「ということでその2であるがまずはスラッシャー映画の成立について、私の持論を交えながらザッと説明していこう」
「……お願いします」
「まずスラッシャー映画の根源は、娯楽&俗悪映画帝国イタリアにある
60年代イタリアでは、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』を嚆矢とするモンド映画が隆盛を極めていた。しかしこちらが現実に依拠した見世物的な虚構に徹していたとするならば、虚構を虚構として開き直った上で、おっぱいだ!血飛沫だ!人体を痛めつけろ!殺ったのお前……えっお前!?と、奔放を以て作られた見世物サスペンスが“ジャーロ”だった。作り手には『サスペリア』のダリオ・アルジェント、『影なき淫獣』のセルジオ・マルティーノと枚挙に遑がないのだが、スラッシャー映画の成立に貢献したのが、マリオ・バーヴァというイタリア最高の映画作家だった!
彼はその眩惑たる極彩色のセンスと、人間の肉から搾り取った脂さながらにドロついた火曜サスペンス的ストーリーを組み合わせて作り上げたのが『モデル連続殺人!』と『血みどろの入江』である。前者では美しい女性たちが、後者では男女問わず、謎の殺人鬼にブチ殺されていき、最後に犯人が明かされるという趣向になっている」
イタリア映画界の巨匠、マリオ・バーヴァ監督。そっくりさんに詩人のマリネッティと画家のダリがいる
「それがスラッシャー映画の雛形になっているという訳なのですね」
「そうだ、このジャーロが北米に輸入されたことによって生まれたのがスラッシャー映画だ」
「北米、というと?」
「実は最初のスラッシャー映画と言われるボブ・クラーク監督の『暗闇にベルが鳴る』が作られたのはカナダにおいてであった。そしてスラッシャー映画の金字塔『血のバレンタイン』もカナダ資本であったので、便宜上北米とした。
さて、ジャーロがスラッシャー映画へと変貌を遂げたとき、名称と共にいくつかの形質も変わったのだ。
1つはジャンルとして、サスペンスからホラーになった事。
2つは全体的な描写のソフト化。
3つは被害者が20〜30代から、ティーンエイジャーもしくは学生ばかりになった点。
4つは1・2に起因する殺人鬼像の変化。
この変化は纏めて、映画のポップ化と言ってもいいかもしれない。
濃厚な官能描写は、将来殺られる学生たちが股間の赴くままイチャイチャ乳繰り合う、そんな鑑賞している学生たちもついイチャイチャイチャしてしまうようなソフトな物に置換された。
猟奇的な殺害描写はネチっこく胃に溜まる物から、若いアベックが見たら『オォウ、ワオウ、オーマイガッ!!!』と彼女が彼氏に飛びついて、イチャイチャイチャイチャイチャ乳繰り合うきっかけになる類のホラー的ショックに変わってしまった。
ジャーロの殺害描写が『ジワジワと嬲り殺しにしてやる……』というスタンスならば、スラッシャー映画の殺害描写は『この一瞬に全てを賭ける!』というスタンスだな」
「何故にそこだけジャンプっぽいんですか」
「そして殺される相手、というか登場人物全体に低年齢化で、デートで映画を見に来た学生アベックたちが登場人物たちへの強い共感によりスリルを高めた後、恐怖を恋人と共有したという吊り橋効果によってイチャイチャイチャイチャイチャイチャ乳繰り合えるようになった」
「………つまりはです、ポップ化というのはつまりポップコーン食べながら鑑賞しているカップル共が、ふとしたキッカケでイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャイチャ、キスとかネッキングとかやり易い映画化という訳なんですね、解ります!!!」
「ん、まあ、そんな所か」
「映画は、下半身に奉仕するための道具ではないのに、何て度し難い!!!FUCK!!!」
「結論としてはジャーロが退廃的エロスの杉本彩だとしたら、スラッシャー映画は健康的エロスの篠崎愛という訳だな」
「うわあーすごくわかりやすいたとえですねきょうじゅー」
「本当は前者を壇蜜にしたかったが、女性受けが悪いと思ったので止めた。
そして本題の犯人像についてだ。サスペンスからホラーへの転換を果たしたことで、ただでさえ荒唐無稽さが際立っていた犯人像が、本当に何でもアリになった。マイケル・マイヤーズやジェイソンのような無敵ボディを手に入れた者もいれば、場所さえ構うことなく何故か洗車場に現れて洗車中の女性を斧でカチ割ったり、サンタの扮装をしたり、主人公に変装したり、スケートで氷の上を器用に滑ったり……」
殺人鬼アックスマンが、洗車中のご婦人に待った!
「殺人鬼にも個性が生まれ始めたんですね」
「そう、ホラーは虚構という枠内においても、SFやファンタジーに次いで現実との乖離が許容されるゆえに、競い合うように殺人鬼たちの個性が多様&肥大化していった。ナンバーワンよりオンリーワン、世界に一人だけの殺人鬼が指向されるようになった。そう、スラッシャー映画の殺人鬼とは印象派であり、分離派であり、未来派であり、ダダイズムであり、シュールレアリストだ!殺人鬼たちの近代自我の成立を私はスラッシャー映画に見る!
せーかいにひーとりだーけのキラー
ひーとつひとーつ違う殺りー方を持つ……」
「そんなだと逆に、俺みたいな殺人鬼に個性なんていらない!個性を礼賛した結果がこれだよ!!こんなことになるなら普通の殺人鬼になりたかった!!!とか、今の日本に通じる悩みを叫びながら、物語内で製作者に反抗する殺人鬼とかもいそうですね(笑)」
「それがいるんだな、本当に」
「え」
「『13日は金曜日PART25 ジャクソン倫敦へ』というスラッシャー映画があるんだな……」
「邦題が酷過ぎる……」
「と思いきや、観た後にはこれ以外の邦題が思いつかない哀しき邦題なんだ。SF要素や運命論を交えた哲学的スラッシャー映画なのだが、まあ詳細はググれ」
「怠慢という他ないです………」
「そして『エンゼル・ターゲット』の犯人に至る訳だが……この犯人の個性はズバ抜けて濃いだろうな」
「そうですね、まさかあの看護婦が犯人だとは……」
「まず殺人鬼の成立拝啓が凄い。
彼女、実は性転換を経て女性になった元男性だとは!」
「女性がそんなに遠くまで槍投げられる訳ないでしょう!という疑問をもっともらしく解消すると共に、観客に驚きを――それがエエッ!にしろはぁ?にしろ――湧き起こす犯人の正体という条件を満たすにしても、エンターテイメント性に富んだ物ではありましたね」
「一瞬の新聞記事から汲み取れなかった者のために、わざわざ声色をグヘヘヘヘと男の声にしたり、その声で長々と自分について説明したりと親切さもポイント高かったな」
「考えてみれば彼女が主人公をマッサージする際、それはもう下心丸出しのエロい手つきでナデナデしまくりだったのも、彼女が同性愛者であることを暗示していたのではなく、彼女が元男性であったことの伏線だったのですね。かと言って、この伏線凄い!と褒める気にはなりませんが」
「槍投げの有望選手であったが、オリンピックに選ばれなかったのを苦にして、性転換して女性としてオリンピックに出ようとしたら失格というのが、他にやる事あっただろうとツッコミ待ちな感じでまた面白い」
「まあ、そこはバカというか不器用というか……
水泳選手殺す時も、彼女がプールから上がった際に刺せばいい物を、わざわざシュノーケル・ボンベ・槍とフル装備で潜水しながらブッ刺しますからね。死体の始末が面倒くさいでしょうに」
「その死体処理とやらも、ただロッカーに突っ込んでおくだけ。片付けられない女性が応急処置として荷物を押し入れにブチ込んだ、そんな風情だ」
「ロッカーに突っ込むだけ、まだマシじゃないでしょうか。普通放置ですし」
「主人公に正体がバレた時も、ヤッベバレた!って奥の部屋から槍を取りに行って、槍を手に携えながらたったかと逃げた主人公を追いかけてゆくのも、観客に『私、殺人鬼ですよ!』と必至に個性を主張しているようで微笑ましいものだった」
「その一連のシーン、引き画ワンショットで見せますからね。そこはマイケル・ベイ並にカット割りして魅せてよ!と言いたい所をグッと抑えました…………」
「このように、試行錯誤しているのかしていないのか解りかねるが、取り敢えず殺人鬼の個性の安売りが凄いということを、今回はみてきたがどうだった」
「何でもアリだからって、個を許容しすぎるのはどうかと思いました」
「それは本当に御スラッシャー映画全般に言えることだな……
さて次回は特別企画として、独断と偏見に満ちた『スラッシャー映画、この殺り方がスゴい&ヒドい!』を行う。
それではサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……」