ジェームズ・ポンソルト&「スマッシュド〜ケイトのアルコールライフ〜」/酒が飲みたい酒が飲みたい酒が飲みたい酒が飲みたい…
ジェームズ・ポンソルト&"The Spectacular Now"/酒さえ飲めばなんとかなる!……のか?
ポンソルト監督の経歴、および個々の作品評についてはこちら参照。
ジェームズ・ポンソルトくらいパッと見の作家性が露骨すぎる映画監督そうは居ないだろう、それは"主人公全員がアル中"ということ。ニック・ノルティ、メアリー・エリザベス・ウィンステッド、マイルズ・テラー、ジェイソン・シーゲル、この錚々たるキャスト陣の全員がアル中なのである。だけどもそれは表層的なことでしかないのを「人生はローリングストーン」観て初めて気付いた。この全員何のために酒を飲むかって、酔っ払うことで嫌な現実や肥大した"自意識"から目を逸らすためという切実な理由からなのである。つまりポンソルト監督はアルコール中毒を通じて一貫して自意識に囚われる苦しみを描き続けていると。
この作家性が最も濃厚なのがM・E・ウィンステッド主演の「ケイトのアルコールライフ」(配信で観れるよ!)主人公は恋人と一緒に毎日毎日酒を呑みまくる小学校の教師ケイト。そんな感じの生活でもまあまあ良い感じの生活水準を保っていたのが、ある日生徒の前でゲロブチ撒けて咄嗟に「妊娠すると自然とこうなるの!」ととんでもない嘘をつく羽目になったり、酒を売ろうとしない店員にブチ切れた勢いで店内でオシッコ漏らすなど、これはマジでヤバいと断酒を決意。
そしてアル中を抜け出す時の揉んどり打つような苦しみを描く……と思いきや、映画は思わぬ方向へと舵を切る。何といきなり時間が飛んで、ケイトが既にアル中を脱して自助会で「今日で断酒記念日○○日目です」と言うシーンが映るのだ。だが此処からが物語の本筋であって、描かれるのは、酒呑みという共通項から知り合った恋人(彼も完全にアル中、演じるのはアーロン・ポール)との擦れ違いだったり、アル中時に職場でついた妊娠という嘘に追い詰められる姿などで、監督はアル中の苦しみ云々を描く訳ではなく、嫌な現実や自意識から逃れるために酒を飲み続けている内、その行動が他者に根づかせる自分についての悪いイメージを、あとあとから払拭するのはアル中自体を治すことと同じくらい難しいというのを描いているのだ。この両方、どちらも深刻になれば自分の命すら脅かす存在となるという訳である。「ケイトのアルコールライフ」はこの自意識の問題に真摯に向き合った作品で私はとても好きだ。しかし次回作の"The Spectacular Now"、こちらも高校生のマイルズ・テラーが酒ガンガン呑みまくる作品なのだが「ケイトのアルコールライフ」とは決定的に異なる作品だと言ってもいい。
マイルズ・テラー演じる高校生サッター、彼は酒を呑みまくると人生バラ色、恋人は簡単に出来るし(しかも彼女はブリー・ラーソン!)、その恋人と別れても憂さ晴らしに酔っ払った末に迷い混んだ家でシェイリーン・ウッドリーに出会って、酒呑みながら口説いたら彼女が次の恋人になり、あまつさえ高校のスポーツマンなイケメンにも一目置かれる存在になる。酒飲んで酔っ払ってれば、そんな自分は他者から見れば格好良い存在に見えて無条件に慕われる、サッターは酒の快楽的な酩酊で以て完全に自意識をコントロール出来ている状態にあるのだ。これはある意味酒呑みにとっては全く理想的な世界がこの映画には広がっている訳だが、でも私たちは現実はそうなる訳ではないと、その理想が達成される前に自分はアル中になって人生は滅茶苦茶になると解ってる。ポンソルト監督も"Off the Black"や「ケイトのアルコールライフ」を観る限りアルコール中毒がいかに誰かの人生を破壊するかについてを解っている筈だのに、彼は以前の作品に見られたアル中は致命的な疾患であるという内省を全部すっぽかして"The Spectacular Now"をアル中の理想世界としてしか描かないのだ、こういう意味で私は今作を退化した救いがたい駄作だと思っている。
だがだ、ポンソルト監督の次回作「人生はローリングストーン」はアル中というのが後景に来た代わりに、自意識に囚われる苦しみを「ケイトのアルコールライフ」以上に真摯に描き出した一作として、監督の最高傑作に数えられる作品だろう。今作はアメリカのポストモダン作家デヴィッド・フォスター・ウォレス(ジェイソン・シーゲル)とローリングストーン誌の記者デヴィッド・リプスキー(ジェシー・アイゼンバーグ)の親密な会話劇を通じて、逃れがたい自意識という名の迷宮を描き出している。
例えばウォレスはいつも頭にバンダナを着けているのだが、その理由をリプスキーに聞かれ"汗をかいてる時何気なく着けてみたら楽になったから、着けてると安心もする、だけどこれがトレードマークと思われるのは嫌だ"と答えるなど、終始人の目を気にするような神経質な発言を行う。こう、自分の行動や身なりの数々が、他人の頭に今後浮かぶイメージに直結する事実に病的なまでに意識的で、でも理想的イメージを形成するにはどうすれば良いか分からず、そもそも理想がどんな物かすら分からず途方に暮れる、つまりは自意識の迷宮感、これを監督は真摯に描いているのだ。更には、社会にとって男性として生かされることのしんどさも描かれていて、2人は女性を巡るホモソ的な会話もしたりするが(例えば自分の朗読会に美女が来てたら嬉しいだろ?だとか、リプスキーの恋人を巡る一幕など)、明らかにこの内面化されたホモソ感覚は彼らの首を絞めているというのも少ないシーンに的確に挿入されたりそういった部分も素晴らしく。そういう意味で「人生はローリングストーン」と過食症を患うYoutuberの女性を描いたWebコメディ"The Skinny"(ここから観れます)を比べて観ると、社会によって男性として生かされるか女性として生かされるかで、自意識に囚われる苦しみにはある種の大きな差異が存在するというのがハッキリと解ったりする。
そして最後に書くべきなのはポンソルトのデビュー作"Off the Black"だろう。今作の主人公はニック・ノルティ演じる老人、高校野球の審判を勤めているのだが、それ以外の時間はテレビを眺めながらビールを飲み続ける孤独な生活を送っている。そんな彼は自分の判断によって試合で恥をかいた少年に、数十個のトイレットペーパーを家に投げつけられる、アメリカでは良くあるイタズラを喰らう。ブチ切れた老人は少年を捕まえ掃除させるのだが、それをきっかけに交流が育まれていく。そんなある日、彼の元に卒業40周年を記念する同窓会の便りが送られてくる。行きたいのは山々だが、ビール漬けの孤独な姿を彼らに見せたくはない、そして思い付いたのが少年を自分の息子として同窓会に連れていくことだ。しかしアル中の彼の体は限界に近づいていた。
この作品はある意味で、ポンソルト監督の他3作の主人公がそのまま酒を呑み続けて老年までズルズルと生き続けたら……というのを描いた作品になっている。自意識は老年期を迎えても枯れ果てることはない、この年になっても家族の居ない自分の体面を気にしまくって少年は自分の子供と嘘をつく。だがこの行動は彼にとって救いとなりながらも、物語は温もりと苦みの交わる形で幕を閉じもする。アルコール中毒を患う人物の、人生の終盤に広がる光景を描き出した作品が監督にとってのデビュー作というのも面白いが、彼の次回作は日本でも邦訳が出ているデイヴ・エガースの「ザ・サークル」の映画化だ。これはSNS時代のディストピアを描くらしくそこには正に自意識の問題が関わってくる。アル中の人物が出るかは知らないが、ポンソルト監督ならさぞや居たたまれない自意識肥大映画を作ってくれる筈だ。
「人生はローリングストーン」面白いから皆観ようよ。この映画はソフトスルーなんだけど、本当に面白い映画は日本じゃ劇場公開されないってそういうことなんだ。