
先日、スイスでロカルノ国際映画祭が開催された。去年は三宅唱の「旅と日々」がコンペ部門で最高賞を獲得したわけだが、今年の最高賞受賞ルーマニアのFlorin Șerban フロリン・シェルバン監督作“Nu e locul tău aici”(意味は“ここは君の居るべき場所ではない”)だった。日本でも「俺の笛を聞け」が上映されている監督だが、カンヌでクリスティアン・ムンジウが“Fjord”でパルムドールを獲得したのに続き、ロカルノでも最高賞とはやはりルーマニア映画は最高だろと言わざるを得ない。ということで今回はそんなロカルノ最高賞獲得作である“Nu e locul tău aici”を早速紹介していきたいと思う。
今作の主人公はマリユス(Adrian Văncică)という中年男性だ。彼は故郷であるレシツァという故郷の町にある病院で、外科医かつ医療の最高責任者として勤勉に仕事に励む日々を送っていた。一方、最愛の妻を事故で失った後にマリユスは男手一つで十代の息子ヨアン(Teodor Butănescu)を育てているのだが、仕事が忙しく彼をあまり気遣うことができていなかった。
まず監督はそんなマリユスの日常を描きだしていく。手術を行う、入院中の患者に問診を行う、同僚と話し合いをする。そういった仕事場での風景にはプロとしての意識が強く伺える。一方で家庭生活は杜撰なものだ。リビングで夕食を食べるが、電球が切れながら特に動じもせずに暗がりで食事を続ける。その姿を見掛けたヨアンに引かれながら、どうでもいいとばかり彼にも暗いリビングで食事をさせる。そこには冷ややかさと無関心に満ちた生活、何より父子関係が象徴されている。
ここで際立つのは、現代ルーマニア映画にとっての十八番とも言うべきかもしれない極度の長回しである。撮影監督であるLiviu Mărghidanはほとんどの場合被写体からは距離を取り、最低5分は一切カットがかからないまま、目の前を監視カメラ的に映しとっていく。移り変わる時間のありのままが剥き出しで提示されることで、観客はその時空間に満ち満ちる空気感とそれがいかに変貌を遂げていくかをまざまざと味わわされるのだ。
そんな中、町で殺人事件が発生する。町で屯するファシストのバイカー集団がロマの男性を殺害したのだ。彼の死体が病院に運びこまれたことでマリユスは事件について知り騒動に巻き込まれることとなるのだが、その裏側で実は事件にヨアンが関わっていることが少しずつ明らかになっていく。
そして先述した濃密な長回しによって事件の渦中に置かれた両者の動向が描かれていく。被害者の遺体をめぐって事件の当事者ゆえ解剖が行われるべきとの病院や警察側と、解剖なしに遺体を引き渡してほしいとの家族側の間でマリユスは苦しまざるを得ない。そしてヨアンは事件で負った怪我を秘密裏に処置し、さらに証拠も隠滅するため奔走するが、十代ゆえの幼さで計画は見る間に破綻していく。これらの光景が交互に、相当な時間と徹底したリアリズムを以て描かれるがゆえ、途轍もない緊張感が今作には宿るわけだ。
こうして禁欲的なまでに長回しを続けるからこそ、ある場面で対峙する二者の顔がアップになった上でカットが激しく切り替わる様は印象的だ。この切り返し自体むしろ映画でよく見掛ける技法であるのに、そんな技法が弩迫の圧を以て新鮮に映る。監督とMărghidanはこうして長回しを核として様々な技法を自在に駆使するのである。
今作は技法だけでなく、テーマに関してもルーマニア映画の王道を行く。ここで描かれるのは公の倫理と私的な倫理が衝突する悲痛な光景である。マリユスは善き人でありたいと願っており、より多くの人に先端医療を広め救うために都市部の病院でなく、地方にある故郷の病院に勤務しているという事情がある。だがその崇高な信念は医療腐敗と、凝り固まった官僚主義の中で磨り減っていき、彼は疲弊していくわけだ。
さらにその疲弊は、マリユスの魂をも歪ませていっている。彼の仕事にはプロ意識が確かに見え隠れするが、同僚や患者たちにはどこか冷淡でその信念に根付いているはずの人間性は伺えない。さらに家庭生活も幸福には程遠い状況に陥っているわけだが、マリユスはある人物にこう言い放つのだ。息子を見ると失敗という言葉が思い浮かぶよ、と。医師としても父としても、彼自身が“失敗”していく様を、私たちは一切の容赦なしに見せつけられるのである。
加えてこの事件の背景にはヨーロッパ、特にルーマニアでは顕著な問題が横たわっており、それがロマ差別である。遊牧民というルーツを持ち、現在は東欧を中心として世界に散らばる少数民族がロマであるが、ルーマニアは特にその数が多く彼らに対する差別は激しいものだ。今作でも殺人事件であるのに、殺されたのがロマゆえにその遺体が無惨な扱いを受け、家族に寄り添おうするマリユスですらロマに対する差別用語である“țigan”という言葉(日本でも“ジプシー”という言葉を使わないようにしようと言われるが、この言葉より差別の度合いは大きく感じる)を使い続けるなど、その差別意識は根深い。こうして監督は公私における価値観の衝突、親子関係など普遍的な要素と、ロマ差別といったルーマニア特有の要素であったりと、多方面から倫理的問いを提示していくのだ。
だが何よりも今作の核となる存在はマリユスを演じる主演のAdrian Văncicăに他ならないだろう。善性と悪性の狭間で苦しむ父親を、彼は静かに力強く体現しており、その姿からは目が離せなくなる。Văncicăは本国では“Las fierbinți”という長寿コメディドラマで有名であり、Facebook上で私が“来年のゴーポ賞(ルーマニアのアカデミー賞的存在)ではVăncicăと“Fjord”のセバスチャン・スタンで主演俳優賞を争うだろうな”と書いたら結構笑われた。そんな存在だがここではコメディ的存在感は完全に封印しているのが相当に印象的だった。
そしてこの末に起こる悲劇の数々に、マリユスは値するような人間になっていたかもしれない。しかしそうだったとしても、絶望に打ちひしがれた果ての彼の叫びはあまりに悲痛で、聞きながら私は涙を堪えることができなかった。ロカルノを制覇したこの“Nu e locul tău aici”という1作は何て、何て力強く残酷な映画なのだろうか。












