鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Said Marzouk&“Zawgaty wal kalb”/エジプト、孤島に悶える肉の欲

さて、東京国際映画祭と合わせてエジプト映画界の重鎮ユーセフ・シャヒーン特集が開催される。日本でエジプト映画がここまで大々的に特集されることはそう多くないので喜ばしいことだ。ちなみに私は行かない、お膳立てされたマイナー映画の上映に趣味はないからだ。こういうのは自分でディグってこそだ。実際、シャヒーンと同時代に活躍したエジプト人監督にはどんな人がいるのかはかなり興味が湧いたのでエジプト映画史探求をしていたわけだが、今回はそんな過程で見つけた驚くべき1作であるSaeed Marzouk監督による1971年製作の初長編“زوجتي و الكلب / Zawgaty wal kalb”(英題:“My Wife and the Dog”)を紹介していきたい。

今作の主人公はモーシー(Mahmoud Moursy)という中年男性だ。灯台守である彼は家に年下の妻であるスアド(Soad Hosny)を残して、勤務先である孤島の灯台へと赴く。ここでしばらくの間、灯台の管理という仕事に従事するわけだ。そして同僚たちと久しぶりの再会を喜んだ後、孤島での生活が再び始まるのだったが……

このように始まる“My Wife and the Dog”が描こうとするのはモーシーという中年男性の生活と、そして心理模様である。事件がない限りは退屈な孤島での生活、仕事がない時は同僚と暇を潰すか、自身の部屋でじっとしているかしかない。そんな状況でモーシーは同僚たちとギャンブルにかまけた後、後輩であるヌーア(Nour El-Sherif)に昔の性的武勇伝を語りだす。

彼の語る武勇伝は人妻を狙って寝取るというメロドラマも斯くやの過激なものである。自身の性的な魅力を世界に誇示するかの如く、モーシーはそんな性的な冒険を若い頃に繰り広げていたわけだ。だがそんなある日、モーシーはスアドに手紙を届ける必要に迫られる。灯台から離れられないゆえその任をヌーアに託すのだったが、独りの部屋である思いに苛まれる。かつての自分のように、ヌーアがスアドを寝取るのではないか?

今作は様々な技術が驚くべき調和を魅せているのが印象的だ。まずはAbdel Aziz Fahmyによる撮影、彼は孤島にある灯台という舞台設定から息を呑むほど格好いいショットを幾つもズバズバと連ねていく。外の浜辺を歩く、灯台の一室でギャンブルにかまける、船着き場から遥か遠くを眺める。モーシーといった登場人物がそういったことを成す姿が印象深いショットとともに描かれるのだ。

さらにAtiya Abdoによる編集はカットが多めであり、表情や風景が軽快なまでの勢いで切り替わっていく様は観客の注意をこれでもかと惹きつける類のものだ。こういった小気味よい編集によって様々な場面が入り乱れていくのだが、それによって今作は眩惑的な雰囲気すらも湛えていく。

さらにNasry Abdel NourとSobhe Al-Gamalによる音響設計にも気合が入っている。灯台のある孤島という舞台設定ゆえ、周囲からは岸に打ちつける波の音、そして激しい海風がノイズさながらに介入してくるのだ。そうして劇中の世界には常に不穏な空気が満ち満ちているのだ。

今作を貫くのは心理模様を言葉でなく画と音で描く表現主義的スタイルだが、特徴的なのはその心理の核にあるのが性欲であることだろう。これは冒頭でも印象的に示唆されている。身体を重ねあわせる男女、その姿が暗闇から光を伴いながら浮かびあがる。光と影が極端に対比されることで、より立体感を以て被写体が迫ってくる。この技法は絵画用語で“キアロスクーロ”と呼ばれているわけだが、これこそ全体を貫く美学であると観客は頭でなく心で理解するのだ。

こうして他者を傷つけてきた過去が巡り巡って現在のモーシーを苛む様を、私たち観客はスタイリッシュかつ眩惑的な形で見せつけられる。年老いて中年になり、魅力や精力が衰えたこと今、自分こそがあの時に寝取られた男たちの位置に置かれていると彼は気付かされるわけだ。物語が残酷なのは、その猜疑心もまた独りよがりであると提示されることだ。スアドもヌーアも実際にはそういった不埒な考えは一切持っていない。寝取られへの恐怖はただの考えすぎであり、他者を信頼できないモーシー自身の不実さの表れでしかない。

とある中年男性の性欲の悶え、これを通じて瓦解していく男性性の行く末を描きだすのがこの“My Wife and the Dog”という作品だ。1970年代のエジプト映画にこれほどまでにゾクゾクさせるような男性映画が作られていたとはと驚かされる。

最後に監督であるSaid Marzouk سعيد مرزوقについて紹介していこう。監督Said Marzoukは1940年に生まれた。エジプトのテレビ局やラジオ局で勤務した後、映画監督として活動を始めるがそんな彼の初長編が今回紹介した“My Wife and the Dog”だったわけだ。今作を皮切りに彼は過激な性描写と政治批判で頭角を現わしていくが、アメリカン・ニューシネマなど反体制的な映画潮流が世界的に流行していた中で、エジプト映画界においてそれに呼応した存在の1人がMarzoukだったのである。最後になるが、初長編の今作に関してはエジプトのシネフィルが“ロバート・エガース、お前「ライトハウス」作る前これ観たろ!?”と言ってるとかいないとか。確かに、似てるかも。

Botir Abdurakhmanov&“Hilol”/ウズベキスタン、狭間に荒ぶる魂

さて、ウズベキスタンである。中央アジアについて幾度となくここで取り上げているのだが、ウズベキスタン映画に関してはこの国の批評家へのインタビューを除いて一度も鉄腸ブログで取り上げたことがなかった。色々観てきてはいたが、私の気に入る作品が現れなかったからである。だがとうとう“これは!”と思うウズベキスタン映画を見つけることができた。ということで今回は釜山国際映画祭でプレミア上映された、ウズベキスタンの新鋭監督Botir Abdurakhmanovによる初長編“Hilol”を紹介していこう。

今作の主人公となるのはヒロル(Nargiza Bakaeva)という23歳の女性である。ヒロルは厳格な父(Alisher Yuldoshev)の手で息子のように育てられ、一時はテコンドーのチャンピオンにまで上り詰めた。しかし今は生業である牧畜に従事するとともに、半身不随となった父を介護する日々を送っていた。

まず監督はそんなヒロルの荒んだ日常風景を描きだしていく。ヒロルはすこぶる短気な性格であり、暴言と暴力に一切の躊躇がない。テコンドー経験者ゆえ、自分より体格のいい男性もその拳であっという間に組み伏せるほどに強い。ヒロルには姉たちがいるのだが父の介護は彼女任せであり、たまに顔を見せに来る時ヒロルは彼女たちに敵意を剥き出しにしてみせる。そしてこういった態度は何よりも自分の人生を歪めた父に対してより激しいものとなる。

Diyor Ismatovによる撮影は息詰まるリアリズムを伴ったものだ。彼のカメラは常にヒロルの傍らに付き従っており、手振れを伴いながらヒロルの一挙手一投足を捉えていく。人々どころか世界それ自体に対して怒りを向けるようなヒロルの周囲には緊張感がこれでもかと張り詰めており、その感覚を観客は絶え間なく味わわされる。

ヒロルを取り巻く工業地帯の舞台も印象的だ。それは緑などは一切存在しない砂と機械の世界のように見える。命の気配というものが殲滅された社会において、数少ない町民たちの姿は酷くちっぽけなものに思える。ヒロルの存在もまたちっぽけで、中心地で買い物をした後、灰色の世界をトボトボと歩く姿は今にも鉄塔や線路に潰されてしまいそうだ。そんなヒロルの存在を掻き消さんとするのは、採掘機や列車といった鉄塊の群れが響かせる轟音なのである。

そんなある日、ヒロルに対して父がこんな言葉を投げかける。お前も姉たちみたいに早く結婚しろと。今まで男性として生かされてきたヒロルは、今度は女性としての役割を強いられることとなってしまう。そんな生き方をついぞ知らなかったヒロルは何をしていいのか分からず、心をさらに擦り減らしていく。

ヒロルが置かれた状況はトランスジェンダーのそれとは微妙に異なるだろうが、性別違和に似たもののように思える。女性として生まれながら男性として育てられ、この強制ゆえに暴力を厭わない危うい性格に成長してしまった。その状態で今度は女性としての役割を強いられる。女性の伝統衣装を着る、再会した幼馴染みの男性に言い寄る。そういった行為は付け焼き刃にしかならず、女性として生きることもままならないことを知る結果にしかならない。

こうして性において宙吊り状態にさせられ生まれる混乱がヒロルを狂犬のごとく荒ぶらせるわけだが、ここにおいて全ての原因である父との対立は必然的に激化していく。言葉をぶつけ合う中で互いの行動はエスカレートしていき、心と心で殴りあうような状況にまで至る。だがここには何らかの熱は一切なく、ただただ冷ややかで殺伐とした虚無感ばかりが存在している。

そんな今作の核となっているのは間違いなくヒロルを演じる主演俳優Nargiza Bakaevaの濃密な存在感だろう。ヒロルという存在は父も姉も幼馴染みも、他の誰にも理解されることがない。だがヒロルを理解できないのは紛れもなくヒロル自身なのである。そんなあまりにも深すぎる孤独をBakaevaは誰にもできない形で鮮烈に体現している。

“Hilol”というのは主人公の名前であるが男性名であるとともにHilolaという女性名の愛称でもあるのだという。男性と女性どちらの名前でもありながら、どちらにも属せず宙吊りにさせられる。そんな性における狭間の存在が抱く誰にも理解されえぬ孤独、これを“Hilol”は唯一無二の荒涼感とともに描きだしているのだ。

Theja Rio&“Angh”/ナガランド、突き立てられる十字架


razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
以前インドのナガランド州で制作されたTiakümzük Aier監督による長編作品“Nana: A Tale of Us”を紹介した。私としてもこの映画を通じてナガランド州という独自の文化を持った地域を知ったわけだが、今年のトロント国際映画祭で新たなナガランド映画が上映され、観客賞を獲得したとの報が入った。これは観るっきゃないだろ!ということでこの地期待の新鋭監督Theja Rioによる初長編“Angh”を今回は紹介していこう。

舞台となるのは1962年、ナガランド州のモンという自然豊かな地域だ。ここへバプテスト派の宣教師たちがキリスト教を広めるために到来、その結果キリスト教はもちろん西欧文化が加速度的に普及していくこととなる。そして洗礼を受けた少なくない人々が故郷や伝統を捨てていく、そんな状況が繰り広げられていた。

今作において中心となるのはとある村の長であるナガ・コニャック人のアン(Anghlong Konyak)と彼の息子であるアマオ(Sobino Rengma)である。アンの村からも多くの村民が移住してしまっており、現在残っているのは彼ら2人だけだ。村長として地域の伝統を守るために、アンは最後の1人になろうとも今まで受け継がれてきた生活を続けようとするのだったが……

物語はそんなアンの視点から描かれていく。アンの生活は、しかし否応なしに変化していかざるを得ない。狩猟は宣教師たちに邪魔をされ、果物の採集も地域の人々に“所有”や“私有地”という概念が普及したことで、自由にできなくなっている。こうなると生活の質は落ちざるを得ず、アンたちは困窮していく。

Adam Pietkiewiczの担当する撮影はすこぶる美麗なものだ。彼のカメラはナガランドの山奥に広がる自然を寒々しくも崇高な形で捉えており、アンたちがそれらに感じているだろう畏敬の念を、観ながら観客も追体験することとなるだろう。そして今作はフィルムで撮影されており、ゆえに映像は粒子に満ちて古めかしい印象を与える。それは1962年という在りし日への郷愁を誘うような感触をも伴っているのだ。

この状況でアンはどこまでも意固地であり、キリスト教がこの地域に持ちこんだもの全てを拒否せんとする。苦境を見かねた宣教師はもちろん、キリスト教に改宗したかつての村人たちの援助すらも拒み、当然の帰結として彼は孤立していく。彼の最も近くにいる息子アマオも最初は父に付き従いながら、少しずつ西洋文化に触れる中で新鮮な文化や新しい技術を知り、惹かれていく。それはアンと彼が体現する旧来の文化への疑いと幻滅にも繋がっていく。

ここにおいて描かれる情景は、革新に呑まれていく伝統という世界各地で起こっている普遍的なものでもある。革新に対する姿勢は多様なものであるが、アンの場合は柔軟に取り入れるって姿勢は敗北と拒否するようなすこぶる保守的なものであり、それがあまりに頑なゆえに反感を抱く観客も少なくないだろう。さらに彼はアマオにも家父長として抑圧的な態度を取り、アマオが病気に罹った際にも成す術がなく、救うのは宣教師たちの医療技術だ。観客のアンへの反感は、いつしか宣教師側への肩入れにも繋がっていく。

しかし終盤、アンの心を踏みにじるような悲壮な展開が連続する中で印象的に現れるもの、それが十字架である。地域には次々と教会が建てられ、そこにはキリストの象徴である十字架が作られる。それはまた西洋による植民地主義の象徴ともなり、伝統文化の息の根が止められていく。今作ではその侵攻が悪意でなく善意で成されているのが印象的だ。宣教師は常に慈愛の心を見せ、助けを求める者がいれば必ず救いの手を差し伸べる。こうした情景には“地獄への道は善意で舗装されている”という言葉を想起せざるを得ない。

そして舞台となった1962年から60年もの時が経った今、現在ナガランド州はどうなっているのか。Wikipediaの記載に拠れば“ヒンズー教が主流のインドとしては異例なことに、住民の90%がキリスト教徒で、メーガーラヤ州とミゾラム州でもキリスト教が主流である。アメリカの宣教団によるキリスト教布教が成功しており、ほとんどの住民はキリスト教を信仰する。特に「世界で唯一のバプテスト教会が主流の州」として知られている”とのことだ。

伝統への想いや執念が孤立を生み、隣人愛の名の下に最後には全てを奪われ、彼の無力感の上に十字架が突き立てられる……このキリスト教の静かなる侵攻にナガランドの人はあまりに無力だったという事実を“Angh”は観客へと叩きつけるのである。

Joaquín Ruano&“Nosotros”/グアテマラ、死が2人を分かった後に

Joaquín Ruanoによる崇高な第2長編“Nosotros”において主人公は2人いる。まず1人はロメロ(Jozef Coxaj)という先住民の男性であり、彼はグアテマラの地方都市で家族を養う日々を送っていた。しかし稼げない状況に業を煮やした彼は、首都であるグアテマラ・シティへ出稼ぎに赴く。ここで同じ境遇の仲間とともに警備員の仕事を得るのだったが……

もう1人の主人公がヌビア(Lola Vásquez)である。トランス女性である彼女はロメロが勤めるショッピングモールで質屋を経営しているのだが、孤独を深めながら満たされない日々を送っていた。そんな中で彼女はロメロと出会い、何度も交流するうちに彼に惹かれるようになる。

監督はそんなロメロとヌビアの姿を通じて、まずグアテマラの実情を描きだしていく。グアテマラにもやはり地方都市の衰退とそこからの若者の流出が問題となっており、ロメロは正にその問題を象徴していると言える。そして首都のグアテマラ・シティは地方都市に比べれば栄えながら、その代償として治安は相当に悪い。ロメロの仕事は警備員だが、常にショットガンを携帯としており、職務遂行が命懸けというのが一目で伝わらざるを得ない。

ここにおいて撮影を担当するPaolo Giron(担当作“Jóse”は鉄腸ブログで紹介済み)のカメラは基本的に被写体と距離を取っており、そこにデジタル撮影特有の、映る全てに焦点が当たるという解像度の高さも相まって、定点カメラさながらの観察的な冷やかさが画面全体から滲んでいる。そこでは登場人物たちとともに、建築や都市がより印象的に映る。ロメロたちの働くショッピングモール、彼らが交流を積み重ねていく雑踏、親密さを深める部屋、そしてこういったものを抱くグアテマラ・シティという都市そのもの。これがGironの撮影でまず際立つのである。

そんな中でふとロメロやヌビアの顔へと一気に近づく瞬間がある。携帯を見つめる時の無表情、相手の感情を伺うような不安げな顔。そういったものが観客に迫るのである。この緩急こそが1つ1つの画を印象深くさせるのだが、それは編集を担当したCésar Díazの功績だろう。鉄腸ブログでも紹介した“Nestras madres”の監督でもある彼は編集技師としても独自のテンポを作品に宿すのに成功している。こうして都市の光景と人の佇まいが、ロングショットとクロースアップの交錯によって1つになることで、躍動感すらある豊かな情感がここに生まれるのである。

そして今作はクィア映画としても際立つものがある。ロメロは故郷に妻や子供といった家族を残しながらもグアテマラ・シティでトランス女性のヌビアと親密な関係になる。こうしてクィアな愛の領域に足を踏みこむことになり、性において多数派として生きてきた彼は当惑せざるを得ない。そんな彼の心と体をヌビアは少しずつ解き放っていき、自身の孤独が癒されるのも感じる。先述した演出の豊かさも相まって、このクィア・ロマンスは静かに心揺さぶるものとなっている。

だがそこにグアテマラの過酷な現実が襲いかかる。性差別はもちろん先住民差別をも内包した社会的な悪意が2人に牙を剥くのだ。そうして私たちが目撃することになるのは喪の作業である。亡くなったという報を受ける、遺体を棺へと移動させる、棺を故郷へと運ぶ。そういった喪の作業があの冷ややかな撮影とともに淡々と描かれていく。

社会的偏見がゆえにクィア当事者はより多くの差別、より多くの暴力の被害者となり、そして必然的に早すぎる死すらも彼らには多く訪れる。そんな荒涼たる状況に在ることをクィア当事者たちは強いられるのだ。私たちはこうして切実で悲痛な形で、グアテマラの今に死にゆく、それと同時に今を生き続けていくクィア当事者たちの姿を“Nosotros”に目撃することになる。

Shahrbanoo Sadat&“No Good Men”/アフガニスタン、仕事に恋に自爆テロに


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2021年5月、アメリカ軍がアフガニスタンから撤退を開始した。兵力、そして財政的な負担ゆえのことだった。この期に乗じて旧支配勢力であるターリバーンが首都であるカブールに進軍、国土を制圧して政権を奪還することとなる。ここにおいて女子教育の禁止など特に女性たちへの抑圧が激しさを増し、少なくない女性たちもまた国外への移住を余儀なくされる。その中には世界的に有名な女性監督もいた……今回紹介するのはそんな亡命監督が当時について描いた、アフガニスタン舞台のロマンティック・コメディ……ロマンティック・コメディ!?な驚きの1作であるShahrbanoo Sadat監督作“No Good Men”だ。

主人公となるのは30歳のシングルマザーであるナル(Sadat監督が兼任)だ。彼女は離婚後に女手一つで息子のリアム(Liam Hussaini)を育てながら、アフガニスタンの首都カブールにあるテレビ局で唯一の女性撮影技師として忙しい日々を送っていた。

まず今作は彼女が繰り広げる波乱だらけの日常を活写していく。仕事場はかなりの男社会であり、女性で現場に出ていくのは撮影技師のナルくらいしかいない。だからか撮影技師としての技術を“女性だから”という理由だけで常に見くびられている。さらには法的にも性差別が内在しているゆえ、リアムの親権が常に危機に晒されており元夫の脅威に怯えなくてはならない状況が続いている。

このようにして監督はナルの悪戦苦闘を通じてアフガン社会の男性中心っぷりを批判していくわけだが、その様は重苦しくなくむしろ小気味よい。例えばこの苦闘の裏側で、ナルは友人に“アフガニスタンにいい男なんていやしない!”と愚痴ってみせる様はアメリカのロマコメで見掛けそうな場面だ。そして今作は正にそんな雰囲気から予感できる道筋を辿っていく。

ある日、ナルはコドラット(Anwar Hashimi)という年上のジャーナリストと出会う。その第一印象はサイアクなもので出会った瞬間「女が撮影?プロを連れてこい!」とクレームを入れられ、ナメた態度を露骨に見せる。それでもナルがプロとして確かな技術を見せていくなかで、コドラットは少しずつ彼女を認め始める。

こうして今作はお仕事恋愛ものへと変貌を遂げる。最悪の出会い方をした2人が、職業人としてのプロ意識を互いに見せる中で信頼を育み、そこからさらに互いの人間性を垣間見ていくことで惹かれあっていく。その様はロマコメか、いや少女漫画かといった展開だ。

さらに今作ではそこに、銃撃戦が繰り広げられるテロ現場でひょんなことから距離が縮むといった、アフガニスタンといった情勢不安な国でしか起きない吊り橋効果レベル100的な描写も加わっていく。これがアフガニスタンの日常!なのかは断言できないが、深刻さと軽やかさが混ざりあった独特の雰囲気がここには広がっている。

この中でナルの“いい男なんていない!”という考えは変わっていくわけだが、より印象的なのはコドラット側の変化だ。当初は典型的な“男は仕事、女は家事”という凝り固まった価値観を持っており、それでナルをムカつかせるわけだが、彼女の奮闘や主張に感化を受けていき、いつしか考え方が変わっていくわけである。ここで興味深い描写として、ナルがアフガニスタンの男性にいい男がいない理由に関して皆がある“トラウマ”を抱えているからだと持論をぶつ場面がある。これに関して監督自身はインタビューでこのトラウマと、アフガニスタンの男性全般についてこんな言葉を残している。

“彼らの多くは“男とはこうあるべきだ”という硬直した観念――家族を養い、家長として君臨し、絶対的な権威であること――に縛られています。何世代にも亘って、誰もそのあり方に疑問を抱いてきませんでした。しかし今、それに疑問を投げかける女性たちが現れ、それが彼らを落ち着かなくさせてるんです。

(中略)思うに今は男性というアイデンティティが危機に瀕しているんですよね、もし男性が絶対的な稼ぎ手や権威でなければ“彼は一体何者なのか”と問われてしまうと。そうした状況が不安を生み、フェミニズムを脅威とみなす人々も現れるわけですね。

それから女性は互いに支え合うネットワークを築いていることが多いですが、男性はむしろ孤立していることが多いという点にも気づきました。孤独がいわば蔓延しているんです。彼らは友人同士であっても、自分の弱さをさらけ出すのが苦手というわけですね。それでも、私は変化を信じています。もし“男性であること”に多様なモデルが存在すれば、新しい世代は別の道を歩めるようになるはずだと”*1

そして私たちはこういった難しい状況の背景にいかなる存在があるかをまざまざと見せつけられることとなる。文章の最初で言った通り、今作の舞台となっている2021年はタリバンがアフガニスタンの政権を掌握した年である。劇中でもタリバンが少しずつ権力を奪取し、市井の人々の生活が変貌を遂げる様が描かれる。

そこにおいて特に印象的な場面として、以下のものが挙げられる。序盤、ナルとそして同じテレビ局で働くレイラが、アメリカ帰りの友人と再会を果たす。彼女は“これ、離婚祝い!”とナルに、ご丁寧に亀頭や皮も再現したディルドをプレゼントする。ナルはディルドに爆笑、レイラはドン引きといった形で何だかんだ再会を喜ぶのだが、それからしばらくしてレイラが自爆テロの犠牲になってしまう。

これほどまでに急激に情勢が変わっていく中で、いち市民はその大いなる流れに対して無力であり、そこに影響を与えられるはずのジャーナリストたちも実際は彼らと同じく大いなる政治的暴力に呑みこまれるのみである。

今作の原作はコドラット役のHashimiが実際のタリバン政権奪取期に記していた日記であり、Sadatがその脚色も行っている。主人公のキャラ造形が自身の境遇に近いので、物語には両者の経験が多分に反映されてもいるのだろう。さらに主演すらもSadatが兼任しているわけだは、先述したアメリカのロマコメに登場しそうな恋に仕事に大忙しなカメラ技師をコミカルかつ魅力的に演じている。インタビューによるとこの役を情勢的な意味で他のアフガニスタンの女優に担わせることはできないと、主演兼任を決めたらしい。男性に希望は持ちたいし、1人1人にはいい人もいるが彼らが構成する社会に対しては絶望感しかないと、そんなアフガニスタンに生きる女性の心を彼女はこうして体現したのだろう。

2021年、タリバンによる政権奪取の年、サイアクな出会い方をした年上のアイツに恋しちゃったアタシどうなっちゃうの!?アフガニスタンの少女漫画風お仕事ロマコメは、テロに亡命にと命懸け!?……こんな実体験を基にこんな映画作れるのは、Shahrbanoo Sadat、アンタしかいねえよ……

Zaid Abu Hamdan&“Boomah”/ヨルダン、クソアマのこの生き様

中東諸国は映画産業の規模がそこまで大きくはなく、かつイスラム教の影響もあるのか、ジャンル映画が少ない印象がある。もしくは地産地消で消費されるに留まり、地域外にそういった映画が届かないか。例外は映画大国のイランとイスラエルくらいだろうか。こういう状況なので中東のジャンル映画を見つけたら即観るくらいの勢いでいるわけだが、今回紹介したいのはそんな中でとうとう見つけたヨルダンの犯罪映画であるZaid Abu Hamdan監督作“Boomah”だ。

主人公となるのはアラビア語で“フクロウ”を意味する渾名を持つブーマ(Rakeen Saad)という女性だ。彼女は子供の頃に親に捨てられて以来、孤児としてスラム街を生き抜いてきた。今はファデル(Majd Eid)をリーダーとするギャング団に所属、レバノンの首都アンマンに広がる地下経済で生存闘争を繰り広げる日々を送っている。

今作はそんなブーマを中心に弱肉強食の世界を描きだすスリラー作品となっている。ブーマのそのサイコパス的な気質や気性の荒さから多くの人から恐れられる存在だ。住処の周りで騒ぐ子供たちには暴言を吐き、露天商から地代をほぼ強奪かのように徴収し、ギャング内でも自分を侮る者がいれば暴力も辞さないし、権力奪取の時も虎視眈々と狙っている。

監督以下スタッフたちはそんな荒々しい物語を娯楽映画として語る腕に長けている。撮影監督Samer Nimriは生々しさと端正さを合わせ持った映像を展開させていきながら、観客を弱肉強食の物語世界へと引き込んでいく。そして編集を担当するDina Faroukは観客がブーマの一挙手一投足にドン引きする暇すらも与えないまま、息もつかせぬテンポで物語を前に進めていく。

ここにおいて暴力/アクション描写もなかなかのものだ。物語の随所でブーマたち登場人物は容赦ない暴力を躊躇なく繰り出していくわけだが、グロテスクな描写は意外なほど抑えられながらも勢いと迫力は印象に残るに十分だ。ギャングも金がないからか銃はあまり使われず、素手やナイフが主な武器ゆえの泥臭さも特徴的だ。個人的に、ウィリアム・フリードキンの「ハンテッド」を彷彿とさせるナイフファイトはアガるものがあった。

こういった状況で、やはりというべきかギャング同士の抗争が勃発することとなる。ブーマもこの抗争に巻き込まれ襲撃を受けるなどもするが、彼女はこの混乱に乗じて、大金を奪う計画を立てるのだったが……

今作において何を措いてもインパクト大なのはブーマを演じるRakeen Saadの存在感だろう。ブーマという女は搾取、恐喝、暴力、殺人などの犯罪行為を行うのにいささかの躊躇もない、最近の映画では昨今あまり見掛けないレベルのクソアマだ。そんな共感や同情を一切受けつけない泥と血塗れの狂犬に、Saadはそのまま受肉したかのように熱演してみせる。

それでいて彼女は、後半においてブーマの秘めたる側面をも説得力を以て演じてみせる。ある日彼女は孤児のきょうだいと出会う。最初はいつも通りの人を人と思わぬ態度で接するのだが、彼らとの交流の中でなけなしの良心が芽生える。そしていつしか彼らを助けることが、親に見捨てられたことで受けたトラウマを癒すことにも繋がっていく。だが今まで成した所業はそれだけで贖われるはずもない。この状況で紡がれるクソアマとしての生き様はかくも壮絶なものであり、Saadはそれを鬼気迫る形で体現していく。こうして“Boomah”は2026年において最も濃密なジャンル映画の1本として際立つのである。

Mahmoud Al Massad&“Cinema Kewakeb”/ヨルダン、とある映画館で

今、娯楽の多様化や配信状況の発展といったものの影響で映画館が少なくなっていっているという悲しい現状がある。2026年においては新宿のシネマカリテが閉館したことが、個人的に衝撃でもあった。そしてより悲しいことに、これは日本だけで起こっているわけではない。ということで今回は中東はヨルダンのとある映画館を描く1作であるMahmoud Al Massad監督作“Cinema Kewakeb”を紹介しよう。

舞台となるのはヨルダンの首都アンマン、そこに位置するシネマ・ケワケブという映画館だ。コロナ禍でヨルダン全土の映画館が次々と潰れていった中、1945年から営業しているこの老舗は何とか命脈を保ち続けていた。とはいえいつ閉館してもおかしくない状況で、Al Massad監督はシネマ・ケワケブの記録を後世に残すためドキュメンタリー製作を始めるのだった。

こうして映画館の記録映像がまず映し出されていく。こじんまりとした規模で、かつその内装はボロボロで落書きだらけだ。そこでも様々な場所に張ってあるアラビア語の映画ポスターはマニアなら垂涎ものだろう。そしてフィルムを保管するための倉庫もあるのだが、相当に朽ちており端から見れば廃墟も同然だ。

シネマ・ケワケブはこんな状態でありスタッフもほとんどいない。最後に残ったのはアリとユセフという勤続数十年のベテラン2人だけであり、監督はそんな彼らに話を聞いていく。ヨルダンの現代史とともに歩んだ歴史、コロナ禍から始まった過去最大の苦境……さらに監督は映画館常連であるホームレスのフセインにもインタビューを行い、観客の視点からのシネマ・ケワケブも描きだしていく。

状況はすこぶる過酷なものでありながら、今作に満ちている雰囲気はどこか微笑ましいものだ。監督が彼ら3人や周辺で生きている人々の信頼を得ていってこそ、言葉を引き出しているのが分かるのだ。インタビュー外で3人がお喋りにかまけている様なども映し出されており、映画を通して彼らが気の知れた友人のようにも思えてくるのだ。

そしてここには緩さも存在している。記録映像には音声マイクが映り込み、カットの掛け声も何回も響く。そしていい感じの画を撮るため、監督が被写体に指示するも彼らは俳優ではないので妙な動きをしたりする。そのたびに“いや、こう動いて!”と指示し撮影はグダグダな進み方をする。こういった映画の体裁を整えるために普通は真っ先にカットされるだろう撮影裏の風景が意図的に多く使われており、これが作品の微笑ましく、かつ緩い雰囲気に寄与しているわけである。

そんな今作では随所にフッテージ映像が挿入されていく。第1次世界大戦の勃発、大戦終結のため開催された首脳会談、ホロコーストを乗り越えユダヤ人たちがイスラエル建国に励む姿、そしてハマスのテロを受け演説を行うネタニヤフ首相……これらのフッテージ映像は20世紀から今に至るパレスチナ問題の推移を表しているわけだが、ヨルダンがこの問題と深く関わっている何故ならこの国がイスラエルとパレスチナの隣国だからである。

フッテージ映像では直接描かれないが、そこで起こる出来事の数々にヨルダンは翻弄されてきた。イスラエル建国後、隣接するヨルダンにはパレスチナ難民が流入、現在その人数は250万を優に越えている。経済状況は芳しいものではなく、世界銀行の分類において“低位中所得国”とされている。そんな状況でパレスチナ難民に加え、同じく隣接するシリアやイラクからの難民も数多く、財政的ひいては社会的負担は甚大なものだ。

こうした状況でヨルダン映画界は難しい立ち位置にある。ある場面でフランスからの観光客がアリとユセフにこんな質問をする、ここではどんなヨルダン映画が上映されるんですか?と。彼らはこう答える、いやヨルダン映画なんてやらないよ、そういうのはテレビ局しか作らないからね。というのもテレビ界は世界的にもNetflixとタッグを組みドラマシリーズ「アルラワビ女子高校」を制作し好評を博すなど上向きだが、映画産業はそこまで発展しておらず、1年に製作される長編映画は未だに数本単位だ。そんな中でヨルダンの映画館はアラビア語圏の作品、アメリカやインドの映画を上映することで観客を集めていたが、先述の通りコロナ禍で壊滅状況に陥ってしまい、シネマ・ケワケブが孤軍奮闘を続けている。先の問答はこういったヨルダン映画界の状況を端的に示しているとも言えるだろう。

裏側の難しい現状が徐々に顕になっていくうち、今作の雰囲気も少しずつ変貌を遂げていく。撮影において監督は被写体への演技指導を行うわけだが、その指導がどんどんエスカレートしていき、彼らの動きや見え方を完全に支配しようとするかのごとく映る。そうすると必然的に現場には緊張感が生まれ、空気がギスギスし始める。今作は数少ないヨルダンの映画監督によるヨルダン資本で作られたヨルダン映画なわけだが、それゆえの自負がこの緊張感を生んでいるのではと思わされたりもする。

こうなると観客の頭に浮かばざるを得ないのはドキュメンタリー撮影をめぐる倫理的な問いである。現実をありのまま見据え、そして語る。フィクションと対比したうえでドキュメンタリーの根底には一応こういった考えがあるべきとされるわけだが、今作でこの前提条件が明らかに失われていくのを私たちは感じざるを得ない。ドキュメンタリーにおいてこういった演出の数々はどこまで許されるのか。

“Cinema Kewakeb”はまず瀬戸際にある映画館についての微笑ましい記録として幕を開けながらも、首都アンマンの今、隣国パレスチナひいては中東の激動の現代史、ドキュメンタリー製作が必然的に伴う倫理的問いをもまるっと描く複雑微妙な作品へと変貌を遂げていく。未だ楽観視はできないが、それでもヨルダン映画界の飛躍を期待せざるを得なくなる1作だ。