鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

光差す方へと「Citadel -シタデル-」


固く閉ざされた扉の向こう、薄汚れた硝子を隔てたその先に、最愛の彼女とそして“彼ら”がいた。トミーはその光景に、何か悍ましき予感を抱いた。
「マリー!」
その名前を叫ぶ。しかしエレベーターの中からでは、大きくとも恐怖に掠れた彼の声は届かない。次の瞬間だった、“彼ら”はその暴力を以て彼女を連れ去っていく。トミーは叫びながらも扉をこじ開けんとする。しかし開く事は無い。何度も何度も力任せに拳を打ち据えども鉄の扉はビクともしない。無情にもエレベーターは下へ、下へと降りていく。虚空を切り裂く彼女の悲鳴は遠くへ、遠くへと離れていく。やっとのことで開け放った扉より駆け出し、戻り至ったトミーの瞳に飛び込んだのは、昏い眠りについた彼女の無残な姿だった。

主人公であるトミーは、謎の集団に妻を殺害されるという忌まわしき経験から、広場恐怖症アゴラフィリア”という精神の病に苛まれた若者だ。彼にとって外界は苦痛の地でしかない。アイルランドの青く鈍い郊外の風景、寒々しき風と大いなる孤独がトミーの精神を危殆に晒す。紫の唇から漏れ出る呻きは不安となり、氷でできた舌の如く、トミーの肉体を這いずり回る。
外出どころか自我の均衡さえままならぬ彼にはしかし、守らなければならない、かけがえのない存在がいた。最愛のマリーが眠りと引き換えにこの世へと産み落とした、娘のエルザだ。だがその無垢なる存在さえも、今のトミーにとっては重きに過ぎる負担でしかない。劣悪な環境も相俟って、トミーの精神はエルザの泣声に擦り減っていく。
そんな中で“彼ら”は再び姿を現す。塵埃に塗れたジャージ、フードを目深に被ってその顔は窺い知れない。歩みは蹣跚として、その姿は正にゾンビのようだ。“彼ら”は徒党を組み幾度となくトミーの前に現れ、トミーの人生を破壊しようとする。
トミーの安らうべき家を、トミーに救済の手を差し伸べる者を、そしてエルザさえも。
だがしかし、トミーの目の前で繰り広げられるそれは現実なのか?そんな猜疑が、私たちに、トミー自身にふと浮かんでくる瞬間がある。それは過去の傷跡が腐食していく過渡の、冷たい妄想なのか?極限状態に投げ出されたトミーは、そのまま恐怖という闇に堕ちていく。

もし一人の人間が見る冷やかな地獄の風景、それのみでこの映画が終幕を迎えるならば、このホラーは凡俗なる作品として有象無象の映画の塵芥に忘れ去られていったかもしれない。だがしかし“彼ら”の正体を知る神父と盲目の少年ダニーは、トミーを“恐怖”からの逃走より“恐怖”との対峙へと駆り立てる。そう、“恐怖”の淵源たる『砦』へと足を踏み入れる後半にこそ本作の類稀なる魅力がある。

そのには観客を即席の驚愕に追い込む大音声も、過剰なる色彩の躍動もない。それらをアメリカンホラーに顕在する“動”の恐怖との形容するならば、その『砦』にある恐怖は“静”の恐怖だ。
黒色によって閉ざされた空間、“彼ら”の彷徨が静謐の濁りによって心に伝わるあの緊迫、『砦』に踏み込んだ三人は息を呑む事さえ躊躇される。私たちもトミーたちの体感にシンクロせざるを得なくなるに違いは無い。
いや、余り書きすぎるのは止そう。この“恐怖”との対峙は、皆さんの目で確かめてもらいたい。

だが最後に。
“恐怖”とは変幻自在に姿を変えて、人々を襲う。一度呑みこまれてしまえば“恐怖”は心を閉じ込めたままに、脱け出し難い堅牢なる『砦』を作り出す。その中に留まるのは水に浮かぶように容易く、その水は停滞の生温かさに充ちている。だがそこに居るままで良いのだろうか?歩みを止めたままに生き続けても許されるのだろうか?
神に祈るなど無駄だ。その『砦』より逃れる力を持つのは己にしかない。まず“恐怖”を自覚し、ただ投げ出されるのでなく自分を恐怖へと投企し、その先を見据える。恐怖は何時でも私たちの心の間隙を付け狙う。だがその闇の旅路のその果てに、掴むべき光がある。それを忘れてはならない。