いやいや、とうとうヴェネチア国際映画祭特別編その10にまで来てしまった。その9では私の好きなギリシャ映画界、そこに現れた新鋭を紹介できて嬉しかったが、今回はイスラエルである。このブログを読んでくださっている方はご存じだろうが、今までロニ・エルカベッツにTalya Laviと2人もイスラエル人監督を紹介しているくらいイスラエル映画は好きだ、ああ早く他のイスラエル映画観て、それも紹介できたらなあとか思っていた所で、来たわけである。今回紹介するのはイスラエル映画界の新進気鋭ハダル・モラグ監督と彼女の長編デビュー作"Why hast thou forsaken me?"である。
ハダル・モラグ Hadar Morag は1983年イスラエルのレホヴォトに生まれた。5歳から7歳までは韓国とフィリピンで暮らしていたという。テルアビブ・ジャファ自治区アレフ美術高校で学び、在学中の1999年からテルアビブ美術館の美術教育センターで教師としても働く。2001年の高校卒業後は、兵役従事の傍ら、ベエルシェバに住むエチオピアの子供たちの家庭教師を勤め、2003年からはアメリカ・フィラデルフィア州のハーラムUAHCキャンプで美術教師として働くなど、主に美術分野で精力的に活動していた。
2004年からはテルアビブ大学の映画・TV科に入学、映画について学ぶ傍ら、フェミニズム、文学、哲学についても学んでいたという。在学中の2008年、彼女は短編"Silence"で監督デビューを果たす。12歳のマシダ(Mashda Abdalla)と45歳のアムノン(Tahel Ran)にとって互いの存在は慰めとなっていた。しかし次第にその関係はモラルと欲望が混じり合う場所へと追いやられていく……この作品はカンヌ国際映画祭のシネフォンデーション部門に出品されたのを皮切りに、リオ・デ・ジャネイロ国際短編映画祭、ワルシャワ・ユダヤ映画祭、ルーマニアのダキノ国際映画祭と世界中の映画祭で上映される。その後は"Refrain thy voice Rachel"というドキュメンタリーを製作し、2015年には初の長編作"Why hast thou forsaken me?"を監督する。
部屋には光も指さず灰の色彩が滲んでいる、モハマド(Muhammad Daas)は振動する機械を見つめながら淡々と作業をこなしていく。四角い口に粉を流し込む、震えに蓋が外れないよう膝で押さえつける、しばらく様子を見る、その繰り返しだ。猥雑な空間にはもう一人の作業員がいて、彼女はモハマドのことなど視界に入れようとすらしない。だがモハマドは横目でその姿を睨めつける。作業が終わる頃、 彼は持ち場を離れ、どこか大きな棚の上に身を隠す。影に包まれた場所、モハマドは隙間から彼女の姿を睨みつけながら、股間からペニスを取りだし、扱き続ける、扱き続ける、彼は止めることが出来ない、モハマドはペニスを扱き続け、しかしそこに残るのは快感ではなく、ただただ不毛な疲労感だけだ。
時間がやってくると、モハマドは作業場であるパン工房を出て、自転車を漕ぎ工場へと向かう。知り合いから余った魚を恵んでもらうためだ、響くのは「あのアラブ人の野郎に……」とそんな、彼の姿を目の当たりにした工員たちの密かな罵倒だ。彼は魚をもらうと、無表情のまま工場を後にする。しかし不快な出来事は続く、魚を狙って近所のチンピラが彼に襲いかかる、1度はリンチに屈しながら、やはり彼は無表情のまま角材を持ち出し暴力には暴力で復讐を果たす、それがモハマドの毎日だった。
"Why hast thou forsaken me?"のテーマは冒頭にハッキリと現れる、性と暴力の衝動とそれをいかに制御するかについてだ(イスラエルでアラブ人が生きるということについては、テーマ以前に既に日常に根付いた物として提示される)そんな青春に貧困が付きまとうのは先に取り上げた"Madame Courage"でも同じだが、こちらがダルデンヌ兄弟を彷彿とさせる社会的リアリズムにアプローチしていたのに対し、"Why〜"はそこから一歩進んで、灰色以外の色彩をこそぎ落とし、性的・暴力的表現を含め徹底的な抑制を課しながらも、それだけではなく、観る者が様々にこの映画を"感じる"ための余白もこの映画には存在している。
モハマドを変えるのは2つの出会いだ。彼はある男の家から、何か考えがあった訳でもなくナイフを盗み出す。暴力の化身のような姿に心を惹かれたのだろうか、自分でも理由は分からない。だが刃をゆっくりと指に食い込ませると何かを感じることが出来た。そしてそのナイフがもう1つの出会いにモハマドを導く。
彼はある日、工場の裏でバイクに積み込んだグラインダで、包丁を磨ぐ男の姿を見つける。厳かな手つきで包丁を持ち、高速で回転するグラインダに刃を近付ける、鋭い音を立てながら銀色の刃から橙の火花が血のように飛び散る。モハマドはポケットからナイフを取りだし、3才児のような好奇心を露わにしながらその姿を見つめる。彼に気づいた研師――中年のユダヤ人男性グレヴィッチ(Yuval Gurevich)は鬱陶しそうにモハマドを見るも、追い払おうとはしない。その内グレヴィッチは彼を傍らにまで連れてきて、手に持ったナイフを研がせようとする。節くれ立ち日に焼けた手と、それに比べれば未だ青白く幼い手、2つが重なりあいながらナイフを持ち、グラインダに近付く時の不穏さと、エロティシズム。モラグ監督が抑制的な映画の中に宿すのがこの官能の感覚だ、物語はここから核心に肉薄していく。
モハマドはバイクを駆るグレヴィッチの後を、自転車で追い続ける。グレヴィッチの方も彼を自分から拒むことはなく、タバコを吸う、唾を吐く、立ち上がり歩きだす、そんな行動を完全に真似しようとしたりと、モハマドはとうとう闇に包まれた人生で自分の導きとなる存在を見つけられたと思える。だがそれが衝動の自制を意味するかといえば逆だ。私たちが目撃したエロティシズムは彼の当惑をむしろ更に掻き乱していく。そして彷徨の末、グレヴィッチの秘密を知った時、モハマドはその当惑に決着をつけるため、ある行動に出る。その瞬間、スクリーンに凄絶な痛みが焼きつく。
"Why hast thou forsaken me?"は救いようもなく悲惨な青年のさまよいを描き出す。“あなたは何故私を見捨てたのですか?”タイトルにもなっているそんな言葉が虚しく響く中、私たちはただ呆然と立ち竦むしかない。[A-]
参考文献
http://www.festival-cannes.com/jp/archives/ficheFilm/id/d7af8cae-9c1f-4a91-8e47-b10e96d5e733/year/2008.html(短編について)
http://mediawavefestival.hu/index.php?modul=filmek&kod=1992&nyelv=eng(プロフィール)
https://boxoffice.festivalscope.com/film/why-hast-thou-forsaken-me(監督紹介ページ)
http://www.eyeforfilm.co.uk/feature/2015-09-10-hadar-morag-on-shifting-perspectives-and-the-collapse-of-language-in-why-hast-thou-foresaken-me-feature-story-by-amber-wilkinson(監督インタビュー)
私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
その13 ヴェロニカ・フランツ&"Ich Ser Ich Ser"/オーストリアの新たなる戦慄
その14 Riley Stearns &"Faults"/ Let's 脱洗脳!
その15 クリス・スワンバーグ&"Unexpected"/そして2人は母になる
その16 Gillian Robespierre &"Obvious Child"/中絶について肩の力を抜いて考えてみる
その17 Marco Martins& "Alice"/彼女に取り残された世界で
その18 Ramon Zürcher&"Das merkwürdige Kätzchen"/映画の未来は奇妙な子猫と共に
その19 Noah Buchel&”Glass Chin”/米インディー界、孤高の禅僧
その20 ナナ・エクチミシヴィリ&「花咲くころ」/ジョージア、友情を引き裂くもの
その21 アンドレア・シュタカ&"Cure: The Life of Another"/わたしがあなたに、あなたをわたしに
その22 David Wnendt&"Feuchtgebiete"/アナルの痛みは青春の痛み
その23 Nikki Braendlin &"As high as the sky"/完璧な人間なんていないのだから
その24 Lisa Aschan &"Apflickorna"/彼女たちにあらかじめ定められた闘争
その25 ディートリッヒ・ブルッゲマン&「十字架の道行き」/とあるキリスト教徒の肖像
その26 ハンナ・フィデル&「女教師」/愛が彼女を追い詰める
その27 ハンナ・フィデル&"6 Years"/この6年間いったい何だったの?
その28 セルハット・カラアスラン&"Bisqilet""Musa"/トルコ、それでも人生は続く
その29 サラ=ヴァイオレット・ブリス&"Fort Tilden"/ぶらりクズ女子2人旅、思えば遠くへ来たもので
その30 Damian Marcano &"God Loves the Fighter"/トリニダード・トバゴ、神は闘う者を愛し給う
その31 Kacie Anning &"Fragments of Friday"Season 1/酒と女子と女子とオボロロロロロオロロロ……
その32 Roni Ezra &"9. April"/あの日、戦争が始まって
その33 Elisa Miller &"Ver llover""Roma"/彼女たちに幸福の訪れんことを
その34 Julianne Côté &"Tu Dors Nicole"/私の人生なんでこんなんなってんだろ……ヴェネチア国際映画祭特別編
その1 ガブリエル・マスカロ&"Boi Neon"/ブラジルの牛飼いはミシンの夢を見る
その2 クバ・チュカイ&"Baby Bump"/思春期はポップでキュートな地獄絵図♪♪♪
その3 レナート・デ・マリア&"Italian Gangsters"/映画史と犯罪史、奇妙な共犯関係
その4 アナ・ローズ・ホルマー&"The Fits"/世界に、私に、何かが起こり始めている
その5 アルベルト・カヴィリア&"Pecore in Erba"/おお偉大なる排外主義者よ、貴方にこの映画を捧げます……
その6 ヴァヒド・ジャリルヴァンド&"Wednesday, May 9"/現代イランを望む小さな窓
その7 メルザック・アルアシュ&"Madame Courage"/アルジェリア、貧困は容赦なく奪い取る
その8 ペマ・ツェテン&"Tharlo"/チベット、時代に取り残される者たち
その9 ヨルゴス・ゾイス&"Interruption"/ギリシャの奇妙なる波、再び