人間は長く生き続けるかぎり老いていく、この運命は絶対に避けることができない。肉体は朽ちていき、精神は磨耗していく。そして最後には全てが朽ち果てるのみだ。そんな老いという最後の旅路のなかに、救いというものは存在し得るのだろうか? 今回紹介するのはそんな避け得ぬ問いをめぐる物語であるキプロス映画、Marinos Kartikkis マリノス・カルティキス監督作“Senior Citizen”(原題:Πολίτης τρίτης ηλικίας)だ。
今作の主人公はテオハリス(Antonis Katsaris アントニス・カツァリス)という男性だ。人生も黄昏に差し掛かり、年金生活者として彼は悠々自適な生活を送っているように思われる。だが彼は端から見れば奇妙な生活を送っている。夜、テオハリスは家から病院へと赴き、院内のベンチに横たわるとそこで眠るのだ。朝、目覚める後には家へと戻り、朝食を取ってから、静かな時を過ごす。だが夜になると再び病院へと行き、ベンチに横たわり眠りに落ちる。
映画はまずこのテオハリスの奇妙な生活を淡々と描きだす。一見するところ、彼の生活や健康状態には何の支障もないように思われる。食事をする、ネコに餌をやる、部屋から部屋へと歩いていく。それは何の変哲もない日常の風景だ。それでもテオハリスは病院へ行く。薄暗い廊下、堅苦しいベンチ、そこで縮こまり、そして眠る。一体なぜ、彼はわざわざこんなことをするのか。観客はそれぞれに思いを巡らせざるを得ないだろう。
そんな日々のなか、テオハリスはある出会いを果たす。彼がいつものようにベンチで寝ていると、その姿を怪訝に思ったらしいエヴゲニア(Marina Argyridou マリナ・アルギリドウ)という看護師が声をかけてくる。心配げに色々と尋ねるのだが、テオハリスは理由については一切話すことなく、家へと帰っていく。そしてもう1つの出会いはアテナ(Lenia Sorocou レニア・ソロコウ)という老婦人とのものだ。2人はビンゴ大会で出会い、交流を始めるのだが、アテナが好意を見せる一方で、テオハリスはそれに無視を決めこむように距離を取り続ける。
監督の演出はどこまでも即物的なものであり、一種の冷ややかさすら存在している。撮影監督Yorgos Rahmatoulin ヨルゴス・ラフマトゥリンとともに、彼はテオハリスの日常を静かに見据え、観察し続ける。そこにおいては彼の心理や行動の動機が説明されることは、ほとんどない。この意味では観客に忍耐を求めるような、切り詰められた語りとなっている。だが映画は、テオハリスは内に秘めたる思いを断片として少しずつ、木訥と明かし始める。老いの悲しみ、死への複雑な感情、そして最愛の存在であった妻の死。
おそらくそれらのどれもが、彼を病院へと誘い、ベンチに横たわらせる理由なのだろう。だがどれも決定的な理由ではない筈だ。全てが曖昧に混ざりあったものにこそ突き動かされ、テオハリスは行動しているのだ。その曖昧さこそが、人生の黄昏に広がる孤独というものなのだと。今作はこのように、即物的な演出を徹底しながらも、同時に言葉にはならない曖昧な感情を繊細に捉えられるしなやかさをも、持ち合わせているのだ。
この要となる存在がテオハリスを演じるAntonis Katsarisだろう。老いによって衰えた身体、重苦しさや遅さを伴った挙動、しかし何よりも深き皺の数々が刻まれたその表情。彼はこういった要素を纏いながら、長き歴史としての人生を私たちの瞳へと差し出してくる。そんな彼とともに、監督は“老いの先に救いは存在するのか?”という悲壮な問いへの思考を深めていく。
そして観客である私が、彼らの思考と、それが紡いだ最後の風景に、見出だしたものがある。人生には必ず終わりがある、死によって生は絶対に終わることとなる。だがその周りには数限りない、他者の生が存在している。1つの死の後にも、その無数の生は続いていくのだ……これは希望だろうか、それとも諦めでしかないのか。これはおそらく、私たち自身に死に訪れるまで考え続けなければならないのだろう。少なくともこの勇気を“Senior Citizen”という作品はもたらしてくれる筈だ。