鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

済東鉄腸オリジナル、2020年代注目の映画監督ベスト100!!!!!

さて、未知の国の映画を探し求め、それについての記事を書き続けて早9年、何だか色々なことがあった。ある未公開映画を紹介したら、その監督からメッセージが来たり。フランスかぶれの映画批評家Twitter上で大喧嘩して、ちょっとした騒ぎになったり。クローン病という消化器官の難病にかかり、体重が40kg減ったりしたり……良いことも悪いこともたくさんあった。そしてこの未公開映画紹介を続けるなかで、かけがえのない仲間にも出会えた。東欧映画スペース!をともにやっているKnight of Odessaさんと岡田早由さん、さらに未公開映画の伝道師チェ・ブンブンさん……その他にも素晴らしい繋がりに恵まれたりした。

さらには去年、私は済藤鉄腸から済“東”鉄腸と名前を変えたうえで、初めての著作を出版させていただいた。その名も「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」!この超絶クソ長タイトルの自伝エッセイ、もちろん映画との関わりについても書かせていただいている。そこでCorneliu Porumboiu コルネリュ・ポルンボユの大傑作“Polițist, adjectiv”を大々的に取りあげた章まで書いて、ここまでこの映画、それどころかルーマニア映画について書かれた本、今までも今からも日本じゃ書かれないのでは?と、そこまでの情報量を詰めこませていただいた。しかもその本が重版に次ぐ重版で、とうとう1万部を突破したりと、いやはや本当信じられないことになっている。

いやマジで、マジで色々あった……そしてそういう状況は現在進行形なのだが、ここで思い出したのが、この鉄腸ブログで以前ブチあげた“2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!”だった。題名そのまま、2010年代に頭角を現し始めた注目の新鋭監督を、私の独断と偏見で紹介していく記事であり、この記事は未知の映画を探し求める人々に結構読まれた。

で、この企画を何回か更新していたわけだが、最後の更新は2010年代の終わりである2019年にだった。そこからその続編となる“2020年代注目の監督ベスト”も当然出そうとは思っていた。だがクローン病だったり、本の出版だったりと色々ありすぎて、いつの間にか5年もの月日が経ってしまった。

だがこの記事をキチンと書こうと思ったきっかけがあった。去年、こういったネット配信で未公開映画を観る方法を指南するnote記事を見つけた。自分も以前そんな記事を書いたので思わず読んだが、紹介サイトがThe Criterion ChannelだったりTubiだったり時代の移り変わりを如実に感じた。しかもこれを書いたのは当時高校生だった人物らしく、自分はもちろん、自分より若い世代よりもさらに若い未公開映画の探求者が現れているのを知り、興奮した。

こういう若い世代の活動を見ていると、自分も何かやらなきゃいけねえな!と奮起したわけである。ということで思い立ったが吉日、ここにとうとう“2020年代注目の映画監督ベスト100!!!!!”をブチあげよう!

内容は題名通り、2020年代に頭角を表し始めた映画作家たちをランキング形式で紹介している。だが1つだけルールがあり、それはこのランキングで紹介する作家は日本で1本も作品が通常公開されていない作家に限っていることだ(作品が映画祭で上映、もしくはソフト&配信スルーという映画作家に関しては今後紹介されることを願って入れているが)なので、私が以前かなり推していたラドゥ・ジューデもとうとう作品が公開されたので入っていない。巣立ちって感じである。

加えて、以前のランキングに入った映画作家も、新しい才能を優先して紹介したいという意味で極力減らした。それでいて何人かはパワーアップして帰ってきた人物もいるので、彼らは例外としてリスト入りしている。リストを見比べて誰が再登場しているか見るのも一興かもしれない。

まあ御託はここまでにして、早速ベスト100行ってみよう。ほぼ全員、このブログで紹介記事を書いており、リスト内の文章はその引用となっている。より詳しく知りたくなったなら、記事自体も貼っているのそれを読んでくれればと思う。全部合わせると、まあ実際30万字くらいは越えていると思うので、暇な時間の読み物にはピッタリである。ということで、未公開映画の大海原へと漕ぎ出していきまっしょい!

100. Paúl Venegas パウル・ベネガス (エクアドル)
中国系移民たちはよりよい未来を求めて世界各地へと散らばることになるが、彼らの行く先の1つがラテンアメリカだった。彼らは南米の異国の地で身を寄せ合いながら暮らし、今ではブエノスアイレスサンパウロなど大都市各地に大きな共同体が作られているほどだ。Paúl Venegasの長編デビュー作"Vacio"エクアドルの中国系移民が直面する現実という、エクアドル国外からは容易に知ることのできない今を魅力的に提示してくれる1作だ。今作は自分たちにとって未知の国の映画を観ることの醍醐味をも、豊かに語ってくれるのだ。
記事→Paúl Venegas&"Vacio"/エクアドル、中国系移民たちの孤独 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

99. Tashi Gyeltshen タシ・ギェルツェン (ブータン)
この映画の題名は"The Red Phallus"、"赤い男根"を意味するものだが、これはアプが彫る男根像を意味するとともに物語に現れる有害な男性性を示しているとも言える。今作に出てくる男性2人はともに抑圧的な人物であり、サンゲイに精神的な暴力を加えてくる。それによって彼女は窮地に追いやられていく。有害な男性性によって苦しめられる女性の姿をサンゲイは体現しているのである。しかしその果てに少女は反抗へと打って出る。それはこの社会に屹立する家父長制への反乱なのだ。"The Red Phallus"は迷信が深く根づいたブータンにおいて、1人の孤独な少女の姿を描き出した力強い作品だ。
記事→Tashi Gyeltshen&"The Red Phallus"/ブータン、屹立する男性性 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

98. Donart Zymberi ドナルト・ジンベリ (コソボ)
TS:あなたの作品"BZZZ"の始まりは一体何でしょう? 自分自身の経験、コソボのニュース、その他の出来事などなど。

DZ:今作の始まりはハエや蚊といった虫たちが引き起こした私の不眠が着想源ですね。時々はいつまで経っても捕まえられない蚊のせいで、朝になるまで寝ることができなかったんです。それから不眠の苦しみというものは時に狂気レベルです。客観的に見ると、蚊によって誰かが眠れないというのは特段悲劇的という訳ではありません。世界にはもっと大きな規模の戦争があり、毎日人は死んでいるのですからね。しかし映画で主人公が、そして現実世界で私がそうであったように、蚊に眠りを邪魔されている間そこには蚊を殺す以上に世界において重要なことはないように思えます。(その時、あなた個人にとっては)存在的な意味において、それが最も重要な闘争となるんです。そしてある特定の時間、つまりしたいことはただ安らかに眠ることだけの時、蚊がどれほど重大な存在になるかについてのこのアイデアこそが今作を作ろうと決意した理由であり、着想源は私が夜に体験した虫たちとの闘い、これ以外にはありません。
インタビュー記事→
コソボ、羽音に乱されて~Interview with Donart Zymberi - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

97. Núria Frigola ヌリア・フリゴラ (ペルー)
そして彼の芸術への信念とウイトト人たちの文化が繋がっていく。家族のもとを去った後、レンベルが向かうのはコロンビアのラ・ショレラという地だ。ここには彼と同じ"白鷺"一族が住んでいるのだ。彼はここで、同胞たちの高らかな踊りや歌に触れることになる。自分と同じ血が流れている人々が、こんなにも豊かな文化を持っていることの感動、それはレンベルにとって途方もなく重要なものだと彼の表情から悟るはずだ。"El canto de las mariposas"という作品はこのアイデンティティの探求が、いかに芸術と生を繋げ、そこに美しさと誇りを宿すかについての物語なのである。
記事→Núria Frigola&"El canto de las mariposas"/ウイトトの血と白鷺の記憶 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

96. Norika Sefa ノリカ・セファ (コソボ)
今作の核となる存在は間違いなくヴェネラ役を演じるKosovare Krasniqiだろう。劇中の大部分において彼女は苦い無表情を顔に浮かべているのだが、そこに彼女の諦念や絶望感が現れる一方で、ドリナや母との交流によって一瞬綻びる表情は希望の兆しをも感じさせる。だがこの世界はそんな生易しいものではないとは先述したばかりだ。現れるたび希望は潰え、全ては不穏な絶望に包まれていくかと思える。だがこれを経るにつれヴェネラの無表情から、最初はとは違う、言葉にならない感情が溢れるのに気づくはずだ。こうして彼女の強靭な存在感が"Në kërkim të Venerës"を、コソボの抑圧的な現状を見据える、苦くも力強い1作へと高めているのだ。そしてコソボ映画界の更なる躍進と発展を寿いでいる。
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Norika Sefa&"Në kërkim të Venerës"/コソボ、解放を求める少女たち - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

95. Azer Guliev アゼル・グリエフ (アゼルバイジャン)
とにかく圧倒的なのは主演俳優であるShahla Aliqiziの存在感だろう。物語を通じて、彼女は重苦しいまでの寡黙を貫き通す。だがその陰鬱な表情に満ちる皺のあちこちからは常に苦渋と、曰く言い難いドス暗い感情が滲み渡る。それは息子への負い目であり、惨めな生活への怒りであり、老いて健やかさを失った己の肉体への憎しみであり、その全てが暴力的なまでに混ざりあった不穏な代物だ。これをAliqiziは一身に背負いながら、この映画そのものを牽引していく。

そして彼女の鮮烈な肉体感覚というものを、監督は巧みに提示していく。健康への執着が、拷問と見紛うほどに激越な運動行為へと繋がっていき、徐々に1人の人間の人格を歪めていく。この光景を、監督は言葉も失うほどの圧力を以て描きだしていき、そうして生まれた異形のアゼルバイジャン映画こそがこの“Tengnefes”なのである。
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Azer Guliev&“Tengnefes”/アゼルバイジャン、肉体のこの苦痛 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

94. Amil Shivji アミル・シヴィ (タンザニア)
Queenフレディ・マーキュリーノーベル文学賞受賞者アブドゥルザラク・グルナなどタンザニアザンジバル諸島にルーツを持つ文化人は多いが、同じくこの島にルーツを持つ映画作家による初長編が“Vuta N’Kuvute”だ。今作においてはアフリカ系であるデンゲの黒い肌、インド系であるヤスミンの茶色い肌は艶やかな輝きを宿し、2つは滑らかに溶け合うことになる。1つになった心はどんな状況にあっても離れることはない。抑圧の前でも、暴力の前でも壊れることなどなく、色褪せることもない。永遠のものとしてそこで輝き続ける。これこそが愛なのであると、“Vuta N’Kuvute”という映画はそう観客へと囁くのだ。
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Amil Shivji&“Vuta N’Kuvute”/ザンジバル、黒い肌と茶色い肌 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

93. Andres Rodríguez アンドレス・ロドリゲス (グアテマラ)
終盤、再びエクトルが家族と食事をとる場面が現れる。おそらく昼頃、ダルウィンや母と野外で仕事をした後、彼らは大地に積みあがった藁に腰を据えて昼食をとるのだ。その雰囲気は太陽の柔らかな輝きあってか、珍しくゆったりとし、初めて本当の意味で“家族団欒”と言える状況ができているように思える。だがここでこそ、エクトルは家族、ひいては共同体そのものと決定的な決裂を遂げることになる。様々な積み重ねの末に、夢見たかもしれない幸福がそのまま破綻を意味することになってしまうのだ。監督はこのようにして、グアテマラにおいてケチュ人の置かれる悲痛な状況を力強く提示する。彼らの絶望はいまだ深い。
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Andres Rodríguez&“Roza”/グアテマラ、キチェの民のこの苦渋 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

92. Mohamed El Badaoui モハメド・エル・バダウィ (モロッコ)
劇中、スペイン人の女性がこの町にやってきて、観光を楽しむ場面がある。彼女は海の風景やギターを弾く障害者の男を次々と撮影していくが、何も知らないままにすっと物語から消えてしまう。別に悪意がある訳ではないだろう。彼女は確かにこのモロッコという国に惹かれ観光しに来たはずだ。だがアイシャたちが直面している貧困など知る由もなく、彼女は撮影をして帰っていく。その姿は先に挙げた映画作家たちの姿にも繋がる。ただ良いとこ取りをしたいだけの外国人。今作がそれを意図しているかどうかは分からないが。

こうした意味で“Lalla Aïcha”はぜひ世界に観られるべき、モロッコ人によるモロッコ映画だ。アイシャの母なる愛は生存を求めて、力強く進み続けながらも、そこに立ち塞がる障害はあまりにも大きすぎる。そして時には、愛もまた絶望と貧困に呑みこまれるしかない時が存在する。そんな風景を、監督は静かに見据えていくのだ。
記事→Mohamed El Badaoui&"Lalla Aïcha"/モロッコ、母なる愛も枯れ果てる地で - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

91. 平井敦士 (日本)
TS:あなたの最新短編「フレネルの光」の制作のきっかけについて教えてください。自身の経験、富山におけるニュース、もしくは他の何かでしょうか?

AH:一番最初のきっかけは好きだった大都会という映画館が倒産したというニュースです。故郷を離れている間にそうやって好きだった場所や風景が変わっていくんだろうなと寂しい気持ちになりました。その後、叔父が突然亡くなりました。家族のことをより考えるようになりました。昔から父は僕の夢にも反対していたし関係もうまくいっていませんでした。久しぶりに帰ると父も歳を取っていました。父のことがすごく嫌いだったのに離れると大切に思えました。そんな父や家族のことを考えると富山の風景が目に浮かびます。

昔からいつか故郷富山で映画を撮りたいと思っていました。けれど撮りたかったまちは少しずつ失われていました。好きだった場所や人、そこに流れた過去の時間と今の時間、それが映画になると思いました。
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富山、僕のふるさと~Interview with Atsushi Hirai - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

90. Alex Pintică アレックス・ピンティカ (ルーマニア)
私にとっては今作にルーマニア映画史において殆ど潰えた"古い伝統"というものを観たくなる。共産主義下のルーマニアにおいてはファンタジーやミュージカルなどの子供映画が一時期隆盛していたのだが、そこにおいて今でも称えられる映画作家Ion Poepscu-Gopo ヨン・ポペスク・ゴーポだ。彼はアニメーション、SF、ミュージカルなど生涯に渡って子供たちの楽しめる映画を作ってきた。この影響は相当大きく、2000年代に設立されたルーマニアアカデミー賞には彼の名字をとってPremiile Gopo(ゴーポ賞)という名が冠されているほどだ。今作と関連づけて思いだしたくなるのは、1965年制作の"De-aș fi harap-alb"だ。ルーマニアの古いお伽噺を基にしたファンタジー作品で、この煌びやかさを今作は継承しているように思われる。

そしてこの巧みなミュージカルを通じて、監督は愛の何とも言えない複雑さを浮かびあがらせていく。そこには"ルーマニアの新しい波"仕込みのダークな皮肉も感じさせられるが、それ以上にジャック・ドゥミへの愛や、GopoやBostanなど"古い伝統"への愛着すらも感じさせる。そうして"Trecut de ora 8"ルーマニア映画史において新鮮な輝きを放っているのだ。
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Alex Pintică&"Trecut de ora 8"/歌って踊って、フェリチターリ! - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

89. Pascale Appora-Gnekindy パスカル・アッポラ=グネキンディ (中央アフリカ共和国)
中央アフリカ共和国は世界最貧国の1つ”などと聞くと、どんな悲惨な状況が広がっているのか?と思ってしまうかもしれない。もちろんそんなイメージと重なるような光景もあるだろうが、だが同時にそこにあるのは悲劇だけでもない。どんな場所でもそこに確固として根を張り、生き抜いている人々がいる。そんな強かなる生命力を感じさせてくれる映画こそが“Eat Bitter”なのだ。
記事→Pascale Appora-Gnekindy&“Eat Bitter”/中央アフリカ共和国に生きるということ - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

88. Sebastián Lojo セバスティアン・ロホ (グアテマラ)
しかし監督はこのグアテマラ・シティを普通には生き残れない恐ろしき魔都として提示していく。ここに生きる者たちは弱き者たちを目敏く見つけては、彼らの身体に喰らいついていかなければ生きていけないのだ。そしてもし自身がその弱き者として見做されたのならば、そこから全力で逃れなければ命はない。肉を喰われたならば、その後からは死骸として生きていかざるを得ない。この容赦なき弱肉強食の世界を監督は鮮烈に描いていくのである。"Los fantasmas"グアテマラ・シティという都市の夜の片隅に生きる者たちの肖像画である。戦わなければ生き残れない。それは陳腐な決まり文句のように思えながらも、この都市においては最も鮮やかで恐ろしい言葉として響き渡るのだ。
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Sebastián Lojo&"Los fantasmas"/グアテマラ、この弱肉強食の世界 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

87. Ameen Nayfeh アミーン・ナイフェ (パレスチナ)
そして物語が進むにつれて、Nayfehは登場人物たちの背景をも丁寧に描きこんでいき、それが展開と有機的に絡みあうこととなる。ある者の過去が明かされ、ある者の秘密が明かされ、それによってある者は苦悩し、またある者は言葉を越えた感情に襲われることになる。この有機性によって今作の深みはどんどん増していくのである。

"200 Meters"において、私たちはNayfeh監督の巧みな語りに魅了されながら、パレスチナの今を目撃することになるだろう。時に娯楽性というものが"知る"という行為に多大なる影響を与えることがある。他の優れたパレスチナ人監督と同じように、Nayfeh監督もまたこの事実を熟知している。故に彼はパレスチナ映画界の正統なる新たな才能と言えるのだ。
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Ameen Nayfeh&"200 Meters"/パレスチナ、200mという大いなる隔たり - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

86. Dušan Kasalica ドゥシャン・カサリツァ (モンテネグロ)
前半におけるブルジョア階級の皮肉な風刺劇はここで全く奇妙な幻想譚へと変貌していく。この魔術的リアリズムによって監督が成そうとするのは、前半で提示された知の傲慢とナルシズムの傲慢だ。舞台は無菌の美的空間から土と植物で犇めく森林に移り変わり、フィリップは幻惑に揉まれるなかで汚れながら、その内に自然を取り戻していく。“Elegija lovora”はこの驚くべき飛躍によって、知が持つ宿痾としての特権性を克服せんとする1作だ。そして同時に今作は、モンテネグロ映画界の飛躍をも祝福するのだ。
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Dušan Kasalica&“Elegija lovora”/モンテネグロ、知と特権と祝福と - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

85. Brenda Akele Jorde ブレンダ・アケレ・ジョルデ (モザンビーク/ドイツ)
それでも後半、サラが自身の娘を連れて再びモザンビークへと帰還し、家族との再会を楽しむことになる。その光景の数々は淡々と浮かんでは消えていくが、確かにそこには彼らの喜びが映し出されている。しかし社会の差別的構造はそんなもの一顧だにすることがない。現状に何の改善も見られないまま、別れの時間は刻一刻と近づいていく。そして世界は悲しみに滲んでいく。“The Homes We Carry”はこうして未だ顧みられないドイツの負の現代史とその犠牲者の姿を描いた1作なのである。
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Brenda Akele Jorde&“The Homes We Carry”/ドイツとモザンビークの狭間で - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

84. Antoneta Kastrati アントネタ・カストラティ (コソボ)
監督はこの光景を通じて、コソボの田舎町に巣食う女性差別的な価値観を描き出していく。先述した作品を監督した現代コソボの女性作家たちは女性たちをめぐる問題を意識的に描こうとしているが、今作のテーマも正にそれである。元々コソボ映画界は規模が小さかったが、そこに女性作家が入る余地はなかった。しかし現在、むしろ海外で注目を集める作家は女性たちである。今、とうとう女性たちの問題を描きそれが世界的に評価されるフェイズが来ている。"Zana"はそれを象徴してもいる。
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Antoneta Kastrati&"Zana"/コソボ、彼女に刻まれた傷痕 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

83. 陈冠 チェン・グアン (マカオ)
振り返るなら2021年初頭のコロナ禍最初期、世界中が未知のウイルスの脅威に晒され各地で混乱が起きていた。私自身も、近くの店から完全にマスクが消えていたこと、住む町の不気味な静けさ、撮影延期によるテレビ番組の放送休止など日常の混乱をまざまざと思い出せる。そしてその当時、ロックダウン厳守の中国の都市部に広がっていた風景が私たちが“深空”に見るものなのだろう。こういった危機的状況を映画的な快楽へ鮮やかに変貌させてみせる監督の手腕には恐れ入ってしまう。物語は数日に渡りながらも、今作を一夜ものならぬ一“昼”ものとでも名付けたくなるほどだ。

しかし今作の核となっている存在は何よりもリーヨウとシャオシャオを演じる主演俳優の魏如光と邓珂玉だろう。コロナ禍という災厄への苛立ち、その間隙を縫い炸裂する刹那的な喜び、来たる別離の予感への悲しみ、そしていつか芽生えだす愛のような何か。そういった輝きを一身に体現する彼らの姿がこの中国におけるロックダウンの記録を、若さに生きた男女の青春の証へと変貌させるのだ。“深空”は2021年だからこそ作ることのできた無二の映画として今後語られ続けることになるだろう。
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陈冠&“深空”/2021年、ロックダウンを駆ける愛 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

82. コウイチ (日本)
廃墟に足を踏み入れた青年、長い髪の不気味な亡霊にとり憑かれるが……日本ホラーお得意の不穏な雰囲気、胃液色の世界に掛けあわさるのは、シュールなのに地に足ついた、日本の日常というものが濃厚に反映されたようなユーモア感覚。日本ジャンル映画界の若き新鋭、誕生では。コウイチtv、ここ1年ずっと作品を追っていてかなり好きなYoutuberだったのだが、以前から映画作っていきたいんだろうなみたいな空気感は感じていたので、今の何とも微妙な空気感を反映した「消えない」のような見事な短編を製作してくれて、何か嬉しくなってしまったところである。
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https://duart.hr/news/japanese-absurdist-horror

81. Esther Rots エステル・ロッツ (オランダ)
オランダの気鋭による10年ぶりの新作“Retrospekt”の主軸の1つはは1人のDV被害者と彼女を助けようとする主人公の関係性だ。しかし特に今いわゆるシスターフッドが殊に寿がれる中で、Rots監督は敢えて、同じく社会や男性に抑圧されようと分かり合えない女性と女性の関係性を見据えようとする。メッテは確かにミレルを助けようとするが、その行為は徐々に独善性を増していく。そういった感情が背景に存在するサポートは、DV被害者にとっても有難迷惑でしかないだろう。そんな女性同士の相互不理解をRotsは描きだしており、私はそこに彼女の真摯さを感じるのである。
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Esther Rots&"Retrospekt"/女と女、運命的な相互不理解 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

80. Mouloud Aït Liotna ムールード・アイト・リオトナ (アルジェリア)
このアルジェリアの新星による“La maison brûle, autant se réchauffer”という作品は今自分が立っている場所のかけがえのなさ、これを再発見する旅路を描きだした複雑な映画である。そして映画はヤニスの背中を映し出して幕を閉じることになるが、そこには“ある旅路の終り、そしてもう1つの旅路の始まりにおいてヤニスは一体何を選ぶことになるのだろうか?”と、そんな問いが浮かぶ。それは簡単に答えの出せる問いでなんかじゃない。それでも私たちは彼の新たな旅に希望が存在してくれることを願わずにはいられないだろう。
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Mouloud Aït Liotna&“La maison brûle, autant se réchauffer”/ふるさと、さまよい、カビール人たち - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

79. Samir Karahoda サミール・カラホダ (コソボ)
TS:そして今作を観たとき頭に思い浮かんだのは、"生きられた空間 / The Space Within"という言葉です。これはアメリカの建築家・建築史家であるRobert McCarter ロバート・マッカーターという人物が、フランク・ロイド・ライトの建築の素晴らしさを形容する際に使っていた言葉です。これが意味するのはその内部を人々によって生きられることで、豊穣な意味を獲得する建築ということです。今までは人々と建築をそれぞれ独立して捉える方法についてお尋ねしましたが、この2つを同時にフレームへ収める、つまりは2つの関係性を描く時に重要だったものは何か、ということです。

SK:とても複雑な質問ですね。写真家としてまず、私は母国であるコソボをめぐりながら、異なるプロジェクトを並行しながらロケーションを探しています。秋や冬の時期、最初に際立つものといえば、田舎の地域における空っぽさや静かさです。読者の方に伝えたい情報として、この国の35%以上の人々は移民として他国で暮らしています。夏、彼らは家族の許に里帰りを果たして、冠婚葬祭などに参加します。私の作品においては、こういった空間の数々が異なる季節のなかでどう見えてくるのか、そして母国へ自身の子供たちが帰ってくる時を待ち続ける家族の孤独はどういうものなのか、これらを描いていました。この意味で映画は多くの重要な社会的背景を持っていますが、それでも物語の鍵となる要素として最後に存在するのは希望であり、どことも比べられない母国という場なんです。
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Samir Karahoda&"Pe vand"/コソボ、生きられている建築 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
インタビュー→
コソボという母国、人々、建築~Interview with Samir Kumbaro - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

78. Shahrbanoo Sadat シャフルバヌ・サダト (アフガニスタン)
1989年はアフガニスタンにとって激動の時代である。ソ連の撤退によりムジャヒディーンが台頭を果たし、内戦の時代がやってくるのである。それは孤児院にも深く影響する。今までの親ソ連的な態度は国辱的として隠さなければならなくなる。食事も一気に貧しいものへと変わってしまった。コドラトたちが恐怖を感じる中で、運命の時がやってくる。

"The Orphanage"は過酷な状況下にあったアフガニスタンで逞しく生きる少年たちの姿を、深く暖かな優しさで以て描き出す作品だ。そしてどんなに辛い時にあっても、映画は傍にあってくれる。映画は勇気を奮い立たせてくれる。そんな力強い愛のメッセージを私たちの心に届けてくれる。
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Shahrbanoo Sadat&"The Orphanage"/アフガニスタン、ぼくらの青春 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

77. Abner Benaim アブネル・ベナイム (パナマ)
そして監督はチーフの悲惨な人生とともに、特権を持ってしまっていることに苦悩を抱くアリシアの葛藤に、パナマという国で格差がみるみる拡大している現実をも託している。そして私たちは、それが引き起こすものとは何か?という残酷な事実を知ることにもなる。エンドロール前、映画の裏側で起こったある信じがたい事実とともにこういった言葉が流れるーー“ラテンアメリカでは毎日何人もの子供たちの命が失われている”と。監督はアリシアとチーフの交流、そして彼らが最後に成す選択を通じて、“Plaza catedral”にこの残酷さを越えるための祈りを託している。それは希望というにはあまりにやるせない灰色の祈りであるが。
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Abner Benaim&“Plaza catedral”/パナマ、幼い命が失われゆく街で - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

76. Jo Sol ホー・ソル (スペイン)
このアンケルの裏切りとも言える行為によって、アルムガンは打ちひしがれ、孤独な精神世界へと埋没していく。ここで監督はその親密な視線を彼の肉体から、精神へと向けることとなる。映像はリアリズムから詩的断片性を湛えはじめ、彼の網膜に映る映像と心に去来する映像が交わり、そこにはアルムガンの思索的な言葉が重なる。死と生を語るうえで、肉体と精神そのどちらかを欠くことはできないのだ。ここでSol監督はこの瞬くような霊的映像詩を紡ぐことによって、観客をそれぞれの洞察へ導くのだ。"Armugan"はこうして身体と精神の関係性を通じて、死と生を描きだそうとする。その様に障害者の声をめぐる新たな映画言語が織りこまれ、観客を新たな世界へ導くのだ。
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Jo Sol&"Armugan"/私の肉体が、物語を紡ぐ - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

75. Salomón Pérez サロモン・ペレス (ペルー)
今作の演出は退屈で怠惰で甘酸っぱい、そんな洗練のない青臭いものである。だがそれが誰も描けなかった青春のように思える。退屈で怠惰で甘酸っぱい、そんな洗練の一切ない青臭さだ。監督はこの演出を徹頭徹尾続けることで、まるで10代によって監督された10代の青春映画を作り上げることに成功している。

"En medio del laberinto"は青春の1つの真実に到達している稀有な映画作品だ。最後、レンソがゾエに語る愛の風景は何てぎこちなくも優しく、甘美なものだろう。この題名の意味を知る時、私たちの頬は柔らかく緩むはずだ。
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Salomón Pérez&"En medio del laberinto"/ペルー、スケボー少年たちの青春 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

74. Ivan Marinović イヴァン・マリノヴィチ (モンテネグロ)
ここで特に際立っているのは監督の独特な笑いのセンスである。全てを悠然と見据える中で、彼は会話や行動に生じる間というものを頗る大切にしている。それ故に今作には緩い笑いと形容すべきものが溢れている。それには監督自身が手掛ける脚本自体の見事さも寄与しているのだろう。

"Igla ispod plaga"には例えばキリスト教の働きや村民たちの生活状況など、モンテネグロ特有の文化が多く反映されている。遠い日本に住む私たちはその全てを理解することはできないだろう。だが文化を知るには、まずそれに触れることから始まる。今作はモンテネグロという国を知る上での滑稽でありながらも美しい1歩となってくれるだろう。
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Ivan Marinović&"Igla ispod plaga"/響くモンテネグロ奇想曲 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

73. Chloé Mazlo クロエ・マズロ (レバノン/フランス)
今作において監督が深く見据えているのはレバノン内戦が齎したあまりにも残酷な傷だ。私たちはベイルートの町が死によって浸食され、アリスたちの心が少しずつ殺されていく痛ましい現実を見ることとなる。だがその壮絶の真っただ中を進み続ける幾多の生の根底には、それでも故郷を愛するのだという強靭な意志が存在している。だからこそ今作に現れる生は小さくも、力強い輝きを放っているのだ。

「アリスの空」"Sous le ciel d'Alice"レバノンへの大いなる愛を、アニメーションと実写の融合を基とした独創的な様式によって美しく描きだした1作だ。現在、レバノンは甚大な被害を与えた爆破事故などで危うい状況に陥っている。だがここに描かれる愛を原動力として、レバノンの人々は再び前に進んでいくだろう。描かれる風景は心引き裂かれるような物であっても、今作にはそれを突き抜けるだろう希望が存在しているのだ。
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Chloé Mazlo&"Sous le ciel d'Alice"/レバノン、この国を愛すること - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

72. Angela Wanjiku Wamai アンジェラ・ワンジク・ワマイ (ケニア)
1人の男が赦しを求めて足掻くなんて王道アート映画と思いきや、多言語国家ケニアにおける英語の不穏な存在感を見据える、言語の政治性をめぐる1作がケニアの新鋭監督による初長編“Shimoni”だ。その物語自体は、刑務所帰りの男が赦しを求めて足掻くという平凡なものかもしれない。だがこの物語に、英語という言語が不可避的に宿す政治性を見据える批評精神が合わさることで、今までの1作とは一線を画するような洞察を持った作品へと昇華されている。ここにおいて、怪物とはあまりにも多様な姿を持ちすぎるがゆえに、底を知ることなど叶わないのである。
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Angela Wanjiku Wamai&“Shimoni”/ケニア、英語という名の怪物 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

71. Barbora Sliepková バルボラ・スリエプコヴァー (スロヴァキア)
話は少し逸れるのだが、今個人的にスロヴァキア・ドキュメンタリーがアツい。世界の映画祭で俄にこの国のドキュメンタリー作品が評価され始めているのだ。例えばViera Čakányová ヴィエラ・チャカーニョヴァー“Frem”は南極を舞台とした作品なのだが、環境保護や動物観察などのテーマを内包しながら、しかし究極的には映画スタイルの探求という相当に実験的な作風をしており、以前観た時には思わず困惑させられた。今作は2020年のベルリン国際映画祭フォーラム部門に選出され話題となった。更にPeter Kerekes ペテル・ケレケス“Cenzorka”ウクライナの女性刑務所を舞台として、ここで出産を果たした女性が、母として刑務所での生活を生き抜こうとする姿を描いたドキュドラマなのだが、今作は2021年のヴェネチア国際映画祭に選出された。

このスロヴァキア・ドキュメンタリー躍進の最先端に今作の監督であるBarbora Sliepkováがいると言っても過言ではないが、注目すべきは彼女の教師こそが先述したČakányováとKerekesなのである。つまりは彼らの1世代下であるのだが、この長編デビュー作が世界でも有数のドキュメンタリー映画祭であるイフラヴァ映画祭に選出され、しかもコンペ部門で作品賞とデビュー長編賞の2冠を獲得した訳である。という訳で今後のスロヴァキア・ドキュメンタリーの動向には注視していきたい。そしてこの新しい潮流への入門作として、今作“Čiary”は正にうってつけの作品だ。何故ならここにこそブラチスラヴァとスロヴァキアの現在があるのだから。
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Barbora Sliepková&“Čiary”/ブラチスラヴァ、線という驚異 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

70. Alberto Gracia アルベルト・グラシア (ガリシア)
徐々に浮かびあがってくるのがガリシアという地域の現在である。ガリシア語という固有の言語が話されるこの地域には、他とはまた異なる文化や歴史が広がっており、その一端が今作に織り込まれているのだ。例えばガルシアがフェロルへ帰ってきた際、彼を迎えるのはガリシア語の高らかな歌声だ。ガリシア文化を誇るような歌は聞くものを畏敬の念で打つほどの力を持っている。一方でテレビで流れるニュースには、住民たちが不平不満を口にする様が映しだされ、この地域の現状がそう理想的ではないことを示している。

スペインは失業率、特に若年層の失業率がかなり高く、現在も改善はされながら2023年12月付けでその失業率は11.76%となっている。ガルシアはその煽り喰らっている形となっているが、一地域であるガリシアにもそんな世知辛い状況が広がっており、さらに固有の文化や歴史がそれを独自の不条理にまで高めている様を観客はここで目撃せざるを得ないわけだ。そして不条理に巻き込まれガルシアのどん詰まりが極まるごとに、映画というか作り手自身のガリシアへのイライラも高まり、その物語は酔っ払いの管巻きを彷彿とさせる妙さへと突き抜けていく。
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Alberto Gracia&“La parra”/この不条理がガリシアなんですよ…… - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

69. Stathis Apostolou スタシス・アポストロウ (ギリシャ)
私がApostolouと会話している際、彼が執筆中だという本の話題になった。それは“素朴なる人間の進化”という題だそうだ。彼が目指しているのは人種や性といった概念から解き放たれた人間、つまりただただ人間でだけ在ること、その状態で思考することなのだという。あの男は農作業によって肉体を駆動させることで、Apostorouの言う“simple human”を目指している、私はそう思った。しかしそう簡単に、ただ人間でだけ在ることを世界が許さないのである。

今まで見ていった通り、今作のストーリー自体はギリシャの移民事情を背景とした男の自我の探求と、地に足ついたものとなっている。だがこのローカリティ/土着性をも越えて、Apostolouは国籍や人間という概念そのものを存在論的に問おうとしている。その意味で私には今作がSFに見えてならないのである。彼の“simple human”という試みは、この世界においてもはやポスト・ヒューマン的な思考とすら重なりあうのだ。
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Stathis Apostolou&“The Farmer”/2つの国、1つの肉体 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

68. Visar Morina ヴィサル・モリナ (コソボ/ドイツ)
セルビアとの度重なる紛争や未だに国に蔓延する貧困故に、コソボの人々には自身の故郷に背を向け、ヨーロッパ各地で移民として生活する者たちも多い。そして彼らはそれぞれに深刻な問題と直面することとなっている。例えば2017年制作の"T'Padashtun"はオランダ・アムステルダムに住むコソボ移民2世の青年が紛争のトラウマと対峙せざるを得なくなる姿を描いた作品だった。そして次回作"Exil"はドイツで生きるコソボ移民の苦難を描いた作品であり、今作は2020年のサラエボ映画祭で作品賞を獲得することとなった。
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Visar Morina&"Exil"/コソボ移民たちの、この受難を - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

67. Aung Phyoe アンピュー (ミャンマー)
TS:今作で最も印象的なことの1つは、少年と彼の隣人の複雑な関係性です。最初それはとても親密で優しいものですが、徐々に胸を引き裂く切なさを帯びます。観客は関係性が変化していく上で生まれる深い悲しみを感じることになるでしょう。あなたはこの関係性について、脚本段階と撮影段階、その両方においてどのように構築していきましたか?

AP:成長するにあたって、私は人生において何か実践的なものについていつも目を向けてきました。何を感じようと、何を求めようと、ある1つの事象を行い、ある1つの道を行く必要があるんです。その道を行くごとに小さな欲望や願い、夢といったものはゆっくりと消えていきます。私はこの諦めというものを描きたかったんです。そういった深い、パーソナルな哀しみを描くベストのやり方は登場人物を親密な神々しさに晒す(それは性格が強いとか弱いとかいったこととは関係ありません)ことだと思います。おそらくそれが成瀬巳喜男の映画に私が触発される理由でしょう。彼は登場人物をそういった親密な瞬間に晒すことで何か深遠なものを達成しているんです。
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コバルトブルーのミャンマーで~Interview with Aung Phyoe - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

66. Arun Karthick アルン・カルシック (インド)
今現在、インドは転換期にあると言える。インドの頂点に立つナレンドラ・モディ首相がヒンドゥー至上主義を推し進めており、反イスラムの機運がかつてないほど高まっているのである。ヒンドゥー教徒イスラム教徒間の融和が崩れ去ろうとしている今、インドにはどんな現実が広がっているのか。それを静かに、だが力強く描き出した作品がKarthick監督のデビュー作"Nasir"だ。今作においては、インドの日常に広がる美とそれを脅かす脅威が常に拮抗し続けている。それは微妙な均衡を呈しながらも、私たちは最後にインドの現実を叩きつけられることになるだろう。そんなラストにはただ呆然とするしかない。そして私たちは世界を包みこむ残酷なる現実に思いを馳せるはずだ。
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Arun Karthick&"Nasir"/インド、この地に広がる脅威 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

65. Laurynas Bareiša ラウリナス・バレイシャ (リトアニア)
大切な人を殺害されたインドレとパウリスは町をめぐり続ける。その姿にはいつしか聖地をめぐる巡礼者たちが持つ悲壮なる、崇高なる聖性すらも宿り始めるのだ。この大きな核となるのは2人を演じるGabija BargailaiteGiedrius Kielaの存在に他ならないだろう。Kielaは全身から燻った憤怒の匂が漂う危ういパウリスを、Bargailaiteは理性で怒りを抑えながらも喪失の痛みを隠しきれないインドレをその行動の数々によって静かに体現していく。彼らがどこへ辿りつくのか、私たち観客には予想ができない。そして巡礼の道には常に暴力の気配が立ちこめ、亡霊はそこに現れる光景をただただ観察するのみだ。

“Piligrimai”はそんな巡礼者たちの彷徨を描きだす不穏なる1作だ。そして彼らもまた亡霊と化していき、闇と雨へと溶けていくことになる。ゆえに現れる悲しみと怒りの狭間の、筆舌に尽くしがたき余韻は忘れるには重すぎるものだ。
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Laurynas Bareiša&“Piligrimai”/巡礼者たち、亡霊たち - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

64. Ivana Mladenović イヴァナ・ムラデノヴィチ (セルビア/ルーマニア)
そして
"Ivana cea groaznică"の話に戻るが、監督は今作が自伝的映画だと公言している。2017年、"Soldații"のプレミア直前、彼女は原因不明の体調不良に襲われた。それを癒すために故郷クラドヴォへ戻って休暇を過ごした。しかしこの時抱いた不安は解消されなかったという。ここで彼女はあることを思いつく。この休暇を映画として再演しようというのである。そして彼女は家族や友人を集め、今作を作ったのである。という訳で主人公は本人、家族も友人も演じるのは本人なのである。このギミックが今作に奇妙な魅力を宿していると言えるだろう。

例えばアメリカには、最近だと「フランシス・ハ」"Obvious Child"など現代女性の複雑な生きざまを軽やかに描き出す作品が多くある。だがルーマニア映画ひいては東欧映画には、この軽やかさを持った作品は少ない。そんな中で今作はこの間隙を埋めるだろう、ルーマニア/セルビアからの回答であると言えるだろう。
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Ivana Mladenović&"Ivana cea groaznică"/サイテー女イヴァナがゆく! - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

63. Tahmina Rafaella タフミナ・ラファエッラ (アゼルバイジャン)
TS:作品の重要な要素の1つは複雑なリアリズムを湛えた撮影です。表面上はシンプルなものに見えますが、その静かな激しさは主人公であるレイリが持つ複雑微妙な感情をより際立たせ、印象的なとします。撮影監督Daniel Quliyev ダニエル・グリイェフとともに、どのようにこの極めて現実味のあるスタイルを構築していったのでしょう? これに関してあなたはダルデンヌ兄弟の作品が好きであるとお聞きしました。彼らの作品に影響を受けているなどはありますか? もしそうなら、どのようなものでしょう?

TR:私はこの作品を日常という現実を反映したものにしたいと思っていました。1人の女性、その人生のたった1日がその他大勢を代表するようなものにしたかったんです。Danielには最初から、長回しを盛りこみながらも映画的な完璧さは求めない、観客が演劇的すぎるとかリハーサルをしすぎと思わないようにしたいと話していました。ダルデンヌ兄弟の作品は確かに好きです。私にとって彼らは"芸術性"を求めない映画製作というものの素晴らしい美を体現しているんです。彼らは現実に根づいた問題と対峙するリアルな人々を描いていて、それを通じて私たちの心から人間性を引き上げてくれるんです。その作品はいわゆる社会的リアリズムというスタイルで作られていながら、人間の内面性にまつわる詩情や思索にも満たされています。それらに触発され、私も自分の周りにこそある物語を描くことに興味を持ったんです。遠くに興味深い物語を探す必要はありません、そういった物語は私たちの周りに、私たちが出会っていく人々のなかにこそあるんです。
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アゼルバイジャン、ある1人の女性~Interview with Tahmina Rafaella - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

62. 石名遥 (日本)
大切な人の死の後にこそ広がる風景、これを描きだす芸術作品はそう少なくない。死とは人の生に最も近い他人であるが故に、その他者性に惹かれる者が後を絶たない。だがこのテーマに安易に取り組んだ芸術家の死骸の数々を私たちは幾ら見てきただろうか。だがこの死屍累々から英雄が現れる数少ない瞬間を、私は目撃することになる。それこそが石名遥監督作「遠い場所から」だった。感動的なのは、監督の演出や積み重ねていくディテールは豊穣で明確なものでありながらも、描きだそうとするのは"割りきれなさ"という極めて曖昧なものだからだ。イオリ含め家族は父を単純に嫌うこともできず、かといって愛することもできない。この単純な思いのあわいにあるものをどうすればいいのか?ということが今作のテーマなのである。監督はこれに明らかな答えを与えることはなく、曖昧なものを曖昧なままにしたうえで、その奥へ奥へと深く潜行しようとする。この真摯さが私たちの心を静寂の中でこそ震わせる。
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Ambiguitate & Ambiguity & Aimai-sa / "Tooi basyo kara" by Yo Ishina - Film Trilingual

61. Amjad Al Rasheed アムジャド・アル・ラシード (ヨルダン)
彼女は抑圧への抵抗として妊娠したという嘘をつかざるを得なくなり、これによって孤立無援の状況へと追い詰められていく。それでも彼女は諦めることなく闘い続けるのだ。こういった形でナワルの苦闘を描きだされていくわけだが、その姿にはこの男性優位社会において同じく闘い続けるヨルダンの女性の苦難が託されているのだ。そしてその力強いまでのメッセージ性の核となるのが、ナワルを演じるMouna Hawaの表情の数々だ。事態が進展するにつれて、疲弊が濃厚な陰影としてその顔に浮かび、そこには悲壮感すら感じられる。だが悲しみに打ちひしがれることなく、彼女は自由のために突き進み続ける。その姿からは陰影を塗り潰すほどに逞しく輝く希望が宿っている。“Inshallah a Boy”はヨルダンの社会機構を背景とした女性映画として興味深い1作だ。闘いの果てにナワルが辿りつく場所を、皆さんにもぜひ目撃してほしい。
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Amjad Al Rasheed&“Inshallah a Boy”/ヨルダン、法が彼女を縛るならば - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

60. Gunhild Enger グンヒル・エンゲル (ノルウェー)
私にとって2020年のロカルノ映画祭No.1となった作品がノルウェーのEnger監督作"Play Schengen"だった。今作はEUシェンゲン協定を題材にした子供向けゲームを開発しようとする人々の悲喜こもごもを描きだした作品である。まずそのアイデアが魅力的だが、Enger監督は絶妙な間の演出と凍てつくほどに無表情のユーモアで、それを数えきれないほどの笑いに変えている。今作はイギリス脱退宣言に端を発するEUの混乱を笑いのめす、正に2020年代的コメディだった(今作を作ったのがEU未加入を選択したノルウェーの映画監督であることもまた重要だろう)
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ロカルノ2020を振り返る - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

59. Ru Hasanov ルー・ハサノフ (アゼルバイジャン)
今作の演出の中心は静謐に満ちたリアリズムだ。撮影監督Orkhan Abbasofとともに、Hasanov監督は登場人物たちの動きを怜悧に見据えていく。特に印象的に浮かびあがるのはセイムルや父の表情の微妙な移り変わりだ。当惑に塗り潰されたセイムルの顔、彫刻刀で彫った傷のような皺で溢れた父の顔、そこで複雑微妙な感情の揺らぎが現れるのだ。そしてこれが映画に静かな緊張感を与えるのである。

そして次第に監督の演出も内省的なものになっていく。自由なる自然のなかでセイムルの氷結した精神は少しずつ溶けていき、生命力を取り戻していく。この絶海の孤島で、彼の魂は初めて救われるのである。例えそこに追手が迫っているとしても、この事実を消し去ることは誰にもできないだろう。こうして"The Island Within"は現代に生きるアゼルバイジャン人の心の彷徨を印象的に描きだしているのである。
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Ru Hasanov&"The Island Within"/アゼルバイジャン、心の彷徨い - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

58. Horvát Lili ホルヴァート・リリ (ハンガリー)
一目惚れという名の不条理。その理論や倫理を越えた凄絶なる不条理によって、主人公マールタは愛の荒野へと投げだされ、激情に突き動かされながら彷徨い続ける。抵抗も虚しく、その荒波のような勢力に呑みこまれ、愛へと突き進むことになる。ここにおいては全てが残酷だ。曖昧な不安も、束の間の喜びも、そして彼女の身体を包みこむ多幸感すらも。この残酷さを直視しながら、私たちも自身が経てきた愛について思いを馳せざるを得なくなる、心の深奥にこそ残る愛を。それほどの力がこの"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"にはある。
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Horvát Lili&"Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre"/一目見たことの激情と残酷 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

57. Marinos Kartikkis マリノス・カルティキス (キプロス)
人間は長く生き続けるかぎり老いていく、この運命は絶対に避けることができないだろう。肉体は朽ちていき、精神は磨耗していく。そして最後には全てが朽ち果てるのみだ。そんな老いという最後の旅路のなかに、救いというものは存在し得るのだろうか? 今作はそんな問いを観客である提示するが、そこに私が見出だしたものがある。人生には必ず終わりがある、死によって生は絶対に終わることとなる。だがその周りには数限りない、他者の生が存在している。1つの死の後にも、その無数の生は続いていくのだ……これは希望だろうか、それとも諦めでしかないのか。これはおそらく、私たち自身に死に訪れるまで考え続けなければならないのだろう。少なくともこの勇気をキプロス映画“Senior Citizenという作品はもたらしてくれるはずだ。
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Marinos Kartikkis&“Senior Citizen”/キプロス、老いの先に救いはあるか? - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

56. Ruxandra Ghitescu ルクサンドラ・ギテスク (ルーマニア)
恋人の自殺をきっかけに、パンク青年は救済としての死と果てしない虚無へと向かっていく。希望全てが殲滅された灰色の青春には、音楽の初期衝動もクソもなく、圧倒的な孤独だけが屹立する。恋人の凄惨な自殺未遂動画を観る時だけに訪れる、暖かな安らぎはあまりに切実すぎて、言葉すら枯れ果てる。壮絶なまでのドン詰まりに陥った主人公の中で全てが死へと収斂していく時、彼は一体何を選び取るのか。そこに光はあるのか?彼女の初長編"Otto barbarul"はそんな痛切な選択を描きだす作品だ。
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Ruxandra Ghitescu&"Otto barbarul"/ルーマニア、青春のこの悲壮と絶望 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

55. Alexander Zolotukhin アレクサンデル・ゾロトゥキン (ロシア)
第1次世界大戦に従事した名もなき青年の物語を描くとともに、同時に現代に生きる指揮者がオーケストラに指示する言葉を観客は聞くことになる。今作においては、過去を描くフィクションと現代を描くドキュメンタリーが交錯している。そうして叩きつけられるのはあの忌まわしき戦争が起きていた過去は私たちが今生きている現実と地続きなのであるという紛れもない真実である。ソ連映画の伝統とロシアの現在を荒業で繋ぎあわせる、時代錯誤にして最先端の1作が彼の長編デビュー作“A Russian Youth”だ。主人公の瞳に映る脅威はそのまま私たちにも降りかかりうる脅威として、今、不気味な輝きを増している。
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Alexander Zolotukhin&"A Russian Youth"/あの戦争は今も続いている - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

54. Szöllősi Anna セッレシ・アンナ (ハンガリー)
TS:このアニメーションにおいて、水は最も本質的な役割を果たしています。水は動き、波打ち、そして主人公の心を満たします。この動きの数々が真に息を呑むような形で描かれていますね。そこで聞きたいのは、アニメーションで水を描く時において最も重要なことは何だったかということです。

SA:ありがとうございます。私にとって水は人生そのものを表現しています。誕生、受胎、清新さ。これは生きることに不可欠なものです。私は水の動きを時の流れにおける変化を象徴させるために利用しました。物語が始まった時点で、主人公にとって最も大きな恐怖は水そのものであり、映画の序盤において水を頼むという行為がそれを指し示しています。そして後半において描きたかったのは、この状況において彼女が強制される存在であり、水が彼女の周囲全てを取り囲む時彼女は孤独であるのだと。しかし彼女は自分自身でこれらの恐怖に対峙することを決め、水に沈んでいくんです。
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水に漂う彼女の心~Interview with Szöllősi Anna - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

53. Ulla Heikkilä ウッラ・ヘイッキラ (フィンランド)
最初、私は彼女の長編デビュー作“Eden”が一時期アメリカで流行を遂げたキリスト教啓蒙映画の流れに属する作品ではないかと思った。これは困難に直面した主人公が、キリスト教に心を救われ、信仰を獲得する様を娯楽映画の体裁で描きだす作品群のことで、キリスト教徒から金を巻き上げられるゆえに一時期量産された映画ジャンルだった。ゆえに胡散臭いことこの上なく、今作にもその匂いをわずかに感じたのだが、物語が展開するにつれこの考えは誤りだったと気づくことになる。

監督の眼差しはキリスト教の信仰を観客に押しつけるものではない。しかし信仰について思索を重ねる登場人物たちを揶揄するものでもない。誰の考えをも等しく描きだし、誰の考えにも等しく寄り添いながら、彼らの思考や感情の流れを虚飾を交えることなく観客に提示する。そんな優しさと大らかさにも似たバランス感覚が今作には広がっているのである。
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Ulla Heikkilä&"Eden"/フィンランドとキリスト教の現在 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

52. Petna Ndaliko Katondolo ペトナ・ンダリコ・カトンドロ (コンゴ民主共和国)
そしてこういったより曖昧な、形而上学的な思考は必然的に哲学へと辿りつかざるを得ない部分があるが、ここにおいてはコンゴ民主共和国に根づく土着の文化がその役割を果たす。2人はこの過程において、コンゴに広がる風景をアーカイブとして残すという活動にも着目するのだが、そこでこんな言葉を聞く。物語は何もされなければ忘れられ、その忘れられたことすらも忘れられる。アーカイブ映像を残すのは、忘れてしまっていたということを思い出すためなのだと。堂々巡りの言葉遊びのようにも思われるが、この言葉から新たな思考が始まり、そしていつしか“Kumbuka”という言葉に私たちは辿りつくことにもなる。

“Kumbuka”という作品においては、コンゴ民主共和国という国を舞台として、科学的思考と哲学的思考が溶けあいながら、現実、もしくはあるイメージへの人間の知覚や認識、その根本が鮮やかな形で問い直されていく。そんな今作が一見すれば支離滅裂で、終わりが何の終わりにも見えないのは全く必然だろう。それすらも引き受ける度量の大きさが今作には宿っているのである。
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Petna Ndaliko Katondolo&“Kumbuka”/コンゴ民主共和国について語る時、私たちが語ること - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

51. Iris Elezi イリス・エレジ (アルバニア)
そしてこの関係性の数々が交錯する中で、ここではないどこかへの郷愁が生まれる。それはまるで太陽の光のように暖かで、心地よいものだ。私たちはこの美しい世界へと優しく誘われることになるだろう。それでも今作はそこで終わることがない。私たちはアルバニアの忌まわしき過去が、ゆっくりと首をもたげる様を、そして全てを呑みこんでいく様を目撃するだろう。そこに現れる切なさはあまりにも苦い。"Bota"は暖かな郷愁と苦い切なさが交わりあう、とても美しい一作だ。私たちは今作からアルバニア映画の新風が吹いてきていることに、観終わった後気づくだろう。
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Iris Elezi&"Bota"/アルバニア、世界の果てのカフェで - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

50. Ratchapoom Boonbunchachoke ラチャプーン・ブンバンチャーチョーク (タイ)
TS:前の質問に関連して、あなたの映画において印象的なのはこの伝統がトランスジェンダーの人々が抱く自身の声への複雑な思いと美しく重なっていることです。トランスジェンダーを題材にした作品は多いですが、その声に焦点を当てた作品を観たのは初めてです。どのようにこの創造的なアイデアが浮かんだのでしょう? どのようにこのアイデアを脚本に変えていったのでしょう?

RB:トランスジェンダーである人々の声は、古いタイ映画においては存在しないものとして扱われていたように思えます。トランス女性である登場人物がいても、彼女はお笑い要素のために男性声優に吹替えられていました。"Aninsri daeng"において主人公Angを女性的で美しい声で吹替ることにしたのは、内なる美にまつわる伝統を強調したかったからです。そして私は変装というアイデアが好きなんですよね。少なくとも私にとって、トランスジェンダーがシスジェンダーに変装するのは魅力的なまでに複雑です。そこには皮肉と矛盾があります。

それからヘテロ的なジャンルをクィア化するという考えが気に言っていました。スパイものというのはその1つでしょう。クィア映画を探求する主な目的は、性的少数者が社会で抑圧されているなどアイデンティティー・ポリティクスについて議論するためではありません。私はクィアな人々が政治的行為に打って出るのを見るのが好きなんです。私がしたいのは政治化されたクィアな人々を描くよりも、むしろ政治化する方に回った彼らを創造することです。クィア映画の境界線を押し広げることにも関心があります。そしてヘテロの登場人物にとっては普通なことをクィアな登場人物にも行わせながら、クィアとしての特質は保持したままにするんです。そうすれば、作品はただのクィア的変装をしたヘテロ映画にはならないでしょう。
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タイ、響き渡る本当の声~Interview with Ratchapoom Boonbunchachoke - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

49. Vladimir Bitokov ウラディミル・ビトコフ (カバルダ・バルカル共和国)
そしてこの普遍的な対立に加えて、今作には特殊な対立も存在している。カバルダ・バルカル共和国の公用語の1つとしてカバルダ語という言語があるのだが、今作は全編この言語で撮影された初めての長編映画だそうだ。ということで登場人物たちは自身の母語であるカバルダ語を喋っているのだが、マロイだけは違う。彼はカバルダ語はダサいと言い、家族の前でロシア語で話すのだ。ベスたちももちろんロシア語を理解できるのだが、そんなマロイに対してロシア語で話すか、それともカバルダ語を使い続けるか、ここに登場人物たちの姿勢やその時々の思考が現れざるを得ない。だがどちらを使うにしろ、この状況は家族の平穏を乱すのである。

監督はこの対立を丹念に描きだすとともに、この対立の狭間に何か希望がないかと探しながら、絶望はあまりにも深い。家族という繋がりですらも、救いになることはないのだ。“Deep Rivers”はカバルダ・バルカル共和国の現在を通じて、そんな人間存在の愚かさと、それへのやるせなさを浮かびあがらせる1作なのである。
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Vladimir Bitokov&“Deep Rivers”/カバルダ・バルカル共和国、その現在 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

48. Jaume Claret Muxart ジャウメ・クラレ・ムシャルト (カタルーニャ)
TS:劇中、あなたは主人公ジェンマが自身の芸術を作るプロセスを、繊細で緻密な形で描きだしています。ミニマルなリアリズムを伴ったあなたの視線を通じ、ジェンマの真剣な姿勢、その作品にも滲む彼女の手や息遣いの複雑微妙な動きが捉えられており、これらが作品の静かな力を更に高めています。そこで聞きたいのは、この芸術製作のプロセスを描くにおいて最も重要なことは何であったかということです。

JM:静寂、もっと正確に言えば集中です。そして動きつづける身体を見つめること、踊るように(まるで床に絵画を描くように)動く身体とフレーミングの身振りとの間に関係性を作り出すことの快楽です。しかしとりわけ重要なのは、伝達です。ジェンマは彼女の息子に人生の生き方、表現の方法を伝達します。そして息子は何かを尋ねながらも催眠にかかったように彼の母を見つめます。それが静寂なんです。
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母と娘、カタルーニャとギリシャ~Interview with Jaume Claret Muxart - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

47. Hachimiya Ahamada ハチミヤ・アハマダ (コモロ連合/フランス)
今作においてAhamadaは撮影や編集など技術の巧みな統合と、繊細かつ大胆な語りによって、コモロ連合とこの地域の血塗られた歴史を力強く描きだしていく。アリは虐殺によって家族も友人も失いながらも、自身は生き延びることとなる。物語は2022年まで生き長らえた彼の姿を映し、幕を閉じる。最初に観た際、この2022年のアリの描写は果たして必要なのかと訝んだ。しかし老いた彼の姿には、起こってからもうすぐ50年が経つ虐殺、それを語れる人々が少なくなっているという厳然たる事実を思わざるを得ない。そんな中で、この歴史を語り継いでいくこと。今作からはAhamada監督のそんな強靭な意志をも感じさせる。この意味で“Zanatany, l'empreinte des linceuls esseulés”は必見である。
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Hachimiya Ahamada&“Zanatany, l'empreinte des linceuls esseulés”/コモロ人たちの、その歴史と今と - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

46. 姚志衞 ジャオ・チーウェイ (シンガポール)
もちろん子供たちはいつか大人になる。それは当然のことで歓迎すべきことだ。しかしその成長が前向きなものでなく後ろ向きにならざるを得なかった、つまり大人になるしかなかったという子供たちもいる。メンは正にそんな存在だ。冷えきった家庭環境と過酷な虐めに追い詰められた末、彼は早すぎる兵役を課されることになった。この状況で確かに彼は大人になった。だがこれは本当に祝福されるべきことなのだろうか?

“明天比昨天長久”シンガポールに広がる陰鬱な現状をとある家族、そしてその帰結を否応なく背負わされる者の姿を通じて描きだす、底冷えするような青春映画だ。それと同時に今作は大人にならざるを得なかったメンのような子供たち、彼らの苦渋と諦念に対する鎮魂の歌でもあるのだ。
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姚志衞&“明天比昨天长久”/シンガポール、僕は大人になるしかなかった - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

45. Burak Çevik ブラク・チェヴィク (トルコ)
だが監督の演出の丹念たる様を目の当たりにしているうち、この遅さは意図的なものであるのではないかと思われてくる。だがしかしそれを指向した意味は一体何であるのか。2人の若者の瑞々しいロマンスを観ながら、私たちは沈思黙考を余儀なくされるのである。

その遅さに見えてくるのは語り手が抱える過去への哀惜だ。時は遠くに過ぎ去りながらも、ペリンという謎の女へ、あの親密な夜への郷愁を彼は捨てることができないのだ。前半のドキュメンタリーという形式では冷酷に切り捨てられる情感を、後半のメロドラマティックな遅さは湛えているのである。これがいかに深いものであるかは前半が存在しなければ、認知しえなかっただろう。この特異な構成が作品に稀に見る情感を宿していくのである。

"Aidiyat"はその挑戦的で実験的な構成により、1つの残酷な夜に引き裂かれた1人の男の心を饒舌に示唆する。この大胆不敵な挑戦によって、Burak Çevik監督は映画界の最前線へと躍り出たと言っても過言ではないだろう。
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Burak Çevik&"Aidiyet"/トルコ、過ぎ去りし夜に捧ぐ - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

44. Eldar Shibanov エルダル・シバノフ (カザフスタン)
TS:現代のカザフスタンにおいて、もしくはこの世界において、男女の関係性はどこへ向かうとお思いですか?

ES:私としては、時代を通じて培われてきたロールモデルというもの――女性は従属的で優しくあるべき、男性は強くあらねばならない――について人々が積極的に議論を始めたことをとても嬉しく思います。これに関して誰が誰に責任を負っているとかそういうことはないように思えます。人間はみなユニークです。性格と社会の関係性、これこそが大切な問題なんです。私たちは現在準備中の長編映画でこれに関する考えを深める予定でいます。
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カザフスタンの男と女~Interview with Eldar Shibanov - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

43. Ove Musting オーヴェ・ムスティンク (エストニア)
社会主義崩壊前夜、ソ連チャンピオンシップに挑むバスケ・エストニア代表描く1作。ソ連末期の東欧情勢が露骨に影響する中でエストニアのナショナルプライドがいかに確立されていくか?がスポ根として描かれる様は危うくも、予定調和のラストに鋭い批評の目と複雑な余韻。ここに描かれる“エストニアの誇り”は単純なものではない、そして“国の誇り”とはそんな単純なものであってはならないのだ。
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Ove Musting&“Kalev”/エストニア人の誇りとは何か? - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

42. Petros Charalambous ペトロス・ハラランボス (キプロス)
先日、ある映画を観た。それはギリシャ映画、ではなくキプロス映画だった。2010年代前半にギリシャはそのタガの外れた奇妙さから世界を席巻するのだが、後半よりその勢いに衰えが見え始める。個人的な観察から言うと、先述のランティモスが図抜けて才能を発揮し、その奇妙さで世界へと羽ばたいていったのだが、あまりにも奇妙すぎて後が焼け野原と化し、後続が育つ余地がなくなったという印象なのだ。そんな中で頭角を表し始めた存在がキプロスなのである。ギリシャ語という言語を共有する、ある種ギリシャの弟分のような国だが、映画界の規模はかなり小さく今までは存在感をあまり感じることができなかった。

しかし徐々に有望な新人が現れていると言ってもいい。“ギリシャの奇妙なる波”と、例えば家父長制批判など受け継ぐ部分はありながら、しかしその影響より離れ、異なる魅力を発揮し始めているのを私は感じるのだ。それを私に強く意識させたのがキプロスの新鋭Petros Charalambous ペトロス・ハラランボスによる第2長編“Patchwork”というわけである。
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Angeliki Papoulia&“Patchwork”/彼女が内に秘めたる炎 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

41. Camila Kater カミラ・カテル (ブラジル)
TS:日本において(おそらくブラジルにおいても)、女性に自分の身体を嫌悪させようとする広告やTV番組がたくさんあります。そんな厳しい世界で、私たちはどのように自分たちの身体を愛することができるでしょう?

CK:不幸なことにこういったことは世界規模で起こっています。メディアは私たちは美の基準を満たしていないと思わせます、そんなことできるのは誰もいないのにです。彼らのメインターゲットである女性にとってはとても残酷で不安を催させるものです。そして様々な形で私たちに影響を与えます。例えば身体の形、肌の色、年齢に応じて。

だから私たちの多くは多様性を拒む社会で育てられ、それに適応するよう成長するゆえ、自動的に身体において"基準"に応じてはいないものを拒否するようになってしまうんです。そして社会が私たち女性を人間である前に身体と見做すことで、私たちの尊厳は壊されていくんです。それに意識的であっても、自分の身体を愛することはとても難しいことです。でも最初の一歩は確かにあります。他の女性たちと経験を共有することは大いに助けになるでしょう。なぜなら私たち一人ひとりが外見に関して不安を持っていて、だから不安になる必要はないと分かるからです。私たちの身体はそれぞれ独特であり自然で、ありのままでも美しいんです。メディアの美の基準など拒むべきです。誰もそれに共感などできないんですから。
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私の身体、私の言葉~Interview with Camila Kater - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

40. Hamida Issa ハミダ・イッサ (カタール)
私たちは石油の子供なのだ、映画内でこんな言葉を監督自身が呟く。その実情を私たちはホームビデオのなかに何度も見てきた。豪勢なパーティ、厩舎での馬との触れ合い、ディズニーランドへの家族旅行。今までこの映像は甘やかな郷愁を観客にもたらしてくれていた。だが南極の実情とカタールの現代史が繋げられたその時から、映像からは苦い後悔と罪悪感が現れ始める。それはおそらく監督が抱く思いそのものなのだろう。

それでも今作はその罪の提示で終ることはない。こういったある種原罪にも似た苦悩に苛まれるなかで、監督は母との記憶を頼りにして、希望を探し求める。気候変動と引き換えに恩恵を得てきた自分が今できることは一体何なのか?この問いを彼女は突き詰めんとしていく。彼女の長編デビュー作“Places of the Soul”はその過程、カタールの特権的な富裕層に生まれた1人の女性がこれを自覚し、その特権を持つ者としての責任を引き受けるまでを描いた作品なのだ。
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Hamida Issa&“Places of the Soul”/カタール、石油の子供たち - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

39. Martin Turk マルティン・トゥルク (スロヴェニア)
Turk監督の眼差しは頗る真摯なものだ。彼は曖昧さに確固たる答えを与えようとはしない。曖昧さを曖昧なままに提示しようと試みるのだ。今作において言葉を越える美や人間心理の複雑さというものが柔らかく浮かびあがる鍵がこの真摯さなのである。

そしてクレメンの不満と怒りが頂点を迎える瞬間があるのだが、それは静かな驚きに溢れたものだ。登場人物たちの感情が結集し、胸を打つ光景がここには生まれるのである。"Ne pozabi dihati"は兄弟という関係性を新たな視点から描きだす美しい作品だ。
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Martin Turk&"Ne pozabi dihati"/この切なさに、息をするのを忘れないように - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

38. Elitza Gueorguieva エリツァ・ゲオルギエヴァ (ブルガリア/フランス)
クローン病など不治の病を持つ私が世界の映画を観たり、言語を学んだり、世界旅行のようなものだ。その意味で私にとって最も大いなる旅は、ルーマニア語で小説を書いている、つまりはルーマニアで小説家として活動しているということだろう。自分でもどうしてこんなことになっているのかよく分からないが、そんなことよりもルーマニア語という母国語以外の新しい言語で書くことを私は楽しんでいる。そしてその作品が他でもないルーマニアの人々に認められたことは一生の誇りだ。つまりはそういう喜びを、この“Un endroit silencieux”を観ながら、私は再び感じることができた。だからこの映画に感謝したいのだ。
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Elitza Gueorguieva&“Un endroit silencieux”/別の言葉で書くということ - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

37. Manuel Muños マヌエル・ムニョス (ホンジュラス)
TS:“Rubicón”の始まりは一体どういったものでしたか? あなた自身の経験、ホンジュラスのニュース、もしくは何か他の出来事ですか?

MM:映画の始まりは恋人であり今作の主演でもあるSofia Grisales ソフィア・グリサレスを撮った写真からです。アパートのバルコニー、そこの窓越しに彼女を撮ったんです。光の反射がガラスに当たり、部屋の内側とその外側に広がる街が同時に写っているというイメージが気に入りました。ここを始まりとして映画を作りたいとすぐさま思いました。次の1歩はこの中心となるイメージから連なる別のイメージを見つけだし、物語を創りだすことでした。今作はこのように撮影されていったので脚本は存在しなかったのですが、イメージや音の数々が互いに繋がりあい、映画がある種構築されていったんです。
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ここではないどこか、いつか~Interview with Manuel Muños - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

36. Alfonso Morgan-Terrero アルフォンソ・モルガン=トレロ (ドミニカ共和国)
そして観客は気づくだろう、この映画によってAlfonso Morgan-Terreroという映画作家ドミニカ共和国に新たな神話を紡ごうとしていると。登場人物たちがめぐる不条理な生と死の旅路は、繰り返される異様なる省略の数々によって論理や現実を越えた何かへと昇華されていくことになる。それこそが超越的なる神話なのだ。

"Verde"ドミニカ共和国でこそ語られうる、死生をめぐる神話を紡ぎしていく無限の野心に満ちた映画だ。この驚異の連続に、私たちはMorgan-Terreroという新鋭が未来に必ずや輝きを誇ることを確信するだろう。
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Alfonso Morgan-Terrero&"Verde"/ドミニカ共和国、紡がれる現代の神話 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

35. Dmitry Mamulia ドミトリー・マムリア (ジョージア)
そして物語は続いていく。今作は男の道筋を通じて殺人という罪に対する倫理的な洞察を深めていく。そこには人間の欲望や愛が絡まり合っていく。ある時、男は殺人を犯した若者の裁判に立ち会い、彼の妻と会話を交わす。"殺人を犯した彼を愛しているか?"という男の問いに、妻は"愛が深まった"と答える。この世で人を殺すことは、殺人者自身にもその周りの人間にも大きな影響を与える。その様を、監督は観察していくのだ。

静かに緊張感が高まる中、その果てに監督が描き出そうとするのは人間存在が不可避的に宿す禍々しさや理解し難さなのだというのが分かってくる。彼は文学的なアプローチを駆使しながら、人間心理の奥の奥へと潜行していく。その様は悠然としながらも、堂々たるものであり、正に圧巻としか言い様がない。"The Criminal Man"ジョージア映画界の新たなる豊饒を告げる大いなる1作だ。
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Dmitry Mamulia&"The Criminal Man"/ジョージア、人を殺すということ - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

34. Morteza Farshbaf モルテザ・ファルシュバフ (イラン)
この男と男の熱烈で複雑な関係性は60年代70年代に活躍したイラン映画界の巨匠Masoud Kimiaiの作品を想起させる。例えば彼は"The Deer"という映画で薬物中毒者と手負いの銀行強盗が互いをケアしながらも、決定的な挫折を経験し、しかし最後には互いの心を救済するという関係性を描きだした。"Tooman"におけるダヴードとアジズの、愛と猜疑と憎悪を行きかう関係性はそんなKimiai作品を彷彿とさせるのだ。

私は2020年代の新たなるイラン映画について先述したが、ここに属すると思える映画作家たちが志向するのは1963年から1978年にかけて続いた白色革命時代のイラン映画の数々だ。Kimiaiを筆頭としてBahram BayzaiEbrahim Golestanといった、言ってみればキアロスタミ以前の巨匠たちの作品への回帰を新鋭たちは目指しているように思われるのだ。そして"Tooman"においてはこの白色革命時代への志向が、何をかなぐり捨ててでも欲望を肯定するという無謀にして強烈な意志へと繋がっていく。キアロスタミにもファルハーディにもいい加減倦んでいた私としては、このイラン映画の新たなる潮流を深く、深く歓迎したい。
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Morteza Farshbaf&"Tooman"/春夏秋冬、賭博師の生き様 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

33. Nicolás Pereda ニコラス・ペレダ (メキシコ)
彼の最新長編“Fauna"は物語にはこんな語り方があるのかと驚かされる、頗る野心的な1作だ。こうしてメキシコで虚構の面白さを探求しつづけるのがNicolás Peredaという存在なのである。最後に今作を端的に示すような彼の発言を紹介して、この記事を終えよう。"私は現実を捉えることに興味はありません。現実についてどう語るかについて興味があるんです"
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Nicolás Pereda&"Fauna"/2つの物語が重なりあって - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

32. Camilo Restrepo カミロ・レストレポ (コロンビア)
今作の要は、髭面の謎めいた男ピンキーを演じたFernando Úsaga Higuítaの存在に他ならないだろう。彼の鬱蒼たる髭面の中には野性的な神秘が存在しており、都市に生きる人物というよりも洞窟に住む隠遁者か、ジャングルに潜む部族の住人に見えてくる。私たちは周縁に住まう彼の瞳からこの世界を眺め直すことで、資本主義やテロリズムの根本を問い直すことになることともなるのだ。

"Los conductos"はコロンビアが直面する悍ましき黙示録の光景を、幻惑的な形で描き出した唯一無二の作品だ。にも関わらず本作は2020年代におけるコロンビア映画界の輝ける躍進をも予告する、新人作家のデビュー作ともなっている。
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Camilo Restrepo&"Los conductos"/コロンビア、その悍ましき黙示録 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

31. Maria Clara Escobar マリア・クララ・エスコバル (ブラジル)
ボルソナーロ政権においてブラジル映画界は危機的な逆境に直面している。その最中に現れた"Desterro"はブラジルに生きるカップルの停滞を極めた日常を描く作品だ。死をめぐる官僚主義的な不条理、死に対する悍ましいまでの即物主義を経て、異様なる生の倦怠の迷宮へと至る。そして黙示録の時が訪れる時、私たちは途方もない絶望を目の当たりにするだろう。クレベール・メンドンサ・フィーリョがカーペンター紛いの信じられない駄作「バクラウ」を作ってしまった一方で、Escobarは現代ブラジル映画界の隆盛を不穏に寿ぐ、恐るべき作品を生み出してしまった。
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Maria Clara Escobar&"Desterro"/ブラジル、彼女の黙示録 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

30. Paul Negoescu パウル・ネゴエスク (ルーマニア)
2010年から様々なジャンルを行き交いながら映画を作ってきたルーマニアの職人監督。新作“Oameni de treabă”はある種王道のスリラー映画だがNegoescuの手捌きは他と一線を画す。今作自体スリルといった要素は慎重に排されているが、暴力の激発においてもそれは徹底している。私たちはここに血腥さを目撃するだろう。しかしそれは果てしなく不毛であり、その先に何も生まれることはないと確信することになる。倫理への問いの臨界点に現れるこの絶望、この虚無。私は敢えて言いたい、これが、これこそがルーマニア映画なのだと。
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Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
Paul Negoescu&“Oameni de treabă”/ルーマニア、お前はここでどう生きる? - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

29. Ernar Nurgaliev エルナル・ヌルガリエフ (カザフスタン)
今作はいわゆる犯罪コメディやホラーコメディと表現できる1作だ。だが演出を見ていって分かるのは、作り手側の映画史への深い造詣だろう。前述のジャンル映画の流れを学び汲んでいくだけでも、面白い作品はできるだろうが、その埒外にある映画を観てその技術を吸収し、取り入れていく、これがジャンル映画を更に深化させることもある。笑う者もいるだろうが、今作において語りに厭味なく嵌った華麗な横移動撮影を観るたび、私は長きに渡るこの撮影法の歴史に思いを馳せた。そういった映画史の蓄積を今作には感じたのだ。"Sweetie, You Won't Believe It"はホラーコメディ、そしてジャンル映画の持つ喜びをトコトン突き詰めた破格の1作だ。シッチェス映画祭でも絶賛された今作とその監督Ernar Nurgaliev2020年代のジャンル映画界に現れた輝く彗星だ、きっと未来を更に血みどろ肉塊まみれにしてくれるに違いない。
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Ernar Nurgaliev&"Sweetie, You Won't Believe It"/カザフスタン、もっと血みどろになってけ! - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

28. Juan Pablo Richter フアン・パブロ・リクテル (ボリビア)
子供たちは生きてきた時間、何かを学ぶ時間がまだ少ないからこそ、必死になって生きなくてはいけない瞬間が多い。そういう時間は当然だがあまりあるべきではない。しかし、どうしたって避けることもできない。今、私たちがこのクソ社会に目を向ければ、これもまた一瞬で分かってしまうことだ。そして、また抱えるには重すぎる“生まれたことの絶望”に押し潰されようとしている子供たちがいる。しかし、彼らの心に何とか寄り添おうとする大人たちも、確かにいる。こうしてシビアな現実で生きる子供たちへの責任を、作り手である大人が何とか、何とか全うしようとする、そんな切実さの結実がこの“98 segundos sin sombra”という1作なのだ。難病と診断されるなど激動を味わった2021年の最後に、私はこの映画を観れて本当によかった、そう思っている。
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Juan Pablo Richter&“98 segundos sin sombra”/ボリビア、このクソみたいな世界で - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

27. Cyrielle Raingou シリエル・ランゴウ (カメルーン)
こういった形で今作が力強く描きだすのは、教育がいかに子供の生育に重要か?ということだ。だが同じテーマ性を持つ作品群が教育の美点により焦点を当てることの多い一方で、今作は負の部分にこそ焦点を当てる。ファルタと兄弟それぞれの道行きから浮かびあがるのは、どんな教育制度であろうとも、その制度がどんなに善や包括性を志向していたとしても、知を豊かに育める子と落ちこぼれる子の両方がどうしても生まれてしまうという現実だ。今作の核はそのやるせなさなのである。

“Le spectre de Boko Haram”は教育というものをただ礼賛することはしない。むしろそれが不可避的に宿すままならなさを誠実に見据え、私たちに提示するからこそ忘れがたい余韻を与えるのだ。2023年度のロッテルダム映画祭コンペティション部門で作品賞を獲得したのも、この誠実さを評価されてのことなのだろう。
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Cyrielle Raingou&“Le spectre de Boko Haram”/カメルーン、学ぶことのままならなさ - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

26. Agustín Banchero アグスティン・バンケロ (ウルグアイ)
Agustín Bancheroが今作"Las vacaciones de Hilda"によって描きだそうとするのは、ヒルダという中年女性が抱える痛みであり、私たちがそこに見いだすのは凍てついた孤独であり、かつての愛の残骸であり、確かに手にしていたはずの幸せの残り香だ。そしてそれはまた、私たちが抱くことになるかもしれない、抱いたことのあるのかもしれない、ただひたすらな、生きることの寂しさでもあるのだ。これが癒される時はいつか来るのか? この問いに対する安易な答えを、ヒルダが最後に見る風景は強く拒むことになるだろう。それほどまでに孤独とは途方もないものなのだ。
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Agustín Banchero&"Las vacaciones de Hilda"/短い夏、長い孤独 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

25. Eugen Jebeleanu イェウジェン・ジェブレアヌ (ルーマニア)
今作はある種の一夜ものと言えるだろう。主人公が一夜を彷徨うなかでその人生が運命的に変貌を遂げてしまう。だが一夜ものは街全体を舞台にする一方で、今作の舞台はほぼ映画館に限られる。だがPandruの長回しを主体とした撮影によって、比較的シンプルな構造をしている映画館が何か悪夢のような迷宮へと変わっていき、そこをクリスティの引き裂かれた心が彷徨う様が緊張を以て描きだされるのだ。

そして際立つのは激烈な言葉の数々だ。先述した通り今作では露骨なまでに差別的な言葉が頻出し、本流のように観客の耳を震わせることになる。その苛烈さに、ある程度ルーマニア語を解する私は耳を塞ぎたくなるほどだった。だが今作が驚くほど静かな映画だと感じられる由縁は主人公クリスティを演じるConrad Mericofferの存在感だろう。彼はほとんど感情を表に出すことはないが、痛烈なホモフォビアに直面した時、その顔からは微かな感情すらも消え去る。この時彼の顔に宿る静謐とはつまり諦念だ。現状への深淵のような諦念。これが映画に絶望の静けさを宿らせる。

"Câmp de maci"は同性愛者たちをめぐるルーマニアの過酷なる現実を静かに、しかし凄まじい勢いで以て叩きつけられる映画だ。私はルーマニアという国をどこよりも深く愛している。愛しているからこそ、その闇の部分を知らねばならないという思いがある。今作はそれについて知り、深く考えるまたとない機会をくれた。感謝したい。
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Eugen Jebeleanu&"Câmp de maci"/ルーマニア、ゲイとして生きることの絶望 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

24. Savaș Cevi サヴァシュ・ジェヴィ (ドイツ)
ドイツに生きる1人の小児性愛者、彼はシングルマザーとその息子と出会い…小児性愛者の現実を壮絶なまでの内省、傷つけることを運命づけられた交流、医療的な対話を通じ描く今作は、心が震わされるほどに衝撃的で誠実な、絶望についての物語だ。そして常日頃"この世界に産まれてきたことの絶望"と"私が生きるということは誰かを傷つけることを運命づけられている、という絶望"について考えている自分としては、ここで描かれるものはあまりにも、あまりにも身に覚えがありすぎて、心を本当に震わされた。私は主人公マルクスが死ではなく、生きることでもって絶望の先に行くことを願っている。
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Savaş Cevi&"Kopfplatzen"/私の生が誰かを傷つける時 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

23. Fidel Devkota フィデル・デヴコタ (ネパール)
そしてネパール新世代の作品を何作も観て感じたのは、霊的な存在とそれにまつわる出来事を描きだす作品の多さである。例えばSunil Gurungによる短編“Windhorse”は妻/母の死をきっかけにネパールの寺院を行脚する親子を描いた作品であったし、このNiranjan Raj Bhetwal監督作“The Eternal Melody”は亡くなった夫が心置きなく向こうの世界へ行けるよう奔走する女性の姿を描いていた。どれもネパールにおける霊的存在への畏敬を感じさせるものだったが、今作もやはりこの畏敬の念に裏打ちされた作品であり、これが国際化によって踏み躙られることへの怒りもまた存在している。これらの要素を描くにおいてホラーというジャンルが選ばれたのには全く説得力がある。

故郷であるネパールという国を心から憎みながらも、小国を下僕の立ち位置に追いこむ国際化にも与することができない。“The Red Suitcase”はそんな複雑な思いを抱える人々の悲哀、そして怒りを格調高いホラーとして描く1作だ。それでいて本作はネパール映画界の新世代到来を告げる記念碑としても記憶されるべき作品なのだ。
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Fidel Devkota&“The Red Suitcase”/ネパール、世界を彷徨う亡霊たち - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

22. Emilio Silva Torres エミリオ・シルバ・トレス (ウルグアイ)
今作を観るというのは、ある人間の心のうちに存在している、底の知れない迷宮を旅するようなものだった。それは人間心理それ自体の暗黒ともいうべきなのだろうか? これを十全に表現できる言葉を私は見つけられていないのだが、いや本当にそれほどの驚くべき現実を“Directamente para video”という作品は提示しているのである。VHS、そしてZ級映画の魔というべきものを炙りだす、私にとって本当に忘れ難い1作となる作品だった。今後もう一生忘れられないのではという予感にすら苛まれている。Emilio Silva Torresという監督は何て劇物を作ってしまったのかと、私は全く驚くしかない。
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Emilio Silva Torres&“Directamente para video”/ウルグアイ VHS Z級映画 そして - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

21. Anna Cazenave Cambet アンナ・カザナヴ・カンブ (フランス)
アニエス・ヴァルダ「冬の旅」を彷彿とさせる、異性愛者である少女の痛ましい心の彷徨、そしてこの世で女性として生きることの苦痛から、少女2人の禁欲的で壮絶なクィア的絆を描く後半への移行はあまりに華麗だ。少女の性の目覚めを描きだす作品は欠伸が出るほどに多いが"De l'or pour les chiens"は他の映画が持つことのできなかったドラスティックさを持ちあわせている。肉体的なエロティシズムと精神的な官能性、ヘテロ的な愛のしがらみとクィア的な禁欲と峻厳の絆、1つの映画でこの極を行きかう様には脱帽という他ない。今作は間違いなく2020年最高のデビュー長編の1本だ。
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Anna Cazenave Cambet&"De l'or pour les chiens"/夏の旅、人を愛することを知る - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

20. Marko Đorđević マルコ・ジョルジェヴィチ (セルビア)
セルビアの新鋭によるデビュー長編"Moj jutarnjii smeh"は寒々しく荒涼たる筆致で、孤独な男の魂の行く末を追う。彼はこの負の感情をどう処理していいのか分からず、何か行動に移すことが全くできないでいる。それが人生の停滞を引き起こし、負の螺旋を描き出されていく。そうして男性の性的不満についての物語として展開していくと思えば、社会から無理解を被るアセクシャルの物語としても解釈できる複雑さをも宿している。世界と相いれない寂しさや悲哀は濃厚なまでに滲み出ている身体にとって、その解消の鍵はある女性との関係性でありながら、可能性は曖昧で複雑微妙な地点へと至ることとなる。こうして描かれる繊細なる心の機微が圧巻だ。
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Marko Đorđević&"Moj jutarnji smeh"/理解されえぬ心の彷徨 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

19. Wendy Bednarz ウェンディ・ベドナルツ (アラブ首長国連邦)
“Yellow Bus”はその物語自体、娘の死の真相を探る母と彼女の行動がその家族や共同体に激震を生むというありがちな筋立てではある。だがまず今作はより普遍的なスリラー映画として、その畳み掛ける編集と登場人物1人1人の心の深奥を抉り提示する脚本によって、王道としての磐石たる高揚と面白さを堂々と披露することができている。

そしてこの普遍的なスリルを強化するものこそがアラブ首長国連邦という国の現状を抉る独自性に他ならない。アナンダとミラの対立は個と公の対立として捉えられることはもちろんだが、いつしかインド移民とアラブ社会におけるそれとも昇華されていくのである。先述した通りこの独自性の追求は相当に痛烈なものであり、これが今作に唯一無二の魅力的社会性を宿しているのだ。この普遍性と独自性の繊細にして大胆な均衡は、この“Yellow Bus”という映画がアラブ首長国連邦アラブ首長国連邦出身作家にこそ作れる愛と憎しみの1作であることを高らかに証明しているのだ。
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Wendy Bednarz&“Yellow Bus”/その国の名は、アラブ首長国連邦 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

18. Wissam Charaf ウィッサム・シャラフ (レバノン)
ここで想起するのがフィンランドの奇才アキ・カウリスマキである。今ちょうど日本でも最新作である「枯れ葉」が公開中であるが、彼の作品を特徴づける真顔のユーモアに似たものが今作にも現れているのだ。実際に監督のCharafは好きな映画監督としてロベール・ブレッソンユイエ=ストローブとともにカウリスマキの名前を挙げており、彼からの影響が伺い知れる。妙な登場人物たちを慈しむような手触りも、作風として共鳴するものがあるように思えてならない。

(中略)再びカウリスマキを話題に挙げさせてもらうと、彼の近作であるル・アーヴルの靴みがき希望のかなたにはアフリカや中東からの難民が登場している。特に後者は主人公がシリア難民と、今作にそのまま重なるものとなっている。こうしてカウリスマキは世界情勢を反映しながら映画製作を行っているわけだが、その意味で“Dirty Difficult Dangerous”という、この極めて政治的な可笑しみに満ちたメロドラマは中東の一国であるレバノンからの、カウリスマキへの応答であるのかもしれない。
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Wissam Charaf&“Dirty Difficult Dangerous”/レバノン、愛ってだいぶ政治的 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

17 Jonathan Davies ジョナサン・デイヴィス (アメリカ)
亡くなった叔母の家に引っ越してきた主人公が、彼女の所有する楽器の中に小さなカセットテープを見つけ、その謎を追う……というあらすじだが、そんな探偵もののようなあらすじから想像もできない領域へ本作は展開していく。広がっていく空間、その中に満ちていく響き、そして心は安堵と不穏のあわいを揺蕩いながら、音に溶けていく。実験音楽への胸を打つ愛が、記憶を追い求めるささやかな旅路を通じ、世界への大いなる優しさへ変わっていく。本当に、本当に私にとってかけがえのない1作になった。
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セイレーンたちの響き~Interview with Jonathan Davies - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

16. Alina Grigore アリナ・グリゴレ (ルーマニア)
監督のAlina Grigore アリナ・グリゴレは今作がデビュー作とは信じられない、稠密な緊迫感とモラルへの鬼気迫る問いをスクリーンを通じて提示するが、この新人離れした手腕は以前のキャリアによって培われたものだろう。彼女は元々俳優としての活動が主だったが、その最中の2018年にAdrian Sitaru アドリアン・シタル監督作"Ilegitim"に主演を果たすと同時に、脚本家としてもデビューを果たす。今作は自身の娘と息子が近親相姦という関係にあり、しかも娘が妊娠してしまったと知った父の苦悩を描きだすといった作品だった。シタル監督はルーマニアにおける生命倫理や職業倫理の行く末を常に見据える人物であり、彼のモラルへの洞察やその方法論を苛烈に推し進めた1作がこの"Blue Moon"と言えるかもしれない。

この"Blue Moon"というルーマニア映画には"iad"というルーマニア語が似合う。つまり"地獄"という意味を持つ言葉だ。徹底的に被害者として虐げられてきた女性が、この抑圧的社会で生存するがため、加害者として振舞う。そして実際に加害者ともなり、この2つの概念の狭間、凄まじく危うい領域に迷うことになる。私たちは問わざるを得なくなる、こうしてしか弱者は生きられないのか?と。そんな絶対的な絶望がここにはある。
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Alina Grigore&"Blue Moon"/被害者と加害者、危うい領域 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

15. Juan Mónaco Cagni フアン・モナコ・カーニ (アルゼンチン)
映画を観ている時、時おり映画にしかできないことはなんだろうと考えることがある。小説や演劇、絵画や彫像、芸術には様々な形態がありながらも、それを越えて映画にしかできないことは一体何かと。正直言って答えは簡単にでることはない。それでも、この映画がその答えだと言いたくなる作品が存在する。今作には言葉にし難い感情の数々が自然や人物の表情に浮かび上がりながらも、明確な形にされることはない。だからこそ切なさがこみ上げる瞬間というものがあるだろう。その瞬間がこの映画にはあまりにも多くある、そしてそれは映画にしか描けない魔術であるのだ。"Ofrenda"は映画にしかできないやり方でこそ、私たちの人生を祝福する。
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Juan Mónaco Cagni&"Ofrenda"/映画こそが人生を祝福する - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

14. Marieke Elzerman マリエケ・エルゼルマン (オランダ/ベルギー)
TS:そして今作の核はあなたが身体の動きをいかに捉えているかでしょう。特に最後の場面における主人公たちの手は印象的です。彼女たちの手は凪の陽光のなかで舞い踊りながら、他者と生きることの難しさ、そしてその美しさを観客に語ります。"Kom hier"においてあなたが捉える手はそれ自体が希望であるのです。そこで聞きたいのは撮影監督であるFrank Schulte フランク・スフルテとともに身振り手振りを捉える、特に最後の場面を撮影するうえで、最も重要であったことは何かということです。

ME:フランクとの共同作業はとても円滑なもので、ここから多くのことを学びました。彼は当初ドキュメンタリーを撮っていて、最適なアングルを迅速に見つけることができる人物でした。それが6日間という短い期間の、シェルターという環境での撮影にはうってつけでした。例えば映画冒頭の影は脚本に書いてあったものではないです。私たちは同時にこれを見出してカメラに捉えた訳ですが、こういう協同が仕事のやり方として素晴らしかったんです。最後の場面はリハーサルなしで撮影しました、後々後悔はしましたが……それでも有難いことにKoenがいてくれて、俳優たちがいかに手を動かせばいいかを指南してくれたんです。なので撮影リストなどは作らず、ただ公園を動きまわり、陽が落ちる前に様々な風景を撮影しました。この場面の編集には長い時間をかけましたね。例えばサムの笑顔もまた脚本には書かれておらず、動きを演じるなかでのアドリブだったんです。彼女たちの演技、Koenの指南、そしてFrankの撮影は私が執筆した脚本よりもその場面を豊かなものにしてくれました。深く感謝しています。
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"他者"とともに生きるということ~Interview with Marieke Elzerman - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

13. Eduardo Williams エドゥアルド・ウィリアムス (アルゼンチン)
群雄割拠のアルゼンチン映画界でも異彩を放つ新人監督。短編“”は世界の終わりに世界の果てへと旅を始める青年たちの姿を描き出した謎めいた一作。2016年にデビュー長編“El auge del humano”を製作、全く別の世界で生きる若者たちの怠惰な日々がある瞬間に繋がりあうという作品で、ロカルノ映画祭の新人監督部門で作品賞を獲得するなど最高のスタートを切った。そして2023年にはその続編“El auge del humano 3”を発表。ん?と思った方は勘が鋭い。そう、2をスッ飛ばし3を作ったわけである。この大胆さでロカルノを再び席巻、今度はメインコンペティションで作品賞を掻っ攫った。
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Edualdo Williams&"El auge del humano"/うつむく世代の生温き黙示録 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

12. Romas Zabarauskas ロマス・ザバラウスカス (リトアニア)
富も名声も手に入れた白人シスゲイ男性であるマリユス、激動のシリアから逃れて難民となったアラブ系のバイ男性であるアリ。アリへの愛を貫こうとするマリユスに立ち塞がるのは難民の現実、何より彼自身の特権性と独善性。それでもマリユスはNGO団体やアクティビストの言葉に学んでいき、愛する人と対話を繰り返し、差別と苦難の先へ手を伸ばす。"Advokatas"は世界に満ちる悲しみと残酷を相手取り繰り広げられる、珠玉のゲイロマンスだ。故に彼らが最後に行う選択、これは本当にずっと、ずっと考えていくしかないものだろう。だがだからこそ、この作品は今作られなければならなかった誠実さについての映画となったと、私は言いたい。
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Romas Zabarauskas&“Advokatas”/リトアニア、特権のその先へと - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

11. 楊國瑞 ネルソン・ヨー (シンガポール)
何というか時々“妙な映画”としか呼称できないような映画に遭遇することがある。例えば演出があまりにも変な映画だったり、物語の展開があまりにも不可解なものだったり、登場人物の行動原理があまりにも理解できない映画だったりする映画に出会うと“妙な映画”だと言わざるを得なくなったりする。そういう映画にはそうお目にかかれるわけではない。

(中略)これらの幻惑的な要素が組み合わさることによって、今作には観客を煙に巻くような感覚が常に宿っている。私も観ながら、自分は一体何を観ているんだ?と狐ならぬ、人魚に摘まれる感覚を味わわされた。こうして長く文章を書いていても、言語化してある程度理解できたと思いきやその理解をスルッと躱される、そんな思いをも現在進行形で抱かされていると言ってもいい。こうして思うのは、演出が云々、テーマ性が云々と延永と語るのはこの映画には野暮かもしれないということだ。皆さんもその機会が来たなら、“好久不見”という奇妙なる白昼夢にただただ身を委ねてほしい。
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楊國瑞&“好久不見”/運命の人魚に惑わされて - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

10. Matjaž Ivanišin マチャシュ・イヴァニシン (スロヴェニア)
私の中でスロヴェニア映画がアツかった時期があった。きっかけはスロヴェニア映画界の巨匠Boštjan Hladnikの作品を観る機会があって、それでド嵌りしてしまったのである。それからスロヴェニアの映画評論家にインタビューを敢行し、スロヴェニア映画史について学んでいる訳であるが、2010年代を代表する作品について問うと誰もが名前を挙げる作品があったのだ。それこそがスロヴェニア映画界期待の新鋭Matjaž Ivanišinの監督作"Oroslan"だった。

スロヴェニアの田舎町、1人の老人が亡くなり人々は悲しみに包まれながら、それぞれの思い出を紡いでいく。その言葉の数々からは死者への哀惜と親密さが溢れだし、生きることへの小さな、切実な祝福が齎される。2010年代スロヴェニア映画界の最後を飾る、輝ける奇跡のような優しさがこの"Oroslan"なのだ。
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Matjaž Ivanišin&"Oroslan"/生きることへの小さな祝福 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
1人の死者と流れる時間~Interview with Matic Drakulić - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

9. Perivi John Katjavivi ペリヴィ・ジョン・カチャヴィヴィ (ナミビア)
私は数々の日本未公開映画を観るなかで、少なくとも劇映画においては、実験映画の方法論を有機的に取り入れ、その技術を以て物語(特にジャンル映画)を解体していき、新しく創り直す映画作家が2010年代以降続々と現れているという感覚がある。ライカート然り、ジョナサン・グレイザー然り、この鉄腸ブログで紹介した作家としてはEduardo Williams エドゥアルド・ウィリアムスや、Hilal Baydarov ヒラル・バイダロフなどがその作家にあたる。

そして今作の監督であるPerivi John Katjaviviはその系譜の最先端に属する新鋭なのではないかと私は直感したわけである。今ちょうど「ファースト・カウ」「ショーイング・アップ」の公開で、日本の観客もライカートを発見している最中と思うが、もしかするなら皆が彼女に感じるものと同じ類の驚きをこの“Under the Hanging Tree”を観ている時に味わったと言えるかもしれない。上述の作家たちの映画を観ていたゆえ、私はこれこそが劇映画の行くべき道という確信があるが、その系譜にある作家がナミビアという映画界においては比較的無名な国から現れたことは予想外ながら、これこそが日本未公開映画を観る醍醐味でもあると思った次第だ。
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Perivi John Katjavivi&“Under the Hanging Tree”/ナミビア、血の過去とそして現在 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!


8. Farkhat Sharipov ファルハット・シャリポフ (カザフスタン)
カザフの気鋭による2022年制作の“Skhema”において子供たちはみな愚かである。だが愚かなのは彼らだけではない。子供を酒や金で釣り、搾取する大人がいる。タクシー内という密室で少女に言葉の暴力を投げ掛ける大人がいる。自分の子供が明らかに危険な目に遭っているのを知りながら、自身の事情にかまけ何もできない大人がいる。大人たちもみな愚かなのである。それはつまり人間という存在自体が救いようもなく愚かなのである。Sharipovは常にこの絶対零度の眼差しを崩すことなく、この世界においてそれらの避けがたい愚がどこへ行き着くかを見据えているのだ。

“Skhema”とは虚無である。そして徐々にこの虚無という言葉自体も生ぬるく思えてくるだろう。だが……終盤において私たちは何とも形容しがたい境地へとも導かれることになる。このどうとでも解釈できてしまう複雑微妙さ、これこそがFarkhat Sharipovという映画作家の底知れなさだと私は戦慄せざるを得ないのだ。
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Farkhat Sharipov&“Skhema”/カザフスタン、底知れぬ雪の春 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

7. Isabel Sandval イサベル・サンドバル (フィリピン)
Sandoval監督は自身もトランス女性であり、ここでは監督・脚本・編集・主演を兼任している。つまりはトランスパーソンが当事者としてトランスの物語を語っている訳だが、ここで興味深く表れるものが1つある。シスジェンダー作家がトランスの映画を作る時、トランスの描写が当然の如く論外な一方、自身も属するはずのシスジェンダー描写すら陳腐ということがよくある。それは、相手がトランスだと知って我を失う類の人物か、相手がトランスだと知って全てを受け入れる類の人物かの二極化だ。"Lingua Franca"のシス男性であるアレックスの描写は前者に属し、それでサスペンスを演出するという人物造形と思いきや、物語が展開するにつれもっと複雑な感情と優しさが立ち現れるのだ。Sandoval監督はむしろシス男性である彼の描写をこそ綿密なものにすることで、今作を他の凡百なトランスジェンダーを描く映画とは一線を画するものとする。

Sandoval監督はこの"Lingua Franca"において、この複層的な関係性を、ドナルド・トランプが移民やトランスジェンダーを筆頭としたLGBTQの人々への差別を先導する現代のアメリカを舞台に紡ぎだしていく。そして物語が最後に辿りつくのは希望とも絶望ともつかぬ場所だ。監督の視線は怜悧なれど何て、何て豊穣な物語なのだろうか。
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Isabel Sandoval&「リングワ・フランカ」/アメリカ、希望とも絶望ともつかぬ場所 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

6. Jurgis Matulevičius ユルギス・マトゥレヴィチウス (リトアニア)
この"Izaokas"という作品は過去の罪を暴こうとする者、そして過去の罪を隠蔽しようとする者たちの静かな、しかし激烈なる闘争を描きだした作品だ。Matulevičiusはこの闘争を誰もが出口へと辿りつけない迷宮的な悪夢として描きだしていく。その根本にあるものとはリトアニアの犯した罪への壮絶な反省と、そしてこの国に対する深淵さながらの絶望だろう。この国に希望はあるのか?と、そんな悲嘆がスクリーンからは聞こえてくるようだ。だが私が信じるのは、この自国の罪業をここまで痛烈に抉りだすJurgis Matulevičiusという若き才能が存在すること自体が、既に強靭な希望であるということだ。
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リトアニアの裏側にある狂気~Interview with Jurgis Matulevičius - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
Jurgis Matulevičius&"Izaokas"/リトアニア、ここに在るは虐殺の歴史 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

5. Tamar Shavgulidze タマル・シャヴグリゼ (ジョージア)
だがその愛し合っていた記憶が、なぜ離れ離れになった今の距離感に繋がってしまうのか。監督はそれに答えを用意しないままに、しかし現在の2人の様子を静かに見据え続ける。彼女たちは近づいては離れていく。冷たい雰囲気を醸し出すかと思えば、息を呑むほどの官能性に包まれることもある。この余りにも複雑な変遷の流れを、監督はありのままに提示するのである。

そして最も印象的な光景の1つとして挙げられるのは、その微妙な現在の中で突如煌めく過去の一場面だ。ある時2人は野外上映へと赴き、SF映画を観賞する。その鑑賞している時の彼女たちを、監督は真正面から長回しで描き出す。並んで映画を観る姿、時おり片方が片方に甘える姿、そこには蕩けるような愛の美しさが存在している。

だがその愛は現在において再び燃え上がるのだろうか。物語はそれを宙吊りにしていく。だが今作が息を呑む美しさを魅せるのは、この宙吊りが思わぬ飛躍をする瞬間だ。今作の題名は"Comets"、彗星を意味する言葉であるが、その通り宇宙的な規模へと発展するのだ。その壮大さには思わず言葉を失った。"Comets"は個人的で小さな愛の風景を、驚きの地平へと接続する作品だ。"私たちは再び巡りあう。私たちは再び愛しあう。この大いなる大地で……"
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Tamar Shavgulidze&"Comets"/この大地で、私たちは再び愛しあう - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

4. Christos Massalas クリストス・マッサラス (ギリシャ)
ネリーとバーバラはそんなマルコスに闘いを挑むのだが、彼女たちの姿を見ながら想起した作品がある。それがウォシャウスキー姉妹のデビュー長編「バウンド」だ。今作は愛しあうクィアな女性2人が男たちを出し抜き、生存闘争を繰り広げるクライム・ロマンスというべき代物だ。この枠組みを“Broadway”は共有している訳だが、そこから更に1歩先へ行っていると思える部分がある。それはネリーがバイセクシャル女性であり、バーバラはトランス女性でかつレズビアンであることだ。バイセクシャルとトランス・レズビアンは女性を愛する女性のなかでも、マジョリティであるシスジェンダーレズビアンたちの周縁に置かれてきた。そんな彼女たちが今作では中心となり、抑圧者たちと対峙するのだ。この勇姿を目の当たりにしながら、ウォシャウスキー姉妹の魂はギリシャにも受け継がれている!と、思わず心が震えてしまった。

家父長制に挑む反逆者たちがいる。しかしこのシステムは弱き者同士が傷つけあう地獄をも生み出す。それでも両方に中指を突き立てて、愛を胸に生きるやつらもまた確かに、確かにいるのだ。この“Broadway”という作品は、そんなクィアな反逆者の生きざまを祝福する力強い1作だ。
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Christos Massalas&“Broadway”/クィア、反逆、その生き様 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

3. Hilal Bydarov ヒラル・バイダロフ (アゼルバイジャン)
映画批評家として映画を観続けてきたうえで、2020年代に台頭する国はどこかと聞かれたとするなら、私はこう答える。コソボスロヴェニアカザフスタン、そしてアゼルバイジャンと。アゼルバイジャンに関してこう確信させてくれた映画作家Hilal Bydarov ヒラル・バイダロフだった。彼の"When the Persimmons Grew"に感銘を受けた後、私は様々なアゼルバイジャン映画に触れてきたが、そんな彼の最新作"Səpələnmiş ölümlər arasında"ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門に選出されたと聞き、本当に喜ばしく思った。そしてこの作品を目撃した今、私は途方もない感動の涙に暮れることとなっている。今作は2020年代という今後の10年を規定する紛れもない傑作だ。
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Hilal Baydarov&"Səpələnmiş ölümlər arasında"/映画の2020年代が幕を開ける - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

2. Kyros Papavassiliou キロス・パパヴァシリオウ (キプロス)
今作を観ながら私が想起した言葉がある。それは“人間讃歌”だった。だがこれは例えばジョジョの奇妙な冒険などで提示される、どこまでも人間を肯定する眩い強さというものを意味しない。人間があまりに醜く救い難いのに、それでも己もまた人間であるがゆえにその醜さ、救い難さを見放せないと、むしろそんな弱みとしてのそれだ。過去・現在・未来がごちゃ混ぜになった世界で、誰もが時間や愛という概念にしがみつき、生きることの恥を晒す。それは人間はこういう風にしか生きられないのかと、観る者に深い落胆を与える類いのものだ。

私は現代のキプロス映画に際立っているのは稀なヒューマニズムだ。そしてこれはやはり人間や世界への希望ではなく、むしろ絶望にこそ裏打ちされたヒューマニズムなのである。Embryo Larva Butterfly”ギリシャの奇想とそんなキプロスヒューマニズムが溶けあい生まれた、壮絶な“人間讃歌”だ。
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Kyros Papavassiliou&"Impressions of a Drowned Man"/死してなお彷徨う者の詩 - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
Kyros Papavassiliou&“Embryo Larva Butterfly”/過去も未来も、今すら虚しく - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

1. Damien Hauser ダミアン・ハウザー (ケニア/スイス)
序盤においては社会への洞察、そして中盤においては個の心への洞察が綴られるが、本作の終盤ではこれらが常に入り乱れ、衝突を繰り広げることになる。今まで描き出されてきた全ての要素がここに集結し、ジミーという1人の青年を突き動かし、そして私たち観客は予期せぬ場所へと導かれることとなる。今作の題名は“正直さを伴った対話”と、そして“正直さとの対話”を意味している。この両方を同時に突きつけてくる終盤は正に圧巻の一言だ。“Theo”はセックスを中心として、社会を取り巻く無数の問題を描きださんとする野心に満ちた作品だ。あまりにも繊細で、あまりにも軽快、そしてあまりにも誠実だ。

Hauser、実は2001年生であり現在でも弱冠23歳、しかも今作の制作時には21歳だったそう。いやさすがにその若さにはさすがに眩さを覚えたし、Z世代はこういう映画を作るのか!という興奮もあった。全くとんでもねえ才能が突如爆誕してしまって、映画紹介者の私も嬉しい悲鳴だ。
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Damien Hauser&“Blind Love”/ケニアのロマコメは一味違う! - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
Damien Hauser&“Theo: Eine Konversation mit der Ehrlichkeit”/傷つけ傷つけられ、今ここに立って - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!