神はどうして私たちにアナルを与え給うたのでしょう?
排泄のため?
性交のため?
それとも一輪の薔薇を生けるため?
そんな目的もあるのでしょう。アナルが無い世界を思い浮かべてみて下さい。
アナルが無く排泄という行為が存在しなければ、ラブレーが愛し描き続けた糞尿譚は、カンチョーという大いなる責任を世に問うた「ウォーターパワー・アブノーマル・スペシャル」存在したでしょうか?アナルセックスというセックスの一体系が存在し得たでしょうか?
帰り道、急にお腹が痛くなり、歩幅を狭めて歩きながらも自宅の前でウンコを漏らす時の、筆舌に尽し難い絶望感と表裏一体の背徳的な解放感、そして成長してからふとそれを思い出す時の匂い立つ郷愁は存在したでしょうか?
アナルがなければ、これらが存在することは無かったでしょう。
アナルは私たちが生きる上で欠かす事の出来ない重要な器官なのです。
しかし昨今、アナルの扱いが雑になりつつあることは、皆さんにもお分かりの事と思います。そこで紹介したい作品こそ、蔑にされつつあるアナルの実存を今一度世に問う問題作「コズモポリス」なのですね。アナルとの親交も深く、映画界においてはアナルの第一人者であるデヴィッド・クローネンバーグ監督作品です。
始りは1977年「ラビッド」。移植した皮膚が突然変異を起こし、脇の下にアナルが爆誕するというアナロバティックな設定で以て私たちの度胆を抜いていきました。しかもそのアナルの中にはペニスが収納されています。そのペニスに血を吸われた者は何とゾンビになってしまうのです。「ラビッド」とはアナルの可能性を最大限に引き出した画期的な映画でした。
ペニスinアナルに刺された者たちが、人を襲う!
そして1991年「裸のランチ」では、ゴキブリとアナル二大汚物夢の競演!とばかりに合体してしまいました。更にそのアナルは皺をヒクヒクさせて喋るというのですから又驚きです。
このアナル、喋るぞ……?
こうして斬新なアナル像を観客に提供してきたクローネンバーグ。この「コズモポリス」では疑似アナルでなく本物アナルに敢然と立ち向かっていきます。勿論本物は出てきませんが、なまじ直接顕れないからこそアナルの置かれた情況を想像せざるを得ない、素晴らしいアナル描写を早速見て行きましょう。あらすじはありません。
彼は腕立て伏せをしているように見えます。しかしその実、彼はアナルの中に手を突っ込まれているのです。つまり前立腺の検査をされている所なのですね。本当にアナルなのか?そう仰られる方もいらっしゃるかもしれません。しかしご丁寧にもこの前に、医師の方がゴム手袋を装着するシーンが挿入されています。観客がアナルに思いを馳せるようそれとなく促す意味でも、巧みなモンタージュと言わざるを得ませんね。
しかしアナルに手を入れられている間、彼はただ「アォ…………ォゥ………」と悶絶しているだけなのでしょうか?
彼はアナルに手をまさぐられている間に、会社の部下である女性と対話を果たしているのです。アナルにかかずらう時間を考えれば、それは合理的判断と言えるでしょう。
そしてここで注目したいのが、クローネンバーグのアナルに次ぐ盟友ピーター・サシツキーの技巧的撮影です。アナルを弄られているイケメン、というともすれば笑に転じてしまう場面を、トリッキーな撮影は格調高い物とします。
腕立てのようなポーズをする故に、勿論彼の腕は開きます。そして腋毛が現れます。その現れた腋をサシツキーは冷徹に捉えます。そしてその真下には、黒き翳さす腋の真下には彼女の顔面が!
まるで彼女がアナルを弄くられるイケメンの腋を凝視しているようなショット!こんな世にも奇天烈なショットをいとも容易くサシツキーは提示するのです、
どうして此処にカメラを置くのか?
素人には及びもつかぬ超絶技巧、それも全てアナルがために成される偉業という訳ですね。
にしても、全力でアナル責めされるイケメンと、そして股間にフニャフニャおチンポのメタファーらしき柔らかペットボトルを置いてムチムチのフトモモでブチ潰す、汗で全身ヌラヌラした主婦が対話しているという構図の凄さと言ったらありませんよね。
さて前立腺検査の末に彼は「あなたの前立腺は非対称だ」と言われます。まあここはアナル的観点から言えばどうでも宜しいので、映画本編を見てその前立腺の行く末を御覧ください。
この「コズモポリス」が貴方にとってのアナルとは何か?ということを再考するきっかけとならん事を願います。それではココリコ遠藤のように愛を叫んでお別れしましょう
アナーーーーーーーーーーーーーーーーール、アナーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーールアナル愛してるぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!