芸術作品とは否応なくその時代を反映するものであるが、こと映画に関しては映像メディアという側面もあるがゆえ、もはやフィクションですらもある意味で時代を撮すドキュメンタリーのような役割を果たすことになる。その過程で否応なく問題となってくるのが時代時代のテクノロジーというべき代物だ。携帯電話の台頭からインターネットの発達まで、テクノロジーが時代を規定し、同時に映画を規定していく。その発展は恐ろしく早く、現れるテクノロジーの早すぎる前時代性によって作品それ自体の出来が色褪せて見えるものすら存在する。だからこそテクノロジーを扱うには細心の注意を払う必要があるだろう。
しかし裏を返せばテクノロジーこそが時代の空気を最も反映した要素であると、自分の作品にこれを取り入れようとする映画作家は跡をたたない。その試みがほとんどの確率で大失敗しているのはご承知の通りだ。だが今から紹介する映画は、もう大見得を切ってしまおうかと思うが、試みに打って出た上で時代の空気のその核を抉り出してみせた稀有な一作だ。ということで早速Jérôme Reybaud監督の長編デビュー作“Jours de France”を紹介していこう。
Jérôme Reybaudは1970年フランスのカンヌに生まれた。子供時代からスーパー8で映画を製作するなど早熟な幼少期を過ごすが、大学時代はフランス詩を学ぶなどしていた。フィリップ・ジャコテについての卒業論文を執筆した後、彼は再び映画を製作し始める。"Aires 06"(2006)や"Trois dames pour Jean-Claude Guiguet"(2008)などの短編や、1970年代に活躍した映画共同体"ディアゴナル"の中心メンバーだったポール・ヴェキアリを描くドキュメンタリー"Qui êtes-vous Paul Vecchiali?"(2012)を手掛けるなどしていた。そして2016年に彼は初の長編映画である"Jours de France"を製作する。
今作の主人公はピエール(パスカル・チェルヴォ、先述のヴェキアリ監督作の幾つかで主演を果たすなどしている)という中年男性だ。彼はポール(「小さな仕立て屋」アルテュール・イギャル)という恋人と暮らしていたが、ある日フラッと家を飛び出し、理由もなく旅を始める。ピエールはまず公衆トイレに向かい、その壁に書いてあった電話番号に連絡し、アルファロメオで彼の元へと向かう。そしてゲイ用の出会い系アプリGrindrを使いながら、フランス中をフラフラと彷徨い始める。
この“Jours de France”は全くもって奇妙なロードムービーだ。ポールとの生活に飽き飽きしたからか、30代も半ばを迎え性の冒険に打って出たくなったのか、そういった明確な理由も何も欠落したままにピエールは淡々と車を運転し続け、映画自体も彼の姿を淡々と追い続ける。ピエールは道中様々な出来事に遭遇する。車がエンストしたという歌手ディアーヌを乗せて老人ホームへと赴き、パリに憧れる青年とベッドを共にし、Grindrの相手に出会えず車内で途方に暮れる。
余りのとりとめのなさに、観ている最中観客の頭の中には疑問符が浮かんでは消えていくだろうが、それは作り手も同じのように思えてくる。老人ホームに着いたピエールは歌手が仕事を終えるのを外で待ち、庭を散策したり、ベンチに座ってスマホを操作したりして時間を潰す。カメラはその姿を追いゆっくりと動いていくのだが、カメラのゆっくりとした動きに何というか確信がない。まるで自分が何を撮影していいか分からないといった風に、フラッと動く。ベンチに座ったピエールを置いて横に移動したかと思えば、ふとした瞬間戻ってきて、また彼を撮す。こういったフレームイン/アウトの際、彼が別の行動を起こしているのを予期せざるを得ないが、さっきと同じくスマホを操作しているだけだ。特に何が起こっている訳ではない。
こういった目的の判然としない演出の数々が、今作には妙な頻度で現れる。それでもここには、作り手の稚拙な技術とは切り捨てられない何かがある。ピエールとディアーヌが車内で他愛のない会話を繰り広げる中、彼女がGrindrを見つけたことで話題は性を巡るアレコレに変わる。あなたはどういう欲望を持ってるの?とそんな直哉な質問に対してピエールは答える、僕には欲望がないんです、だからただ相手が求める役を演じるまでですね。このどこか虚ろな響きを宿す言葉には、彼の心に浮かぶ虚無感を私たちに語る。彼が旅する理由はつまり旅をする目的を探すためなのかもしれない、人が生きる理由とは生きる理由を探すためであるように、人が映画を作る理由は映画を作る理由を探すためであるように。“Jours de France”が捉え所のない、手探りの印象を受けるのが、つまりそういう訳なのだ。
さて、ピエールが失踪を遂げて悲しみに暮れるのが恋人のポールである。友人には“この関係は終わりってことでしょ?”といなされながらも、愛を諦めきれないポールは彼を追いかけることを決める。Grindrの位置情報サービスを駆使し、地図に彼の痕跡をメモ書きしながら、理由も伺い知れない失踪の全貌を掴もうと彼は必死に車を走らせていく。
そうしてこれまた奇妙な追跡劇が幕を開く訳だが、この2つの旅路にはフランスのある偉大なる映画作家ジャック・リヴェットの影が見え隠れする。彼の諸作では登場人物たちがパリという都市を縦横無尽に駆け回るが、この“Jours de France”の場合は範囲がフランス全土へと拡大される。短編映画祭の開催地であるクレルモン=フェランからサン=テティエンヌ、ナンシーからアザンクール、実際にピエールたちが行く場所から話題にだけ出る場所まで、フランスの地名が怒濤のごとくなだれ込んでくるのだ。今作の核にあるのはフランスを股にかけた地理学的な知識であるが、リヴェットの諸作からここまでの拡大を見せたのはGrindrに代表されるテクノロジーの存在があるからこそだろう。スマホを持ちさえすればGPSでどういう欲望を持つ人間がどこにいるのかが分かり、自分の欲望に合致する人を探し直接交流が可能になる。ピエールはその導きに従って自分の欲望をめぐる旅に出て、ポールもこれを利用して彼の軌跡を追っていく。そんな様は正にGrindr世代のジャック・リヴェットというべき縦横無尽さだ。
更に地理学的なものを越えて、今作に出てくる知識は百科事典的だ。Grindrなどのテクノロジー関連は勿論のこと、アルファロメオなどの車についての知識、詩や文学をめぐる思索、愛や性についての哲学的な問答、フランスという名の国家とそれが内包する文化、監督はそういった話題の数々を物語の節々に織り込むことで、作品世界を豊かなものにしていく。
だが同時にこの膨大な知識が大いなる何かに、つまりは大いなる虚無感に引き摺りこまれる感覚すらも今作には宿っている。旅路を眺めるうち、私たちはピエールがそう簡単に性的な満足に至れない姿を目の当たりにする筈だ。Grindrで見つけた相手と会えずに山で迷うかと思えば、相手を見つけてもお前のチンコは臭すぎる!と拒否されセックスできないと散々な目に遭う。それでもフランスを渡り歩き、時々はセックスにありつけながらも、心には言い様のない不満ばかりが募る。そうして旅路が深まるにつれ、拭い切れない虚無感が画面に滲み始めるのだ。この吐き気がするほど拡大した世界において、生きていく理由の欠落した者の心に広がる荒涼たる風景が全てを覆い尽くしていく。
しかしその絶望的な状況の中で、ピエールとポールの旅路に監督は欲望の意味を、欲望の価値を探しだそうと世界の奥の奥へと深く潜り込んでいく。この148分の長きに渡る旅路において、この“Jours de France”とは欲望と虚無感の絶え間ない争いであり得る。そこに安易で明確な答えは出されることがない。そこには謎めいて曖昧な、囁くような歌声が響く。生きることの悲哀と喜びが奇妙に糾われた、美しい歌声が。