
今回紹介するガーナの新鋭Amartei Armarによるデビュー長編“Ego Reach We All”、その主人公となるのはオウスとアドベア(Idrissu Tontie Jr&Dorothy Adobea)という2人の孤児だ。実の母親に捨てられたオウスはアドベアの母親に育てられたゆえ、2人は兄と妹同然の関係性だ。しかし彼女が亡くなったことで彼らは孤児院に入れられてしまう。そこでの生活に耐えられなくなった2人はオウスの母親を見つけるため、ガーナの首都であるアクラを目指す。
まず監督はそんな2人の旅路を描きだしていく。衣食住のその全てがままならない旅路はあまりに過酷なのもので、幼い2人は見る間に疲弊していく。だがまるで大地の精霊の加護を受けたように、彼らは様々な巡り合わせに恵まれ旅は続いていく。こうして序盤においては、どこかスピリチュアルな雰囲気の中で物語は展開していく。
そしてオウスたちはとうとうアクラに辿り着くのだったが、そこで痛烈な洗礼を受けることになる。生命力溢れる混沌に圧倒された彼らはストリートに生きる同年代の少年少女に荷物を奪われ無一文になってしまう。だがどうしても諦め切れずギャングの根城にまで喰らいつくのだったが、リーダーであるジギー(Emmanuel Wilberforce)にその意気を認められ、2人はギャングに加入することになる。
こうして2人のアクラでの生活が始まるわけだが、撮影監督であるJohn Kwame Markinは手振れの伴った勢いある撮影で以て彼らの姿を綴っていく。生きるためにアクラ中を駆け回る姿の熱気はもちろん、ガーナで最も栄える都市アクラに満ち渡る活力をこれでもかと観客は味わわされるわけだ。そして都市に広がる喧騒や匂いまでもがスクリーン越しに迫るゆえ、視覚だけでなく聴覚や嗅覚といった他の感覚までもが刺激され、その映画体験は豊かなものとなっていく。
そしてここでは若者文化も活写される。特に大々的に描かれるのは音楽であり、ギャングにはラッパーもいる関係でヒップホップを含めたガーナの最新音楽が全編で流れるのだ。劇伴を担当する一人がガーナ系イギリス人ラッパーのK.O.Gなところにもその気合の入りようが伺える。曲の数々を通じていつの時代も、どんな地域でも若者文化はこうして新鮮かつ反抗的な力で満ちているというのを観客はまた知るだろう。
だが今作が最も鋭く見据えるもの、それは資本主義そのものである。オウスたちはジギーたちと共に露天商として、服やアクセサリー、食べ物などなど売れる物は何でも担ぎ、アクラを練り歩きながら金を稼いでいく。今までは大人の庇護下にあったオウスとアドベアは初めて仕事というものをするわけだが、商売のコツを掴んで商品を売り捌くことで初めて自分の手で金を手に入れ、そして初めて自分のケツを自分で拭けるようになる。こうして彼らは今までにない高揚感と、そして自由を得る。
ただその資本主義的な生活には当然だが負の面も存在する。ギャングは定住できる場所がなく、廃墟などを不法占拠して生活を続けている。ゆえにいつ追い出されるか分からない恐怖や不安がある。さらに商売には好況不況が存在し、金が稼げなければ生活の質は落ちざるを得ず、この不安定さがゆえにギャング内の雰囲気も不穏なものになる。この弱肉強食の社会には安心は存在する余地がない。
ある場面、車通りの激しい道路上でオウスたちは商売をするのだが、ギャングの1人がある看板と自撮りをする。そこに描かれているのはガーナの初代大統領であるクワメ・ンクルマだ。ガーナ独立の立役者として有名な彼は、社会主義とアフリカ土着の文化の親和性に着目し“アフリカ社会主義”を提唱していたことでも有名だ。この場面はそんな彼の時代から長い時間が経ってしまったことを皮肉な形で伝える意味で印象的だ。
こうして過酷な資本主義下で生き抜こうとするオウスたちの姿が描かれるわけだが、過酷ではありながらもそれはオウスたちにとっては確かに“青春”でもある。同じ思いや志を共有する同年代の友人たちと、若さの勢いのままにその可能性を探求していく。その時代では、喜びも悲しみも他の時代にはない瑞々しさとともに輝いている。だがそんなかけがえのない時間は、全てがそうであるように永遠には続かない……
それでいて資本主義は永遠と思われるほどに続いていく。そこにおいて自分たちには何ができるのか?監督はガーナの今を見据えたうえで、彼なりに答えを見せてくれる。劇中には3つの言語が登場する。まずはピジン英語だ。ガーナの土着言語の数々と英語が混交したこの言語は、ガーナひいてはアクラの共通語であり、それはつまりここにおいて資本主義を駆動させる言語ともなっている。
あとの2つはガーナの土着言語であるトウィ語とガー語である。オウスとアドベアはトウィ語が母語であり、ギャング内にはガー語を母語とするメンバーがいる。同じクワ語族ではあるが、意思の疎通はできないゆえに、ピジン英語が共通言語として使われるわけだ。だが共通言語でお茶を濁すのでなく、それぞれの母語や民族に立ち返ったうえで、異なる言語と民族について知っていくことこそが今求められるのではないか。監督はそういった理想を提示するのである。
これは過剰な個人主義から緩やかな共同体主義へと移行を目指すことでもあるだろう。もしかするのなら先述したンクルマのアフリカ社会主義へと再帰する試みであるのかもしれない。もちろん社会主義とまでは行かないだろうが、かといって資本主義も最良のものではない。“Ego Reach We All”はこうして資本主義下における青春の光と闇を描きながら、その先にあるより善き未来への道を提示しようとする野心的な1作だ。












