マンブルコアの特筆すべき点として真先に1つ挙げるべきなのは、このムーブメントに参加した女優たちは映画作家としてのポテンシャルを花開かせ、見事に巣立っていた点だ。例えばグレタ・ガーウィグはジョー・スワンバーグと喧嘩別れ後、ノア・ボーンバックとタッグを組み「フランシス・ハ」「ミストレス・アメリカ」を製作、カメラの裏側でも評価を獲得し、更に単独での初監督作“Ladybird”が2017年に完成予定だ。エイミー・サイメッツはスワンバーグの“Alexander the Last”(紹介記事)や“Silver Bullets”(紹介記事)に出演した後、2012年に自身初の長編“Sun Don't Shine”(紹介記事)を手掛け、それがきっかけでスティーブン・ソダーバーグに見初められ、2016年には彼の同名映画のドラマ化作品「ガールフレンド・エクスペリエンス」のクリエイターに抜擢、今年のドラマというかテン年代において最も傑出した(そして信じられないほど過小評価されている)凄まじい超絶大傑作を作り上げた。
そしてメジャーからインディー方面に目を向けると、テン年代前半の終りに“Butter on the Latch”(紹介記事)と“Thou Wast Mild and Lovely”(これは紹介記事書いてない……)でアメリカ映画界に波紋を投げかけたジョセフィン・デッカーが元々スワンバーグの“Uncle Kent”(紹介記事)や“Art History”(紹介記事)から頭角を現した俳優なのだ。つまりこの3人の裏側にはマンブルコアがいる、もっと正確に言えばジョー・スワンバーグがいる。こういう意味においてもマンブルコアはインディー映画界の趨勢を動かしているのだ。さて、今回は彼女たちと同じくマンブルコアと大いに関係している映画作家であるソフィア・タカールと彼女のデビュー長編“Green”を紹介していこう。
ソフィア・タカール Sophia Takalはニュージャージー州モンクレア出身の映画作家だ。小さな頃ジュディ・ガーランドの「若草の頃」を観たのがきっかけで、俳優を志し始める。しかし大学で演技について学びながら、演劇史や撮影技術などを知っていくうち関心が映画製作へと移り変わり、シェイクスピアを読むより映画を観るのが好きになっていく。ヴァッサー大学、バーナード大学、コロンビア大学を渡り歩き、その中で出会ったのがローレンス・マイケル・レヴィーン Lawrence Micheal Levineだった。大学でT.A.をしていた彼とタカールは意気投合し、公私共に重要なパートナーとなる。
そして2010年には監督レヴィーン・主演タカールとして初のタッグ作品"Gabi on the Roof in July"を製作する。スランプにある画家の男が、突然やってきた理想家でトラブルメイカーな妹と過ごす夏の日々を描き出す作品で、タカールはブルックリン国際映画祭で女優賞を獲得するなど話題になる。そして彼女はこの撮影現場であのケイト・リン・シャイル(紹介記事)との出会いを果たす。この出会いについてタカールはこんな言葉を残している。
""Gabi〜"のオーディションに来たことがきっかけです。俳優のエイミー・サイメッツから勧められて会ってみたいんですが、今まで会った中でも最高の女優の1人だと私たちは思ったんです。彼女との仕事は素晴らしい経験で、それから親友になり、私たちとルームメイトになり、映画を一緒に作ろうと心に決めたんです。"Gabi〜"の役は大きな物ではなく、ポテンシャルを引き出せる物でもないと思っていたので、もっとダイナミックで興味深い――もちろん他の役がそうでない訳ではないですが、でも彼女に見合うもっと大きな役を演じて欲しかったんです"*1……そしてタカールはレヴィーンやリン・シャイルと共に長編デビュー作"Green"を完成させる。
ジェン(リン・シャイル)はNYのブルックリンで、恋人のジャーナリストであるセバスチャン(レヴィーン)と共に自由な日々を送っていた。そんな中でセバスチャンは持続的農業についての記事を書くためヴァージニア州へ足を運ぶことを決意、ジェンは彼と共に田舎町へと滞在することとなるのだったが……
町へと来た当初、ジェンとセバスチャンは二人だけの時間を楽しんでいる。それでも彼が記事に専念し始めると自分は捨て置かれ、退屈さだけがどんどん膨らんでいく。セバスチャンがパソコンに向かう後ろで、ソファーに横たわり曖昧な表情を浮かべる彼女の姿は虚ろなものだ。この滞在のために仕事も辞めブルックリンでの生活も捨ててきたのに、自分はどうしてこんな状況に陥ってるのだろう、映画はそんな倦怠感に満たされていく。そんな彼女の前に現れるのがロビン(タカールが兼任)という女性だ。この町に深く根を下ろす住民であるロビンは持ち前の面倒見の良さから、新顔のジェンたちに世話を焼き始める。南部訛りの濃厚な口ぶりで、いつまでも尽きることなくお喋りを続けるロビンに対し、ジェンも最初は気圧されていたが彼女の性格を好ましく思い、2人は意気投合する。
“Green”において傑出しているのはタカールが持ち合わせる独特の眼差しにある。彼女は撮影監督Nandan Raoと共に、ジェンたちの姿を静かに見つめていくのだが、その実焦点を当てるのはジェンの周りに広がる背景だ。例えばジェンとロビンがガレージセールへと赴く場面、私たちは一瞬彼女たちが何処にいるのか分からなくなるだろう。何故ならカメラは遠くから会場を映し出しており、彼女たちの姿は会場の中に溶け込んでいるからだ。その中でジェンたちの様々な会話が耳に届きながら、実際重要なのはそこではない。この時まず彼女が見据えているのはジェンを取り囲む世界そのものなのだから。
この人物の内面よりもまず登場人物が生きる世界の有り様を描く指向は、音という要素にも多く現れている。劇中において、ジェンたちがどこにいるにしろ常に何らかの音が鳴り続けていることに観客はいつか気づくだろう。鳥の清らかな囀り、名も知らない虫たちの波紋のような噪声、風によって葉の一枚一枚が擦れ合う響き、何処からともなく聞こえる機械の唸り声、馬の嘶きを思わせるパトカーのサイレン。それらはロビンたちが森を散策する時にしろ、ジェンが寝室でセックスをする時にしろ、鼓膜を不気味に震わせ続ける。音はフレームに捉えられている空間以外にも世界は存在しているのだと不気味に主張し、世界は這いずるように広がっていく。
そしてこの音の連なりの中に、Ernesto Carcamoの作曲した劇伴が折り込まれていく様もまた不気味だ。まずは自然音に溶け込むように響きながら、しかしいつからか私たちの心である種の違和感が増幅し始め、最後には決定的な不吉さに呑み込まれていくような感覚。彼の音楽は観客の脳髄に深く浸透していった後、本性を現し毒牙を突き立てるような不穏さが宿っているのだ。だがこの響きは一体何処を源としているのか、私たちがそんな問いに苛まれる頃、拡大していく世界の中で歪み始めている物の存在にもまた気づく筈だ。こうして“Green”の焦点は世界からジェンの内面へと、マクロの視点からミクロへと移り変わっていく。
ロビンと会話を重ね、ガレージセールやアイスクリーム店に赴く内、ジェンとロビンの親交は更なる深まりを見せるのだが、それと同時に彼女はセバスチャンもまたロビンと距離を狭めていることにも気付いている。ジェンの中に生まれ始めるのは紛れもない嫉妬だ。ロビンが自分の恋人を奪うのではないか、自分に隠れてセックスに耽っているのではないか。ある時彼女はセバスチャンに尋ねる、ロビンのこと可愛いと思う? まあ普通かな、私に気使ったりしてるの、いや別に、ロビンはちょっとお喋りすぎるよ……会話自体は他愛もない物だが、その裏側には湿った感情の数々が渦を巻いている。
そして監督の内省は更なる深まりを見せる。撮影でもう1つ特筆すべきなのは、そのゆっくりと漂うようなカメラワークだ。ある時3人は昼食を食べながら芸術談義を始めるのだが、カメラは向かい合うジェンとセバスチャンの横顔、その間に座るロビンの顔を遅々とした動きで行き交うこととなる。セバスチャンがあるインスタレーションを非難していると、今までにない辛辣さでジェンはその意見に反論を寄せる。一方でロビンは会話内容が全く理解できずに、ほぼ黙ったまま困惑の表情を浮かべるしかない。この会話の間、タカールは一度もカットを割ることがない。持続したワンショットの中で、三者間に埋められない断絶が広がっていく様を凄まじく気まずく、凄まじく濃密に描き出していく。彼女の演出は観ているこちらが厭になるほど的確だ。
この内省で印象的なのは女性たちの男性に対する眼差しだ。ジェンたちは上司からされた吐き気を催すセクハラ行為などに、いかに男性は愚かで自分たちを馬鹿にする存在であるか?について会話を交わし、これらを通じて意気投合することになる。この会話について、監督は次のような言葉を残している。"映画の中で女性はずっと男性について話していて、私の実生活においても――年を取った今ではそうでもありませんが――多くの会話は彼らについてだと感じていました、つまり男性に執着していたんです。ですからそういった男性を介して女性たちが繋がり合うという要素を映画にも入れたかった、そしてその関係に少しの捻じれが生じさせ、彼らが……男性たちからいかなる扱いを受けているかを描きたかったんです。ジェンが話す吐き気を催す上司については実際私が経験した出来事で、これも映画に入れたかった訳です。皆がそういった経験をしているような気がしたので"*2
だがそんなジェンはその愚かで自分たちを馬鹿にする男性、ここではセバスチャンへの欲望によってロビンと対立し、嫉妬を深めていくというある種の矛盾に陥る。つまり“Green”という映画が最後に辿り着くのはこんな問いだーー何故私たちは自分を虐げる男性という存在を求めてしまうのか? 男性中心主義の社会、男性がその頂点でのさばり自分たちを含めた弱者が踏みにじられる社会で生きるにあたり、異性愛者である女性が対面せざるを得ない問い、そしてこの問いを源とする嫉妬とタカールは対峙する。今作が宿す懊悩に簡単な答えは与えられない、しかし観た後には筆舌に尽くしがたい泥つきが心を満たすのに私たちも気づく筈だ。
そして“Green”と同じ年、タカールとレヴィーン、シャイルはジョー・スワンバーグの元で“The Zone”という映画を作り上げる(紹介記事はこちら)内容はこうだ、カップルであるタカールとレヴィーン(実名で登場)は“嫉妬”という感情を乗り越えるために、スワンバーグに頼んである映画を製作すること決める。内容は問題ではない、撮影において恋人が自分以外の誰かとセックスするのを見続けても、カップルという関係性を持続できるのかが問題なのだ。“The Zone”ではこの顛末が描かれる訳だが、本作はある意味で“Green”の製作過程それ自体を映画化したような作品となっている。最初観た時は変態カップルの変態プレイここに極まれりといった印象だったが、こういった背景を鑑みると本作は1つのカップルの懊悩をこれでもかという程の圧力で描いた作品だと分かってくる。この荒療治が効いたのかレヴィーンとタカールはめでたく結婚、映画作家としてもそれぞれ“Wild Canaries”(2014)と“Always Shine”(2016)という作品を物にする。ということでこの2本についてもレビューを書くのでその時をお楽しみに。
参考文献
http://www.themoviegreen.com/(作品公式サイト)
http://www.interviewmagazine.com/film/green-sophia-takal(インタビューその1)
http://filmmakermagazine.com/51470-sophia-takal-green/#.WD2pSLJ97IU(インタビューその2)
http://www.undertheradarmag.com/interviews/sophia_takal/(インタビューその3)
結局マンブルコアって何だったんだ?
その1 アーロン・カッツ&"Dance Party, USA"/レイプカルチャー、USA
その2 ライ・ルッソ=ヤング&"You Wont Miss Me"/23歳の記憶は万華鏡のように
その3 アーロン・カッツ&"Quiet City"/つかの間、オレンジ色のときめきを
その4 ジョー・スワンバーグ&"Silver Bullets"/マンブルコアの重鎮、その全貌を追う!
その5 ケイト・リン・シャイル&"Empire Builder"/米インディー界、後ろ向きの女王
その6 ジョー・スワンバーグ&"Kissing on the Mouth"/私たちの若さはどこへ行くのだろう
その7 ジョー・スワンバーグ&"Marriage Material"/誰かと共に生きていくことのままならさ
その8 ジョー・スワンバーグ&"Nights and Weekends"/さよなら、さよならグレタ・ガーウィグ
その9 ジョー・スワンバーグ&"Alexander the Last"/誰かと生きるのは辛いけど、でも……
その10 ジョー・スワンバーグ&"The Zone"/マンブルコア界の変態王頂上決戦
その11 ジョー・スワンバーグ&"Private Settings"/変態ボーイ meets ド変態ガール
その12 アンドリュー・ブジャルスキー&"Funny Ha Ha"/マンブルコアって、まあ……何かこんなん、うん、だよね
その13 アンドリュー・ブジャルスキー&"Mutual Appreciation"/そしてマンブルコアが幕を開ける
その14 ケンタッカー・オードリー&"Team Picture"/口ごもる若き世代の逃避と不安
その15 アンドリュー・ブジャルスキー&"Beeswax"/次に俺の作品をマンブルコアって言ったらブチ殺すぞ
その16 エイミー・サイメッツ&"Sun Don't Shine"/私はただ人魚のように泳いでいたいだけ
その17 ケンタッカー・オードリー&"Open Five"/メンフィス、アイ・ラブ・ユー
その18 ケンタッカー・オードリー&"Open Five 2"/才能のない奴はインディー映画作るの止めろ!
その19 デュプラス兄弟&"The Puffy Chair"/ボロボロのソファー、ボロボロの3人
その20 マーサ・スティーブンス&"Pilgrim Song"/中年ダメ男は自分探しに山を行く
その21 デュプラス兄弟&"Baghead"/山小屋ホラーで愛憎すったもんだ
その22 ジョー・スワンバーグ&"24 Exposures"/テン年代に蘇る90's底抜け猟奇殺人映画
その23 マンブルコアの黎明に消えた幻 "Four Eyed Monsters"
その24 リチャード・リンクレイター&"ROS"/米インディー界の巨人、マンブルコアに(ちょっと)接近!
その25 リチャード・リンクレイター&"Slacker"/90年代の幕開け、怠け者たちの黙示録
その26 リチャード・リンクレイター&"It’s Impossible to Learn to Plow by Reading Books"/本を読むより映画を1本完成させよう
その27 ネイサン・シルヴァー&「エレナ出口」/善意の居たたまれない行く末
その28 ネイサン・シルヴァー&"Soft in the Head"/食卓は言葉の弾丸飛び交う戦場
その29 ネイサン・シルヴァー&"Uncertain Terms"/アメリカに広がる"水面下の不穏"
その30 ネイサン・シルヴァー&"Stinking Heaven"/90年代の粒子に浮かび上がるカオス
その31 ジョセフィン・デッカー&"Art History"/セックス、繋がりであり断絶であり
その32 ジョセフィン・デッカー&"Butter on the Latch"/森に潜む混沌の夢々
その33 ケント・オズボーン&"Uncle Kent"/友達っていうのは、恋人っていうのは
その34 ジョー・スワンバーグ&"LOL"/繋がり続ける世代を苛む"男らしさ"
その35 リン・シェルトン&"We Go Way Back"/23歳の私、あなたは今どうしてる?
その36 ジョー・スワンバーグ&「ハッピー・クリスマス」/スワンバーグ、新たな可能性に試行錯誤の巻
その37 タイ・ウェスト&"The Roost"/恐怖!コウモリゾンビ、闇からの襲撃!
その38 タイ・ウェスト&"Trigger Man"/狩人たちは暴力の引鉄を引く
その39 アダム・ウィンガード&"Home Sick"/初期衝動、血飛沫と共に大爆裂!
その40 タイ・ウェスト&"The House of the Devil"/再現される80年代、幕を開けるテン年代
その41 ジョー・スワンバーグ&"Caitlin Plays Herself"/私を演じる、抽象画を描く
その42 タイ・ウェスト&「インキーパーズ」/ミレニアル世代の幽霊屋敷探検
その43 アダム・ウィンガード&"Pop Skull"/ポケモンショック、待望の映画化
その44 リン・シェルトン&"My Effortless Brilliance"/2人の男、曖昧な感情の中で
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その47 ジョー・スワンバーグ&「ドリンキング・バディーズ」/友情と愛情の狭間、曖昧な何か
その48 タイ・ウェスト&「サクラメント 死の楽園」/泡を吹け!マンブルコア大遠足会!
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その50 ジョー・スワンバーグ&「ハンナだけど、生きていく!」/マンブルコア、ここに極まれり!
その51 ジョー・スワンバーグ&「新しい夫婦の見つけ方」/人生、そう単純なものなんかじゃない