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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Chano Piñeiro&“Sempre Xonxa”/ガリシア、去るものと残されるもの

さて、ガリシアである。この地域は、いや本当は国として扱うべきではあるが、スペインの中でも貧しい地域であり、多くの人がよりよい未来を求めて他のヨーロッパ諸国やアメリカ、ラテンアメリカへと移住してきた状況が存在している。今回紹介するChano Piñeiro監督が1989年に制作した長編映画“Sempre Xonxa”はそんな状況がガリシアの人々に刻んだ傷というものを見据えた作品となっている。

今作はガリシアのとある村落に住むパンチョとビルタス(Xavier R. Lourido&Miguel Ínsua)、そして題名にも出ているションシャ(Uxía Blanco)という3人の男女、その子供時代から中年期までを追った作品となっている。ここでまず描かれるのは思春期にある3人の過ごす青春の風景だ。彼らは物心ついた頃から友人関係であり、いつも一緒だ。村では大いに遊び、時には教師や神父といったエラい大人たちを大いにコケにしたりと楽しい時間を過ごしていた。

Miguel Ángel Trujilloによる撮影は、田舎町の日常を瑞々しく綺羅びやかに描きだしている。豊かな自然の広がる山々、その狭間に位置する村は移り変わる四季の中で鮮やかにその姿を変えていき3人を抱きしめていく。何でも本作は35mmで撮影された初のガリシア映画だそうだが、フィルムの手触りが陽光を通じて観客1人1人の感覚に迫ってくるほどにその撮影は美しく豊かなものだ。

しかしある時、事件が起こる。ビルタスは村での生活に見切りをつけた家族について、アメリカへと移住せざるを得なくなる。彼が村に戻ってきたのは数十年後のことで、その頃にはアメリカでの事業に成功して実業家としての地位を固めていた。謂わば凱旋という形でビルタスは村に戻ってきたわけだが、そこで知ったのはパンチョとションシャが愛しあう仲になり、家族となっていた事実だった。

このようにして今作は青春映画からメロドラマに移行していく。ビルタスとションシャは子供時代はプラトニックな仲であったのだが、村に滞在する中でその関係性の裏に秘めていたビルタスの愛は嫉妬へと変わっていく。そしていつしかパンチョから彼女を奪い取りたいという仄暗い願いが首をもたげていくこととなる。ここで彼はパンチョ一家の経済状況が芳しくないことを知る。そこに漬けこむ形で、ビルタスは自分の経験をもとに説き伏せ、海外へ出稼ぎに行かせることに成功する。そして邪魔者が居なくなったことを見計らい、ビルタスはションシャに牙を向ける。

そして監督は貧困といった理由ゆえに故郷を去らざるを得なかったガリシア人たちの傷を描きだしていく。移住のために港に向かったパンチョは同じ状況にある人々の姿を目の当たりにする。愛する人と抱きあう若い女性、息子を送りだす母親、みなで船に乗りこんでいく家族たち。港には教会が隣接しており、ガリシア人たちは無事を祈る言葉を静かに聞き旅立っていく。騙される形で海外移住を余儀なくされたパンチョはより悲惨な出稼ぎ生活の後、帰国した時には精神を病んでしまっている。そんなパンチョたちに対してビルタスは冷酷な加害者であるが、しかしその変節の源は家族についてアメリカに移住せざるを得なくなり、強制的にションシャやパンチョと別れさせられたという哀しき過去が確かに存在している。彼もまたある側面では被害者なのである。

そして故郷を去らざるを得なかった者と同時に、故郷に残された者も傷つく。ションシャは正にその当事者であり、最初はビルタスの移住とそれに続く夫となったパンチョの移住にはもちろんだが、これに伴う2人の変貌にもまたションシャは他の人々よりも深く傷つくこととなる。それは精神的にも、肉体的にも。それでも逞しく生きていく、いや生きていかざるを得ないションシャから溢れ出る生命力と、その生き様に触れて少しずつ立ち直っていくパンチョに監督は、苦境においても立ち上がり続けるガリシアを象徴させているのかもしれない。

だがしかし事態はそう簡単には収束することなく、様々な形でションシャたちのもとに苦難は訪れ続ける。それを通じて浮かびあがるガリシア人たちの喜びと悲しみ、その全てをガリシアに広がる豊かな自然は抱きとめ、そして季節は巡っていくのである。このようにして、往くにしろ残るにしろガリシア人が被る受難を濃密なメロドラマで描きだすのがこの“Sempre Xonxa”なのだ。