鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Iqbal H. Chowdhury&“The Wrestler”/バングラデシュ、男たちは彷徨いぶつかりあい

皆さんはボリ・ケラというスポーツを知っているだろうか。これはバングラデシュの伝統的レスリングである、投げ技、関節技などといった組み技を主としたコンバットスポーツの一つだ。砂と土の競技場で、半裸になった筋骨隆々の男たちが全力でぶつかりあうことで、力を競い合う様はなかなかに圧巻だ。ベンガル語で“力持ちのゲーム”を意味する“ボリ・ケラ”とは正に名が体を表していると言うに相応しいだろう。さて、今回はそんなボリ・ケラを通じて傷ついた男性性の行く末を描きだす、バングラデシュの新鋭Iqbal H. Chowdhuryによる初長編“The Wrestler”を紹介していこう。

夜も更けた海岸線、それに沿うように群れて生える細長い木々、その幹を黙々と両手で打ちつける男がそこにはいる。彼の肉体は老いさらばえて、木々と同じく弱々しい印象を与える。しかしそんな老いの印を吹き飛ばすかのように男はその両腕を、そして更には全身を木の幹へと激突させていく。

この中年男性こそが今作の主人公であるモジュ(Nasir Uddin Khan)だ。舞台となるのは1990年代後半、バングラデシュの海岸沿いに位置する村、彼はここで漁師として生計を立てていた。だが漁も、鶏の飼育もうまく行かないという状況で、その鬱屈から目を背けるように熱中するのがボリ・ケラだった。彼は余暇をボリ・ケラのための鍛錬に注いでいるのだが、鬱屈が深まるごとにその熱中を執念へと姿を変えていく。

まずこの映画はそんなモジュの日常を綴っていく。海岸において独り鍛錬に打ちこむ、鶏が全く卵を産まないので思わず悪態をついてしまう、シャフ(Angel Noor)という最近結婚した息子と口論を繰り広げる、そして再び海岸で鍛錬に打ちこむ……こういった風景の数々を断片的に連ねていくことで、監督はモジュという男の日常をスクリーンに立ちあげていく。

撮影監督Tuhin Tamijulは静かにかつ盤石に、目前の光景を見据えている。さらに登場人物たちとは常に一定の距離を取ったうえで、その一挙手一投足をストイックにレンズへと焼きつけていく。Rakat Zamiによる音楽はとても控えめなもので、際立つのは登場人物たちの声と日常の響きが主だ。それも相まりTamijulが映し出す風景やショットは、シンとして淡々とした印象を与える。

ここにおいてはその色味がまた印象的だ。色調は常に抑えられており、スクリーンにおいて色彩それ自体が際立つことはあまりない。スクリーンを覆うのは、掠れたような灰色ばかりだ。実際、舞台となる村はそれほど経済状況が芳しくないらしく、村全体には得も言われぬ閉塞感が漂っている。それがこの色味のなかで増幅され、観客の瞳により生々しさを以て迫ってくるのだ。

そしてこういった閉塞感のなかでモジュの執念もまた膨張を遂げていく。ある日彼は、村の若きチャンピオンであるドフォル(A K M Itman)に挑戦すると宣言する。息子のシャフは無謀だと彼を止めようとし、村民たちは自分の老いも考えない狂人だと彼を笑い者にする。だがそんな外野の声などは一切無視し、モジュはただひたすら鍛錬につぐ鍛錬を行い、己の肉体を限界まで鍛え抜かんとする。

今作ではそんな彼と並行して、周囲の人々の姿も描きだされる。例えばモジュの息子であるシャフ、彼は妻(Priyam Archi)を娶った後から妙になったとそう友人から言われるほど陰鬱に時を過ごしている。妻の方も自分に指一本触れようとしないシャフに不満を抱いているようだ。そして例えばドフォル、彼は村のチャンピオンとして村民からも尊敬を集めている存在だ。しかしある事件をきっかけに選手としての名誉と自負が揺らいでいき、苦悩の巷に落ちていくことになる。

このように作品の視線はモジュから周囲にまで広がっていき、こうして映画には男たちの葛藤や孤独というものが立ち上がってくる。自分の本心を他人に簡単に吐露することができず、自然と孤立を深めていってしまう。己の暴力性を自らで御することができず、他者を傷つけてしまい、時には取り返しのつかない事態にまで陥る。こういった男性性の過酷な道行きを、しかし扇情的な形でなく、その撮影がそうであるように静かに、そして繊細に今作は描いていくのだ。まずは、そのあるがままを見据えようとでもいう風に。

そして描かれるもの自体は壮絶ながらどこか鷹揚な雰囲気すら感じられる一因として機能し、かつ物語に新しい層をも与えるのが今作が宿す神話性である。村ではイスラム神秘主義、つまりスーフィズムに根ざした伝説が語られている。それによると海には自らを天使と名乗り人を惑わす怪物が住んでいるというのだ。ある事件をきっかけとして、こういった超常の存在がシャフたちの日常に介入していき、彼らは超越的な恐怖、驚異、さらには救済を体験することとなる。序盤は淡々としているからこそ、この超常性への飛躍がダイナミックに現れるのだ。

男性性というものを親密かつ繊細に、かつその日常に根ざした神話性とともに描く作品はそう多くはない。その少ない作品の1つこそは、バングラデシュの伝統を背景として、人々の日常と、そして傷ついた男たちの行く末を描きだしてた“The Wrestler”というわけだ。ここにこそバングラデシュ映画の可能性があると、私は言いたい。

Yousef Assabah&“In the Long Run”/イエメン、僕たちここで暮らしてます

さて、イエメンである。アラビア半島の南端にある国であるが、2015年からは内戦が続いており予断を許さない状況となっている。映画産業は未だ小規模なものであり、この国で初めて長編映画である“A New Day in Old Sana'a”(アラビア語原題:“يوم جديد في صنعاء القديمة”)が作られたのは2005年だそうで、実はまだ20年も経っていない。

しかし昨年2023年に“Al-Murhiqun / The Burdened”(“المرهقون”)がイエメン映画として初めてベルリン国際映画祭に選出と、少しずつ力をつけてきているのを私は感じている。そこで今回はこのイエメン映画界期待の新鋭であるYousef Assabah يوسف الصباحيと、彼の短編作品“In the Long Run”(“عبر الأزقة”)を紹介していこう。

今作の主人公はアフメッド(Ahmed Essam Farea’)という少年だ。彼はいつものように好きなテレビ番組を見てグダグダしていた。しかしそんな様子に母親はブチ切れ、もうすぐ家に来るというお客さんたちに振る舞うためのパンを買ってこい!と言いつけてくる。なのでイヤイヤながらおつかいに出かけるアフメッドだったが……

こうして映画はアフメッドのおつかい風景を追っていく。とはいえその行程は一筋縄では行かない。テレビに夢中で母親の言葉をトコトン無視しまくっていたアフメッドなので、そう素直におつかいをやるわけもない。途中で友達が日本でいうおはじきっぽいゲームをしてるのを見掛けたなら速攻でそれに参加し、おつかいなんかどこ吹く風だ。時折ちょっとおつかいをしようという意気も見せるが、基本はやりたいことに忠実。その自由さに共鳴してか、妙な事件も起こったりとただのおつかいは妙な拗れ方をし始める。

撮影監督Omar Nasrのカメラはアフメッドの自由奔放さとは裏腹に、まるで監視カメラのような静かさ、そして盤石さを以て彼の姿を見据え続ける。寄り添うという素振りは一切見せずに、ある程度の距離を常に保ち続けながら、その一挙手一投足の全てをレンズに焼きつけようとでもするかのようにアフメッドを映し続けるのだ。

ここにおいては、画面ではアフメッドだけでなく彼を取り囲む建築や街並み自体も印象的な形で立ち上がってくる。今作が舞台とするのはイッブという、標高1800m以上の高原に位置している都市である。ここは密度高く立ち並ぶ石造りの家、それに狭い石畳の路地が特徴的であり、日本の街並みとはあまりに違いすぎる風景は否応なしに印象に残るものだ。さらにその密度の高さゆえに道もかなり入り組んでおり、それは迷宮のごとくなかなかの迫力を湛えている。観客は画面から通りに満ちる砂埃の匂いを鮮烈に感じることにもなるだろう。このようにして今作ではイッブという都市自体が、アフメッドに並ぶ主役でもあるのだ。

そしてこの場所には、人々の日常もまた豊かに根づいている。街角のあちらこちらで遊ぶ子供たちに、お喋りにかまける老人たち。そして人々は「アラーの他に神はなし」と礼拝の呼びかけを叫びながら、街路を練り歩き、その隙間を縫ってアフメッドはおつかいにお遊びにとめちゃクソ駆け回る。もう全身から活力が溢れまくってるのを観客たちはその目を以て味わうことになるだろう。そりゃ走ってる途中でパン代落として、探し回る羽目になるよ……

イエメンに関して、現在も起こっている内戦以外のニュースが日本で流れることは少ない。しかしそういった逼迫した状況でも、私たちが思う以上に現地の人々は逞しく日常を過ごしているというのを監督は伝えてくれる。そしてそれは人々だけでなく、建築や都市自体もそうなのである。このヴィジュアル性が今作の大いなる魅力でもあるのだ。

Muhannad Lamin&“Donga”/リビア、生きるには長すぎる悲劇

さて、リビアである。この国ではムアンマル・アル=カッザーフィーによる独裁政権が40年以上にもわたって続いていたが、2011年に反政府デモを発端として内戦が始まり、それが今でも継続しているという状況だ。この情勢は混迷に混迷を極めているが、今回紹介したいのは一人のジャーナリストが撮影してきたリビア内戦の記録映像をめぐるドキュメンタリー作品である、Muhannad Lamin監督による初長編“Donga”だ。

この映画の主人公となる存在は、題名にもなっているドンガという男性だ。彼はジャーナリストとして2011年のリビア内戦開始から以後10年間に渡って、その内戦の行く末を映像として記録してきた。今、彼は今作の監督であるLaminとともに、そうして残してきた映像と再び向き合おうとしていた。

ドンガは10代の頃から、親友であるアリに影響を受けて撮影というものをするようになった。行く先々でビデオカメラを片手に撮影を行っていたのだが、その最中にカダフィ政権に対するデモが勃発する。ドンガはいつものようにその光景もカメラに収めていくのだったが、事態は加速度的に進展していき、とうとう内戦が始まってしまう。彼の住んでいたミスラタという町は最初期にデモが始まった場所でもあり、内戦においてもその最前線となってしまった。こうしてドンガは否応なしに最前線に広がる光景をカメラに収めていくこととなる。

ドンガがレンズに焼きつけてきた映像は、当然だが凄絶なまでの迫力に満ちている。民衆たちがリビアの旗を振りみだし声をあげるデモ活動、彼らを蹂躙する政府軍の攻勢。ドンガの正に目前で民間人が射殺され、さらには撮影場所にミサイルが直撃するなど衝撃的な光景が浮かんでは消えていく。今作には、このようなリビア内戦の現実が克明に刻まれている。

ドンガは現在、戦地で怪我を負ったリビア難民たちが多く滞在するイスタンブールのホテルにいる。彼はここで日々を過ごしながら、監督らとともに自らが撮影した映像を見据えているわけだ。その間、彼は監督や私たち観客に向けて自らの思いを語り続ける。2011年以降に知り合ったほとんどの人はもう亡くなってるんだ、「殉教したよ」なんて言われると何て返事すればいいか分からなくなる、だから誰かが生きてるって聞くと嬉しくなるよ……

そして映像には戦争の悲劇とともに、そんな状況を逞しく生き抜こうとする人々の姿も記録されている。この悲劇を世界に伝えなくてはとニュースサイトを立ちあげ、リビア中を奔走するジャーナリスト。ドンガのカメラに寄ってきて解放への思いを叫ぶ女性。さらに束の間、兵士たちが廃墟でバレーボールを楽しんだり、画面の砕けたスマートフォンでアプリのチェスに興じたりする光景なども映しだされる。リビアの人々の力強い生、これもまた今作には刻まれているのだ、

しかしその一方で、少なくない人々が戦火を逃れてリビアから他の国へと移住していく。ドンガの親友であるアリもリビアを離れ、移住先で家庭を築いていっている。ドンガもチュニジアやトルコへ赴き、しばらくは平和な日々を過ごしながらも、リビアの情勢が変わっていくのを聞くならば故郷へと舞い戻り、ジャーナリストとしての職務を果たすためその光景をレンズに焼きつけていく。

そんなドンガの足取りからはリビア内戦の混沌ぶりというものが垣間見える。内戦開始から約半年で首都トリポリは反政府勢力によって陥落、10月20日にはカッザーフィーも身柄の拘束の後に死亡するが、親カッザーフィー勢力の抵抗は止まらず、内戦も続行されてしまう。さらにISの参戦によって状況はさらに混迷を極めていく。

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究員の小林周が2020年に執筆したリビア情勢をめぐる記事は今作の背景を知るために有益なものだが、冒頭にはこのような文言がある。

“2011年8月のカダフィ政権崩壊から9年を迎えるが、リビアでは内戦後の国家再建が進まず、政治・治安が混乱してきた。国内には政治権力、経済利益、地域、民族、部族などを軸にした重層的・複合的な対立構造が生じている。国軍や警察以上に民兵組織や武装勢力の軍事力が強く、新政府は国土の大部分を統治できていない。また、諸外国はリビアの安定化よりも国益にもとづいた介入を続けてきた。このようなリビアの状況は、「断片化(fragmentation)」と表現される”*1

この“断片化”は、ドンガが残している2019年のトリポリ侵攻をめぐる記録映像にその一端が見える。ここで印象的なのは戦闘それ自体ではなく、荒廃したトリポリの街並みをただただドンガたちが彷徨い続ける姿だ。遠くから銃声や爆発音が響くなか、敵に見つからないように彼らは道を進み続ける。だがその歩みは当て所なく、誰も事態を完璧に把握できていない心許なさすら感じさせる。そこにおいてトリポリの街並みは迷宮のように見えてくる。出口はなく、終わりもない。そんな場所では誰が味方かも分からなくなる。ここにはただただ果てしない徒労感ばかりが満ちる。

10年だ、この状況を10年生きるのはあまりに長すぎる。戦場の子供たちを映した映像を見ながら、ドンガが言った言葉だ。今作はリビア内戦をめぐり、こんな凄惨な現実があり、今も戦い続けている人がいる、そしてこの現状を伝え続けようとする人がいるということをまず伝えてくれる。しかしそれ以上に今作は、その長すぎる時間の中で刻まれてしまった取り返しのつかない傷の数々こそを見据えている。兵士たち、子どもたち、人々の住んでいた家、人々が生きていた町……そしてその果てに、ドンガ自身も取り返しのつかないダメージを負ってしまったことが映画では明かされる。リビア内戦という悲劇によって生まれた傷と絶望、これらはあまりにも深い。

Denise Fernandes&“Hanami”/カーボベルデ、去る者と残る者

さて、カーボベルデである。映画界においてはペドロ・コスタの作品でカーボベルデが舞台になったり、カーボベルデ移民が主人公になるなどしているので、そこからこの国を知った人も多いかもしれない。最近ではクレオの夏休み」というフランス映画で、カーボベルデが舞台になっていたりもした。だがその多くが外部の人間によってカーボベルデが描かれるというものになっている。ということで今回紹介する映画は、それらとは異なるカーボベルデの血を引く映画作家によるカーボベルデ映画であるDenise Fernandesのデビュー長編“Hanami”を紹介していこう。

今作の主人公はナナという少女(Sanaya Andrade)だ。ナナには、母であるニア(Daílma Mendes)は彼女を産んだ直後に故郷を捨ててしまったという過去がある。それからは父の家族に育てられていたのだったが、彼らのおかげでナナは健やかに成長していく。幸福感を抱きながらも、しかしナナはふとした瞬間、海を眺めながら母への想いに耽ることを止められないでいた。

今作はまずゆったりとしたテンポで以て、ナナが生きている日常を描きだしていく。家がひしめきあう親密な場所、ここでは女性たちの楽しげなお喋りが絶えることがなく、ナナも親戚や友人の少女たちと騒ぎ回っている。時にはそこで飼われているニワトリたちと遊んだり、時には家のなかで食事をしたり。しかしその最中にこそ、ふと母への想いが心に浮かびあがるのだ。

そしてこの親密な空間から一歩出るとなると、すこぶる熾烈な自然が広がっていることを観客はすぐ知ることになるだろう。切り立った断崖と白い飛沫の爆ぜる海が向き合い、そしてその狭間を焦げ茶色の砂浜が満たしている。ここから抱く印象は、包みこむような優しさではなく張り詰めた厳しさだ。少しでも油断するのなら、人間一人などあっという間に呑まれてしまうとそんな緊張感すら感じられるかもしれない。

Alana Mejía Gonzálezが担当する撮影は、その自然の厳しさに宿る美というものを鮮やかに捉えており、見る者の心から畏敬の念を引き出さんとするような強度がある。これと同時にGonzálezは日常の風景にも同じ姿勢でカメラを向けている。例えばナナの祖母が、ベッドでおとぎ話を聞かせてくれるという場面、陰影がこれでもかと彫り込まれたような照明や空間設計は日常にも自然に宿るような崇高さが存在すると示すかのようだ。

そんなある日、奇妙な熱病に見舞われたナナはカーボベルデの火山地帯へと送られて、叔母のもとでしばらく過ごすことになる。この火山地帯はより熾烈な環境であり、火山によって生まれた焦土と、そこで逞しく生きようとする草花のせめぎあいが繰り広げられており、異様な光景が広がっている。ここでナナは様々に奇妙な人々と遭遇する。バイオリンを常に持つ口のきけない叔母、草花と同じく逞しく生きる子供たち、外国からやってきた見知らぬ男……そしてここは祖母が語ったおとぎ話のようなことが実際に起こる場所でもある。そんな幻想と現実の狭間で、ナナは彷徨う。

今作は大きく分けて、先述した通り子供時代のナナを描く前半と、十代になったナナを描きだす後半とに分かれている。この後半において主眼となるのは故郷に戻ってきた母との関係性だ。ナナは長年疎遠で記憶すらない母との再会に動揺しながらも、失われた時間を取り戻そうと少しずつ距離を近づけようとする。

前半と後半で見据えるものが異なるように思えながらも、しかしどちらも根底にあるものは変わらない。それはつまり一人の少女の、カーボベルデというアイデンティティとの対峙である。カーボベルデには自然とともに貧しい生活環境も相まって、この国を出ていく者も多い。例えば小さな頃に離れ離れになった少女とナナが再会するのだが、都会育ちの友人に囲まれ都会風の洗練をまとった彼女とは自然と距離ができてしまう。他にも、親戚の集まりに帰ってきた人物が英語で喋り、クレオール語で喋れ!と年長者から言われる場面もある。こうして出ていった者と残った者の価値観の相違もまた繊細に掬いとられていく。

そしてナナもまたこのアイデンティティとどう対峙すべきか苦悩する。ナナ自身の母親も故郷を捨てた存在であり、そんな状況で自分はどこにいるのか、どこにいるべきなのか途方に暮れるしかない。監督であるFernandesは両親及び祖先がカーボベルデ出身だが、生まれたのはポルトガルであり、スイスのイタリア語圏で育ったという複雑な出自を持っている。彼女はカーボベルデにおいて内部の存在でも、外部の存在でもあるのだ。ある程度はこの出自が反映されているのか、今作はアイデンティティ探求の側面がすこぶる際立っている。

そうして苦悩を抱くナナを、Fernandesは、“Hanami”という作品は優しく抱きしめる。愛着と反感のどちらもありながら、その間を寄せては返す波のようにたゆたうこと、それもまた1つの向き合い方ではないか。そう静かに呟くのである。

最後に書いておきたいのが、上述したアイデンティティの探求に日本文化が関わってくることであり、日本人としては気にならざるを得ない。冒頭から“金継ぎ”の概念が紹介されたと思うと、ナナは火山地帯で謎の日本人と出会い、会話する。そこで語られるのが“Hanami”つまり“花見”なのである。あえてその会話内容については語らないが、何にしろ日本が他にない形で関わってくるのが今作の魅力でもある。題名が日本語なカーボベルデ映画なんて、これまでもこれからも、そうは存在しないだろう。

Jean-Luc Mitana&“Uje”/ルワンダ、神はそこにいるのか?

さて、ルワンダである。アフリカ東部に位置するこの国は、映画的な側面ではあまり顧みられることはないだろう。おそらく広く思い出されるのは大量虐殺を扱った「ホテル・ルワンダ」くらいではないだろうか。ルワンダ人によるルワンダ映画はシネフィルにすら知られていないし、斯く言う私ですら、この鉄腸ブログでは2作しかルワンダ映画を取り上げられていない。お恥ずかしい限りである。だが知名度は低いルワンダ映画界からも新たなる才能は確かに現れだしている。ということで今回はこの国の新鋭Jean-Luc Mitanaによる短編作品“Uje”を紹介していこう。

主人公はマリアムという中年女性だ。彼女は夫とともに牧場つきの邸宅で幸せな家庭を築いている。ある日、彼女が家の周りを散歩していると一人の少年が自分についてくるのに気がつく。彼は家にまで来てしまい、ホームレスなのかもしれないと不憫に思ったマリアムは食事まで提供することになる。しかし少年はそのまま家に居座ってしまい、マリアムは妙な状況に陥ってしまう。

まず目につくのはその端正で美しい撮影だ。Mitanaは撮影監督でもあるので自身が撮影も担当しているのだが、冒頭からルワンダに広がる風景を撮す手捌きが印象的だ。どこまでも広がっている豊かな自然、それを畏敬を以て見据え、レンズに焼きつけていく。特にマリアムが少年と出会う大地の、どこか神秘性すら宿った様は全ての始まりに相応しい雰囲気で満ち満ちている。

そしてこの強度と並ぶような重みを以て、マリアムの日常もまた撮しだされている。例えば牧場で牛のミルクを搾る、例えばキッチンで夫のための料理を作る、例えばその最中に椅子に座って休む。こういった日常の風景は侮られがちでありながらも、マリアムの人生においては崇高な自然と同じくらい家事などの日常が重要なのだとMitanaによる撮影は主張するかのようだ。

物語が展開していくにつれて、マリアムのある側面が明らかになっていく。彼女はキリスト教信者でもあり、就寝前に夫と祈りは欠かさないほどだった。しかしある時ラジオで高らかな説教を聞くなかでその表情はどんどん曇っていく。そして最後には苦悶の表情を浮かべて、ラジオのスイッチを切ってしまう。何が原因かは定かではないが、その信仰が震わされている状況にマリアムはあるらしい。

この状況において、Mitanaが長回しで夫婦の祈りを映し出すという場面が存在する。微動だにしないカメラによって捉えられるのは、熱意を以て祈りの言葉を捧げる夫、その熱意とは対照的に祈りの言葉を聞いているうちにどんどん飽きていって、あちらこちらと頭を動かすマリアムの姿だ。彼らの間にはもはや埋めがたいスレ違いが存在している、この場面はそれを残酷なまでに露わにしている。

この映画で最も重要な存在は、しかしあの謎の少年だろう。彼を演じる俳優の、生命力に溢れながらも、同時にどこか幽霊のような存在感は間違いなしに今作における核であり、彼の存在によって全編に神秘的な雰囲気が満ちている。加えて彼は観る者によって万華鏡さながら様々な比喩として表れるだろうが、先述した要素を踏まえるのなら少年はマリアムが抱く神への不信の擬人化なのかもしれない。そして不信に確固たる理由がないのと同じく、少年がそこにいる理由もまた不明瞭なものである。もしくは少年こそが、神そのものであるか。

少年という脅威によってマリアムと夫の関係は急速に冷えこんでいき、そうして短編がゆえに背景が全く明かされないまま、今作は突き放したようなラストで幕を閉じてしまう。だが“Uje”においてこの曖昧さが、怠惰な解釈可能性を見越した優柔不断の結実ではなく、鑑賞後に残ってしまう心にこびりつくような不穏な余韻として昇華されているのは、監督のその才覚ゆえだろう。ということで、これからルワンダの新鋭Jean-Luc Mitanaに要注目である。

Iva Radivojević&“Kada je zazvonio telefon”/まだ、ユーゴスラビアが存在した頃……

かつてユーゴスラビアという社会主義国家が東欧に存在した。数十年の安定を経てカリスマ的な指導者であったチトーの死後、急速に崩壊が始まりユーゴスラビア紛争が起こることとなる、かつて隣人同士だった民族同士が殺しあうという凄惨な状況に陥り、ユーゴスラビアはとうとう解体され、7つの国に別れることとなる。

この忌まわしき現代史は旧ユーゴスラビア諸国の歴史的なトラウマとなり、ゆえにこれらを主題とした映画作品は数多い。今回紹介するIva Radivojević監督作“Kada je zazvonio telefon”(英題:“When the Phone Rang”)もセルビアの視点からこのトラウマを描きだしている。しかし今作は紛争それ自体ではなく、紛争の最中にも続いていた市井の人々の日常こそを描きだすことで、また別の側面からトラウマを見据えている。

電話のベルが鳴ったのは1992年、ある金曜日の10時36分……そんなボイスオーバー、そして10時36分を指す時計の画ともに、1人の少女の日常が語られ始める。ラナという11歳の少女(Natalija Ilinčić)がその電話を取ると、電話の相手はラナの祖母が亡くなったことを知らせてくる。父や母、家族の誰よりも先にそれを知ってしまったラナは動揺したまま、寝室に戻る。そこではオペラカルメンがテレビ放送されていた。

そしてまた、あの見覚えのある時計が現れる。電話のベルが鳴ったのは金曜日の10時36分、ラナがその電話を取るのだが、かけてきたのは祖母だった。彼女は国外へと引っ越すという孫娘に対して、お別れの言葉を告げようとしていたのだった。またいつか帰ってくるんだよ、そんな言葉の背後からは戦争についてのラジオニュースが聞こえてくる。

今作はこのようにして電話のベルを起点にしながら、ユーゴ紛争当時のラナの記憶を描きだしていく。ある時電話をとると、相手はレンタルビデオ店の店員であり、ビデオを返さないと延滞料を払うことになると警告してくる。なのでラナはたくさんのビデオを抱えて、レンタル店に足を運ぶ。ある時電話を取ると、友人の一人がラナの弾くピアノが聞きたいということで、電話越しに覚えた曲を披露することになる。それは二人の間の習慣だったが、彼女たちはそれが最後になることをまだ知らない。

こういった語りゆえまとまった筋は一切なく、まるで大人になったラナ自身が思い出した順に、観客へと記憶が提示されるような、そんな不思議な感覚が作品には宿っている。そしてその最初にはほぼ必ず、あの10時36分を指した時計が現れる。そのせいで、全ての出来事が全く同じ日同じ時間に起こったのではないか、そんな錯覚をも観客は抱くことになる。だがこの重なりには何か矛盾以上のものがあるとも、分かることになるだろう。

今作の語りはラナという少女の主観に寄り添ったようなものとなっているが、Martin DiCiccoが担当する撮影もまた主観に寄り添うようなものとなっている。彼のカメラは常にラナたちと空気を共有する第三者さながら、その傍らで登場人物たちの行動を静かに見つめている。こういった視線を通じて、観客もラナと同じ空間に立ち、そして時には彼女が見ている風景をそのまま見ることとなる。こうして今作を観るというのはすなわちラナの記憶を追体験することにもなり、ここに暖かな親密さが宿るのだ。

そしてこの記憶がさらにラナだけでなく、ラナの友人たちとも繋がっていく。双眼鏡で隣のアパートのベランダを観察したり、一緒に床屋へ行って「髪、変にされた!」と笑いあったオーリャ。夜に紛れてタバコを吸ったり、暗い部屋で二人きりになってアメリカのロックを聴いてたヴラダ。もしかしたのなら両想いの相手だったかもしれないのに、紛争で離れ離れにならざるを得なかったアンドリヤーナ。そういう大切だった人々の記憶もまた、映画のなかでラナの記憶と一体化していく。

さらにこれを越えて、今作はラナが住んでいた町自体へも広がっていく。街の風景を撮すカメラは、例えば壁を凝視したり、何階建てかのアパートを見上げたりと、そんなカメラがそのまま通行人の視線となっているような等身大の感覚が常に存在している。そしてその風景はどれも粒子の粗い自然光で満ちており、美しいと同時に、何もかもが少し掠れていてどこか曖昧な印象を受ける。それはこの風景の数々が、町自体の記憶に残っている風景だからのように思える。

今作は、何よりも多幸感に満ちている。子供の頃の楽しかったことや悲しかったこと、嬉しかったこと寂しかったこと、全てひっくるめて幸せだったという暖かみで満ちている。だがその端々で、ユーゴ紛争が勃発し徐々に凄惨さを増していっているというのが、ラジオニュースや、大人たちの会話、そしてラナの視界から消えていく人々から分からざるを得ない。ラナを演じるNatalija Ilinčić、彼女が見せる思春期らしい仏頂面から時折浮かぶ笑顔は、日常のかけがえのなさ、そしてこの血塗られた時期の複雑さを体現している。紛争の間にも確かに日常というものが存在しており、しかし市井の人々一人一人の想いを嘲笑うかのように、その日常は容易く消し去られてしまうのだと。

ラナと同じほどに印象的な存在が、Slavica Bajčetaが務める今作のナレーターだ。三人称で綴られているラナの記憶について、最初彼女はこの内容を観客に伝える“ナレーター”の職分を弁えた平静なトーンで語っていく。それでもナレーター自身がラナの記憶に呼応し、時にはラナの心に重なるかのように、その個人的な感情が声色に現れる瞬間がある。そしてラナが今まで出会った人の名前を言う時、感極まったような震えた声がそこに響く。みんな、みんなどこかに消えてしまった……その震えはまた、観客自身の心の震えでもあるのだろう。

“Kada je zazvonio telefon”はユーゴ紛争が1人の少女から、日常を生きる人々から奪い去ったものについて、これまでの作品とは全く違う方法論で描きだしている作品だ。失われたものはもう戻ってこない、私たちはその記憶と傷を背負って生きていかなくてはならない。これを静かに伝える今作は、希望と絶望のあわいに漂い続けるのだろう。

Anja Kreis&“Fără suflet”/モルドバ、神は与え奪い去る

さて、モルドバである。日本だとこの国はウクライナに隣接しているがゆえ、ウクライナ侵攻の影響をモロに受けて情勢不安が続いていることが有名かもしれない。そして憲法において公用語の“モルドバ語”が“ルーマニア語”という記述に改正されたという報道を聞いたことがある方もいるだろう。それはこの国がソビエト連邦に植民地化されており、現在でも少なくない数のロシア人が居住しているが、彼らと元々の住民であるルーマニア人が対立することで起こった出来事でもある。ルーマニア人側は自分たちと過去の植民地支配によって培われた文化を切断したいわけだ。モルドバという国が置かれた状況はなかなかに複雑なものだが、今回はそんな国の現在を見据える不穏な1作、Anja Kreis監督作“Fără suflet”(英題:“The Alienated”)を紹介していこう。

今作はXとだけあらすじで紹介されるモルドバの町を舞台とした作品となっている。ここにとある姉妹が暮らしている。妹のヴァルヴァラ(Maria Chupriskaya)は哲学教師として生計を立てており、近隣の大学でヘーゲルニーチェなどのドイツ哲学を教えている。そして姉であるアンゲリカ(Dana Ciobanu)は外科医であり、以前はモスクワで勤務していたのだが、何かの理由で故郷へ舞い戻り、今はこの町の病院で働いているのだった。

物語はこのヴァルヴァラとアンゲリカという姉妹を中心として展開していく。ヴァルヴァラは無神論的な哲学を教える傾向にあり、ある時にはニーチェの“神は死んだ”という言葉を生徒たちに教授する。だが敬虔なキリスト教信者であるイモゼツェフ(Epchil Akchalov)という生徒がテストでその無神論的な傾向に意義を唱えた際、彼を落第させてしまう。一方でアンゲリカは外科医としての手腕もあり地元の名士として称えられていたが、ある秘密を抱えていた。彼女は勤める病院で違法に中絶手術を行っているのだ。

この陰鬱な物語において、Eugeniu Dedcovによる撮影は長回しを主体として姉妹を執拗に追跡するようなものとなっている。それはまるで亡霊のごとき第3の存在が彼女たちに取り憑き傍らから一切離れることがないと、そんな不気味な印象を与えるものだ。こうして登場人物の表情や身振り、空間内で起こる出来事の数々がカットの介在しない途切れぬ時間のなかで描かれていくことで、それらはより生々しい形で画面に刻まれることになる。そうして場を支配する息詰まるような緊張感が観客に肉薄していくのだ。

こうして今作はスリラー作品としての様相を呈し始め、脚本も兼任するKreisは姉妹をその人間性を問うような場所へと追い詰めていく。イモゼツェフは単位を何とかもらうためにヴァルヴァラに付きまといだし、彼女はその嘆願を意にも介さず落第という事実を突きつけ続けるのだが、彼は徐々に常軌を逸脱していくことになる。さらにアンゲリカの元には、お腹の子はアンチクライストだと主張する女性が現れる。いつもの行程で彼女に中絶手術を施しながら、後日がアンゲリカの目の前で彼女が死亡するという事件が起き、病院内に波紋が生まれてしまう。

このように姉妹に関する描写を積みあげていきながらも、今作はそこからXという町の状況にも目を向けていくことになる。例えば新聞にアンゲリカを称える記事が掲載されるのだが、これはある政治家の差し金だった。これと引き換えにぜひ自分に票を入れてほしいと彼はアンゲリカに頼むのだ。そういった町の現状をほのめかす場面が、映画の細部に表れていく。被写体と同時に空間そのものも際立つ長回し撮影も相まり、姉妹の姿からはXの現状すらも見えてくる。それはまるで彼女らが否応なしにより大いなる社会の一部であることを象徴かのように。

今作において際立つ要素の1つが女性差別だ。モルドバでは妊娠12週までは中絶が無条件に認められているが、それ以降は強姦による妊娠や梅毒などの性病といった理由がなければ中絶が認められないなど、その権利に制限が存在している。それが理由で違法な中絶手術が行われざるを得ない状況は最も露骨な女性差別の表れだろう。女性が自分の身体を自分でどうにもできないという男性中心的な現状、これをある種救うためにアンゲリカは違法の手術を続けているわけだが、これをひた隠しにせざるを得ないゆえ彼女の精神が歪んでいく様を観客は目にすることになる。

そしてヴァルヴァラは職場における女性差別に日々直面することになる。会議の場では彼女がいるのを知りながら娼婦に対する好みなど性差別的な会話を男性教師たちが繰り広げるという場面も存在する。おそらくセクハラ行為も日常茶飯事だろうこともその空気感からほのめかされる。女性の少ない職場においてこうした扱いをされるヴァルヴァラの反感や心労は想像するに余りある。

この性差別的かつ保守的な状況で生き抜くためのヴァルヴァラたちの術こそが“神は死んだ”というニーチェの言葉に象徴されるような無神論なのだというのが、物語が進むにつれて伺えてくる。ヴァルヴァラほど積極的に神を否定することもないが、アンゲリカもまたキリスト教を信じる素振りは見せることなく、より即物的な形でこそ社会を生き抜こうとしている。その帰結が違法性を熟知しながら行う手術なのかもしれない。

こういった無神論的な姿勢に対して、神と、そして神への信仰がまるで逆襲として彼女たちに降りかかる様をも私たちは目撃することになる。それは手術を行うアンゲリカを見舞う不気味で不可解な事件であり、無神論を標榜するヴァルヴァラにその再考を問う信仰に篤いイモゼツェフであったりする。それに追い詰められ、姉妹は神への信仰というものを根本から問わざるを得なくなるのだ

これらはより普遍的な要素であるが、ここにさらにモルドバ特有の要素も重なりあってくる。このXという町が特徴的なのは姉妹ひいては町民たちがロシア語とルーマニア語の両方を日常言語として使用するところである。姉妹は基本的にロシア語を使用しながら、時にはルーマニア語で意思疎通を図るという場面が頻出する。私が観たFestival Scope Proの紹介ページでは使用言語が“ルーマニア語”と書かれていたが、使われているのは多くの部分においてロシア語だ。私はルーマニア語に関してはちょいちょい理解できるのだが、実際この2言語は発音に関してかなり似通っている。ルーマニア語はフランス語やイタリア語と同じロマンス語でありながら、使用圏であるルーマニアモルドバが、ウクライナセルビア、そしてロシア/ソ連といったスラブ語圏に囲まれていたゆえ、発音がその影響を多分受けているからである。ソ連に植民地化されていたモルドバなら尚更だ。この言語使用の特異な状況が、普遍性もしくはヨーロッパ性を越えた今作とモルドバの特殊性を常に意識させるのだ。

こうして普遍的な要素と独自の要素が交わりながた凄惨な光景の数々が連なっていくなかで、“Fără suflet”という映画はその凄惨さ、不穏さにこそモルドバの今を見出す。そして終盤における不穏も極まった展開の数々に、監督のモルドバという国への想いを見えてくるのだ。