鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Fidel Devkota&“The Red Suitcase”/ネパール、世界を彷徨う亡霊たち

さてさて、この鉄腸ブログでは何度も書いているが、最近にわかにネパール映画界がアツいことになっている。この国の新鋭たちの作品が2022年辺りからサンダンスやロッテルダムなどの有名映画祭に続々と選出されているのだ。そして2023年、その中でもより特権的なヴェネチアトロント長編映画がそれぞれ選出されたのを目撃した時、私のなかでネパール映画界の今後10年における躍進を確信したのである。ということで今回は中でもヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に選出された、Fidel Devkotaによる第2長編“The Red Suitcase”を紹介していこう。

今作の主人公は名もなきトラック運転手(Saugat Malla)だ。彼はトラックを駆り、日々ネパールの各地へと荷物を届けるという仕事をしている。この日も彼は中東はカタールからやってきたという大きな荷物を受け取った後、首都カトマンズにある空港から山奥にあるという目的地に向けて出発するのだった。

まずこの映画は、そんなトラック運転手の旅路を静かに見据えることになる。ラジオの音声を相棒としながら、彼は黙々とトラックを走らせていく。時折ガソリンスタンドなどに止まりはするが、基本的には脇目をふることもなく目的地を目指す。周囲の景色は都市のそれからあっという間に山岳地帯のそれとなっていくのだが、その美しい自然は長閑にも見えながらその実崇高で険しいものだ。だが完全に慣れているのだろう、運転手はひたすらにトラックを走らせるのみだ。

Sushan Prajapatiによる撮影は長回しを主体としながら、主人公やトラック、彼らを包みこむ大いなる自然の数々を静かに見据えている。目前に広がるありのままを映し取ろうという風な姿勢は世界を観察する科学者の視線を思わせるものだ。その感触は冷ややかなものであり、例えレンズに浮かぶ風景がいかに美しくとも、どこか不穏な印象を常に観客に与えることになる。

旅の途中、運転手を予期せぬ事態が襲う。突然トラックが故障してしまい、道で立ち往生することとなってしまったのだ。しかし通りすがりの男から、自分は茶屋を経営しているのだがそこで休んでいかないかとの申し出を受ける。最初は躊躇しながらも背に腹は代えられないということで、運転手は男の優しさに甘えることにする。最初は男の世話を有り難く思うのだが、彼の態度は少しずつ奇妙なものとなっていく。

謎の男の登場から今作はそのテーマ性を露わにしていく。彼に勧められるがままに酒を飲み酩酊していく運転手だったが、酔いの勢いのままに運転手は驚くべき打ち明け話をする。彼が学校に通っていた頃、恩師である教師が毛沢東主義者によって嬲り殺しにされたというのだ。恩師が受けたという凄惨な暴力について語った後、運転手は自然とネパールという故国への呪詛をブチ撒け始める。この国において弱者は見捨てられる。その光景を目にする若者たちは必然的に国を捨て、国外へと逃げるように去ってしまう。こんな状況でネパールという国が存在していると本当に言えるのだろうか?

だがだからといって国外の生活がより良いものかといえば、それは違う。国際化という現象は小国の人間を労働力として搾取することでこそ成り立っている。この華々しく、可能性に満ち溢れたように見える現象の裏側には現代の奴隷労働こそが存在している。ネパールにおいては国外、例えば中東の富裕国で出稼ぎ労働者として働く人々も、ネパールに残ることを選んだ人々も等しく国際化に絡め取られ、酷使の末にボロ雑巾さながらに打ち捨てられる。

国際化という現象で重要な要素は物流だろう。この100年、車や飛行機といった輸送機はもちろん、陸海空を股にかける輸送路の発展によって物流は急速に、世界的な展開を遂げ、その勢いは留まるところを知らない。何もかもがどこにでもすぐ届くという状況は、つまり世界の一元化であり、この状況では欲望は加速度的に広がっていく。今作において、その限りなく逼迫した状況を象徴するのがトラック運転手である主人公なのだろう。全てがあまりにも開かれすぎ、そして緊密に繋がりすぎているがゆえに、仕事が終ることがない。そしてその仕事というのは……

この主人公の疲労感に満ちた道行きとともに、もう1つ描かれる道行きがある。物語の合間にはスーツケースを持った作業着の男(Prabin Khatiwada)が登場する。彼は運転手以上に黙々と、何処かを目指して歩き続けるのだ。街中、山道、森の中。どんなに険しく見える場所でも気にもせずに彼は歩く。

彼の存在こそが、今作にホラー的な趣きという別の層をもたらしている。とはいえいわゆるジャンプカットなどの観客を怖がらせようとする、扇情的な演出が行われことは一切なく、むしろもっと霧のなかに亡霊が佇んでいるといった、幽幻な雰囲気こそを醸し出すような演出が多く取られているゆえだ。観ているうちにどこか落ち着かなくなる、観客をそんな状態に陥らせることを目的としている風だ。

こういった演出法は、例えば長回しを効果的に駆使しながら世界観を丁寧に構築してきたシャンタル・アケルマンタル・ベーラらの作品、もっと言えばスローシネマの系譜に属する映画を彷彿とさせるものである。しかし監督の采配で独特なのは、このスローシネマ的な演出法をホラー映画に適用している点である。数日前にPerivi John Katjaviviというナミビアの新人監督による長編“Under the Hanging Tree”(レビュー記事はこちら)を紹介したが、ここで私は、今はジャンル映画をスローシネマ、もしくは実験映画の方法論で再構築し、その物語を新たに語り直していく新鋭が多く現れ始めていると記した。Fidel Devkotaはネパールにおいてこの潮流に共鳴する存在なのかもしれない。

そしてネパール新世代の作品を何作も観て感じたのは、霊的な存在とそれにまつわる出来事を描きだす作品の多さである。例えばSunil Gurungによる短編“Windhorse”は妻/母の死をきっかけにネパールの寺院を行脚する親子を描いた作品であったし、このNiranjan Raj Bhetwal監督作“The Eternal Melody”は亡くなった夫が心置きなく向こうの世界へ行けるよう奔走する女性の姿を描いていた。どれもネパールにおける霊的存在への畏敬を感じさせるものだったが、今作もやはりこの畏敬の念に裏打ちされた作品であり、これが国際化によって踏み躙られることへの怒りもまた存在している。これらの要素を描くにおいてホラーというジャンルが選ばれたのには全く説得力がある。

故郷であるネパールという国を心から憎みながらも、小国を下僕の立ち位置に追いこむ国際化にも与することができない。“The Red Suitcase”はそんな複雑な思いを抱える人々の悲哀、そして怒りを格調高いホラーとして描く1作だ。それでいて本作はネパール映画界の新世代到来を告げる記念碑としても記憶されるべき作品なのだ。