さて、ブラジル映画である。ガブリエル・マスカロを紹介した際(この記事を読んでね)、ブラジルの経済状況について記したが、現在進行形でこの国に現れ始めているのが階級差である。中流階級と貧困層の格差が目に見えて克明となりゆく過渡期、マスカロはそれを主題としたドキュメンタリーを幾つも作り、Kleber Mendonça Filhoは新興中流階級の抱える不安を"O Som ao Redor"として描き出すなど、映画作家たちのこの状況への関心度はかなり高い。ということで私の好きな監督・俳優その82では、この階級というテーマをまた独特の視点から描き出していった作品"Que Horas Ela Volta?"とその監督アナ・ミュイラートについて紹介して行こう。
アナ・ミュイラート Anna Muylaertは1964年4月21日にブラジル・サンパウロに生まれた。サンパウロ大学で映画制作について学んだ後、まずは映画批評家として雑誌ISTOEや新聞O Estado de S. Pauloなどに連載を持っていた。TV番組の制作に携わったのをきっかけにTV界でキャリアを歩み始め、テレビリポーターや編集として働きながら、"Mundo da Lua"やファンタジードラマ"Castelo"の脚本を執筆、徐々に脚本家として活躍がメインとなっていく。
先述の同名ドラマ映画化作品"Castelo Rá-Tim-Bum, O Filme"で長編映画の脚本を初めて担当、2002年にはポルトガルからブラジルへと渡って来た女性の激動の人生を描き出す16世紀が舞台のドラマ"Desmundo"を執筆し話題を呼ぶ。日本でも放送・上映された脚本担当作品としては、シネフィル・イマジカで放送された「1970、忘れられない夏」(2006)とラテンビート映画祭上映の「シングー」(2012)がある。前者は軍事政権が人々に対し激しい弾圧を加えていたブラジルで、独り必死に生きようとする少年の姿をユーモアを交えて描いた作品で、ミュイラート監督も多数の脚本賞を獲得することとなる。後者は1940年代、開発隊に加わった3人の兄弟がその地に住む先住民たちと友情を育んでいく様を描いた伝記映画でこちらも高く評価された。
彼女が映画監督としてデビューしたのは1995年の短編"A Origem dos Bebês Segundo Kiki Cavalcanti"、その7年後には初の長編作品"Durval Disco"を手掛ける。母と共にレコード店を経営している青年、彼は母のため家事をしてくれるメイドを雇うのだが……という音楽に彩られたコメディ映画で、グラマード映画祭では監督賞を、トリノ・ヤングシネマ国際映画祭では脚本賞を獲得する。しかし映画監督としての彼女が一躍注目されるようになったきっかけが、2009年の第3長編"É Proibido Fumar"だった。今作は以前紹介した「ニーゼ」(この記事を読んでね)の主演俳優グロリア・ピレスがタイトルロールを務めており、ギターの教師としてしがない40代を過ごす孤独な女性が、隣にミュージシャンが引っ越してきたことから人生が華やいだ、と思ったら酷くなったり乱高下を繰り返すこととなるというコメディ映画。ACIE Awardsでは作品・脚本・音楽の三部門、ブラジリア・ブラジル映画祭では主演男優・主演女優・助演女優・美術・編集・音楽・脚本・作品の八部門、Cinema Brazil Grand Prizeでは作品・監督・脚本・音楽・編集の五部門を制覇するなど高く評価される。2012年には自身が手掛けたTV映画"Para Aceitá-la, Continue na Linha"を元とした第3長編"Chamada a Cobrar"を手掛け、数本のTVドラマやTV映画を経て、第4長編"Que Horas Ela Volta?"を監督する。
ブラジルのサンパウロ、とある中流家庭で家政婦として働いているヴァル(Regina Casé)がこの物語の主人公だ。ヴァルはそこに13年も勤めており、一家のひとり息子であるファビーオ(Michel Joelsas)を育てていたのも彼女と、それほど信頼された古参の家政婦だった。物語の序盤ではそんなヴァルの毎日が淡々と綴られていく。まず朝は誰よりも先に起きて、バラバラにやってくる家族それぞれにトーストやジュースを用意し、昼は仕事仲間のエドナと窓を拭いたりプールを掃除したりと大忙し、夜に夕食を作り全ての後片付けをこなした後は、蒸し暑い部屋で最後に眠りに落ちる。
ボソボソとパンを食べる寝ぼけ眼のファビーオに対し、何で氷のケースに水入れとかないんですか坊っちゃん!なんて声を挙げる所は肝っ玉母さんという感じで微笑ましいが、端正な撮影や仕立てられたモダンな内装から受ける印象とは裏腹に、ヴァルと家族の間に何か隔たりがあるのも私たちは感じるだろう。それを象徴するのが、序盤に頻出する1つの構図ーーヴァルの主戦場である台所、その中心にカメラが置かれ、左には台所の壁が、右には開かれたドア越しにリビングが見えるーーだ。ある時は左でヴァルが慌ただしく作業し、右で家長のカルロス(Lourenço Mutarelli)がゆったりと食事を楽しんでいる。そしてある時は右からカルロスの妻で実業家のバーバラ(Karine Teles)が神経質な面持ちで家族に話しかける姿が見え、左からヴァルが壁に張り付いて会話を盗み聞きする姿が見える。このドアは開かれながら確かに1枚の壁が存在している風景、監督は付き従うヴァルと付き従わせる家族の階級差という名の隔たりをここに浮かび上がらせていく。
そんなある日、ヴァルの元に一本の電話がかかってくる。娘のジェシカ(Camila Márdila)からだ、大学入試があるからサンパウロにしばらく滞在したいという言葉にヴァルは喜ぶ。しかしとある事情から疎遠だった2人の再会は理想的なものには程遠い。ジェシカは彼女を"ママ"ではなく"ヴァル"と呼び捨てにし、バスの中の会話も何処かぎこちない。「私、家政婦として働いているの」とのヴァルの言葉に「……ブルジョアにこきつかわれてることがそんな誇らしい?」と返す描写からも伺えるが、ジェシカは階級という物にかなり自覚的だ。監督はそんなジェシカを軸に、ブラジルに現在進行形で形を成し始めている階級への洞察を深めていく。
まずジェシカが邸宅にやってきた時、カルロスたちは彼女へ矢継ぎ早に質問を投げ掛ける。大学では何を勉強したい?何故それを勉強しようと思う?行きたいのは何処の大学?……自分を値踏みするような質問に不快感を示すジェシカ、彼女の答えを聞き様々な表情を浮かべるバーバラたち、そもそも質問の意味が良く分かっていないヴァル、三者三様の反応に見えてくるのはヴァル/下層とバーバラたち/上層、その中間にジェシカが位置していることだ。そうしてジェシカはカルロスの厚意で邸宅に居候することを許されるが、ここからはピエル・パオロ・パゾリーニの「テオレマ」や森田芳光「家族ゲーム」的な、とある闖入者が家族に思わぬ波紋を投げ掛けるという展開へと雪崩れ込む。
家族の前では行儀良くいなさいという母の言葉など気にもせず、居候する部屋をヴァルの部屋からゲストルームに変えてもらったり、ファビーオだけが食べられるアイスを勝手に食べたりするジェシカ。彼女の目に余る行為にまごつくヴァルに、良い気はしないバーバラ、鷹揚に受け入れる風を装いながら……のカルロス、ジェシカと同じく受験生で色々思う所のあるファビーオ。監督は登場人物の姿をある程度の距離を取って観察しながら、彼女たちが生み出す笑いと悲哀を丁寧に掬いとっていく。そして1人1人が何処がというでもなく少しずつ変わりゆくのだが、変化は階級という概念の撹拌される過程でもある。そしてこの概念が塗りつぶし存在しなかったことにされていた人間性を監督はまた救い出そうとする。
つまり上記2作になくて、今作に存在する重要な要素は心暖まるようなヒューマニズムだ。故に今作において階級の撹拌は大局的な社会云々ではなく、一個人の解放へと行き着くこととなる。"Que Horas Ela Volta?"は英題を"The Second Mother"というのだが、言葉が指し示す対象はもちろんヴァルだ。ジェシカの産みの親ではあるが離れて生きることを余儀なくされ、13年越しに一緒に住むこととなるも彼女にとって"第1の母"ーーここに居るのは電話の声だけが登場する育ての親だーーではなく"第2の母"であるという現実を味わう。ここには"彼女は私の娘なのにこんな扱いをされるの?"という気持ちと"何でファビーオじゃなく、私の雇い主に厚顔無恥なことをやらかすあの子が本当の自分の子なの?"という相反する2つの思いがある。このがんじがらめになった心は、だがジェシカの行為の本質を知ることで解きほぐされていくのだ。劇中には2つ、邸宅のプールを舞台にしたシークエンスが存在してここにこそ"Que Horas Ela Volta?"のメッセージが集約されている。先に存在するのは"階級"ではなく"人"であるのだと。
"Que Horas Ela Volta?"はサンダンス映画祭の劇映画部門でプレミア上映され特別賞を獲得、ベルリン国際映画祭ではC.I.C.A.E. Awardを獲得し、2016年のアカデミー賞外国語映画賞ブラジル代表に選出されるなど高い評価を得る。ミュイラート監督は既に次回作を撮り終えており、その題名は"There's Only One Mother"、面識のない2人のティーンエイジャーが主人公ながら、2人の母を同じ俳優が演じるという趣向のドラマ作品だという。題名からも伺える通り英題が"The Second Mother"な"Que Horas Ela Volta?"とは姉妹作の関係にあるらしく、こちらも楽しみな作品だ。ということでミュイラート監督の今後に期待。
参考文献
http://moveablefest.com/moveable_fest/2015/08/anna-muylaert-second-mother.html(監督インタビューその1)
http://blogs.indiewire.com/sydneylevine/sundance-interview-and-review-the-second-mother-20150201(監督インタビューその2)
私の好きな監督・俳優シリーズ
その1 Chloé Robichaud &"Sarah préfère la course"/カナダ映画界を駆け抜けて
その2 アンドレア・シュタカ&“Das Fräulein”/ユーゴスラビアの血と共に生きる
その3 ソスカ姉妹&「復讐」/女性監督とジャンル映画
その4 ロニ・エルカベッツ&"Gett, le procès de Viviane Amsalem"/イスラエルで結婚するとは、離婚するとは
その5 Cecile Emeke & "Ackee & Saltfish"/イギリスに住んでいるのは白人男性だけ?
その6 Lisa Langseth & "Till det som är vackert"/スウェーデン、性・権力・階級
その7 キャサリン・ウォーターストン&「援助交際ハイスクール」「トランス・ワールド」/「インヒアレント・ヴァイス」まで、長かった……
その8 Anne Zohra Berracherd & "Zwei Mütter"/同性カップルが子供を作るということ
その9 Talya Lavie & "Zero Motivation"/兵役をやりすごすカギは“やる気ゼロ”
その10 デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える?
その11 リンゼイ・バージ&"The Midnight Swim"/湖を行く石膏の鮫
その12 モハマド・ラスロフ&"Jazireh Ahani"/国とは船だ、沈み行く船だ
その13 ヴェロニカ・フランツ&"Ich Ser Ich Ser"/オーストリアの新たなる戦慄
その14 Riley Stearns &"Faults"/ Let's 脱洗脳!
その15 クリス・スワンバーグ&"Unexpected"/そして2人は母になる
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その22 David Wnendt&"Feuchtgebiete"/アナルの痛みは青春の痛み
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