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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Salam Zampaligre&“Le taxi, le cinéma et moi”/ブルキナファソ、映画と私

さて、ブルキナファソである。この国は例えばイドリッサ・ウエドラオゴ Idrissa Ouedraogoガストン・カボーレ Gaston Kaboréなど日本で作品が上映されるほど著名な映画監督にも恵まれている。さらにこの国ではアフリカ映画のある種メッカとも言えるワガドゥグ全アフリカ映画祭(FESPACO)が開催されており、日本未公開映画を探し求める私のような人々でもその存在を認識している人はかなり多いだろう。だが今回紹介するのは、様々な事情からそんなブルキナファソ映画史から消えてしまった人物を描きだすドキュメンタリー、Salam Zampaligre監督作“Le taxi, le cinéma et moi”だ。

今作の主人公となるのはDrissa Toure ドリッサ・トゥレという映画監督である。彼は1952年にブルキナファソで生まれた。そんな彼が若い頃に出会ったのが、日本でも「黒人女」「エミタイ」といった作品が有名な、セネガル映画界の巨匠センベーヌ・ウスマンの作品だった。当時、彼の作品は既にヨーロッパ圏で評価されていたわけだが、それらに衝撃を受けたことことをきっかけに映画監督を志し始めたのだという。

その時期、先に名前を挙げたウエドラオゴやカボーレが映画界でキャリアを築こうとしていた時期であり、彼らとの知遇を得たトゥレはパリへと留学、ここに創設されていたAtrisという組織で映画製作を学ぶことになる。短編制作などで着実にキャリアを積み重ねていった後の1991年、彼は待望の初長編“Laada”を完成させる。故郷の村と都市を行き交う青年の苦悩を描きだした本作は、何とあのカンヌ国際映画祭に選出されることになる。当時は先輩格であるウエドラオゴが「ヤーバ」「掟」と連続でのカンヌ選出と賞獲得(前者は国際批評家連盟賞、後者はグランプリ)でブルキナファソ映画の波が来ていたゆえの、大抜擢だったのかもしれない。今作は好評を以て迎えられ、トゥレの名は一躍有名となる。

そして2年後の1993年には第2長編“Haramuya”を監督、西側から流入してくる文化とブルキナファソ古来の伝統の狭間で翻弄される家族を描いた作品で、カンヌ筆頭にロッテルダム国際映画祭などでも上映され、話題を博す。ドキュメンタリー内ではトゥレがテレビ出演した際の映像が流れる。他の出演者から“語りが支離滅裂”と批判を受けるのだが、彼は“これは自分なりの語りを目指した結果だ”と堂々たる反論を行い、映画監督としての風格を漂わせているというのを印象付けられる光景だった。

こうしてトゥレはウエドラオゴらとともに、ブルキナファソ映画界の未来を背負って立つ存在としての地位を確立するのだったが、そこから約30年が過ぎ、彼が作った長編数は……0本である。今は故郷で運送屋として働きながら、家族を養っている。ウエドラオゴやカボーレが着実にそのキャリアを積み重ねていった中で、何故トゥレは映画を作ることが出来なくなってしまったのか?ここから今作はその問いに迫っていく。

そこには様々な不運が存在していた。自身の作品がニューヨークで上映された後、トゥレは映画製作の拠点をアメリカに据えるため、この都市への移住を試みる。しかし家族からの猛反対に遭ってしまい、移住を断念、彼はブルキナファソへと帰ることになる。そこで映画製作を再開しようとするのだが、ここで再び悲劇が起こる。パリにおいて自分の活動を支援してくれたAtrisが解体されてしまい、その他ブルキナファソ政府からの支援なども一切なくなってしまったトゥレは映画が制作できなくなり、そのまま約30年もの時が経ってしまったというわけである。

もちろん本人の問題もあるとは思われるのだが、今作はその批判の目をむしろブルキナファソ社会にこそ向けていく。あそこまで将来を嘱望されていた映画監督がその後1作も映画を作れなかったのは、ブルキナファソ政府がいかに文化を軽視し、数少ない文化振興に関しても明らかな機能不全が見られ、不平等が生まれてしまっている。この影響を致命的なまでに受けてしまったのがトゥレなのだと今作は語るのだ。

ここでなかなか複雑な立ち位置にいるのがワガドゥグ全アフリカ映画祭である。“全アフリカ映画祭”と称する通り、アフリカ映画のメッカとして華々しい活動を誇っているが、当のブルキナファソの映画人に対する支援などがここで行われているのだろうか、他国からの支援を取り繋いだりということをしているのだろうか……トゥレの実情を見るのならば状況はあまり芳しくないもののように思われる。

しかしそんなワガドゥグ全アフリカ映画祭を愛する者の一人が何を隠そうトゥレその人なのである。カメラの前で映画祭への憧れを語った後、彼は撮影クルーとともに久方ぶりに映画祭へと赴くのである。映画を楽しむのは勿論、満員で作品が観れなかった時にも「シネフィルの情熱はすごい!」と笑顔で語るなど、映画祭を心から楽しんでいる様子がありありと伝わってくる。映画への情熱は彼から一切失われてはいないのである。

“Le taxi, le cinéma et moi”Drissa Toureという、ブルキナファソ映画界が忘れ去ってしまっていた1人の映画人への、そして彼がかつて背負っていたブルキナファソ映画史へのオマージュである。そしてその深い敬意があるからこそ、監督は現在のブルキナファソへと鋭い批判を向け、これを世界の観客に問うている。トゥレが再び映画を作れるようになる未来のための一助に、この紹介記事がなることを願っている。

最後に少し。劇中でも重要な役割を果たすワガドゥグ全アフリカ映画祭、私がこれを知ったのは懇意にしている日本未公開映画の伝道師チェ・ブンブンさんを通じてだった。彼はブルキナファソひいてはアフリカの映画を熱心に探求し、その魅力を伝えようと活動している。例えばこの記事では友人が撮ってくれたという写真を通じて映画祭を紹介、下部にはアフリカ映画関連記事つきだ。この記事も含め、ぜひチェブンさんの映画ブログ“チェ・ブンブンのティーマ”を読んでくれたら幸いである。

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