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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

楊國瑞&“好久不見”/運命の人魚に惑わされて

何というか時々“妙な映画”としか呼称できないような映画に遭遇することがある。例えば演出があまりにも変な映画だったり、物語の展開があまりにも不可解なものだったり、登場人物の行動原理があまりにも理解できない映画だったりする映画に出会うと“妙な映画”だと言わざるを得なくなったりする。そういう映画にはそうお目にかかれるわけではない。さて今回紹介する映画はそんな最新の“妙な映画”である、シンガポールの新鋭である楊國瑞 ネルソン・ヨーによる初長編“好久不見”(英題:Dreaming & Dying)である。

今作はまずある3人の再会から幕を開ける。劇中で名前の明かされない妻と夫(卓桂枝 ドリーン・トー&何榮盛 ケルヴィン・ホー)は、幼馴染であるヘン(俞宏榮 ピーター・ユー)と久方ぶりに会うことになる。再会を喜び、キリンの一番搾りを飲みながら旧交を温めあう3人なのであったが、妻の方はどこか落ち着かない表情を浮かべている。その裏側には何か言いしれぬ思いがあるようなのだが……

この映画がまずもって描きだすのは、そこはかとない三角関係というやつである。妻はつまり未だに独身でフラフラしているらしいヘンのことを想っているわけだ。海岸で独りでいる時には、彼にそれとなく恋愛について聞く時の問いかけを予行練習して、彼と二人きりになったなら練習してきたその問いかけを実際に口にしてみるのだが、彼はそれを飄々と躱してくる。その風景に夫は何も知らぬ風を装うのだが、彼女の心が自分からはとっくに離れていることは彼だって知っている。さてさてこれからどうなるのか……

今作でまずかなり独特なのがLincoln Yeoの担当する撮影である。まず、彼が紡ぎだすショットが相当に美しい。フィルムの粒子によって世界から鮮やかな色彩を引き出していき、それをスクリーンに焼きつけるとそんなショットの数々は、単純に溜め息が溢れてしまうほどに美である。印象派の絵画を想起させるほど、Yeoは光を使いこなしていると感嘆するほどだ。

だが彼の持ち味はそれだけではない。冒頭、彼のカメラは妻の不安げな横顔を映しだすのであるが、徐々にズームが引いていき、フレーム内にヘンが現れたかと思えば夫も現れ、そうして必然的に世界も広がっていく。彼が印象的に使いこなすのはこのズームである。冒頭のようにズームが寄り世界が広がっていくような感覚を観客にもたらすこともあれば、逆も然り、最初はロングショットで風景を映していたと思えば徐々にズームが寄っていき、フレーム内にはヘンと妻の上半身だけという構図になる。ここにおいてはつまり2人だけの親密な世界がここには広がるというわけだ。この何ともズームを自在に駆使されることで、今作の空気感、英題が示唆するような白昼夢的な雰囲気が築かれていくことになる。

そしてこの風景に呼応するように、物語自体もまた夢のような感触を宿していくことになる。そもそもの三角関係が、愛が表立って語られることが一切ない未分化なものであり、水墨画さながら見えない部分にその豊かさが表れるといったものとなっているのだが、その合間に全く別の物語が挿入される。ウェンジンとジウファンという男女が再会を遂げる。ここでウェンジンはずっと隠していた秘密をジウファンに打ち明ける、自分は実は人間ではなく人魚なのだ……

これは妻の持っている奇想小説の内容なのだが、妻や夫がこれを読む際にその縦書きの字幕としてスクリーンに浮かびあがるかと思えば、加えてその映像もまた映画に挿入されるのである。そしてウェンジンとジウファンはヘンと妻の姿で描かれることになっている。妻はこの奇想を愛おしげに読み進めていき、夫は意味が分からんと拒否し、本を乱暴に閉じる。ここでは一体何が起こってるのか?おそらく登場人物にすら分かってないような形で、物語は気ままに進んでいく……とか思ったら、また別の話が始まるのである。その物語においてはあの夫婦が再登場する。彼らは森で散策をしているのかと思いきや、夫の方は何か箱を抱えており、この中に入っている何かを森の奥へと運んでいくことが目的らしい。

この森パートにおいては、Yeoの撮影の鮮やかさがさらに極まっていく。覆われた鬱蒼たる自然はまるで豊穣な影に満ちた冥界といった感じで、スクリーン越しに眺めているだけでも、東アジアに満ち満ちるあの濃厚な湿気を感じさせられる。そして先にも書いた白昼夢のような雰囲気が湿りの中で、また別の幻惑的な何かへと変わっていくのにも観客は気づかざるを得ないだろう。

ここにおいてやはりというべきか、その脚本の奇妙さを増していくのだ。森の旅路の合間に、あの人魚の話が引き続き介入してくるのだが、旅には見当たらないヘンの姿をしたウェンジンの存在感がどんどん艶めかしいものになっていく。見た目は安っぽい青い布を下半身に着け、それで人魚と言い張るような妙な姿なのだが、むしろそれが異界のモノ感に繋がっている。彼を演じるピーター・ユーの色気は絶品も絶品で、再会パートでも夫妻を惑わせる運命の男オム・ファタールとして説得力に満ち溢れていたが、森パートでは俗世を越えたゾッとするような艶を誇っている。

これらの幻惑的な要素が組み合わさることによって、今作には観客を煙に巻くような感覚が常に宿っている。私も観ながら、自分は一体何を観ているんだ?と狐ならぬ、人魚に摘まれる感覚を味わわされた。こうして長く文章を書いていても、言語化してある程度理解できたと思いきやその理解をスルッと躱される、そんな思いをも現在進行形で抱かされていると言ってもいい。こうして思うのは、演出が云々、テーマ性が云々と延永と語るのはこの映画には野暮かもしれないということだ。皆さんもその機会が来たなら、“好久不見”という奇妙なる白昼夢にただただ身を委ねてほしい。