さて、カバルダ・バルカル共和国である。ロシア連邦の構成国家の1つであるこの国から、近年新たなる才能が多数現れている。例えば日本でも「戦争と女の顔」が公開されたカンテミール・バラーゴフ、さらにカンヌ国際映画祭ある視点部門で作品賞を獲得、その後に日本でもJAIHOで配信がなされた「アンクレンチング・フィスト」のキラ・コヴァレンコ Кира Коваленкоが有名だろう。彼らはカバルディーノ・バルカリア国立大学にアレクサンドル・ソクーロフが設立した演出ワークショップに参加し、ここから世界へ巣立ったわけだが、今回は彼らに並ぶカバルダ・バルカル共和国の新鋭であるVladimir Bitokov (ロシア語表記:Владимир Битоков)と彼の初長編“Deep Rivers”(ロシア語原題:“Глубокие реки”)を紹介していこう。
今作の主人公はベスとムハ(Rustam Muratov & Mukhamed Sabiev)という兄弟である。彼らは父親(Oleg Guseinov)たちとともに人里離れたコーカサスの山奥に住んでおり、そこで木こりとして働きながら生計を立てる日々を送っていた。孤独な生活ではありながら、自給自足ゆえに食うには困っておらず、この生活は永遠に続くと思われていた。
監督はまず家族の仕事ぶりを丹念に追いかけることで、物語を紡いでいく。険しさの極みたる山岳地帯、そこでの生活に順応するためベスたちの体躯は隆々として巨大だ。彼らはその逞しい腕で以て斧を振るい、彼らよりもさらに数倍の大きさである木を伐り倒していく。伐採作業の末、巨木が轟音を立てながら倒れる姿は圧巻だが、男たちには日常ゆえ平然とその様を眺めるのみだ。家でもナイフの手入れなどを欠かすことはなく、常不断彼らは山の男であるといった風だ。
ここにおいてAleksandr Demianenkoのカメラは徹底したリアリズムを以て、カバルダ・バルカル共和国の雄大な自然を映しだしていく。隆起に隆起を重ねた地形、そこに巨人の腕さながら突き立つ無数の木々、果てしなさに過ぎて恐怖すら覚える白い空。さらにそれらが映る画面は常に青みがかっており、そこに広がる全てを覆い尽くすような凍てが何よりも網膜にこそ肉薄してくるのだ。観客は戦慄とともに、畏敬の念すらも覚えざるを得ないだろう。
ある日、作業中に事件が起こる。父親が誤って重傷を負ってしまったのである。大黒柱を失ってしまったベスとムハは、労働力を補うために都市部に移住していた三男マロイ(Takhir Teppeyev)を呼び戻さざるを得なくなる。故郷に帰ってきたマロイは、しかし明らかに都会の文化に染まっており、木こり業にも反感を見せる。こうして必然的に兄弟は対立することになってしまう。
今作のテーマとは、価値観の対立である。まずは田舎文化と都市文化の対立がここでは俎上にあがる。ずっと故郷に住んできたベスとハムは峻厳たる自然のなかで生き抜くために、体を鍛えあげ、精神を鍛えあげてきた。それは男らしさの過剰なまでの発露によって象徴されている。だがマロイはどちらも“鍛えあげた”というには程遠い。伐採作業を満足にこなせないのはもちろん、ヘッドホンをして音楽に耽溺し家族を無視すらする。この態度が兄弟たちには惰弱の極みと映るわけだ。
この田舎に生きる人間と都市に生きる人間の対立というのは、おそらくどこの国にも存在する普遍的な衝突でもあるだろう。ここにおいて監督はどちらにも肩入れすることなく、さらにどちらに対してもより醜い部分をこそ浮かびあがらせようとしていく。どちらも等しく醜い、少なくとも互いを敵視し歩み寄れないという点においては。
そしてこの普遍的な対立に加えて、今作には特殊な対立も存在している。カバルダ・バルカル共和国の公用語の1つとしてカバルダ語という言語があるのだが、今作は全編この言語で撮影された初めての長編映画だそうだ。ということで登場人物たちは自身の母語であるカバルダ語を喋っているのだが、マロイだけは違う。彼はカバルダ語はダサいと言い、家族の前でロシア語で話すのだ。ベスたちももちろんロシア語を理解できるのだが、そんなマロイに対してロシア語で話すか、それともカバルダ語を使い続けるか、ここに登場人物たちの姿勢やその時々の思考が現れざるを得ない。だがどちらを使うにしろ、この状況は家族の平穏を乱すのである。
ここにおいては、普通のソ連/ロシア映画とはロシア語と地域言語の立ち位置が真逆である。いつもなら登場人物は基本的にロシア語を喋り、時折地域言語が話され、その話者が異分子として立ち現れることになる。だが今作においてはむしろロシア語が少数派の言語として描かれ、そのロシア語を話すマロイが家族の調和を乱す異分子として描かれるのだ。このようにして田舎文化と都市文化の衝突が、カバルダ語とロシア語ひいてはカバルダ・バルカル共和国とロシアの衝突に重なっていくのである。
そして監督はこのどちらにも肩入れすることなく、どちらもどん詰まりの状況にあると提示していく。前者は様々な理由から貧困に満ちており、少しずつ瓦解していく状況にある。ベスたち家族は生計が立てられているだけまだマシな状況で、近くの村の住民たちはその状況に嫉妬し、ベスたちの父親が怪我したのをきっかけに家族への脅迫を開始する。瓦解の中ですら手を取り合えず、仲間同士潰しあうというわけだ。
後者は後者で、国という単位では前者固有の文化を侵食していっている。周縁から若者を流出させていき生じる悪影響はマロイの存在が象徴しているだろう。実際“ロシア連邦構成国”というのは“ロシアの植民地”という言葉の体の良い言い換えでしかないのかもしれない。それでいて個人単位では、都市部に育まれた肉体や精神は過酷な自然において無力であるということが今作では提示される。自然のなかを生き抜けず、更には意識的にしろ無意識的にしろ文化侵食の担い手として機能してしまうのだ。
監督はこの対立を丹念に描きだすとともに、この対立の狭間に何か希望がないかと探しながら、絶望はあまりにも深い。家族という繋がりですらも、救いになることはないのだ。“Deep Rivers”はカバルダ・バルカル共和国の現在を通じて、そんな人間存在の愚かさと、それへのやるせなさを浮かびあがらせる1作なのである。