かつてユーゴスラビアという社会主義国家が東欧に存在した。数十年の安定を経てカリスマ的な指導者であったチトーの死後、急速に崩壊が始まりユーゴスラビア紛争が起こることとなる、かつて隣人同士だった民族同士が殺しあうという凄惨な状況に陥り、ユーゴスラビアはとうとう解体され、7つの国に別れることとなる。
この忌まわしき現代史は旧ユーゴスラビア諸国の歴史的なトラウマとなり、ゆえにこれらを主題とした映画作品は数多い。今回紹介するIva Radivojević監督作“Kada je zazvonio telefon”(英題:“When the Phone Rang”)もセルビアの視点からこのトラウマを描きだしている。しかし今作は紛争それ自体ではなく、紛争の最中にも続いていた市井の人々の日常こそを描きだすことで、また別の側面からトラウマを見据えている。
電話のベルが鳴ったのは1992年、ある金曜日の10時36分……そんなボイスオーバー、そして10時36分を指す時計の画ともに、1人の少女の日常が語られ始める。ラナという11歳の少女(Natalija Ilinčić)がその電話を取ると、電話の相手はラナの祖母が亡くなったことを知らせてくる。父や母、家族の誰よりも先にそれを知ってしまったラナは動揺したまま、寝室に戻る。そこではオペラ「カルメン」がテレビ放送されていた。
そしてまた、あの見覚えのある時計が現れる。電話のベルが鳴ったのは金曜日の10時36分、ラナがその電話を取るのだが、かけてきたのは祖母だった。彼女は国外へと引っ越すという孫娘に対して、お別れの言葉を告げようとしていたのだった。またいつか帰ってくるんだよ、そんな言葉の背後からは戦争についてのラジオニュースが聞こえてくる。
今作はこのようにして電話のベルを起点にしながら、ユーゴ紛争当時のラナの記憶を描きだしていく。ある時電話をとると、相手はレンタルビデオ店の店員であり、ビデオを返さないと延滞料を払うことになると警告してくる。なのでラナはたくさんのビデオを抱えて、レンタル店に足を運ぶ。ある時電話を取ると、友人の一人がラナの弾くピアノが聞きたいということで、電話越しに覚えた曲を披露することになる。それは二人の間の習慣だったが、彼女たちはそれが最後になることをまだ知らない。
こういった語りゆえまとまった筋は一切なく、まるで大人になったラナ自身が思い出した順に、観客へと記憶が提示されるような、そんな不思議な感覚が作品には宿っている。そしてその最初にはほぼ必ず、あの10時36分を指した時計が現れる。そのせいで、全ての出来事が全く同じ日同じ時間に起こったのではないか、そんな錯覚をも観客は抱くことになる。だがこの重なりには何か矛盾以上のものがあるとも、分かることになるだろう。
今作の語りはラナという少女の主観に寄り添ったようなものとなっているが、Martin DiCiccoが担当する撮影もまた主観に寄り添うようなものとなっている。彼のカメラは常にラナたちと空気を共有する第三者さながら、その傍らで登場人物たちの行動を静かに見つめている。こういった視線を通じて、観客もラナと同じ空間に立ち、そして時には彼女が見ている風景をそのまま見ることとなる。こうして今作を観るというのはすなわちラナの記憶を追体験することにもなり、ここに暖かな親密さが宿るのだ。
そしてこの記憶がさらにラナだけでなく、ラナの友人たちとも繋がっていく。双眼鏡で隣のアパートのベランダを観察したり、一緒に床屋へ行って「髪、変にされた!」と笑いあったオーリャ。夜に紛れてタバコを吸ったり、暗い部屋で二人きりになってアメリカのロックを聴いてたヴラダ。もしかしたのなら両想いの相手だったかもしれないのに、紛争で離れ離れにならざるを得なかったアンドリヤーナ。そういう大切だった人々の記憶もまた、映画のなかでラナの記憶と一体化していく。
さらにこれを越えて、今作はラナが住んでいた町自体へも広がっていく。街の風景を撮すカメラは、例えば壁を凝視したり、何階建てかのアパートを見上げたりと、そんなカメラがそのまま通行人の視線となっているような等身大の感覚が常に存在している。そしてその風景はどれも粒子の粗い自然光で満ちており、美しいと同時に、何もかもが少し掠れていてどこか曖昧な印象を受ける。それはこの風景の数々が、町自体の記憶に残っている風景だからのように思える。
今作は、何よりも多幸感に満ちている。子供の頃の楽しかったことや悲しかったこと、嬉しかったこと寂しかったこと、全てひっくるめて幸せだったという暖かみで満ちている。だがその端々で、ユーゴ紛争が勃発し徐々に凄惨さを増していっているというのが、ラジオニュースや、大人たちの会話、そしてラナの視界から消えていく人々から分からざるを得ない。ラナを演じるNatalija Ilinčić、彼女が見せる思春期らしい仏頂面から時折浮かぶ笑顔は、日常のかけがえのなさ、そしてこの血塗られた時期の複雑さを体現している。紛争の間にも確かに日常というものが存在しており、しかし市井の人々一人一人の想いを嘲笑うかのように、その日常は容易く消し去られてしまうのだと。
ラナと同じほどに印象的な存在が、Slavica Bajčetaが務める今作のナレーターだ。三人称で綴られているラナの記憶について、最初彼女はこの内容を観客に伝える“ナレーター”の職分を弁えた平静なトーンで語っていく。それでもナレーター自身がラナの記憶に呼応し、時にはラナの心に重なるかのように、その個人的な感情が声色に現れる瞬間がある。そしてラナが今まで出会った人の名前を言う時、感極まったような震えた声がそこに響く。みんな、みんなどこかに消えてしまった……その震えはまた、観客自身の心の震えでもあるのだろう。
“Kada je zazvonio telefon”はユーゴ紛争が1人の少女から、日常を生きる人々から奪い去ったものについて、これまでの作品とは全く違う方法論で描きだしている作品だ。失われたものはもう戻ってこない、私たちはその記憶と傷を背負って生きていかなくてはならない。これを静かに伝える今作は、希望と絶望のあわいに漂い続けるのだろう。