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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Alberto Gracia&“La parra”/この不条理がガリシアなんですよ……

2000年代後半から2010年代にかけて、今まで注目されてこなかった国の映画が注目を受け世界を席巻することになる。韓国、ギリシャルーマニア……韓国映画の活況は日本でも十全に紹介され、後者2国の映画に関しても少なくとも私の鉄腸ブログで何本も紹介してきた。だがこの国々に並んで世界でも注目されながら、日本においてはあまり紹介されてこなかったのが“ガリシア映画の新たなる波 Novo Galego Cinema”だろう。スペインの自治州の1つであるガリシア、ここから新たなる才能が既に現れ、ここ10年以上もの間に注目すべき映画を制作しているのだ。例えば東京国際映画祭で上映された「ファイアー・ウィル・カム」(ガリシア語原題は“O que arde”)のOliver Laxe オリべル・ラシェや、去年期間限定で上映された「サムサラ」Lois Patiño ロイス・パティーニョがこの波に属している。だが批評家である赤坂太輔による紹介を除くと、日本で得られるガリシア映画に関する情報はあまりに少ない。ということで今回はその穴を埋めるという意味で、“ガリシアの新たなる波”の中核を担う映画監督Alberto Graciaによる最新長編“La parra”を紹介していこう。

今作の主人公はガルシア(Alfonso Míguez)という中年男性だ。彼は失業中の身であり、家賃を滞納しているどころかスーパーでまともに買い物もできないほどに困窮していた。そんなある日、彼の元に父が亡くなったとの報せが届く。そして彼は故郷であるガリシアはフェロルという町に里帰りするのだったが……

ここからガルシアの道行きは奇妙なものとなっていく。モニター越しに父が火葬されるのを見届けた後、少しの間この町に滞在するため泊まれる場所を探す。ここで彼は気の良い老婆に出会い快く居候させてくれるのだが、何故だか彼女はガルシアを“コスメ”という名前で呼ぶのだ。誰か別人と間違えているらしい。さらに居候先の奇妙な下宿人たちや、町行く人々からも“コスメ”と呼ばれてしまう。一体“コスメ”とは誰なのか?

監督と脚本を兼任するGraciaの演出と物語運びはかなり思わせぶりなものだ。ガルシアがコスメと間違えられる事件を皮切りに、彼は奇妙な事件に幾つも遭遇することになる。だがこれらの事件、何だか裏がありそうなのだ。まるでその全てが何らかの形で繋がっているかのように……というのを観客に仄めかすことで、映画に対する緊張した注目を保とうとするわけである。

実際こういう“思わせぶり”な作品というのは、特に映画祭映画なんかだとかなり多く、そうして引っ張って引っ張った挙げ句にコケオドシしか出せず撃沈する作品には何度お目にかかったことか。今作も割合そういった作品に似ており、どこか“思わせぶり”が何かを表現する手段ではなく、もはやこれ自体が目的という印象すら受ける。ただ観客を当惑させるがために、これをやっているんじゃないかと。しかし他の作品と今作で明確に違う点は、前者がかなりシリアスな作品ばかりなのに対して、今作は妙な現実離れ方をしたコメディであることだ。

例えば監督がVelasco Brocaとともに手掛けている編集は、観客から笑いを引き出さんとする類の、シュールなお笑いコントさながらの抜け感を常に志向している。随所で期待したリズムを外され、そのギャップが笑いを生むといった風だ。ここにおいて、なかなかに惨めな生活を送り故郷においても変な出来事に見舞われる、ガルシアといううだつあがらぬオッサンの姿やその苦虫潰したような表情がトホホなユーモアに昇華されるのだ。

さらに特徴的なのはJonay Armasによる音楽である。彼がここで解き放つのは劇伴として流れるよりもクラブで爆音で流れている方が適しているんでは?と思わされるゴリゴリピコピコのEDMである。映画の随所で劇伴としてなかなかのうるささを以て響くのに最初気圧されたが、ガルシアのトホホな姿には一聞似合わなすぎるこの響きが、新たなギャップとして活きている。トホホがEDMで誇張されることによって、ユーモアの深度が増幅するような感覚があるのだ。更に劇中にはラップを披露する謎の男まで現れ、聴覚までもその奇妙な笑いにくすぐられることになる。

このようにして今作は展開していくが、徐々に浮かびあがってくるのがガリシアという地域の現在である。ガリシア語という固有の言語が話されるこの地域には、他とはまた異なる文化や歴史が広がっており、その一端が今作に織り込まれているのだ。例えばガルシアがフェロルへ帰ってきた際、彼を迎えるのはガリシア語の高らかな歌声だ。ガリシア文化を誇るような歌は聞くものを畏敬の念で打つほどの力を持っている。一方でテレビで流れるニュースには、住民たちが不平不満を口にする様が映しだされ、この地域の現状がそう理想的ではないことを示している。

スペインは失業率、特に若年層の失業率がかなり高く、現在も改善はされながら2023年12月付けでその失業率は11.76%となっている。ガルシアはその煽り喰らっている形となっているが、一地域であるガリシアにもそんな世知辛い状況が広がっており、さらに固有の文化や歴史がそれを独自の不条理にまで高めている様を観客はここで目撃せざるを得ないわけだ。そして不条理に巻き込まれガルシアのどん詰まりが極まるごとに、映画というか作り手自身のガリシアへのイライラも高まり、その物語は酔っ払いの管巻きを彷彿とさせる妙さへと突き抜けていく。

そして画面からはいつしか、この不条理が、このダメダメさこそがガリシアなんすよ……というぼやきすら聞こえてくるが、ここからは自分の故郷への憎しみと愛着の狭間の複雑な感情すら見えてくる。こうして“La parra”はなかなかどうして妙なコメディという形で、ガリシアの現在を私たちに伝えてくれるわけである。