ケリー・ライヒャルト Kelly Reichardtという名前に聞き覚えのある方は、相当な米インディー映画好きだろう。もしかしたら偶然ミシェル・ウィリアムズの「ウェンディ&ルーシー」かジェシー・アイゼンバーグの「ナイト・スリーパーズ/ダム爆破計画」を観たことがある方は多いかもしれないが、その監督がこのライヒャルトだと意識して観た方は多くない筈だ。今年のサンダンス映画祭では最新作の"Certain Woman"が上映され話題を博していたが、そのキャリアは約20年に渡り、アメリカは元より主にヨーロッパでその作風が評価されているが、日本においては殆ど紹介されていないのが現状だ。ということでケリー・ライヒャルト・レトロスペクティブと題して何回かに分けて彼女の作品を紹介していきたいと思う。ということで今回は彼女の記念すべき初長編であり、今年22年ぶりにリバイバル公開が成された"River of Grass"を紹介していこう。
の、前にまずは彼女の長編デビューまでの略歴を。ケリー・ライヒャルトは1964年フロリダ州マイアミに生まれた。両親は警察官(父は科学捜査研究所所属、母親は麻薬取締官)だったが、ライヒャルトが子供時代に離婚している。まず小学校の頃から写真に興味を持ち始め、父親が仕事の時に使うカメラを使って撮影をしていた。翌年Bob Rich School of Photographyに入学して写真を学び、19歳でマイアミを出てボストン美術学院に入学、ここで映画に目覚める。スーパー8で短編を製作しており、三部作のロードムービーを監督するなどしていた。
卒業後は美術係など裏方として映画界に入ったが、その時に出会ったのが映画監督のトッド・ヘインズだった。彼の長編「ポイズン」の撮影現場で意気投合した2人は生涯に渡る親友となる(ライヒャルトの第2長編"Old Joy"以降の作品全てにヘインズは製作として関わっている)そして映像作家としても彼女はMV製作などをしていたが、その時に出会ったJesse Hartmanがマイアミが舞台である物語の脚本を書いているのを知り、彼と共に故郷フロリダへ戻って彼女にとっての初長編"River of Grass"を監督することになる。
フロリダ州マイアミ、30代のコージー(Lisa Bowman)は2人の子供を育てる専業主婦だ。しかし彼女はそんな現状に満たされない思いを抱えている。"母親と子供の絆は生まれた時から始まるというけれど、私には結局そんなことなかった"。彼女は家事を終え風呂に浸かっている時、あることを考える。夫ボビーが言うにはこの家では妻が夫を惨たらしく殺害するという事件が起こったらしい、何で彼女はそんなことしたのだろう、何で彼女はそんなことを。そしてコージーは風呂の底へと沈んでいく。
そんな彼女の割と近くに住んでいるのがリー(「サプライズ」ラリー・フェッセンデン)という青年だ。30も近いというのに定職につかず、日がなゴルフのドライバーを振り回し遊んでいる。ある日友人が持ってきたのは1丁の銃だった。それを貰い受けたリーはベッドに寝転がり銃を構えながら自嘲的に呟く、俺は一生この部屋に閉じ込められたままなのさ。物語の前半はコージーとリーの交わりそうで交わらない透明な虚無感というべきものが平行して描かれていく。現状に不満を抱きながらも、しかし自分の意思で一歩前に進む勇気などない、そんな普通の人々の姿。
それでいて本作は奇妙な脱線をもまた繰り返す。コージーの父ジミー(Dick Russell)はジャズドラマーだったのだが、妻が出ていった後は男手一つでコージーを育て、現在は探偵をやっている。つまりリーたちが持っている銃の持ち主がジミーでありこれが物語の根幹となるのだが、銃を落とすまでの顛末はコージーたちが抱く虚無感とは裏腹にすっとぼけたユーモアを呈しトコトン滑稽だ。懇意にしている刑事のJ.C.たちとの会話にもプロ意識は欠片もない。だがこの間の抜けたコメディパートと虚無に満ちるシリアスパートが混ざりあうことで、例えばウェス・クレイヴンの「鮮血の美学」においてこの構成が滑稽さと残虐性をラディカルな形で際立たせたのと同じように、"River of Grass"の抗いがたい魅力もまた際立つこととなる。
ある時、全てに耐えられなくなったコージーは夫も子供も何もかも捨て去り、メイクと服装だけはバッチリ決めて家を出ていく。ヒールで夜の群青に包まれた草地を歩く彼女の姿は酷く心許ないが、彼女はある酒場で青年リーと出会うのだ。意気投合した2人は近くの邸宅へ侵入し、プールに飛び込んでいく。着の身着のまま水に浸かるコージー、底面の鮮やかな水色に包まれて背泳ぎをする彼女は初めて解放感に浸れているようで印象的だ。だがリーが銃を出した時に全てが変わる。プールサイドでリーの前に座り、コージーは彼の手の導きで銃を構える。この何とも言えずエロティックな瞬間は1発の銃声によって切り裂かれる。誰かを殺してしまった!そう思った2人は車へと駆け込み、そして逃走劇が幕を開ける。
ケリー・ライヒャルトの作品は日本でも、先述の「ウェンディ&ルーシー」と「ナイト・スリーパーズ/ダム爆破計画」を観ることが出来る。既に観た方には分かるかもしれないが、ライヒャルトの作風はミニマルで静謐に満ち、台詞は最小限に抑えられている。彼女は言葉や音楽に頼ることなく、登場人物の行動を長回しを駆使し画で見せようとする(故に「ナイト・スリーパーズ/ダム爆破計画」を副題のノリなサスペンス映画として観て、フラストレーションを抱えた人々の感想を幾つも観ている)
だが"River of Grass"はそういったライヒャルト的と言うべきスタイルは殆ど見る影もない。コージーの抱く心情は彼女自身の朴訥としたナレーションによって言葉へと還元され、劇中ではジミーの叩くジャズドラムの軽妙な響きが全編に渡って響きまくる。何より映画の構成がミニマルどころか、時間軸が不自然な飛躍を見せ、視点もコロコロ変わる。つまり編集がドラムの響きに引っ張られたかのように奔放で自由、もはや実験的な色彩すら宿している。"Old Joy"以降の作品でライヒャルトを知った人なら、彼女にもこんな時代があったのだなとしばし唖然とするしかないだろう、斯く言う私が全くそうだった。
だが小説にしろ映画にしろデビュー作には作家の全てが詰まっていると言う通り、この"River of Grass"にも後のライヒャルト作品に繋がるテーマ性が多く存在している。まずは抑圧される女性たちへの共感、コージーは自分のことが良く解らないまま結婚し、子供を産み育てる日々に閉じ込められている。直接的な発言はないがモノローグの節々から聞こえてくるのは"私の人生こんな筈じゃなかった……"というボヤきだ。彼女を演じるLisa Bowmanはキャリアは長いながら本数は少なくその殆どが脇役なのだが、ここでは全身から倦怠感を発散するコージー役を好演、アンニュイな声といつだって眠気に瞼が下がりきった眼差しは素晴らしい。
そして主人公たちが新天地を目指して旅をするという展開も後に繋がるものであり、それでいて今作は他作品と比べると明確にロードムービー、しかもボニー&クライド的ジャンル映画を指向している。だが同時に先述した奇妙なコメディセンスで以てこの展開を幾度となく脱臼させようとする。彼女たちは旅をしているように見えながら、何故か同じ所をグルグル回っていることに貴方も気づく筈だ。それは追われる側のコージーと追う側のジミーが馬鹿げたニアミスを繰り返すことからも明らかだ。
それでもこの独特の不毛さが、最後にはライヒャルト作品において反復される"旅の途方もない徒労感"へと繋がる展開は、どこか違和感を抱くとも"River of Grass"は彼女の作品だと確信させる。登場人物たちは此処にはない幸せを求め新天地を目指すのだが、誰も彼もがそこに辿り着くことすら出来ない。ロードムービーの中でアメリカの果てしなさは自由と解放の象徴でありながら、ライヒャルトはそれを拒絶し、この果てしなさこそが生にとって牢獄であると提示する。ある時コージーは道路の上に立ちながら考える、この張り巡らされた高速道路は一体何処へ向かっているのだろうと。道路は何処までも続いていて、つまりは何処へも辿り着くことはない、問いに答えを与えるならこうだろう。ではコージーが救われる道はないのか?その答えは……
次回記事に続く↓
ケリー・ライヒャルト&"Ode" "Travis"/2つの失われた愛について
ケリー・ライヒャルト&"Old Joy"/哀しみは擦り切れたかつての喜び
ケリー・ライヒャルト&「ウェンディ&ルーシー」/私の居場所はどこにあるのだろう
ケリー・ライヒャルト&"Meek's Cutoff"/果てなき荒野に彼女の声が響く
ケリー・ライヒャルト&「ナイト・スリーパーズ ダム爆破作戦」/夜、妄執は静かに潜航する
参考文献
http://bombmagazine.org/article/1891/kelly-reichardt("Rivar of Grass"封切時の親友トッド・ヘインズとの対談)
http://www.aintitcool.com/node/74769(今年リバイバル上映された際のインタビュー)
私の好きな監督・俳優シリーズ
その51 Shih-Ching Tsou&"Take Out"/故郷より遠く離れて自転車を漕ぎ
その52 Constanza Fernández &"Mapa para Conversar"/チリ、船の上には3人の女
その53 Hugo Vieira da Silva &"Body Rice"/ポルトガル、灰の紫、精神の荒野
その54 Lukas Valenta Rinner &"Parabellum"/世界は終わるのか、終わらないのか
その55 Gust Van den Berghe &"Lucifer"/世界は丸い、ルシファーのアゴは長い
その56 Helena Třeštíková &"René"/俺は普通の人生なんか送れないって今更気付いたんだ
その57 マイケル・スピッチャ&"Yardbird"/オーストラリア、黄土と血潮と鉄の塊
その58 Annemarie Jacir &"Lamma shoftak"/パレスチナ、ぼくたちの故郷に帰りたい
その59 アンヌ・エモン&「ある夜のセックスのこと」/私の言葉を聞いてくれる人がいる
その60 Julia Solomonoff &"El último verano de la Boyita"/わたしのからだ、あなたのからだ
その61 ヴァレリー・マサディアン&"Nana"/このおうちにはナナとおもちゃとウサギだけ
その62 Carolina Rivas &"El color de los olivos"/壁が投げかけるのは色濃き影
その63 ホベルト・ベリネール&「ニーゼ」/声なき叫びを聞くために
その64 アティナ・レイチェル・ツァンガリ&"Attenberg"/あなたの死を通じて、わたしの生を知る
その65 ヴェイコ・オウンプー&「ルクリ」/神よ、いつになれば全ては終るのですか?
その66 Valerie Gudenus&"I am Jesus"/「私がイエス「いや、私こそがイエ「イエスはこの私だ」」」
その67 Matias Meyer &"Los últimos cristeros"/メキシコ、キリストは我らと共に在り
その68 Boris Despodov& "Corridor #8"/見えない道路に沿って、バルカン半島を行く
その69 Urszula Antoniak& "Code Blue"/オランダ、カーテン越しの密やかな欲動
その70 Rebecca Cremona& "Simshar"/マルタ、海は蒼くも容赦なく
その71 ペリン・エスメル&"Gözetleme Kulesi"/トルコの山々に深き孤独が2つ
その72 Afia Nathaniel &"Dukhtar"/パキスタン、娘という名の呪いと希望
その73 Margot Benacerraf &"Araya"/ベネズエラ、忘れ去られる筈だった塩の都
その74 Maxime Giroux &"Felix & Meira"/ユダヤ教という息苦しさの中で
その75 Marianne Pistone& "Mouton"/だけど、みんな生きていかなくちゃいけない
その76 フェリペ・ゲレロ& "Corta"/コロンビア、サトウキビ畑を見据えながら
その77 Kenyeres Bálint&"Before Dawn"/ハンガリー、長回しから見る暴力・飛翔・移民
その78 ミン・バハドゥル・バム&「黒い雌鶏」/ネパール、ぼくたちの名前は希望って意味なんだ
その79 Jonas Carpignano&"Meditrranea"/この世界で移民として生きるということ
その80 Laura Amelia Guzmán&"Dólares de arena"/ドミニカ、あなたは私の輝きだったから
その81 彭三源&"失孤"/見捨てられたなんて、言わないでくれ
その82 アナ・ミュイラート&"Que Horas Ela Volta?"/ブラジル、母と娘と大きなプールと
その83 アイダ・ベジッチ&"Djeca"/内戦の深き傷、イスラムの静かな誇り
その84 Nikola Ležaić&"Tilva Roš"/セルビア、若さって中途半端だ
その85 Hari Sama & "El Sueño de Lu"/ママはずっと、あなたのママでいるから
その86 チャイタニヤ・タームハーネー&「裁き」/裁判は続く、そして日常も続く
その87 マヤ・ミロス&「思春期」/Girl in The Hell
その88 Kivu Ruhorahoza & "Matière Grise"/ルワンダ、ゴキブリたちと虐殺の記憶
その89 ソフィー・ショウケンス&「Unbalance-アンバランス-」/ベルギー、心の奥に眠る父
その90 Pia Marais & "Die Unerzogenen"/パパもクソ、ママもクソ、マジで人生全部クソ
その91 Amelia Umuhire & "Polyglot"/ベルリン、それぞれの声が響く場所
その92 Zeresenay Mehari & "Difret"/エチオピア、私は自分の足で歩いていきたい
その93 Mariana Rondón & "Pelo Malo"/ぼくのクセっ毛、男らしくないから嫌いだ
その94 Yulene Olaizola & "Paraísos Artificiales"/引き伸ばされた時間は永遠の如く
その95 ジョエル・エドガートン&"The Gift"/お前が過去を忘れても、過去はお前を忘れはしない
その96 Corneliu Porumboiu & "A fost sau n-a fost?"/1989年12月22日、あなたは何をしていた?
その97 アンジェリーナ・マッカローネ&"The Look"/ランプリング on ランプリング
その98 Anna Melikyan & "Rusalka"/人生、おとぎ話みたいには行かない
その99 Ignas Jonynas & "Lošėjas"/リトアニア、金は命よりも重い
その100 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その101 パヴレ・ブコビッチ&「インモラル・ガール 秘密と嘘」/SNSの時代に憑りつく幽霊について
その102 Eva Neymann & "Pesn Pesney"/初恋は夢想の緑に取り残されて
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その104 クリスティナ・グロゼヴァ&「ザ・レッスン 女教師の返済」/おかねがないおかねがないおかねがないおかねがない……
その105 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その106 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その107 ディアステム&「フレンチ・ブラッド」/フランスは我らがフランス人のもの
その108 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その109 Sydney Freeland&"Her Story"/女性であること、トランスジェンダーであること
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その111 アンネ・セウィツキー&「妹の体温」/私を受け入れて、私を愛して
その112 Mads Matthiesen&"The Model"/モデル残酷物語 in パリ
その113 Leyla Bouzid&"À peine j'ouvre les yeux"/チュニジア、彼女の歌声はアラブの春へと
その114 ヨーナス・セルベリ=アウグツセーン&"Sophelikoptern"/おばあちゃんに時計を届けるまでの1000キロくらい
その115 Aik Karapetian&"The Man in the Orange Jacket"/ラトビア、オレンジ色の階級闘争
その116 Antoine Cuypers&"Préjudice"/そして最後には生の苦しみだけが残る
その117 Benjamin Crotty&"Fort Buchnan"/全く新しいメロドラマ、全く新しい映画
その118 アランテ・カヴァイテ&"The Summer of Sangaile"/もっと高く、そこに本当の私がいるから
その119 ニコラス・ペレダ&"Juntos"/この人生を変えてくれる"何か"を待ち続けて
その120 サシャ・ポラック&"Zurich"/人生は虚しく、虚しく、虚しく
その121 Benjamín Naishtat&"Historia del Miedo"/アルゼンチン、世界に連なる恐怖の系譜
その122 Léa Forest&"Pour faire la guerre"/いつか幼かった時代に別れを告げて
その123 Mélanie Delloye&"L'Homme de ma vie"/Alice Prefers to Run
その124 アマ・エスカランテ&「よそ者」/アメリカの周縁に生きる者たちについて
その125 Juliana Rojas&"Trabalhar Cansa"/ブラジル、経済発展は何を踏みにじっていったのか?
その126 Zuzanna Solakiewicz&"15 stron świata"/音は質量を持つ、あの聳え立つビルのように
その127 Gabriel Abrantes&"Dreams, Drones and Dactyls"/エロス+オバマ+アンコウ=映画の未来
その128 Kerékgyártó Yvonne&"Free Entry"/ハンガリー、彼女たちの友情は永遠!
その129 张撼依&"繁枝叶茂"/中国、命はめぐり魂はさまよう
その130 パスカル・ブルトン&"Suite Armoricaine"/失われ忘れ去られ、そして思い出される物たち
その131 リュウ・ジャイン&「オクスハイドⅡ」/家族みんなで餃子を作ろう(あるいはジャンヌ・ディエルマンの正統後継)
その132 Salomé Lamas&"Eldorado XXI"/ペルー、黄金郷の光と闇
その133 ロベルト・ミネルヴィーニ&"The Passage"/テキサスに生き、テキサスを旅する
その134 Marte Vold&"Totem"/ノルウェー、ある結婚の風景
その135 アリス・ウィンクール&「博士と私の危険な関係」/ヒステリー、大いなる悪意の誕生
その136 Luis López Carrasco&"El Futuro"/スペイン、未来は輝きに満ちている
その137 Ion De Sosa&"Sueñan los androides"/電気羊はスペインの夢を見るか?