さて、ラトビアである。今までエストニア、リトアニアの知られざる映画監督たちを紹介してきたが、とうとうバルト三国完結編である。ではいつもの質問である、あなたはラトビアのことをどのくらい知っているだろうか?……私はバルト三国ってこと以外は知らない、映画についても前EUフィルムデーズで公開されたアニメ映画「ロックス・イン・マイ・ポケッツ」はラトビア映画だったかな、くらいだ。そんなラトビア映画から、今回は何とラトビア映画界で初めて作られたホラー映画だという"The Man in the Orange Jacket"とその監督Aik Karapetianについて紹介していこう。
Aik Karapetianは1983年、現在のアルメニア・ギュムリに生まれた。ラトビアに移住してからはこの国で教育を受け、ラトビア美術アカデミーでは美術史について、ラトビア文化アカデミーで監督業について学び、卒業後はフランス・パリ高等映画学校(ESEC)に留学する。在学中には精力的に短編を製作するが、まず話題になったのが2007年の卒業制作として作られた短編"Riebums"だ、今作はラトビア国際映画祭で上映され学生映画部門の最高賞を獲得することとなり、2年後には映画祭の審査員にも抜擢されるなどする。2009年から映像作家としてCMを製作する傍ら(幾つかの作品は監督公式vimeoから鑑賞可)、2011年にはラトビア国立歌劇場で「セビリアの理髪師」を演出し賞を獲得、2013年にはラトビア国立劇場で「ヴェニスの商人」の舞台演出家を務めて話題となる。
Karapetian監督の初の長編監督作は2012年に製作した"Cilveki tur/Lyudi tam"(英題:People/Out There)である。ラトビアの郊外地域を部隊として、犯罪に手を染める20代の青年たちが負の連鎖から逃れようと足掻くクライム・サスペンスで、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で上映後、ヨーテボリやチェンナイ、イラクのドホークなどで上映され高く評価されることとなる。そして2014年には第2長編であり、ラトビアにおいては初めてのホラー映画(!)である"The Man in the Orange Jacket"を手掛ける。
灰紫の空が広がる港の風景、まずカメラが追うのはとある男の姿だ。オレンジ色のジャケットを着た男は潮風吹き荒ぶ海岸を行き、コンテナが無造作に積まれた不気味な作業場を行き、白い砂山が連なる傍らを行く。その光景が暗転によって繋がれていくうち、彼の目指す場所は仕事場ではないことに観客は気づく筈だ。そして謎めいた映像詩は徐々に意味を成していく。
次に現れるのは車で帰路につく老年の男と若い女性だ、会話から察するに2人は夫婦であるらしい。ラジオからはとある会社で大規模なレイオフが行われたというニュースが響くが、それを行った張本人が彼という訳だ。しかし殆ど意に介することもなく彼らは森の中に聳える邸宅へと至り、早々に寝室へと赴く。そこに現れるのがオレンジジャケットの男(Maxim Lazarev)だ、解雇されたことへの怒りは死を以てでしか癒せはしない。ここから映画は映像美を伴ったスラッシャー映画の様相を呈することとなる。割られた頭蓋から滴る血潮はシーツを赤く染めあげ、殺戮が繰り広げられる。だがこれは未だ始まりに過ぎないのが本作の異様さだ。
殺戮を終えた男は2人に変わって邸宅の主となる。バスローブを纏い、高価なワインと食事を楽しむとそんな豪奢な生活を謳歌するのだ。これが今まで自分たちを苦しめ私利私欲のままに生きてきた富裕層への彼なりの意趣返しという訳だ。監督は冒頭から一転して男の優雅な生活ぶりをスクリーンに映し出すが、その光景はだんだんと倦怠感に支配されていく。男は肉を貪りながら新生児の誕生を映したTVドキュメンタリーを見つめる。そしてダラダラと流れていく時間、この中に何かが進歩していく気配は微塵も見られない。ここに現れるのは階級闘争の虚しい結果だ。富裕層を打倒し労働者がその座につこうとも、その場所で生きる方法が彼には解らず、いつしか適応障害を起こして不様な姿を晒す。そういった滑稽な現実を監督は男の姿に浮かび上がらせていく。
そして理想の崩壊は男を狂気へと導くことともなるが、スラッシャー、階級闘争についての悲喜劇と自在に姿を変えていく本作はサイコホラーとして展開する。嘔吐感の中で男は双子の娼婦(ソスカ姉妹を彷彿とさせる)を邸宅に呼び、自分の権力を誇示しようとする。この試みは、しかし彼女たちの軽蔑的な眼差しによって頓挫し、妄想と現実の間で殺意が再び首をもたげはじめる。この段階からはもう物語に意味を読み取ることは無駄というべき難解な境地に至るも、意味不明さ/難解さが作り手のマスターベーションとはなっていないのは、監督のヴィジョンの独創性もあるだろうが、それ以上にヴィジョンを再現する撮影監督Janis Eglitisの類い稀な技術にあると言えるだろう。
実は以前紹介したリトアニア映画"Lošėjas"も彼の仕事だが(この記事を読んでね)、倫理への激烈なまでの思索は彼の硬質な撮影に強く支えられていた。冒頭の映像美、OPクレジットの崇高さすら漂うスローモーションの情景など彼は物語の雰囲気を高め、その上で殺戮と狂気を忌まわしいまでに美しくスクリーンに焼き付ける。そして"難解さのための難解さ"は彼の撮影によって多大なる説得力を宿し、極上の恐怖へと昇華される。そういった意味で"The Man in the Orange Jacket"は他のホラーとはまた異なる、独特の妙味を楽しむことが出来る一作だ。
今作はカナダのファンタジア国際映画祭で上映され、作品・監督賞の2部門を制覇した後にロンドン映画祭、タリン・ブラック・ナイト映画祭、トリノ映画祭、韓国・全州国際映画祭など世界中で上映され評価を集める。Karapetian監督の最新作は2017年に完成予定の"Pirmdzimtais"だ、フランシスとカタリナ夫妻は子供が出来ないことから険悪な関係に陥っていたが、そこに謎めいた若者が現れたことで事態は大きく変わっていく……というスリラー作品で、撮影監督は前回に続いてJanis Eglitisだそうで期待が募る。ということでKarapetian監督の今後に期待。
参考文献
http://eyeonfilms.org/film/the-man-in-the-orange-jacket/(監督プロフィール)
私の好きな監督・俳優シリーズ
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その52 Constanza Fernández &"Mapa para Conversar"/チリ、船の上には3人の女
その53 Hugo Vieira da Silva &"Body Rice"/ポルトガル、灰の紫、精神の荒野
その54 Lukas Valenta Rinner &"Parabellum"/世界は終わるのか、終わらないのか
その55 Gust Van den Berghe &"Lucifer"/世界は丸い、ルシファーのアゴは長い
その56 Helena Třeštíková &"René"/俺は普通の人生なんか送れないって今更気付いたんだ
その57 マイケル・スピッチャ&"Yardbird"/オーストラリア、黄土と血潮と鉄の塊
その58 Annemarie Jacir &"Lamma shoftak"/パレスチナ、ぼくたちの故郷に帰りたい
その59 アンヌ・エモン&「ある夜のセックスのこと」/私の言葉を聞いてくれる人がいる
その60 Julia Solomonoff &"El último verano de la Boyita"/わたしのからだ、あなたのからだ
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その62 Carolina Rivas &"El color de los olivos"/壁が投げかけるのは色濃き影
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その65 ヴェイコ・オウンプー&「ルクリ」/神よ、いつになれば全ては終るのですか?
その66 Valerie Gudenus&"I am Jesus"/「私がイエス「いや、私こそがイエ「イエスはこの私だ」」」
その67 Matias Meyer &"Los últimos cristeros"/メキシコ、キリストは我らと共に在り
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その71 ペリン・エスメル&"Gözetleme Kulesi"/トルコの山々に深き孤独が2つ
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その73 Margot Benacerraf &"Araya"/ベネズエラ、忘れ去られる筈だった塩の都
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