ゆえ解剖が行われるべきとの病院や警察側と、解剖なしに遺体を引き渡してほしいとの家族側の間でマリユスは苦しまざるを得ない。そしてヨアンは事件で負った怪我を秘密裏に処置し、さらに証拠も隠滅するため奔走するが、十代ゆえの幼さで計画は見る間に破綻していく。これらの光景が交互に、相当な時間と徹底したリアリズムを以て描かれるがゆえ、途轍もない緊張感が今作には宿るわけだ。

こうして禁欲的なまでに長回しを続けるからこそ、ある場面で対峙する二者の顔がアップになった上でカットが激しく切り替わる様は印象的だ。この切り返し自体むしろ映画でよく見掛ける技法であるのに、そんな技法が弩迫の圧を以て新鮮に映る。監督とMărghidanはこうして長回しを核として様々な技法を自在に駆使するのである。

今作は技法だけでなく、テーマに関してもルーマニア映画の王道を行く。ここで描かれるのは公の倫理と私的な倫理が衝突する悲痛な光景である。マリユスは善き人でありたいと願っており、より多くの人に先端医療を広め救うために都市部の病院でなく、地方にある故郷の病院に勤務しているという事情がある。だがその崇高な信念は医療腐敗と、凝り固まった官僚主義の中で磨り減っていき、彼は疲弊していくわけだ。

さらにその疲弊は、マリユスの魂をも歪ませていっている。彼の仕事にはプロ意識が確かに見え隠れするが、同僚や患者たちにはどこか冷淡でその信念に根付いているはずの人間性は伺えない。さらに家庭生活も幸福には程遠い状況に陥っているわけだが、マリユスはある人物にこう言い放つのだ。息子を見ると失敗という言葉が思い浮かぶよ、と。医師としても父としても、彼自身が“失敗”していく様を、私たちは一切の容赦なしに見せつけられるのである。

加えてこの事件の背景にはヨーロッパ、特にルーマニアでは顕著な問題が横たわっており、それがロマ差別である。遊牧民というルーツを持ち、現在は東欧を中心として世界に散らばる少数民族がロマであるが、ルーマニアは特にその数が多く彼らに対する差別は激しいものだ。今作でも殺人事件であるのに、殺されたのがロマゆえにその遺体が無惨な扱いを受け、家族に寄り添おうするマリユスですらロマに対する差別用語である“țigan”という言葉(日本でも“ジプシー”という言葉を使わないようにしようと言われるが、この言葉より差別の度合いは大きく感じる)を使い続けるなど、その差別意識は根深い。こうして監督は公私における価値観の衝突、親子関係など普遍的な要素と、ロマ差別といったルーマニア特有の要素であったりと、多方面から倫理的問いを提示していくのだ。

だが何よりも今作の核となる存在はマリユスを演じる主演のAdrian Văncicăに他ならないだろう。善性と悪性の狭間で苦しむ父親を、彼は静かに力強く体現しており、その姿からは目が離せなくなる。Văncicăは本国では“Las fierbinți”という長寿コメディドラマで有名であり、Facebook上で私が“来年のゴーポ賞(ルーマニアのアカデミー賞的存在)ではVăncicăと“Fjord”セバスチャン・スタンで主演俳優賞を争うだろうな”と書いたら結構笑われた。そんな存在だがここではコメディ的存在感は完全に封印しているのが相当に印象的だった。

そしてこの末に起こる悲劇の数々に、マリユスは値するような人間になっていたかもしれない。しかしそうだったとしても、絶望に打ちひしがれた果ての彼の叫びはあまりに悲痛で、聞きながら私は涙を堪えることができなかった。ロカルノを制覇したこの“Nu e locul tău aici”という1作は何て、何て力強く残酷な映画なのだろうか。

Elham Ehsas&“Hershewe fazanawerd”/アフガニスタンから、遠く離れて

1988年8月29日、ソ連は再びの宇宙飛行を実施、有人宇宙船ソユーズTM-6は宇宙ステーション・ミールへと向かう。クルーの中にはロシア人はもちろんのこと、アフガニスタン人飛行士アブドゥル・アハド・モーマンド(パシュトー語表記:عبدالاحد مومند)もいた。アフガニスタン最初かつ現時点では唯一の宇宙飛行士である彼の知名度は、しかし驚くほど少ない。今回はそんな彼を題材としたアフガニスタン期待の新鋭Elham Ehsasによる短編ドキュメンタリー“Hershewe fazanawerd”(英題:“Forgotten Spaceman 忘れられた宇宙飛行士”)を紹介していこう。

まずはモーマンドのプロフィールについて紹介していこう。1959年1月1日、アフガン南東部のガズニー州に生を受ける。カブール工業大学では工学を学び、1978年に軍に召集された後は、ソ連の航空学校に留学していた。帰国後はアフガニスタン空軍に勤務する中で、1987年11月、ソビエト・アフガン共同の宇宙飛行計画におけるの宇宙飛行士候補者に選抜される。そして翌年の1988年8月29日、ソユーズTM-6の乗組員となり、アフガニスタン初の宇宙飛行士となったのである。

今作はそんなモーマンドの宇宙飛行前後を描きだすドキュメンタリーなのであるが、通り一遍の人物紹介ドキュではない。語り手となるのは彼についてのニュースを子供の頃に見ていたEhsas監督自身となっており、彼の言葉を通じて観客はモーマンドの姿と当時のアフガニスタンを知ることになる。

モーマンド自身の経歴やその偉業は華々しいものだったが、当時のアフガニスタンは平和には程遠い状況だった。1978年にアフガニスタン人民民主党政府に対する武装蜂起が勃発、さらに翌年にはソ連が軍人介入を開始、反政府ゲリラであるムジャーヒディーンは政府軍とソ連軍双方に反旗を翻し、紛争は混迷を極めていた。監督は正にこういった紛争下で子供時代を過ごした人物であり、今に残されたフッテージ映像からもその壮絶さが見て取れるだろう。

そしてモーマンドが宇宙飛行を果たした1988年もまた紛争の最中であった。1985年に成立したゴルバチョフ政権は外交政策を軟化、ソ連軍は徐々に撤退を開始していたが、未だ緊張が続く状況がそこにはあった。そして1988年9月7日にモーマンドは地球へと帰還、ソ連邦英雄の称号とレーニン勲章が授与されることとなる。だがこの状況においてモーマンドは監督含め国民にとっての希望や国の英雄というよりも、アフガニスタンがソ連の従属国であることの象徴として映ったわけである。

この1年後にソ連軍はアフガニスタンから完全撤退を果たすが、それは紛争の終わりを意味しなかった。ソ連軍撤退後の国内支配をめぐって、各部族同士で内戦が激化することになってしまったのだ。モーマンドは帰還後、民間航空次官としてアフガン宇宙研究所で働いたが、ターリバーンがアフガニスタンの権力を掌握したことを受けて、ドイツへ亡命せざるを得なくなる。

今作はこうしてモーマンドの姿、アフガニスタンの現代史を描きだすわけだが、監督の個人的な想いの数々がそれらを他にはない形で纏めあげていく。
さらに主人公の家族も内戦を逃れるためにイギリスに亡命、ジャーナリストだった父は工場労働者となるなど苦境に陥ることとなる。そんな状況で監督が初めて覚えた英語の単語は“refuge 難民”だったのだという。

これらが語られる際、画面には写真や映像が映るのだが、そこかしこでマウスのカーソルが映りこんでくる。おそらく監督が見ているパソコンの液晶がそのまま提示されているからだろう。それを見ながら監督が過去を振り返っていく、その様を観客は追体験していくのである。ゆえの心を打つ懐かしさと切なさとが、この“Hershewe fazanawerd”には宿るのである。

Abdulkadir Ahmed Said&“Geedka nolosha”/ソマリア、踏みにじられる命たち

さて、ソマリアである。エチオピア、ケニア、ジブチと国境を接し、インド洋とアデン湾に面している東アフリカの一国であり、アフリカの角と呼ばれる地域に位置している。1960年独立を果たしながらもクーデターや長年の独裁、さらに1991年からは内戦状態が続き、武装勢力によるテロや部族間の対立が深刻化、それにより今も多くの人々が紛争と貧困に苦しむ状況が広がっている。

この状況がゆえに映画産業はあまり発達しておらず、ソマリアで映画といえば「キャプテン・フィリップス」「ブラックホーク・ダウン」といったハリウッド映画における舞台として覚えられているくらいだろう。ソマリア映画やソマリア人監督についての情報は、少なくとも日本ではほとんどない。ということで今回紹介したいのは、そんなソマリアで映画制作を行ってきた数少ない1人である映画監督Abdulkadir Ahmed Saidと彼の作品群について紹介していきたい。

Abdulkadir Ahmed Saidは1953年、ソマリアの首都モガディシュで生まれた。1970年にソマリア映画公社(Somali Film Agency)に入社したのをきっかけに国際関係担当の写真家、そして他国との共同制作におけるコンサルタントとして活動を開始する。1984年から1986年にかけてはソマリアのテレビ局で番組編成長を務め、数々の教育番組の脚本や監督を手掛けたという。

そして彼はイタリアとソ連で映画制作について学んだ後に映画界へ進出、幾つかの作品で助監督を務めることとなる。例えば1983年制作の“The Somali Dervish”は当時宗主国だったイギリスに反旗を翻し、ダラーウィーシュ国という独立国家を作りあげた革命家サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンを描いた4時間半にも渡る伝記映画となっている。そして1984年制作の短編ドキュメンタリー“The Parching Winds of Somalia”はアフリカ史の研究者Charles Geshekterが監督した、ソマリアのノマド民族の生活を描きだした作品だった。そして満を持してSaidは自身の作品を監督するのだが、それが今回紹介する1988年制作の“Geedka nolosha”と1992年の“Aleela”となっている。

“Geedka nolosha”の主人公となるのはノマドとして生きる木こりである。そんな彼の流浪の民としての生を、まず監督は描きだす。彼はソマリア中を練り歩きながら木を伐採、木材を売って生計を立てるという生活を送っていた。どこかに定住することは一切なく、木材に適した木が見つかるまではただただ歩き続ける。ほとんど人付き合いもなく人々と喋ることすら稀ゆえに、その旅路はまったき孤独なものだ。

そんな木こりの道行きでは1988年当時に広がっていたのだろうソマリアの日常風景が浮かんでは消えていく。人々は伝統的な暮らしを続けており、そんな彼らを豊かな自然、それから数多くの野生動物たちが取り囲んでいる。実際に監督の撮影したのだろう風景とフッテージ映像が混在しながら、

ある時、木こり森に辿りつくのだったがそこで1本の逞しい木を発見する。ここぞとばかりに彼は斧を取り出して伐採を始めるのだったが、ここから暗雲が立ちこめていく。彼が斧を幹に打ちこむたびに、木肌の抉れる音が不穏に響きわたり、先の道行きで出会った人々や動物たちの耳にまで届く。実はこの木は“Geedka nolosha”という、ソマリ語で“生命の樹”と呼ばれる聖なる樹だったのだ……

ここからは編集の妙というべきものが観客を物語世界に引きこむ。前半は木こりが歩いているそのリズムを軸として、物語は心地よくゆったりとしたテンポで以て語られていた。だが後半からは一転、その心地よいテンポは勢いよく斧を振り下ろすその伐採のそれに取って代わられ、激しい運動をして心臓がドクンドクンと早鐘をつくあの早さにまで高められていくのだ。

その編集が予告する不穏さが結実するかのごとく、生命の樹を伐採してしまった木こりは罰として超常的な力によって砂以外は何も存在しない砂漠へと送られてしまう。どこまでも続く砂漠を彷徨い、渇きに苦しみながら自分の愚かさを嘆く……観客はそんな木こりの苦悶を神話をも彷彿とさせる荒涼たる詩情とともに網膜へと叩きつけられるのだ。ソマリアでは実際に環境破壊を通じて利益を得る自体が横行し、それにソマリアの人々自身も加担していたのだろう。そこへの批判意識が今作には満ち満ちているのだ。

そしてこの問題意識は次回作である“Aleela”にも継承されることとなる。冒頭、ある画家が海岸で絵を描いていた時、1つの美しい貝を見つける。戯れにそれに耳を向けるのだったが、突然そこから子供の声が響いてきて度肝を抜かれることになる。しかし画家が耳を傾けると、その声が昔話を語り始める。昔、ここには人がいっぱい住んでる村があったの……

今作の序盤は“Geedka nolosha”と同じくドキュメンタリー的に日常の風景を活写していく。子供たちは学校で学び、女たちは家事をしながらお喋りをし、そして男たちは船を駆って漁に出ていく。燦々たる太陽の光のもと、人々は思い思いの日常を過ごしており、そののどかな風景にはかけがえのない幸福感で満ち満ちているのだ。

しかしある日の深夜、どこかから船がやってきて海に何かを不法投棄して去っていく。そのゴミは実は放射性廃棄物であり、そこから放射能は広がり周囲の環境は静かに腐敗を遂げていく……こうして物語は悲劇へと変貌を遂げていく。魚といった生き物たちの死、さらに病気に冒されていく人々、加速度的に崩壊していく村。魚たちの死骸が溢れる浜辺に少女が立ち尽くす場面は衝撃的で、監督はそういった詩情によって悲劇を際立たせていくのだ。

先進国によるアフリカ諸国への不法投棄は社会問題となっている。例えばファストファッションや古着、スマートフォンやパソコンなどの使用済み電子機器から成る電子廃棄物、そしてここでも描かれた放射性廃棄物である。そういった廃棄物がアフリカの環境を破壊し、人々の生活を狂わせていくのである。“Aleela”にはそういった西側による不正と自然破壊への怒りが刻まれている。そして形を変えて植民地主義は未だに続いていることを私たちに告発するのだ。

Jose Alayón&“La lucha”/カナリア諸島、生きてぶつかりあって

さて、皆さんはカナリア相撲というスポーツを知っているだろうか。スペイン語ではLucha Canaria ルチャ・カナリアと呼ばれるこれは大西洋上に位置するスペイン領の群島カナリア諸島に伝わる伝統的スポーツである。日本語訳からも伺える通り相撲と似た競技であるとともに、相撲とは違って衣服着用であったり、最初から両者がガッチリ組んだ上で試合が開始かつ展開されるなどの相違点もある。今回はそんなカナリア相撲に人生を捧げる中年男性と彼の娘の関係性を追うという1作であるJose Alayón監督作“La lucha”(英題:“Dance of the Living”)を紹介していこう。

今作の主人公となるのはミゲルとマリアナ(Tomasín Padrón&Yazmina Estupiñan)という父娘だ。父親であるミゲルはカナリア相撲の花形選手であり、周囲からも一目置かれるような存在だった。父親のそんな大きな背中を追って十代である娘のマリアナもカナリア相撲の世界に入り、日夜鍛錬を続けていた。しかし同じくカナリア相撲の選手だった妻/母親の死が、彼らの関係性に亀裂を生みだすこととなる。

まず監督はミゲルとマリアナという親子の関係性を綴っていく。最愛の存在を亡くしたことでミゲルは鬱状態に陥っていてしまい、気分が晴れるのは相撲に励む時だけになってしまう。そうして鍛錬は現実逃避と変わらなくなっていく。母親の死とともに父親が変わっていく様を最前で感じざるを得ないマリアナは逆に鍛錬に集中できなくなっていき、ミゲルとはまた別の形で孤独を深めていくこととなる。

そんな親子の人生はカナリア相撲を中心に回っている。映画でも冒頭から彼らが試合に臨む姿が描かれる。先述した通りカナリア相撲はガッチリと組みあった状態で試合が終始展開していくのだが、撮影監督のMauro Herceは第3の選手かのごとく選手たちに超接近したままに試合を映しだしていく。距離を離しての映像はほとんどなく、常に接写しているがゆえ私たちが見ることになるのは試合よりも選手の肉体そのものである。隆起する筋肉、汗にまみれた肌、血の色に染まる表情……その存在感には網膜に衝突するような迫真性があるのだ。

しかしそんな迫力の裏側では様々な崩壊が進行していることをも観客は感じざるを得ない。いくら相撲で現実から目を背けようとも、ミゲルの喪失の傷は癒えることはない。むしろ適切なケアからも逃げているがゆえに鬱は悪化の一途を辿り、マリアナをほとんど顧みることのない、いわゆるネグレクト状態にまで陥ってしまう。さらに無理な鍛錬と試合によって膝が悲鳴を上げ始める。そしてミゲルの精神と肉体は崩壊していき、それと同時にマリアナの精神も不安定さを増し無軌道な行動に出始める……

今作の舞台となるのはカナリア諸島の中のフエルテベントゥーラ島と呼ばれる島である。2千万年前の火山噴火によって生まれた諸島最古の島であり、季節を通じて温暖だがサハラ砂漠からの熱風が年中吹きつけるゆえに気候は相当の乾燥を誇っている。その結果ヨーロッパ最大規模の砂漠が広がっており、植生は乏しい。ミゲルとマリアナを取り囲む自然は正にそういった緑の見えぬ荒涼たるものとなっており、対面する者に崇高の念と、それを越える寂寥を抱かせる。

諸島という繋がりはありながらも、1つの島であるがゆえに物理的な形では他とは分かたれており、さらにその内部にも荒涼たる風景が広がっておりそこにおいて人間はちっぽけであるとすら感じさせられる。この孤立性はどこかそのまま親子の孤独をも表しているかのようだ。心の内に巣食う果てしない孤独を誰もが理解できないと同時に、最も近いはずの存在である家族がそれについて最も理解できていない。その悲劇が確かにスクリーンには焼きついている。

今作を牽引するのはミゲル役を演じるTomasín Padrónに他ならない。実際にカナリア相撲の選手でもあるPadrónだが、その肉体の仕上がり方は尋常のものではなく、相撲における一挙手一投足の説得力は全く以て凄まじい。だがより観客の心に迫るのは、この鎧さながらである肉体に秘めた底の知れない絶望と虚無感だ。口数は少なく言葉では表されないそれらが、その肉体からどこまでも重く迫るのだ。そして孤独の中で彼の膝は限界を迎え、相撲を引退するか続けるかという選択を迫られることとなる。

この“La lucha”で描かれるのは痛切な肉体と精神の崩壊でありながらも、しかしその根底には優しさがあると思わされる瞬間がいくつも存在する。Herceのカメラがミゲルの筋骨隆々たる肉体を見据える時、その視線にはここまでの肉体を作りあげたミゲルへの敬意と、しかしそれ以上に慈しみが宿っているのだ。大切な人の肌を労り撫でるような、温かな慈愛が。引退か否かとは人生をカナリア相撲に捧げてきたミゲルにとっては究極の選択になるだろう。その傍らで彼とともに生きるマリアナにとっても難しいものになるはずだ。しかし何を選ぶにしろ2人は進むべき道を見つけられるだろう、いや見つけてほしい。あの慈愛から、そんな祈りが聞こえてくるのを観客である私たちもまた聞くはずだ。

Alibi Mukushev&“No Good in Sight: A Story”/ジャンル映画って、可能性あるな!

さて、カザフスタンである。このブログではカザフ映画がすこぶる面白いというのを何度も紹介しているが、カザフスタンは例えばAdilkhan Yerzhanov アディルハン・イェルジャノフといいEmir Baigazin エミール・バイガジンといい、青春ものやノワールものといったジャンル映画の枠内においてすこぶる尖った作品を作る監督が多い印象がある。そんなカザフ映画界に突如その最先端に躍り出るような新鋭が現れた。ということで今回は、上海国際映画祭でプレミア上映されたカザフ映画であるAlibi Mukushevのデビュー長編“No Good in Sight: A Story”を紹介していきたいと思う(以下、いつもは俳優やスタッフ情報を入れているのだが、今作に関してはいっこうに見つからないので色々省略させてもらう)

今作の主人公となるのは名もなき男である。妻を亡くしひとり親として息子を育てていたのだったが、彼はとある難病を抱えており手術代として多額の費用を必要としていた。進退窮まった男は仲間とともに銀行強盗を決行、金を奪うことに成功する。だが仲間割れが起きてしまい、金をめぐって3人で殺し合いが起こってしまう。

これと同時に物語はある警察官の姿をも描きだしていく。警察官は夫婦関係に問題を抱えておりとうとう離婚することとなってしまう。そんな時、彼らの子供()が学校で問題を引き起こしてしまい彼は仕事中に迎えに行くのだったが、その最中に男たちの抗争に遭遇、子供ともども巻き込まれてしまう。

今作はまずこの四者をめぐるノワール映画として展開していく。背の高い葦の蔓延る野原で彼らは殺しあいを繰り広げる。撮影はすこぶる端正なものであり、ここにおいては闇の艶めかしさや野原の深淵さながらな果てしなさが際立つ。リアリズムとは少々隔たったそんな光景の数々こそが、誰が死ぬか分からない緊張をより手に汗握る濃密なものとしていく。

この抗争の果てに、ひょんなことから男と子供が出会いなし崩し的に行動をともにすることとなってしまう。子供にお腹すいたとしつこく請われて、男は車で定食屋に向かわざるを得なくなり……この辺りから今作は奇妙な方向へと向かっていく。血なまぐさいノワール映画だったはずが、何故だかそこにロードムービー的な要素が介入するのだ。

そして実はここからが今作の真骨頂となっている。全編を通じて今作ではノワールやロードムービー、さらには邸宅ホラーやミステリーの要素すらも混ぜこまれ、いわゆるジャンル越境的な様相を呈することになる。さらにこの越境性を纏めるための語り手までもが登場し、とうとうメタ的要素まで登場するのだ。

この映画を観ながら想起したのは映画作品よりもいわゆるポストモダン文学と呼ばれる小説の数々だ。それらの中には純文学と呼ばれる類の作品にジャンルものの要素を取入れていき、そのお約束や物語性を脱構築していき全く新しい容貌を授けていっていた。それに共鳴するようなジャンル越境性が今作には宿っており、ゆえに今観ている作品は何の映画なのか、どういう映画なのかと翻弄される瞬間が幾度となく在るのだ。一体何なんだ、この映画は!?

そしてそうやって心地よく翻弄されるうちに、この映画はジャンル映画という枠組みの可能性を探求しているのだと思えた。ジャンル映画に新味を与えるためにまず行われるのは、物語に社会派的な要素を加え、描写や演出に高尚な意味が出てくるようにすることだろう。そうして“ジャンル映画”を“映画”として評価させる方向性に持っていくわけである。近年「ミッドサマー」といった作品を“ただのホラーではないんですよ!”と言わんがために“elevated horror 高められたホラー”という言葉が作られていたが、これは“ジャンル映画”というサブカテゴリーが“映画”というメインカテゴリーのケツ穴を舐める典型例だったと思える。

だが今作はそういった高尚さを目指すよりも、いくつものジャンルを融合させることで“ジャンル映画”の枠を内部から広げることでその面白さを探求している。それゆえに「先の描写、何の意味が?」と思うと同時に、ノワール的な見栄が張られた画面の美しさや期待を裏切られること自体の快感といった瞬間瞬間の面白さが全編を通じて散りばめられている。だからこそ観ながら「えっ!?」という驚きの声を私は何度も上げてしまったし、そうやって瞬間的な情動を煽られることこそジャンル映画の快楽であると思わされた。

このようにして今作はジャンル映画としての快感を辻褄以上に探求しており、しかし同時にその辻褄合わせにも余念ない緻密さがある。その展開において「ああ、そういうことか!」としてやられた展開がある。こういう裏切られ方もまたジャンル映画、特にミステリーやスリラーを観る時の醍醐味であったりするだろう。そういった形で“No Good in Sight: A Story”はジャンル映画を股にかける混沌の1作として際立っている。そしてそんな混沌だけが辿り着ける奇作かつ傑作ジャンル映画として、観客を魅了するのである。

Narghiza Dotieva&“Skylark”/キルギス、ぼくは鳥になりたい

さて皆さんは、キルギス・タジキスタン国境紛争という出来事を知っているだろうか。これは2021年から2022年にかけてその国境沿いで起こった両国の国境線をめぐる紛争だ。キルギス南部に位置しているキルギス人とタジク人の集落が混在する雑居地域で、水や土地を巡る争いが頻発しそれが国境紛争へと発展、住民や軍同士の大規模な衝突で多数の死傷者が出てしまった。

この二国はロシア帝国、後にはソ連による支配を受けることになるが、1920年代にソ連が両地域に両国の歴史や文化、そしてその意思を無視する形で境界線を設けてしまい、このせいで飛び地が形成されてしまう。両国は1991年のソ連崩壊に伴って独立するも、この未画定区間が残ってしまった境界線が火種を生むことになる。そして2021年の4月から飛び地であるヴォルフ付近での水争いを発端として国境紛争が勃発する。

幾度となく衝突が起き、双方において国境警備隊や民間人から死傷者が出る中、戦車や装甲兵員輸送車も導入される大規模なものへと激化を遂げていく。停戦と停戦破りが頻発する中で2022年9月20日にタジキスタンとキルギスは和平協定に署名、紛争は終結することとなる。この紛争をきっかけとして二国は国境画定作業に奔走、2年後の2024年には1000キロメートル近い国境の画定を完了、翌年には国境に関する条約へ署名を果たした。ソ連崩壊に伴った独立から30年以上かかっての出来事だった。

このキルギス・タジキスタン国境紛争において、紛争は主にキルギス側で繰り広げられた。キルギスでは多数の犠牲者が出たのは勿論のこと、10万人以上が紛争地域からの避難を余儀なくされたという。紛争は終結し、国境が画定した今もキルギスの人の心にはその深い傷が残っている。今回はこれを背景とした1作である、上海国際映画祭でプレミア上映されたばかりのNarghiza Dotieva監督によるデビュー長編“Skylark”を紹介していこう。

主人公となるのは二国の国境近くの村に住んでいるアイベック(Ularbek Mirlanov)という10代の少年だ。彼にはとある事情から父と母が村を既に去ってしまっており、唯一の肉親である祖母(Bermet Omurova)と生活を共にしている。2人だけゆえに状況は貧しくも、何とか慎ましく生活を送っていた。だがそんな彼らのもとに紛争の影が徐々に迫っていく。

まず監督はそんなアイベックの日常を淡々と綴っていく。キルギスでも周縁に置かれた地域に位置しており、恒常的に情勢は不安定がゆえに人々は村を去り都市部へと移住していく。そうして村は過疎化し、寂れていく。しかしここで逞しく生活する人々も多く、アイベックはタミルベックやジャナットという同級生の友人たちに囲まれ楽しい時間を過ごし、独りの時は鳥や人の絵を描きだしていく。撮影監督のBenjamin Liddelによってそんな風景が静かに、かつ叙情的にスクリーンに浮かびあがる様は、観ていると心洗われる感覚を覚える。

しかしその生活に陰りが見えてくる。老い衰えていき自分の死期を悟った祖母は、未だ元気なうちにアイベックに対して遺言を残す、自分を愛していた祖父の隣に埋めてほしいと。しかしそこには問題があった。祖父が埋められている墓地は今隣国であるタジキスタンの領土内にあり、キルギス側の人々は簡単には立ち入りができないのだ。

この遺言が語られるのと時を同じくして社会としてもキルギスとタジキスタンとの対立が激化していくこととなる。タジキスタン側からの砲撃をきっかけに地域における緊張が激しさを増し、危険を察知した村人たちの中には村を退去する者も現れる。そしてジャナットの家族も退去と、首都であるビシュケクへの定住を決め別れの時は迫る。一方で祖母は絶対にここを去らないと腰を据え、アイベックも彼女に寄り添いここに残ることを決める。そして国境紛争の最中に大きな悲劇が起こってしまう。怒りに満ちた青年たちは復讐のためにタジク人の家に火を放ち大きな被害が出るのだったが、その青年たちの中にはアイベックの姿もあった……

こうして今作は中盤において詩的で叙情的な雰囲気が、誰が死んでもおかしくない不穏な雰囲気へと一転してしまう。雰囲気作りがすこぶる丁寧であるからこそ、その転換とここから始まるアイベックの心を観客のそれごと折っていくような展開の数々は衝撃的なものがある。

だが今作の核となる存在はアイベックと、彼を演じるMirlanovに他ならない。アイベックは運命に翻弄され続ける存在だ。父は他の女を追い母を捨て去り、母もそんな裏切りを苦にして村を去ってしまう。だが彼女がアイベックを連れていかなかった理由は、この子は家を継がなくてはならないと祖母が強制的に引き取ったからなのだった。優しい祖母もまた罪を抱えているのだ。

長男が家を継がなくてはならないという伝統が呪いであると同時に、そんな祖母の遺言も国境紛争下においては2人の間に存在する絆以上にまた呪いとして機能してしまう。そしてアイベックはそんな呪いを背負い生きる覚悟を決めなくてはならなくなる。題名の“Skylark”とは“ヒバリ”を意味しており、否応なしに土地に縛られたアイベックは国境など軽々と越えてみせるヒバリの姿に切ない眼差しを向ける。その時にMirlanovの表情に浮かぶのは、自由を踏みにじりその土地に人を縛る存在への絶望と諦念なのである。

キルギス・タジキスタン国境紛争を描きだす今作はまじりっけなしの悲劇である。そしてこの傑作にはそんな堂々たる悲劇だけが宿せる深い絶望、諦念、そして崇高な浄化の感覚が宿っているのだ。

Laïla Marrakchi&“La más dulce”/モロッコとスペイン、搾取のその構図

スペインとモロッコは、地中海と大西洋を結ぶジブラルタル海峡を挟んで向かい合っている。この距離感ゆえに関係性は深く、歴史を通じて双方からの行き来が盛んであるわけだが、経済的により発展しているスペインにはモロッコからの出稼ぎ移民も数多い。そしてそこには、世界中の各地で起こっているような労働力搾取という問題がやはり生じている。今回はスペインにおけるモロッコ人移民の搾取を詳らかに描きだしていく、モロッコ人監督Laïla Marrakchiによる第3長編“La más dulce”(英題“Strawberries イチゴ”)を紹介していこう。

主人公である女性ハスナ(Nisrin Erradi)は故郷であるモロッコを離れてスペインへと移住を果たす。アンダルシア地方のイチゴ畑で季節労働者として働き、稼いだ金で家族のためにアパートを買うというのが彼女の目的だった。そこで彼女はメリエム(Hajar Graigaa)、アリ(Larbi Ajbar)、ハディージャ(Fatima Attif)といったモロッコ人女性と出会い、友情を育むのだったが……

今作はハスナを通じてモロッコ人移民たちの苦難を見据えていく。冒頭においてハスナの姿には明るさが宿っている。スペインは彼女にとって今までの人生を変えてくれるかもしれない新天地であり、そこには希望が溢れている。故郷と比べるなら週単位で何倍もの金が稼げると聞いているゆえ、過酷なイチゴ摘みに同僚たちとともに精を出す。

しかし徐々に雲行きは怪しくなっていく。居住環境は労働者が何人もひしめきあう劣悪さであり、監視員たちは高圧的な態度を崩さずハスナの理解できないスペイン語で何度も罵倒する。さらには頼みの綱だった給料も中抜きされて、食費や雑費で自由になる金はほとんど少ない。それすらも故郷の家族に仕送りする必要があり、手元に残るのは雀の涙ほどのお金しかない。こうして自分が騙されていることに、そしてその搾取の渦から容易には逃れられないことにハスナは気づくことになる。

今作は社会派スリラーとしての様相を帯びていく。Tristan Galandによる撮影は例えばダルデンヌ兄弟の作品を彷彿とさせる陰鬱なリアリズムを指向している。昼は畑で働かされ、夜は狭苦しい部屋に押し込められる奴隷のような生活、それが手振れが生々しく入り混じる撮影によって提示される様にはとにかく息が詰まる感覚を覚えてしまう。風光明媚な観光地として名高いアンダルシア、そこに広がる眩い陽光からも腐敗臭がしてくるほどだ。

監督とDelphine Agutが手掛ける脚本は、こうしてモロッコの移民労働者たちとスペインの資本家たちの間に広がる階級対立の構図を描くわけだが、興味深い存在感を放つのがメリエムである。途中から彼女は唯一家政婦として上司に雇用されるのだが、外で過酷な肉体労働を行うハスナたちは快適な邸宅で家事労働を代行する彼女に羨望を抱き、その関係性にヒビが入り始める。だが観客はそんな邸宅の中で、メリエムが性的虐待を受けていることを目撃する。どちらも搾取されているのは同じながら、メリエムは資本家への不満の捌け口として、いわばスケープゴートとして利用されているとそんな光景が見えてくる。監督たちは資本家側のこういった卑劣さをも見据えているのだ。

そしてある日メリエムは下半身から大量出血、命の危機に瀕することとなる。そこでハスナが頼るのがピラール(Itsaso Arana)というスペイン人女性、彼女はスペインにおける移民搾取を追っている人権派の弁護士だった。メリエムを保護した後、農場を告発する準備が整えられていくのだが、しかし様々な障害が持ちあがっていき、ハスナが隠していた秘密も明らかになっていく。

Erradi演じるハスナという女性は見ながら喉奥に小骨の引っかかるような印象を覚える存在だ。故郷ではテコンドーの金メダリストであるが、正当な評価を受けられなかったゆえか、どこかプライドが高く他人に対して当たりも強い。メリエムたちとも一応は信頼関係を築きながらも、対立は多い。フィクションではあまり見掛けない類の、生々しい性格の悪さをしているのだ。しかしメリエムを救い、農園を告発しその犯罪を白日の下に晒したいという正義への意志もまた確かに存在している。

この悪性と善性に引き裂かれているかのようなハスナは、社会的にもそんな状況に陥らざるを得ない。搾取の関係性に置かれた労働者と資本家、経済的格差が厳然として存在するスペインとモロッコ、男性中心社会において権力勾配がやはり存在してしまう男性と女性、そういった二項対立の狭間に投げ込まれて、ハスナは倫理的問いに懊悩せざるを得ない。それゆえ心の彷徨いをErradiは力強く体現しているのだ。

さらにその状況はアリやハディージャといった他の女性たちもまた同じなのである。メリエムや農園告発のために証言を行えばもうスペインで仕事ができないかもしれない、それどころかモロッコへ強制的に送還されるかもしれない。だからこそ証言を躊躇わざるを得ない。昨今女性同士の連帯、シスターフッドというものの重要性が謳われるが、実際それがこの男性中心の、そして資本主義の激化した社会においていかに難しいかこそがハスナたちの姿からは見えるのである。

その果てに“La más dulce”という作品は、人間の尊厳とそれを踏みにじろうとする社会、2つの対立は続くと思わされる複雑な余韻を伴いながら幕を閉じる。この戦いは世界中で繰り広げられている、終わりが来るのはいつの日なのだろうか?