鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

今すぐに貴方を殺せば、誰にも知られることはないでしょう"Queen of Earth"

彼女の瞳、恨みがましい視線、涙を含んだアイシャドウ、目元には闇を塗りつけられたかのようなドス黒さ。怒りに歪みきった彼女の顔をカメラは執拗に撮し出す。彼女は罵倒の言葉をいくども口にしながら、何故自分はこんな仕打ちを受けなくてはならないのかと彼に問い続ける。説明はできない、返ってくる言葉はそれだけだ。口論は平行線を辿る、理性は削ぎ落とされていく、剥き出しの感情だけがそこに残る、彼女はその呪詛を繰り返す「私はアンタを憎んでる」「アンタを憎んでる」「憎んでる」「憎い」「アンタが憎い……」

アレックス・ロス・ペリー"Impolex"で長編デビューを果たし、姉弟の奇妙な旅路を描いたコメディ"The Color Wheel"で脚光を浴びる。そして長編第3作"Listen Up, Philip"、偉大なアメリカ人作家フィリップ・ロスを援用しジェイソン・シュワルツマンアメリカのエゴに仕立てあげた このコメディで一躍米インディー映画界の才能として更なる名声を博す。そんな彼が作り出した第4長編がこの"Queen of Earth"だ。"Listen〜"から続投のエリザベス・モスインヒアレント・ヴァイスで注目を浴びたキャサリン・ウォーターストンを主演に据えたこの心理スリラーは、様々な要素を含むにしろ今まで一貫してコメディを作ってきた彼には相当の異色作でありながら、2015年というこの時代に強く刻みつけられ、語られ続けるだろう異形の傑作だ。

キャサリン(「犬と私とダンナのカンケイ」エリザベス・モス)の人生は黒い影に晒されていた。鬱病に苦しんでいた父の死、そして恋人ジェームズ(「V/H/S シンドローム」ケンタッカー・オードリー)との惨めな破局は彼女の心を追い詰めていく。憔悴しきったキャサリンに手を差し伸べたのは親友のヴァージニア(援助交際ハイスクール」キャサリン・ウォーターストン)だ、2人はヴァージニアの両親が所有する湖畔のコテージへと療養に赴く。湖の水面には陽光が瞬き、木々は風に揺れて涼しげな音を運ぶ、療養にはうってつけの場所だ。しかしキャサリンの頭には、1年前ジェームズとこの場所にやってきた時のことがこびりつき離れない。そんな彼女の前に現れるのがリッチ(「恋人はセックス依存症パトリック・フュジット)だ。リッチはヴァージニアの恋人らしいが、現れるたびキャサリンの心を掻き乱していく。そしてヴァージニア本人もどこか様子がおかしい、自分を追い詰めてくるようなそんな。キャサリンの中で猜疑心が膨れ上がり、過去と現在、幻想と現実がうなりをあげて彼女に襲いかかる。

キャサリンは度重なる不幸によって精神の均衡を失い始めている。過去も愛着ある思い出からから吐き気を催す赤色へとうねり彼女を苛む。不眠、顔の皮膚をさいなむ痛み、壊れゆく女の様相を呈するキャサリンがすがり付ける相手はヴァージニアただ1人。だが彼女にとって、そして観客にとって心の内が一番読めない存在がまたヴァージニアでもある。キャサリンを助けたかと思えば、彼女の言動にイラつき、歪んだ言葉と視線に怒りを託しキャサリンを刺し貫くこともいとわない。剥き出しの心に向かって互いに刃を投げつけるような会話の応酬のあと、だがヴァージニアは驚くほどの献身をキャサリンに見せる。2人の人間が結ぶそんな関係性、心と心が溶け合いながら、同時にぶつかり合う様を描き出していく作品はイングマール・ベルイマン「ペルソナ/仮面」や最近ではアンドレア・シュタカ監督の第2長編"Cure: The Life of Another"など多く存在しているが、この"Queen of Earth"はその系譜にあると言える、しかもその最先端に。

劇中では過剰に思えるほどキーガン・デウィット(「ミッチとコリン 友情のランド・ホー!」)の音楽が鳴り響く。何度も現れる水面の波紋はこの音の干渉によって生まれたのかと思うほどであり、そう思う私たちの心にもまた波紋を投げ掛ける。だが音彩を破るように世界が抱く日常音もスクリーンから立ち上るのにも気づくことになる。彼女たちが立てる親愛の音、憎しみの音、ざわめきは鼓膜にザラつき、感触はずっと残り続けるだろう。

撮影は"Impolex"から全てのロス・ペリー作を担当するショーン・プライス・スコット、薄く赤みがかった画面――ティーザー予告で初めてこの色彩を観た時、私は70年代のホラー映画を思い出したのだが、その上で本予告を観た時の喜びといったら!――には不穏さが立ち込めている、誰かの笑顔も、湖の揺らめきも、カメラ越しには何もかもが不穏さへと収斂する。そしてクロースアップの多用、彼のレンズはキャサリンとヴァージニアの顔に肉薄していく。一つ一つの表情の蠢きも逃すことなく、画面に焼きつけようとする飽くなき執拗さ、それが効果的に現れるのが中盤のシークエンスだ。2人はそれぞれのとある過去を話しだす、見えるのは彼女たちの横顔だけ、カメラは会話の続く間2人の顔を一匹の虫が皮膚を這いずりまわるようにゆっくりと、ゆっくりと動いていく、それが幾度となく繰り返されて永遠のように思わされる頃、筆舌に尽くしがたい禍々しさが表出する、つまりはこの映画を支配する物の存在をカメラは語る。

だがこの禍々しさの淵源とはどこか、アレックス・ロス・ペリー監督がこの禍々しさを引き出したのはどこからか、それは主演を演じるエリザベス・モスとキャサリン・ウォーターストンに他ならない。彼女たちは、人が2人、何らかの関係を築いたならばそこに必然的に待ち受ける破綻という真実を映画として完璧な形で構築していく。融和と反撥を繰り返した果てに劇的な崩壊へと至る、それを微塵の躊躇いもなく徹底的に描き出す。だがここで終わることなく、彼女たちの内奥に広がる精神の荒野をウロボロスの円環として提示する覚悟がこの作品を更なる境地へ高めていく。

"Queen of Earth"は戦慄そのものであり、闘争そのものであり、そして人間の心そのものだ。だからこそおぞましく、凄絶な、唯一無二の美しさを湛える。[A+]